Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2021年10月10日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for October 10, 2021

2021年10月10日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

今週末:2021年10月8日(金)10月9日(土)10月10日(主日)のミサの予定を確定します。2020年10月10日の主日から2022年1月16日まで、大阪での主日のミサが午後になります。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図
10月10日(日) 17:45 ロザリオ及び告解  18:30 ミサ聖祭
10月11日(月) 06:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図
10月10日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

【「暁の星の聖母」修道院】
修道院では平日(火曜から金曜まで)は毎朝7時15分から聖伝のミサを捧げています。
2020年10月11日の月曜日(を含める)から2022年1月3日(を含める)までの間、修道院では月曜日の朝ミサはしばらくお休みになる予定です。
土曜日は原則的に修道院で11時からミサが捧げられます。
ただし10月16日と10月30日の土曜日は修道院でのミサはなく、その代わりに曙町会館でミサを捧げる予定です。変則になりますので場所と時間にご注意ください。

10月11日月曜日から10月15日金曜日まで、司祭は毎年恒例の「司祭黙想会」を行う予定です。沈黙を守るために、緊急時以外の御連絡は受け取ることができません。ご了承ください。

修道院では、さらに、例外的に10月の最終の週の10月25日から10月28日木曜日までは午前のミサがありません。ご了承ください。

Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of October 10th, 2021.

*****Mass times in Tokyo: October 10th*****
09:00 - Sung mass Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5

*****Mass schedule in OSAKA:*****
Sun, October 10: Holy Sacrifice of the Mass at 18:30
Mon, October 11: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30

*****Holy Masses at Stella Matutina Priory*****
On weekdays (Tuesday to Friday), holy Masses are offered at 7:15 am at the Priory.
There will be no mass on Monday morning at the Priory until January 3rd next year.
On Saturdays, normally the Mass will be offered at the priory from 11am.
However, please kindly take note that on both October 16th and 30th, Low Mass will be offered at 10 am at Akebonocho Kaikan in lieu of the Priory.

From October 11 to 15, we priests will enter into the priestly retreat. We won't be able to make communication outside the emergency case. Thank you for your kind understanding.

2021年10月7日は、レパントの海戦の勝利450周年です。

2021年10月08日 | お説教・霊的講話
2021年10月7日は、レパントの海戦の勝利450周年です。


2018年10月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ

小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、

今回は特に、マリア様が私たちにロザリオを以て、どうやって異端に対して私たちを守って下さるのか、という事を黙想したいと思っています。

マリア様は特に聖ドミニコにお現れになって、アルビ派の異端に対して戦う為にロザリオを与えました。

イスラム教が侵入してきた時に、レパントの戦いで、1571年、ロザリオのお祈りを以て、キリスト教軍は大勝利を収めました。その勝利の記念に、この10月7日、ロザリオの聖母の祝日が定められました。1571年。

100年前にはファチマで、共産主義に対して、ロシアの誤謬に対して勝利を収める為に、その誤謬が世界に広まらないようにする為に、ロザリオを毎日祈る事、そして初土の信心をする事を、聖母の汚れなき御心に対する信心を行なう事を求めました。

ちょうどレパントの海戦でイスラム教が、トルコ軍がヨーロッパを侵略しようとしてきた時に、弱まっていたヨーロッパを侵略しようとした時に、ヨーロッパは実はプロテスタントの危機を迎えていました。そこでしかし、プロテスタントの異端が、マルチン・ルターがプロテスタントを始めた時に新しい宗教を作った時に、ロザリオの信心があった地域では、カトリック信仰が守られました。

そこで今回特に黙想を提案するのは、

⑴マルチン・ルターの主張が一体何だったのか?プロテスタントというのは一体カトリックとどこが根本的に違って、何がプロテスタントの核心の主張だったのか?

⑵そしてその主張の結果、一体そのそれから派生する結果は、結論は何なのか?

⑶それに対してロザリオは、そのロザリオを通してマリア様は私たちにどのような事を教えて下さって、どうやってカトリックの信仰を守ろうとされているのか?

4最後に、私たちはではどのような決心を立てなければならないか?という事を黙想したいと思っています。


⑴第1は、マルチン・ルターは何を言って、カトリックの信仰を破壊しようとしたのか?

