Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

初聖体@沖縄

2009年11月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日は、沖縄のブレイキー君(7歳)の初聖体の予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@嘉手納基地にて

教皇聖下、諸聖人の祝日おめでとうございます。霊的花束です(4)

2009年11月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇様への霊的花束をお捧げするためのお手紙について、私の頭の中を駆けめぐった内容で、下書きにもならない単なるメモ的な草案というか独り言の続きです。

========


 教皇様、人類の歴史の今の時点での本当の問題は信仰の問題であると仰って下さいました。教皇様、私たちの信仰とは、私たちの都合で勝手に変えてもいいものなのでしょうか? それとも、私たちの主イエズス・キリストから啓示を受けた真理として大切に何も変えずに伝えなければならないのでしょうか?

 教皇様、私たちの主イエズス・キリストはどれほど律法を振り回すファリザイ派から攻撃を受けたことでしょうか。

 イエズス・キリストは安息日に善を行って断罪されました。

 安息日に、イエズスが麦畑をお通りになると、弟子たちは空腹だったので、麦の穂をつんで食べはじめ、ファリザイ人がこれを見て、「あなたのお弟子は、安息日にしてはいけないことをしている」と断罪しました。

 しかしその様なファリザイ派にイエズス・キリストはこう言って叱責し給うたのです。
「のろわれてあれ、偽善者の律法学士ファリザイ人よ。あなたたちは、他人の前に天国をとざし、自分もはいらず、はいろうとする人がはいるのもゆるさない!」

「のろわれてあれ、偽善者の律法学士ファリザイ人よ。あなたたちは、はっか、ういきょう、いのんどの十分の一をおさめながら、律法の中でいちばん重大な正義と慈悲と忠実とを無視している!さきのをも無視することなく、あとのをこそ、おこなわねばならない。めくらの案内人よ、あなたたちは、小蝿をこし出して、らくだをのみこんでいる!」

 教皇様、ユダが考えていたとおり、イエズス・キリストは妥協して、ユダヤ教当局の大司祭と折り合いを付け、波風を立てるのを避けるべきだったのでしょうか?

 私たちの主イエズス・キリストを真の唯一の天主として信仰し、そのためにローマの神々を拝むことを拒絶してローマで殉教していった聖ペトロと聖パウロ、また信仰のために競技場で獰猛なライオンに食べられて血を流して命を失った多くの殉教者たちは、間違っていたのでしょうか?


 教皇様、最後に、私たちは教皇様がローマが聖ピオ十世会の提起する第二バチカン公会議の問題について聞こうと耳を傾けて下さっていることに感謝します。

 最初の会合は2009年10月26日にありました。バチカンの報道発表によると、私たちは次のことについて議論するとあります。


*聖伝の概念、
*パウロ六世のミサ典書、
*カトリックの教義的聖伝と連続性における第二バチカン公会議、
*教会の一致とエキュメニズムのカトリック的原理のテーマ、
*キリスト教と非キリスト教諸宗教との関係、
*信教の自由


 教皇様が世界に示すことを望まれたとおり、聖ピオ十世会も、聖ピオ十世会の司教たちも「破門」されていません。私たちカトリックには、「第二バチカン公会議を信仰箇条として信じる」ということなど全く要求されず、その反対に、バチカンの報道発表によれば、この会合は、第二バチカン公会議が、カトリックが信じなければならない信仰箇条としてなにか教義的な命題が提示されたかのかどうかを判定するものとなることが明らかです。

 つまり、私たち聖ピオ十世会は、曖昧な公会議に疑問を提示していたがために、馬鹿にされ・批判され・軽蔑され・摘み出されたように取り扱いを受けてきましたが、教皇様は聖ピオ十世会の態度を評価され、聖ピオ十世会の主張を聞くことを望まれています。

 かつて、教皇様が、枢機卿時代(チリのサンチアゴで、チリの司教評議会に1988年7月13日)に発言した言葉が思い起こされます。「この公会議はいかなる教義をも決定したわけではありません。そして故意に、単なる司牧公会議としての慎ましいレベルに止まることを選んだのです。しかしながら、多くの人々はこれをそれ自身で、その他の全ての(公会議の)重要さを取り除くある種の超教義(スーパードグマ)であるかのように取り扱っています。」

 聖ピオ十世会が主張していたとおり、聖伝のミサが一度も廃止されたことがなかったこと、いかなる司祭もこれを禁止されることがないこと、これについても教皇様が2007年に「スンモールム・ポンティフィクム」でその通りだと発表されました。

 新しいミサについては、教皇様が枢機卿時代に、委員会が作った駄作であること、典礼の歴史を断絶させるもの、教会にとって新しいミサの結果は悲劇であったと言われていたことを思いまだします。

 聖ピオ十世会が主張していたとおり、御血の聖変化の言葉は「全ての人々のため」ではなく「多くの人々のため」であること、これについても教皇様がその通りだから40年間も使われてきた誤った翻訳を訂正するようにと発表するようにさせました。

 教皇様が枢機卿時代に、ハワイの司教から不当に「破門」されたハワイの聖ピオ十世会信者たちを助けて、アメリカの教皇大使を通じてその破門が無効であることを三土に渡って通告されたことを思い出します。

 教皇様は、世界中のマスメディアの攻撃を受けながらも、聖ピオ十世会の司教たちの「破門」が無効であることを宣言されました。

 教皇様は、続けて、聖ピオ十世会には第二バチカン公会議とその革新に対する反論を述べる機会が与えられるべきであること、その必要があること、ローマ聖座はそれを聞くことを望んでいることを、明らかにされました。 

 教皇様、何度も言うようですが、私には教皇様の今年の全世界の司教たちへ手紙の中にあった「緊急アピール」が、耳にこだましています。人類の歴史の今の時点での本当の問題は信仰の問題です。

「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えると同時に、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです。」

 そしてこの信仰の維持のために、私たちに伝えられた信仰をそのまま維持するために、教皇様は聖ピオ十世会と対話をすることが必要であると考えられました。

 この世を創られた真の天主・三位一体に対する信仰、私たちを救うために人間となり十字架の苦しみを受け給うた天主イエズス・キリストに対する信仰をもう一度世界中に生き生きと息づかせようと教皇様は望まれておられるに違いありません。「永遠の命とは唯一の天主あなたとあなたがお遣わしになったイエズス・キリストを信じることです」と真理の御言葉は言われました。「全世界に行って私の教えたことを教えよ、信じて洗礼を受けるものは救われ、信じないものは滅ぼされる」と天主の御言葉は命じ給いました。天主から与えられた真理を隠し、信仰を自分の思いの通りに変えてしまい、或いは耳障りの良い相手の聞きたいと思うようなことだけを言うだけでは、本当の愛徳ではありません。都合が悪いことは無視するという態度こそが、今のヨーロッパの沈黙の背教を生み出したからです。


 教皇様、人類の歴史の今の時点での本当の問題である信仰が、この地上から消えて無くならないように、教皇様が最優先の最大の責務をよくお果たしになることが出来ますように、聖ピオ十世会は全力を尽くして協力いたします。

 聖ピオ十世会は、歴代の教皇様たちの教えをただ単に繰り返しこだまし、一、聖、公、使徒継承の代わることのないカトリック信仰を繰り返すことだけを願っております。

 ローマの委員会の方々に伝えたいと所望することは正にこれです。永遠のローマに忠実であること、永遠の聖座の教えに忠実であること、変わることのない真理に忠実であることです。この聖伝のカトリック信仰がもう一度、世界で燃え立つことを教皇さまはごらんになることをお望みであると存じます。私たちも正に同じことをひたすらに願っております。

 その心において、私たちの聖下のためにお捧げ申し上げた拙い祈り、2009年2月2日から復活祭まで、総計 4070 環、またそれ以前を合わせると、総計で、10209 環のロザリオを霊的花束としてお受け下されば幸いに存じます。

 教皇様の聖父としての祝福を私たちにお送り下さることを懇願しつつ

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の汚れ無き御心に教皇様がロシアを奉献するため:現在24051環のロザリオが集まりました

2009年11月13日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。

 2009年10月までの分で、11月13日現在の報告の総計はなんと 24051環です。寛大なご理解とすばらしいご協力に心から感謝いたします!
 ご報告を下さった愛する兄弟姉妹の皆様のお一人ずつに心からのお礼のメールを差し上げたいのですが、それも出来ずに失礼しております。ご容赦をお願いいたします。

 2010年3月25日まで、132日残っていますが、私たちの目標の12万環まではあと95949環が必要です。(ということは、毎日727環です!是非、お知り合いの方々にご協力をお願いしてください。よろしくお願いいたします。)

【報告】
Ave Maria!!

ロザリオの十字軍の第二回目の御報告を致します。
更に呼び掛けた結果、私の所属教区の神父様を含めての途中報告です。
ロザリオの環数は1182環(前回の報告は含まないで)となりました。
更に呼び掛けています。

【お返事】
 ロザリオの十字軍に参加して下さった神父様、そして多くの信徒の皆様、ありがとうございます。深く感謝いたします。天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
ロシアの奉献のロザリオのご報告をさせていただきます。
11月3日~11月7日14時現在(日本時間)
10環捧げました。

全能の父なる天主様、われらの主イエズス様、汚れなきみ心の聖母マリア様に対しまして、
ロザリオの十字軍に従軍させていただける恵みをお与えいただいたことを心より感謝申し上げます。
天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
ロシアの奉献のロザリオのご報告をさせていただきます。
11月9日~11月12日15時現在(日本時間)
10環捧げました。
今回はじめて、3つの玄義を通して、連祷させていただきました。
天主様の祝福が豊かにありますように!

