

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、主の御復活のお慶びを申し上げます。
2021年4月18日は復活後第二主日、良き牧者の主日です。「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活後第二主日の説教」の動画をご紹介いたします。
ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。
今週末:2021年4月16日(金)17日(土)18日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
4月16日(金) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
4月17日(土) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
4月18日(日) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】
【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 )
4月17日(土) 11:00 ミサ聖祭
4月18日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】
Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of April 18, 2021.
Mass schedule in OSAKA:
Fri, April 16: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, April 17: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, April 18: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
ヴィガノ大司教「私たちは、司祭たちに、聖なるミサを人生の最初で最後のミサであるかのように捧げるように願い、世俗的な儀式を廃止し、司祭たちがかたくなに隠している宝物を私たちに返してくれるようにお願いしましょう。勇気を持って一貫して聖伝の典礼を行う司祭たちに、物質的・精神的な援助を与えることを覚えましょう。いつの日か、彼らがキリスト教社会を回復するための基盤を再構築する人となるでしょう。」
ヴィガノ大司教「もし私たち自身が、使徒たちによって私たちまで受け継がれた典礼によって、定期的に聖なる犠牲(ミサ聖祭)にあずかることができないのであれば、祝された秘跡(御聖体)を冒涜し、説教壇を使って信仰と道徳を堕落させる人々から距離を置きましょう。しかし、重大な不都合を伴わずにトリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきであることを、自分の良心の義務として私は繰り返し述べたいと思います。」
Interview of Aldo Maria Valli with Mons. Carlo Maria Viganò
アルド・マリア・ヴァッリによるモンシニョール・カルロ・マリア・ヴィガノとのインタビュー
アルド・マリア・ヴァッリ(イタリア人ジャーナリスト)
【アルド・マリア・ヴァッリ】大司教様、あなたの度重なる発言やさまざまなブログの活動を通して、私たちは、新世界秩序(New World Order)のイデオロギーによって押し付けられた暴政であるかのように教会内に広がっている背教をあらゆる方法で非難しています。そしてこの新世界秩序に教会の位階階級は完全に服従しているように見えます。
これらのテーマに関しては、家族そして友人の間でも、分裂がこれまで以上の速さで進んでいることが注目されています。この世と教会の問題に関しては、根本的に分かれた判断があり、相互理解を認めないような二極化があります。それはまるで、二つの異なる文化、二つの異なる人間学、そして二つの異なる信仰が現れたかのようです。このような状況の中で、私たちが真理への愛を守りたいと願うなら、どのように振る舞うべきなのでしょうか。
【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】あなたの言われる通りです。いわゆるパンデミックを口実に始まった新秩序の構築は、多くの人に心の平穏と静けさを失ったと感じさせ、私たちを圧倒してその前では無力だと感じる悪を認識させ、家族や親戚、友人の間の分裂や争いを激しくさせます。私たちは、十分に成長して善悪を見分けることができると信じていた身近な人々を、嘘が説得に成功してしまうのを見て、悲しくなることがよくあります。私たちの友人たちが、主流メディアの大げさな宣伝に惑わされ、実に催眠術をかけられていると言ってもいいほど、信じられないように思えます。私たちが良心的だと思っていた医師たちは、ある種の狂った迷信の名の下に合理性を放棄することで、自らの科学的知識を抹消してしまったかのようです。昨日までナチズムや共産主義の恐怖を非難していた知人たちは、これらの独裁政権の恐怖が、より非人間的で冷酷な形で再提案され、強制収容所での実験や世界の人々の天賦の権利の侵害がより広い規模で再現されていることに気付いていません。
私たちは、教区の司祭が新型コロナウイルス感染症についてあたかも疫病のように語り、市長が位階階級の人物のように振る舞い、家族がテラスでバーベキューをしたからといって隣人が警察に通報するということがどうして起こり得るのか理解できません。かつて勇猛果敢に戦い、命をかけていた高齢者が、治療可能なインフルエンザによって文字通り恐怖にさらされています。しっかりとした倫理観を持った家庭の父親は、自分の子どもが悪徳や倒錯した教育を受けていることを容認し、自分が受け継いできたものや信じてきたものにはもはや価値がないかのようにしています。国を愛すること、国境を守ること、国家主権について語ることは、今やファシストとみなされています。
そこで、私たちは自問するのです。私たちが愛してきたイタリアはどこにあるのでしょうか。私たちに信仰を教え、天主の聖寵の中で私たちを成長させてくれた教会はどこにあるのでしょうか。わずか数年の間に、これらすべてが取り消されてしまったということはあり得るのでしょうか。
今起こっていることは、世俗の領域でも宗教の領域でも、何十年も前から計画されていたことは明らかです。また、多くの人々が、非常に多くの人々がこれまで騙されてきました。つまり、まず、私たちの信仰や価値観を共有していない人々に権利を与えるように説得し、次に、カトリックであるという事実や、彼らの考え、彼らの過去に対して、多くの人々にほとんど罪悪感を抱かせるまでにしたのです。今日、私たちは時代に逆行した者、狂信者としてかろうじて許容されるというところまで来ていますが、一方では、数千年もの間、文明生活の基礎を構成してきたことを行うことを犯罪としようと望み、天主に反する、自然に反する、そして私たちのアイデンティティーに反するあらゆる行為を正当なものとするだけでなく義務と宣言しようを望んでいる人々もいます。
私たちの社会全体を巻き込んだこの激動に直面して、光の子と闇の子の間に生じる分裂は、ますます明確になっています。これは、勇気ある断固とした選択をするために、天主から与えられた聖寵です。主の言葉を思い出しましょう。「私が地上に平和をもってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣(つるぎ)を持ってきた」(マテオ10章34節)。
数十年にわたって私たちが耳にしてきた平和主義は、善き人々を武装解除し、悪しき人々を自由にして彼らの不正な行いをさせるだけのものです。ですから、「神の国」に属する者とこの世の君に仕える者との間の分裂や分極化も、私たちの目を開かせるのに役立つのであれば歓迎すべきことなのです。真理を愛するということは、必然的に嘘を憎むということであり、二人の主人に仕えることができると考えるのは、思慮が浅く、幻想に過ぎません。