それは今から約500年前、501年前、1517年10月31日に、ヴィッテンベルクという教会の門に、自分の95の主張をドアに張り付けた、そこから始まったとされています。これがマルチン・ルターのいわゆる宗教改革という革命であって、新しい宗教の始まりでした。

そしてその数年後には、たくさんのパンフレットやたくさんの小冊子を書いて、論文を書いて、それを自分の主張を言います。一体何が元々の、一体その主張の核心は何かというと、それは「人間がどうやって義化されるか、どうやって罪を赦されるか」というところにありました。

マルチン・ルターによれば、「人間は罪人であって(確かにこれは本当です)、そして原罪によって人間は堕落してしまった(確かに本当です)、」ところがマルチン・ルターの言うには、「あまりにも堕落したので、天主の聖寵によってそれを癒す事ができないほど腐敗してしまった。だから人間はどのような事があっても、天主はそれを癒す事ができない。人間は罪人であって、罪人のまま残る。だから『罪が赦される』というのは、『人間が浄くなる』という事ではなくて、ただ罪が赦された、という事にしよう。本当は罪人のままだけれども、あまりにも罪人だから、これは『外見的に、外部的に、罪を赦されたという事にする』という、内部からの(これを昔の用語で義化と言うのですけれども、義人とされる義化)内部からによる義化ではなくて、外見だけの外的な義化に過ぎない」と主張しました。

ここにマルチン・ルターの核心がありました。ですから彼によれば、「人間は同時に罪人であって、そうではない。内部で本当に腐りきっていて罪人だけれども、外見的には赦されたとされている事になっている。罪人であって、同時に罪人でないと」いう、それが彼の主張でした。

もちろんこれはカトリックの、イエズス・キリストの教えでもないし、イエズス・キリストから伝えられた使徒たちからの教えでもありません。

天主の教えは、「天主の全能は、その正義は、その憐れみは、極みまで行き、天主が人間となって、そして御血を流す事によって、罪の贖いを全て果たす事によって、私たちを内部的に浄めて下さった。聖寵を注いで下さって、そしてその聖寵によって、無限の功徳によって、本当に罪が赦される、全く浄められる」と教えています。

しかしルターによれば、天主の正義も、これによってただの紙切れ、ただの外見だけに歪められてしまって、そして本物の正義ではなくなって、本物の義化ではなくなってしまいました。


⑵その結果、その論理的な結果、何が起こったかというと、3つの点があります。

1つは、「天主が人間を外的に義化するので、人間が義人と認証されるか否か、というのは、天主とその人間との間の関係の事だけであって、そして他に仲介者は必要ない。だから人間は言ってみれば、全てが司祭である。洗礼を受ける事によって、全て天主によって外的に義化とされたと認められて、その他には司祭はいらない。」

次には、「人間はあまりにも腐敗しているので、良い行ないをする事ができないし、良い行ないをする、善行をして功徳を積む事などできない。」

最後には、「だから人間には、道徳というものは守る事ができない。何をしても、天主が『この人は救われる』と思えば救われるし、『救われない』と思えば救われない。」ですから「道徳というものはない。ただ救われたと信じれば良いし、そして信じれば救われる。善業などというものによって何か功徳を積むというのは、傲慢であって間違っている。イエズス・キリストが全てをしたので、私たちは何もする必要がない。私たちはいつまでも罪人のまま残るので、もしも救われたいなら、より強く罪を犯して、更により強く信じれば良い。」「信じる内容というのは、自分が思った事であって、そして唯一信じなければならないのは、自分が救われているという事だ。」

これがルターの主張でした。ですから彼は、自分は最初はアウグスチノ会の修道司祭でした。三つの誓願(清貧・貞潔・従順)を立てていました。ミサにも与っていたはずでした。ミサもサボっていなければ立てていたかもしれません。マルチン・ルターの伝記によると、あまりにも忙しかったので、聖務日課もミサも立てた事がなかったと思われます。

そしてその修道誓願を立てた司祭であったはずが、その革命を起こした後には、ある修道女と一緒に同棲をして、そして酒飲みの生活をして、冒涜と、口汚い、自堕落な生活を送って、死んでいきます。