【お返事】
 ロザリオの十字軍への従軍、深く感謝します。聖母の汚れなき御心は、私たちのつたない貢献に対して、多くの報いを下さると固く信じております。天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
トマス小野田神父様

先週11/1から11/8迄、8環です。

病院へ知人のお見舞いに行き、なぜだか病状が悪化している患者が何人もいるのに気付きました。何が原因だろうか?と見ていると、食事がワンパターンで美味しいとは言えず、食欲がなくなり、食べないので体力も回復力もないとわかりました。

なんという病院なのだろうか?費用の安い病院でもないのに。聞いたところでは経営難で、外部から経営コンサルタントを入れて改善をしているようです。しかし、その改善とやらが、職員賃金カットや安いリネンや備品を使うというお粗末な指導なのです。そんなことは主婦でもやっています。ろくに働きもしない医者を抱え過ぎていて、その医者達に余計な給料払うのが間違いです。食材費用までケチケチして、患者が悪化する病院なんて聞いたことがありません。

【お返事】
 入院している方々にとって唯一の楽しみは食べたりすることぐらいしかない場合もありますよね。特に若い方々にとっておいしい食事をよく摂って早く元気になっていただきたいですね。


【報告】
アヴェ・マリア

トマス小野田神父様
おはようございます。先月のロザリオは93環です。聖母の汚れなき御心へお預けください。

【お返事】
 ロザリオの祈り、感謝しています。

【報告】
小野田神父様

こんばんは
先週は、二環捧げました。
累計、三環です。
ご報告メールは、どのくらいの頻度で差し上げれば宜しいでしょうか?
宜しくお願い致します。

【お返事】
アヴェ・マリア!
こんにちは。
ロザリオの十字軍のご報告をありがとうございます。お礼が送れてしまい失礼いたしました。ご報告メールは、もし差し支えなければ、一ヶ月分まとめてご報告して下さると、私の方も計算漏れなどがなく大変助かります。

よろしくお願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!


【報告】
トマス小野田圭志神父様

十主の平安
アヴェ・マリア

聖なるロザリオです
*マリア   57環
*マリア    5環(書いていた用紙が見つからないらしく、追加は11月分にプラスすると言っています(^-^))
*ステファニ       11環
以上です(*^_^*)

【お返事】
 11月分を楽しみにしております。(^^)v

【報告】
トマス 小野田 神父様
お元気でお過ごしでしょうか。

 ロザリオ、10月は105環です。

 フィリピンの台風被害の復興の進み具合はいかがでしょうか。
 韓国での御聖体行列の写真を拝見しました。新しい聖堂ができて皆さまお喜びでしょう。
 神父様、右耳に黒いガードをつけておられますが、医療用の器具ですか?
 耳が不調の時、声を出すとご自分の声が響いて、お辛いと思います。
 どうぞあまりご無理をなさいませんように。
 聖ピオ十世会と神父様のためにお祈りさせていただきます。
 どうぞお身体お大切になさってください。

【お返事】
 フィリピンでは、ラグーナ地方ではまだまだ復旧が続いています。
 韓国では、東大門の近くの新しい聖堂に移転してから初めての御聖体行列で、大変嬉しく思っております。右の耳の黒いものは、実は、拡声器のマイクです。ご心配をおかけしました。最近は、以前は聞こえなくなってしまっていた左の耳が聞こえるようになっております。天主に深く感謝いたします。

+ + +


【お祈りのお願い】

 ブログ☆聖なる鼓動☆さん、
 倒産寸前で持ちこたえている会社で、一生懸命お仕事をされて会社を支えておられますが、また眼底出血で、今度は前回よりひどく、お仕事が手に着かないそうです。
 「心は平和ですがルルドの水さして聖ルチアに祈っています。聖ヨゼフにノベナ祈ってます。気がついた時でもお祈りください。」とのことです。
 心配です。さぞかしご不自由だとお察しします。専門医の良い治療と良い医薬を受けるお恵みが与えられますように!
 愛する兄弟姉妹の皆様も、是非、☆聖なる鼓動☆さんのためにお祈りをお願いいたします。
 また、☆聖なる鼓動☆さんのブログ・ランキングをクリックして励まして差し上げて下さい。


+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】ファチマとロザリオの十字軍


天皇陛下御在位20 年

2009年11月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年は、天皇陛下が1989年1月に即位して20年になり、天皇賞皇后両陛下ご成婚50年となるそうです。1990年11月12日に即位の礼が行われました。昨日は、御在位20年記念式典が行われたそうです。

 天皇皇后両陛下のご健康とお幸せ、私たちの主イエズス・キリストからの特別な御恵みを心からお祈り申し上げます。

教皇聖下、諸聖人の祝日おめでとうございます。霊的花束です (3)

2009年11月07日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇様への霊的花束をお捧げするためのお手紙について、私の頭の中を駆けめぐった内容で、下書きにもならない単なるメモ的な草案というか独り言の続きです。

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教皇様、

 今年、日本のカトリック中央協議会は次のような緊急アピールを発信しました。教皇様が、聖ピオ十世会の司教さまたちのいわゆる「破門」が無効であることを宣言した一週間前のことです。

 教皇様はもしかしたらお読みになったことがないかもしれませんので、以下に内容を引用するのをお許しください。


-----------2009いのちを守るための緊急アピール--------------


日本のカトリック教会の皆様へ

  2008年の後半、アメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融危機は、世界的な経済危機に発展してしまいました。日本でも自動車工場をはじめとする多くの工場や企業で経営状態の悪化による減産・事業縮小が進められ、従業員削減、特に大量の派遣労働者の派遣切りや期間労働者の雇い止めが、連日テレビや新聞で報じられるようになっています。今回の失業者は若い世代の人が多く、短期雇用で失業保険の対象にもならない場合もあり、非常に厳しい状況に陥ってしまう人が少なくありません。また、状況が日々、急激に悪化しているのも特徴的です。日本各地の野宿者の数は2008年秋以降、増加していますが、この事態は2009年に入りさらに深刻化すると予想されます。また日本の自死者は1998年3月以降、急増しましたが、それはまさに多くの企業が経営破たんした 1997年度の年度末のことでした。今回の危機はそのとき以上ではないかと危惧されています。これらの現実はわたしたちキリスト信者にとっても決して他人事ではないはずです。

 この緊急事態にあたり、日本カトリック司教協議会社会司教委員会は、多くの人がいのちの危機に直面しているということを訴え、今、特にその最悪の結果である「路上死」と「自死」を出さないためにわたしたちに何ができるか、教区・小教区・修道会・信徒の団体で考えていただきたくこのアピールを出すことにしました。
 残念ながらいまだに失業者や路上生活者に対する差別偏見は根強く残っています。今回の派遣切りなどによる失業者の問題が顕在化する以前から、働きたくとも職がなく路上生活を余儀なくされていた人々を「怠け者の自己責任」として切り捨てる風潮がありました。しかし、野宿せざるを得なくなった状況はどちらも同じであり、合わせて支援しなければなりません。

 去る12月、世界人権宣言発布60周年にあたって、日本の司教団は人権メッセージを発表しました。「(人権についての)今日の危機的局面を打開するためには、そのすべての要因を一つ一つ根気強く取り除いていく必要があります。そのためにわたしたちは、貧しく弱い立場に追いやられ、大切な人間関係を断たれてしまっている人々、人間らしい生活が損なわれ、あるいは妨げられている人々の側に立って、この世界を見ていかなければなりません。」との司教団の呼びかけに今こそ応えていきましょう。

 すでに各地で、雇用停止となった外国人労働者への支援や、野宿を余儀なくされた人々のための炊き出し、夜回り、医療・法律相談活動など、また派遣切りによって仕事も住まいも失い、路頭に迷った人への緊急避難所提供等々の対応をしている方が大勢おられることを知っています。その働きに感謝するとともに、さらにより多くの方々がその活動に参加・協力されるよう願っています。

 今回の事態は、わたしたちカトリック信者だけで解決できる事柄ではありません。本来、貧しい人々の最低限の生活を守る責任は政府や行政機関にあります。行政が本来対応すべきことを速やかに施策するように市民として求め、働きかけることは支援のひとつとなるでしょう。しかし同時に、行政の対応を待ちきれずに、各地でさまざまな市民団体がこの問題に対して取り組みを始めています。それらの団体と連携を取り、それらの団体に協力することも大切な働きです。また、どこに行けば相談でき、適切な支援が受けられるかという正確な情報をできるだけ得ておくことも役に立ちます。たとえば、自死に至る要因としての「うつ病」「経済的行き詰まり」「孤立」などの問題に対して、本当は対応できる機関や窓口があるのに、追い詰められた人にはなかなかそれが見えないからです。

  カリタスジャパンとしては、今回の事態のために募金を行い、これらの支援活動を後押しする援助を予定しています。

 どうかすべてのカトリック信者が、祈り、献金、活動など、どのような形であれ、いのちを守るための働きに参加してくださいますよう、切にお願い申し上げます。


   2009年1月13日
日本カトリック司教協議会社会司教委員会
委員長 見三明(長崎教区大司教)
副委員長・日本カトリック正義と平和協議会担当司教
松浦悟郎(大阪教区補佐司教)
日本カトリック難民移住移動者委員会委員長
谷 大二(さいたま教区司教)
カリタスジャパン責任司教 菊地 功(新潟教区司教)
カリタスジャパン担当司教 幸田和生(東京教区補佐司教)
日本カトリック差別人権委員会委員長
平賀徹夫(仙台教区司教) 

-------------------------


 教皇様、このアピールによって、「すべてのカトリック信者が、祈り、献金、活動など、どのような形であれ、いのちを守るための働きに参加」することを日本の司教たちはカトリック信者に要請しました。

 何故このアピールがあったかというと、 世界的な経済危機により、従業員削減、大量の派遣労働者の派遣切り、期間労働者の雇い止め、若い世代の多くの失業者、状況が日々、急激に悪化。日本各地の野宿者の数の増加、自死者の急増が予想されたからです。「路上死」と「自死」を防ごうとしたのです。

 特に、日本の司教団は2008年12月に人権メッセージを発表しました。そこで「わたしたちは、貧しく弱い立場に追いやられ、大切な人間関係を断たれてしまっている人々、人間らしい生活が損なわれ、あるいは妨げられている人々の側に立って、この世界を見ていかなければなりません。」と呼びかけたのでした。

 司教たちは、今回の事態は、わたしたちカトリック信者だけで解決できる事柄ではないこと、また、本来、貧しい人々の最低限の生活を守る責任は政府や行政機関にある、カトリック教会の責務ではないとしながらも、命を救うために乗り出し、日本のカトリック教会の全てに呼びかけたのでした。


 教皇様、 もちろん、命の危機に脅かされた人々を助けるのは、大変すばらしい愛徳のわざだと思います。何故なら、「天主様は全能だから私たちが何もしなくても、自然に金融危機も経済危機も収まることだろう、だから何もせずにいればいい」というのではなく、私たちが出来ることをして助けることを天主がお望みになるからです。だから、各地で、雇用停止となった方々への支援や、野宿を余儀なくされた方々のための炊き出し、夜回り、医療・法律相談活動などするのは素晴らしい大きな愛徳の業だと思います。たとえそれが私たちの責務ではなかったとしても。

