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ルフェーブル大司教は自発教令「トラディチオニス・クストーデス」に答える:私たちはただ主イエズス・キリストへの信仰を表明することを許されたいだけなのです。

2021年08月07日 | ルフェーブル大司教の言葉
フランス・リールでのルフェーブル大司教の説教(1976年8月29日)

私の親愛なる友人の皆様、私の親愛なる司祭職の兄弟たち、私の親愛なる兄弟の皆様、

皆様にお説教の言葉を述べる前に、いくつかの誤解を解いておきたいと思います。まず、このミサのあつまりについてです。この儀式の単純さからもお分かりのように、今この会場にいるような大勢の人々が集まるような儀式は用意していませんでした。私たちは、8月29日に予定通りに、リール地方の数百人の信者さんのために、ミサ聖祭を行おうと考えていました。いつも、フランスや、ヨーロッパや、さらにはアメリカでも頻繁にやっていたように、何の騒ぎもなくミサを捧げるつもりでした。

ところがご覧ください。突然、8月29日という日が、マスコミ、ラジオ、テレビによって、ある種のデモのようになってしまいました。彼らが言うところの「挑戦」のようなものになってしまったのです。いえ、ちがいます。これは「挑戦」ではありません。このミサは、遠くからここに来てくれた親愛なる信者の皆様、親愛なる兄弟であるあなた方が望んだのです。何のためでしょうか?それはあなた方のカトリックの信仰を現すためです。信仰における私たちの祖先がそうしていたように、また、何世代も私たちの前の幾世代がそうしたように、あなた方が祈りたい、また、自分を聖化したいという望み表明するためです。

これがこのミサの儀式の本当の目的です。このミサの間、私たちは祈りたい、心を込めて祈り、この祭壇にまもなく降りてこられ、私たちが切実に必要としている十字架の犠牲(いけにえ)を実現させる私たちの主イエズス・キリストを礼拝したいと欲しています。

また、もうひとつ別の誤解を解きたいと思います。このようなことを言うのは大変に申し訳ありませんが、どうしても申し上げなければなりません。私自身のことを聖伝主義者のリーダーだと称したのは私ではありません。少し前に、ローマで、厳粛な記念すべき状況の中で、私のことをそう呼んだ人が誰かを皆さんは知っています。そこでルフェーブル大司教は聖伝主義者のリーダーだと言われました。私は聖伝主義者のリーダーになりたいとは思いませんし、私はそんなものではありません。

なぜでしょうか? なぜなら、私も、皆さんと同じ単なるカトリックであり、確かに司祭であり、確かに司教ではありますが、皆さんが置かれている状況と同じ状況にある者にすぎず、教会の破壊、私たちの信仰の破壊、私たちの目前に積み重なる廃墟を前にして、皆さんと同じ反応をしている者だからです。皆さんと同じような反応をしたので、司祭を養成することが、教会が必要とする真の司祭を養成することが、自分の義務だと思いました。これらの司祭を、私は、教会に認可承認された聖ピオ十世会において養成しましたが、私は何世紀も何世紀も前からすべての司教たちが行ってきたことを行っただけです。

私は、自分が司祭生活の30年間行ったこと、私が司教となるように評価されたこと、アフリカでの教皇使節、第二バチカン公会議中央準備委員会のメンバー、さらに教皇聖座補佐という地位につくような評価を受けたこと以外には何もしませんでした。ローマが私の仕事が教会と霊魂の善のために有益であると評価していた証拠として、私はこれ以上の何を望むことができたでしょうか?

そして今、私が30年間続けてきたことと全くおなじような事業をしていると、突然、私は聖職停止になり、おそらく近いうちに破門され、教会から離れたとされ、反逆者となり、その他もろもろとなるのでしょうか?。そんなことは可能なのでしょうか?では、私が30年間行ってきたことも、聖職停止の対象になるのでしょうか? 私はその反対だと思います。もし私が当時、今の新しい神学校で行われているように神学生たちを養成していたら、私は破門されていたことでしょう。もし当時、今、やっているように公教要理を教えていたら、異端者と呼ばれていたことでしょう。そして、もし私が今やっているようなミサ聖祭を行っていたら、人は私に異端の疑いがあると言い、私は教会の外にいると言ったことでしょう。ですから、私にはもう理解できません。正確に言うなら、教会の中で何かが変わってしまったのです。これが私が大事だと思うポイントです。

私たちにこの態度をとるようにさせる、その理由が何かに立ち返らなければなりません。ああ!極めて重大な態度であるということは私も知っています。教会の最高の権威に反対すること、聖職停止になるということは、司教にとって、重大なことです、とても辛いことです。

どうしてこのようなことに耐えることができるでしょうか。きわめて重要な理由がない限りできません。はい、そうです。私たちの態度の理由も、みなさんの態度の理由も、きわめて深刻な理由があります。私たちの信仰を守るためだからです。私たちの信仰を守るためです!

