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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

御聖体に対する信心が減少した結果:神聖なものが世界から消えていった:命の軽視

2022年07月26日 | お説教・霊的講話

2022年6月18日(土)助祭証聖者教会博士聖エフレムのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

一昨日は御聖体の大祝日でした。御聖体を礼拝する所には、その祝福があり、そしてその御聖体を大切にする所では、その天主への愛によって、人間に対する愛が生まれるということを昨日一緒に黙想致しました。今日はその続きを黙想致しましょう。

聖パウロは今日の書簡の中で、後の世には、人々は真理から耳を遠ざけて、作り話に耳を傾ける、自分の気に入るようなことを話す人々を探して、彼らの話だけを聞くだろうというようなことを言っています。

教会は、地の塩として、塩の味を持っていなければなりません。世の光として、光を照らされなければなりません。これは人々を断罪する為ではなくて、人々を愛して、彼らを助ける為です。教会が望んでいるのは、闇に住んでいる、暗闇の無知の中にいる人々を光で照らして、光の方に導こうとすることです。

現代の御聖体に対する不信心、これは、この世に対する妥協から始まりました。御聖体を礼拝しない人、信じない人がいるから、その人たちに合わせようとすることから始まりました。新しいミサです。プロテスタントのカトリックの中に取り入れて、プロテスタントの分かれた兄弟たちを傷付けないようにした為です。

その結果は、御聖体に対する信心を、ミサに対する正しい理解を、司祭職に対する正しい理解を、失ってしまうことでした。御聖体はただの記念であるか、あるいは象徴であるか、あるいはただの食べ物であるかのように取り扱われるようになってしまいました。司祭が一体何であるかも分からなくなってしまいました。司祭ではなくて平信徒が中心であって、平信徒が司祭であって、平信徒が教会をリードする、プロテスタントのように誤解する人々が増えてしまいました。

その結果何が起こったかというと、世界中で革命が起こりました。神聖なことに関する革命が起こりました。命の伝達という神聖なことに対する軽視です。世界中で「道徳的な解放」と言われるものが起こりました。命に対する軽視が広まりました。

世界中で堕胎が合法化されるようになりました。今もっと進んでいます。安楽死が合法化されたので、あるいは婚姻に関することが、自然に反するようなものを婚姻として認めようとか、あるいは胎内にいる子供たちを生まれた後でも、自由に命を処分することができるかのように錯覚している人が増えてしまいました。私たちが手を触れることの出来ない崇敬すべき神聖なものとは、あたかもないかのようです。

今、堕胎について申しますと、世界中で、新しいミサが増えたような頃から、合法化の動きがどんどん進みました。お金を持っている人や、あるいは権力がある人が、弱い者を自由にして良い、という考えでした。

堕胎は、命を殺害してはいけないという天主の第五戒「汝、殺すなかれ」に背くばかりではありません。
命の伝達についての第六戒「汝、姦淫するなかれ」に反するばかりではありません。
「汝、父母を敬うべし」親が子供に対する義務を命じている第四戒に反するばかりでありません。

天主の礼拝に関する、生まれてくる霊魂が洗礼を受けることを奪い、そしてまたその子供たちの体を、あるいは医薬品に使ったり、あるいは改造したりする為に使う、天主の第一戒に、特に永遠の命に対する権利を、子供たちの権利を奪うことにも繋がっています。

この多くの天主の十戒の掟に反するこの堕胎は、特にその幼い、弱い、弱者を攻撃するところからも、あまりにもその罪の重さが分かります。

カトリックの信仰がなかったとしても、天主の啓示がなかったとしても、そして天主の十戒というものを、たとえ良心があまりにも麻痺して知らなかったとしてもお金があるから、権力があるから、力が強いから、弱い者を亡き者にして良い、ということが許されないということは誰にも分かります。

そんなことが許されるのなら、お金持ちがお金を持っているから、お金の無い者に毒を撒いたり、あるいは注射を打ったり、あるいは邪魔だからといって殺害しても良いか、ということになります。あるいは権力がある者が、弱い、自分を守ることができない人たちを亡き者にして良いのか、ということになります。

もしもこの地上でそのようなことが行なわれたとしたら、私たちは義憤に駆られます。しかし堕胎においては、全く自分を守ることも抵抗することもできない、無防備の子供たちが殺害されています。弱い者を、強い者が勝手に排除することが行なわれています。

そればかりではありません、堕胎においては、罪の無い者が排除されています。

たとえ悪いことをした人であっても、極悪の犯罪人であったとしても、たとえ目の前で何かが悪いことが行なわれていたとしても、だからといって私たちが裁判を経ずに自分の手でその悪をしている人を殺害したら、正当防衛以外において、これは大きな罪です。たとえ相手が悪人であったとしても、私たちは罪に問われます。しかし殺害されるのは、最も安全な場所にいる、最も正当な場所にいる、罪の無い、何も悪いことをしていない子供たちです。それが「邪魔だ」と言って、「迷惑だ」と言って殺害されています。これは、天主の啓示がなくても、あまりにも残酷であるということが私たちによく分かります。もしも誰かがそのようなことを目の前にしたら、私たちはきっとそのような人たちを非難するに違いありません。

