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叙階25周年を迎えたパリャラーニ総長とのインタビュー

2021年07月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

叙階25周年を迎えたパリャラーニ総長とのインタビュー

叙階25周年を迎えたパリャラーニ総長とのインタビュー

2021年6月28日 FSSPX.NEWSサイト

聖ピオ十世会の神学校で毎年行われる叙階式では、神学校の実と、それが熟して新たに叙階される司祭として成熟していくのを見ることができます。それだけでなく、叙階25周年、50周年、60周年…を迎える卒業生が、自分の叙階記念日をお祝いすることもできます。これらの記念日は、私たちを感謝の気持ちに浸してくれます。

司祭叙階25周年の機会に、イタリア管区は、アルバーノ・ラツィアーレ【ローマ南東の近郊】を訪問滞在しておられた聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父にインタビューを行いました。総長は、司祭職の価値と個人的な経験について証言をしてくださっています。

以下はインタビューの全文(原文はイタリア語)。

【問い】司祭として25周年を迎えておられます。どのように生活しておられますか。

【パリャラーニ総長】司祭職は確かに、天主が人に与えることのおできになる最大の賜物であり、人が持つことのできる最高の人生です。25年たつと、特に自分の過去の人生を振り返ってみると、日に日にそのことを実感します。起こったすべてのことをです。司祭は、天主が自分を奉仕するよう呼びかけておられるだけでなく、非常に特別な御摂理によって天主が自分を導き続けておられることを実感します。私はすぐにそれを感じましたし、ますますそれを感じるようになっています。

【問い】召命とは、上からの呼びかけのことです。私たちはどのようにそれに耳を傾け、応えることができるでしょうか。

【パリャラーニ総長】主は常に霊魂たちに呼びかけられますし、時の終わりまで、司祭生活や修道生活のために霊魂たちに呼びかけられるでしょう。主はさまざまな方法で呼びかけられます。召命は、必ずしも声や感情のように聞こえるものではありません。

確かに、天主は人にご自分への奉仕や聖なるものすべてへの魅力を感じさせてくださいます。天主は霊魂たちに呼びかけられるのは、特にこのような方法によってです。私たちはどのように耳を傾けるのでしょうか。まず、成聖の恩寵の状態で生きようとすることによって、次に、どんなことであっても、特に天主のご意志を実行しようという心構えを持つことによってです。これらは、天主が私たちに、ご自分のために呼びかけておられているかどうかを見極めるための単純な基本条件です。


【問い】ご自分が聖ピオ十世会の総長になると想像しておられましたか。

【パリャラーニ総長】2018年の総会の数カ月前に、ある噂がいくつか私の耳に入りました。以前は、それについて考えたこともなかったというのが正直なところです。特に覚えているのは、アジアのシンガポールで3年間働くことができたという喜びです。

アジアを旅しているうちに、一生それらの国々にいたいと思ったのを覚えています。はっきりと思えていますが、墓地を訪ねたことがあります。あるイスラム教の国にあるキリスト教の墓地で、宣教師たちのお墓でした。そして、その宣教師たちのお墓を見て、私はその国々で残りの一生を過ごしたいと思ったことを鮮明に覚えています。いつの日か、故郷から遠く離れたところに自分が葬られるように。その後、主は私の計画を変更されました。


【問い】この総長の責任をどのように果たしておられますか。

【パリャラーニ総長】このような質問には単純な答えがふさわしいと思いますが、それは残念に思われるかもしれません。現実には、司祭は司祭です。幼い子どもたちのカテキズムや初聖体に責任があろうと、男女の修道者に責任があろうと、修道院に責任があろうと、管区に責任があろうと、将来の司祭の養成に責任があろうと、総長であろうと、同じなのです。

司祭に力を与えるのは、同じ愛、同じ愛徳です。司祭に割り当てられる任務は、始まりと終わりのある、予想外で偶発的で変化する現実のままでした。変わってはならないのは、司祭が自分の聖務、司祭の機能を果たすための司祭としての熱意であり、子どもたちのためのカテキズムを担当していても、総長であっても、同じ精神でそれらを達成しなければならないのです。