では、ローマ当局は、私たちの信仰を危うくしているのでしょうか?私はこれらの当局を裁いているのではありません。私は、彼らを個人的に判断したくありません。こういうことができるならば、かつて検邪聖省が一冊の本を判断して、禁書目録に載せたように、そのようなやり方で私は彼らを判断したいと思います。ローマはその本を研究し、その本を書いた人を知る必要はありませんでした。書かれた言葉の中の内容を研究すれば十分でした。もしもその言葉が教会の教義に反していた場合、この本は排斥され、禁書目録に載せられました。この書いた人を尋問する必要なありませんでした。確かに第二バチカン公会議では、「著者の話を聞いてもいないのに、その本を禁書目録に載せるのは許されない」と反対意見を述べる司教もいました。

しかし、教会の教義に絶対的に反する文章を手にした場合、その本の著者を見る必要はありません。その言葉がカトリックの教義に反しているために非難されるのは本であって、それを書いた人ではないからです。だからこそ、私たちはこのようなやり方で物事を判断しなければならない、事実によって判断しなければならないのです。

私たちの主イエズス・キリストは、少し前に[主日のミサ聖祭で]読んだ福音書の中で、まさに羊の皮をかぶった狼たちについて、「あなたがたはその実で木を見分ける」と正確に言っておられます。正にそうです。果実(実り)は私たちの目前にあり、明らかです。明白です。第二バチカン公会議や公会議後の改革から生まれたこれらの果実(実り)は、苦い果実であり、教会を破壊する果実です。「公会議には触れてはならない、公会議後の改革について語りなさい」と言われるならば、私はこう答えます。改革を行った人たち(これらの改革を行ったのは私ではありません)が、自分で「私たちは公会議の名の下に改革を行う、公会議の名によって私たちは公教要理の改革を行った」と言っている、と。彼らは教会当局です。彼らこそが第二バチカン公会議を合法的に解釈する人々なのです。

では、この公会議で何が起こったのでしょうか?私たちの目の前で起こった教会の変化のまさに道具であった人たちの本を読めば、簡単に知ることができます。例えば、マルソドン(Marsaudon)の書いた『或るフリーメーソン会員が見たエキュメニズム』(L'oecuménisme vu par un franc-maçon)を読んでみてください。1969年に書かれたドゥー県(Doubs)の上院議員プレロ(Prélot)氏の著書『リベラル・カトリック(Le Catholicisme libéral)』を読んでみてください。リベラルなカトリック信者である彼は、その著書の最初のページで、この変化の起源は公会議にあると言うでしょう。

「私たちは一世紀半の間、教会内で自分たちの意見が優勢になるように努力してきましたが、成功しませんでした。最終的に第二バチカン公会議が開かれ、私たちは勝利を収めたのです。今や、リベラルなカトリックのテーゼと原理は、聖なる教会によって決定的かつ公式に受け入れられるようになりました。」これは証言ではないと思うのですか?私がこれを言うのではありません。しかし彼は凱旋しつつこう言い、私たちは涙をながしながら言います。

リベラルなカトリック信者は、一世紀半の間、何を求めていたのでしょうか。教会と革命を結婚させること、教会と倒錯を一致させること、教会と、反社会勢力とを結びつけること、つまり、社会とすべての社会、家族社会、市民社会、宗教社会を破壊する勢力と教会との融合です。教会のこの結婚・融合は、第二バチカン公会議に刻まれています。「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)の草案を見るとそこにはこうあります。「教会の原理を現代人の概念と融合させなければならない」と。これはどういうことでしょうか?それは、教会、カトリック教会、私たちの主イエズス・キリストの教会に、この教会とは反対の原理を、教会を損傷し常に教会に反してきた原理を受け入れさせなければならないということです。

まさにこのような結婚・融合を、教会の聖職者たちが公会議で試みたのであって、教会が試みたのではありません。なぜならば、教会はこのようなことを決して認めることができないからです。正確には一世紀半の間、すべての教皇たちはこの自由主義的なカトリックを排斥しました。歴代の教皇たちは、革命思想と教会の教えとの結婚・融合を拒み、人間理性を女神として礼拝する人々の思想との結婚を拒否してきました。

教皇たちはそんなものを受け入れることはできませんでした。この革命の間、司祭はギロチン台に立たされ、修道女は迫害され、また殺害されました。ナントの牢獄船を思い出してください。そこにはすべての教会の教えに忠実だった司祭たちが集められ、海に沈められました。これが革命したことです。ところで、親愛なる兄弟の皆様、私はこう申し上げます。革命が行ったことは、第二バチカン公会議が行ったことに比べれば、何でもありません。まったく何でもありません。スータンを脱ぎ捨てて、天主の前で立てた誓いを捨ててしまった三万人、四万人、五万人の司祭が殉教していたならば、もし彼らがギロチン台に行っていれば、少なくとも彼らは霊魂を救ったことでしょう。しかし今、彼らは霊魂を失う危険があります。