最後には、あまりにも自分の教えによって多くの人々が常軌を外したような生活をしているのを見て、「これを救うには、世の終わりが早く来るしかない」と思っていました。

ルターにとって、「自分の教えとカトリック教会は全く違うものだ」という事をよく認識していました。そしてその「自分の教えが正しくて、そしてそのカトリックの教えが間違っている」という事を主張して、その間違いは『三重の壁』によって、ちょうどイエリコが、旧約聖書のイエリコの町が三重の壁によって守られていたように、「それを取り囲んで、それを壊してしまわなければならない」と思っていました。

そしてその教会を守っていた『三重の壁』というのは、「司祭職」であって、これが天主への礼拝への一致を守っていました。もう一つは「聖伝」であり、「教皇様」でした。「聖伝の教え」という客観的な教えは、信仰の一致を守っていました。また教皇様は、「不可謬の教え」によって教会の統治の一致を守っていました。

「これらを破壊しなければならない。」ですからミサに対して、あるいは聖伝に対して、教皇様に対して、非常な憎しみを持っていました。「聖書のみあれば十分だ」と主張するようになりました。


⑶ではカトリック教会の教えは、ロザリオによって、どのように守られたのでしょうか?

聖ドミニコが特にマリア様からのこのロザリオ受けた後に、多くの教皇様によって、ロザリオの祈りが勧められて励まされてきました。聖ピオ5世教皇様は特に、ロザリオの祈りを皆にお願いして、レパントの戦いでの大勝利を受けました。その後多くの教皇様たちによって、この祝日が特別な大祝日に高められいてきました。ますますロザリオが広がっていきました。励まされていました。

教会はいつも、公式な教皇様の声や、公会議の声を通して、私たちにどのようにするべきか、どのように祈るべきか、何を信じるべきかを教え続けてきました。

そのロザリオは私たちに何を教えるかというと、「イエズス・キリストの御業が、その御託身と贖いの御業によって、私たちの霊魂が内的に聖化される、義化される」という事です。

そして「その内的に義化される為に、まずマリア様がその業に協力された。その最初からマリア様が、『我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。』そして第2のエヴァとして協力された。それと同じように、ロザリオの神秘を通して、私たちも救いの御業に協力するように招かれている」という事です。

そしてマリア様の御生涯を通して、「善業というのには価値がある、功徳がある。そしてこの功徳の御恵みによって、私たちは御恵みを得る事ができる」と教えています。

ロザリオの特に喜びの玄義は私たちに、「この地上でイエズス様がその30年間、従順の生活をされた。清貧・従順・貞潔の生活をされた」という事で私たちに、「道徳、あるいは倫理、善業というものは存在する」という事を教えています。「私たちはそれを、掟を守らなければならない」という事を教えています。

苦しみの玄義によれば、「私たちは、イエズス様の苦しみに自分の苦しみを合わせる事によって、自分の十字架を担って、イエズス様に付いて行かなければならない。私たちはシレネのシモンにならなければならないし、ベロニカにもならなければならないし、そしてヨハネ、マリア様のように、十字架の下に居なければならない」と教えています。

栄えの玄義によれば、「私たちは、イエズス様の復活と御昇天、そして聖霊の降臨、カトリック教会、聖母の被昇天などを信じなければならない。つまり教会の権威を信じなければならない」という事を教えています。「聖書のみではない」という事を教えています。


⑷では、私たちは一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

私たちは教皇様の、歴代の教皇様の仰ったように、ロザリオを毎日唱えましょう。教会が認めた御出現、例えばルルドや、あるいはファチマや、あるいは新潟の司教様が認めた秋田の御出現では、「ロザリオの祈りを唱えるように」と勧められています。これは、私たちが自分でそう思うから、この御出現が正しい、マリア様がそう言ったのだ、と私たちが決めたのではありません。教会が、司教様が、「そうだ」と言ったので、私たちはそれを信じるわけです。教皇様たちが「ロザリオを唱えるように」と仰ったので、私たちもロザリオを唱えようとするのです。

もしも私たちが聖伝のミサを捧げているのも、教皇様がそう仰ったからです。聖ピオ五世教皇様が、このレパントの教皇様が、「このミサは、永久に有効であって、全ての司祭がこのミサを立てる義務と権利を持っている。そして誰もこのミサを変えてはいけない。このミサにはいかなる誤りもない。」(1570年7月14日 聖ピオ五世教皇 大勅令『Quo Primum(クォー・プリームム)』)