 教皇様、私には教皇様の今年の緊急アピールが、耳にこだましています。教皇様は、人類の歴史の今の時点での本当の問題は何かをこう断言してくれました。

「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えるとどうじに、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです。

 信仰を消さないように守ることが「最高で基本的な優先課題」と教皇様は言いました。

 教皇様、何故教皇様がこのアピールをしたかというと、 世界的な信仰の危機により、大量のカトリック信徒の方々が信仰を失い、司祭が司祭職を放棄し、召命が無くなり、若い世代の多くが信仰を失っているという状況が日々急激に悪化しているからです。

 教皇様は、世界中で教会でまともなカトリック信仰生活を送ることが出来ずにいわば「野宿者」の様になっている方々の数が増加、離教、棄教が急増していることをご存じだったからです。教皇様は、信仰のいわば「路上死」と「自死」を防ごうとしたのです。

 そこで、日本の司教さまたちに倣って、教皇様のアピールに従って次のような緊急アピールを考えてみました。

----------超自然の信仰を守るための緊急アピール----------


日本のカトリック教会の皆様へ

 20世紀の後半、第二バチカン公会議に端を発した公会議後の改革は、世界的な信仰の危機に発展してしまいました。

 ヨーロッパについてはヨハネ・パウロ二世が「沈黙の背教」と呼び、ベネディクト十六世はカトリック教会全般について「沈みかけている船」と表現しています。

 日本でも世界のどこでも、司祭および修道者の召命不足のために、小教区の統廃合、修道院の事業縮小が進められ、以前カトリック国家と言われた国々では、大量のカトリック信徒の棄教や離教がテレビや新聞で報じられるようになっています。

 また信仰の喪失者は若い世代の人が多く、短期で信仰を喪失してしまう場合もあり、非常に頑固な無神論に陥ってしまう人が少なくありません。また、状況が日々、急激に悪化しています。

 これらの現実はわたしたちカトリック信者にとって決して他人事であってはなりません。この緊急事態にあたり、ローマ教皇様は、「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えるとどうじに、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです。」と訴えました。

 信仰のいわば「路上死」と「自死」を出さないためにわたしたちに何ができるか、教区・小教区・修道会・信徒の団体で考えていただきたく、教皇様の「最優先課題」に応じるためにこのアピールを出しています。

 残念ながらいまだに聖伝のミサや聖伝のカトリック信仰に対する差別偏見は根強く残っています。

 今回のベネディクト十六世が聖伝のミサが自由であること、また、口で跪いての聖体拝領のみをすることを望んでいることを態度で示す以前から、聖伝のミサを捧げたくとも、また、口で跪いての聖体拝領をしたくともそれをすることが許されなく、いわば教会に行ってもカトリック信仰生活を送ることができず「路上生活」を余儀なくされていた人々を「不従順の自己責任」として切り捨てる風潮がありました。教皇様が聖ピオ十世会に目をかけたが故に、聖ピオ十世会に歩み寄ったが故に、教皇様が受けた憎しみと迫害、非難の罵声は、悲しいかな、カトリック教会全体が今もっている、カトリック教会の過去と聖伝に対する憎しみの表れでした。

 しかし、「野宿」せざるを得なくなった状況は聖伝を守ろうとする人々の不従順ではなく、このような不当に取り扱われている人々を支援しなければなりません。

 教皇様は、聖伝の信仰生活ができず路頭に迷ったカトリック信徒の方々への緊急避難所を提供するなどの対応をしてくださったルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の司教様たちとに感謝するとともに、さらにより多くの方々がその活動に参加・協力されるよう、教皇様が願っているはずだと思います。

 今回の事態は、カトリック平信者や司祭だけで解決できる事柄ではないでしょう。本来、カトリック信仰を守る責任は教皇様やローマにあります。しかし、私たち全てが、超自然の命と信仰を守るために乗り出す必要があります。

---------------------------


 教皇様、確かに天主様は全能ですから、聖ピオ十世会など無くても、聖ピオ十世会が何もしなくても、路頭に迷ったカトリック信徒の方々を助けることができることでしょう。しかし天主は、これを口実に、奇跡を待つだけで、私たちが何もせずに指をくわえていることを望まれません。私たちができる限り人事を尽くすことをお望みです。

 それは、天主様は全能だから私たちが何もしなくても、自然に金融危機も経済危機も収まることだろう、だからといって何もせずにいればいいのではなく、各地で、雇用停止となった方々への支援や、野宿を余儀なくされた方々のための炊き出し、夜回り、医療・法律相談活動などするのは素晴らしい大きな愛徳の業であるというのと同じです。

 教皇様、聖伝の信仰生活ができず路頭に迷ったカトリック信徒の方々への緊急避難所を提供するなどの対応をしてくださったルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の司教様たちとに感謝するとともに、さらにより多くの方々がその活動に参加・協力されるよう、教皇様は願っているはずだと思います。


(続く)

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初土曜日ですので、ファティマの聖母マリアの言葉をもう一度黙想することを提案します

2009年11月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、初土曜日ですので、ファティマの聖母マリアの言葉をもう一度黙想することを提案します。

「私の娘よ、私の御心を見なさい。それは棘で取り巻かれています。その棘で恩知らずの人々は冒涜と忘恩によって絶えず私の御心を突き刺しています。少なくともあなたは私を慰めるよう努めてください。そして私の名において次のことを告げ知らせてください。私は、償いをするという意向をもって引き続き5ヶ月の間初土曜日に告悔をし、御聖体を受け、ロザリオ5連を唱え、ロザリオの15の玄義を黙想しながら15分間私と共にいるすべての人に、救いのために必要なすべての恵みをもって臨終のときに助けることを約束します。」

5つの初土曜日は、5つの侮辱に対する償いとして捧げられる。

次の5つの冒涜に対する償いとして

聖母の汚れなき御孕りを否定する冒涜、

聖母が終生童貞であることを否定する冒涜、

聖母が天主の御母であることを否定する冒涜、

聖母の聖なる御絵、御像などになされる冒涜、

そして、聖母に対する無関心と軽蔑と聖母への憎しみを子供たちの心に植えつけようとする冒涜。


 良き初土をお過ごし下さい。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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教皇聖下、諸聖人の祝日おめでとうございます。霊的花束です (2)

2009年11月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇様への霊的花束をお捧げするためのお手紙について、私の頭の中を駆けめぐった内容で、下書きにもならない単なるメモ的な草案というか独り言の続きです。

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 教皇聖下、

 今年、日本では松本聖香ちゃんという9歳の女の子が、ベランダに出されて、親からいじめられ、ご飯さえろくに与えられずに、遺体で見つかったという事件がありました。聖香ちゃんは「お父さん」から、おまえなんか要らない、臭い、などと言われ続け、ご飯も食べさせてもらえませんでした。お父さん、お母さんと一緒に家にいたかったはずなのに、聖香ちゃんが、母親の昔の子供だったので受け入れてもらえなかったのです。

 隣人も先生も、大人はみんな、「お父さん」とお母さんが聖香ちゃんはよく嘘をつくと説明しているのだから、聖香ちゃんが悪いのだろう、聖香ちゃんが不従順なのだろう、聖香ちゃんの訴えよりも不登校の現実よりも、お母さんの説明を信じて、聖香ちゃんが悪いことにされました。

 新しくきた「父」にとって聖香ちゃんが邪魔でした。自分のものではなかったから。与えられた伝えられた子供だったからです。聖香ちゃんは「新しいお父さんに殴られた」と言っていました。「新しいお父さん」は聖香ちゃんを震える寒いベランダに出したり、ご飯をあげなかったり、また、ぐたぐたになって失禁している聖香ちゃんを殴ったりしました。

 緊急事態だから、必要の状態に迫られて、生き残るために、いくら新しいお父さんが学校の先生にいいつけたらあかんと言われても、先生に助けて!って言ったらいけなかったのでしょうか。

 一人でどうしていいかわからなくて、苦しみながら命を落としてしまいました。

 第二、第三の「聖香ちゃん」は、どうしたら良いのでしょうか!? 新しいパパからいじめられている「聖香ちゃん」たちから相談された場合、何とアドバイスしたら良いのでしょうか!? 自分がそんな境遇にあったなら、良いことをしているのに新しいパパやママから「おまえのような奴は、いなくなってしまえ」といじめられたら、どうしたら良いのでしょうか!?

 もし、松本聖香ちゃんに似た境遇の子供がいて、親から姦淫しろ、してはならないことをしなさい、と言われたらどうすれば良いのでしょうか。

 もしその子が、悪いことだから出来ない、と言ったために親からもしお前は子供ではない、出て行け、お前のような子供はいなくなれ、と言われてしまったら、どうすれば良いのでしょうか。

 学校の先生も、近所の人々、お友達も、その親に従って、皆がこぞってその子をいじめだして、仲間はずれにし、孤立化させたなら、その子はどうすれば良いのでしょうか。

 もしも親が子供に、不幸にして、児童ポルノや姦淫の罪を勧めたとしたら、たとえ「家族」や「平和」のためであっても、それに子供は従ってはなりません。そのような親の勧めに従うことは、本当の従順ではありません。

 もし、その親が対外的には、どこの家の子供でも好きだ、家に遊びにおいで、家の違いを超えて子供たちが集まろう、出会い、気づき、励まされよう、差別をなくそう、小さくされた人々を大切にしよう、外国人を受け入れよう、他宗教の人々を受け入れよう、個人の自由を大切にしよう、外国の子供たちを助けよう、などとたくさんのスローガンのもとに活躍中の活躍家の親で、しかし同時に、この子を差別し、受け入れず、無視し、排斥し、お前などうちの子供ではない、来るな、という対応をしたら、この子はどうすれば良いのでしょうか!?

 この親が、ソマリアで世界中の舟を攻撃して人命と財産を強奪する恐ろしい海賊についても、内戦で職を失ったソマリアの漁師たちの自己防衛だ、海賊が悪いのではない、と発言しているような親だったら、しかし、自分の子供が自己防衛をしようとすると、親子の縁を切る、赤の他人だ、子供としての一切の地位を持たない、家の中で合法的にご飯を食べることが出来ない、親子の完全な交わりのためには、自己防衛行為をせずに、親の指導が何であれ受け入れることが条件だ、と言うなら、その子は一体、どうすれば良いのでしょうか!?