これらのかわいそうな既婚司祭の中には、すでに離婚している人も多く、ローマで婚姻無効の申請をした人も多いと聞いています。これらは何を意味しているのでしょうか?どれほど多くの修道女たちが、アメリカでは二万人いるといわれていますが、結婚に走るために、私たちの主イエズス・キリストとの絆を断ち切って、終生のやり方でなした誓願を捨て、修道会を捨てたことでしょうか。修道女たちは、ギロチン台に登った方が良かったことでしょう。何故なら、少なくとも自分たちの信仰を証言したことになるからです。

結局、フランス革命は殉教者を出したけれど、それは "Sanguis martyrum, semen christianorum"(殉教者の血は、キリスト信者の種子である)という初代教会の格言を実現しておわりました。キリスト者を迫害する人たちは、そのことをよく知っていて、殉教者を作り出すことを恐れているのです。彼らはもう殉教者を作りたくないのです。

従順によって教会を破壊するということこそが、悪魔の勝利の極致でした。従順で教会を破壊する。私たちは教会が日ごとに私たちの目前で壊されているのを目の当たりにしています。空っぽになった神学校、神学生たちでいっぱいだったリールの美しい神学校、これらの神学生たちはどこにいるのでしょうか?まだいる神学生たちは、一体どのような人々でしょうか?彼らは自分が司祭になることを知っているでしょうか?彼らは、自分が司祭になったら何をするか知っているのでしょうか?それはまさに、リベラルなカトリック信者が望む、教会と革命の間の結合が、不倫の結合だからです。この不倫関係からは、私生児しか生まれません。

この私生児たちとは誰でしょうか?それらは私たちの典礼様式です。新ミサの典礼様式は、私生児の典礼様式です。秘跡は私生児の秘跡です。恩寵を与える秘跡なのか、与えない秘跡なのか、もはやわかりません。この新しいミサが私たちに主イエズス・キリストの御体と御血を与えてくれるのか、それとも与えてくれないのか、私たちにはもはやわかりません。神学校を卒業した神父たちは、もはや自分が何であるかを知りません。シンシナティの枢機卿がローマで「なぜ召命が増えないのか、教会はもはや司祭とは何かを知らないからだ」と言いました。

では、司祭とは何かを知らなくなった教会が、どうしてまだ司祭を養成することができるのでしょうか?神学校から出てくる神父は、私生児の神父です。彼らは自分が何であるかを知らないからです。祭壇に上がり、私たちの主イエズス・キリストの犠牲(いけにえ)を捧げ、イエズス・キリストを霊魂に与え、霊魂をイエズス・キリストに呼び寄せるために、司祭となったことを知らないのです。それが司祭というものであり、ここにいる若い人たちはそのことをよく理解しています。彼らの全人生はそのために捧げられます、聖体における私たちの主イエズス・キリストを愛し、礼拝し、仕えるために。なぜなら、彼らは聖体における私たちの主の臨在を信じているからです。

このような教会と革命との不倫の結合は「対話」によって具体化されます。教会が対話するとすれば、それは回心させるためです。主は「行って、すべての国の人々に教えよ、彼らを回心させよ」と言われました。主は決して「彼らと対話せよ、ただし彼らを回心させるためではなく、彼らと同じ立場に立つための対話をせよ」とは言いませんでした。

誤謬(誤り)と真理は両立しません。もし、人が他人に対して愛があるなら、今、福音が私たちに思い出させてくれたように、愛がある人は、他人に仕える人です。もし、人が他人に対して愛があるなら、彼らに私たちの主を与え、自分が持っている富を与えます。彼らとおしゃべりする、彼らと対等な立場で対話することではありません。真理と誤りとは対等ではありません。それは天主と悪魔を同列に置いてしまうことになります。何故なら悪魔は嘘の父であり、誤謬の父なのですから。

ですから、私たちは宣教的でなければなりません。私たちは、福音を伝え、霊魂たちをイエズス・キリストに回心させなければなりません。彼らの原理を学ぼうとして彼らと対話することではありません。プロテスタントと対話しようとする姿勢が、この私生児のミサと私生児の典礼様式をもたらしたのです。プロテスタントは私たちにこう言いました。「あなたたちのミサは私たちのプロテスタントの信仰と相容れないものが含まれているので、私たちはあなたたちのミサを望みません。ですから、このミサを変えれば、私たちはあなたたちと一緒に祈ることができ、交わりを持つことができます。私たちはあなたたちの秘跡を受けることができ、あなたたちは私たちの教会に来ることができるようになるでしょう。私たちはあなたたちの教会に行けるようになるし、そうなればすべてが終わり、私たちは一つになるでしょう。」

確かに私たちには一致があるでしょうが、しかし、混乱の中での一致、私生児の一致です。私たちはそれを望みません。教会は決してそれを望みませんでした。私たちはプロテスタントの人々を愛していますし、改宗させたいと思っています。プロテスタントの宗教とカトリックとが同じ宗教であると信じさせることは、彼らを本当に愛することではありません。