もしも私たちが、「プロテスタントの教えが間違っている」と言うのは、「プロテスタントの義化の教えが間違っている」と言うのは、それは教皇様たちが、公会議が、そのように宣言したからです。昔からの教えがそうであるからです。

もしも「正教会が、フォチウス、あるいはミカエル、というコンスタンティノープルの総大主教によって始められた離教が間違っている」と言うのも、教会がそのように言ってきたからです。

もしも「イギリスの英国教会での司祭の叙階が無効である」と言うのは、それは私たちがそう考えついた、そう思ったからではなく、教会が客観的にそのように研究して、そう判断したからです、「叙階の秘跡の言葉が変えられている。有効性はあり得ない。」

私たちはルターの、「自分がそう思ったから、それが正しい」ではなくて、「カトリック教会の教えがそうだから、歴代の教皇様たちが公会議が教えているから、私たちはそれを信じる」という立場をとっています。

そしてロザリオの祈りは私たちに、そうするその教会の教えを信じる事がより良くできるように、助けてくれます。

ですから、私たちはもしも突然、ある時突然、2000年間の教えに、2000年間の教皇様たちの教えや声にいきなり反対するような事を誰かが言ったとしたら、私たちは戸惑ってしまいます。一体、一体マルチン・ルターは正しかったのか?あるいは間違っていたのか?イギリス英国教会の司祭は本当に有効な司祭なのか?司祭ではないのか?

あるいはその他色々な、教会の当局者であったとしても、あるいは空から来た天使であったとしても、何かイエズス様からの福音、あるいは教会の2000年間の教えに反対するような事、あるいは私たちがロザリオでこう唱えて、それから学ぶような、私たちの信じている事と反対するような事を主張するなら、私たちは何をするべきか、1つしかありません。

私たちは、マルチン・ルターを取る事もできないし、アルビ派を取る事もできないし、共産主義も取る事もできないし、イスラム教も取る事もできないし、教会が「異端だ」と排斥した教えを「21世紀では、それは昔の話になったから」と言って、排斥された異端を信じる事もできません。

ロザリオの祈りは私たちに、正しい、使徒継承の、聖伝の信仰を信じ、そしてそれを実践するように助けてくれます。

ですから私たちはこの初土にぜひ、10月の初土にぜひ、ロザリオの祈りをますます愛して、これを熱心に黙想しつつお祈りするように、その決心を立てる事に致しましょう。その為にも、ファチマのマリア様に、特別の御恵みをお願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。








【再掲】「ロザリオについて」聖なるロザリオの神秘と黙想:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2021年10月07日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「ロザリオについて」のお説教(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月9日 聖霊降臨後の第21主日―大阪 お説教「ロザリオについて」

親愛なる兄弟の皆さん、

十月はロザリオの月です。特に今月は、聖なるロザリオを唱えることを励ますのが教会の習わしです。教会は、今月毎日ロザリオを祈る習慣を持つことで、信者がこの聖なる習慣を一年中続けることができるよう望んでいます! 教皇レオ十三世はこの信心を励まし、多くの贖宥を与えましたが、この信心はレオ十三世よりもずっと前からあるものです。

聖なるロザリオは十三世紀の初め、聖母御自らによって聖ドミニコに与えられました。回心の恩寵、聖性の恩寵、罪に対する勝利の恩寵といった数えきれないほど多くの恩寵を得る手段でした。また、これによって、まことの信仰の敵、特にイスラムに対する有名な勝利を得たのでした。レパントの海戦やウィーン包囲での勝利、またその他の有名な勝利です。

聖なるロザリオの祝日自体は、教皇聖ピオ五世によって十月七日と制定されました。この日はレパントの海戦の勝利の記念日でした。最初は「勝利の聖母の祝日」と呼ばれ、のちには「いとも聖なるロザリオの祝日」と呼ばれました。

ファチマの三人の子どもたちが、彼らが見た美しい婦人にその名前を尋ねたとき、婦人は「私はいとも聖なるロザリオの婦人です」と答えました。ファチマの何回かのご出現は、一九一七年十月十三日の有名な奇蹟で頂点に達し、このことは、聖なるロザリオへの信心をさらに広めました。では、教会がこの信心をそれほど強く勧めているのはなぜなのでしょうか? 天主ご自身が、この信心を通じた奇蹟を起こしてまでこの信心をお勧めになるのはなぜなのでしょうか? それは、聖なるロザリオが、キリスト教的完徳を獲得し、私たちの霊魂を救うための素晴らしい手段であるからです!