今日、キリストの御国と新世界秩序の専制政治との間で選択を求められているのであれば、私たちはこの選択を避けることはできず、首尾一貫して実行し、殉教に至るまで主の証人となる力を主に求めなければなりません。福音が 世界統一主義(globalism)という反福音と和解できると言う人は嘘をついています。それは、すべての宗教が平和的に共存できる戦争のない世界を提案する人も嘘をついているのと同じです。キリストの御国以外に平和はありません。「pax Christi in regno Christi」(キリストの御国におけるキリストの平和)。
もちろん、戦闘を成功させるためには、私たちを導いてくれる将軍たちや司令官たちを頼りにしなければなりません。しかし、彼らのほとんど全員が脱走や裏切りを好んでいたとしても、私たちは無敵の指導者である至聖なる童貞を頼りにすることができ、聖母の子らと教会全体への保護を呼び求めることができます。聖母の強力な導きの下で、私たちは何も恐れることはありません。なぜなら、聖母こそがいにしえの蛇の頭を打ち砕き、サタンの傲慢が壊した秩序を回復してくださるからです。
【ヴァッリ】典礼と聖なるミサについてお話ししましょう。いくら善意のカトリック信者であっても、「古い典礼のミサ」(Vetus Ordo Mass)に参加できるわけではなく、本当の正しい意味での乱用はないとしても、しばしば典礼的に礼を失した小教区のミサで「自らを満足させ」なければなりません。これらのミサでは、ご聖体を立ったまま手で受け、「天にまします」は[イタリア語で行われるミサでは]新しい定式文に従って唱えられ、出席者は[平和のしるしの代わりに]「平和の視線」を交わすように招かれ、(いくつかの側面に触れただけの)ベルゴリオ主義に沿った説教を聞くのです。結局のところ、彼らは悲しい気持ちで、控えめに言っても、天主や兄弟と和解した平和な気持ちではなく、ミサを後にするのです。では、彼らはどうすればいいのでしょうか。
【ヴィガノ大司教】私たちはまず、カルワリオの犠牲による無限の聖寵を祭壇の上で血を流すことなく永続させるために、主によって制定された最高の礼拝行為が、霊的進歩と内的平和の機会ではなく、信徒の聖化の障害物となってしまったということが、いかにしてあり得るのかを自問すべきです。他の時代には、ミサはこの世の試練と混沌の中で天国を垣間見させてくれましたが、今日では、この世の喧騒は、沈黙、祈りによる礼拝、そして聖なるものや天主の現存という感覚を追い出すための不可欠な要素であるように思われます。しかし、自然の秩序において、健康的な食べ物で体を養い、毒や混ぜ物の入ったものを避けることが私たちの義務であるならば、超自然の秩序において、健康的な栄養で霊魂を養い、霊的に毒となるものを避けることは、なお一層私たちの義務です。
もちろん、聖伝のミサ聖祭が行われている教会を見つけるのが難しいという信徒の気持ちは理解できますが、主は、聖なる犠牲が私たちの霊魂にとって重要であることを認識している人々の善意を評価する方法も知っておられると思いますし、特に私たちが経験しているような大きな危機の時には、その理由のために、信徒は、少なくとも日曜日には、主日をふさわしく聖別するための小さな努力をする方法を知っていると思います。
カトリック教徒が迫害され、ミサに出席することが困難で危険な時代や場所があったにもかかわらず、信徒たちは天主を敬い、天使のパンで自らを養うために、森の中、地下室、屋根裏に密かに集まることに成功したのです。私たちは、言い訳や口実を作らずに、このような信仰の兄弟にふさわしい者になる義務があります。
一方で、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)は、聖伝のミサを持つ信徒の権利(特権ではなく権利)を認めていますし、これがどこでも実現していないとすれば、それは信徒がいかにして自分を強く主張するかを知らないことが大きな原因です。これは、美学への関心や、ラテン語やグレゴリオ聖歌への愛、あるいは一種の自分の過去を懐かしむこととしての問題ではありません。
私は、多くの信徒の皆さんが、時には何マイルも離れた場所にある聖伝のミサを探し求めるために、自分の教区の生活を放棄するかどうかを決断しなければならないとき、少なくとも人間的な観点から見て、困難な状況に置かれていると思っているのを理解しています。少なくとも、舌の上にご聖体を授ける敬虔な司祭が礼儀と敬意を込めて捧げるミサを探すことは、信徒の持つ重大な道徳的義務でしょう。
パンデミックは、典礼行事に対して不正に制限を加える口実となりました。私たちは、品のないミサや冒涜的なミサを押し付けられるのを黙認したり、諦めたりすることで、これらの不正の責任を自ら負わないようにしましょう。天主は、私たちに対する天主の愛に私たちがお返しする際の無関心と無頓着さにも怒っておられます。この無関心さは、聖土曜日に教会でワクチン接種を受けることさえ許し、「終わりのこと」【四終=死、審判、天国、地獄】に関する黙想を肉体的の死への根拠のない恐れに置き換えている信徒の中にますます見受けられます。
聖職者と位階階級が腐敗して腐敗させる権威の「絶対的命令」(diktats)の奴隷となっているのがこのように明らかであることに直面して、大きく声を上げることは道徳的な義務であるだけでなく、司祭職の感覚と召命の魂を忘れてしまった多くの教会人の行き過ぎた行為にブレーキをかけることでもあります。特に、疑似科学的な迷信が信仰の唯一の形態となり、一つの宗教の象徴、語彙、儀式性を流用する場合には、新型コロナウイルス感染症の物語に協力することがいかに深刻なことであるかを彼らは真剣に考えるべきです。聞く耳のある人には理解してもらいましょう。
ですから私たちは、私たちの司祭たちに、聖なるミサを人生の最初で最後のミサであるかのように捧げ、このような世俗的な儀式を廃止し、司祭たちがかたくなに隠している宝物を私たちに返してくれるようにお願いしましょう。勇気を持って一貫して聖伝の典礼を行う司祭たちに、物質的・精神的な援助を与えることを忘れずに覚えていて、いつの日か、彼らがキリスト教社会を回復するための基盤を再構築する人となるであろうことを覚えておきましょう。
そして、もし私たち自身が、使徒たちによって私たちまで受け継がれた典礼によって、定期的に聖なる犠牲(ミサ聖祭)にあずかることができないのであれば、祝されし秘跡(御聖体)を冒涜し、説教壇を使って信仰と道徳を堕落させる人々から距離を置きましょう。しかし私は、重大な不都合を伴わずにトリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきであることを、自分の良心の義務として繰り返し述べたいと思います。
【ヴァッリ】「誰が教皇で、誰が教皇でないのか」という問題が再び提起されていることを、大司教様は間違いなく、もうご覧になっていることと思います。「ベルゴリオがザンクト・ガレン・マフィアの工作に基づいて選出されたことや、おそらくコンクラーベでの不正があったであろうことを考えると、彼は教皇ではない」と言う人々がいます。その代わりに、ラッツィンガーは、自由に教皇の聖座を放棄したのではなく、強い圧力によって強制されたと言われているため、さらに、辞任のラテン語の文章を無効にするためにわざと間違って書いたと言われているため、ラッツィンガーが教皇であると言われています。これは「幻想の教会」(fantasy church)なのでしょうか。それとも、真剣に検討すべき要素があるのでしょうか。
【ヴィガノ大司教】ベネディクト十六世をして辞任宣言をするに至らせた背景には、教会外部からと位階階級の有力者たちからの強くて不当な圧力、ヨゼフ・ラッツィンガーの個人的な性格など、複数の原因があると言われており、教会は深刻な不確実性と混乱の状態に陥っています。進歩的な陰謀家たちのグループの策動によって、ベルゴリオが候補者として指し示され、そのあと、ローマ教皇の選出を規定した使徒憲章「ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス」(Universi Dominici Gregis)に違反したコンクラーベの中で、選出されたと言われています。これらの要素は、ラッツィンガーの退位を無効にし、2013年のコンクラーベを無効にし、後継者の選出をも無効にすると言われています。