【問い】神学校におられたときのことや叙階についての思い出を教えてください。

【パリャラーニ総長】神学校時代の思い出としては、典礼が好きだったこと、祝日や大祝祭の準備をする喜び、非常に興味深い研究などを特に覚えています。同僚たちとの交流もありました。神学校では、将来の司祭が、他人を知り、ありのままの彼らを受け入れ、ありのままの彼らを愛することを徐々に学んでいきます。司祭が、将来の司祭が、いつか自分に委ねられる霊魂たちに対して同じ態度をとるように準備するのは、この学校を通じてです。これは美しい思い出です。年々、この種の学校の重要性を理解するようになるため、年を追うごとにさらに美しくなる思い出です。

私の叙階については、最も鮮明な思い出は、叙階の翌日の初ミサの思い出だと言わなければなりません。鮮明に覚えているのは、聖変化の瞬間です。祭壇にお辞儀をして、初めて聖変化の言葉を発した時のことです。震えたのを覚えています。自分はふさわしくないという気持ちだけでなく、自分はこの言葉を発するにはふさわしくないという印象、感覚、確信を覚えています。よく覚えているのは、喉を締めながら発したことです。恐れの気持ち、天主を恐れる気持ちもありました。そしてもちろん、初ミサを捧げる喜びがあり、その恐れはほとんど完全に忘れてしまったのです。

【問い】世界での使徒職について教えてください。

【パリャラーニ総長】私にはたくさんの思い出があります。非常にさまざまな思い出です。さまざまな緯度、さまざまな経度のさまざまな国々です。アジアでは宣教の使徒職、イタリアではその特殊な状況、アルゼンチンでは別の国、別の言語、そして神学校、将来の司祭の養成という別のタイプの使徒職です。

これらのことすべてを振り返ってみて、私が最も感銘を受けるのは、もう一度、場所や特別な種類の使徒職にかかわらず、司祭は常に同じ使命、同じ目的、同じ手段に呼ばれているということです。霊魂に私たちの主の超自然的な命を見せること、あるいは生み出すこと。自分の中で超自然的な命を育み、その後それを霊魂たちに伝えること。これは、アジア、アフリカ、アルゼンチンにも当てはまります。これは全世界に当てはまります。これは若い司祭にも、年配の司祭にも、そして総長にも当てはまります。

【問い】イタリアでは、信徒がどんどん増え、二つの学校への関与も高まっています。単なる数の増加ではないようにするために、何かアドバイスはありますか。

【パリャラーニ総長】イタリア管区の成長は、聖ピオ十世会の他の活動や教会の他の活動と同様に、本質的に超自然的な現実であることを忘れてはならないと思います。ある仕事がいつ、どのように発展すべきかを決めるのは天主です。私たちに義務を果たすこと、司祭職に忠実であることを求め、その後、出来事や御摂理的な要素を通して、適切で必要な成長をもたらす時を決定されるのは天主です。このことを忘れてはならないのです。

天主が可能な限りのことをするように求めておられたとしても、聖ピオ十世会とイタリア管区の生活は、企業の生活と同じではありません。この2年間、特にイタリアでは、公会議の災いに対してより意識的な反応が見られます。近年の大いなる災いは、信徒や霊魂が状況の深刻さを認識し、明らかに教会自身の聖伝に則った適切な治療薬を探し求めるのに役立ちます。

そして、その後は新型コロナウイルス感染症の流行です。天主はそれを霊魂の善のために使っておられます。あらゆる試練のように、新型コロナウイルス感染症もまた、霊魂のために必要なのです。そして、この機会に、他の地域のようにイタリアでも、多くの霊魂たちが聖伝を発見したと言わなければなりません。あるいくつかのチャペル、あるいくつかの共同体は、その数を2倍、3倍に増やしました。なぜでしょうか。それは、新型コロナウイルス感染症の危機の間、私たちの司祭は可能な限り、自分たちが提供できるすべての支援を霊魂たちに保証しようとしたからです。ミサを捧げ続けようとしたのです。