実際、キリスト教的完徳の本質は、私たちのうちに生きておられる私たちの主イエズス・キリストにあるのです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。これは、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子ご自身が天から降りて来られた目的そのものです。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。その「豊かな命」とは、永遠に続く命、永遠の命のことです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。永遠の命の本質は、天主の知識と天主の愛にあります。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。

知識に天主の愛がない場合は、大変不十分な知識になるでしょう。なぜなら「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)からです。このため、聖ヨハネはこう言います。「愛のない者は天主を知らない。天主は愛だからである」(ヨハネ第一4章8節)。その天主の愛と知識を、私たちの主イエズス・キリストを観想することによって私たちは得るのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。

観想とは、私たちの主イエズス・キリストへ愛に満ちた眼差しを向けることであり、私たちをイエズスとさらに強く一致させようと望み、私たちをイエズスの死の神秘においてイエズスと一致させようと望みます。そうすることで、私たちをイエズスのご復活の神秘においてもイエズスと一致させるようになるでしょう。実際、「私たちは天主の子である。私たちが子であるなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。ここには、ロザリオのすべてがあります。キリストにおいて「私たちは天主の子である」という部分、ここは喜びの玄義です。「その苦しみをともに受けるなら」という部分、ここは苦しみの玄義です。「キリストとともに光栄を受けるために」という部分、ここは栄えの玄義です。

同じように使徒信経にも、ロザリオのすべてがあります。つまり、ロザリオには使徒信経のすべてがあるのです。実際、使徒信経の中心は私たちの主イエズス・キリストへの信仰です。主は「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」―ここは喜びの玄義です―「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所に降りて」―ここは苦しみの玄義です―「三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に座し」―ここは栄えの玄義です。気を付けていただきたいのは、使徒信経は主の童貞聖マリアからのご誕生からポンシオ・ピラトの管下での主の御苦しみへ、つまり喜びの玄義から苦しみの玄義へと直接行くのであり、その間にいわゆる「光の玄義」はないということです。

さて、私たちの主イエズス・キリストのご托身を観想すること、そして特に主のご復活の神秘に一致するため、主のご受難と死の神秘を観想すること、これがロザリオのすべてです! その聖なる御母以上に私たちの主イエズス・キリストを理解した人はこれまで誰もいませんでした。聖母はこれらの偉大なる真理を観想、黙想なさいました。まさに福音書がこう証言しています。「マリアは注意深くそのことを心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。ですから、これらの偉大なる真理の正しい理解を私たちが見いだすのは、聖母の汚れなき御心においてなのです。聖母の汚れなき御心が、聖母が非常に深い段階にまで獲得されたその理解を私たちに与えてくださるのです。

特に、私たちが聖マリアの汚れなき御心に見いだすのは、罪に対する嫌悪と罪の償いへの望みです。聖母はファチマでそれを要求しておられます。そして現代世界には、そのような罪への嫌悪が本当に必要です。現代世界の特徴の一つは、罪という概念そのものを拒否していることです。現代人はこう言い張ります。「私は自分のしたいことを何でもすることができる。私にこうしろと言える人は誰もいない。天主でさえも!」。これは恐ろしい冒涜であり、最も忌まわしいいくつかの罪へ、特に現代世界の邪悪さの縮図である妊娠中絶の罪へと扉を開くのです。

しかし、私たちが、聖母とともに私たちの主イエズス・キリストを、お告げの日のご托身から十字架上の死に至るまで観想するならば、私たちは罪に対して絶対に「いいえ」と言うことができるだけでなく、天主に対して「はい」と言い、十字架上の私たちの主イエズス・キリストおよび十字架の下の聖母と一致して、罪を償うために自分をいけにえとして捧げることができるのです。まず自分自身の罪を償うため、そしてこんにちでは非常に増えているこの世の罪を償うために。

