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聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂を、聖母の汚れなき御心に奉献する祈り(2019年5月19日更新)

2019年07月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪の「聖母の汚れなき聖心聖堂」では、2019年5月19日、主日のミサの後、特に5月13日のファチマの聖母の最初の御出現の日を記念して、ファチマの聖母行列を行い、最後には恒例の聖母の汚れなき御心に対する奉献の更新を行いました。5月は特に私たちの大阪の聖堂と大阪の信徒の方々の奉献(2017年7月13日に行った奉献)の更新でした。

二年前の7月13日には、御ミサ後に御聖体降福式があり、御聖体の前でロザリオを唱え、そのあとに大阪のお聖堂と、司祭や信徒たちとその家族をマリア様の汚れなき御心に奉献し、名前が書かれた紙を金のマリア様の汚れなき御心のペンダントの中にいれてマリア様の御像に安置しました。

東京でも7月16日(主日)に同様の儀式を行いました。

その時の奉献文を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

アヴェ・マリア・インマクラータ!


聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂を、
聖母の汚れなき御心に奉献する祈り

おお、聖母の汚れなき御心よ、イエズスの聖心の母にして、われらの元后にして母なる聖母よ!

御憐れみをたれて、この聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂に御眼差しを注ぎ給え。われらは御身に、忠孝の愛を示し、この荘厳な奉献によって御身に崇敬を表すことを望み奉る。

われら、聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の司祭、信徒は、御身にわれらの全てを、肉体も霊魂も、能力も感覚も、人生の全ての悲しみも喜びも、われらの持てる全てを、われらそれ自身を、われらが愛する全てを、御身にことごとく捧げ奉る。

汚れなき童貞女よ、天主の御母にして全ての人々の母よ、われらは御身の聖母の汚れなき御心に、われら自身とわれらの「聖ピオ十世会大阪・聖母の汚れなき御心聖堂」とを奉献し奉る。われらを御身の子供として受け入れ給え。

御身の汚れなき御心が、われら聖母の汚れなき御心聖堂の司祭、信徒らにとって、若きも老いたるも、健康なる者も病の者も、熱心なる者も罪を犯した者も、また将来の会員らにとっても、天主へと導く道とならんことを。

われらの愛する御母よ、われらを統治し給え。われらが豊かなときも貧しいときも、喜びの時も悲しみの時も、健康の時も病の時も、生涯に亘っても死後も、いつも御身のものたるために。

聖母のいとも憐れみにあふれる御心よ、童貞の元后よ、われらの心も精神も守り給え。御身はファチマにて、人々の傲慢や不貞潔や異教精神をいたく深く嘆き悲しみ給うたり。われらをして現代にあふれるこれらの洪水から逃れしめ給え。

今より後は、御身は当会の元后にして母なり。われらの霊的かつ物体的な善を世話し給え。われらの祈りを聞き給いて、この世の悲しみと困難の時、特にわれらの臨終の時にわれらに慰めを給え。

われらは、われらの家族、当「聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂」、われらの祖国、全世界に、正義と愛徳における天主の平和を呼び求め奉る。

われらは、われらの能う限り、御身の御助けにより、償いと改悛との精神をもって御身の諸徳に倣い、真のキリスト教的生活を送り、世間体を気にせずに、頻繁な改悛の秘蹟と御聖体の秘蹟を受け、典礼に敬虔に与り、公教要理を注意深く学ぶことを謹んで約束し奉る。

おお、聖なるロザリオの元后よ、われらはロザリオの祈りを毎日欠かさずすることを約束し奉る。

われらは、御身の助けを持って、キリスト教生活が私たちに要求する犠牲を全て受け入れ奉り、それらを御身の汚れなき御心により、御身の聖子イエズス・キリストのミサ聖祭の犠牲と一致して、イエズスの聖心に捧げ奉る。

美しい愛の母よ、われらの心に、また当会とわれらの家庭に、天主を愛する愛の火を燃え立たしめ給え。願わくは、この愛の火によりて、われらの身分上の努めに常に忠実ならしめ、天主の聖寵により、われらの模範と犠牲と祈りとを通して、われらの隣人と憐れな罪人たちに対する熱心な使徒とならしめ、彼らを真の信仰生活を送るように導くことができるようなさしめ給え。

願わくは、イエズスの聖心の御国が、御身の汚れなき御心の御国と共に、「聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂」とその全ての信徒らに来たらんことを。われらの元后にして母なる聖母よ、われらが御身を愛し御身に奉仕し、御身に真に奉献された生活を送ることにより、われらがついに至聖なる三位一体との永遠の至福に至るにふさわしき者とならんことを。アメン。

「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」


CONSECRATION OF THE CHAPEL OF IMMACULATE HEART OF MARY

O Immaculate Heart of Mary, Mother of the Heart of Jesus, our Queen and Our Mother! Look down with mercy upon this Chapel of Immaculate Heart of Mary, SSPX Osaka. We wish to show thee our filial love and to render to thee our homage by this solemn act.

We come to offer thee our whole being, body and soul, faculties and senses, our life with all its sorrows and joys, all that we possess, all that we are, all that we love.

O Immaculate Virgin, Mother of God and Mother of all men! We consecrate ourselves and our Chapel of Immaculate Heart of Mary, SSPX Osaka, to thy Immaculate Heart. Receive us as thy children.

May thy Heart be for all us priests, teachers and catechists, parents and children, young people, adult and elderly, healthy and sick, absent, present and fallen away the path that leads to God.

Reign over us, O Beloved Mother, so that we may be thine both in prosperity and in adversity, in joy and in sorrow, in health and in sickness, in life and in death.

O most compassionate Heart of Mary, Queen of Virgins, watch over our minds and our hearts and preserve them from the flood of pride, impurity and paganism of which thou didst complain so bitterly at Fatima.

From this moment, thou art named Queen and Mother of this Chapel. Look after our spiritual and temporal well-being, hear our prayers and console us in the sorrows and tribulations of this life and particularly at the hour of our death.

We want to call down upon our families and our Chapel, our country and the whole world the peace of God in justice and charity. On our part, we promise to imitate thy virtues in a spirit of reparation and penance by a true Christian life, by frequent confessions and holy Communions, by fervent participation in the divine Liturgy, and by attentive study of the catechism without regard to human respect.

O Queen of the Holy Rosary, we promise to offer thee the prayer of the rosary each day.

We accept now, all the sacrifices that a Christian life will impose on us, and we offer them to the Heart of Jesus, by thy Immaculate Heart, in union with the Mass of thy divine Son.

O Mother of fair love, inflame in our hearts, our Chapel and our homes, with the divine fire to keep us faithful to our duty of state and to become, with the grace of God, zealous apostles towards our neighbours and poor sinners by our example, our sacrifices and prayers, bringing them to the practice of the true Faith.

May the reign of the Sacred Heart of Jesus, together with thy reign, enter this Chapel of Immaculate Heart of Mary, SSPX Osaka, our Queen and Our Mother, so that living truly consecrated to thy love and service, we may one day deserve eternal happiness in the presence of the Holy Trinity. Amen.

My God, I believe, I adore, I hope and I love Thee! I beg pardon for those who do not believe, do not adore, do not hope and do not love Thee.

