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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2020年6月21日、イエズスの聖心の荘厳祭に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。
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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
イエズスの聖心の神秘を黙想しましょう。
皆様にYouTubeで「イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭の説教」の動画の書き起こしをご紹介いたします。
6月聖心の聖月を良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
+++
「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、
今日は私たちは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭を祝っています。ですから一緒に、イエズス様の聖心の神秘を黙想致しましょう。
【聖心の思い:私たちへの愛】
この祝日のミサの入祭唱にはこう歌います。
“Cogitatiónes Cordis eius in generatióne et generatiónem : ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame.”
「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」
天主は、私たちを救う為に、私たちに天主の命と、喜びと、至福の幸せを与える為に、全てを尽くされました。聖ヨハネはこう言っています、「天主は愛である」と。
天主の愛はとてつもなく大きく、私たちの想像を全く超えるものです。まさかそこまで、と思われるほど、信じられないほどの超絶した愛を、私たちに与えてくれました。私たちはこれを素直に、感嘆しつつ信じます。“Credidimus caritati.”「 私たちは天主の愛を信じた。」
聖パウロはこう言っています。
“scire étiam supereminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei.”
「計りしれないキリストの愛を知りさえする、あなたたちは天主の全き充満によって満たされる為に」と。
イエズス・キリストの聖心は、私たちの代わりに死を受け、御自分の十字架による死で、私たちに命を与えようと欲したのです。
私たちを力づけ、私たちを守り、将来の命の保証を与える為に、御自分の体で私たちを養う事を欲しました。
「キリスト教は、愛の宗教、愛の教えだ」と言われています。何故かというと、「天主が私たちをどれほど愛しておられるか、信じられないほどの巨大な愛の事実を、私たちに教えているから」です。そして天主は、愛によって私たちを、御自分の喜びに引き寄せようと欲しておられます。
私たちはこの真理、天主の愛をどれほどよく知り、認めて、これに御礼し、愛し返さなければならない事でしょうか。
特に、イエズス様が生まれた「馬小屋」、イエズス様が私たちの為に犠牲となった「十字架」、イエズス様がこの世の終わりまで私たちと共にいらっしゃる、真にまします「御聖体・御聖櫃」、この三つが、天主の愛、イエズスの至聖なる聖心の愛を、私たちが深く知るよすがとなる場所です。
私たちはどれほど、私たちに救いの道を教え、そして救いの手段を下さる天主に従わなければならない事でしょうか。そしてその道を歩み、その手段を有効に使わなければなりません。
私たちの主が制定した「七つの秘蹟」、これが私たちの霊魂の救いの為に、天主が私たちに与えて下さった必要な手段です。
残念な事に現代では、この秘蹟がないがしろにされています。秘跡の大切さが信じられていません。顧みられていません。この秘跡が大切にされていない事を御覧になるイエズス様は、どれほど御悲しみになる事でしょうか。
【聖心:最高司祭の心】
第2のポイントとして、私たちに対する聖心の愛の頂点は、「御聖体」と共に、「カトリックの司祭職である」という事を黙想致しましょう。
イエズス様の聖心、それは新約の大司祭の聖心です。何故かというと、イエズス・キリストは新約の大司祭であり、そして同時に天主の子羊、天主に屠られる天主のいけにえであるからです。全ての聖寵、秘蹟の全ての御恵みは、カルワリオの犠牲(いけにえ)、イエズス・キリストの至聖なる愛の聖心に由来しています。
「主の聖心の想いは、代々に:私たちの霊魂を永遠の死から奪い取り天国に導き、霊的な飢えにおいて、私たちを御自分の御体で養う」事を考えておられました。
その為に、イエズスの聖心の愛は、ある特別の人間を選び、御自分に似せる事を欲し給うたのです。この彼らに、第二のキリストとなる特別の権能を与える事を望まれました。十字架の上で主と共に自分を屠り、キリストのペルソナにおいて、カルワリオの犠牲を継続させる事を望まれました。そしてイエズスの御自分の御体を、イエズス・キリストに代わって、イエズス・キリストの名前で、信徒たちに糧として与える権能を授与する事を欲しました。
これが、私たちの主イエズス・キリストの愛の神秘です。カトリック司祭職の神秘です。
イエズスの聖心の愛の極みは、人類の聖化の大事業に、「人類の救霊」という永遠の大事業に、貧しい、つまらない被造物を使う事を望まれました。贖われて、そして赦された弱い罪びとに、御自分の司祭職の霊的な刻印を刻み込んで、永遠に刻み込んで、消せる事ができないように刻み込んで、救霊の業に協力させようと意志されました。
この決して消し去る事ができない霊の刻印は、霊魂に刻まれた司祭たちは、カトリック司祭たちは、聖変化の言葉を有効に、実効的に発声する事ができるようになります。天使たちでさえもできない、天使たちでさえも感嘆と讃美とそして感謝の言葉をするだけのとてつもない権能が、ちっぽけな人間である司祭に与えられました。愛の、イエズスの聖心の愛の知恵と、全能の業です。
残念ながら、現代教会では、これに反する事が広まっています。「洗礼を受けた人は、皆司祭だ、キリストの司祭職に参与している。だから私たちはミサで聖体も配れば、色々な事をする」と。
しかし、これは間違っています。平信徒には、キリストの司祭職の霊的な刻印が刻まれていないからです。叙階の秘蹟を受けていないからです。
1)司祭としての霊的な刻印を受ける事によって、叙階の秘蹟を受ける事によって初めて、司祭は人々に教える権能を受けます。天主の十戒を教え、福音を教え、そして道・真理・命であるイエズス・キリストを教え、十字架に付けられたイエズス・キリストを、福音を宣べ伝える、という権能です。
ところで、聖パウロはそれと同時に、こうも警告しています。「よい折があろうとなかろうと、くり返し論じ、反駁し、咎め、すべての知識と寛容とをもってすすめよ。人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快い事を聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」ところで、今、この健全な教えを忍ばない時がやってきたかのようです。
イエズス・キリストの2000年間教えてきた、イエズス・キリストの教えた2000年の聖伝の教えを、もはや忍ばない時がやって来たようです。健全な教えに耳を傾けず、新しい作り話に耳を傾ける時が来てしまったかのようです。
例えば、真理と誤謬を同じレベルに置く、全ての宗教を同じレベルに置くエキュメニズム。キリストを信じなくても人々は救われているという主張。真理や誤謬が区別されないでごちゃごちゃになっている信教の自由、何でも信じる事ができるという自由。天主への義務のない人権。パチャママ、その他偶像を天主の教会内に置こうとする宗教無差別の主義。天主が大地と決定的に一致したと主張するようなエコロジー、などです。
これらの作り話しは、イエズス・キリストの聖心から、イエズス様の制定された秘蹟から、御聖体への愛から、カルワリオへの参与から、イエズス・キリストの十字架から、イエズス・キリストの御母、天主の御母聖母から、人々の心を引き離そうとする作り話です。
