Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ジャンヴィエ・グベヌ神父(元オプス・デイ所属司祭)のフランシスコ教皇への手紙: 聖伝の教えに不忠実な者たちは賞賛を、聖伝に忠実な司祭たちは制裁を受けている

2022年07月07日 | カトリック・ニュースなど

ジャンヴィエ・グベヌ神父(元オプス・デイ所属司祭)のフランシスコ教皇への手紙

「天主と天主の民への尊敬と従順」を著しく欠いた枢機卿の方々を前にして、教皇様は、罪深くつまずきを与える沈黙を守られるのでしょうか?カトリック教会の聖伝の教えに対して不忠実なこれらの枢機卿の方々に、どのような制裁があるのでしょうか? かれらは制裁をうけるどころか教皇様から責任ある地位と公の賞賛を受けています。その一方で、キリスト教の聖伝に忠実な司祭が制裁を受けているのです。

教皇様、フランシスコ教皇様とバチカンのこの不当な正義は何なのでしょうか? 天主がこのような不正を受け入れることができると、教皇様は確信しておられるのでしょうか? なぜ今日、この永遠の天主の法に対する教皇様の明白な不従順に従わず、絶対の天主の法に従うことを好む人々に対して、カトリック教会に独裁の風が吹いているのでしょうか? このように、キリスト信者を、天主の御怒りを招き、天主の永遠の法を軽んじるように至らしめる教皇様は、ご自分が本当にキリスト信者の尊敬に値するとお思いなのでしょうか?

Abbé Janvier Gbénou's Response to Pope Francis: "You have scandalised the whole world several times by contradicting Christian Tradition"

Pope Francis bans priest who publicly challenged him from all public ministry

ジャンヴィエ・グベヌ神父(Abbé Janvier Gbénou)は、イエズスマリア・ミシグベト神父 Father Jesusmary Missigbètòというペンネームで2021年10月21日、「アモーリス・レティチア」にある同性愛に関する誤りの教えについて教皇フランシスコに訂正を求めました
2021年12月8日には第二の手紙も書きました
2022年3月25日には第三の手紙も書きました
2022年6月には第四の手紙も書きました

しかし、2021年3月、オプスデイはジャンヴィエ・グベヌ神父に聖職停止の処分を与え、2022年2月には神父を同会から追放しました。それ以来、コートジボワールの家族の家に住み、公的なミサも私的なミサも説教も告解を聞くことも禁止されました。

グベヌ神父は、この処分を受けた後の2022年3月、あわれみの教皇フランシスコに上訴しました。しかし、教皇フランシスコはカトリックの教えに従わない人々に見せるようなあわれみをもってお答えになりませんでした。マルク・ウエレ枢機卿(Cardinal Marc Ouellet)は教皇フランシスコの認可を得て、ジャンヴィエ・グベヌ神父に、一切の聖職を停止処分を再確認しました(2022年5月30日)。

そこでグベヌ神父は、教皇フランシスコに手紙を書きました。

教皇を愛するがゆえに、教会を愛するがゆえに書いた手紙です。


2022年7月1日 アビジャンにて

フランシスコ教皇聖下宛

いとも親愛なる教皇聖下

私はちょうど、教皇様とマルク・ウエレット枢機卿の署名のある司教省の教令を受け取ったところです。その中で、教皇様は、この教令によれば、私が「教皇への尊敬と従順」(教会法273条)に欠けていたため、オプス・デイの総長によって私に課せられた制裁の正当性を確認されました。要するに、私は、説教をすること、告解を聞くこと、そして公的にも私的にもミサを捧げることを禁止されているのです。

私は教皇様の決定に留意いたしますが、その決定は不当であるため、承服はできかねます。さらに、2016年以降、教皇様ご自身が「天主と天主の民への尊敬と従順」を著しく欠いておられるため、私は良心に基づき、フランシスコ教皇様に対する公の批判を断念することはできません。実際、教皇や司教である前に、教皇様は司祭であり、教会法によれば、「聖職者は、叙階によって新たに天主に聖別され、天主の神秘の分配者として天主の民に奉仕する者であるから、自己の生活において聖性に励む特別な義務を有する」(276条)のです。さらに、司教および教皇として、教皇様は次の条文に関心を抱いておられるでしょう。「信仰の背棄者、異端者及び離教者は、伴事的(latae sententiae)破門制裁を受ける」(1364条)。「公開の上演若しくは演説において、又は公刊された出版物で、又はその他の方法でによるマス・メディアを用いて冒涜を吐く者、若しくは、著しく良俗を害する者、信仰又は教会に関して誹謗する者、又は憎悪若しくは軽蔑を挑発する者は、正当な刑罰をもって処罰されなければならない」(1369条)。