O Most Holy Trinity, Father, Son and Holy Ghost, I adore Thee profoundly. I offer Thee the most precious Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ, present in all the tabernacles of the world, in reparation for the outrages, sacrileges and indifference by which He is offended. By the infinite merits of the Sacred Heart of Jesus and the Immaculate Heart of Mary, I beg the conversion of poor sinners.


証聖者ゴンザガの聖アロイジオのミサ 説教 全世界の王であるよりも天主の子供であるほうがもっと良い。

2019年07月08日 | お説教・霊的講話
2019年6月21日(金)証聖者ゴンザガの聖アロイジオのミサ
小野田神父 説教


「ゴンザガの聖アロイジオ、我らの為に祈り給え。」


全世界の王であるよりも、天主の子供であるほうがもっと良い。
"It is better to be the child of God than king of the whole world." -- St. Aloysius Gonzaga
Photo Credit

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はゴンザガの聖アロイジオの祝日です。昨日は御聖体の大祝日でしたが、御聖体によって養われた、天使のパンを食していたゴンザガの聖アロイジオは、天使のパンによって天使のような聖徳を身に付けて、そして天に上げられました。若くして、24歳で亡くなりました。

そこで今日は、
⑴聖アロイジオの生涯を黙想して、
⑵遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴ゴンザガの聖アロイジオは、1568年に高貴な家庭に生まれました。イタリアの高位貴族フェルディナンド・デ・ゴンザガ侯爵(侯爵は公爵の次の位)の長男で、マントヴァの近くのカスティリョーネ城主の跡取りで、フィレンツェでの宮廷で9歳の時から仕えていました。ルネッサンス期のイタリアの乱れた風紀に対して、聖アロイジオは、すでに12歳の時には、フィレンツェで聖母の祭壇の前で貞潔の誓願を立てました。

聖カロロ・ボロメオに出会い、聖人の指導によって、初聖体も受けました。

1582年、スペインの王皇帝フィリップ2世の宮廷に仕えるしもべとして、またゴンザガ家の跡取りとして、スペインのマドリッドに宮廷生活を送るために送られました。

しかしゴンザガの聖アロイジオは、幼い時から罪の無い、汚れの無い生活を送り、それと同時に犠牲の生活、罪の償いの生活も送っていました。

そこで、宮廷での生活はもちろん、誘惑や面白おかしい事もたくさんあったのでしょうが、それを全て避けました。特にフィリップ2世の王女である、オーストリアのマリア皇后の顔は、好奇心を抑えるために一度も見た事がなかったそうです。

祈りに熱心で、5時間続けてお祈りしても、決して雑念が入る事がなかったと言われています。

イエズス会の聴罪司祭の指導を受けるようになって、「自分もイエズス会に入りたい」と思いました。17歳でマドリッドから帰ると父親にイエズス会入会の許可を願います。父は猛反対します。3年間父親を説得します。非常に困難な説得でした。しかし、父は長男の揺るがない決心を見て遂に入会の許可を与え、聖アロイジオは1587年にイエズス会に入会します。

入会前の1585年7月に、マントヴァという所で聖イグナチオによる霊操の修行をしていました。

ちょうどその時に天正遣欧少年使節が、中浦ジュリアンたちがヨーロッパにやって来ていて、ローマでグレゴリオ13世と謁見した後、帰路につきロレットの聖母の家に巡礼し、その後ロンバルディア地方にやって来て、7月にマントヴァに来ました。公爵を始めマントヴァすべてがお祭りで遣欧少年使節を大歓迎しました。

同じイエズス会のこの彼らが歓迎を受けているのを知って、ちょうど同じ所にいたのです。しかしゴンザガの聖アロイジオは、好奇心を抑えるために、犠牲としてそれを、会う事はしなかったのだそうです。しかしすぐ近くにいました。暑い7月でしたが、部屋にこもって祈りに専念していました。(*)

イエズス会の会員として、特に天主に対する祈りと、そして罪の償いの為の犠牲、そして愛徳の業に励みました。癩病が流行した時に、その看護の為に身を尽くして、看護して、遂に癩病にうつり、そして命を落とします。1591年6月25日の事です。24歳でした。
死の床に着いた時に、やはりイエズス会の功名な霊性の深い聖ロベルト・ベラルミーノの指導を受けて亡くなっていきました。聖ベラルミーノは、このゴンザガの聖アロイジオに対して、「この子は、生まれた時から一度も大罪を犯した事がなかった」と、その天使的な聖徳について証言しています。

今でもそのお墓はローマに、聖イグナチオ教会にあります。


⑵聖アロイジオの生涯は私たちに、一体何を教えているでしょうか?2つの事を私は訴えていると思います。

1つは、「どんなに身分が高くても、どんなに高貴な生まれであったとしても、そしてどんなにお金を持ってこの世で力があったとしても、天国に行く為には、罪の無い、謙遜な天主への愛と、罪の償いの生活をしなければならない、貞潔を守らなければならない、そして隣人愛を尽くさなければならない。そしてそれは生まれが高貴であろうが、生まれが卑しいものであろうが、全く同じである。」

「ゴンザガの聖アロイジオは幼くして、そして自分が高貴であるにもかかわらず、このこれが備わっていた。そして私たちにその必要性を教えてくれる、『時代がどんなもので、どこであれ、どこの国であれ、どんな生まれであれ、私たちはそれを、この罪のない生活、罪の償いを、汚れの無い生活を送らなければならない』」という事です。

第2には、私たちは集祷文にも言うように、そして聖体拝領後の祈りにも言うように、また密誦でも祈るように、私たちは、その今日の模範で、私たちの模範となってくれるゴンザガの聖アロイジオのような罪の無い生活には従う事ができなかったけれども、しかし少なくとも償いには、その跡を従う事ができますように。

同じ御聖体を、天使のパンを食べ、食する事が許される私たちですけれども、聖アロイジオは御聖体によって、天使のような純潔と聖徳の道を歩みました。私たちはそれに遥か遠いものですけれども、少なくともそれを見て、感謝の内に留まる事ができますように。

聖アロイジオは自分の生活を通して、天主の婚姻の服を、真っ白な服を着ていた、純潔の服を着ていたけれども、それの純潔の服には宝石が、真珠がたくさん付いていた。この真珠は、罪の痛悔の涙であって、私たちも少なくとも、その罪の痛悔の真珠を付ける事ができるように。

聖アロイジオにとって、皇后様のお顔を見る事はとても簡単だったかもしれないけれども、しかしそれさえも、罪でなかったかもしれないけれども、それさえも犠牲として捧げた。私たちはこの目を毒する多くのものがこの周りにありますが、聖アロイジオの模範によって、私たちもそれを避ける事ができますように。

そして聖アロイジオは、日本の遣欧少年使節をその時には、500年前は会って話をする事がなかったけれども、今では是非私たちの方に眼差しを向けて下さって、私たちの方に助けの力をのべる為に近寄って下さって、私たちに励ましと、応援と、特別の御恵みを下さるように、お祈り致しましょう。

特に現代、カトリック教会では色々なスキャンダルが報道されています。私たちには是非聖アロイジオのような聖徳を持つ聖職者や、そして信徒の模範が必要です。聖伝のミサの実りとして、御聖体の実りとして、皆さんと私たちも、私の生活が、聖アロイジオに遠いものですけれども、より少なく遠くなりますように。

そうする事によって、御聖体の実りが、ちょうど山の上にある街のように輝き出ますように、多くの方々がよりますます御聖体の御恵みによって聖徳へと導かれますように、ぜひゴンザガの聖アロイジオにお願い、お祈り致しましょう。

特に聖アロイジオはマリア様を通して貞潔の誓願を立て、そしてイエズス会に入会を決心しました。私たちもマリア様の御取次ぎによって、聖アロイジオに倣う事ができますように、お祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


(*) "Vie de Saint Louis de Gonzague, de la Compagnie de Jésus" par Virgilio Cepari, P. 78.