2)叙階の秘蹟を受ける事によって司祭は、人々を聖化する権能を受けます。秘蹟を執行する事によって、特にミサ聖祭を捧げて、御聖体を授ける事によって、また同時に、告解の秘蹟を執行する事によって、人々や物を祝別祝福する事によって、人々と家庭と社会を聖化します。
カトリックの司祭という聖別された手には、どれほど偉大な宝が委託されている事でしょうか!どんな素晴らしい名医であっても、お医者様であっても、どれほど力がある金持ちの国の大統領であっても、たとえ天皇陛下であっても、天群の天使たちであってもできない、天主からの罪の赦しを与える、というこの権能を受けているのですから。
しかも、パンをイエズス・キリストの真の御体に聖変化させ、イエズス・キリストの本当の聖なる御体を信徒たちに与える事ができる、というのは、誰にもできない、カトリック司祭だけに与えられた、特別の天主からの特権です、権能です。
ミサ聖祭は、単なる共同体の集いではありません。単なるパンを分かち合う会食でもありません。ミサ聖祭とは、カトリックの教えによれば、「パンと葡萄酒の二重の聖変化によって、秘蹟的にキリストの屠りを執行して、カルワリオの十字架の犠牲を今ここで、現実化して、現存させる事」です。ミサ聖祭とはまさに、「カルワリオの犠牲(いけにえ)そのもの」です。同じ司祭、同じいけにえ・犠牲です。
カトリック司祭とは一体何であるか、そのアイデンティティーを、私たちの先祖の神父様方々はよくご存知でした。たくさんの例があります。
例えば、福者ジュリアン中浦神父様。大迫害のさなかに、口之津(くちのつ)を拠点として九州各地の信徒たちに、悔悛の秘蹟、そして御聖体の秘蹟を授ける為、信徒の霊的な世話に奔走しておられました。足が悪かったのですが、毎年4000名以上の信徒の告解を聞いていました。大迫害の真っ只中です。そして最後には、10ヶ月にわたる厳しい取り調べと拷問を受けて、ズタズタになって、最後には穴吊るしを4日間、「この大きな苦しみを、天主への愛の為に」と耐え忍んで、殉教していきました。
他にもあります。例えば、福者ペトロ・カスイ岐部神父です。岐部城主左近大夫(さこんたゆう)の子供で、もちろんお殿様になる事もできました。しかし、「自分は司祭になりたい」と、19歳の時から、司祭になる為の訓練を受けました。そして司祭になる為に、ローマまで歩いて行きました。インドのゴアからローマまで歩いていました。そして1620年、ローマで司祭に叙階されました。叙階の後に、ローマの有名なグレゴリアン大学で神学を学び続け、イエズス会の修練院で修練期を送ります。
もちろんローマは素晴らしい大きな都です。キリスト教の総本山です。美しく、大聖堂が多くあり、人々は優しく親切で、安全で、司祭として祈り、勉強し、そして修道生活をする、信徒たちに囲まれてローマで活躍する事は、全く問題なくできたはずです。楽園のような、天国のようなローマで、そのまま一生を安全に終える事もできたはずです。
しかしこの福者ペトロ岐部神父様は、イエズス会の総長に懇願したのです、「お願いします。日本に行く許可を与えて下さい。」
「お前の命は危ないぞ。ここにいた方がいいんじゃないか。」
しかし、ペトロ岐部神父様の決意は誰にも揺るがす事ができませんでした。なぜかというと、「霊魂の救いの為に、日本にいる霊魂の救いの為に、命をかけて自分は働きたい」と願っていたからです。「霊的に養いたい」と思ったからです。1630年、43歳の時に、総長の許可を得て、16年ぶりに日本に帰国します。
福者ペトロ岐部神父様は、特に仙台領で命がけで信徒たちの世話をし、秘跡を与え、御聖体を与え、告解の秘跡を施し、そして1639年、江戸で穴吊るしにあって、殉教しました。どんなに尋問を受け、どんな拷問を受けても、決して転びはしませんでした。
日本だけではありません。朝鮮でもそうでした。聖金大建アンドレア。中国大陸を横断して、マカオまで移動して、そして勉強し司祭に叙階された後、命の危険を冒して朝鮮に戻ります。その理由はたった一つです。秘蹟を信徒たちに授ける、ミサ聖祭を捧げて御聖体を与える、告解を聞く、その為です。信徒たちの救霊の為に。
司祭の心は、救い主の心。
「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える」という事。
【最後に:イエズスの聖心を愛そう】
では最後に、私たちはこのイエズス様の聖心の熱い想いと、そしてイエズス様の聖心に倣うカトリック司祭の想いを黙想した後に、遷善の決心を立てましょう。
イエズス様の聖心の広さ、その深み、その高さ、これを垣間見て、この愛に愛で答える事ができますように、お祈り致しましょう。また、イエズスの聖心に倣う多くの聖なるカトリック司祭が生まれるますように、召命が生まれますように、お祈り致しましょう。
ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの聖母は1917年6月13日、人類にご自分の汚れなき御心をお見せになりました。それは、イエズスの聖心と全く同じ御心でした。
汚れなき御心によって、私たちもイエズス様の聖心に倣う事ができますように、そしてイエズス様の聖心に倣う司祭たちが与えられますように、イエズス様の聖心をますますお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。
「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える事。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より | THE ADORATION OF THE BLESSED SACRAMENT by Father Albert Tesnière |
聖体の顕示に関する黙想 | The Exposition of the Most Holy Sacrament |
聖体降福式に対する義務 | XIL Our Duties in Regard to the Exposition of the Most Blessed Sacrament. |
礼拝 | I. Adoration. |
天上における諸天使、諸聖人、地上における母なる教会とともに、愛の玉座の上に座したもう最上の主を礼拝しよう。どこでも、主のおいでになるところ、主の光栄の表にあらわれるところには、主の側からは豊かな恩恵、私たちの側からは重大な義務が存在する。 | Adore your Lord and your King upon the throne of His love, in union with the angels in heaven, and with holy Church upon earth. In all places where He manifests His presence and His glory, He imposes duties at the same time that He sheds down blessings. |
主は天上では、ご自分を少しも隠すことなく示される。すなわち、天主性と人性、すべての恩恵と御稜威(みいつ)、完徳と功徳とがあるがままにあらわれ、天使と聖人とは主のみ前にふさわしい礼拝をささげ、そのご期待にそうのである。 | In heaven, where He is in the full and perfect manifestation of all that He is, where He is seen not only in His holy, glorified humanity, but revealing the treasures of graces, of virtues, of merit, of the dignity of His august person, in heaven where He is seen, where all that He is, is acknowledged by all the angels and saints, who render Him that exterior and interior homage which His humanity and His divinity merit, the worship accorded Him fully equals His expectations. |