教皇様、教皇様は司祭、司教、教皇としての聖性の義務を怠っておられること、そして、異端を広めておられること、善き道徳を著しく傷つけておられることを申し上げましょう。そして、教皇様の場合、単なる司祭や司教以上に、これは非常に深刻なことです。私たちの主にして師であり、すべての人のまことの審判者であるイエズス・キリストの次の言葉を、そしてフランシスコ教皇様の次の言葉も思い起こしてください。「恵みを多く受けた人は多く要求され、多くを任せられた人は多く要求される」(ルカ12章48節)、「もし私を信じるこの小さな者を一人でもつまずかせたら、その人はろばの挽き臼を首にかけて、海の深みに沈められる方がよい…つまずかせる人にのろいあれ!」(マテオ18章6-7節)。しかし、教皇様は、キリスト教の聖伝を否定なさったことで、全世界を何度もつまずかせられました。証拠をお見せしましょう…。

  1. キリスト信者、司祭、司教が、率先して同性愛者共存法を求めることは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と言ってきました。教皇聖ヨハネ・パウロ二世と名誉教皇ベネディクト十六世は、すべてのキリスト信者は「真理を証しする義務」があり、「そのような法律に個人として絶対に反対すること」を示さなければ、「重大な不道徳」行為を犯していることを私たちに思い起こさせてくださいました(2003年6月3日の教理省文書)。残念ながら、教皇様は「はい」とお答えになりました。実際、2020年10月21日と2021年9月15日に、教皇様は公に同性愛者の市民共存法の採択を呼びかけられました(私の第1回公開書簡を参照願います)。「すべきことは市民共存法であり、彼らには法的に保護される権利があります。私はこれを擁護しました」。教皇様、教皇様の誤謬がどこにあるのか指摘させてください。「共存法」と「保護法」を混同しておられるのではないでしょうか。共存法はLGBTQのイデオロギーに関するものである一方、保護法は人間の差別に関するものです。子ども、妊婦、障害者、移住者、囚人などに対する保護法があります。これらの人々はすべて人道的な配慮と待遇を受ける権利がありますが、特別な同性愛者の共存法を必要とするわけではありません。
  2. 中絶を放棄しない公の中絶推進派の政治家にご聖体の秘跡を与えることは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と答えてきました(教会法915-916条参照)。残念ながら、教皇様は「はい」とお答えになりました。実際、2021年9月15日、教皇様は、ラダリア枢機卿、ピーター・タークソン枢機卿、ウィルトン・グレゴリー枢機卿、パリア大司教、マイケル・ジャッケルス大司教といった方々の信じがたい支持を受けて、公に同意されました(私の第4回公開書簡を参照願います)。2022年6月29日、確実に意識的かつ計画的に、教皇様は、中絶支持で公に知られているナンシー・ペロシが、バチカンで、教皇様が捧げられたミサの間にご聖体を受けることをお許しになり、しかもそのことがペロシの居住地の司教によって公に禁止されていることを十分承知しておられました。このように、教皇様はカトリック教会をして、教会法に定められた教会の法を軽んじるように至らしめ、天主とカトリックの人々を軽んじておられるのです。
  3. 医学専門家の同意がありながら、母親の健康のための医学的緊急性のない子宮摘出(子宮の摘出)を行うことは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と言ってきました。教皇聖ヨハネ・パウロ二世と名誉教皇ベネディクト十六世は、医学専門家グループが女性の将来の妊娠が健康や生命に脅威を与えないことを確認した場合、将来の妊娠を決して受け入れないという口実で子宮を切除することはできない(1993年7月31日の教理省文書を参照願います)と明らかにしています。残念ながら、教皇様と教理省は「はい」とお答えになりました。実際、2018年12月10日、ルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿(イエズス会、長官)、ジャコモ・モランディ大司教(次官)とともに、教皇様は、カトリック教会の最初の出生抑制措置であり、教理省の最初の誤謬である直接不妊手術への扉を開かれました(私の第3回公開書簡を参照願います)。
  4. キリスト信者に「節制の状態で生きるという約束は提案可能で」、「選択肢の一つ」であると言うことは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と答えてきました。最低限の正統的キリスト教の教育を受けたすべてのカトリック信者は(そして自然道徳律を生きようと努力する非キリスト信者であっても)、貞潔は決して選択肢の一つではなく、すべての人間にとって重大な道徳的義務であることを知っています(カトリック教会のカテキズム2331-2400条を参照願います)。残念ながら、教皇様は「はい」とお答えになりました。実際、2016年9月5日、教皇様とブエノスアイレス司教区の司教たちは、「節制の状態で生きるという約束は提案可能です。『アモーリス・レティチア』(Amoris laetitia)は、この選択肢の難しさを無視していません…言及された選択肢は、実際には実現不可能かもしれません」と述べています。さらに2017年6月5日、教皇様はこの三つの文【上記の鍵カッコ内】を「真正な教導権」(Magisterium authenticum)(使徒座公報(Acta Apostolicae Sedis)108; 1071-1074ページ; www.vatican.va/archive/aas/documents/2016/acta-ottobre2016.pdf)として発表するようお命じになりました。カトリックの2000年の歴史の中で、これはバチカン公文書館にこうして記録された最初の教理・道徳上の誤謬であり(私の第2回公開書簡を参照願います)、パロリン、カスパー、シェーンボルン、コッコパルメリオ、ヴァリーニ、スーピッチ、グレヒ、パリア、フォルテ、シクルナ、フェノイ、マッケロイ、スパダロ、ボルデーヌといった枢機卿、司教、司祭の方々の驚くべき支持を受けています。