実際、お告げが示しているのは、天主が人間を気にかけてくださっていることです。私たちをお造りになった天主は、アダムの罪ののち私たちをお見捨てにならずに、救い主を送るという約束をしてくださり、その約束をお告げの日に実現させてくださいました。その福音書の一節は何と美しいことでしょうか! この第一玄義においては、すべてが聖で、すべてが清く、すべてが愛。年若い少女の前での天使の謙遜。天主の御母として選ばれてすぐ、主の奴隷、はしためとしてご自分を奉献した少女の謙遜。最後に、マリアの子となり、「奴隷の形をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされ、その外貌は人間のように見えた」(フィリッピ2章7節)天主の御子ご自身の謙遜。

天主は私たちのことを気にかけてくださっているだけでなく、非常に愛してくださっていますので、イエズスがマリアのふところにおられたときのように、私たちと最も親密な一致をお望みなのです。主はマリアのうちに生きておられたように、私たちのうちに生きたいとお望みです。天使のお告げはすでに、ご聖体という美しい神秘を告知しており、私たちはそのご聖体によってマリアと同じ恩寵を得るのです。つまり、主がマリアのうちに生き給うたようにイエズスが私たちのうちに生き給い、主が聖母を変容させ給うたように私たちを変容させ給うという恩寵を得るのです。次は美しい祈りです。「ああ、マリアのうちに生き給うイエズスよ、聖性の霊によって、御力の充満によって、御徳の真理によって、御道の完成によって、御神秘の一致によって、来りてしもべのうちに生き給え。御父の御栄えのために御霊によって、あらゆる悪意の力を抑え給え」(聖グリニョン・ド・モンフォール「聖マリアの秘密」)。

聖母のご訪問において、私たちは、天主への愛がいかに早く隣人への愛へと導くかを見ます。天主の御子で満たされて、聖母はすぐに従姉のエリザベトのところに行って手伝いをなさいます。私たちはまた、まことの隣人愛が彼らのところにイエズスをもたらすことにあるのも見ます。また、これはエリザベトの喜びです。「主の御母が私を訪問してくださったのですか。これほどのことがどうして私に恵まれたのでしょう」(ルカ1章43節)。エリザベトとその胎内にいる洗者聖ヨハネはどちらも、マリアのうちに生きておられるイエズスの現存によって聖化されます。エリザベトとザカリアの家がマリアが来られたことで聖化されたように、皆さんの家族は、家族で祈るロザリオによって聖母が来られるときに聖化されることになります。家族で毎日祈るロザリオは、家族全員にとって一日の最も重要な時間であり、数えきれないほど多くの祝福を得る源泉なのです。

主のご降誕において、私たちは、私たちの主イエズス・キリストに対してこの世が反対するのを見始めます。宿はマリアとヨゼフに対して門を閉ざし、その結果、イエズスが来られることによる祝福を得ません。私たちは決して心をイエズスに閉ざさないようにしましょう! むしろ、羊飼いたちのように、よく見張っていて、マリアの腕の中にいるイエズスのところへ行けるよう、守護の天使に従う準備をしておきましょう。「急いでマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。彼らはイエズスを見つけましたが、それはマリアを見つけたからでした。マリアは私たちをイエズスにお導きになります。三博士を案内した星のようです。「彼らは子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝した」(マテオ2章11節)。マリアは私たちに、私たちの主イエズス・キリストのご神性を、私たちが礼拝し、崇拝するにふさわしいご神性を教えてくださいます。私たちの主イエズス・キリストを礼拝するのを拒否する人々は天主を知らないのです。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。

主の神殿での奉献において、私たちはマリアとヨゼフが律法に従順であることをたたえます。お潔めを要求する律法から聖母を免除した条項がありました。モーゼであっても、このいとも聖なる童貞、童貞中の童貞に、不浄についての律法を適用することはできなかったでしょう。でも謙遜から、ご自分を目立たせないために、聖母は律法に服従し、律法に従って貧しい人々のいけにえである二羽の鳥のいけにえをお捧げになりました。すると、聖霊が年老いたシメオンを神殿へ導き、彼は私たちの主イエズス・キリストの栄光を歌いました。「異邦人を照らす光、御民イスラエルの誉れである」(ルカ2章32節)。しかし、彼はまた、マリアの心を貫くつるぎのことを預言し、こうして聖母を十字架の神秘へと導きました。これは聖母の第一の悲しみでした! これらの神秘は、典礼が歌うように「喜びと涙が混じって」いました。