それは、フリー・メーソンも同じです。今、フリー・メーソンと対話しようとしています。対話するだけではなく、カトリック信者がフリー・メーソンの一員となることを認めています。これはさらに忌まわしい対話です。フリー・メーソンを指揮して人々、少なくとも責任者たちは、私たちの主イエズス・キリストに根本的に反対していることを私たちはよく知っています。そして、彼らが行うこれらの黒いミサは、忌まわしい、冒涜的な、恐ろしいミサです。それは私たちの主のミサのパロディです。この黒いミサを行うために、聖別された御聖体を欲しているのです。彼らは聖体の中に主が現存されていることを知っています。なぜなら、悪魔は主が聖体の中にましますことを知っているからです 主の御体がそこにあるかどうかわからないミサから来る御聖体は欲しくないのです。

では、肢体の中の個人において、教会の中の個人において、私たちの主イエズス・キリストの二度目の死を望んでいる人々と対話するのでしょうか?私たちはこの対話を認めることができません。エワと悪魔の最初の対話がどんな価値を持っていたかを私たちは知っています。

エワが悪魔と対話したために、私たちは失われました。エワは、私たち全てを罪の状態に置いてしまいました。私たちは悪魔と対話をしません。私たちがすることは、悪魔の影響下にあるすべての人々に説教し、彼らが改心して、私たちの主イエズス・キリストのもとに来るようにすることです。

我々は共産主義者とも対話しません。人とは対話します。しかし、私たちは誤謬とは対話しません。鉄のカーテンの後ろに集まった軍隊が鉄のカーテンを通過したらどうなるか私たちは知ることになるでしょう。もしもある日、何度も最高ソビエト会議が開かれた後、もしも多数決でこれらの軍隊が我々の国に突入することが決議されたら、5日後には...。

愛する兄弟の皆様、動じてはいけません。私たちのように物事を理解していない人については、彼らをそのまま残して、天主様に光を与えていただくように求めましょう。

しかし、正に、なぜ私たちは、教会と革命の不倫関係を受け入れないことを固く決意しているのでしょうか。私たちは、私たちの主イエズス・キリストの天主性を肯定するからです。なぜペトロはペトロになったのでしょうか?福音を思い出してください。ペトロがペトロになったのは、私たちの主イエズス・キリストが天主であると公言したからです。また、すべての使徒たちも、聖霊降臨後にこの信仰を公に公言し、すぐに告発されました。司祭長たちは彼らに言いました。「これ以上、この名前を口にするな。私たちは、主イエズス・キリストというこの名前を聞きたくない。」そして、使徒たちは "Non possumus"と言います。「私たちは、主イエズス・キリスト、私たちの王について、語らないでいることはできない」と言いました。

しかし皆さんは私にこう言うことでしょう。そんなことはありうるのでしょうか?あなたは、ローマが私たちの主イエズス・キリストが天主であることを信じていないと非難しているようです。はい。自由主義は常に二面性を持っています。自由主義は、自分が主張する真理を正式の命題(テーゼ)として断言します。次に、現実には、実践上は、隠れた命題(仮説)として、自分が言うように、教会の敵のように行動し、また教会の敵の原理で行為します。いつも言うこととやることが支離滅裂なのです。

では、私たちの主イエズス・キリストの天主性(イエズス・キリストが天主であるということ)とは何を意味するのでしょうか。それは、主が「私は天主である」と言うことができる世界で唯一の方、世界で唯一の人間であるということです。また「私は天主である」と言うことができたという事実によって、イエズス・キリストは人類の唯一の救い主であり、人類の唯一の司祭であり、人類の唯一の王であったのです。特権でもなく、肩書きでもなく、御自分の本性によって、天主の子であるからです。

さて、人々は何と言っているでしょうか? イエズス・キリストの救いだけではない。私たちの主イエズス・キリストの外にも救いがある。私たちの主イエズス・キリストにおける、司祭職だけではない。すべての信者は司祭であり、すべての人は司祭である、と。しかし、本当は、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)を捧げるためには、私たちの主イエズス・キリストの司祭職に秘跡的に参与しなければなりません。

最後に、3つ目の誤りは、私たち主イエズス・キリストの社会的統治を、これがもはや不可能であるという口実のもとで、望まなくなったことです。これは、在ベルンの教皇大使の口から聞いた話です。バチカンからの特使であるダニス神父(Père Dhanis)-- 元グレゴリアン大学の学長 -- の口から聞いた話でもあります。ダニス神父は、6月29日の司祭叙階式を行わないように聖座の名で求めるために私のもとにやってきました。私が神学生たちに黙想会を指導しているとことに、神父は、6月27日にフラヴィニーにやってきたのです。彼は私に「なぜあなたは公会議に反対するのか?」と尋ねました。

私は彼にこう答えました。「公会議の名において、すべてのカトリックの国家を破壊しなければならない、カトリック国はなくならなければならない、したがって、私たちの主イエズス・キリストが統治する国もなくならなければならないとあなたは言っているのに、公会議を受け入れることは可能でしょうか? それはもう無理です!」

しかし、これがもはや可能ではないということと、これを原理として受け入れ、従って、私たちの主イエズス・キリストの統治をもはや追求しないということとは、別のことです。私たちが毎日、主の祈りの中で「御国の来たらんことを。御旨の天に行わるる如く地にもおこなわれんことを」と祈っているのは、何を祈っているのでしょうか。この御国とは何なのでしょうか?