今朝受けた私の制裁は、教皇様も、フェルナンド・オカリス司教も、マルク・ウエレット枢機卿も、まだ道徳的判断力をお持ちであることが明らかにしました。では、なぜ、オロリッシュ枢機卿(イエズス会)(同性愛は罪であるという教会の教えは、間違っている」と公に述べました)、マルクス枢機卿(「同性愛は罪ではない」と公に述べました)、マッテオ・マリア・ズッピ枢機卿(2022年6月11日のミサでガブリエレ・ダバリ神父に同性愛カップルを祝福させました)、ブレーズ・スーピッチ枢機卿(父の日にあたる2022年6月19日のミサでジョー・ロッカサルバ神父に同性愛カップルに説教をする許可をしました)といった、「天主と天主の民への尊敬と従順」を著しく欠いた枢機卿の方々を前にして、教皇様は、罪深くつまずきを与える沈黙を守られるのでしょうか?

カトリック教会の聖伝の教えに対して不忠実なこれらの枢機卿の方々に、どのような制裁があるのでしょうか? ありません。その反対に、フランシスコ教皇様から責任ある地位と公の賞賛を受ける一方で、キリスト教の聖伝に忠実な司祭が制裁を受けているのです。教皇様、フランシスコ教皇様とバチカンのこの不当な正義は何なのでしょうか? 天主がこのような不正を受け入れることができると、教皇様は確信しておられるのでしょうか? なぜ今日、この永遠の天主の法に対する教皇様の明白な不従順に従わず、絶対の天主の法に従うことを好む人々に対して、カトリック教会に独裁の風が吹いているのでしょうか? このように、キリスト信者を、天主の御怒りを招き、天主の永遠の法を軽んじるように至らしめる教皇様は、ご自分が本当にキリスト信者の尊敬に値するとお思いなのでしょうか?

最後に、今朝の教令で私が受けた断罪は、イエズス・キリストの次の言葉を考慮に入れていないために不当なものです(尊敬を込めて申し上げますが、教皇様やオカリス司教やウエレット枢機卿は、この言葉を冷静に黙想なさるのがよいでしょう)。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずを見て、自分の目にある梁に気をとめないのか。自分の目に梁があるのに、なぜ兄弟に向かって、きみの目のわらくずを取らせてくれと言うのか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り去れ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目のわらくずも取ることができよう」(マテオ7章3-5節)。フランシスコ教皇の誤謬(梁)に比べて、私の誤謬(わらくず)は、どんなものでしょうか? カトリックの知識人が、イエズスと教会への愛のために、この真理を擁護する勇気をお持ちになるように望んでいます。