2019年6月2日(主日)御昇天後の主日のミサ 「聖霊の聖なる配偶者、浄配なる聖母」に対する祈りで聖霊降臨の準備をする

2019年07月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年6月2日(主日)御昇天後の主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2019年6月2日、主の御昇天の後の主日の御ミサを捧げております。

お知らせがあります。
このミサの後にいつもの通り、第一主日の聖体降福式があります。

それからその後、去年もそうしたように、マーチ・フォー・ライフの今年の為の招待の録画をしたいと思います。もしも皆さんもご参加して下されば嬉しくおります。特に小さなお友達が一緒にして下さると嬉しく思います。特に去年は多くのラテンアメリカの方々がたくさん参加されたので、その方々が参加する事ができるようにメッセージを呼びかけたいと思っています。

今日朝ミサの前に告解ができなかった方の為に告解もあります。

今日のお昼の後に、侍者の方の集いがあります。特に7月には荘厳ミサが予定されているので、それの準備の為の会合があります、よろしくお願いします。

16時頃からいつもの通り晩課があります。
6月と7月の予定については、皆さんこの配られたスケジュールをご覧下さい。



「私は、お前たちを孤児としては残さない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、

今日この御説教で、3つの点を申し上げたいと思います。

「この一週間をどのように過ごすべきか」という事が、私たちにとっての一番の関心事です。何故なら次の来たる主日は聖霊降臨だからです。
その為の遷善の決心を、その準備をどのようにしたら良いか、という事を一緒に黙想する事に致しましょう。

3点あります。

第1は、典礼の特別な恵みです。

有名なドン・マルミオンというベネディクト会修道院長は、色々な霊的な書物を書いています。その最も核心のメッセージは何かというと、「イエズス様は、その花嫁であるキリストの神秘体カトリック教会の典礼を通して、御自分の御恵みを、その典礼にふさわしい御恵みを与える。クリスマスならばクリスマスにふさわしい御恵みを、聖霊降臨ならば聖霊降臨の御恵みを、あたかも私たちが使徒たちがその時代に生きていたかのように、その御恵みを与える。だからその典礼暦に従って、典礼の精神に入って祈りと一致する事は非常にふさわしい事であって、イエズス様の御望みであって、教会が望む事である。」

では今日、一体、どのような典礼歴の時にあるのでしょうか?

先週の木曜日、私たちの主の御昇天でした。イエズス様が御自分の天主の力によって、天に上がられました。「使徒たちは」福音によると、「天をずっと見上げて、イエズス様の方を見上げていた」とあります。

ちょうどそれが主の昇天の精神でした。「私たちも心を天に上げて、私たちの遂に至るべき行くべき所は天にある。私たちの究極の家は、祖国は、帰る家は、天にある。天の永遠の幸せ、天のイエズス様との諸聖人との円居(まどい)をいつも憧れて、心を天に向けている。」これが御昇天の祝日の核心でした。

ところが福音の次を読むと、「天使たちがやって来て、『ガリレアの人たちは一体、天を見上げてポカンと何をしているのか。さぁ、主は今昇られたと同じように帰ってくる。さぁ、その準備をしなさい。』」と。

今日教会は天使の代わりに、天をずっと向いている私たちに、心が天に向けられた私たちに、「さぁ、主は帰ってくる。準備をしなさい、祈りなさい。“vigilate in orationibus.”」

聖パウロは言います、「祈りで警戒せよ。祈りにおいて、寝ずに番をしていろ」と、「常に目覚めて祈りをしていろ。」

“vigilate in orationibus.”
「祈れ」と私たちに招いています。


第2の点。では一体教会はどのように祈ろうと、何を祈ろうと勧めているのでしょうか?
それは、「聖霊が降臨する。イエズス様は私たちを一人では、孤児として親無しに残してはおかない。もう一度来る。」「私は行く、そしてまた来る。お前たちの元に来る」と言います。これがアレルヤ誦です。

福音を読むと、「私は聖霊を送る」とあります。聖霊はイエズス様の御名によって私たちに送られて、そしていわば言ってみれば、聖霊とイエズス様は一体です。同じ三位一体の天主でありますから。聖霊はイエズス様の御名によりて、目に見えない形で私たちの元にやって来ます。

イエズス様は私たちに御聖体の形でも留まります。そして目に見えない聖霊の形でも、私たちに与えられます。「洗礼を受けた者には、聖父と聖子と聖霊が住まわれる」という事です。

御聖体もそうですけれども、聖霊が私たちの元にやって来るという事も、一時的な事ではありません。私たちの元に常に留まり給うのです。私たちの元に三位一体は住まいを築くからです。聖霊といつも一緒になっている事ができるという事です。


第3の点は、私たちの決心です。

では私たちはその為にはどうしたら良いでしょうか?聖霊をどのようにしたら受ける事ができるでしょうか?

「祈り」をしなければなりません、「聖霊来たり給え。」そして、聖霊を受ける為の「心の準備」をしなければなりません。「祈り」による準備と、あと私たちの「愛」による準備です。

聖霊は天主は、罪と同居する事ができません、共存する事ができません。罪のある所には、聖霊は入る事はできません。私たち、「天主」ではなくて「私」がいる所には、聖霊は入る事ができません。謙遜が必要です。「私たちの力では何もできない。イエズス・キリストの御力と聖霊の導きが必要だ」という心が必要です。

一体どうしたらそのような心を持つ事ができるでしょうか?

秘密は「マリア様」です。マリア様は、聖霊に1度も「No」と言った事がない、イエズス様を御胎内に宿したそのマリア様は、聖霊にいつも100%、その御旨を果たしていました。聖霊の導きのままにいました。

古代から教父たちは、もちろんマリア様と聖霊は、マリア様は人間であって聖霊は天主でありますから、このような言い方は非常におかしいのですけれども、しかしマリア様と聖霊があまりにも一体化していて、あまりにも一致していたので、聖母は聖霊の浄配と呼びました。

マリア様が、聖霊があたかもそこに生き写って住んでいるかのように、「聖霊の見えるイコンである」と呼ばれたり、あるいは「聖霊の聖なる配偶者、浄配である。聖霊の妻である」とよばれました。

「なぜかというと、マリア様のなさる事はつまり、聖霊のなさる事だから。それほどまで一つとなっている」と教父たちは言っています。

私たちが聖霊を受ける準備をする為に、祈りと、特にマリア様に対する祈りが必要です。謙遜なマリア様に。今日残る10日、この聖霊降臨の準備をする事に致しましょう。マリア様の御取次ぎによって準備を致しましょう。

「私は、あなたたちを孤児としては残さない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年7月3日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

2019年07月03日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年7月3日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。

御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。

この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。

御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 


「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?兄弟的矯正 fraternal correction と本当の従順について

2019年07月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見して、
先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事を書きました。

巡礼者の小道さんは、この乖離の問題を「有限性と弱さを抱えつつもやはり私の良心は、自分の眼に「黒」に映っているものを「白」と言うことはできない。」という論考で、現実に目をつぶることはできない、とその悩みを打ち明けています。

つまり、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

あるいは「これは黒だ」と言うことが出来るのか?

