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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

良い実をつけぬ人々とは、悪い実をつける人々のこと、何の実もつけぬ人々のこと、台無しになった実をつける人々のこと、十分な実をつけぬ人々のことです。

2022年07月25日 | お説教・霊的講話

「良い実をつけぬ人々」(マテオ7章19節)についての説教

ドモルネ神父さま(2022年7月24日)

はじめに

福音の中で、私たちの主は、「良い実をつけぬ木は、みな切って火に投げ入れられる」(マテオ7章19節)と言っておられます。この言葉で、私たちは、この世での人生の終わりには、私たちに開かれている可能性が、二つしかないことを思い起こします。つまり天国か地獄かです。人生の間に何を自ら選んで行ったかによって、どちらか一方になるのです。地獄に落ちる人々は、「良い実をつけぬ」人々です。では、それが、どのような人々なのかを見てみましょう。

1.良い実をつけぬ人々

良い実をつけぬ人々とは、まず第一に、悪い実をつける人々のことです。私たちの主が言われる「実」とは、私たちの行いのことです。「悪い実」とは、私たちの思い、言葉、行いにおけるすべての悪い行為のことです。しかし、悪い行為とは何でしょうか? それは、天主の掟に反するあらゆる行為です。天主は、知恵と秩序と正義と善をもって、この世と私たちをお造りになりました。天主によって確立されたこの秩序が、善と悪を決定するのです。掟とは、この秩序を単純明快に表現したものです。天主の掟に従っているものは、「善」であり、従っていないものは、「悪」です。悪を自ら選んで行う人々は、天主を侮辱しているのです。その侮辱を、「罪」と呼びます。ですから、悪い実をつける人々は、罪を犯す人々なのです。聖パウロはコリント人にこう言いました。「淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(コリント前書6章9-10節)。

良い実をつけぬ人々とは、何の実もつけぬ人々のことでもあります。これは、天主が期待される良いわざをしない人々という意味です。そのような人々を、実をつけないいちじくの木に例えられた、私たちの主の言葉を思い出してください。「私はもう三年も、このいちじくの実を取りに来ているが、実がならない。だから、切り倒しなさい」(ルカ13章7節)。私たちの主は、身分に応じた義務を果たしたり、機会があれば善を行ったりするのに必要な努力をしない人々を非難されます。主は、裁きの場で彼らに言われるであろうことを、このように告げられます。「呪われた者よ、私を離れて…永遠の火に入れ。あなたたちは、私が飢えていたのに食べさせず、渇いていたのに飲ませず、旅にあったときに宿らせず、裸だったのに服をくれず、病気のときや牢にいたときに見舞いにも来なかった」(マテオ25章41-43節)。

良い実をつけぬ人々とは、台無しになった実をつける人々のことでもあります。台無しになった実とは、腐ったり、虫に食べられたりした実のことです。ここで、台無しになった実とは、天主のみのためでなく、個人的な利益のためになされた良いわざのことを意味します。言い換えれば、台無しになった意向でなされる、良いわざを意味します。ですから、自らの高慢のため、他人から褒められるため、あるいは金銭的な利益や社会的な昇進のため、あるいは誰かに対する乱れた愛のために、私たちが行う良い行いが、それに当たります。私たちの主は、純粋な意向を持たずに良いわざをする人々を、非難されます。「人に見せびらかすために、他人の前で良いわざを行わぬよう気をつけよ。そんなことをすれば、天にまします父からの報いは、いっさい受けられぬ」(マテオ6章1節)。

良い実をつけぬ人々とは、最後に、十分な実をつけぬ人々のことでもあります。これは、時には良いわざを行い、時にはよく祈っても、天主と隣人に対する義務のすべてを果たすことのない人々のことを意味します。例えば、主日に時々しか、ミサに行かないような人々です。私たちの主は、彼らのする良い行いは非難なさいませんが、彼らがしないことについては非難なさいます。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな、天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけが入る」(マテオ7章21節)。

2.地獄という罰

私たちの主は、「良い実をつけぬ木は、みな切って火に投げ入れられる」と言われます。この火とは、地獄のことです。先ほど述べた人々は、地獄で罰せられるのです。なぜ、そのような罰があるのでしょうか。なぜ天主は、彼らを虚無へと消し去られないのでしょうか? なぜなら、この人々は、天主の愛に対して、大きな不正をしているからです。天主は統治される善であり、無限に愛すべきお方です。天主は、愛されるという絶対の権利を持っておられます。さらに、私たちはすべてを、本当にすべてを、天主から受けています。ですから天主は、感謝のために愛される、という絶対の権利を持っておられます。私たちが良いわざを行うのを拒否するとき、私たちは天主を愛することを拒んでいるのです。これは、それ自体、罰に値する不正ですから、虚無へと戻されるだけでは済まないのです。その罰が、地獄です。