天上の礼拝のありさまを想像しよう。天軍の絶え間ない賛美の調べと偉観とは、誰も言葉に言いあらわすことができない。彼らは、あるいは立ち、こうべをあげて主を仰ぎ、あるいはひざまずいてそのおもてをおおう。地上に伏して礼拝する者もあり、自分の冠を玉座の前に投げている者もいる。あるいは黄金の香炉をゆり動かし、あるいは歌い、あるいは黙している者もいる。しかし、この時の沈黙は言葉と同じく礼拝なのである。玉座にいて微動もしない者もあれば、小羊のあとに従って進む者もいる。 | It is all homage, rendered in perfect harmony, with unfailing perpetuity, and astonishing abundance; splendor which no one can estimate; glorious praise, canticles, songs, acclamations. They are standing, they are contemplating, their heads are raised; they are on their knees, and they are veiling their faces; they prostrate themselves with their foreheads in the dust; they cast their crowns at the foot of the throne, they wave their golden censers; they speak, they are silent, and their silence is adoration as well as their speech; they stand motionless around the throne, and they march triumphantly in the train of the conquering Lamb; lastly, from their soul, their heart and their whole interior being, filled with light, with love, with divine strength, issue without ceasing, all that perfect homage which the elect can offer to their divine King. |
彼らの霊魂と心、いや、彼らのすべてが、光と愛と力とに満ち満ちて、かの完全な賛美をなすのである。 | Such is the glorious adoration of heaven : angels and saints give themselves up to it without reserve; all the duties of the creature towards the King of glory are accomplished by them in the utmost perfection. |
地上においても、恩恵の玉座の上にまします主は、私たちから同じ礼拝を期待される。いうまでもなく、たとえ恩恵を保有していたとしても、私たちは、主のお望みになるような完全な礼拝を捧げることができない。 | The same King, upon His throne of grace, claims those duties in which we are instructed by holy Church. The earth, even when filled with grace, is certainly very powerless to honor the ever-present God, as He desires, but the religion of grace will one day be completed by that of glory, and God will have received, from His redeemed creature, all that He desires to receive. |
しかし、せめて典礼儀式に関する教会の規則を守り、その精神に従って、祭壇の上においでになる憐れみの主に向かい、礼拝の義務の最善を尽くさなければならない。 | Meanwhile it is in following the rules of the Church with regard to her religious ceremonies, it is by entering into the spirit of her councils, it is by aiming to reach perfection, for the purpose of honoring and worshipping the royal Spouse, that we may accomplish the duties of a Christian towards the King of grace exposed on our altars. |
だから、聖会とともに主の教えられる一切の真理を信じ、聖会とともに献身的で忠実な愛を持とう。また聖会の典礼を尊重し、聖式に際して尊敬を失わないようにしよう。すなわち怠慢、無頓着は、いうまでもなく不敬の極みであるが、世俗的な音楽、悪趣味な電気装飾なども、また同様に不敬である。 | Adore then, with the faith of the Church, believing firmly, explicitly and lovingly. Adore with her love and her generosity, that of a perfect bride, heroically devoted to her Spouse; follow strictly her liturgy, in order to adore in union with her. Give splendor, maintain reverence; take care that the praiseworthy desire of making a beautiful, dazzling, imposing display, does not make you lose sight of the awful majesty, the adorable holiness, the august and holy attributes of Him whom you adore. Negligence constitutes a shameful irreverence; worldly pomp, theatrical or profane music, illuminations such as are used in worldly festivals, constitute another. |
だから聖体降福式は荘厳で典礼的で、敬虔と信心とに満ちたものでなければならない。目に深い印象を与えるとともに、心に感激を起こさせるようなものであることを必要とする。 | Let the worship of the exposition be royal; let it remain liturgical; let it be of great solemnity; let it excite much interior religion in souls; let the eyes be impressed; but above all, let hearts be given. |
感謝 | II. Thanksgiving. |