==引用開始==

「これは『黒』だ」と叫んでやまない私の良心の声はどうなるのだろう。良心の声を、教導権や教区の教会権威の声の下に従属させることが即、教会を通して働く神の主権に恭順であるということなのだろうか。

「黒」は犯罪であり、隠蔽罪であり、組織的闇である。神が教会の教導権を通し主権的に働かれるという理念ゆえに、そして教区権威への恭順ゆえに、私が、この「黒」を「白」だと宣言するとき、「個」としての私は、正義なる神の前にはたして無罪なのだろうか、それとも有罪なのだろうか。恭順ゆえに、強いて自分自身を情報鎖国状態、霊的「北朝鮮」状態に置くことは、正義なる神の前に称賛されるべき行為なのだろうか、それとも糾弾されるべき誤った行為なのだろうか。

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

==引用終わり==

この問題の解決のために、先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事では、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦しました。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



まず、ひとつ区別しなければならないことは、何についてか?ということです。
何が自分の眼に「黒」に映っているものなのか?
何を「白」と言うことはできないのか?
ということです。

私たちが問題としている対象は、隣人の隠れた過失・隣人の行った行為の意図などのことではありません。
隣人が寝坊したのは、もしかしたら、私たちの知らない重大な理由があったかもしれません。お母さんが寝ずに子供の看病をして、朝起きられなかったのかもしれません。

そうではなく、
私たちがここでいう「黒」とは「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」であり、
客観的に判断できることです。

私たちが問題としているのは、明らかに客観的に「信仰に反すること・信仰が禁止すること」を「良いことだ」とすることができるのか?ということです。

聖パウロは聖ペトロに、愛徳の一つである「兄弟的矯正 correctio fraterna」を行いました。

ケファがアンティオキアに来たとき、私は面と向かってかれに反対した。かれに非難するところがあったからである。というのは、かれはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどであった。しかし私は、かれらが福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前でケファにいった。「あなたはユダヤ人であるのに、ユダヤ人のようにせず、異邦人のように生活している。それなら、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」と。」
(ガラツィア2章)

もしも教皇様に、愛徳に押されて、尊敬を込めて、真理を語ったなら、「一致の敵」となるのでしょうか?真理を語ると「非国民」「非信徒」となるのでしょうか?

もしも私たちが、愛徳の故に、客観的な理由を説明しながら、毒を「毒だ」というと、敵になるのでしょうか?

「私があなたたちに真理を話したから、敵になったのか?」(ガラツィア4:16)

もちろん、私たちは、隣人の罪について判断したり宣伝したりする義務も権利もありません。

しかし、隣人が、或いは、長上が私たちに罪を犯すことを求めて来た場合、「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」が求められてきたとき、私たちは従わなければならないのか、ということです。

親が子供に「銀行に強盗に行って稼いでこい」と言ったら、はい、といって素直にその通りをしなければならないのか?ということです。親がやれと行ったからやっただけだ、自分には責任がない、ということは言えるのか?です。

もしかしたら、11歳の子供であれば、親に指示されて悪事を手伝うことになったとしても、刑事上の責任は負わされないかもしれません。しかし、大人が、成人が、指示されたからと言って悪事を行うことができるのでしょうか?

いえ、私たちは、自分の行った行為の責任を問われます。「従順」のために悪事を行うことは本物の従順ではありません。聖トマス・アクィナスは「信仰に関わることである時、長上たちに対して兄弟的矯正を行使することが出来る」と教えています。

兄弟的矯正 fraternal correction について、本当の従順について、ルフェーブル大司教は、こう言っています。

「読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。"では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(司教様公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の司教様の権威に抵抗しろというのか?)" では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか? そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)これが真の従順の秘訣です。」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記:
このことに関して、歴史家であるロベルト・デ・マテイ教授は『教会史における教皇制度に対する愛と教皇に対する抵抗』Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church, By Roberto de Matteiという本を出版しています。

Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church
著者 Roberto De Mattei
寄与者 Raymond Leo Cardinal Burke
出版社 Angelico Press, 2019
ISBN 162138456X, 9781621384564
ページ数 232 ページ

2019年6月1日(初土)天の元后であると同時に、私たちを愛する無限の憐れみの母

2019年07月03日 | お説教・霊的講話
2019年6月1日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年6月1日、童貞聖アンジェラ・メリチアの祝日ですが、初土曜日ですので、マリア様の汚れなき御心のミサを捧げています。

特にこの御ミサは、5月3日に亡くなられたAさんの霊魂、そして全ての煉獄の霊魂の為に捧げています。煉獄の霊魂の永遠の安息をお祈り致しましょう。

今日このミサの感謝の祈りの後には、いつもの通り初土の信心として、御聖体降福式を行ないます。特に一緒に15分間、マリア様と共にロザリオの玄義の一つを黙想致しましょう。

特に今日は、昨日私たちが祝った、マリア様が天と地の元后であるという玄義を、ロザリオの栄えの玄義の最後の玄義を黙想する事を提案します。

またあるいはお望みであれば、栄えの玄義の第2、今週の木曜日、イエズス様の御昇天の祝日でしたので、その御昇天の玄義もあるいは黙想なさって下さい。

そして食事の後で、聖歌の練習もある予定です。どうぞ少なくとも、御聖体降福式、あるいはこの黙想に是非参加なさって下さい。

今日の御聖体拝領も、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為になさって下さい。



「憐れみの玉座の元に、我らは信頼して近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の初土です。一緒に初土の信心を致しましょう。

マリア様の汚れなき御心の祝日のミサの最初には、司祭が入堂すると共に、聖歌隊はこう歌います、「憐れみの玉座に、私たちは信頼を持って近付こう。」

「憐れみの玉座」、マリア様の汚れなき御心の事です。なぜか?なぜ玉座?王の座る場所か?

なぜかというと、マリア様が天の女王であるから。

この事は古代から、旧約時代から、旧約聖書に書かれていました。雅歌という旧約聖書の中には、「さぁ、私の愛する者よ。私の所に来なさい。私はお前に王冠を授けよう。戴冠をさせよう。さぁいらっしゃい」と言われています。

教父たちは、「既にこれは、天主ヤーウェが、マリア様の霊魂に戴冠する事」を読んでいました。

ピオ十二世教皇様が特に、マリア様の、元后であるマリア様の祝日を制定しました。1954年10月11日の事でした。この10月11日というのは、「マリア様が天主の御母である」という事の大祝日です。そしてこの日に、特にこの日を選んで、「マリア様は天地の元后である。女王である。マリア様よりも偉い方は、イエズス様天主様を除いて、他にはいない。全ての天使、諸聖人、諸々の全被造物は、マリア様の玉座の下に服している。マリア様は、天の王イエズス様の元后、女王である」と。そしてその祝日を制定しました。

そしてその回勅を出した時に説明しています。これは古代から、教父たちが、聖人たちが、例えば聖エフレム、ニッサの聖グレゴリオなどから始まって、色々な諸聖人たちが、マリア様についてどのように仰っているのか、諸聖人からの讃美の連祷を引用して、「マリア様は聖人によって、『女王』と言われている、『主』と呼ばれている、『全宇宙の元后』と呼ばれている、等々」と引用して、「だから、マリア様のこの『元后』というのを、祝日を記念するのは、これは昔からの事であって、新しい事では全くない。私たちは旧約の時代から今に至るまで、マリア様をいつも元后だと信じ、そして敬ってきていた。」

そしてその後で説明をします、なぜマリア様がそれほど高い地位にいるのか?