 もしその子が、悪いことだから出来ない、と言ったために親からもしお前は子供ではない、出て行け、お前のような子供はいなくなれ、と言われてしまったら、どうすれば良いのでしょうか。

 学校の先生も、近所の人々、お友達も、その親に従って、皆がこぞってその子をいじめだして、仲間はずれにし、孤立化させたなら、本当に一人ぼっちになったら、その子はどうすれば良いのでしょうか。

 もしも、聖香ちゃんがいじめられるので家にいることが出来ず、家では食べさせてもらえないので、家の外で、仕方なく、野宿して飢えを忍んでいたら、聖香ちゃんは悪いことをしたことになるのでしょうか!?

 自分はぬくぬくと、いじめられることもなくやって来て、つらい思いをしたことがない方々には、聖香ちゃんの気持ちが理解できないでしょう。お前は異質細胞だ、お前など消えてしまえ、お前など邪魔だ、とか、カトリックであれば「お前などには御聖体もくれてやらんよ」、と足蹴にされたことがない方々には、どんなにつらいことか分からないことでしょう。本当の子供なのに、お前などはガンと同じだ、ガンのような異質細胞に家に居残られて蔓延するよりも、さっさと飛び出して離れて行ってくれ、と言われることは、どんな悲しいことでしょうか!

 聖香ちゃんは、ケーキ屋さんになりたかったそうです。きっと甘い生クリームのたくさん付いたケーキが大好きだったのでしょう。

 もしも、そんな聖香ちゃんが大好きなケーキ屋さんに遊びに行って(家には居場所がありませんから)、ケーキ屋さんでお手伝いをしたら、ケーキ屋さんのおじさんからお手伝いのお礼に大好きなケーキやご飯を食べさせてもらったら、聖香ちゃんは未成年なのに労働し、ケーキ屋のおじさんは未成年を働かせて搾取したとして労働基準法に従って裁かれ、聖香ちゃんは厳しく罰を受けなければならないのでしょうか!?

 それとも、聖香ちゃんは家でも食べさせもらえず、誰も食べさせくれず、餓死するのを待たなければならないのでしょうか!?

 法令は命を守るためにあるのではないですか? 警察も軍隊も、総理大臣も裁判所も、罪ない小さい国民を守るためにあるのではないでしょうか! 緊急事態なのに法令を守らせて殺してしまったなどというふざけた話があってはなりません。

 もしも、日本に聖香ちゃんみたいな虐待を受けている別の子供たちが何人も何人もいて、聖香ちゃんが困っているお友だちを助けてあげようと、この親切なケーキ屋のおじさんをお友だちに紹介したら、そして、この親切なケーキ屋のおじさんが困っている聖香ちゃんのお友だちを何人も何人も助けてあげたら、この親切なケーキ屋のおじさんは悪いことをしたことになるのでしょうか!?

 学校のお友だちが、みんな聖香ちゃんを仲間はずれにしたら、ケーキ屋で未成年なのに違法バイトをしている、不従順の不良だ、といじめたら、聖香ちゃんは何と言うべきでしょうか!? 学校の裏サイトでは、ボロクソに悪口を言われ、聖香ちゃんの名前を削除され、「私たちのサイトは、聖香とは関係ありません」と書き立てられたなら?!

 もし、聖香ちゃんの親が対外的には、どこの家の子供でも好きだ、家に遊びにおいで、家の違いを超えて子供たちが集まろう、出会い、気づき、励まされよう、差別をなくそう、小さくされた人々を大切にしよう、外国人を受け入れよう、他宗教の人々を受け入れよう、個人の自由を大切にしよう、外国の子供たちを助けよう、などとたくさんのスローガンのもとに活躍中の活躍家の親だったとしましょう。

 しかし同時に、この子を差別し、受け入れず、無視し、排斥し、お前などうちの子供ではない、来るな、という対応をしたら、この子はどうすれば良いのでしょうか!?

 自分の本当の子供には、厳しい不当ないじめをし罪を犯せと厳しい従順を命じて、赤の他人には、人間皆兄弟・自由だと言って親切にし助け、政府に訴えありとあらゆる奉仕をする、そんな親を持った子は、どうすればよいのでしょうか??

 もしも不幸にして、教会の指導者たちが、人間には他の神々に拝む権利がある、「人類」や「平和」のために諸宗教が一緒に不特定の神に祈ろう、と言ってもそれは私たちの主イエズス・キリストの教えではありません。そのような、イエズス・キリストの教えではない人間の教えに従うことは、真の従順ではありません。カトリック教会の過去2000年の聖伝を、教会が過去信じ愛し実践してきたことを、もう要らないやってはいけない、と言うような教会指導者は、教会指導者としての言葉を発していません。

 教皇様、

 2009年3月22日付の日本のカトリック新聞(第3996号)は、しかめっ面をして第一面のトップ記事は、聖下が「遺憾を表明」したと記事を書いています。

 また「教皇は・・・聖ピオ十世会が教会との完全な交わりに復帰するには第二バチカン公会議の受け入れが条件になると指摘した」としていましたが、教皇様は書簡の中でそうは言っていません。これは全くのウソでした。何故なら、教皇様はどこにもそうは書いてないからです。何故なら、教皇様はこう言っているからです。「このジェスチャーは該当者が教皇と教皇の牧者としての権威の原理を認めることを彼らが表明したことで可能だったのです。それは、たとえその教義上の権威と第二バチカン公会議の権威とへの従順について、留保をつけてであったとしてもです。」

 カトリック新聞の振りかざす正義である「第二バチカン公会議を受け入れる」とは、いったい何のことなのでしょうか? この条件がなければ、微笑んでもくれず、厳しい顔つきで睨まれたままで、教会内でいかなる発言権もなく、意見も言うことが許されず、会談も出来ず、ただ無視され続けなければならない、というその正義とはいったい何なのでしょうか?

 同じ2009年3月22日付のカトリック新聞(第3996号)の一面には、教皇様がイスラエルのユダヤ教主席ラビであるシャエルヤシュフ・コーエン師と笑顔で会談している写真が掲載されています。

 カトリック新聞は同じ紙面で、大きなニコニコ顔で、その隣に、「教派越え、神学生集う」「出会い、気付き、励まされた」という記事を載せています。

「プロテスタントと聖公会、カトリックの神学生に交流の機会を提供しようと、日本クリスチャンアカデミー関東活動センターは、3月9日から11日、東京三鷹市にあるナザレ修女会(日本聖公会)で、第一回「神学生交流プログラム」を行った」と、日本基督教団の関田寛雄牧師が「校長」となり、七つの神学校から二人づつ神学生が十四名集って「学びや意見交換を通じて親交を深めた」とあります。当初は不安もあったと言うが、最終日には「出会いの中で気づき、励まされたと喜びの声が次々に上がった」とし、「カトリックの宮内毅神学生は立場の違いを超えて交わる中での恵みは多く、「変えられること」の大切さを感じたと話した」と積極的で好意的な報道をしています。写真の説明に「最終日、率直な話し合いに笑顔も」ともあります。

 同じ2009年3月22日付のカトリック新聞は、日本キリスト教連合会定例会の報道もしています。日本キリスト教連合会は、2月26日、東京・西早稲田のキリスト教会館で2008年度第2回の定例会を開き、カトリック、プロテスタント各教派教団から20人余りが集まったとしています。

 カトリック新聞の振りかざす正義である「第二バチカン公会議を受け入れる」とは、いったい何のことなのでしょうか?

 この条件がなければ、微笑んでもくれず、厳しい顔つきで睨まれたままで、教会内でいかなる発言権もなく、意見も言うことが許されず、会談も出来ず、ただ無視され続けなければならない、というその正義とはいったい何なのでしょうか? しかし、カトリック教会とは全く無関係に機能し組織を持ち動いている、第二バチカン公会議なども存在しないはずの(?)プロテスタントや聖公会には、同じキリスト教だとニコニコ顔で、出会い、意見を交換し、励まされ、立場の違いを超えて交わることが許されるという正義とは、いったい何なのでしょうか?

 同じ2009年3月22日付のカトリック新聞は、「正平協ソマリア沖自衛隊派遣に抗議」という記事も掲載しています。

「日本カトリック正義と平和協議会(会長=松浦悟郎司教)は3月13日、アフリカ・ソマリア沖の「海賊対策」のための海上自衛隊派遣に反対、抗議する声明文を出した。声明は麻生太郎内閣総理大臣に宛てたもので、「海賊問題」は、内戦で職を失ったソマリアの漁師たちの自己防衛と、大国の海洋支配への反発が原因と指摘」とあります。

 それなら、日本のあらゆる教区の教会で(第二バチカン公会議の規定に反して)、司祭が自分の考えで、日本語で、典礼に何かを加え、除去し、変更し、手による聖体拝領を強制し、手作りの教会を作っているからこそ、また、決して廃止されたことのない聖伝のミサが事実上廃止・禁止されているからこそ、行く教会を失った日本の信者たちが、自己防衛のために、しかたなく、人々は生き残り作戦をとらざるを得なくなっているは、また、リベラリズムと進歩主義と団体主義とエキュメニズムと異端によって教会が支配されていることが原因で、信仰を守るためには、仕方なく、生き残り作戦をとらざるを得なくなっている現実は、どうなのでしょうか?

 教皇様、

 聖ピオ十世会の聖伝のミサに与る或る方は、以前ご自分の代父(のカトリック信者)にこう言われたそうです。「そんなにラテン語が好きなら、(聖ピオ十世会ではなく)聖公会に行けば良い、ラテン語で歌を歌っているから」と。

 教皇様はもうご存じのことでしょうが、2008年に聖ピオ十世会がルルドに巡礼を行おうとしていて時、毎年していた巡礼ですが、タルブ教区の司教はこの時は拒否をしようとしていました。しかし聖ピオ十世会には拒否すると同時に、英国聖公会の「主教」たちは自由にルルドで司式し、あるいは共同司式していました。カスパール枢機卿は、英国聖公会の「執事(助祭にあたる)」たちに囲まれてミサをし、その最中にカンタベリーの「大主教」が説教をしていました。

 日本では、大阪のカテドラルで、東京のカテドラルで、同じようなことが起こりました。カトリックの東京カテドラル聖マリア大聖堂を会場にして、今年9月23日に、日本聖公会宣教150年記念礼拝が開催されました。

 以前にも、1988年 1月6日には、カトリック東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、聖公会のヨハネ武田師の「主教就任式」が執り行われたことがありました。

 その他にも、例えば米国のセント・ルイスのカテドラルでは、1987年6月にルター派の「司教」1名の「任命式」が行われ、同1987年7月にはメソジスト派の3名の「司教」の「聖別式」が執行されています。

 日本では、今年の7月8日と9日に横浜で、日本プロテスタント宣教150周年の記念大会があり、長崎教区の見三明大司教もこれに参加したそうです、祝辞を述べたことが日本のカトリック新聞で紹介されていました。

 つまり、カトリック教会とは全く無関係に機能し組織を持ち動いている、第二バチカン公会議なども存在しないはずの(?)プロテスタントや聖公会には、出会い、意見を交換し、励まされ、立場の違いを超えて交わることが許され、カトリック教会が昔から2000年間信じ続けてきたことを信じ、愛し続けてきたことを愛そうというカトリック教会の息子たちは、教会内でいかなる発言権もなく、意見も言うことが許されず、会談も出来ず、ただ無視され続けなければならないという事実です。

 これは「自己矛盾」なのでしょうか? それともある意味における一つの論理に従って動いているのでしょうか?