しかしながら、それらのことについて広まっていて否定できない話も存在しますが、これらの要素は、教会の最高権威による確認、そして何よりも宣言が必要です。それを行う権威を持たない人々が行う宣告は軽率です。また、現在の状況では、誰が現在の教皇であるかという論争は、すでに分裂している教会の体の健全な部分を弱め、善き人々の間に分裂をもたらすだけだと私は考えています。
真実を明るみに出し、進むべき道を示していただけるよう、信頼を持って主に祈りましょう。今は、究極の目的に向かって手段を講じる「思慮分別」という聖徳を強く持って、教会が常に信じてきたこと、「常に、どこででも、すべての人によって、信じられていたこと」(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus creditum est)に忠実であり、油断なく守っていきましょう。
【ヴァッリ】多くの点で複雑で混乱しているこの時代に、あなたの祈りはどのようなものですか。どのようにして私たちの主に立ち返ればいいのか、私たちに提案していただけますか。
【ヴィガノ大司教】今日起こっていることは、国々の公の罪、個人の罪、そして恐ろしく聞こえるかもしれませんが、教会人の罪のせいです。私たちは、国々の罪にも位階階級の罪にも介入することはできませんが、謙遜さと、自分の罪や不忠実、生ぬるさを改めるというまことの回心の精神を持つことから始めることができます。ですから、新ファリザイ派の人々がこの世の評価を喜んでいるとき、彼らの回心を祈ることに加えて、私たちは次の福音の言葉で自分のために主の御あわれみを懇願しなければなりません。「ああ、天主よ、罪人の私をおあわれみください」(ルカ18章13節)と。
社会、そしてなおさら教会は、私たちの忠実さと、天主の聖寵と至聖なる童貞のご保護のもとに私たちのために用意された聖性の道を歩むことによって、大きな利益を得ることになるでしょう。私たちの主が十字架上で私たちの母として与えてくださった聖母に依り頼むことに信頼を置くのを、自ら奪い去らないようにしましょう。
【ヴァッリ】間もなく復活祭です。すべてのことにもかかわらず、主は復活されます。私たちは、希望の理由を見つけたいと思います。これは難しい企てですが、私たちにできるでしょうか。
【ヴィガノ大司教】私たちにできるというだけではありません。私たちはその信仰を持たなければならず、さらに希望の徳をも働かせなければなりません。この希望の徳によって、罪を避け、善を行い、天国の永遠の至福を得るために必要な聖寵を主が与えてくださるのだということを知るのです。私たちは、「in hac lacrimarum valle」(この涙の谷)の巡礼者であり、私たちの故郷は、天使や聖人とともに、三位一体の栄光のうちにある天のエルザレムであることを忘れないようにしましょう。
「Surrexit Dominus vere」(主まことによみがえり給えり)、復活祭の典礼はそう宣言しています。主は決定的に復活し、サタンに対して勝利を収め、アダムが原罪で署名した自筆の奴隷証書をサタンから奪い取ってくださいました。現在の試練、つまり、私たちを押しつぶし、打ち負かそうとする強力な戦列に対して、見捨てられ、孤独であることへの恐れは、私たちを怯えさせるものではなく、ご自身のことを次のように言われた方への信頼を新たにするように駆り立てるものです。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。
この聖なる復活祭が、私たちを天主へと立ち返らせ、私たちに罪びとの回心のために贖罪と償いの精神をもって試練と苦難を捧げさせ、それによって、ゲッセマネの杯を分かち合った後に、私たちが復活の栄光に値する者となることができますように。
2021年の聖木曜日
このインタビューはイタリア語版ではこちらで初公開されました。ヴィガノ大司教のご要望により、英語版はThe Remnantに掲載されています。
Abp. Viganò on “the Scandalous Prohibition of Private Holy Masses in Saint Peter’s Basilica”
ヴィガノ大司教「聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止というつまずきを与えている命令について」
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2021年4月1日
【編集者注】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、「Exivit de Templo」(ヨハネ8章59節に基づく)と題した最新の発言で、「バチカンの聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを行うこと」を禁じる「国務省の匿名の役人によるつまずきを与える決定」を非難しています。
この禁止令は2021年3月22日に発効しました。この正式な通知には、国務長官代理・総務局長(国務省の第二位の命令権限者)であるエドガル・ペーニャ・パラ大司教のイニシャルが記載されていることから、ヴィガノ大司教は、この決定に責任のある「匿名の役人」が、過去にヴィガノ大司教が批判したことのある人物であると特定しています。
この禁止令を過去数十年の典礼の荒廃と結びつけながら、ヴィガノ大司教は「世界中の教区ですでに行われていることを明示したに過ぎず、60年間にわたり、第二バチカン公会議によって導入された教理上の逸脱が、会衆のいないミサには価値がない、あるいは、共同司式のミサや信徒が出席するミサよりも価値がない、とほのめかしてきた」と述べています。
大司教はこう説明しています。「近代主義者にとっては、いくつかのミサを同時に行うことほど嫌でたまらないことはありません。それは、『至聖なる御聖体の御前の』(coram Sanctissimo)(つまり、聖体顕示台の至聖なる秘跡の前の)儀式が耐えられないのと同じです。彼らにとって聖なるミサは晩餐であり、宴会であって、いけにえではありません。この理由により、祭壇はテーブルに置き換えられ、ご聖櫃はもはや祭壇の上には存在せず、『祈りと黙想にもっと適した場所』に移されているのです。この理由により、司式者は天主ではなく会衆の方を向くのです」。
大司教は、プロテスタントをなだめるために、「エキュメニカルな対話の障害となるカトリックの教義を弱めたり、沈黙させたり、明確に否定するために、改革されたミサが変更された」ことを思い起こしながら、教皇フランシスコも同様に、「至聖なるマリアの仲介者と共贖者の称号を平気で否定しているが、それはただひたすらルター派を喜ばせることだけを意図している、何故ならルター派は『教皇崇拝者ども』が一人の女性(聖母)を偶像化し、同時にイエズス・キリストが唯一の仲介者であることを否定していると主張しているからだ」ということを鋭く観察されています。
このつまずきを与える禁止令に直面して、元教皇大使はこう尋ねます。「私と同じように毎朝、聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを何年も捧げてきたレ枢機卿はどこにいるのでしょうか。これだけの乱用に直面して、なぜ彼らは今、沈黙しているのでしょうか」
聖なる三日間を迎え、教会における信仰と道徳の危機が続いていること(そして「世界統一主義(globalism)の名の下に確立されつつあるこの世の地獄」)を踏まえて、ヴィガノ大司教は最後に私たちに、こう思い起こさせます。「キリストの神秘体である教会は、自らの受難に近づいています」―ベネディクト十六世がファチマ第三の秘密に属すると特定したテーマ―「自らのかしらの苦しみを自らの肢体で完成させるために。贖い主のご復活から私たちを引き離しているこの日々が私たちを祈り、償い、犠牲へと駆り立てますように。それによって、…贖罪と償いの精神で、私たちの主の聖なるご受難に私たちが一致することができますように」。
大司教様のご要望にお応えして、CFNは喜んで以下に全文を掲載します。
EXIVIT DE TEMPLO
神殿を立ち去られた
「聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止というつまずきを与えている命令について」
Jesus autem abscondit se, et exivit de templo.