教会の精神を重んじて典礼を守り、規則に忠実なることは、至聖なる聖体の秘跡を尊敬することであるとともに、この聖式に参列する人々に、最も有益な効果を与えずにはおかないのである。 | Besides, in this fidelity in following the rubrics of the Church, in entering into her spirit in everything that she ordains, and in fulfilling her counsels in so far as is possible to us, the worship of the exposition will produce all the fruits of her teaching in our souls. |
この時、聖式のために犠牲と労苦とを少しも厭(いと)わなかった人々は、主がそれらを喜んで受け取られた徽(しるし)として、彼らの心に注ぎ入れられるまことの深い喜悦を味わうであろう。また、この聖式に忠実な教会は、モイゼがイスラエルの民に与えた賛辞を自分のものとして誇ることができるであろう。『なんじらは主なるわれらの天主に命じたまいしごとく、わがなんじらに掟と律法とを教えたることを知れり。これを守り、これを実行せよ。これぞ諸国の前におけるなんじらの知恵と悟りなる。彼らはこれらの掟を聞きて「賢くして理解に富みし大いなる国民よ」というべし。われらの天主のごとく、その神々を近くに有する民は他にあらざるなり』と。 | It is then that all those who have consecrated to it their cares and their labors will enjoy the real pleasure which the divine Master infuses in souls when He is pleased with His children. It is then that we shall merit the eulogium, traced by Moses for the people of God, and which is so great an honor for a parish, an association or a town: "You know that I have taught you statutes and justices as the Lord my God hath commanded me. . . , And you shall observe and fulfil them in work. For this is your wisdom, and understanding in the sight of nations, that hearing all these precepts they may say, Behold a wise and understanding people, a great nation. Neither is there any other nation so great that hath gods so nigh them as our God is present to all our petitions." (Deut. iv. 5-7.) |
償い | III. Reparation. |
聖体降福式は、愛の天主を敬い、聖櫃中においでになる救い主に対して人類の忘恩を償うための最上の方法であるが、しかし悲しいことに、この償いにもまた償いの必要があり、この聖式の日でさえも、主は数々の御苦しみを受けられるのである。 | Although the exposition has solely as its object the honoring of the God of love, and although it is one of the best and most efficacious reparations which can be offered to Him for the ingratitude and the outrages committed against His beneficent presence in the tabernacle, it must nevertheless be sorrowfully stated that this very reparation itself requires reparation, and that it is necessary to weep over the negligence Christ suffers, even on the days of the most pious solemnities. |
その証拠に、主は聖体の大祝日の八日目、聖女マルガリタ・マリアにおあらわれになって、この祝日およびそれに引きつづいて行なわれる聖体降福式の間に受ける忘恩不敬を償うため、聖心を礼拝せよとお命じになった。 | Our Lord appearing to Blessed Margaret Mary at the end of the octave of Corpus Christi, asked of her the worship of His heart as a compensation for the ingratitude, the irreverence, the outrages with which He had been afflicted during the days of His royal manifestation. |
だから、人々が不従順、もの惜しみ、無頓着などによって礼拝を怠った不敬に対し償いを捧げよう。聖体降福式の間には、深い沈黙と大いなる信心がいるにもかかわらず、たびたびこれに十分な注意がはらわれていない不敬に対して償いを捧げよう。聖体降福式に与ることを拒む者、または人前をはばかって、外面的にはこれに与り、また聖体を拝領するが、自分の霊魂をこれにふさわしく準備しない者の大不敬に対しても償いを捧げよう。 | Make reparation then for irreverence committed in His divine worship, by disobedience, by parsimony, by negligence in maintaining an uninterrupted adoration before the throne; by the small degree of reverence shown by the faithful in the Church, the Holy Sacrament exposed requiring a more profound silence, a more perfect recollection; by the contempt of those who will not yield to the exhortations of pastors begging them to receive the King on His triumphal visit; by sacrilegious communions of some whom human respect perhaps has induced to celebrate the solemn adoration by receiving Christ's body and blood, and who have not had the courage to put their heart in unison with their outward show of religion. |
償いは必要である。主は光栄ある凱旋の日にも苦しみを受けられることが多いからである。イエズスのエルサレム入城の日に、群衆は狂喜し、喝采した。しかし、その陰に、主を罵(ののし)り、主に対してつぶやくファリザイ人がいた。同様に黄金の聖体顕示器も時として、主にとって恥辱の冠となり、四方に放射する光の中にも、尊いみ頭(かしら)を傷つける棘(とげ)が混じっていることがあるのである。 | Oh yes! make reparation: for even His triumph is not devoid of pain for the divine King. As the Pharisees murmured and insulted Him in secret whilst the people were celebrating His triumphal entrance into Jerusalem, so now the golden crown of the monstrance is, for our King, a victim even in His glory here below, a crown of ignominy; and the rays which radiate from it enclose more than one thorn which pierce His adorable head. |