理由が二つあります。是非知って下さい。

「なぜかというと、マリア様はその御受胎の瞬間から(というのは、マリア様がそのお母様の聖アンナ様のお腹に宿ったその瞬間から)、その一瞬も、罪に汚れた時が無く、ほんのちょっとたりとも、悪魔の支配下に置かれた事が無く、罪の汚れも無く宿られ、そしてその最初の瞬間から受けた御恵み、聖寵、成聖の恩寵というものは(これはピオ十二世教皇様がピオ九世教皇様を引用するのですけれども)、全ての聖人たちをはるかに超える御恵みを受けていたから。全ての聖人たちをはるかに超える御恵みを、その最初の瞬間に受けていたので、マリア様はその最初の瞬間から、極めて高い地位を受けておられた、愛を受けておられた。なぜかというと、私たちのその高貴さというのは、私たちがどれほど天主、聖であり、聖であり、聖である天主様と一致しているかにかかっているから。」

考えてもみて下さい。もしも金が純金であれば純金であるほど、汚れが無ければ無いほど、金がたくさんあればあるほど、それは貴重なものとなります。高貴なものとなります。

もしも霊魂に、天主様との一致が密接であれば密接であるほど、天主以外のものが無ければ無いほど、汚れ無き天主と一致すれば一致するほど、その量が多ければ多いほど、高貴なものとなります。

聖トマス・アクィナスの言葉を引用して、ピオ十二世教皇様は説明します、「善の源である天主様と緊密に一致していたので、マリア様はその最初の瞬間から、極めて高貴だった。天主の御母となる準備ができていた。天の元后となる準備ができていた。」

その天主の御恵みを受けるその心構えというのは、この一言にかかっていました、「我になれかし。我は主の婢女なり。しもべなり、奴隷である。私は全く無き者である。主の御旨のままになさって下さい。」自分を全く無にしたが故に、全く下の者としたが故に、天主の全てを受ける事ができました。

傲慢な者に、天主の御恵みが入る余地はありません。聖書にも書かれています、「天主は傲慢な者に抵抗する。」傲慢な人には、自分の事を天主よりも偉いと考える人には、天主の御恵みが染み通る余地がないからです。天主がイエズス様が、天主様が与えたくても与える事ができないでいます。

マリア様はその反対でした。謙遜の極致に立っていました。「全て主の御旨のままに。」すぽりと御恵みを受ける事ができました。全く一致しました。純金の、純粋の御恵みを受けました。

これが第1の秘密です。「最初の瞬間から、罪の汚れを知らなかった。」


そればかりではありません。第2の秘密は、マリア様が罪の汚れを知らないばかりか、「イエズス様と贖いの御業に協力したから」です。

私たちはともすると、辛い事があると、嫌な事があると、「えぇ!何でこんな、私は一体何か悪い事したのか!」「何でこんな事が起こるのか!」文句不平をブツブツ言うかもしれません。

マリア様は、罪の汚れが無かったにもかかわらず、一切無かったにもかかわらず、その影さえも無かったにもかかわらず、全く清らかな霊魂だったにもかかわらず、信じられないほどの苦しみを受けました。恐ろしい苦しみを受けました。想像をはるかに超える苦しみと、屈辱と、そして苦悩を受けました。私たちの想像を超えるほどのものでした。私たちを贖う為に、イエズス様と一致して、それを御捧げしました。

そのマリア様は今でも、更に人類の苦しみを、救う為に、その汚れ無き御心は屈辱を、侮辱を受けています。

マリア様はそのイエズス様との十字架に一致していたが故に、更にその聖寵は大きくなりました。イエズス様と一致して愛の行動を、愛を捧げたが故に、捧げれば捧げるほど、それは更に功徳を積む事となりました。

ですからイエズス様とマリア様は、二人で、人類の贖いを達成しました。アダムはたった一人で罪を犯したのではありません。エヴァの協力があったからこそ、原罪を犯しました。イエズス様もたった一人で罪を贖ったのでありません。イエズス様は、マリア様と共に、二人で、人類の罪を贖う事を御望みになりました。

ですから、イエズス様が勝ち取った全ての御恵みと贖いの功徳、祝福、満ち溢れるほどの祝福と喜び、天国の栄光というのは、これはイエズス様と更にマリア様との共同のものなのです。

マリア様はですから、天の元后、最高の地位に上げられました。なぜかというと、イエズス様、王であるイエズス様と共に、天国の栄光の功徳を勝ち取ったからです。人類の、贖われた人類の母となったからです。

ピオ十二世教皇様は言います、「私たちの母マリア様は、天の元后であると同時に、私たちを愛する無限の憐れみの母である。私たちの天に在すお母様である。私たちを慈しみ、憐れんで、私たちに救いの手を差し伸べる優しい母である。しかも極めて高い地位におられる母である。」

考えてもみて下さい。皇后陛下、あるいは地位の高い王様の女王様が、私たちの最も親しい人だったら、どれほど王様に私たちの事を簡単に言う事ができるでしょうか。マリア様はそれをはるかに超えた方です。なぜかというと、最高の地位にいる私たちの母親であるからです。本物のお母様であるからです。

ですからピオ十二世は、この5月の聖母の月に、マリア様の王冠、花の王冠をマリア様の為に御捧げしようと思われました。その回勅によれば、「この祝日には、全人類をマリア様の汚れなき御心に奉献する祈りを更新するように、唱えるように」と命令も出されています。

今日は私たちは御聖体降福式の時に一緒に、1日遅れですけれども、これを御捧げ致しましょう。マリア様の汚れなき御心に、私たちと、この御聖堂と、聖ピオ十世会と、日本を、御捧げ致しましょう。マリア様のその憐れみの玉座に、信頼を持って近付きましょう、讃美致しましょう。マリア様は私たちはどれほど愛する母であり、どれほど力のある憐れみの女王であるか。“Salve Regina Mater misericordiae.” 「元后憐れみ深き御母。」

今日のこの御ミサを、初土に、「マリア様が私たちの女王、元后である」という事を深く思いつつ、このミサを御捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

栄えの玄義 第5玄義黙想 2019年6月1日(初土)御聖体降福式にて

2019年07月02日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第5玄義黙想
(2019年6月1日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)

『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』


御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心の前にて、マリア様の汚れなき御心が受け給う罪を、侮辱を、償うが為に、15分間の黙想をお捧げ致しましょう。

イエズス様はオリベト山で、使徒たちの前で、御自分の御体、御血を、天主の力によって天に上げられました。御自分で天に昇られました。御復活後40日間、弟子たちに御自分の真に復活した事を見せ、証明し、そして「聖霊を送る」と約束して天に昇られました。私たちは、主の在し給う天に、いつも心を上げています。