 つまり、カトリック教会にとって、本当の友かつ味方は「カトリック教会とは全く無関係に機能し組織を持ち動いている非カトリック宗教」であり、カトリック教会の敵とは「カトリック教会の聖伝」であるという論理、事実上、もはやカトリックではない論理にしたがっているのでしょうか?



 教皇様、日本での悲しい事件に話を戻します。もし聖香ちゃんのお母さんが、内縁の夫から追い出され、暴力を受け、殴られ蹴られることを予測しても、子供を守ったら、そんなお母さんは責められるべきでしょうか!? 自分の夫に不従順だったと世間から白い目で見られなければならないのでしょうか!? それとも、夫が怒り狂おうとも、世間が村八分にしようとも、マスコミが騒ぎたてようとも、お母さんが子供を虐待から身をはって守ったなら、そんなお母さんこそが、誉められるべきでしょうか!?

 いえ、むしろ、お母さんが聖香ちゃんを守りかばってあげなかったなら、誰が出来たでしょうか!? 聖香ちゃんの「弟」が「姉」をお父さんからかばってやるのでしょうか!?

 ルフェーブル大司教様は、世間が怒り狂おうとも、マスコミが騒ぎたてようとも、聖伝のミサ聖祭を守り、ご聖体を守り抜いた司教でした。ご聖体を大切にするがためにいじめられていた信徒たちを守り抜いた司教でした。司教を義務を果たし抜いた司教でした。

 カトリックの司教が聖伝を守り、聖伝のミサ聖祭を守り、聖伝の信仰を守らなかったなら、誰が出来たでしょうか!? ルフェーブル大司教様のおかげで、私たちは今に至るまで、カトリック教会の聖伝をそのまま維持し続けることができているのですから。

 ルフェーブル大司教様という良き母のような司教がいなかったなら、今ごろ聖伝は虐待を受けて死に絶えてしまっていたことでしょう。

 教皇様、第二バチカン公会議後の「沈黙の背教」の今、教会が「沈みそうな船」に比較できるような現代、つまり「あたかも燃料となるものもなく消え尽きてしまおうとしている炎のように、この地上の広大な地域において信仰が消えうせてしまう危険がある現代において、・・・人間的水平線から天主が消え失せつつ、そして天主から来る光が減少するなかで、人類はその光を失いつつあり、同時に明らかに破壊的効果が増加している」この現代、カトリックの信仰を守りたいというカトリック信徒たちを見捨てることができなかった司教がいました。ルフェーブル大司教です。

 カトリック信徒たちの信仰の命を守るためだけに、ルフェーブル大司教様は、聖伝の信仰をそのまま信じている司教たち、私たちの主イエズス・キリストの建てたカトリック教会だけが唯一のキリストの教会だ、と信じている司教たち、聖伝の教えを信じる司祭を叙階する司教たちを、生き残るために、4名聖別しました。

 ルフェーブル大司教は、困ったカトリック信徒たちを見捨てることができなかったからです。カトリックの伝統的な信仰や実践を維持しようとする弱い立場にある信徒たちは、カトリックらしい信仰生活ができずに苦しんでいたからです。
「貧しく弱い立場に追いやられ、大切な天主との信仰関係を断たされてしまっている人々、カトリックらしい信仰生活が損なわれ、あるいは妨げられている人々の側に立って、この世界を見ていかなければなりません」とルフェーブル大司教様ならおっしゃっていたことでしょう。

 教皇様、ルフェーブル大司教様の遺志を継ぐ聖ピオ十世会の望みは、世界中でまだカトリックの信仰を持っている方々が聖伝のカトリック信仰に従った信仰生活ができるように緊急避難的に彼らを援助することです。聖ピオ十世会は、できる限りこの貴重な信仰の宝、聖伝の宝、特に聖伝のミサを多くの愛する兄弟姉妹に伝えたいと思っています。何故なら、カトリックの聖伝は聖ピオ十世会の独占物ではないからです。全カトリック教会の遺産であるからです。そして、カトリック信仰に反対する異端と誤謬に対して、警告の声を上げなければならないと思っています。つまり、聖ピオ十世会はカトリック信仰を守ることをのみ望んでいます。

 それとも、親から虐待を受けている「松本聖香ちゃん」を誰も救ってはいけないのでしょうか? 命を救うことは法に逆らうことになるのでしょうか?

(続く)

【関連記事】

【参考資料】「人権侵害救済機関の創設」について(けれど(Credo)さんの「聖と俗」雑感(12))

2009年11月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ブログけれど(Credo)さんは、「聖と俗」雑感(12)「人権侵害救済機関の創設」について深い危惧を表明しておられます。

 これが創立されたあかつきには、
超法規的な人権委員会が、令状なしに、非常に曖昧な定義の「人権侵害」をしたと疑われる関係者に出頭を求めて質問をすることや、
関係文書の提出を求めること、
関係する場所に立ち入り検査をすることなどができること、
日本全国で1万人もの人権擁護委員が人権侵害を救済するために調査活動すること、など、
人権侵害救済の名の下に、旧ソビエトのKGBのような組織となるだろうこと、を指摘しています。

 そして自民党の稲田朋美議員がYOUTUBEで人権擁護法案について反対意見を述べておられるのを紹介しています。

 稲田朋美氏は、カトリックの洗礼を受けた方だそうです。私の友人が、やはりカトリックの西村真悟氏から直接そのように聞いたと教えてくれました。

 カトリックの山谷えり子参議院議員と一緒に以前雑誌にクリスチャン政治家として紹介されていたことがあるそうです。山谷さんは聖心卒業のカトリックです。山谷さんが稲田さんを誘って参議院選挙に引っ張り出したのだそうです。(もともとは安倍さんが稲田さんに出馬を願っていたのですが、面識はあったものの直接出馬を願うという人間関係はなかったので、安倍さんの友達だった山谷参議院議員に稲田さんに出馬を要請したのだそうです。因みに稲田さんの後援会長は元上智大学の渡辺昇一教授だそうです。)


 カトリックの政治家の方々のご活躍をお祈りいたします。


天にまします我らの聖父よ、
願わくは聖名の尊まれんことを!
御国の来たらんことを!
御旨の天におこなわるる如く、地にも行われんことを!


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 14.2.3.異なるリーダーシップの特徴(1)

2009年11月06日 | ルフェーブル大司教の伝記
第14章 総長 防御の最後の試み
II. 掃除と改革

異なるリーダーシップの特徴(1)

 コレン(Koren)神父はルフェーブル大司教を次のように描写する。
「彼は印象的で、度胸があった。そして彼の顔は人の関心をそそり善意で輝いていた。彼は愛情に満ちていて最愛なる模範的リーダーだった。」

 マイケル・オカロル(Michael O’Carroll)神父は
「自己統制があり、礼儀正しく、温厚そのもので、会話においては非常に率直で、自分の考えていることを洗練された確実な立場を取って語り、それを非常に穏やかな声でする。」
と言った。

 彼に叙階された若い司祭は言った。
「愛想がよく、とても丁寧な物腰に隠れて、彼はご自分の考えについては堅固だった。」

 このことは、ルフェーブル大司教について警告されていた幾名かの若い同僚司祭や生徒たちには快くなかった。しかし彼らは、大司教が「非常に温厚で、親切であり、さらにとても穏やかに語る」のを見て、彼らが抵抗するのを必要する「魅力的な力」を実感するほどだった。

 全ての証言は、ルフェーブル大司教になされる反対がどのようなものであれ、それに微動だにせず、持論を曲げない頑固さを語る。

 コレンによれば、大司教は「穏やかな頑固な男」と定義された。

 ある人々はルフェーブル大司教の「頑なさ」の後ろに、個人的で時代後れの意見に対する執着がると非難した。「それはル・フロック(Le Floch)神父の下での養成が原因だ」と。つまり、ある人々によると「それはシャルル・モラスの影響だ」と。

 あらゆる反対に対して自身の考えを堅持する大司教の「恐るべき勇気」を認めつつ、マイケル・オカロルはこのように説明出来ると考えた。
「大司教は、他人の見解を理解することに困難を感じるほど、確信していた。それは彼の過ちではなかった。彼はそのような人間だったのだから。彼は自分が正しい事を確信していた。ルフェーブル大司教と議論する際、時には心理的問題があった」ほどだと。

 マルセル・ルフェーブルの不屈さはきちんと理由のあるものだった。実際に、彼の諸見解は、最も正統な聖伝に根付いていたからこそ非常に明白かつ創意に富んでいたのである。彼のもっとも個人の思想は、建設的熱意から来る刷新的な大胆さによる以外には、委任の日常生活を狂わせなかった。

 全く高潔で偏見のない人の多くは、ルフェーブル大司教のことを、偏狭な人間とは正反対の方であると認めた。開かれた、現実と人々とに注意を深くはらう人間である、と。
パリの会計係として大司教と働いていた一人の同僚は言う。
「何という長上だろうか、彼は!寛大で親切、高潔で公正な聞き手である。彼と働くのは楽しかった。彼の手中には、あらゆる事に対応する容易な解決策があったので、細部にわたり決して途方にくれず、私たちを励ます事を怠らなかった。」

 もう一人の聖霊修道会会士はこう証言した。
「彼は御自分の考えを如何に表現するかをご存知であり、自らの知性に秩序づけた事柄として具体的な事柄を把握している印象を与えていました。ルフェーブル大司教の知性は、見たところ矛盾しているようにさえ思える異なる計画のもとに、出来事の意味が要求し、大司教の掴むべき好機を正しく理解する能力が求めるやり方で、いつでも遂行する準備が出来ていた。」