先ほど、皆さまは「グロリア」を歌いました。Tu solus Dominus, tu solus Altissimus, Jesu Christe - 御身のみが唯一の主、御身こそが唯一のいと高き御者、イエズス・キリストよ」と。私たちはそれをミサでは歌い、教会の外に出るとすぐに「いや、私たちの主イエズス・キリストはもはy私たちを統治すべきではない」というのでしょうか? もしそうなら、私たちは非論理的に生きています。私たちはカトリックなのでしょうかそうではないのでしょうか?私たちは、キリスト者なのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

この地上に平和が訪れるのは、私たちの主イエズス・キリストの統治においてのみです。国々は毎日、もがいています。新聞には、何ページも何ページもその話しがあります。テレビやラジオでも、そうです。今、首相が交代した、景気を回復させるためにはどうすればいいのか、お金を取り戻すためにはどうすればいいのか?産業を活性化させるためにはどうすればいいのか?世界中の新聞はそういうことでいっぱいです。

しかし、経済的な観点から見ても、私たちの主イエズス・キリストが君臨しなければなりません。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストの支配とは、まさに愛の原理の支配だからです、愛の原理とは天主の掟(おきて)にほかなりません。この愛の原理が社会にバランスをもたらし、社会において正義と平和を社会に支配させるからです。社会における秩序、正義、平和があってこそ、経済が統治し、経済が再び栄えることができます。それがよくわかります。

アルゼンチン共和国のイメージをとってみましょう。アルゼンチンはわずか2、3ヶ月前どんな状態だったでしょうか。完全な無政府状態で、強盗が右往左往し、産業は完全に破壊され、工場のオーナーは監禁され、人質となり、信じられないような革命状態でした。アルゼンチン共和国のように美しく、バランスが取れていて、素晴らしい国で、特別の富に満ちた信じられないほど豊かになる可能性のある共和国に、少し前に秩序のある政府が登場しました。この政府は原理を持ち、権威を持ち、ビジネスに秩序を与え、強盗らが人々を殺すのを防ぎました。こうして、経済は回復し、労働者は仕事を持ち、人々は家に帰ることができ、家に帰っても、ストライキをしたくないのにさせようとする人に襲われることがなくなりました。

私たちが望んでいるのは、私たちの主イエズス・キリストの統治です。私たちは、主イエズス・キリストが天主である、と信仰を告白します。だからこそ、聖ピオ五世のミサと言われる聖伝のミサも欲します。なぜなら、このミサは私たちの主イエズス・キリストの王権を宣言するものだからです。新しいミサは、もはや位階的ではなく民主主義敵です。会衆のほうが司祭よりも場所を占めているからです。したがって、私たちの主イエズス・キリストの王権を確認する真のミサではなくなっています。私たちの主イエズス・キリストはどのようにして王になったのでしょうか?主は十字架によって御自分の王権を確立されました。"Regnavit a ligno Deus." イエズス・キリストは、十字架の木によって統治されたのです。主は十字架によって、罪に打ち勝ち、悪魔に勝ち、死に勝ったのです。これは、私たちの主イエズス・キリストの3つの素晴らしい勝利です。

これは凱旋主義だと言う人もいるかもしれません。はい、その通りです。私たちは主イエズス・キリストの凱旋を欲します。だからこそ、私たちの祖先はあのような立派な大聖堂を建てたのです。私たちよりもずっと貧しかった先祖たちが、なぜあんなにお金を使ったのでしょうか。いったい何故彼らは、今でも私たちが見惚れてしまうような、しかも信仰の無い人々でも感嘆するような立派な大聖堂を、なぜあれだけの時間をかけて作ったのでしょうか。なぜでしょうか?それは祭壇のためです。私たちの主イエズス・キリストのためです。私たちの主イエズス・キリストの十字架の凱旋を記念するためです。

そうです、私たちはミサの中で、主イエズス・キリストの十字架の勝利と凱旋を告白することを欲しています。だからこそ、私たちは跪きます。御聖体の前に跪くのが好きなのです。もし時間があったら、もしあまりにも長くお引き止め[することになっても遠慮を]したくなかったら、皆さんが主イエズス・キリストに、御聖体に、皆さんが主を礼拝していることを表明するために、御聖体を持って皆さんの席のところまで[聖体行列をして]回ったでしょう。

「主よ、御身は私たちの天主です。ああ、イエズス・キリストよ、私たちは御身を礼拝したてまつる。私たちは知っています。私たちは、御身によって生まれ、御身によってキリスト者となり、御身によって贖われました。死の時に、私たちを裁くのは御身です。私たちがそれに値するものであれば、天国の栄光を与えてくださるのは御身です。」[私たちがこうするのは] 私たちの主イエズス・キリストは、十字架上におられたように、聖体の中に現存されるからです。