この同じ天でイエズス様は、私たちが天国に辿り着くのをお待ちになり、私たちの為に全て必要な御恵みを配ろうと、与えようと、聖父天主に祈り、取次ぎ給います。

そればかりかイエズス様は、私たちの母であるマリア様をも被昇天され、私たちの母を天の最も高い位置に着かされ、天地の元后として、イエズス様のすぐ横にお座りにならせ、想像を絶する栄光と、権力と、力と、憐れみの支配力を、マリア様にお委ねになりました。

いとも神々しい、マリア様の元后としての御稜威、その御力、その輝き、そのイエズス様に訴える力の強さ、憐れみの巨大さ、無限の優しさ、私たちの救いを求め望むその母の心、私たちを何とか天に呼び寄せようと心を尽くすその優しいお心、イエズス様にあれでもか、これでもかと取次ぎ給うその母心、どれほどマリア様の御取次ぎによって、力ある取次ぎによって、憐れみと、祝福と、御恵みを、思いがけなく、想像を超えるような御恵みを受け続けてきた事でしょうか。

マリア様は天の、天地の元后としてメキシコに現れた時には、異教の偶像崇拝に陥っていたメキシコの民が、大回心の御恵みを遂げました。マリア様は秋田にも来られて、「日本の回心の為に祈っている」と仰います、天使を通して、私たちにそれを教えられました。

力ある童貞、天地の元后、私たちの憐れみの御母マリア様のいとも大いなる神々しい御稜威、その栄光、全ての天使聖人たちを合わせてもそれでも足りない、その御一人輝き出る御稜威、私たちはそれを讃美し、このような母を下さったイエズス様に感謝致しましょう。


全宇宙を支配される王の王イエズス・キリスト、私たちの贖い主。イエズス様にとって、マリア様のほんの小さな願いでさえも、これはご命令のように感じます。どのような小さな願いも、どのような小さな心の思いも叶えて、御自分のお母様を、天地の元后を喜ばせようとするイエズス様の優しいお心、聖心、マリア様をお愛しされるイエズス様の聖心。

イエズス様の聖心とマリア様の御心が一致しているが故に、マリア様の心は無限の御恵みの宝庫です。私たちが必要とする全てのお恵みを更に、それを超えて、寛大に惜しみなく、これでもか、あれでもかと与えて、更に与えて、更に与えようとされます。私たちはどれほどマリア様にいわば甘やかされ、マリア様から優しい御恵みを受け続けている事でしょうか。そして受け続ける事でしょうか。

マリア様は地獄の恐れでもあります。悪魔たちは、マリア様を恐れ、何もする事ができません。近付く事さえもできません。地獄の勢力にとって、どれほどの屈辱、辱めでありましょうか。マリア様の御力はあまりにも強く、態勢を整えた大軍隊のように、悪魔にとって恐るべき存在です。このマリア様が、母の心を持って私たちを守ろうと、私たちを保護して導こうと、御自分の御心を避難所として、私たちが天に辿る道としてお示しになりました。


マリア様を通して、イエズス様が昇天されてから今に至るまで、人類が見た事もないような大奇跡が起こっています。太陽は踊り、何十万の人々がそれを見ました。マリア様の御取次ぎによって、頑なだった心の人が回心し、病気が治り、命を失った赤ちゃんさえも命を取り戻し、戦争は終わり、不可能と思われた戦いにおいて勝利を治め、絶望的な状況から救われ、マリア様によって、救いと、喜びと、御恵みが、いつも与えられ続けています。マリア様が天の元后であり、どれほど力がある方であるかを示しています。

マリア様にお会いになった聖ベルナデッタも、あるいは御声を聞かれたシスター笹川も、あるいはルチアも、聖ジャシンタも聖フランシスコも、マキシマムもメラニーも声を揃えて言います、「威光ある、美しい、神々しい、極めて美しい御方であった。その御声は、この地上の全ての声を超える美しさであった。極みなく美しい御声であった。」

力ある童貞、天地の元后、平和の元后、ロザリオの元后。御身の子、御身のしもべはここにおります。御身の為に私は一体何をする事ができるでしょうか?マリア様、仰って下さい。イエズス様がマリア様のご希望を叶えたいと思うように、私もマリア様のご希望を叶えたいと思います。今まで多くの御恵みを下さった事を感謝致します。御恵みを与え続けて下さっている事を感謝致します。私に何ができるでしょうか?どうやってこの御恩に応えたら良いでしょうか?

我が母、我が元后よ、御身はファチマで、子供たちを通して私に仰いました、御身の希望を教えてくれました、「毎日ロザリオを唱えなさい。ロザリオによるならば、解決できない問題などひとつもない」と。
「私たちの祈りと、日常の務めを、イエズス様を愛する為に、罪人の回心の為に、マリア様に対して犯される罪を償う為に、教皇様の為に、捧げなさい」と。
「恐ろしくも侮辱されているイエズス・キリストの御体、御血を償う為に、御聖体を礼拝し、配慮しなさい」と。

そして最後には、「天主は屈辱され、犯され続けている。罪をもうこれ以上犯さないように」と懇願されて、お願いされました。

2019年5月31日説教「マリア様が私たちの元后、女王様である」という事の意味

2019年07月01日 | お説教・霊的講話
2019年5月31日(金)元后なる童貞聖マリアの祝日のミサ
小野田神父 説教

「元后憐れみ深き御母, Salve Regina Mater misericordiae.」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月31日、元后であるマリア様の祝日を祝っています。

そこで今日、「マリア様が私たちの元后、女王様である」という事の意味を一緒に黙想致しましょう。そして私たちはその元后であるマリア様の神秘を黙想した後に、一体何が求められているのか、私たちは何をするべきなのかを黙想致しましょう。

まず、マリア様は、「元后、女王様」であります。これはどういう意味でしょうか?「女王様」というのは一体何なのでしょうか?一体マリア様はなぜ女王様になったのでしょうか?マリア様がそんなに偉いのは、そんなに高貴なのは、一体何故なのでしょうか?

つい最近、5月1日には新しい天皇陛下を迎えて、皇后様を日本が頂きましたけれども、では天の元后であるマリア様の地位というのは、一体どのようなものなのでしょうか?

ピオ十一世教皇様は、「イエズス・キリストが、真の天主、真の人である、私たちの贖い主であるという事から、私たちの王である。キリスト、王」という、王たるキリストの祝日を定めました。ピオ十一世教皇様です。

「イエズス様はまず天主であるから、その天主の威厳によって王である。またイエズス様はダヴィドの王家の血統によっても王である。それのみならず、イエズス様は真の天主として、御自分の御血を流して私たちを贖ったから、私たちの霊魂を悪魔の手から奪い返したから、征服したから、私たちはイエズス様の下にあるしもべだから、王である」と宣言しました。

それと全く同じ意味で、その後継者であるピオ十二世教皇様は、1948年10月11日、天主の御母であるマリア様の祝日に、「マリア様は元后であって、私たちはその祝日を5月の終わりに祝わなければならない」と宣言しました。

「なぜかというと、マリア様は天主の御母であって、ただ天主の御母という地位を得た、イエズス様をお生みになったお母様のみならず、無原罪の御宿りであって、罪の汚れを全く知らない者であって、そしてイエズス様と共に、イエズス様の十字架の下に佇んで、共に贖いの苦しみを捧げたから、私たちの霊魂をイエズス様と共に悪魔の手から奪い取った、征服の王の伴侶であるから、マリア様は女王だ」と宣言しました。