 スイスの会計係のもう一人の同僚は、特にルフェーブル大司教が、自分のやり方における堅忍を語っている。
「人は大司教を「ビロードの手袋の中にある鉄の手」と呼んでいた。彼は決して屈服しなかった。行動の方針を一度決めると、その通りに物事の計画を開始した。」

 事に取り掛からせるときの時の彼の頑固さは、時に悩まし困惑させた。何故なら、この頑固さは、書斎の評論家たちを論破し、厚顔なリベラル派に反論し、これらの人間が何よりも間違っていることを説得したからである。リベラルな精神の悪癖に犯されていた不幸な者たちは、ルフェーブル大司教においてしばしば彼らが言うところの心理的な障害を感じた。しかし、それは原理をあくまでも認めようとしない人々に対して健全な精神の持ち主がする自然な反応でしかなかった。

 実際、私たちは原理の絶対的価値、又は原理の実践的有効性を否定する人とどうやって議論出来るというのか? そんなとき、大司教の機敏な直覚力は、どう見ようがあまりにも判りきっている真理について議論するのを嫌がらせた。

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第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出

II. 掃除と改革

教皇聖下、諸聖人の祝日おめでとうございます。霊的花束です (1)

2009年11月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇ベネディクト16世は、「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を、カトリック教会の全ての司教らに宛てて発表されました。

 それについて、日本では、2009年3月22日付のカトリック新聞(第3996号)に記事が掲載されました。それを見て、以前私は感想をすこし述べましたが、その続きを書くのをお許し下さい。

 今年一月に、司教さまたちの「破門」の無効宣言をしたベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの十字軍の祈りの数が、復活祭まで愛する兄弟姉妹の皆様から報告されてきて、2009年2月2日から復活祭まで、総計 4070 環となりました。 それ以前のロザリオの十字軍の数を合わせると、総計で、10209 環となりました! 

 私たちは教皇様への霊的花束としてそれを行ったので、教皇様にそれを捧げたいと思っていました。

 しかし、そうする時間的な余裕を今まで見つけることができず、霊的花束を教皇様にお捧げしていないのですが、カトリック新聞を読んだことや日本での出来事を考えるに付け、教皇様にお手紙でお伝えしたいことがいろいろと頭を駆けめぐりました。

 以下の文章は、私の頭の中を駆けめぐった内容であって、下書きにもならない単なるメモ的な草案というか独り言なのですが、そういうものとしてお読み下さい。

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教皇聖下、

 諸聖人の祝日おめでとうございます。

 私は、天主様のお恵みによって、今から十六年前にスイスのエコンで司祭の叙階を受けた聖ピオ十世会に所属する日本人のカトリック司祭です。教皇様もご存じのように、聖ピオ十世会はカトリック教会法典に従って今から39年前のこの諸聖人の祝日の日付で創立の認可を得ました。

 日本では、1988年6月30日に聖伝の生き残り作戦としてルフェーブル大司教様が執行した聖別は、緊急事態の必要性に迫られたもの故に、「破門」には全くあたらないのだから、これが公式に無効であると発表されるように、世界中の聖ピオ十世会のロザリオの十字軍と心を合わせて教皇様の為に霊的花束を6139環、準備しました。

 また、今年一月の「破門」の無効宣言をうけて、教皇様へ感謝として、日本では独自のロザリオの十字軍を組織し、復活祭まで4070環が集まりました。

 従って、教皇様、日本から集まったのは1万209環のロザリオの祈りですが、私たちの心からの感謝のしるしとしてこれをお受け取り下さい。

 教皇様、私たちは、カトリック教会法典(1917年)の第二一八条にあるように、
「首位権における聖ペトロの後継者であるローマ司教(Romanus Pontifex)は、名誉首位権のみではなく、全教会に及ぶ最高、且つ、完全な栽治権の権能を(supremam et plenam potestatem iurisdictionis in universam Ecclesiam)有すること、この栽治権は信仰と道徳および全世界に広まる教会の規律と統治に関するものであること、この権能は、全ての、且つ、個々の教会(omnes et singulas ecclesias)に対する、並びに、全ての、且つ個々の司牧者および信者(omnes et singulos pastores et fideles)に対する、真の司教の通常の且つ直接の(episcopalis, ordinaria et immediata)権能であり、いかなる人間的権威からも独立したものであること」
を固く信じています(カトリック教会法典においては、ordinaria を、よく「固有の」と訳すようですが、ここでは「通常の」としておきました)。

 従って、私たちは、教皇様が日本にいる私たち個々の信者に対しても、誰をも介さない直接の、通常(固有)の、司教としての権能をお持ちであるがゆえに、信頼の念を込めて、ここに私たちの忠孝の念を書き添えます。


 教皇様、私たちは、まず、教皇様が人類の歴史の今の時点での本当の問題は何かをこう断言してくださったことを感謝します。

「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えるとどうじに、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです。」

 教皇様、教皇様がおっしゃりたい信仰とは、数世紀にわたって宣言された信仰、正にカトリックの聖伝の信仰のことではないでしょうか。何故なら、教皇様はこうおっしゃっているからです。

「カトリック教会の教導の権威を1962年で凍結することは出来ません。 ---- このことは聖ピオ十世会にとっても明らかでなければなりません。しかしながら、自らを第二バチカン公会議の偉大な擁護者として宣言する人々の一部に、第二バチカン公会議がカトリック教会の教義の全歴史を包含していることを思い起こさせる必要があります。第二バチカン公会議に従順であることを望む人は、数世紀にわたって宣言された信仰を受入れなければならず、生きている木の根を切ることは出来ません。」

 教皇様、日本では、まさにこの数世紀にわたって宣言された信仰をそのまま受け入れようとしているが故に、私たち聖ピオ十世会はのけ者にされています。事実上「破門」されています。私たちを見るとあっちへ行け、こっちに来るな、シッシッと追い払おうとします。

 プロテスタントであれ、聖公会であれ、本当に離教のグループであれば、そして有効の叙階の秘跡を受けていない役務者とであれば、日本のカトリック教会は喜んで共同司式をし、共同の祈祷集会を開いています。カトリックではないのであれば、交流があり「出会い」「気づき」「励まされ」「立場の違いを超えて交わり」「変えられることの大切さ」が推進されています。

 カリタス・ジャパンでは毎年四旬節になると、人々の「叫び」を聞くといっていろいろな小冊子を作っていますが、例えば「同性愛者」その他の人々の言い分を聞こうとしています。

 しかし、聖ピオ十世会の聖伝のミサに与るということになると、カトリックはその瞬間に顔をしかめるように教育されています。インターネットのウェッブ・サイトであれば、リンクは削除され、聖ピオ十世会をカトリック教会の一部であると認めることを拒否し、メ-リング・リストに入会できないか、そこから除名されます。

 聖ピオ十世会を非難する以外は、少しでも「聖ピオ十世会」という名前を出したり、その発言を考慮したり、その主張を聞こうとする態度を持つことさえ許されず、聖ピオ十世会は発言権も機会も一切与えられていません。聖ピオ十世会の主張の内容に好意的に耳を傾ける内容であるなら、採用されず、ボツになります。

 自分はカトリックの保守正統だと自任する人々がそのような態度をとります。「聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れないからダメだ」と。

 カトリックの人々から、「第二バチカン公会議」の名前によって聖ピオ十世会は村八分にされ、聖公会などといった本当の離教よりも悪いものであるかのように取り扱われています。聖ピオ十世会の悪口は何でも言ってよいことになっています。事実無根でも、とにかく悪者にされています。数世紀にわたって宣言された信仰を繰り返し宣言し、それを受入れている私たちの信仰の故に。

 教皇様、プロテスタントであれ、聖公会であれ、仏教であれ、イスラム教であれ、ユダヤ教であれ、彼らは第二バチカン公会議を信仰箇条として受け入れているのでしょうか? 「第二バチカン公会議を受け入れないような人々」に対してでも、第二バチカン公会議を受け入れる人々は、全ての非カトリックのやっている宗教行為をよしとするのが、「第二バチカン公会議を受け入れる」ということのように思われます。

何故なら、教皇様、第二バチカン公会議にはこう書いてあるからです。
『現代世界憲章』92(すべての人との対話)
「教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。
 このためには、まず教会自身の中に、相互の尊重、尊敬、協調を盛んにし、すべての正当な相違を承認したうえで、一つの神の民を作っている司牧者もその他のキリスト信者も含めたすべての人の間に、常に実り豊かな話し合いを育てることが要求される。信者たちを分離する要素よりは一致させる要素の方が強いからである。すなわち、必要な事がらにおいては一致、疑わしいときには自由、すべてにおいて愛を重んじるべきである。
 われわれの心は、まだわれわれと完全な交わりの中に生きていないが、父と子と聖霊に対する信仰宣言と愛のきずなによって結ばれている兄弟たちとその共同体を抱擁する。今日、多くのキリストを信じない人々からもキリスト者の一致が期待され要望されていることを知っている。事実、この一致が聖霊の力強い働きのもとに、真理と愛のうちに進められれば、それだけ全世界にとって一致と平和の前兆は大きくなる。したがって、われわれは力を合わせて、このすぐれ目的を今日効果的に実現するためにますます適した形式によって、日増しに福音に従う者となるよう励み、こうして、キリスト・イエズスにおいて神の子らの家族となるよう召されている人間家族への奉仕のために兄弟的に協力するよう務めよう。
 次に、われわれの心は、神を認め、固有の伝統の中に高貴な宗教的、人間的要素を保っているすべての人に向かう。われわれすべてが、霊の勧めを忠実に受け入れて力強くそれに従う者となるために率直な話し合いが期待される。
 このような話し合いの望みは、真理に対する愛のみに導かれ、適当な慎重さを必要とするが、われわれの側からは何びとをも除外しない。また、人間の高い精神的諸価値を尊重しながら、それらの創造主を認めない人や、教会に反対する人、種々の方法で教会を迫害する人をも除外しない」と。


 教皇様、私は以前「教皇様の「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を読んで」という文章を書いて、第二バチカン公会議から少し文章を引用したことがあります。