私たちの主は、地獄が何であるかを、こう簡潔にまとめておられます。「切って火に投げ入れられる」。「切って」とは、天主に拒絶され、天主から永遠に引き離されることです。これが滅びの罰です。この罰が、最も恐ろしく、つらいものです。愛する者の失恋の苦しみは、滅びた霊魂の苦しみの縮図に過ぎません。

「火に投げ入れられる」とは、滅びた人々が地獄で受けるすべての苦しみを意味します。つまり、肉体と魂を終わりなく焼き尽くす火であり、悪魔によって行われる絶え間のない拷問であり、天主が天国に行くための手段をすべて与えてくださったことと、ただ自分自身のせいで地獄にいるのだということを、はっきりと理解するため、滅びた人々を打ちひしがらせる昼夜の後悔の念と絶望です。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖ペトロの言葉を思い出しましょう。「兄弟たちよ、召し出しと選びを固めるように、ますます励め…こうしてあなたたちには、私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストの永遠の国への入り口が、広く開けられる」(ペトロ後書1章10-11節)。私たちは、この世での生活で、良い実、豊かな実、質の良い実をつけなければなりません。そのためには、第一に、私たちの霊魂に成聖の恩寵を保持しなければなりません。次に、自分の生活の状況に応じて、あらゆるあわれみのわざを寛大に実践しなければなりません。最後に、私たちは常に純粋な意向を保つように、つまり、天主をお喜ばせするという意向をもって、すべてのことを行うように、注意しなければなりません。この点で私たちの模範となるのは、いつものように、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアです。ですから、お二方がこの世での生活のときに私たちに与えてくださった良い模範について頻繁に思い起こし、お二方が私たちを助けてくださるように、頻繁に祈りましょう。


「カルメル山の聖母」という称号とそのスカプラリオの由来について

2022年07月25日 | お説教・霊的講話

カルメル山の聖母についての説教

ドモルネ神父さま(2022年7月17日)

はじめに

7月16日、私たちは、カルメル山の聖母の祝日をお祝いしました。カルメル山の聖母のスカプラリオを身に着けることは、童貞聖マリアへの信心のしるしとして、最も広く行われているものの一つです。そこで今日は、「カルメル山の聖母」という称号と、そのスカプラリオの由来について、お話ししたいと思います。

1.カルメル山の聖母

カルメル山は、パレスチナにある山で、地中海の沿岸にあります。この山の頂上の洞窟には、預言者エリアが住んでいました。ここで、エリアは童貞聖マリアについての啓示を受け、これが、「カルメル山の聖母」の称号の由来となりました。説明しましょう。当時、天主は、アカブ王とイスラエルの民の偶像崇拝や多くの罪を、深刻な干ばつによって罰しておられました。3年間雨が降らず、その結果ひどい飢饉が起こりました。ついにエリアは、天主の命により、アカブ王と偶像バアルの司祭たち全員、そしてイスラエルの民を、カルメル山に呼び集めました。エリアはバアルの司祭たちに挑戦し(列王記上18章23-24節)、民の前で、バアルとその礼拝が偽りであることを証明しました。その結果、エリアは、バアルの司祭たち全員を殺るよう命じ、彼らはすべて殺されました。それから、エリアは、カルメル山の頂上に登って7回祈りました。7回目に、エリアは「人の足跡のような」(列王記上18章44節)小さな雲を見ました。この小さな雲は大きくなり、空を埋め尽くすようになりました。そして、大雨が降り、大地を荒廃させていた 干ばつを終わらせたのです。

この不思議な小さな雲は、童貞聖マリアのかたどりでした。人の足跡のような形をしているのは、人間であるマリアを表しています。エリアの7回の祈りの後に現れた雲の様子は、マリアの内における、聖霊とその七つの賜物の存在を意味します。雲が小さかったことは、童貞聖マリアの謙遜を表しています。この雲は、全地を潤すほどの水を湛(たた)えていました。これは、童貞聖マリアが、聖霊の働きによって、すべての恩寵の源である救い主を受胎され、ご胎内に宿されたことを象徴しています。雲は、その水を大地に注ぎ、それにより干ばつを終わらせました。同じように、童貞聖マリアは救い主をお生みになり、その救い主が人々に祝福を注がれ、人々の霊的な乾きを終わらせられたのです。待降節の間、「Rorate caeli desuper, et nubes pluant Justum!(ローラーテ・チェリー・デースペル、エト・ヌーベース・プルアント・ユストゥム)」(天よ、高くから水をしたたらせ、雲は義人を降らせよ)(イザヤ45章8節)と歌うとき、私たちは、このエリアの見たもののことを差しているのです。