更に堕胎は、その行なう人が、誰をするか、ということについて、重大な罪です。なぜかというと、最も愛するべき義務を持っている親が、最も愛される権利を持っている子供に対して、命を奪うという罪を行なうからです。

もしも国家の政府が、自分の国民をテロで殺害したとしても、あるいはあえて国家が、そのような国民を、保護すべき国民を苦しめて、あるいは逮捕して、あるいはいきなり殺害するとしたら、それは国家が成り立たなくなる犯罪です。しかし堕胎においては、そのようなものが行なわれています。

しかも堕胎においては、その方法があまりにも残酷です。たとえ死刑囚があったとしても、もしも私たちが堕胎に対して行われていると同じようなことをしたとしたら、それはどんなに残酷な罪を犯した殺人犯だとしても、そのような死刑のやり方には非難の嵐が起こるに違いありません。しかし堕胎においては、麻酔もなく体は引き裂かれ、口で言うのも恐ろしいほど残酷な手段で子供たちが亡き者とされています。

これは、天主の教えがなくても、私たちが理解できるようなものです。しかも、そのもしもそのような罪の無いような子供たちが、あるいは殺害された、あるいはそのような残酷なことがあったということが一件あれば、新聞で、何日もテレビで、マスコミが騒ぐようなものです。恐ろしい!何でこのようなことがあり得るのか!?と。

しかし、その行なわれている数が尋常ではありません。普通に行なわれています。毎日何百、一年で何十万、世界中で何百万。

これを見て天主は「よくやった」と私たちのことを思うとでもいうのでしょうか。むしろ「この幼き命たちは、誰か助ける人はいないか!?助けてやって欲しい!」と思われるのではないでしょうか?

あるいはそれを知っている、それを知った人は、知っていても何もしないでいてよいのでしょうか?

教会はいつも声を上げてきました。人間の命は、天主から与えられているものであって、人間が自由にすることはできない。もしも罪の無い命を殺害するようなことがあったら、それは天から復讐を呼ぶ大きな罪である。幼い者や弱い者を圧迫することは、天から復讐を呼び起こす罪である、と。

もしも弱い者を圧迫することがそうであったら、殺害することはどれほど恐ろしい罪でしょうか。天に復讐を呼ぶ罪はまだあります、正当な賃金を労働者に与えないこと。正当な食べ物、正当な命を守る保護を与えないことは、どれほどの罪でしょうか。これを見て主は、あぁ、そのまま、このまま人類がその道をまっすぐ歩んでも良いと思われるのでしょうか?それとも何とかして、私たちの目を覚まそうと、その警告のしるしを送られるのでしょうか?

私たちは一体どうしたら良いでしょうか?

御聖体の信心をぜひ盛り上げなければならないと思っています。命が大切にされる為に、本当の平和が来る為に、戦争が、子供に対する戦争が終わる為にも、私たちには御聖体に対する信心が必要です。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が私たちにもその信心を与えて下さいますように、そして私たちが足りないところがたくさんあるので、マリア様が補って下さるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


レオ十三教皇の回勅「ミレ・カリタティス」:御聖体という本当の天主の愛を信じ、天主を愛し返す、御聖体を愛すことから、本当の平和が始まる、生まれる

2022年07月26日 | お説教・霊的講話

2022年6月17日(金)司教証聖者聖グレゴリオ・バルバディコのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

昨日は御聖体の大祝日でした。今日は一緒に、御聖体の黙想を致しましょう。

今日最近、120年前に書かれたレオ十三世の御聖体の祝日に対する回勅を読む機会がありました。『ミレ・カリタティス』1902年に、御聖体の大祝日に書かれたもので、それによると教皇レオ十三世は、御聖体の信心を高める為に、教会は過去、全ての力を尽くしてやってきたし、そして教会は御聖体を大切にする聖人たちを列聖、列福、そして特別の名誉を与えてきた。そして御聖体に対する信心を高めるように色々な贖宥などを与えてきた。それでも足りないので、今度は今、この回勅を書いていると言って、御聖体がどれほど大切であるか、ということを説明しています。

レオ十三世はまず、御聖体が信仰の秘跡であることを語っています。今日特に、私の黙想を提案したいのは、その次に書かれた、愛の秘跡であるという項です。

もちろん愛は、真理を信じることから成り立つものです。私たちの御聖体に対する信仰は、ただの迷信ではありません。事実、真理に基づく、本当のことであるから、たとえ目に見えなくても、真の天主であるイエズス・キリストが「そうだ」と仰ったので、私たちは教会と共に固くそれを信じて、2000年間教会が信じてきたようにそれを信じ、教会が愛してきたようにそれを愛し、教会がそれをその為に荘厳に祝ってきたように、私たちも荘厳に祝おうと思っています。