 すると「第二バチカン公会議を受け入れている」カトリック信者と思われる方から、「第二バチカン公会議を認めていないのに、引用するなよ」「関係ない」「小野田さん。あんたらに、第二ヴァチカン公会議を語る資格はない」というような、非対話的なコメントが届きました。これが日本のカトリックの精神状態を如実に現しているように思われます。


 「聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れていないからダメだ」「俺は第二バチカン公会議を受け入れている」と口先では言うかもしれません。しかし、第二バチカン公会議の文章を読んだこともなければ、内容がどうなのか知らないようです。何故なら、たとえ、聖ピオ十世会がどれ程の最低の差別を受けなければならない部類の人であったとしても、自分たちが金科玉条とするはずの第二バチカン公会議には「このような話し合いの望みは、真理に対する愛のみに導かれ、適当な慎重さを必要とするが、われわれの側からは何びとをも除外しない。また、人間の高い精神的諸価値を尊重しながら、それらの創造主を認めない人や、教会に反対する人、種々の方法で教会を迫害する人をも除外しない」とさえ書かれているのですから。


 そして多くの善意の人々は、第二バチカン公会議に従ってミサが変わっていく、エキュメニズムがすすんでいくのを見て、ショックを受けているのです。


 もしも、本当に Conciliar Church と言われる「公会議後の教会」が「第二バチカン公会議を受け入れている」のなら、聖ピオ十世会の主張に何故耳を傾けようとしないのでしょうか? 聖ピオ十世会をのけ者にしようとするのでしょうか? 全ての宗教と全てのイデオロギーと全ての道徳はすべて許される、しかし、聖ピオ十世会だけはダメだという態度に何故なるのでしょうか? これが現実です。

 もしも「聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れることが条件だ、受け入れていないからダメだ」と主張するなら、同じ第二バチカン公会議の名前によって、聖ピオ十世会の主張に耳を傾けるべきです。否定と排斥をするためだけに、憎しみを植え付けるためだけに聖ピオ十世会の名前を引用すべきではありません。


 教皇様、現在、地上の広大な地域で、私たちの主イエズス・キリストに対する真の信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまうかのようです。

 私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、私たちの主イエズス・キリストが人々の水平線から姿を消し、また一方で私たちの主イエズス・キリストからの光が消えると同時に、他方で人類は、私たちの主イエズス・キリストへの信仰という方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ているということです。人々を私たちの主イエズス・キリストへの真の信仰と導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題です。

 私は、教皇様のお手紙をこのように理解しました。教皇様が言われる「聖書において語り給う天主」これは、三位一体の天主であり、私たちの主イエズス・キリスト以外の何ものでもないはずですから。これこそが「数世紀にわたって宣言された信仰」なのですから。
(続く)

【関連記事】

【参考資料】ミッテラン「社会主義プロジェ」と民主党「マニフェスト」

2009年11月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 三菱UFJ証券の藤戸レポート「ミッテラン「社会主義プロジェ」と民主党「マニフェスト」」のことを教えてもらいました。このレポートによると、ミッテラン「社会主義プロジェ」と民主党「マニフェスト」とはそっくりそのままとのことです。
 原因が同じであるならば、結果も同じであることでしょう。

 このレポートで言われているミッテランが1981年から実施した「社会主義プロジェ」というのは、いわゆる「共通プログラム(programme commune)」と言われるもので、「人間の人間による搾取の全ての手段を現実に完全に破壊すること、そのためには経済的民主主義の到来が措定される。この経済的民主主義の出発点は、生産と投資と交換の手段を集団所有物化することにある」がその理念です。

 ミテランの掲げた「共通プログラム」については、「皇帝の新しい旗 その6」の中でフランシスコ県知事に語せたことがあります。

 フランシスコ「つまり、『人間の人間による搾取の全ての手段を現実に完全に破壊すること、そのためには経済的民主主義の到来が措定される。この経済的民主主義の出発点は、生産と投資と交換の手段を集団所有物化することにある』ということだ。フランスの社会党、フランス共産党など左派の共通のプログラムとして1972年に署名された。そしてミテランは1981年の5月からこれを実行したが、結果は惨憺たるものだった。
 彼らによれば、不平等の根源は私有財産制度にある。だから、これを廃止させようと企んだ。
 新社会主義は、企業の運営や投資の指針あるいは企業計画など個人的な権力さえも、不平等の原因だかうら廃止を狙っている。
 労働者の、労働者による企業の自己運営(l'autogestion)、つまり自立だ。これを全てのレベルで、国の単位で、全国民による国民経済の自立といわれる共同運営を求めた。
 平等のために、社会主義はさらに富の再分配と所得の再分配を求める。不平等の根源であるものを廃止する。つまり、市場の廃止だ。それに伴ってカネの廃止だ。できることなら人間の心から「利益」という概念さえも排除させようとするだろう。彼らは利己主義を捨てて、共同の利益で活きることになるだろう。つまり、共生(convivialité)だ。社会主義の理想である共生社会(la société conviviale)が出現するだろう。これは、元カトリック司祭で社会主義者であったイヴァン・イリイチの主張だ。
 「自立と共生」のスローガンの元に、個人の手から所有財産や営業権を取り上げ、人民の名前において全ての力を国家に与えようとしたのだ。
 国家は唯一の所有者として、唯一の権力者として、国の富を経営し、運用し、全ての経済活動を行うことになっていた。むやみやたらな投機もなくなり、人間を奴隷化する最大利益の追求もなくなり、需要供給のアンバランスもなくなり、過剰競争もなくなり、国家の完璧な経済運営が期待された。そして巨大な国家テクノクラートたちが生まれた。
 しかし、超金持ちはそのまま残った。中小企業だけがコントロールを受けて成長が止まってしまった。集団化とインフレで、超金持ちは豊になり、社会主義による財産の再分配にはずれた人々はますます貧しくなっていった。
 社会主義は、スウェーデンでも失敗している。ユーゴスラビアでもそうだ。」

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【関連記事】

聖母の汚れ無き御心に教皇様がロシアを奉献するため:現在22568環のロザリオが集まりました

2009年11月03日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。

 2009年10月までの分で、11月3日現在の報告の総計はなんと 22568環です。寛大なご理解とすばらしいご協力に心から感謝いたします!
 ご報告を下さった愛する兄弟姉妹の皆様のお一人ずつに心からのお礼のメールを差し上げたいのですが、それも出来ずに失礼しております。ご容赦をお願いいたします。

 あるご夫婦からは303環のご報告をいただきました。ありがとうございます。
 また、別のご夫婦はエクセル・ファイルを送ってくれ、五人の子供達のロザリオの分も含めて、1451環のロザリオを報告して下さいました。本当にありがとうございます。

 小野田神父の10月分は、93環でした。11月はもっと頑張ろうと思っています。

 2010年3月25日まで、142日残っていますが、私たちの目標の12万環まではあと97432環が必要です。(ということは、毎日686環です!是非、お知り合いの方々にご協力をお願いしてください。よろしくお願いいたします。)

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
ロシアの奉献のロザリオのご報告をさせていただきます。
10月31日~11月2日18時現在(日本時間)
10環捧げました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
Ave Maria !

神父様お元気ですか?私達は元気です。
10月分のロザリオ十字軍のご報告です。 今月は、236本お捧げいたします。
11月は死者の月なので、煉獄の霊魂のためにもたくさんロザリオをするようにがんばります!
お体にお気をつけ下さい。では

【報告】
主の平安。小野田神父様、十月分のロザリオの報告をいたします。

フランシスコ    31環
テレジア     262環 

以上です。

【報告】
A FOX 報告

前回の報告からまともに祈ったと、自分が納得できるのは20環ぐらいです。
あとは、御母に判断をゆだねます。(^^A

【報告】
アヴェ・マリア!
 10月のロザリオの報告です。112環お捧げいたしました。

 お体にお気をつけて。毎日お祈りいたしております。

【報告】
+J,M,J, Ave Maria ☆!

小野田神父様、こんばんは。
今日は諸聖人の大祝日おめでとうございます。
聖母の汚れなき御心の凱旋のために、ロザリオの十字軍の意向で
つなたくも唱えましたロザリオの報告をいたします。

10月分として
テレジア・・・140
マリア ・・・233
マリア ・・・123
マリア  ・・・45
ルルド ・・・132
ファチマ ・・・22(←今月から参加してくれました!)

ルルドさんは、Youtubeのロザリオ十字軍「償い」を何度も観ているうちに、
金曜日に小斎(未信者でありながら)をお捧げするだけでは、まだ足りないと思ったらしく
◇大好きなジュースをやめること。
◇更に、今までお腹いっぱいになるまで食べていた食事を、満腹になる前でやめること。
を聖母マリア様にお捧げいたします。
とのことです。(来年の3/25までがんばるそうです。)
「ちょっと考えると、このような犠牲をお捧げすることは、自分の力ではできないそうにからロザリオをマリア様にお祈りしたら、できるように助けていただけるかな・・・?」
と思いながら決心したそうです。

ファティマさんも、10月の大阪の御ミサの翌日から、今日まで1日も休まず、仕事を終えてから、我が家に来てくれて、公教要理の御勉強をしています。1週間するかしないかで、ロザリオも唱えるようになりました。今では立派なロザリオ十字軍戦士です。
毎日、ロザリオの祈りの力に感動しています。
ロザリオの聖母に感謝いたします。

ブログに掲載くださった韓国の御聖体行列のお写真を拝見しました。とても羨ましいです。
日本でも、秋田、東京、大阪で御聖体行列をしたい!です。
韓国の信者さんのお手紙にあるように、天主様の後ろについて行進することは
いかに誇らしいことか。と思います。
御聖体行列で、天主イエズス様が行進なさると、お通りになる街では、教会に来ることのない
未信者も御聖体のイエズス様にお会いすることができるよね。と家族で話しております。
行列する街の全ての人が御聖体のイエズス様に平伏す日が、一日も早く到来いたしますように!
聖母の汚れなき御心の凱旋の日が、一日も早く到来いたしますように!