イエズスはそっと神殿を立ち去られた
ヨハネ8章59節
3月12日、教皇庁の国務省総務局(First Section of the Secretariat of State)は、署名やプロトコル番号、連絡先なしで発表された布告により、受難節第一主日から、バチカンの聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを行うことを禁止しました。その後の数日の間に、レイモンド・L・バーク、ゲルハルト・L・ミュラー、ヴァルター・ブラントミュラー、ロベール・サラ、ジョゼフ陳の各枢機卿が、この決定に対して正当な困惑を表明しました。この決定は、その作成方法が不規則であることから、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの明確な命令であると結論づけられています。
カトリックの教理は、聖なるミサの価値、ミサが至聖なる三位一体に捧げる栄光、そして生ける人と死せる人の両方へのこの聖なるいけにえの力を教えています。私たちはまた、聖なるミサの価値と効力は、ミサに参加する信徒の数や司式者がふさわしい人物かどうかに依存するのではなく、むしろ、キリストのペルソナにおいて(in persona Christi)、また聖なる教会全体の名によって行う司式司祭の働きを通して、同じ十字架のいけにえを血を流すことなく繰り返すことによることを知っています。「suscipiat Dominus sacrificium de manibus tuis, ad laudem et gloriam nominis sui; ad utilitatem quoque nostram totiusque Ecclesiae suae sanctae.」(主が、御名のほまれと栄光のため、さらに、われらの利益のため、ご自分の聖なる全教会のため、あなたの手から、このいけにえを受け給わんことを。)
口にできないもののエドガル・ペーニャ・パラ大司教と簡単に特定される、匿名の国務省の役人によるつまずきを与える決定は、残念ながら、世界中の教区ですでに行われていることを明示したに過ぎません。60年間にわたり、第二バチカン公会議によって導入された教理上の逸脱が、会衆のいないミサには価値がない、あるいは、共同司式のミサや信徒が出席するミサよりも価値がない、とほのめかしてきたのです。
公会議後の典礼規範では、同じ教会内に祭壇を増やして設置することを禁止し、主祭壇でミサが捧げられている間は、副祭壇で他のミサを行ってはならないと規定しています。モンティーニの「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum)では、「会衆のいないミサ」(Missa sine populo)のための特別な典礼が用意されており、そこでは、例えば「主はあなたたちとともに」(Dominus vobiscum)や「祈れ、兄弟たち」(Orate, fratres)などの挨拶が省略されていますが、これは、あたかも出席者だけでなく、天上の宮廷や煉獄の霊魂もご聖体のいけにえに参加していないかのようです。
世界中のどの香部屋でも、司祭がミサを捧げたいと申し出ると、私はトリエント典礼のことではなく、改革典礼のことを言っているのですが、必ずと言っていいほど、前もって予定されていた共同司式のミサに加わることができるという答えが返ってきますし、いずれにしても、信徒の参加なしでミサを捧げることができるかどうかを尋ねると、疑いの目で見られます。私誦ミサを行うことはすべての司祭の権利であると異議を唱えることは無意味です。公会議の「心」(mens)は、第二バチカン公会議の「精神」を純粋な一貫性をもって適用し、その本質を明らかにするために、法の文面をはるかに超える方法を知っているのです。
一方、改革されたミサは、エキュメニカルな対話の障害を構成するカトリックの教義を弱めたり、沈黙させたり、明確に否定したりするために修正されました。
ミサの四つの目的について語ることはつまずきを与えることだと考えられています。なぜなら、この教理は、トリエント公会議で定義された聖なるいけにえの礼拝、償い、感謝、祈願という価値を拒否する人々を混乱させるからです。
近代主義者にとって、いくつかのミサを同時に行うことほど嫌でたまらないことはありません。それは、「至聖なる御聖体の御前の」(coram Sanctissimo)(つまり、聖体顕示台の至聖なる御聖体の秘跡の前の)儀式が耐えられないのと同じです。彼らにとって聖なるミサは晩餐であり、宴会であって、いけにえではありません。この理由により、祭壇はテーブルに置き換えられ、ご聖櫃はもはや祭壇の上には存在せず、「祈りと黙想にもっと適した場所」に移されているのです。この理由により、司式者は天主ではなく会衆の方を向くのです。
国務省の布告は、聖ペトロ大聖堂の規則に対する軽視や、署名やプロトコル番号がないという偽善的な巧妙さを超えて、善意であるにもかかわらず、いわゆる「公会議後」という広い文脈で捉えようとせずに個々の行為を考察することを強く主張する人々が、認めたくも反対したくもない事実を最新の形で確認するものです。
バーク枢機卿が最近の声明で言及しておられるように、第二バチカン公会議が私誦ミサの価値を再確認しているのは文書の上では本当のことですが、実際には、私誦ミサを絶滅の運命にある「懐古主義者」(nostalgics)や風変わりな信徒グループの特権にしてしまいました。典礼学者がこのようなテーマで勿体ぶって話すときの見下したような態度は、苦しんでいる教会の体の中で生き残ってきたカトリック的なものに対する不寛容さを示しています。
この立場に沿って、ベルゴリオは、至聖なるマリアの仲介者と共贖者の称号を平気で否定することさえやってのけるのですが、それはただひたすらルター派を喜ばせることだけを意図しています。何故ならルター派は、『教皇崇拝者ども』が一人の女性(聖母)を偶像化することでイエズス・キリストが唯一の仲介者であることを否定している、と主張しているからです。
今日、聖ペトロ大聖堂(バシリカ)での私誦ミサを禁止することは、他のバシリカや世界の教会での乱用を正当化するものであり、この私誦ミサ禁止は明確に規定されたことがないにもかかわらず、すでに数十年前から実施されています。そして、この乱用が表面上の公的な命令という手段によって課せられていることが、さらに重要であり、その命令によって、国務省当局が、"権威に対する敬意の恐れ(reverential fear)"を使って、カトリックであり続けたいと願う人々 --- 現在の位階階級がその反対の努力をしているにもかかわらずあくまでもカトリックたろうとする人々 --- を沈黙させるということを意味しています。
しかし、ベネディクト十六世以前の過去においては、聖ペトロ大聖堂で聖なるミサを捧げようとする者は誰であれ、決して楽な生活を送ることはできず、トリエント典礼は言うに及ばず、あえてラテン語でノブス・オルド・ミサを捧げようとするだけで、破門された「避けるべきもの」(vitandus)のように神殿から追放されていたのです。
もちろん、新近代主義者にとっては、私誦ミサを禁止することができますし、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の廃止を求めようともするでしょう。なぜなら、サンタ・マルタ館の最も熱心なおべっか使いの一人である「マックス・ビーンズ」(Max Beans)【教会歴史家の米ヴィラノヴァ大学教授マッシモ・ファッジョーリ(Massimo Faggioli)のこと。ファッジョーリはイタリア語で豆の意味】が最近認めたように、トリエント典礼は「公会議の神学」と本質的に対立する教理を前提としているからです。
しかし、私たちは聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止というつまずきにまで至ったのであれば、典礼的、教理的、道徳的な分野で、「オヴァートンの窓」の原理を適用して、段階的に進めていく革新主義者たちの「手口」(modus operandi)に負うところも大きいのです。それを知っておきましょう。つまり、異端者や離教者へのこういった品位を欠いた目くばせ(合図)は、カトリック以外の宗派を対象とした戦略に沿ったものであり、その戦略は、キリスト教ではない宗教や今日優勢になっている新異教イデオロギーを対象とした幅広い戦略の中で真の完成を見るのです。これが、この世とそのかしらを喜ばせるために、キリストの敵を意図的に喜ばせるという意志を理解する唯一の方法です。