今日アレルヤ誦では、その事が非常に美しく説明されています、歌われています。
「あぁ、マリア様、あなたは何と幸せな事でしょうか。なぜかというと、あなたはイエズス様と、十字架に付けられたイエズス様の足元に佇んでおられたので、今はイエズス様と共に、天国を支配しておられる、天で君臨しておられるから。」

マリア様の高貴さ、生まれの素晴らしさ、天主の御母であるという地位もさる事ながら、その地位によってマリア様は、「イエズス様と共に、罪無くして私たちの為に苦しまれた」「イエズス様と共に、全ての苦しみを御父に愛を以て御捧げした」そこにこそ、マリア様の偉大な王冠の基があります、源があります。

マリア様が、「私は主の婢女です。私は主の女奴隷です」と言って、そのそれを実行したが故に、天での女王となる事ができました。天で最も高い地位を占める事ができました。

全ての天使たち、そして聖人たちは、マリア様の下に、支配に、君臨の下にあるのです。たった一人の天使でも、人間をはるかに超えた素晴らしい存在です。何千何億何百兆という数々の天使が、マリア様を讃美して、マリア様を天使諸聖人、全ての天使諸聖人の元后として、女王様として、全ての人類の選ばれた諸聖人たちが、マリア様を女王様として誉め讃えています。

なぜかというと、マリア様がイエズス様とそのように、ぴったりと緊密に苦しまれたからです。イエズス様と共に、私たちの霊魂の贖いの為に、苦しみの涙を流されたからです。

ですからピオ十二世教皇様は、5月、マリア様の聖なる月の終わりに、特に世界中で、この子供たちが、あるいは大人も子供も老人も、5月のきれいな花をマリア様に御捧げする、そしてその最後の日には、教会で、世界中の教会で花冠をマリア様に御捧げする、この5月の最後の日を、「マリア様は本当に私たちの女王であって、元后であって、私たちはそのマリア様のその素晴らしい地位を讃美するのが相応しい」と定められたのでした。

では私たちは一体今日何を、遷善の決心で取ったら良いでしょうか?

もちろん今日天使たちと、天国の天使たちと諸聖人たちと共に、マリア様がどれほど素晴らしい、荘厳な地位におられる方か、という事を讃美致しましょう。5月1日の令和の新しい今上天皇陛下、皇后陛下を拝見しようと、多くの人たちが、日本人も外国人も皇居に集まって日の丸を振って祝った、というニュースがありますけれども、天国の天使たち聖人たちと私たちも声を合わせて、この私たちの元后であるマリア様を讃美致します。なぜかというと、マリア様は私たちの元后、憐れみの御母であるからです。

イエズス様と共に十字架で勝ち取った全ての御恵み、祝福、功徳、罪の赦し、奇跡的な超自然の御恵みの数々、私たちの想像を超えるような天主様からの御恵みの無限の功徳、無限の御恵み、祝福、聖寵、それらをマリア様は全て、自分のものとして持っておられるのです。女王様、元后としてお持ちであるからです。マリア様はこれを自由に分配する権利を持っています。御自分のものですから、イエズス様と共に勝ち取ったものですから。

ただマリア様は苦しんだだけではありません。イエズス様と共に、イエズス様の御母として、人類の、贖われた人類の母として、愛を込めて、御自分の苦しみを天主に、イエズス様と共に捧げたからです。

イエズス様は正義の天主ですけれども、そしてその正義の王国を、天主の正義を支配しておられますけれども、神学者たちによると、「イエズス様は、憐れみを全て、御母に任せた。憐れみの母に任せた。」

ですから私たちは、本当ならば、厳格な正義によれば、それほどの御恵みを受けるに値しないものであったとしても、マリア様は憐れみによって、自由に御恵みをばらまいて下さいます。今も、そして将来も、ばらまき続けて下さいます。そして「ばらまき政策だ!何でそんなに浪費するのか!」と文句を言う人は誰もいません。マリア様のものですから。

「憐れみ」と「御恵み」は全て、マリア様を通して私たちに、イエズス様の聖心から来ます。

ですから私たちは、マリア様のその憐れみの元后、憐れみの御母であるマリア様を今日讃美します。それと同時に私たちは、そのマリア様をますますお喜ばせる為に、マリア様の良きしもべとして、マリア様の御下にあるものとして、マリア様に似通った者となりたいと思います。マリア様が天主の御母として、イエズス様と共に苦しみを捧げて、そして功徳を勝ち取ったのであれば、私たちも天主の子して、マリア様の子供として、罪人でありながら御憐れみの力を受けて、私たちの苦しみや祈りを、マリア様を通してイエズス様に御捧げする、贖いの業に協力する、という事が、マリア様は私たちから求めています。これがファチマでの神秘であり、ファチマでマリア様が私たちに要求した事でもあります。

今日、マリア様が元后であるというその神秘を深く讃美して、黙想して、私たちも良きしもべとして、マリア様の道具として、私たちの祈りと苦しみを捧げる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年5月26日(主日)御復活後第5主日のミサ キンボル神父様御説教 二つ目に古いマリア様への信心「茶色のスカプラリオ」

2019年07月01日 | お説教・霊的講話
2019年5月26日(主日)御復活後第5主日のミサ
キンボル神父様御説教
同時通訳:東京信徒会長


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

皆さん、今日は私たちの聖母に対する、二つ目に古い信心についてお話したいと思います。

一番古い信心というのは、もう皆さんやっていらっしゃると思いますけれども、それは「ロザリオ」というものです。ロザリオというのは、毎日家族と祈るものです。

二つ目に古いマリア様への信心というのは、「茶色のスカプラリオ」です。教会によって認可されたスカプラリオというのは色んな種類がありますけれども、一番大事なのは茶色のスカプラリオです。

この「茶色」というのは「カルメル会の服」を意味しています。茶色の四角いこういう服で、茶色の布が前と後ろに下がっています。カルメル会というのは、マリア様に捧げられた修道会としては一番古い修道会です。

この修道会の伝説によりますと、預言者エリアがこれを創設したと言われています。このエリアというのはカルメル山に住んでいたのですけれども、そこで飢饉がありまして、水が足りなくなりまして、その時に使いの者を山の一番上に登らせて、7回登らせて、水の為に祈るという事をします。この7回目にお祈りに行きますと、白い雲が、人の足の形で海の方から来るのが見えました。

そして彼がこの弟子たちに説明したのは、これが「マリア様の象徴だ」と言うのです。なぜかと言いますと、旧約に、「『彼女の足が悪魔の頭を砕く』というのがあったから」という事です。そして「この白い雲の『白さ』というのは、『マリア様が罪がない』という事を示している」という事です。

それでエリアが言ったのは、「贖い主の事を待たなければいけないけれども、贖い主の母の事も待たなければいけない」という風に言いました。

そして新約の時代になりまして、使徒がこの人たちに説教をしたところ、この人たちもキリスト教徒になりました。そしてこの人たちは、「カルメル山の聖母の隠士」という名前になりました。そしてこの彼らがカルメル山に住んでいるというのは、イスラムの人たちが聖地を占領するまで続きました。そして十字軍が聖地に行った時に、「そこは危険なので、ヨーロッパに是非来て、安全な所でお祈りして下さい」というように招待しました。そしてこのグループは特に今のイギリスに移りました。そしてこの時のこの修道会の長上という方は、シモン・ストックという方でした。