天主の御母なる聖母マリア様、小野田神父様のご健康・ご活動をお護りください。
無原罪の御宿りなる聖母マリア様、御身の汚れなき御心の凱旋のため、
ロザリオと犠牲、徳の花を日々お捧げできますように御力をおあたえください。
また十字軍参加者をお与えください。
私たちの本当の母なる愛する聖母マリア様、弱き罪人なる私達のために祈りたまえ。
天国の諸聖人よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
トマス小野田圭志神父様

十主の平安
アヴェ・マリア

諸聖人の大祝日おめでとうございます


10月分の聖なるロザリオです

*パウロ夫妻   63環
*ヨゼフ    106環
*マリア    508環
*エリザベト   93環
*テレジア    91環
*マリア     36環
*マリア     52環
*マリア     28環
*バルナバ     3環
*グアダルーペ  31環
*セシリア     9環

【報告】
アヴェ・マリア!
ロザリオをご報告いたします。
9月~10月まで144環でした。よろしくお願い致します。

本日、諸聖人の祝日でしたが、ミサ聖祭でお祝い出来なくて大変残念に思っています。
主よ、我らに多くの聖なる司祭を与えて下さいますように。
私たちの聖なる神父様の上にご健康と力とお恵みが豊かにありますように、心から願っております。

【報告】
小野田神父様

†主の平安

10月はロザリオの月、例年どおり一日三環を主のご加護により、毎日捧げることができました。また、少し体調を崩し それを乗り切るために6環を祈りましたので、10月は99環を捧げることができました。

自分の為に祈っていたとき、人のために祈ると言うことに気付かされました。お恵みです。
その日 10/26は 台風の日でした。心臓の発作の中で発作が鎮まるように祈っていましたが、台風の風と雨がその時間に働いている人、家路に向かう人のことを考えさせてくれました。彼等のために祈ること、とても良い時間を過ごすことができました。

+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@深い感謝のうちにマニラにて

【関連記事】ファチマとロザリオの十字軍

グレゴリオ聖歌 続唱 ディエス・イレ Dies irae

2009年11月03日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は全ての死せる信者の記念を行いました。ミサ聖祭では有名なディエス・イレが歌われますが、その日本語訳をご紹介します。





Dies irae, dies illa
solvet saeclum in favilla:
teste David cum Sibylla.

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus!

Tuba mirum spargens sonum
per sepulcra regionum,
coget omnes ante thronum.

Mors stupebit et natura,
cum resurget creatura,
judicanti responsura.

Liber scriptus proferetur,
in quo totum continetur,
unde mundus judicetur.

Judex ergo cum sedebit,
quidquid latet apparebit:
nil inultum remanebit.

Quid sum miser tunc dicturus?
Quem patronum rogaturus,
cum vix justus sit securus?

Rex tremendae majestatis,
qui salvandos salvas gratis,
salva me fons pietatis.

Recordare, Jesu pie,
quod sum causa tuae viae:
ne me perdas illa die.

Quaerens me, sedisti lassus:
redemisti Crucem passus:
tantus labor non sit cassus.

Juste judex ultionis,
donum fac remissionis
ante diem rationis.

Ingemisco, tamquam reus:
culpa rubet vultus meus:
supplicanti parce, Deus.

Qui Mariam absolvisti,
et latronem exaudisti,
mihi quoque spem dedisti.

Preces meae non sunt dignae:
sed tu bonus fac benigne,
ne perenni cremer igne.

Inter oves locum praesta,
et ab haedis me sequestra,
statuens in parte dextra.

Confutatis maledictis,
flammis acribus addictis:
voca me cum benedictis.

Oro supplex et acclinis,
cor contritum quasi cinis:
gere curam mei finis.

Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
judicandus homo reus.

Huic ergo parce, Deus:
pie Jesu Domine,
dona eis requiem. Amen.

かの日は、怒りの日、
この世が灰燼に帰す日、
ダビドとシビラの証言の如し。

いかばかり恐ろしきたらんや、
審判者が来たり給うて
個々のことが厳格に裁かれんとするとき。

驚きのラッパは音を鳴り散らし、
各地の墓を通して
すべての者を玉座の前に集めんとせん。

死も自然も驚くなり。
被造物がよみがえる時、
審判者に答えんとせんがために。

書かれた本がさしだされん、
そこにすべてが含まれている本が、
それによりてこの世が裁かれる本が。

よりて審判者が玉座に座し給うとき、
何であれ隠されていたことは明らかにされ、
そのまま隠されて残るものは何も無し。

その時哀れな私は何をば言わんや?
如何なる弁護者を頼まんとするや?
義人さえほとんど安全ではなきその時に。

恐るべき御稜威の王よ、
御身は救われるべき者を無償で救われ給う、
憐れみの泉よ、我を救い給え。

思い出し給え、憐れみ深きイエズスよ、
御身がこの世の生を受けたるは、我がためなることを、
かの日に我を滅ぼし給うなかれ。

御身は我を探し求めて疲れ座り給い、
十字架を堪え忍び、贖い給うた、
かくなる苦労が無とならんように。

正義なる最後の審判者よ、
赦しの賜をなし給え、
決算の日の前に

被告として我は嘆き、
罪は我が顔を赤らる、
天主よ、こいねがう者を容赦し給え。

御身はマリア(マグダレナ)を赦し給い、
盗賊の祈りも聞き入れ給いし、
我にも希望を与え給いき。

我が祈りは相応しからず、
しかれども優しき御身、大目に取り扱い給え、
我が永遠の火に焼かれざらんがために。

羊たちの間に場所を与え給い、
牡山羊から私を分離し給え、
右側に置き給え。

呪われし者どもは辱められ、
激しい炎が加えられるとも、
至福者たちとともに我を呼び給え。

我ひれ伏し額づきて願い奉る。
灰の如く砕かれた心もて、
我が最期を計らい給え。

かの涙の日は、
灰からよみがえる日、
裁かれるべき被告なる人間が。

故に、天主よ、この者を容赦し給え、
憐れみ深き主イエズスよ
彼らに安息を与え給え。アーメン。

【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 14.2.2.掃除の結末

2009年11月03日 | ルフェーブル大司教の伝記
第14章 総長 防御の最後の試み
II. 掃除と改革


掃除の結末

  1963年の学年度初め、ルフェーブル大司教はオランダにあるジェメル(Gemert)にある大神学校を訪問し、同時に神学校校長、ルイ・ルディ(Louis Ledit)神父の辞任を受理し、一度に3名の教授たちを入れ替える事により、シュヴィリの二回目の「掃き掃除」を行った。“本当の粛清”とティボー(Thibault)神父がこれを表現した。同年の終わりに、「使徒的書簡 Summi Dei Verbum の中でパウロ6世教皇聖下が表現された懸念」を自分のものとし、大司教は教区長や大神学校校長と修練院院長たちに宛ててもう一通の書簡を書き、彼らにご自分の「総長としての重大な責務」や「神学校を立ち去る神学生らの数、修道生活を重要視する考えの欠落や司祭職に対する理解の不足などによって引き起こされる現在の懸念」を語った。
 幾つかの聖霊修道会修道院の間ではびこっていた状況について彼が描いた光景は私たちを驚かせるものである。

「権威の荒廃、抑制のない自由、あらゆる事を裁き批判する権利、謙遜の欠如、同僚に対して、権威者に対してさらに自身に対して敬意の欠落、服装・目くばり・読書・テレビにおける慎みの喪失 . . . ここから、個人的な深い敬虔の精神の欠如、ただ単に表面的な、集団の敬虔の精神しか持ち合わせていないことになる。聖伝を軽蔑すること。ラテン語やグレゴリアン聖歌を捨て去ること。スコラ哲学と神学を放棄すること、となる。」

長は何か効果的な手段を取ることをも計画した。それは特に「校長や修練長たちを援助する責任を有する訪問者たち」を派遣して、「本当の改心と復興をもたらす」ためだった。

 事実上この「援助」は計画され実行されたのだろうか? 1964年の学年度初めに、ルフェーブル大司教はシュヴィリの校長にジョージ・アンリ・ティボー神父を任名して、こう言った。

「彼は若く、頭も良いし、徐々に悪しき影響力をもった人を除去だろう。」

 これについて問われると、ティボー神父はとても正直に答えた。
私はこう尋ねた。「ルフェーブル大司教は貴方に指示を与えたのですか?」
「いいえ!大司教は私を信頼したのです。私は大司教さまを深く失望させたと思います。」

 私は質問を繰り返しました。
「大司教は教授たちに指示をあたえたのですか?」
「覚えていません。彼は信頼する方です。私は大司教やり方ではなかったやり方をして、彼を裏切りました。神学生達は私の兄弟であって部下ではないからです!」

 この率直な告白は、ルフェーブル大司教の試みた改革を失敗に終わらせた原因を示すものである。時々大司教はご自分の期待に裏切った人材を任命した。これが、かつてセビコタン(Sébikotane)で教授として知っており評価していた、シュヴィリのティボー神父であり、さらには、以前はモルテン(Mortain)で模範的な神学生であり、アンリ・バレ(Henri Barré)神父の辞職後フランス人神学校の校長に任命された、ローランド・バルク(Roland Barq)神父であった。

 大司教は、真の父親のように強く、司祭の養成が出来て、新しい神学と革命的教授法の大流行に抵抗する権威を行使することのできた彼らの能力を過剰評価したのである。彼らは大司教を失望させた。

-------------

第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出


II. 掃除と改革

【参考資料】10代の子供の中絶は、なんといま、世界で日本がいちばん多いのだそうです

2009年11月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんなブログの記事のことを教えてもらいました。びっくりしました。愛する兄弟姉妹の皆様にもお知らせいたします。

-----------引用開始-------------


10代の子供の中絶は、なんといま、世界で日本がいちばん多いのだそうです。
・・・産婦人科の先生から最近は、中学生の堕胎を月に4~5件、扱うという話を聞いて、びっくりしたことがあります。
それが、3年ほど前のことです。
・・・最近では、小学生の堕胎が増えているという。
しかも小学生の中絶は、子宮が破壊され、二度と妊娠できなる可能性が非常に高い。
世界193カ国の中で、中絶をこれだけ簡単に許しているのは、昨今の日本だけです。
公的報告件数だけでも、年間30万件です。
実際にはヤミ中絶がその3倍あると言う。100万件です。

「ねずきちのひろりごと」より

-----------引用終了-------------


 別にアメリカ人が日本人を殺そうとしたわけではなく、天主をこの世からなくそうとする、天主の無い世界を作ろうとするニュー・アトランティスのフリーメーソンの思想が、「自由」の名前のもとにこれを世界中に押しつけたのだと思います。何故なら、アメリカ国内でも堕胎に反対する人々(白人も黒人も)が、迫害を受けているからです。


 これは有色人種と白人との闘いではありません。天主とサタンとの闘いです。インマクラータといにしえの蛇との闘いです。


 堕胎によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っているのです。

 聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
 天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】