このような観点から理解すべきなのが、次のようなことです。つまり、バチカン大聖堂のファサードへの動物の投影、司教や聖職者の肩に乗せられたパチャママの像の入場、ベルゴリオが司式するミサでペトロの信仰告白の祭壇の上に置かれた母なる大地に捧げられた供え物、キリストの代理者の称号を拒否する者による教皇祭壇の使用放棄、パンデミックを口実にした典礼行事の禁止とその共産主義政権の人格崇拝を想起させる儀式への置き換え、「世界統一主義的な環境保護主義」(globalist ecologism)の新しい典礼に合わせるために聖ペトロ広場を完全に闇の中に浸らせること、です。この現代の金の子牛は、シナイ山から降りてくるモーゼの再来を待ち望んでいます。新たな偶像崇拝者たちであるサンタ・マルタ館のアーロンの追随者を追い出した後、カトリック教徒をまことの信仰に復興させるような現代のモーゼを待望しています。この世で天主の権威の代理を務める者が、キリストから司牧するようにとの命令で委ねられた霊魂たちを誤謬において固めるために、その権威を乱用する態度ほど、愛徳から程遠いものはありません。羊小屋を開けたままにしておいて羊がそこから出てくるのを奨励し、飢えた狼の顎に送り込むような牧者は、傭い人であって悪しき者【悪魔】の味方であり、最高の牧者【キリスト】に説明しなければならなくなるでしょう。
この何度目か分からないほどのつまずきに直面して、私たちは高位聖職者たちの臆病で共謀的な沈黙にがっかりしてしまうかもしれません。他の枢機卿はどこにいるのでしょうか、大聖堂の名誉大司祭はどこにいるのでしょうか、私と同じように毎朝、聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを何年も捧げてきたレ枢機卿はどこにいるのでしょうか。これだけの乱用に直面して、なぜ彼らは今、沈黙しているのでしょうか。
パンデミックや時の権力者による天賦の権利の侵害の際に世俗の領域で起こったように、教会の領域でも独裁者は自らを押し付けるために、気骨や理想を持たない臣民を必要としています。他の時代であれば、バチカン大聖堂は、(抗議する)司祭たちに包囲されていたことでしょう。何故なら司祭たちこそが、厚かましくも民主的でシノドス的であるように自らを見せかけているこの憎むべき専制政治の最初の犠牲者となるからです。
世界統一主義の名の下に確立されつつあるこの世の地獄は、多くの、あまりにも多くの聖職者と信徒の怠惰と臆病の結果である、あるいはむしろ裏切りの結果以外の何物でもない、などということがあってはなりません。
キリストの神秘体である教会は、自らのかしらの苦しみを自らの肢体で完成させるために、その受難に近づいています。贖い主のご復活を前にしているこの数日の時が、私たちを祈り、償い、犠牲へと駆り立てますように。それによって、まことの愛の絆において、敵に善を行い、罪人の回心 --- しかも世俗のそして教会の長上として私たちを苦しめるように御摂理が按配した人々のために --- を天主に乞い願うことを可能にする諸聖人の通功の教理により、贖罪と償いの精神で、私たちの主の聖なるご受難に私たちが一致することができますように。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年3月31日
聖週間の水曜日(聖水曜日)
復活の信憑性のしるしについての説教
ドモルネ神父
はじめに
今日の福音書には、聖トマスが主の御復活という現実を信じることをたすけるために、私たちの主イエズスが、いくつかの明白なしるしを与えられたことが書かれています。同様に、天主は、私たちのカトリックの信仰を、いくつかの明白な真理のしるしによって助けてくださいます。
1.使徒たちのイエズスの御復活の信仰は、いくつかの明白な真理のしるしによって助けられた
私たちの主イエズスは、死者の中から復活されました。生き返られたのです。天国の栄光ある命をもって、生き返られたのです。使徒たちにはイエズス・キリストの御復活を信じるのが難しかったのですが、それは、そのようなことがいかにして可能であるかを理解できなかったからです。死んだ人がどのようにして生き返ることができるのか、理解できなかったのです。天国の栄光ある命とは何であるか、理解できなかったのです。
私たちの主イエズスは、使徒たちに、どのようにして死者の中から復活することができたのかを説明されませんでした。天国の栄光ある命がどのようなものであるかについても、説明されませんでした。これを理解することは、人間の能力を超えています。私たちの主イエズスは何も説明されませんでしたが、使徒たちが主の御復活という現実を信じることをたすけるために、主イエズスの御復活という現実を示すいくつかの明白なしるしを与えられました。
また、私たちの主イエズスは、弟子たちの証言を、もっとインパクトのあるものにすることを望まれました。実際、私たちは、目撃しなかった人よりも、目撃した人の方を信じやすいものです。聖ヨハネはこう言いました。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、ながめて手で触れたこと[について]…あなたたちに告げる」(ヨハネ第1書1章1節)。
私たちの主イエズスは、どのようなしるしで、ご自身の復活の現実を弟子たちに示されたのでしょうか。
第一に、主イエズスはご自分が本物の人間の体を持っておられることを示されました。使徒たちはイエズスを見て、触ることができました。私たちの主イエズスは、彼らにこう言われました。「私自身だ。触れて確かめよ。あなたたちの見ている私のこんな肉と骨は霊にはない」(ルカ 24章39節)。イエズスは、使徒たちの前で食べ物を食べられました。「彼らが焼いた魚一片(と一房の蜜蜂)を差し出すと、イエズスはそれを取り、彼らの前で食べ、(残りを取って彼らに与えられた)」(ルカ 24章42節)。
第二に、私たちの主イエズスは弟子たちに、ご自分が死ぬ前と同じ体を持っておられることを示されました。弟子たちに、手足や脇腹の傷を見たり、触ったりすることを許されました。「あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇に置きなさい」(ヨハネ20章27節)。
第三に、私たちの主イエズスは、死の前と同じ天主の御力を持っておられることを弟子たちに示されました。奇跡的な漁をされたのです。
第四に、私たちの主イエズスは、ご自分の命がもはや死ぬ前のものではなく、天国の栄光の命を持っておられることを弟子たちに示されました。イエズスは、すべての扉が閉じられた部屋に入られました。主は弟子たちの目の前から突然姿を消されました。
これらすべての証拠を見て、使徒たちはもうその事実を否定することができませんでした。イエズスは本当に死者の中から復活されたのです。彼らは、世の罪を贖うためのイエズスの十字架上の犠牲が、天主に受け入れられたことを理解しました。彼らは、イエズスに従うことで、誰もが永遠のいのちに到達できることを理解したのです。
2.私たちのカトリックの信仰は、いくつかの明白な真理のしるしで助けられた
ヒンズー教、道教、仏教、神道、イスラム教などの信者は、物語を信じることを求められますが、その物語が真理であるというしるしは何も与えられません。さらに悪いことに、これらの話はしばしば荒唐無稽で不条理なものです。ですから、このような宗教を信仰することは合理的ではありません。
私たちはカトリック教徒です。両親がカトリック教徒だったからという理由でカトリック教徒なのではありません。カトリック教会の教えを盲目的に信じているわけではありません。私たちの主イエズスが、御復活という現実を示すいくつかの明白なしるしを使徒たちに与えてくださったように、イエズスはカトリックの教えの真理を証明するいくつかの明白なしるしを私たちに与えてくださいます。
それらのしるしとはどのようなものでしょうか? 真の歴史書である福音書の中の使徒たちの証言、何世紀も変わらないカトリック教会の教えが一貫して、同一であること、カトリック教会の教えにおける輝く知恵、統一性や聖性、カトリック教会の教えに従って生きる人々によって成し遂げられた、物質的、また霊的な、すぐれた成果、数多くの恐ろしい迫害の中でのカトリック教会の世界中への奇跡的な拡大、聖ペトロから現教皇までの直接的・歴史的な継承の連鎖といったものです。したがって、カトリック教会の教えを信じることは合理的です。
結論
今日は特に、私たちがカトリック教徒であることを天主に感謝しましょう。特にイエズス・キリストを通して、超自然的な現実を私たちに啓示してくださったことを、天主に感謝しましょう。天主の啓示を固く信じることのできる信仰の徳を与えてくださったことを、天主に感謝しましょう。