今回、制裁を受けたアフリカ人司祭の最大の罪は何でしょうか? フランシスコ教皇とその教理省に、大胆にも公の場で反対したことです。しかし、イエズス(30歳)が当時の宗教指導者たち(60歳、70歳、80歳)に対して同じことをしたのは、イエズスが真理の人だったからではないでしょうか? 残念ながら、彼らはイエズスを十字架につけるために渡しました。しかし、天主がご自分の勝利を得られたのは、この犠牲からでした。真理の光は、誤謬と嘘の闇を照らしたのです。いとも親愛なる教皇様、私は十字架につけられたイエズスの開かれた脇腹と、十字架のふもとにおられる童貞聖マリアの涙を避難所とします...

イエズスとマリアとヨセフにおける教皇様の子

ジャンヴィエ・グベヌ神父(筆名:ジーザスメアリ・ミシグベト神父)


イエズスの聖名、これは私たちに与えられた最高の、最も尊い名前です。これ以上高貴な、これ以上聖なる、これ以上力のある名前がありません。

2022年07月07日 | お説教・霊的講話

2022年5月22日(主日)御復活後第五主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

レネ神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、二つお知らせがあります。

一つは、明日から土曜日まで、私たち司祭は三人で司祭の黙想会を行います。教会法によって決められているもので、ですから修道院では月曜日のミサの後から、ミサが土曜日までありません。どうぞご了解下さい。そして良い黙想会ができますようにお祈りをお願い致します。

もう一つのお知らせは、レネ神父様が今一緒にいらして下さっているので、もし告解をなさりたいという方は、ミサの間でもどうぞご遠慮なく神父様に仰って下さい。神父様はいつでも告解を聞いて下さいます。どうぞいらして下さい。

今日福音でイエズス様は「あなたたちが聖父(ちち)に求めるものは何でも、聖父は私の名によって与え給うであろう。私の名前によって求めよ。そうすれば与えられるであろう。あなたの喜びが満たされるように」と約束しました。はっきりと断言しました。

ですから今日は、この御言葉について一緒に黙想致しましょう。

⑴一体、イエズス様の聖名(みな)とは一体どういうものなのか?

⑵第2に、イエズス様の聖名(みな)は、名前にはどうしてそれほど力があるのか?聖名によって祈ると全てが与えられる。秘密は何なのか?

⑶第3に、ではイエズス様の聖名によって祈る、というのはどうすることなのか?具体的にどんなようにすれば良いのだろうか?ということを簡単に黙想致しましょう。

⑴イエズスの聖名、これは私たちに与えられた最高の、最も尊い名前です。これ以上高貴な、これ以上聖なる、これ以上力のある名前がありません。これ以上高貴なものがないというのは、なぜかというと、これは天主のお名前であるからです。天主が人となったお名前であるからです。なぜかというと、永遠の昔から、「この名前は、私たちに与えられる」と天主が定めたからです。

マリア様を通して、それは教えられました。大天使聖ガブリエルは、「マリア、恐れるな。その子をイエズスと名付けなさい。」また大天使は聖ヨゼフにも言いました。「その子をイエズスと名付けよ。なぜかというと、この子は民をその罪から救う方であるから。」

『イエズス』というのは『救い主』という意味です。『ヤーウェは救う』、救う為に天主は人となられたのです。

ですからイエズス様は、この名前にかけて、御自分の存在の全てにかけて、名前の理由にかけて、私たちを救おうとされます。その為には何も惜しもうとしません。命も御血も御体も全て、私たちに与え尽くそうとされます。

私たちの人生が成功したか失敗したか、あるいは私たちの人生に意味があったのかなかったのか、それは究極の目的に到達したかにかかっています。天国に行くか行かないかにかかっています。つまりイエズスと共に復活の命を受けるか受けないか、あるいは永遠の滅びに落ちてしまうかにかかっています。

もしもこの世で「幸福だ」と、人々が羨むような生活をたとえしていたとしても、どれほどの喜びが、名誉が、あるいは何かがあったとしても、たとえ全世界を所有したとしても、儲けたとしても、もしも私たちがイエズス・キリストを失ってしまうならば、これこそが最大の不幸です。なぜかというと、イエズス・キリスト様がいなければ、私たちの最後は、永遠の破滅、永遠の死、永遠の苦しみ、地獄でしかないからです。それは意味のなかった、失敗だったということになるからです。