幼子イエズスの喪失と神殿での発見は、十字架の神秘へのさらなる序章です。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。この聖母の第三の御悲しみにおいて、聖母を苦しめているのはヘロデのような迫害者ではなく、私たちの主イエズス・キリストご自身です! 主はお二人から離れられました。主が聖母の苦しみの原因でした! なぜでしょうか? 聖母は主を非難なさらず、こうお尋ねになります。「なぜ、なぜこんなことをしたのですか」。すると、主のお答えは神秘に満ちていました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。「彼らにはイエズスの言われたことが分からなかった」(ルカ2章50節)。しかし聖母はこの教訓を学ばれ、のちに御子が再び聖母の最大の苦しみの原因になられたとき、すなわち聖母が十字架上に吊るされた主をご覧になったとき、聖母は再び「なぜ」と尋ねることはなさいませんでした。聖母はなぜなのかをご存じだったのであり、主が「父のことに従事している」こと、つまり十字架のいけにえによって世を贖っておられることをご存じだったのです。

こうして、この最後の喜びの玄義は苦しみの玄義へと私たちを導きます。これが、私たちの主イエズス・キリストが来られた目的です。「彼は罪から民を救う」(マテオ1章21節)。第一の苦しみの玄義は非常に重要です。私たちはキリストの肉体の苦しみに目を向けがちですが、ゲッセマネの園において主は人間のあらゆる罪についての精神的な恐ろしさによってひどく圧倒されたため、主を本当に悶えに、血をしたたらせるほどの悶えに至らせました! ああ主よ、罪のまことの恐ろしさと、自分の過去の罪と世のあらゆる罪をまことに嫌悪する心を、私たちにお与えください。それによって、御身がなさったように、罪を償うべく私たちも自らを奉献することができますように! 天主がどれほど罪をお嫌いになるのか、罪を償うため十字架のいけにえへと御子をお送りになるほどに罪をお嫌いになるのかを、私たちが理解しさえできたなら! そしてイエズスは御父のご計画に完全に入っていかれます。主は苦しみたいと望まれます。罪の償いをなさりたいからです! 主はさらに完全に苦しむためにご神性を隠されます。聖母もまた、罪を嫌われます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、聖母は汚れなく、完全に罪がないお方だからです。私たちは、自分の霊魂を罪から解き放っておかなければなりません。そして私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、それは可能なのです! 主のご受難が常に目の前にあれば、私たちは決して罪を犯さないでしょう。主の御苦しみを、あえてさらに増やそうとすることができますか?! ですから、私たちの目の前にこの聖なるご受難を何回ももたらす聖なるロザリオは、罪を避け聖なる生活を送るための大変大きな助けなのです。

柱にくくられた鞭打ちは、特に不潔な罪に対する償いです。人々が肉の望むままにさせる一方で、主の肉体は、あらゆる不潔の罪の償うために、この鞭でひどく引き裂かれました。「信仰の創始者であり完成者であるイエズスに目を注ぐようにしよう。イエズスは差し出された喜びのために、恥も顧みずに十字架を忍」(ヘブライ12章2節)ばれました。聖骸布には、鞭打ちの痕が最も目立っています。学者たちの計算では、その数は百以上でした! 私たちが誘惑を受ける時には、このことを思い出しましょう。私たちは主を侮辱し、主のこれらの御苦しみをさらに増やそうとすることができますか? いいえ決してできません! 疑問の余地はありません! キリスト教的な清さに反するあらゆる侮辱に対して、マリア様の汚れなき御心とはまったく相いれない侮辱に対して、私たちはファチマの聖母とともに償いをいたしましょう。

茨の冠をかぶせられることは、特に全ての傲慢の罪に対する償いです。ここで皆さんは、いと高き至高の知恵である方が愚か者扱いされているのを見ます! とりわけ彼らは主の王権をあざけったのです。私たちの主イエズス・キリストは実際に王、最高の王でいらっしゃいます。しかし民は主の律法に服従することを拒否します。現代人はとりわけ人間の上に法があることを拒否しており、それによって事実上、すべての法を台無しにしています。現代人は天主から自由でありたいと望み、王たるキリストをあざけっています。現代人の傲慢は、天主を侮辱する権利、妊娠中絶をする権利、自然に反する悪徳を行う権利があるなどと主張するまでに至っているのです。しかし、私たちの主イエズス・キリストが来られたのは、そのご受難の屈辱によって、特に茨の冠をかぶせられることによる屈辱によって、この傲慢を償うためでした。主が私たちに、謙遜を愛する心と、主のために屈辱を寛大に受け入れる心を与えてくださいますように。謙遜は聖マリアの素晴らしい徳です。「主が卑しいはしために御目をとめられた」(ルカ1章48節)。