以上が、私たちのしなければならないこと、私たちが求めなければならないことです。

私たちは誰にも反対するのではありません。私たちは特殊部隊(コマンドー)ではありません。誰にも傷をつけたくありません。私たちはただ、主イエズス・キリストへの信仰を表明することを許されたいだけなのです。そのために、私たちは教会から追い出されたのです。聖伝のミサを行う司祭たちも可哀そうに追い出されています。それよってすべての聖人や聖女が聖化されたそのミサです。聖ジャンヌ・ダルク、アルスの聖司祭、幼きイエズスの聖テレジア、などのミサです。

今、司祭たちは、何世紀にもわたって聖人たちを聖としてきたこのミサを行うことで、残酷にも、説く全に、小教区から追放されています。それはおかしなことです。ほとんど狂気の沙汰と言っても過言ではありません。私たちは夢を見ているのではないかと思うほどです。このミサが、私たちの司教にとって、つまり私たちの信仰を守るべき人たちにとって、一種の恐怖の対象となることなど、ありえません。ですから私たちは聖ピオ五世のミサを守りましょう!なぜでしょうか?なぜなら、聖ピオ五世のミサは、私たちの信仰を表明し、私たちの信仰の防波堤であり、私たちはこの信仰の防波堤を必要としているからです。

そうすると「ラテン語とスータンを問題にしている」と言われるかもしれません。もちろん[こう非難して]このことについて意見の合わない人を貶めるのは簡単です。もちろん、ラテン語は重要です。私がアフリカにいたとき、異なる言語を持つアフリカの人々の群集を見て素晴らしいと思いました。時には5、6の異なる部族がお互いに理解できないまま、教会のミサに参加し、ラテン語で同じ歌を特別な情熱を持って歌っていました。ところが今では見てください。いろいろな教会では言い争っています。自分の国の言葉ではない言語でミサが行われているので、自分の国の言葉でも一つミサをしてほしい、と主張するからです。

これは完全な混乱です。以前は、この一致は完璧でした。これは一例にすぎません。あなたもよくご存知でしょうが、私たちは書簡と福音をフランス語で読みます。何の不都合もありません。たとえそれにフランス語でいくつかの祈りを付け加えたとしても不都合は見出さないでしょう。

しかし、私たちには、ミサの本体、つまり奉献(オフェルトリウム)から司祭の聖体拝領までのミサの本質的な部分は、単一の言語のままであるべきだと思われます。そうすれば、すべての国のすべての人が一緒にミサに参加し、この信仰の一致、この祈りの一致の中で自分たちが一致していると感じることができるからです。本当に私たちは求めています。私たちは司教たちに、そしてローマに呼び求めています。私たちがもつ、祖先のように祈りたいという願いを、カトリックの信仰を守りたいという願いを、私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、その御国を望んでいるという願いを、願わくはローマや司教たちが考慮してくださるように、と。

これは、私が最後の手紙で教皇様に言ったことです。教皇様がこれ以上お手紙を送ってこないと思っていたので、本当に最後の手紙だと思っていたのですが、私は教皇様にこう言いました。

「いとも聖なる教皇様、教会の公けの権利を私たちに返してください。つまり、私たちの主イエズス・キリストの統治を返してください。私たちに本当の聖書を返してください。エキュメニカルな聖書ではなく、過去のヴルガタ訳だった真の聖書を、そして公会議や教皇によって何度も何度も聖化されてきた真の聖書を返してください。私たちに本当のミサを返してください。私たちの信仰を守り、何世紀にもわたって多くのカトリック信者を聖化してきた、位階的なミサ、教義的なミサを返してください。最後に、トレント公会議の公教要理を模範とした公教要理を返してください。何故なら、正確な公教要理なしには、私たちの子供たちは、未来の世代は、将来どうなってしまうことでしょうか?彼らはもはやカトリックの信仰を知らないままとなってしまうでしょうし、もうすでに今日でも、私たちはそれを目の当たりにしているからです。」

残念ながら、私が受けた返事は、聖職停止以外しかありませんでした。だからこそ、私はこれらの罰が、教会法的にも神学的にも有効だとは思いません。

私は、誠実に、平和に、穏やかに、こう考えます。これらの停止、私が受けた罰、私の神学校の閉鎖、叙階式の拒否によって、カトリック教会の破壊に私は貢献することはできません。私は、私の死の瞬間に、主が私に「あなたは司教と司祭の聖寵をどのように使ったのか」と尋ね給うときに、主の口から次の言葉を聞くことは望みません。「おまえは、他の者たちと一緒になって、教会の破壊に協力した」と。