しかし、もしも天国に行けるならば、救われるならば、私たちの人生に全てが意味があります。この地上の束の間のものが、全てに価値を持ちます。永遠の価値を持つようになります。大成功です。私たちの一生をかける事業が果たされたことです。たとえこの世でどれほどの病、どれほどの苦しみ、どれほどの屈辱、どれほどの辱めがあったとしても、一銭もなかったとしても、どんなに辛いことがあっても、しかしイエズス・キリストと共にいるならば、これこそ私たちにとって、全ての希望のもとです。全てに私たちの人生が成功だと言われる元があります。

なぜかというと、遂にはイエズス・キリストが、私たちを永遠の幸せに、終わりない、果てしない喜びに導くことができるからです。イエズス・キリストだけが、全ての善と、幸せと、喜びの源であるからです。全ての、もしも私たちが持っている何かがあれば、全てイエズス・キリストから由来するものであるからです。それ以外の何ものでもありません。イエズス・キリストの聖名だけが、イエズス・キリストだけが、私たちにその成功を与え、そこにまで導くことができる方です。

イエズス様は仰いました。「私に留まれ。私がいなければお前たちは何もできない。そうしなければお前たちは火に焼かれてしまう。」

初代教皇、使徒たちの頭聖ペトロは、最初の奇跡を行ないました。その奇跡は、イエズスの聖名によってでした。神殿の前で乞食が座っていました。生まれつき歩くことができない乞食でした。聖ペトロがその乞食の前に行くと、「私には金も銀もない。しかし、お前にもっと良いものをあげよう。イエズス・キリストの聖名によって、立って歩け!」するとその瞬間、彼は立ち上がって、歩いて、喜び踊りました。それを見ていた人は、「一体、何が起こったのか!」非常に驚きました。

これは、これから起ころうとすることの前兆でした。カトリック教会が、聖ペトロのリーダーシップの下で、原罪を受けてそして天国へと立ち上がって歩くことができない、いつも罪の死の闇に座っている私たちを、「イエズス・キリストの聖名によって、立ち上がって、天国へ向かって歩け!」と教える為でした。イエズスの名前によって瞬時のうちに治癒されることができる、ということの予告でした。

そして聖ペトロは言います、「あなたたちが十字架に付けたイエズス・キリストの聖名によって、この人は今、立っている、歩くようになっている。天上天下、私たちが救われる名前は、この方以外にはない」と。

ですから私たちは、「イエズス」という名前という、ものすごい宝物を持っています。

⑵では、何でこの聖名「イエズス様」という名前にはそれほど力があるのでしょうか?なぜ聖父は、イエズス様の聖名を通して私たちから祈られると、頼まれると、どうしても断ることができないのでしょうか?この名前を出されては、もうどうしてもやるしかない、なぜでしょうか?

なぜかというと、イエズス・キリストは天主であるにも関わらず、人間の本性を取って、聖父に従って、聖父の御旨を全て果たして、死に至るまで、十字架の死に至るまで全てを果たして、自分を無とされたので、聖父の御旨を果たしたので、今度は聖父が、イエズス・キリストの望むままに果たす番であるからです。「さあ、今度は私の番だ。お前の名前によって、全てを行なう。」

ですから聖父は、このイエズス・キリストの従順を非常に快く思って、全ての名に勝る名を与えました。この「イエズス」という名前を「見よ!控え!控えよ!」と言えば、天にあるものも、天の全ての天使たちも聖人たちも、あるいはこの地上にいる全ての人々、あるいは地の下の者たちも、イエズスの前に愛を込めて、あるいはその名前の恐ろしさのあまり、跪かなければならないほど力があります。「これこそが、主である。これよりも勝る名はない。」

聖父さえも、この名によって頼まれるならば、拒むことができない名前です。イエズスの聖名を呼び求める者は、決して辱められることはあり得ません。

⑶では、イエズス様の聖名によって祈る、とはどういうことでしょうか?