祈願 | IV. Prayer. |
聖体降福式に関する教会の規定を守り、典礼の精神を尊重しよう。 | Make the resolution always to observe, in so far as is possible, everything that is suggested by the holy Roman Church in regard to the worship of the exposition; never to do anything or assist in doing anything that you know is forbidden by her or contrary to her spirit. |
祈りと信心とによって、この聖式の普及をはかり、聖体による王国の拡張をはかろう。 | Have in all your prayers, in the whole of your religious life, a fixed and invariable intention to pray for the extension of the reign of the King of the Eucharist by means of the worship of the exposition. |
実行 | Practice. |
聖体に対する信心が常に聖会の祈り、また典礼と合致するよう努力しよう。 | Endeavor in your devotion to the Blessed Sacrament to be more and more imbued with the sentiments and the formulas of prayer and of worship of the holy Roman Church. |
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
チースリク神父様著の『キリシタン時代の日本人司祭』から、少し引用して、福者中浦ジュリアン神父がローマの総長顧問マスカレニャス (Nuno Mascarenhas) 神父に宛てて書いた手紙(1621年)をご紹介いたします。また、同じ手紙の英語訳と中国語訳もご紹介いたします。
===引用開始===
また1620年の『日本年報』では、筑後と豊前への巡回について、次のように述べられている。
できるうちは遠隔地への巡回も、怠らず決行した。日本人神父の[福者]中浦ジュリアンは筑後および豊前を遍歴し、到る所で、わがイエズス会の通常の務めをできるだけ入念に果たした。キリストの教えのために追放されたキリシタンを、そこで多く見出した。そのなかに殉教者加賀山ディオゴの息子がいた。
その巡回の際におとずれたキリシタンたちについては、詳細に語られている(1620年12月21日付け、ボネリの書簡)。
1621年には肥前地区に三人の日本人司祭が配置されていた。すなわち、口之津に[福者]ジュリアン、不動山(佐賀藩)に伊予シスト、長崎に[福者]石田アントニオであった(1621年10月9日付け、ボッロの書簡)。もう一人の日本人司祭[福者]木村セバスティアンは、すでに大村の鈴田牢に入れられていた。
その年、ジュリアン神父はみずからローマの総長顧問マスカレニャス神父に宛て、有馬地方での活動について次のような手紙を書いた(岡村良知氏の訳を参考にした)。
ローマからお書きくださった台下の御書簡を非常にありがたく存じました。そして海港である口之津でそれを落掌しました。パアデレたちが日本から追放せられ、全国の諸地方でキリシタンの脱落を企てられた総体的な迫害のこの年に、私は長上の命令で口之津に身を潜めておりました。そしてそのようにして今まで当地のキリシタンたちを助けております。この年に諸地方で私たち〔の会〕に壮烈な殉教者が少なからずあったことは、台下もそのうちにご承知になるでございましょう。その大部分は当高来(たかき)地方で〔生じたので〕ございます。そのようにしてこの〔口之津〕港だけで二十一人の殉教者がありましたが、そのほかにも刑の執行者たちがこの町のキリシタンを絶滅しようと望まないだけで、同様の殉教の責め苦や瀕死の虐待と負傷とを受けた〔者もあります〕。なぜなら当地にはそれらの衷心からのキリシタンとともに、〔ことごとく〕今日では信仰のために起こるどんな苦しみにも身を挺しているからでございます。敬虔極まるいろいろのことを書いて私にお送りくださった御書簡を私は快く受け、キリシタンたちにも崇敬させて、彼ら〔キリシタンたち〕をもご懇情〔を蒙る〕仲間に加えました。そして彼らは、私にお書きくださった台下の書簡にあるとおり、ひとり私だけではなく、日本国民全部についても忘却くださらぬことを感謝しましたし、それを理解しました。聖なるローマの都、教皇聖下、枢機卿の方々、カトリックの重立つ方々、ならびに私がヨーロッパを旅したときに経験したそれらの方々の御恩顧と御慈悲との想い出を鮮やかにしまして、私の悦楽は決して小さなものでございませんでした。されば、遠いローマからこの日本へまで、親愛のしるしをこめて私にお書きくださった御書簡では台下に対し、私は深謝し奉ります。〔これこそは〕 キリストにおける愛を永久に忘却しないものとして当地では実にありがたいことの〔一つとなりましょう〕。
私は会の保持するキリシタンたちの練磨に働くように、天主様のおかげをもって、常に健康であり、まだ気性も頑強でございます。そのようにして、当国諸地方に私たちが分散してもっている宣教〔の任務〕の上に、毎年私の責務で四千人以上にゆるしの秘跡を与えております。
本年の年報として〔台下へ〕認められる現今の出来事は、今もなお決して終わらない、毎日毎時少しの休養をも私たちに与えない迫害に関するいろいろのことでありましょう。台下へあてた本書簡を認めようとしてもなお、私に少しの安静もございませんので、キリシタンたちは〔私のところへ〕参り、私の任地をもっと安全な所へかえてはどうかと申しました。当領内から福音の教えを駆逐しようとしている領主独自の迫害について、キリシタンたちの得た情報では、日本の君主たる天下の命令に反しても誰かがそれを守りとおすことでございます。畢竟は私たちに堅忍と勇気とを与えてくださることを御主たる天主様にお任せいたしましょう。そして台下には、御祈りの折に私を想い起こしてくださるように乞い奉り、あわせて台下のミサ聖祭にお縋り申しあげます。
一六二一年九月二一日
不肖の下僕 中〔浦〕ジュリアン
同じ1621年の12月21日に、ジュリアン神父はイエズス会の最終誓願を許された。通常なら、荘厳な儀式をもって行われるものであるが、このときは美しい聖堂もなく、にぎやかな祝賀会も行われなかった。管区長フランシスコ・パシェコ神父の隠れ場であった加津佐のミゲル助右衛門の家で、いたって簡素に行われた。外面的な豪華さはまったくなかったが、内面はいっそう深い愛と献身の念に燃えていたに違いない。ローマのイエズス会文書館には、そのときジュリアン神父が署名した自筆の誓願文が保存されている。文章はラテン語で、イエズス会の通常の誓願文を用いているので、ここに改めて載せる必要はないが、その最後を次のように結んでいる。
日本において、迫害の最中、加津佐の里、ミゲル助右衛門の家にあるイエズス会の聖堂にて、
一六二一年一二月二一日。
1624年にジュリアン神父は筑前と豊前へ出かけて、博多、秋月、小倉などのキリシタンたちを訪れ、新たに勃発した迫害に対して、彼らに秘跡を授け、天主の恵みと助けを与えた、と同年の「日本年報」は報告している。
===引用終了===
【参考資料】
福者中浦ジュリアンの手紙(日本語) 結城了悟訳
【英語】
Letter of Bl. Nakaura Julian,sj, (Martyr in Nishizaka,1633) from Kuchinotsu, September 21, 1621.