この信仰から生まれ出る愛は何のことかというと、まずこれは、天主の私たちに対する愛だということです。

天主、この万物を創られた無限の全能の方が、全く不足がない方が、私たちを愛するがあまりに御子を送って、人となって、私たちの内に御生活されたばかりか、その御子が無となって、十字架の死に至るまで、御父に従順となったばかりか、それをもはるかに超えて、私たちしもべの為に、主の主が、奴隷の食べ物となることさえも厭わなかった、喜んでそうされた、無となった、この御聖体として留まろうとされた、世の終わりまで留まろうとされた。

これを見て、私たちはどうして天主に対する愛が沸き起こらざるを得ないだろうか。私たちの心に、主に対する愛が燃えたたざるを得なくなる。

もしもこの世界に不和が起こるのならば、これは御聖体に対する信仰が消えて、冷たくなってしまったからだと訴えています。

なぜかというと、隣人に対する愛は、天主に対する愛によって私たちの心に火が点きます。天主がこれほどまでに私たちを愛して下さったので、天主を愛するが為に、目に見えない天主を愛するが為に、目に見える隣人を愛そうとすることができるからです。

イエズス様が、「私は地上に火をもって来た。」(ルカ12:49)と言ったのはまさにこのことです。天主に対する愛を、そして天主を愛するが為に、私たちが隣人の為に愛することができるように、その愛の火を点けに来られました。

この愛の燃える火のかまどは、この元は、『御聖体』にあります。全ての宝の恵みの源は、御聖体だからです。なぜかというと、私たちは御聖体において、御恵みの創り主、聖寵の与え主、天主イエズス・キリスト御自身を受けるからです。

ですから、御聖体の神秘を黙想すればするほど、御聖体の真理を、御聖体が一体何であるかが理解できれば理解するほど、それに対する信仰が深まれば深まるほど、私たちは特に隣人に対する愛が発展します。

特にレオ十三世は、この愛は、私たちをして一致させると言います。貧しい者も豊かな者も、学んだ者も無学な者も、主人も奴隷も召使いも、同じ御聖体の、同じ祭壇から、同じ主を受けるから。イエズス・キリストの模範に倣おうとするから。ですから御聖体を大切にすればするほど、カトリックの信仰が燃えれば燃えるほど、そこには愛と一致と平和があると教皇様は言います。

なぜかというと、力ある者は、なぜ力が与えられたか、権力が与えられたか、ということをよく理解できるので、弱い者をその力を使って助けようとします。保護しようとします。なぜカトリックの社会で、レディーファーストとか、あるいは子供たちを守ろうとするのか、これは御聖体の信心から生まれるものです。

なぜカトリック教会では、たとえ悪人であっても、なるべく憐みを以って取り扱おうとしたり、あるいはたとえ刑罰を「こうだ」とあったとしても、しかし恩赦があったり、あるいはその刑を実行するのには、憐れみと優しさがあったりします。なぜかというと、イエズス・キリストの憐れみをよく知っているからです。

カトリックの社会では、できるだけ残酷なことは避けようとします。特に、天主が私たちを子供として非常に憐れんで下さったので、両親は子供たちに対する特別の愛をかき立てられます、その義務をかき立てられます。天主の第四戒は、子供が親に対する勤めのみならず、親が目下に対する、あるいは目上が目下に対する特別の義務をも教えています。イエズス・キリストの、その御聖体における模範は特にそうです。御聖体を大切にする社会においては、社会の中の調和と一致と平和があり、そこには階級闘争や妬みや嫉妬や、あるいは自分の利益だけの追求というよりはむしろ、相互の助け合いがあります。

レオ十三世は特にこのことを言っています。ただ法律を厳しくすれば良い、あるいは人間が知恵を使って何かをすれば、全ての社会の悪が解決するのでは決してない。御聖体の、本当の天主のこの愛を信じ、そして天主を愛し返すこと、御聖体を愛すことから、本当の平和が始まる、できる、生まれると言っています。

では愛する兄弟姉妹の皆様、私たちも、このイエズス様の愛をよく黙想することができますように、お祈り致しましょう。イエズス・キリストの愛に愛を以って応えることができますように、特にこの過去50年間、御聖体があまりにも粗末に扱われたので、あるいはなおざりにされたので、今、社会がおかしくなっている、全世界がおかしくなっているということは、非常に理解ができます。あまりにもそこにはロジックがあります。レオ十三世が言った通り、御聖体への信心が無くなった所においては、権力者が、弱い人をもっと押し潰すような社会ができてしまいます。ですから私たちは今この現代、御聖体に対する愛を、信心を、ますます深く致しましょう。

ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの天使がその私たちに教えてくれたその祈りを、その償いの精神を、私たちが身に付けることができますように、その御聖体をお愛しすることができますように、そうしてこの世界に、本当の平和の為に貢献することができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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