童貞聖マリアの御取り次ぎによって、私たちの主イエズスが、私たちのカトリック信仰を守り、強めてくださいますように。私たちが、死ぬまで、何の恐れもなく、この信仰を公に宣言する勇気を、主が私たちに与えてくださいますように。
2021年4月4日(主日)復活祭のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストの御復活の喜びを申し上げます。
私たちの主は、死者の内から真(まこと)によみがえられました。
イエズス・キリストこそ、真の天主、真の救い主、唯一の贖い主、世紀の勝利者です。
敗北してもう万事休すだ、と思われていたその方が、全ての人から捨てられたような方が、大勝利を収めて、今日、私たちの前に現れます。そしてイエズス様は私たちに、御自分の勝利を与えようとして下さいます。
今日この日に黙想を提案したいのは、隠れていた使徒たちの事です。
10人の使徒たちは、復活の主日にチェナクルムの部屋に、ドアを閉め切って、窓を閉め切って、真っ暗の元に、絶望して、「もうこれで終わりだ。警察が来る」と、ユダヤ人たちを恐れて隠れていました。
復活のその日に、恐れおののいていた弟子たちに、イエズス様は現れて、復活されて、慰めます、「汝らに平和あれ!」と。そして御自分の勝利を御見せになります。
この弟子たちは、イエズス・キリストを裏切りました。弱さの為に、臆病の為に、背信しました。「知らない」と言った者もいました。あれだけ愛を受けて、あれだけの御恵みを受けていながら、逃げていきました。
その彼らに、イエズス様は現れて、何の咎めもなく、何の注意もなく、仰った言葉が、「お前たちに平和あれ!」
イエズス様は、自分を否んだ彼らを非難しようとしません。イエズス様は私たちの弱さを憐れんで下さって、そして仰る事は、「平和あれ。」
イエズス様は、平和と、優しさと、憐れみと、赦しに満ちておられます。
そして21世紀の今日、私たちにも同じ事を仰います。
「お前たちに平和があるように。恐れるな、私は勝利した。私こそ真の天主、真の救い主、唯一の本当の贖い主である。私以外には、私のほかには誰も、どこに行っても、この勝利を得る事はできない。私だけが命を与える事ができる、赦しを与える事ができる。私の元にやって来なさい」と。
そしてイエズス様は、もしも私たちが痛悔の心を持って近寄るなら、誰もイエズス様は叱ったりする事がなく、ただ平和と、赦しだけを与えようと待っておられます。これがイエズス様の聖心の愛であって、憐れみです。
イエズス様がこれほど苦しんだのは、十字架上の屈辱を受けたのは、私たちを愛する為でした。赦す為だけでした。
ですから、イエズス様のその愛を信じて下さい。憐れみに信頼なさって下さい。もしも信頼しなかったとしたら、それこそが、イエズス様の聖心をますます悲しませる事です。裏切る事よりも、悲しませる事です。
ですから復活祭の今日、私たちも、イエズス様の元に参りましょう。
私たちも残念ながら、イエズス様に対して、弱さや、無知や、あるいは世間体や、あるいは恥ずかしさ、「他の人が何て言うだろうか、食事の前に十字架を切ったら、お祈りをしたら、教会に行っていると知られたら、あぁ何と言われるだろうか、カトリックだと分かったら…」等と、思っていたかもしれません。
以前、私たちはイエズス様の事をどれほど悲しい思いをさせてきた事でしょうか。聖ペトロのように、「俺、知らない」と、どれほどうそぶいてきた事でしょうか。
しかし、イエズス様こそ、本当の最終の大勝利者、真の天主、唯一の天主、本当の救い主、私たちを命を懸けて愛される真の天主です。イエズス・キリストこそ、自分のもとに付く者に勝利を与えて下さる方です。私たちに命と、平和と、赦しと、憐れみと、全ての御恵みを与えようと思っています。
私たちも、弟子たちと同じように、イエズス様に近付いて、信頼を持って近付いて、愛と、感謝と、讃美を御捧げ致しましょう。
そしてイエズス様を否むこの世、イエズス様を亡き者にしようとしているこの世が、イエズス様の元に来ますように、お祈りしましょう。
最後に、何らかの理由でイエズス様を裏切ってしまったかのような、あるいはイエズス様を否定してしまったかのような方々が、特に聖伝に戻りますように、お祈り致しましょう。
特に、カトリックの聖伝の信仰があたかも十字架に付けられたかのように、この世から消されてしまったかのように思われていますが、そうではありません。
カトリック教会の2000年の伝統は、必ず復活します。カトリックの信仰、永遠の信仰は復活します。
今現在、教会でその事を教えているのがほんの数えるほどしかなかったとしても、もう一度全世界で、栄光あるカトリック教会の教えと、聖伝と、秘跡、ミサ、全てが復活しなければなりません。私たちの永遠の救霊の為に。天主は変わらないからです。
もしもその聖伝の教え、聖伝の秘跡、聖伝のミサが間違っていたとしたら、教会は2000年間、間違っていた事になります。そのような事はあり得ません。天主が天主である限り、同じ事を、同じ真理が続くからです。真理は変わらないからです。
多くの方が信仰に、聖伝の信仰に戻るように、司教様、司祭、多くの方々が聖伝に戻るように、お祈り致しましょう。
戻った時に、イエズス様は決して「どうして裏切ったのか」等と問う事はありません。聖伝に戻った事を、イエズス様の元に戻った事だけを、ただ御喜びになるはずです。そして「平和があるように」と仰るだけでしょう。その日が来ますように、お祈り致しましょう。
マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は決して、イエズス・キリストから離れた事がなく、十字架の元に留まり、そして復活を固く信じていました。
私たちもマリア様と共に、十字架の贖いであるミサ聖祭の元に立ち留まり、そしてこのイエズス・キリストの勝利を、カトリック教会の栄光ある勝利を固く信じて、その為にお祈り致しましょう。マリア様と共に、復活の日を待ち望みましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨年11月21日から今年の4月1日までのロザリオ十字軍ですが、今回3007環の追加が報告されました。
前回の計と合わせると、2021年4月13日現在、総計13363環が報告されております。
愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力を感謝申し上げます。
報告がまだの方々は、是非お忘れなくお知らせくだされば幸いに思います。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
二人で650環です。
【報告】
期間中229です。よろしくお願いします。
【報告】
遠くに住んでいてミサに与れない人から401環の報告を受けました。神父様にはお会いしたことは無いのですがよろしくとのことです!他の意向を混ぜず、ミサの自由のためにと聖なる召命の祈りのこの意向だけのために祈って下さいました。よろしくお願いします。
【報告】
ロザリオのご報告が遅くなり、申し訳ありません。
35環2連になります。
よろしくお願いいたします。
【報告】
Bonsoir Monsieur l’Abbé,
Du 21 novembre au 1 avril, ça fait 132.
Je vous souhaite une bonne semaine dans la joie de la Résurrection.
En union de prière
【報告】
Father,
I recorded the following Rosaries:
Nov - 20
Dec - 85
Jan - 96
Feb - 93
March - 70
Total - 364
Ad Majorem Dei Gloriam,
【報告】
ロザリオの十字軍の報告です。我が家では、389環でした。報告が遅くなり申し訳ありません。
【報告】
Ave Maria Immaculata!
Dear Rev.Fr.Onoda,
This is the total number for this rosary crusade from me and my mother:
We recited 247 rosary. Thank you.
【報告】
Ave Maria Immaculata!
Cher Père Thomas
Pour la croisade
560 rosaires!