イエズスの聖名というのは、ただ「イ」「エ」「ズ」「ス」という音によって祈るというだけではありません。確かにカトリック教会はミサの時に、聖ペトロに倣って、「聖父と共に、聖霊との一致において、永久(とこしえ)に生き、かつ治(しろし)め給う主イエズス・キリストの聖名によりて願い奉る」と必ず終わります。しかしそれを発音するのみならず、私たちはその意味を考えなければなりません。

「イエズス」というのは「救い主」という意味ですから、この私たちの救いに関わる全てをお祈り致しましょう。永遠に関わる、永遠の喜びに関する。イエズス様の名前によって祈るということはまた、イエズス様の望みを果たすということでもあります。

イエズス様の御旨というのは、私たちが永遠の救いを得ることであって、その為に必要なことを全てをすることです。つまり私たちが侮辱を許したり、あるいは天主を愛したり、天主を愛するが為に隣人を愛したり、という心構えを持っていることです。

ですから、トリエント公会議の公教要理によると、「私たちはイエズスに倣って、敵を許し、そして天主を愛して、寛大に隣人を愛することによって、イエズスの名前によって祈る準備ができるようになる」と言います。なぜならば、まさにイエズスの聖名は私たちに教えているからです。

ですからもしも、私たちがイエズスの救い主の御旨に従って祈るならば、救いに関することは全て与えられます。もしもそれが与えられなかったとしたら、それはきっと救いに役立たないか、あるいは妨害するか、あるいは祈り方があまりにも散漫で心が込もっていなかったから、あるいはもっと良い、より良い時を選んで与えられるのかもしれません。しかし、イエズスの聖名による祈りは必ず聞き入れられます。その名前の為に。

そのような素晴らしいものを私たちが持っている、ということを感謝しましょう。そして使徒たちは、イエズス様の聖名によって辱めを受けるということを喜びました。あるいは聖パウロはこう言いました、「私はエルサレムで、主イエズスの聖名の為に縛られるばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。多くの信者たちは、殉教者たちは、この聖名の為に命を捧げることを喜びとしました。」

では最後に、ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様こそが、最も最高にイエズス様の聖名を愛して、その名前によって祈り、そして今でも祈り続けておられる方です。イエズス様の御旨とぴったりと一致していた方でした。ファチマではロザリオの祈りに、一連の後に祈るべき祈りも教えて下さいました。

マリア様の御取り次ぎによって、私たちがいつもイエズス様の聖名を愛して、イエズス様の名前を最高の名前として崇め、敬って、そしてその聖名によって祈り、生活することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マリア様は約束されました「汚れなき御心は最後に勝利する」「私だけが助けることができる」と

2022年07月07日 | お説教・霊的講話

2022年5月14日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズスの聖心の御前で、讃美と感謝と礼拝、罪の償いを御捧げ致しましょう。

今は、第三次世界大戦の前夜のようです。ウクライナとロシアの戦争、本当なら簡単に終わることができるにもかかわらず、あえて延長しようと、お金や武器を、戦争を続けようとしている人々がいるからです。この結果は、西側諸国の貧困あるいは消滅へと繋がるかのように思えます。
イエズス様の御憐れみを乞い求めましょう。

ヨーロッパやアメリカでは、スーパーマーケットなど、食べ物が既に置かれていない、食品やガスやガソリンの値段がどんどん上がっている、インフレーションが進行しているというニュースが流れています。中国では、特に上海あるいは北京の一部で、一か月以上の都市封鎖があって、人々は絶望的になっています。今上海で起こってることが世界中に繰り広げられることを避ける為にも、イエズス様の御憐れみを乞い求めましょう。

マスメディアは嘘の情報を多く流しています。イエズス・キリストについての本当の事が語られない世界では、その他の多くの嘘が語られています。

しかし、マリア様は約束されました。「汚れなき御心は最後に勝利する」と「凱旋する」と。
マリア様はファチマで、あるいは秋田で、「私だけが助けることができる」と約束されました。

世界の色々な所で、食料を貯蔵している倉庫が突然火災になったり、薬の倉庫が火を出したり、あるいは農場が襲われたり、ドイツでも食糧難に備えるように警告しているそうです。

私たちはマリア様の、母の汚れなき御心に助けを乞い求めましょう。マリア様の御元を離れない御恵みを乞い求めましょう。聖母だけが助けてくれることができるからです。

天国に導かれる御恵みを、多くの霊魂を救って下さるように、マリア様にお祈り致しましょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】