To: Most Rev. Fr. Nuno Mascarenhas, Assistant of the Society of Jesus Rome.
From: Japan.
May the grace of Christ and the prayers of Mary be yours.
Most Rev. Father,
Your letter from Rome, which I received in June 1621 at the seaport of Kuchinotsu where I had been sent by my superiors, gave me great joy. I have been hiding here since the year of the great persecution when all the fathers were expelled from Japan and every effort was made to persuade Christians to abandon their faith. Since that time I have stayed here trying to help the Christians. Your Reverence must have heard of the solemn martyrdom that occurred this year and of many more that followed in different parts of this region. However, most of the martyrs were from the Takaku area. From the town of Kuchinotsu alone there were 21 martyrs. Other people suffered torture some of whom died later from their wounds. Some were spared because the executors did not want to annihilate the entire population of the town. I can assure you dear Father that the people here are all fervent Christians and face numerous trials because of their faith. So all of us rejoiced at the receipt of your letter and treated with great reverence the religious articles you sent us to help strengthen our faith. These gifts enabled us to participate in the benevolence of your Reverence. Knowing from your letter that you remember the people of Japan in your prayers, we are comforted and give thanks. Your letter brought back fond memories of the Holy City Roma, the Holy Father, the Cardinals, Catholic Princes and all the kindness and care shown to me when I visited Europe. I thank your for your letter dear Father and assure you that the memory of your charity will always remain with me.
Thanks be to God I am in good health and physically strong enough to carry on the work of the Society of Jesus. I look after more than 4000 Christians, hear their confessions and also visit missions in different parts of this region. The persecution is ongoing. The annual reports will no doubt give many accounts of it. There is little time for rest. Just as I was finishing this letter the Christians came saying I should move to a safer place, as they had news that the local lord had started a new persecution aimed at wiping out Christianity in the Takaku area. We are confident that Our Lord will give us perseverance and courage. In conclusion I ask Your Reverence to intercede for us in your prayers, and I commend myself to your Masses.
September 21, 1621
Your unworthy servant
Nak(aura) Julian
【中文】
中浦信的原文
最尊敬的神父:
您從羅馬的來信,我的長上在1621年6月在口之津町的港口收到了並轉給了我。這信給了我極大的喜悅。自大迫害開始以來,當局使盡所有的努力逼迫和勸使信徒放棄基督教的信仰,所有的神父都被驅逐出日本,從那時起我一直躲藏至今。我呆在這裡試圖幫助基督徒們。閣下必定聽說今年在這裡和其他不同的地方發生的悲壯的殉道,大部分的殉道者都是來自島原的高津,僅在口之津町就有二十一名殉道者,還有一些人因為傷勢嚴重而不久死去。
有些人倖免於難,因為行刑者不想毀滅整個村莊的人口。我向尊敬的神父保證,這裡所有的人都是熱忱的基督徒,他們為了自己的信仰面對着無數的考驗。在接奉您的信以後,我們所有的人都無比高興,將它視為最尊貴的宗教文獻,您使我們的信仰得到了堅固。這些禮物能夠使我們體會到閣下的仁愛。從您的信裡我們得知您心中掛念着日本的人民,我們感到安慰與感恩。您的來信將我帶回到對於聖城羅馬、聖父教宗、樞機主教、親王們的美好回憶之中,正是他們,在我訪問歐洲的時候給了我關心和慈愛。我感謝您親愛的神父的來信,並向您保證您的仁慈將永遠留在我們的記憶之中。
感謝天主,我身體健康、體魄健壯,能夠承擔耶穌會的工作。我照顧着四千名信徒,聽他們的告解,訪問這個地區不同的傳教站。大迫害仍然在繼續,年度報告無疑會提到這些事情。我沒有時間可以停留,就在我寫這封信的時候,基督徒們前來告訴我應該轉移到更加安全的地方去。因為有消息說當地的領主將要開始新的迫害,目的是要掃除高津地區的基督教。我們堅信我主將賜予我們堅韌和勇氣。最後,我請求閣下在祈禱中代我們向上主求情,我將自己託付給你的彌撒。
您的卑微的僕人中浦 • 朱利安1621年9月21日
【スペイン語】
Muy Rdo. en Cristo, Padre.
Estimé mucho una de V. R. escrita de Roma que recibí este año de 1621, en junio, en Kuchinotsu, un puerto de mar donde me quedé sólo escondido por orden del P. Superior el año de la persecución universal, cuando desterraron a los Padres de Japón y pretendieron hacer caer a los cristianos en todas partes del Reino. Y estoy de la misma manera aqu.í ahora, ayudando a estos cristianos. Ya habrá sabido V. R. de los solemnísimos Mártires que, en gran número el mismo año tuvimos en diversas partes, y la mayor parte de ellos eran de esta tierra de Takaku. Y así, solamente de este puerto fueron unos veintiún mártires, a más de los que volvieron del mismo martirio maltratados y heridos mortalmente, por no querer los ejecutores acabar con todos los de este pueblo. Pues aquí con estos cristianos de corazón, que hoy en día están
ofrecidos a toda manera de vejación que viniere, por amor de la fe, recibí con alegría la carta de V. R. con los objetos devotísimos que me envió, y los hice venerar, haciéndolos participantes también a ellos de su benevolencia, y quedaron agradecidos por el recuerdo no solamente de mí, mas de toda la nación japonesa, como por la carta que V. R. me escribió entendieron. No fue pequeño mi placer y consuelo al refrescar las memorias de esa santa ciudad romana y del Sumo Pontífice y de los Cardenales y príncipes católicos, y de las mercedes y muestras de amor que de ellos experimenté en el tiempo que anduve por esas partes de Europa, y así quedo agradecido a V. R. por la carta que me escribió desde tan lejos, desde Roma a este Japón, con sus muestras de amor en cosas tan estimadas aquí, para que no nos olvidemos nunca del amor en Cristo.