親愛なる兄弟の皆様、最後に私は皆様にこう申し上げます。「皆様は何をしなければならないのでしょうか?」はい、私はよく知っています。多くのグループの方が私にこう求めています。「大司教様、私たちに司祭を与えてください、本物の司祭を与えてください、これこそ私たちが必要としているものです。私たちは司祭の住む場所があります。私たちは小さなチャペルを建てます。司祭たちは私たちのところにいて、真の公教要理に従って、真の信仰に従って、私たちの子供たちを教えてくれるでしょう。日本人が司祭のいない時代に三世紀にわたって行ってきたように、私たちも真の信仰を守りたいのです。司祭を私たちにください!」と。"

親愛なる兄弟の皆さん、私は皆さんのために、司祭養成のために最善を尽くします。私が言えることは、これらの神学生たちに、深い信仰、真の司祭の信仰を感じることは私の大きな慰めである、ということです。彼らは、私たちの主イエズス・キリストがどなたであるかを理解しています。彼らは、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)と秘跡が何であるかを理解しています。彼らは心に深く根ざした信仰を持っています。彼らは、私が言うのもなんですが、50年前に私たちが神学校でできたことよりも優れています。しかも、その多くは大学教育を受けています。このような若い人たちは適応力がなく、現代の世代にどのように語り掛ければいいのかわからないだろうと言われています。しかし、彼らは3年、4年、5年間と大学教育を受けてきた若者たちです。同世代の人々のことを彼らが知らないことがあるでしょうか?

彼らはなぜ司祭になるためにエコンに来たのでしょうか?まさに同世代の人々に語り掛けるためです。彼らは、私たちよりも、私たちを批判するすべての人々よりも、同世代をよく知っています。

霊魂の回心のために必要な言い方を彼らは話すことができるようになるでしょう。だからこそ、-- こう申し上げるのは私にとって嬉しいことですが -- 今年もエコン神学校では、困難にもかかわらず25名の新入神学生を迎えることができました。アメリカのアルメイダにある神学校では10名、ドイツ語圏のスイスのドイツ語の神学校では4名の新入生を迎えることができました。

ご覧のように、私たちが直面する困難にもかかわらず、若者たちは、私たちが真のカトリック司祭を養成していることをよく理解しています。だからこそ、私たちは離教ではなく、カトリック教会の継続者なのです。新しいことをする人こそ、離教へと行ってしまうのです。

私たちは聖伝を継承しています。だからこそ私たちは信頼しています。現在の状況に直面しても、私たちは絶望してはなりません。二十世紀の聖伝、二十世紀の教会の聖性、教会の信仰に基づいて、信仰を維持し、秘跡を維持しなければなりません。何も恐れることはありません。

あるジャーナリストから何回かこう尋ねられたことがありました。「大司教様、あなたは孤立していると感じますか?」
「全く感じません。孤立しているとは全く思いません。私は二十世紀の教会とともにあり、天国のすべての聖人たちとともにありますから!」なぜでしょうか?聖人たちは、私たちと同じように祈り、私たちがしようとしているように、同じ手段で自分自身を聖としたからです。ですから、今日のこのミサでも、きっと彼らは喜んでいることでしょう。彼らは、「少なくともここには、祈るカトリック信者がいて、彼らは本当に祈り、心の中に祈りたいという願望を持っていて、私たちの主イエズス・キリストを敬いたいという願望を持っている」と言うでしょう。天の聖人たちは喜んでいます。ですから、私たちは無力ではないのです。私たちは祈り、また祈り、自分を聖化しましょう。

では、皆様にアドバイスをしたいと思います。私たちについて、カトリック信者である私たちについて、

-- 私は聖伝主義カトリック信者という言葉があまり好きではありません。教会が一つの聖伝であることを考えると、聖伝主義者ではないカトリック信者がありえるとは思えませんし、また伝統の中にいないような人々はどうなってしまうのでしょうか?彼らは生きることができないでしょう。私たちは親から命を受け、先人たちから教育を受けました。私たちは伝統を受け継いでいます。天主様がそうお望みなのです。天主様は、人間的なものについても天主的なものについても、その両方について、聖伝が世代から世代へと受け継がれることを望んでおられます。

ですから、伝統的でないこと、聖伝主義者でないことは、自滅であり、自殺行為なのです。ですからこそ、私たちはカトリック信者なのです。私たちはカトリック信者として留まり続けます。ですから私たちの間で分裂があってはなりません。何故なら私たちはカトリック信者だからです。私たちは教会の一致においてあるからです。教会の一致とは信仰においてあります。

すると私たちはこう言われます。「あなたは教皇と一緒にいなければならない、教皇は教会の信仰のしるしだ」と。はい、教皇がペトロの後継者としての地位を表明する限りにおいて、さらに、永遠の信仰をくり返して発言する限りにおいて、また、教皇が伝えなければならない信仰の遺産を伝える限りにおいて、その通りです。何故なら、教皇とは何でしょうか?もう一度申し上げます。教皇とは、聖伝の遺産、信仰の遺産の宝を与え、秘跡とミサの犠牲(いけにえ)による超自然的な生活を私たちに与えてくれる方以外のなにものでもないからです。司教も、真理を伝える者であり、自分のものではない生命を伝える者、それ以外のなにものでもありません。司祭もそうです。それ以外のなにものでもありません。先ほど私が述べた手紙にもありましたが、真理は私たちに属するものではありません。それは私のものでないように、教皇のものでもありません。私が真理のしもべでなければならないように、教皇は真理のしもべなのです。