聖ピオ十世会の司祭たちは、そのための訓練を受け、準備をしていると言うしかありません。ある意味で、彼らはこの危機に備えていたのです。というのも、彼らは長年にわたり、できる限りの場所で、できる限りの方法で、ミサを捧げるのに慣れていたからであり、とにかくミサを捧げることに慣れていたのです。ですから、この御摂理的な習慣が功を奏したのだと思います。

【問い】ルフェーブル大司教に5分間だけ話ができるとしたら、何をお聞きになりますか。

【パリャラーニ総長】大部分は、大司教に話していただくと思います。大司教が私が言うべきこと、大司教が私にすべきことを忠告すること、大司教が私を非難することが何かあるかどうかを、お尋ねすることになるでしょう。きっとそうでしょう。ですから、特に司祭の養成と聖化に関して、大司教が抱いておられた懸念と一致すると思われる私の懸念を伝えたいと思います。司祭職の世話をすること、司祭の養成と堅忍を確保することが、聖ピオ十世会の使命です。受けたものに忠実であることです。これは、確かにルフェーブル大司教の最大の関心事でした。私はそのことにういて大司教にお伝えし、大司教の口から出てくるであろう言葉、提案、観察をすべて大切にしようと思うでしょう。

【問い】もし、この5分間を教皇フランシスコに与えられたらどうしますか。

【パリャラーニ総長】私は、教皇フランシスコにも同じ主題で話すでしょう。司祭の養成、聖化、堅忍に関することです。しかし、すぐに理解し合えるかどうかは分かりません。

【問い】信徒の皆さんへのメッセージはありますか。

【パリャラーニ総長】まず第一に、信徒の皆さんに感謝したいと思います。聖ピオ十世会が存在するのは、聖ピオ十世会を創造し、存続させてくださった御摂理のおかげであり、仲間たちのおかげでもありますが、それだけではなく、信徒の皆さんのおかげでもあります。信徒の皆さんの寛大さは、言葉のあらゆる意味で印象的です。信徒の皆さんは物質的にだけでなく、何よりも道徳的にも聖ピオ十世会を支えてくださっています。

私は、前回の召命のためのロザリオの十字軍で見せてくださった寛大さに対して、信徒の皆さんに心から感謝しています。何よりも、私は信徒の皆さんに、決して落胆しないように思い起こしていただいています。状況が危機的であればあるほど、御摂理は一層私たちに近づいてきます。教会の聖性が完全に日食に蝕まれているように見えれば見えるほど、教会の勝利の声が一層響き渡ります。教会の凱旋がすべての善意の人にとって目に見えて理解しやすいものであればあるほど、この凱旋は教会自身の天主なる性質を一層明らかにすることでしょう。

これが、天主が現在の危機を許しておられる理由です。天主は、何年も続いているこの日食を許しておられるのです。落ち込まないでください。私たちが取り返しのつかない状況にあると感じるとき、天主は私たちにさらに近いところにいてくださいます。天主の御手にかかれば取り返しのつかないことはなく、私たちが信仰を守る限り、取り返しのつかないことはないのです。

(Sources : District d’Italie/MG - FSSPX.Actualités)


イエズスのいと尊き御血は、私たちを悪魔の力から解放します

2021年07月05日 | お説教・霊的講話
イエズスのいと尊き御血についての短い説教

ドモルネ神父

はじめに

この前の木曜日には、私たちの主イエズス・キリストのいと尊き御血をお祝いしました。そのミサの集祷文の中で、教会は、キリストのいと尊き御血には、「現世の危険よりわれらを守る力」がある、と言います。私たちがこの地上の生活において直面しなければならない主要な悪の一つは、悪魔です。今日は、悪魔に対する、キリストのいと尊き御血の力についてお話しします。

1.悪魔による人間の奴隷化

大罪とは、天主の法に対する重大な不従順です。大罪は、現世と人間の創造主であり主権者である天主に対する、重大な侮辱です。大罪を犯すことで、私たちは天主との友情を終わらせ、自ら進んで、天主と敵対する状態になります。その結果、私たちは悪魔の奴隷となるのです。では、どのようにしてそうなるでしょうか。