ところがこのカルメル会の人たちというのは、あまり歓迎されませんでした。なぜかと言うと、ユダヤ人のような服に見えたからです。それから食べ物に関しては物乞いをするという習慣がありました。ですからこのシモン・ストックという方は、「このように歓迎されていないので、私たちのこの修道会の服を変えて下さい」というお祈りをしました。

そこでマリア様が現れて、腕の上にこのスカプラリオをかけてお現れになりました。そしてマリア様が仰ったのは、「あなたたちの修道会の服を受けなさい」と仰いました。そして「この服を着て死ぬ者は、誰も永遠の火を受けない」というようにマリア様が仰いました。

プロテスタントの方は、これはカトリックの迷信であると言うかもしれません。しかし教父たちによりますと、「聖母にずっと信心を続ける、という事がもしできたら、私たちの霊魂を天主様の所に持っていく事ができる」という風に言っています。

このスカプラリオというのは、私たちの聖母マリア様の事を崇敬するのに非常に簡単な方法です。そして天主様はこれについてどういう風にされたかと言いますと、奇跡を表す事によってこれを承認されます。

例えば、ある人がこのスカプラリオを着けたまま溺れてしまったのですけれども、スカプラリオが水の上に浮いて行って助かった、という事があります。

これからちょっと本で読んだお話を説明したいと思いますけれども、これについてはオーストラリア出身の方が、アメリカに住んでいらっしゃる家族の方なのですけれども、その方から聞いた話です。この方はカンザス州の聖マリア大学という所で学生さんでした。そしてその方に聞いたのですけれども、「あなたの苗字は、偶然その奇跡の方と同じ苗字ですけれども、知っていますか?」という風に聞きました。そしてこの方が仰るには、「その話が一般に広まっているとは知らなかったけれども、家族の間では聞いている」という風に言いました。これは、ジョン・マコーリフという方で、アイルランドの水夫さんのお話です。

この方は、オーストラリアまで船で行ったのですけれども、非常に大きい嵐に遭いました。プロテスタントの家族の方が、「これは大変だ!」という事で、ご家族とお子さんでお祈りしたのですけれども、何も起こりませんでした。

そこでこの水夫さんは、「大変だ!」という事で、スカプラリオを、持っていたその着けていたスカプラリオを、十字架の印をして、海に投げ入れました。そうすると海が静かになったのですけれども、一つだけ波が起こって、そのスカプラリオが彼の所に戻ってくるような波だけやって来ました。

これを見た、この乗っていたプロテスタントの家族の方は、オーストラリアに着いた時に、カトリックに改宗しました。

これは奇跡ですけれども、もっと大事なのは、この茶色のスカプラリオを着ている時の「霊魂への効果」という事です。

ある若い女性がいたのですけれども、あまり熱心に信仰していらっしゃらない方でした。あまり秘跡を受けには行きませんでした。そこでこの神父様がこの女性に対して、「もっと敬虔な人になりたいですか?」と聞いてみました。そしてこの女性が仰ったのは、「敬虔にはなりたいのですけれども、あまり難しい事はできません」と答えました。そうするとこの神父様が仰ったのは、「いや、難しい事ではありません。茶色のスカプラリオを着けて下さい。」

そうすると、この女性の方はもっとお祈りをするようになって、もっと秘跡を受けに来るようになります。そしてだんだん信仰が進んだので、この女性は「修道女になりたい」と言い出すほどになりました。

そしてこの修道女になる儀式の時に、この「天主様から頂いた御恵みの印を何か見せて下さい」とお祈りしました。そうすると、この昔スカプラリオを勧めた神父様が、お祈りをしている時にとてつもない喜びを感じたという事です。そして神父様はよく事情が分かりませんので、「天主様は何で私にこんなに今、喜びを下さるのですか?」という風に聞きました。

そして次の日になってから、この新しくシスターが入った修道会から手紙が届きます。この手紙を書いた人というのは、その新しくシスターになった方のお友達でした。このお友達が書いていたのは、「この新しくシスターになった女性は、もう嬉しくてしょうがなくて、手紙も書けなかった」という事です。「しかし、とにかく神父様の為にお祈りしていますので、その事を知って下さい」というのが、このお友達の手紙に書いてありました。

この茶色のスカプラリオの「地獄に行く事がない」という特権の他に、もう一つ別の特権があります。このシモン・ストックが受けた50年後に、ヨハネ二十三世も何かメッセージを受けたように感じました。“サバティン・ブル”(Sabbatine Bull)というのですが、この手紙に書類に記録が残っています。

それによると、「マリア様が、どなたかが亡くなられた時に、その次の土曜日に、煉獄からマリア様がその方を救って下さる」という事です。その条件というのは、このスカプラリオを着ける事に加えて、水曜日と土曜日に肉を食べないという事だそうです。

それからその自分の身分に従った貞潔を守るという事です。それから聖マリア様の小聖務日課を唱えるという事です。しかしこの条件というのは難しいかもしれませんので、神父がもっと簡単なものに変える事ができます。

もし生地でできたスカプラリオを着けるのが難しいという事であれば、メダイにする事ができます。なぜかと言うと、聖ピオ十世教皇が、このメダイに関しても同じ贖宥を与えたからです。しかし元のこの精神から考えますと、メダイよりその生地のスカプラリオを着けた方がもっとよろしいと思います。

そしてこのスカプラリオのお話を今日しているのには、現代的な意味があります。ローマに聖ドミニコと聖フランシスコが会った教会というのがあります。この教会は、この二人の聖人が会った記念をした教会です。アンジェリカ修道士もここにいました、これはカルメル会の方です。そして聖フランシスコに対しては、「聖痕を受けるだろう」というメッセージがありました。そして聖ドミニコの方には、「あなたの修道会には、このロザリオの信心が与えられる」というメッセージがありました。しかしもっと大事な事は、「いつか、このスカプラリオとロザリオを通して、天主様はこの世をお救いになるだろう」というメッセージでした。

そしてファチマにお現れになったマリア様が仰るのは、「この一番古い二つの信心をしなさい」という事を私たちにお命じになりました。シスタールチア、ファチマのルチアに質問されたのですけれども、「マリア様はどうして、この太陽の奇跡の時に、カルメル会の服を着てお現れになったのですか?」という質問がありました。そしてルチアの言ったのは、「もちろんこれは、聖母が皆にこのスカプラリオを着けてほしいからである」という風に言いました。そして彼女にまた、「どうしてですか?」という質問がありました。そしてシスタールチアが答えたのは、「それは、そのスカプラリオというのは、私たちが汚れなき聖母への奉献の印であるからだ」という風に答えました。

ご存知だと思いますけれども、長崎の原爆の時には、8人の司祭が命を救われたという事がありました。このうちの一人のアメリカ人の司祭の話を聞いた事があります。

「爆心に非常に近かったので、普通ならもう死んでいるはずだ」とお医者さんが言っていたという事です。しかしこのアメリカ人の神父様が仰っていたのは、「そうなのですけれども、私は非常に健康である」と、「それは多分、このファチマのマリア様のメッセージに従った信心をしていたからだろう」と仰いました。

ですから私は、皆さんにこの茶色のスカプラリオを着けて、他の方にもこのメッセージを広げて頂きたいという風に思います。なぜなら、聖母マリア様は最後に勝利されるのですけれども、それまでに私たちに、私たち一人一人に、それに協力するように仰ったからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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