Yo gracias 2 Dios siempre estoy con salud y con fortaleza suficiente aún para trabajar en este cultivo de la cristiandad que la Compañia tiene; y así a mi cargo tengo más de cuatro mil de confesión cada año, a más de las misiones que nosotros tenemos acá repartidas por diversas partes del reino. Las noticias de este año que se escribirán en la carta annua serán muchas y varias por causa de esta persecución que nunca hasta ahora acaba. que cada día y cada momento no tenemos descanso alguno. Aun para acabar ésta para V. R. no pude tener un poco de tranquilidad, pues vienen a decirme los cristianos que quiera cambiar mi puesta a lugar mas seguro, por la noticias que de nuevo tuvieron de una persecución particular del Señor de la tierra, que quiere arrancar de esta tierra la ley evangélica si es que alguien la conserva aún contra la orden de la Tmka, es decir el monarca de Japón. En fln, confiemos en Dios N. S. que nos dará perseverancia y ánimo, y ruego a V. R. que se acuerde de mí en el tiempo de su oración; en los Santos Sacrificios de V. R. me encomiendo mucho.
Hoy a los 21 de septiembre de 1621.
Siervo indigno
Julián Nakaura
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
キリシタン時代には、日本人司祭が41名おりました。
日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、1549年に日本の鹿児島に到着し、日本の優れた文化と日本人の高度な教養を見て、最初の日本人司祭候補者を養成しようとしました。
鹿児島出身のベルナルドと山口出身のマテオの二名をヨーロッパに送ろうとしました。しかし、山口出身のマテオは、渡航中にインドで病に倒れてしまいました。鹿児島出身のベルナルドは無事にリスボンに着てからコインブラで過ごした後、最初はローマで、のちにコインブラで勉強を始めましたが、長旅の疲れから衰弱して1557年にコインブラで死去しました。
その後は、日本人司祭養成のためにヨーロッパ留学は困難で危険であったので、日本での司祭養成のためにセミナリヨを設立しました。
1601年に最初の日本人司祭が叙階され、合計41名の日本人司祭が誕生しています。チースリク神父様著の『キリシタン時代の日本人司祭』から、日本人司祭の名簿一覧をご紹介いたします。
キリシタン時代の日本人司祭一覧 | 生年 | 出身地 | 叙階年 | 叙階地 | 没年 | 没地 | 備考 | 列福 | 列聖 | ||
ミゲル・アントニオ | 教区司祭 | 不明 | 長崎 | 1604 | 長崎 | 不明 | 不明 | 母が日本人 | |||
ロレンソ・ダ・クルス | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1606 | 長崎 | 不明 | 不明 | . | . | . | |
村山フランシスコ・アントニオ | 教区司祭 | 不明 | 長崎 | 1606 | 長崎 | 1615 | 大坂 | 大山等安息 | |||
バウロ・ドス・サントス | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1606 | 長崎 | 1637 | コーチシナ | . | . | . | |
藤村ジョアン・ルイス | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1613 | 長崎 | 不明 | 不明 | . | . | . | |
ペドロ・クレメンテ | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1613 | 長崎 | 不明 | 不明 | . | . | . | |
トマス・ドス・アンジョス | 教区司祭 | 不明 | 志岐 | 1613 | 長崎 | 1631 | マカオ | . | . | . | |
荒木トマス | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1613 | ローマ | 1646 | 長崎 | 背教・改心 | . | ||
後藤ミゲル | 教区司祭 | 不明 | 長崎 | 1618 | マニラ | 不明 | 不明 | 背教 | . | . | |
福者 | 城ジェロニモ・デ・ラ・クルス | 教区司祭 | 不明 | 豊後 | 1619 | マニラ | 1632 | 長崎 | . | 1867 | . |
宮崎ジョアン | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1619 | マニラ | 1633 | 長崎 | . | . | . | |
アンドレ・ロベス | 教区司祭 | 不明 | 不明 | 1619 | マニラ | 不明 | 不明 | . | . | . | |
福者 | 本村セバスティアン | イエズス会 | 1565 | 平戸 | 1601 | 長崎 | 1622 | 長崎 | . | 1867 | . |
にあばらルイス | イエズス会 | 1564 | 長崎 | 1601 | 長崎 | 1618 | シナ海 | 帰国中難破 | . | ||
伊東マンシショ | イエズス会 | 1570 | 日向 | 1608 | 長崎 | 1612 | 長崎 | 遣欧使節 | . | ||
原マルティノ | イエズス会 | 1568 | 波佐見 | 1608 | 長崎 | 1629 | マカオ | 遣欧使節 | . | ||
福者 | 中浦ジュリアン | イエズス会 | 1570 | 中浦 | 1608 | 長崎 | 1633 | 長崎 | 遣欧使節 | 2008 | . |
福者 | 辻トマス | イエズス会 | 1572 | 彼杵 | 1610 | 長崎 | 1627 | 長崎 | . | 1867 | . |
福者 | 石田アントニオ | イエズス会 | 1576 | 島原 | 1610 | 長崎 | 1632 | 長崎 | . | 1867 | . |
平林マンショ | イエズス会 | 1566 | 豊後 | 1613 | 長崎 | 1615 | 長崎 | . | . | . | |