悪魔は私たちを罪に誘い、罪を通して私たちを奴隷にします。私たちの主イエズスは、「罪を犯す者はみな罪の奴隷である」(ヨハネ8章34節)と言われました。聖ペトロは、「負ける者は、勝つ者の奴隷…である」(ペトロ後書2章19節)と言いました。罪を犯すとき、私たちは悪しき欲望に負けます。その結果、この悪しき欲望は私たちの中でさらに強くなり、逆に私たちの意志の力は弱くなります。罪を犯せば犯すほど、悪しき欲望はますます強くなり、意志の力はますます弱くなります。悪しき欲望は、私たちの中にいる暴君のようになります。たとえ望んでも、私たちはその欲望に抵抗することができなくなります。私たちは奴隷のようになります。ですから、悪魔は私たちを罪に誘うことで、私たちを奴隷にするのです。

私たちが悪魔の奴隷になる理由が、もう一つあります。大罪を犯すとき、私たちは、天主の無限の御稜威(みいつ)を侮辱しているのです。私たちは、不正義を犯しているのです。私たちは、天主の正義に対して負い目をもつことになるのです。私たちは、自分の犯した不正義を正すまで、罰を受けるに値します。裁判官が、犯罪の償いが完了するまで犯罪者を刑の執行人の権威の下に引き渡すように、天主は罪の償いが完了するまで罪人を悪魔の権威の下に引き渡されるのです。イエズスが、「そうしないと、相手はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役(したやく)に渡し…てしまう」(マテオ5章25節)と言われたのはこのことです。聖ヨハネ・クリゾストモは、この「下役」とは悪魔のことだと説明しています。

つまり、罪を犯すことで、私たちは悪魔の権威の下に自らを置くことになるのです。具体的に言うと、 私たちを霊的に誘惑し、肉体的にいらだたせることによって、悪魔は私たちを苦しめることができるということです。そして、奴隷が残酷な主人によって加えられる虐待から逃れられないように、私たち罪人も、自分たちだけでは、悪魔によって加えられる苦痛に耐え忍ぶことしかできないのです。

2.キリストのいと尊き御血による人間のあがない

悪魔の力から解放されるためには、罪がなく、かつ私たちのあがないの代価を支払える人の助けが必要でした。まったく罪がないのは、イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストは原罪の影響をいささかも受けておられず、自ら一度も罪を犯されたことがありません。イエズス・キリストは、愛と従順のゆえに、ご自身の尊き御血、すなわち人間としての命を天主にお捧げになることで、私たちの救いの代価を支払ってくださったのです。

この無限の価値を持つ犠牲をお受けになって、天主は、人類のすべての罪に対して御怒りになる以上の栄光を受けられたのです。私たちの罪によって犯された天主に対する不正義は正されました。したがって、一旦不正義が正されれば、公平な裁判官が犯罪者を刑の執行人の権威の下から解放するように、天主は私たちを悪魔の権威の下から解放してくださったのです。

また、その尊き御血を天主にお捧げになることで、私たちの主イエズスは、私たちの罪の赦しをお求めになり、それを獲得されました。したがって、悪魔は罪人に対する権利を失いました。イエズス・キリストは、私たちの罪の赦しを獲得なさっただけでなく、私たちが誘惑に勝つために必要なすべての恩寵をも受けられたのです。つまり、キリストの御血が捧げられたことによって、私たちは悪魔よりも強くなっているのです。

私がいま言ったことに反対する人がいるかもしれません。ご受難の後であっても、悪魔は私たちを誘惑したり、肉体的にいらだたせたりすることによって、私たちを攻撃することができます。つまり、キリストの御血が捧げられても、私たちが悪魔の力から解放されたわけではない、ということになります。聖トマス・アクィナスは、確かに、天主のお許しがあれば、悪魔は今でも誘惑したり、肉体的にいらだたせることによって、人々を攻撃することができる、と答えています。それでも、キリストの御血は、人が悪魔のいかなる攻撃からも身を守るための、最善の薬なのです。