アルド・マリア・ヴァッリ「正しい教理を守り広めるための厳しさは、霊魂の救いを目的とするのですから最高の形のあわれみなのです。」
「信徒の群れの多くは、自分たちには案内人がいないと感じています。誰もが神学的な背景を持っているわけではありませんが、信仰の感覚(sensus fidei)によって、多くの人が、何が間違っているのかを知ることができます。パチャママの偶像崇拝は、本当の驚きを生み出しました。教皇ベルゴリオが南スーダンの支配者の足に頭を下げて接吻したときには、混乱の感覚が広がりました。また、アブダビ宣言に署名したことも戸惑いを起こしました。いわゆるLGBTの権利に寛容であることについては言うまでもありません。」
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ジャーナリストであるアルド・マリア・ヴァッリは、イタリアの公共放送局(RAI)の重要なチャンネルのバチカン専門家としてはたらいていました。ヴァッリは、2021年2月27日にラジオ・スパダでインタビューを行い、自分がいかにして聖伝を発見したかについて、そして第二バチカン公会議が教会の生活に与えた影響について説明しています。
How Amoris Lætitia Opened the Eyes of a Journalist About the Council
「アモーリス・レティチア」は公会議に関して一人のジャーナリストの目をいかにして開かせたか
2021年4月7日 FSSPX.NEWSサイト
バチカン専門家(Vaticanist)のアルド・マリア・ヴァッリは、2021年2月27日にラジオ・スパダのインタビューを受けました。インタビューの中で、自分がいかにして聖伝を発見したかについて、そして第二バチカン公会議が教会の生活に与えた影響について説明しています。この勇気ある証言の中から、最も重要な部分を抜粋してご紹介します。
【ラジオ・スパダ】第二バチカン公会議が教会にとって歴史的な出来事であったこと、そしてその結果について、あなたの立場を数行でまとめなければならないとしたら、どうお話しになりますか?
【アルド・マリア・ヴァッリ】私は、公会議の総会で活躍した多くの立役者たちに敬意を抱いてきましたし、御摂理によってそのうちの何人かを個人的に知ることができました。彼らの教会に対する情熱と愛を私はいつも高く評価してきました。
公会議後の教会で育った私(私の場合はミラノで)は、長い間、公会議が神学的・司牧的な進化の種を、さらに悪いことには、聖伝や信仰の遺産に関して逸脱の種を内包しているのではないか、と疑うことすらもありませんでした。バチカン専門家としてヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世の教皇在位期間中を見ていた何年かの間、私は「継続性の解釈学」と呼ばれるもののビジョンを受け入れていました。
私が最初に戸惑ったのは、仕事上の理由でミラノからローマに移った前世紀の90年代半ばにさかのぼります。逆説的に思えるかもしれませんが、私はまさにローマにおいて、劣化の症状を、とりわけ典礼について感じたのです。それによって、私はいくつか疑問を抱くようになったのです。
そして2000年の大聖年に、初めて巡礼中の聖ピオ十世会の司祭たちの様子を観察し彼らを知る機会があり、私は教えを受けたように感じました。それ以来、公会議に関する私の立場は、ますます批判的になり、フランシスコの在位期間中には、内部の矛盾をすべて目にするようになりました。
まとめると、聖伝に対する根本的な矛盾は、ヨハネ二十三世の公会議の開会演説「ガウデット・マーテル・エクレジア」(Gaudet Mater Ecclesia)の中にすでに見いだすことができると私は思います。同教皇は、公会議の任務は確実かつ不変の教理を守り広めることであると断言したまさにその瞬間に、「今のところ、キリストの浄配は、厳しさという薬よりもあわれみという薬を使うことを好みます」と述べています。
ここに問題があります。キリスト教的観点では、「あわれみ」と「厳しさ」を対立させることには意味がありません。それどころか、正しい教理を守り広めるための厳しさは、霊魂の救いを目的とするのですから、最高の形のあわれみなのです。
公会議の開会から開いていたこの抜け道を通って、相対主義が教会に忍び込み、乱用や裏切りが教会に入り込んできました。つまり、この世が入り込み、人間が天主の座に就けられたのです。もちろん、転覆活動はずっと前から始まっていましたが、公会議が一つの起爆剤となったのは、現代的なものに対する根拠のない楽観主義のせいでもあります。
【ラジオ・スパダ】この数年間で、これらの問題に対するあなたの立場は、ジャーナリズム的な用語では、「伝統主義」と定義される(そして単純化される)ものに徐々に近づいてきました。このように考えるようになったのは、何かきっかけとなった出来事があったのでしょうか?
【ヴァッリ】きっかけとなった出来事は、2016年に「アモーリス・レティチア」(Amoris lætitia)が発表されたことです。今世紀の初めにはすでに疑問があって、フランシスコが選出された2013年以降、それが徐々に増していったのだとすれば、使徒的勧告「On Love in the Family」【アモーリス・レティチアの副題】は決定的に私の目を開かせてくれました。
私が注目しなければならなかったのは、今日に至るまで、曖昧さや相対主義が、教会の中に入り込んでいるだけでなく、教導権の形を取っているという事実でした。「アモーリス・レティチア」が出されたとき、最初はとても信じられず、その明白な事実をはっきりと拒否したと言うしかありません。しかし、何度も読み直しているうちに、ついには悲しみを感じつつ現実を受け入れなければなりませんでした。
この文書には、改宗を必要とせずに、天主には赦す義務があり、人間には赦される権利が存在するという考えが盛り込まれています。永遠の天主の法は、いわゆる人間の自立性に従わされているのです。
洞察力という概念は、罪を免れるための道具にされています。「アモーリス・レティチア」はすでに起こっていた革命に効力を与えたと言えるでしょう。この革命は、パラダイム・シフト(転覆を正当化するために使われる曖昧な表現)ではなく、内容においても方法においても近代主義者のビジョンの勝利なのです。
【ラジオ・スパダ】教皇ベルゴリオが行っていることを超えて、私たちが第二バチカン公会議が原因となった危機に直面しているという認識は、どの程度存在している、あるいは進展しているとお考えですか?
【ヴァッリ】全体像を描くのは難しいですね。というのも、それぞれの立場が非常に異なっているからです。まず、公会議を教義のように扱ったうえで、公会議の行き詰まり(aporia)に光を当てようとするすべての人々を攻撃するというイデオロギー信奉者たち、近代主義者たちがいます。
信念からではなく、それがもたらす利益を得るために近代主義のビジョンに従う日和見主義者もいます。問題を認識していても、黙っていることを好み、祈ることしかできないようなふりをしながら、嵐が終わるのを待っている人々もいます。徐々に目が開けてきたものの、どう行動していいか分からない人々もいます。
一般的に、私のように公会議後の教会で育った人々の間では、心理的な問題が広く存在していることに気がつきました。奉献された人々や信徒の中には、ベールを裂く【本当のことを認める】ことが困難な人が多くいます。それは、自分の全生涯が逸脱した教会に費やされていたことを認めることに等しいからです。
私は彼らのことを理解しています。私自身、「(公会議の教会の相対主義の適用において【編集者注】)私があまりうまくいっていない時こそ、私は良かった」と自分について言うことができます。典礼の乱用、教義の逸脱、この世への譲歩、信仰の裏切りに直面して、今日、しばしば私を捉えている苦さや落胆を、まだ意識していない時には感じなかったのです。
しかし、真理は分裂の原因になります。イエズスははっきりとこう言われます。「私は平和ではなく、剣(つるぎ)をもってきた」(マテオ10章34節)。平和と愛ばかり、砂糖ばかりの教会は、聖書にもキリスト教文明の歴史にもそれに相当するものがない、精神的・文化的に構築されたものなのです。