もし、教皇が真理の奉仕者でなくなったとしたら、教皇はもはや教皇ではなくなってしまうでしょう。私は、教皇がもはや教皇ではないと言っているわけではありません。良く注意してください。私の言わなかったことを私が言ったかのように考えないでください。しかし、もしもこれが本当になってしまったなら【教皇が真理の奉仕者でなくなったとしたら】、私たちは私たちを誤りに導く人に従うことはできなくなってしまうでしょう。

私たちは「あなたは教皇を裁いている」と言われます。しかし、真理の基準はどこにあるのでしょうか。モンシニョール・ベネリは、私に向かって「真理を作るのはあなたではない」という言葉を投げつけました。もちろん、真理を作るのは私ではありません。教皇でもありません。真理、それは私たちの主イエズス・キリストです。

したがって、真理がどこにあるかを知るためには、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださったこと、教会の教父たちや全教会が教えたことを参照しなければなりません。教皇を裁くのは私ではありません。聖伝です。公教要理をならった五歳の子供は、司教にきちんと答えることができます。もしこの子供の司教がこの子に「私たちの主イエズス・キリストは聖体の中に存在しないんだよ。私は真理の証人だよ。主が聖体の中に存在していないことを私ははっきり言う」と言ったとしたら、この子は、五歳であるにもかかわらず公教要理を持っています。この子は「でも、私の公教要理には反対のことが書いてある」と答えるでしょう。どっちが正しいのでしょうか?司教でしょうか?公教要理でしょうか?もちろん公教要理です。公教要理は明らかに永遠の信仰を表明しています。単純なはなしです。考え方は子供っぽいものです。しかし、私たちの今の状況は、ここまで来てしまっています。もしも誰かが私たちに、今ではプロテスタントと相互の聖体拝領ができる、相互聖餐式ができる、私たちとプロテスタントとの間にはもはや何の違いもない、と言っても、それは真理ではありません。巨大な違いがあります。ですからこそ、カンタベリー大司教に祝福させた、ということを考えると、私たちは本当に驚いてしまいます。カンタベリー大司教は司祭ではありません。何故ならアングリカンの叙階は有効ではないからです。教皇レオ十三世が公式かつ決定的にそう宣言したからです。また彼は、全てのアングリカンがそうであるように異端者です。(申し訳ありません、もうこの名前は好まれてはいないのですが、これが現実なのです。この言い方をするのは侮辱するためではありません。私は彼の回心だけを求めています) -- 彼が異端者であるにもかかわらず、教皇様と一緒に、聖パウロ教会にいた枢機卿たちや司教たちを祝福してくれるように彼に頼んだということを考えると、本当に唖然とします!これは絶対に考えられないことです!

最後になりましたが、このように大勢の方にお越しいただきましたことに感謝します。このミサの儀式を、深く敬虔なカトリックの儀式を行い続けることを感謝します。

私たちは共に祈りましょう。天主様に、困難を解決する手段を私たちに与えてくださるよう求めましょう。もし、各々の司教が自分の司教区に、私たちのために、忠実なカトリック信者のために、教会を使わせてくれて「ほら、これはあなたたちの教会だよ」と言ってくれれば、とても簡単なことでしょう。

リールの司教がイスラム教徒に一つの教会を与えたことを考えると、聖伝を重んじるカトリック信者のための教会があってもいいのではないかと思います。そうすれば最後には、問題は解消されるでしょう。もし私が面会をするのを受け入れてくださるのであれば、私は教皇様にこのようにお願いしたいと思っています。「教皇様、私たちに聖伝の実験を自由にやらせてください。現在、様々な典礼の実験が行われていますが、すべての実験の中には、少なくとも二十世紀にわたって行われてきたことの実験があってもいいはずです。」

聖父と聖子と聖霊の名によりて、アメン。

マルセル・ルフェーブル大司教


29 août 1976, Sermon historique de Mgr Lefebvre à Lille

« Très Saint Père, rendez-nous la vraie messe ! »





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1 コメント

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Unknown (ヨハネ)
2021-08-07 12:51:37
この説教の終わりも近いところに、以下のパラグラフがあります。パリャラーニ総長も同じことを考えておられるのでしょうか?

もし、教皇が真理の奉仕者でなくなったとしたら、教皇はもはや教皇ではなくなってしまうでしょう。私は、教皇がもはや教皇ではないと言っているわけではありません。良く注意してください。私の言わなかったことを私が言ったかのように考えないでください。しかし、もしもこれが本当になってしまったなら【教皇が真理の奉仕者でなくなったとしたら】、私たちは私たちを誤りに導く人に従うことはできなくなってしまうでしょう。
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