結論

イエズスのいと尊き御血は、私たちを悪魔の力から解放します。しかし、薬は、病人が飲まなければ役に立たないように、イエズスのいと尊き御血も、私たちが、自分自身や周囲に対して、それを用いなければ、役に立ちません。では、どのように用いればよいのでしょうか。

第一に、信仰と成聖の恩寵によって、イエズス・キリストに一致します。

第二に、聖なるミサにおいて、霊的に司祭に一致し、自分の罪と他の人々の罪を償うために、イエズスの尊き御血を、心の中で、司祭とともに捧げます。

第三に、ご聖体を、秘蹟的あるいは霊的に受けることによって、いと尊き御血の力を、自分自身のために用います。

第四に、祈りや教会の準秘蹟、特に聖水によって、自分の周りに対して、いと尊き御血の力を用います。そうすることで、悪魔が、人や場所や物に対して持っている支配力を、失わせることができるのです。




なぜ第二バチカン公会議のいくつかの教えを拒否するのか:あなたたちがもし善に熱心なら、誰があなたたちに悪を行えようか。正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである。

2021年07月05日 | お説教・霊的講話

カトリックの聖伝への忠実についての短い説教

ドモルネ神父


1.正義のために苦しむこと

聖ペトロは、第一の書簡の中で、私たちに、こう言っています。「あなたたちがもし善に熱心なら、誰があなたたちに悪を行えようか。たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである。彼らの脅しを恐れるな、戸惑うな。心の中で主キリストを聖なる者として扱(え)」(ペトロ前書3章13-15節)。私たちの時代に、初代教皇のこの言葉を聞くのは、すばらしいことです。

聖ピオ十世会や他の一部の修道会の会員や信徒は、最近の5代にわたる教皇たちから、不当な扱いを受けてきました。私たちは、離教者であるとか、カトリック教徒ではないとか、「完全な」カトリック教徒ではないとかいう誹謗中傷を、しばしば受けてきました。なぜでしょうか。それは、私たちが、第二バチカン公会議の教えのいくつかに従うことを拒否しているからです。その結果、教皇や司教たちは、非常に頻繁に、私たちが、さまざまな教会で聖なるミサを捧げる許可を与えることを拒否してきました。私たちが、カトリック教会の施設や、法的な立場を利用することを拒否してきました。そのため、聖ピオ十世会や他の一部の修道会の信徒たちは、自分たちの信仰を実践するために、自ら、教会や、学校や、神学校を設立せざるをえなかったのです。今まではそうでした。

2.第二バチカン公会議に反対する理由

なぜ第二バチカン公会議のいくつかの教えを拒否するのでしょうか。第一に、これらの教えは、第二バチカン公会議以前の教皇たちの教えと、あきらかに、かつ直接、矛盾するからです。これらの教えは、第二バチカン公会議以前の教皇たちによって、非難されてさえいたものです。

第二に、私たちの主イエズスは、何が真理で、何が誤謬であるかを判断するための原則を、私たちに与えてくださいました。主はこう言われたのです。「良い木は悪い実をつけず、悪い木は良い実をつけられぬ」(マテオ7章18節)。第二バチカン公会議は、世界中で、信教の自由を奨励してきました。その実は、どのようなものでしょうか?至るところで、偽りの宗教が発展しているのです。カトリック教会は、五つの小さな国を除くすべての国で、その特権を失ってしまいました。また、第二バチカン公会議は、エキュメニズムと宗教間対話を奨励しました。その実は、どのようなものでしょうか?教会の宣教活動は大幅に減少しました。カトリック信仰への改宗者の数は、大幅に減少しました。

そして、第二バチカン公会議は、新しいミサの儀式書を公布しました。その実は、どのようなものでしょうか?多くのカトリック教徒は、ミサが、十字架のいけにえの更新であるとは、考えていません。多くのカトリック教徒は、司祭を、天主と人の間に立つ仲介者であるとは、考えていません。多くのカトリック教徒は、ご聖体が、イエズス・キリストご自身であることを、もう信じてはいないのです。司祭や修道者の召命の数は、大幅に減少しました。主日のミサに参列するカトリック教徒の数も、おおきく減りました。第二バチカン公会議以降、罪の概念や、その深刻さや、償いの必要性についての教えは、骨抜きにされました。その結果、道徳的な堕落の拡大が進んでいます。