[このインタビューの中で、アルド・マリア・ヴァッリは、2021年2月20日に自身のブログ「Duc in altum」に掲載した「教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない」という記事を明確化しています(2021年2月26日のFSSPX.News参照)。【Crididimus Caritati 記事:教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない(教皇フランシスコのたくさんの活動にもかかわらず、「キリストの代理者」と「普遍的な牧者」の任務を実際には放棄している)】]
私は教皇座空位論の誘惑とは無縁であり、フランシスコが教皇であると信じています。ベネディクト十六世の辞任につながったとされる圧迫についての疑念や、フランシスコの選出の正確さについての疑念は、教皇座空位論の何の証拠にもつながっていません。疑念はあっても証拠はないのです。ヨゼフ・ラッツィンガーが行った選択については、私はリークだったと考えています。
フランシスコに関しては、たとえ教皇であっても、教皇として行動していないと私は考えています。ですから、私の評価の理由は神学的なものです。フランシスコは、聖書の天主を私たちに提示しているのではなく、混ぜ物をされた神、人間の自負に合わせた神、罪を赦すのではなく罪を免除する神を提示しているのです。
私の記事で書いたように、何よりもこの神は人間の罪を免除することに全力を注ぎ、酌量すべき情状を探し求めるこの神、命令することを控えて理解することを好むこの神、「子守唄を歌っている母親のように私たちの近くにいる」この神、裁くのではなく「近くにいる」この神、罪ではなく人間の「弱さ」を語るこの神、「司牧的な伴奏」の論理に夢中のこの神は、聖書の天主の戯画(カリカチュア)なのです。
なぜなら、天主は、聖書の天主は、確かに忍耐強いお方ですが、手ぬるいお方ではなく、確かに愛のあるお方ですが、自由放任になさるお方ではなく、確かに思いやりのあるお方ですが、もてなしてくださるお方ではないからです。つまり、天主は、この【父という】言葉の最も完全で最も真正な意味での父でいらっしゃるのです。
教皇ベルゴリオが採用した視点は、その反対に、この世の視点であるように見えます。天主という概念を完全に拒絶するのではなくとも、横行している自由放任とあまり調和していない特徴を拒絶することがしばしばあるのです。
この世が求めているのは、愛しておられるが裁いてもおられる、まことの父ではなく、ボーイフレンドであり、もう少し良く言えば、したいようにさせてくれ、「私は誰を裁くのか?【誰も裁かない】」と言ってくれる旅仲間なのです。ですから、フランシスコは、父ではなく、旅仲間であるこの神をまさにこの世に提示しているのです。
こういう訳で、私はフランシスコが教皇のように行動していないと主張するのです。なぜなら、彼は信仰において兄弟を固めていないからです。その証拠に、彼は、疎遠であることが確実だと感じている距離のある人々(信仰や教会から距離のある人々)から拍手を受けている一方で、その曖昧さや逸脱によって近くにいる人々を当惑させているのです。
さて問題は、教皇のように行動しないことが、教皇でないことをも意味するのかどうかです。私の意見では、そうではありません。フランシスコは教皇ですが、それでも彼は間違っています。「聖霊の御助けがあるのだから、あり得ない」と言う人々がいます。
しかし、聖霊の御助けは、受け入れようとしなければならないのです。受け入れることを拒否するなら、誤謬や罪が広まってしまいます。なぜなら、主は、私たちの意志に反した行為を強要することによって、私たちの自主選択能力を侵害することは決してなさらないからです。
無限の御あわれみという逆説の中で、天主は、私たちが天主に従わず、自分自身を呪うことも、永遠の至福を拒否することも自由にお任せになっています。もしそうでなければ、人間は天主とその律法を選び、サタンとその欺瞞を捨てることに何の功績もないことになるからです。
私が観察しているところでは、(一部はブログ「Duc in altum」を通して、一部は一般の信徒の生活を通して)ますます困惑と苦しみが増しているのが分かります。たとえ攻撃な性格で問題を起こす人々には事欠かないとしても、教皇を愛し、教皇のために祈る多くの善きカトリック教徒を目にしますし、特にお会いすることもあります。しかし、彼らは、教皇が信仰において自分たちを固めずに、国連の所属司祭(チャプレン)のように行動し、政治的な正しさ(political correctness)を支持し、教理や道徳の問題で曖昧な態度を取り、牧者というよりも政治家のように動き、論じる印象を与えるというところまで自らを貶めているという、まさにその理由により、彼らは苦しんでいるのです。
信徒の群れの多くは、自分たちには案内人がいないと感じています。誰もが神学的な背景を持っているわけではありませんが、信仰の感覚(sensus fidei)によって、多くの人が、何が間違っているのかを知ることができます。パチャママの偶像崇拝は、本当の驚きを生み出しました。教皇ベルゴリオが南スーダンの支配者の足に頭を下げて接吻したときには、混乱の感覚が広がりました。また、アブダビ宣言に署名したことも戸惑いを起こしました。いわゆるLGBTの権利に寛容であることについては言うまでもありません。
(Source : Radio Spada – trad. à partir de benoitetmoi/DICI n°406 – FSSPX.Actualités)
【参考資料】
ヴィガノ大司教「エキュメニズムが聖母を貶めたり真理を黙殺するなら、天主をお喜ばせしない。世界中で秘蹟やミサが奪われているのは、教会での汚聖、手による聖体拝領による冒涜などのための罰である。」
Intervista / Carlo Maria Viganò a “Radio Spada” - Aldo Maria Valli
2021年4月2日(初金)聖金曜日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄妹の皆さん、今日は聖金曜日です。
私たちの主イエズス・キリスト、人となった真の天主の御言葉は、十字架の上で御受難を受けて、そして御死去されました。
私たちに2つの事を訴えています。
(1)天主が、私たちの事をどれほど愛しておられるか、命を与えるほど、私たちの罪を赦す、という事のみを考えて、私たちに全てを御与え下さいました。
私たちにもしも時間があれば、イエズス様のなさった受けた全ての苦しみを、一緒に黙想したいほどです。鞭打ち、茨の冠、嘲笑、偽証人、偽りの裁判、十字架の重さ、道行、マリア様との出会い、何度も倒れた事、そして釘付けにせられた事、十字架の上で仰った七つの御言葉、全ては、私たちを愛して、私たちの罪を赦す為、それだけでした。それ以外の事は何も考えませんでした。考えたのは、聖父の栄光と、私たちへの愛でした。
それでも足りないかのように、今日は4月の初金曜日ですから、同時に聖金曜日、イエズス様は亡くなった後に、自分の心を、聖心を開いて、私たちに愛を訴えます。「御自分の愛を信じて欲しい」と仰っています。両手を開いて、「私の元に来なさい。私の愛を受けてほしい。私の心は開かれている。どのような罪人であっても、真っ赤に染まった罪を持っていても、雪のように真っ白にする事ができる。何も恐れる事はない。私には憐れみと、赦しと、平和しか考えていない。」
イエズス様の元に行きましょう。私たちを愛するイエズス様の元に、愛を以って参りましょう。
第2は、同時に、罪の醜さです。
「もしも生木が、まだ生きている木がこれほどの事を受けるなら、枯れ木はどれほどの事が起こるだろうか」と、エルサレムの婦人にイエズス様は仰いました。
天主聖父は、聖子さえも容赦せずに、罪が一体どれほどの結果をもたらすか、という事をイエズス様の御受難で見せて下さいました。罪の結果、私たちの犯した罪が、イエズス様の十字架を準備しました。
御受難は私たちに、罪の痛悔の心、悔悛の心を湧き起こさせてくれます。「イエズス様を愛するが故に、もはやこれ以上イエズス・キリストを悲しませたくない。イエズス様、今まで悲しませた事を痛悔しています。どうぞ憐れんで下さい。」
マリア様と共に、十字架の元に佇(たたず)みましょう。そしてイエズス様を、イエズス・キリストの憐れみをいつも信じる事ができるように、たとえどのような事があっても、イエズス様の元に行く事ができるように、そしてイエズス様が流された血が無駄にならないように、全ての人々がイエズス様の聖心の愛を信じる事ができるように、流された御血の功徳を自分のものと適用する事ができるように、お祈り致しましょう。救いが、イエズス様の受難の功徳が、全ての人に行き渡りますようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。