式見マルティノ | イエズス会 | 1576 | 有馬 | 1615 | マニラ | 1639 | 江戸 | 背教? | . | ||
コンスタンティノ・ドウラード | イエズス会 | 1566 | 諫早 | 1616 | マラッカ | 1620 | マカオ | . | . | . | |
伊予シスト・トクウン | イエズス会 | 1570 | 長崎 | 1616 | マラッカ | 1633 | 長崎 | . | . | . | |
福者 | 結城ディオゴ | イエズス会 | 1575 | 阿波 | 1617 | マニラ | 1636 | 大村 | . | 2008 | . |
福者 | 岐部ペドロ・カスイ | イエズス会 | 1587 | 豊後 | 1620 | ローマ | 1639 | 江戸 | . | 2008 | . |
松田ミゲル | イエズス会 | 1578 | 志岐 | 1623 | マニラ | 1632 | 長崎 | . | . | . | |
牧ミゲル | イエズス会 | 1581 | 高槻 | 1624 | マカオ | 1627 | マカオ | . | . | . | |
町田マティアス| | イエズス会 | 1581 | 口之津 | 1624 | マカオ | 1634 | マカオ | . | . | . | |
山田ジュスト | イエズス会 | 1570 | 長崎 | 1624 | マカオ | 1629 | カンボジア | 飾屋と称す | . | ||
斎藤パウロ | イエズス会 | 1566 | 丹波 | 1624 | マカオ | 1633 | 長崎 | . | . | . | |
ミゲル・ミノエス | イエズス会 | 1591 | 美濃 | 1626 | ローマ | 1628 | リスボン | . | . | . | |
小西マンショ | イエズス会 | 1600 | 長崎 | 1628 | ローマ | 1644 | 大坂 | . | . | . | |
西ロマノ | イエズス会 | 1570 | 有馬 | 1631 | マカオ | 1639 | カンボジア | . | . | . | |
フランシスコ・マルケス | イエズス会 | 1611 | 長崎 | 1641 | マニラ | 1643 | 長崎 | 大友宗麟の曾孫? | |||
ペドロ・マルケス | イエズス会 | 1612 | 長崎 | 1644 | ? | 1670 | カンボジア | 大友宗麟の曾孫? | |||
福者 | 笹田ルイス | フランシスコ会 | 1600 | 京都 | 1621 | マニラ | 1624 | 放虎原 | . | 1867 | . |
聖人 | 西トマス・デ・サン・ハシント | ドミニコ会 | 1590 | 平戸 | 1625 | マニラ | 1634 | 長崎 | 六左衛門 | 1981 | 1987 |
聖人 | 朝長ヤコボ・デ・サンタ・マリア | ドミニコ会 | 1582 | 大村 | 1626 | マニラ | 1633 | 長崎 | . | 1981 | 1987 |
聖人 | 塩塚ビセンテ・デ・ラ・クルス | ドミニコ会 | 1577 | 長崎 | 1619 | マニラ | 1637 | 長崎 | . | 1981 | 1987 |
福者 | トマス・デ・サン・アゴスティン | アウグスティノ会 | 1602 | 大村 | 1627 | セブ | 1637 | 長崎 | 金鍔次兵衛 | 2008 | . |
ミゲル・デ・サン・ホセ | アウグスティノ会 | 不明 | 府内 | 1628 | マニラ | 1637 | 長崎 | . | . | . |
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。 2020年の御ミサのスケジュール(前半)をお知らせいたします。 スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。
修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2020】』の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。 この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
【東京】 4月12日(日)から、東京では会場がしばらく変更になります。
住所: 東京都台東区入谷1-27-4
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』 Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ
これまでの会場は「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 )
**** 2020年6月の予定 ****
【大阪】
6月1日(月) 聖霊降臨の月曜日(1級)赤 午前6時半ミサ聖祭
6月5日(初金) 聖霊降臨の四季の斎日 金曜日(1級)赤 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
6月6日(初土) 聖霊降臨の四季の斎日 土曜日(1級)赤 午前10時ロザリオ及び告解 午前10時半ミサ聖祭
6月7日(日) 聖三位一体(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
6月8日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑 午前6時半ミサ聖祭
6月11日(木) 御聖体の祝日(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭 ←追加されました
6月12日(金) 証聖者聖ファクンドの聖ヨハネ(3級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
6月13日(土) 教会博士証聖者パドゥアの聖アントニオ(3級祝日)白 午前10時ロザリオ及び告解 午前10時半ミサ聖祭
6月14日(日) 御聖体の祝日の荘厳祭 白 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
6月15日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑 午前6時半ミサ聖祭
6月19日(金) イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
6月20日(土) 聖母の土曜日(4級)白 午前10時ロザリオ及び告解 午前10時半ミサ聖祭
6月21日(日) 聖霊降臨後第3主日(2級)緑 午後5時半ロザリオ及び告解 午後6時ミサ聖祭
6月22日(月) 証聖者司教聖パウリノ(3級祝日)白 午前6時半ミサ聖祭
【東京】
主日は、しばらくミサが三回捧げられます。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
6月7日(日) 聖三位一体(1級祝日)白 午前09時ミサ聖祭 午前11時ミサ聖祭 午前12時半ミサ聖祭
6月14日(日) 御聖体の祝日の荘厳祭 白 午前09時ミサ聖祭 午前11時ミサ聖祭 午前12時半ミサ聖祭
6月21日(日) イエズスの聖心の祝日の荘厳祭 白 午前09時ミサ聖祭 午前11時ミサ聖祭 午前12時半ミサ聖祭
7月以降は、決定しましたら掲載いたします。いましばらくお待ちください。