要するに、第二バチカン公会議の実は、非常に悪いものです。したがって、第二バチカン公会議のこれらの教えは、明らかに間違っているのです。カトリックの信仰を持ち続けることを望むカトリック教徒は、だれでも、これらの教えを拒否して、第二バチカン公会議以前の教皇たちの伝統的な教えに従い続けければなりません。

3.第二バチカン公会議は不可謬ではない

これにたいして、こう、反論する人たちがいます。「第二バチカン公会議の教えは、教皇によって承認されています。ところで、教皇は不可謬です。したがって、第二バチカン公会議の教えは良いものです」。これには、何と答えればいいでしょうか。教皇は、常に不可謬であるわけではありません。教皇は天主ではありません。教皇は人間です。不可謬性の条件を満たしていなければ、教皇は、普通の人と同じように、間違いを犯す可能性があります。

第一バチカン公会議は、教皇は四つの条件を満たす場合にのみ不可謬である、と定義しました。その第一の条件は、教皇が、教会の長としての全き権威をもって発言することです。第二の条件は、教皇が、信仰か道徳について教えることです。第三の条件は、教皇が、自分の言うことを信じることを、義務とすることです。第四の条件は、教皇が、自分の教えとそれを信じる義務とを、地上のすべてのカトリック教徒に適用することです。しかし、第二バチカン公会議について、教皇パウロ六世は、教皇としての不可謬性を用いることを、明確に拒否しました。教皇パウロ六世は、四つの条件を満たさなかったのです。したがって、第二バチカン公会議の教えは不可謬ではないのです。

教皇や公会議の教えが不可謬でないからといって、そのことだけから、私たちがそのような教えを侮蔑したり、拒否したりしていいことにはなりません。プロテスタントは、自分自身の知性のみによって、宗教や天主の啓示についての判断をするのだ、と主張します。他方、カトリックは、私たちの主イエズス・キリストが、天主の啓示の真実を全ての人に教える、という使命と権限を持つ、カトリック教会の教導権を制定されたことを認めます。従って、カトリック教徒にとっての一般的原則は、不可謬のものに限らず、教会の全ての教導権の教えに従うことです。それでもやはり、教皇の不可謬性が及ばないところでは、教皇や公会議によって示された方針には、誤謬の可能性が存在します。そして、もしこのような方針が、信仰を危うくするものであるという証拠がある場合には、その方針を拒否する義務があるのです。それは、「人間よりも、天主に従う」(使徒行録5章29節)ほうが、より良いことだからです。第二バチカン公会議の教えが有害なものであることは明らかです。公会議の教えは、それを判断する能力を持つ司教たちや枢機卿たち、とりわけルフェーブル大司教によって、明確に弾劾されています。また今日に至るまで、このような教えの悪い実が、誰の目にも明らかなほど、積み上がり続けているのです。ですから、第二バチカン公会議の有害な教えや、新しいミサを初めとする、それらの教えに由来する全てのものを拒否することが、真のカトリック教徒ひとりひとりの義務なのです。

4.カトリックの聖伝において忍耐すること

聖ペトロは、その書簡の中で、「たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである」と言っています。なぜでしょうか。それは、私たちの主イエズスが、こう言われたからです。「天の国はあなたたち(彼ら)のものである…あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章10、12節)。現教皇フランシスコとほとんどの司教たちは、私たちがカトリック信仰に忠実であるという理由で、私たちを苦しめています。

しかし、初代教皇の聖ペトロは、私たちがしあわせである、と教えます。聖ペトロは私たちに、恐れるな、戸惑うな、と諭します。心の中で主を聖なる者として扱え、と命じます。ですから、私たちはそのようにしましょう。私たちがどこにいようとも、カトリック信仰の擁護とカトリックの聖伝の発展のために、平和的に、かつ断固として戦い続けましょう。イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心に、私たちのすべての信頼を置きましょう。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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