エリアの死後、弟子たちはカルメル山で生活をし続けました。彼らはそこで、イエズス・キリストが来られるときまで、祈りと償いと聖書研究の生活を送っていました。聖霊降臨の後、彼らはイエズス・キリストを、預言者たちが告知した救い主であると信じました。そして、預言者エリアが見た不思議な小さな雲を記念して、カルメル山のエリアの洞窟を、救い主の御母である童貞聖マリアに奉献された聖所としたのです。これが、「カルメル山の聖母」の称号の由来です。その後、このエリアの弟子たちの集団はカルメル修道会となり、そのメンバーは「カルメル会士」と呼ばれました。

2.カルメル山の聖母のスカプラリオ

さて、カルメル山の聖母のスカプラリオについて、お話ししましょう。スカプラリオという言葉は、ラテン語で「肩」を意味する「スカプラ」に由来します。スカプラリオは、体の前と背中の両方で、肩から足まで垂れた、袖のない外衣です。修道士は、修道服の上に、完全な形のスカプラリオを着用します。修道士でない人のために、小型版のスカプラリオが作られました。これは2枚の小さな布を紐でつないだものです。

カルメル山のスカプラリオの由来は何でしょうか? 13世紀中頃、カルメル会は激しい迫害に遭っていました。当時の総長は、聖シモン・ストックでした。彼は、童貞聖マリアへの深い信心をもっていました。彼は、多くの試練を受けていたカルメル修道会を、急いで、童貞聖マリアにお捧げしました。1251年、聖母は彼にご出現になり、彼にスカプラリオを授けて、こう言われました。「このスカプラリオを取りなさい…これは、あなたとすべてのカルメル会士の特権となり、この修道服を身に着けて死ぬ者は、誰も、永遠の火に苦しむことはないでしょう。これは救いのしるし、危険からの保護、平和の約束となるでしょう」。

この約束の意味を、正しく理解するように注意しましょう。この約束は、「カルメル山のスカプラリオを身に着ける者は、他に何もする必要はなしに、地獄に落ちることから守られる…」という意味ではありません。私たちが、あらゆる種類の罪を犯し、あらゆる種類の不道徳行為にふけることができ、それでも、単に私たちがこのスカプラリオを身に着けているというだけで、聖母が私たちを救ってくださるなどと、信じてはなりません。そのようなことを考えることは、聖母を私たちの罪深い生活の共犯者にすることになりますから、それは、聖母に対するおぞましい侮辱となってしまいます。

これは、聖書の中にある、他のいくつかの約束と同じことです。「トビア書」では、大天使ラファエルがこう言っています。「施しは人を死から救い、すべての罪を清め、あわれみと永遠の命を見いださせる」(トビア12章9節)。これは、施しをする者が、ただそうするだけで、地獄から救われるという意味ではありません。私たちの主イエズスはこう言われました。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有(する)」(ヨハネ6章54節)。これは、ご聖体を一度でも受けた者は、地獄から救われる、という意味ではありません。救われるためには、自分の罪を反省し、成聖の恩寵によって天主と一致し、天主の掟に従うことが必要です。まずこれを実行する人は、施し、聖体拝領、スカプラリオの着用などを実践することによって、ますます天主と一致するようになるでしょう。ですから、これらの実践を通して、その人は自分の永遠の救いを確実にするのです。

3.このスカプラリオの約束

カルメル山のスカプラリオは、救いのしるしです。なぜなら、それは、聖母とスカプラリオを受ける者との間の契約の誓いだからです。司祭からスカプラリオを与えられ、マリアへの信仰、信頼、愛のしるしとしてスカプラリオを絶えず身に着ける者に対して、聖母は二つのことを約束なさっています。聖母が、そのような人々を、成聖の恩寵の状態で生き、死ねるよう、力強く助けることによって、地獄に落ちないように守ってくださること、また、霊魂と肉体の危険から保護してくださることです。

さらに、自分の身分に応じた貞潔を守り、「聖母の小聖務日課」を毎日祈り、もしくは(御降誕祭当日を除いた)毎水曜日と毎土曜日に小斎を行う者に対して、聖母は三つめの約束をなさっています。聖母が、その人が死んだ次の土曜日に、煉獄から救いだしてくださることです。スカプラリオを与える司祭は、この「聖母の小聖務日課」を祈る義務や、毎水曜日や毎土曜日に小斎を行う義務を、例えば、ロザリオを祈ることのような、他の義務に変更することができます。

結論

締めくくりに、ある司祭の言葉を繰り返させてください。「スカプラリオが、私たちにとって、聖なる、敬うべき衣服となりますように。私たちは、自分の救いをイエズスとマリアに依存していること、また、聖なる生活を送る義務を負っていることを、このスカプラリオが、私たちに思い起こさせてくれますように。特に悲しみや誘惑のときには、しばしばスカプラリオに接吻し、また、決してスカプラリオから離れないようにしましょう。私たちの善き母であるマリアが、常に私たちを守り、私たちがその御腕の中で敬虔に死ねるよう助け、そして速やかに天国へと導いてくださることを、信頼しましょう」。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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