主が十字架を担われたことは、私たちに苦しみにおける忍耐と堅忍を教えます。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる。だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章22節)。聖母、聖ヨハネ、聖なる婦人たちとともに、最後までキリストに従いましょう! 無垢でありあたかも「緑木」のように贖いの神秘を成し遂げられ、その犠牲によって永遠の誉れを獲得なさっている主のことについて嘆くのではなく、むしろ、罪について、罪びとについて、まず私たち自身について嘆きましょう。なぜなら、これは真の悪であるからです。罪は悪の根っこです。罪とは、全力で避けなくてはならない唯一の悪です。肉体の苦しみは、もし罪を負っていないならば、贖いの原因になります。殉教者たちなら、罪を犯すよりもむしろ死を選びます。罪よりもむしろ死を望むという、この固い決心を更新しましょう。

十字架上の三時間と十字架上の主のご死去は、人類の歴史全体の中で最も荘厳で崇高な時でした。そのとき、この至高の犠牲が聖三位一体に捧げられ、天主はご自分にふさわしい誉れを受けられ、霊魂たちは汚れのない小羊の尊き御血によって贖われ、天主の御子はその神秘体の肢体として何百万もの聖人を獲得され、ご自身と一つにさせ、聖化され、また悪魔は打ち負かされ、罪はあふれんばかりに償われました。そして、この最も聖なる犠牲の効果を持続させるために、私たちの主イエズス・キリストは、その前日の最後の晩餐のときにいとも聖なるご聖体を制定されました。これによって、主ご自身が主の司祭たちの司祭職を通して、汚れなき小羊としてご自分をお捧げになり、主ご自身の肉と血によって私たちに食べ物を与えることを継続なさいます。その結果、私たちは主によって生きることができるのです! 聖母は、十字架の下におられて完全に主と一致され、そこで新しいエバ、すべての生きる者、すなわち私たちの主イエズス・キリストに属して生きる人々すべての母、私たちの母となられました。聖母が、この偉大なる玄義についての知識と、この玄義への愛を私たちに与えてくださいますように!

三日目に、主は死者の中から復活されました。死は罪の結果であるため、復活祭の死に対する勝利は聖金曜日の罪に対する勝利のあとに続きます。主のご復活は主の最も偉大なる奇蹟です。主は何回も使徒たちに現れ、彼らにご自分のご復活についてのたくさんの証拠を、彼らが主のために死ぬ準備ができるほどの証拠をお与えになりました。使徒たちは、死に至るまで主に忠実であるならば、自分たちも主とともに栄光を受けて復活するであろうということを知っていたのです。私たちは、洗礼によって主のご復活に一致します。実際、私たちはキリストとともに死に葬られ、その結果、私たちは主とともに新しい命へと復活するのです。ですから、「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。キリストは、ナインのやもめの独り子を死者の中から生き返らせたのち、その母にお返しになったように、やもめであり御独り子を失った御母にご自身をお返しになりました。主が御母のためになさったことは、あのナインのやもめのためになさったことより少ないはずがありません。

多くのご出現ののち、ご復活から四十日目に主は栄光のうちに天へ昇られ、全能の御父の右に座し給います。天使たちは使徒たちに、主が去られたときと同じ栄光のうちに再び来られることを確約しました。主は生ける者と死せる者を裁くために来られます。聖母が私たちを助けてくださり、私たちが次の美しい言葉を聞くにふさわしい生き方ができますように。「父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」(マテオ25章34節)。また、私たちがいつも絶対に罪を避けることによって、次の別の言葉を、最も恐ろしい言葉を聞かないで済みますように。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)。天が開けて、主は聖ステファノにご出現になり、彼がたとえ死に至っても信仰を告白するよう励まされました。主はすべての殉教者を励まされます。主は、私たちがたとえ死に至っても、聖なる生き方、信仰とすべての掟に忠実な生き方をするよう私たちを励まされます!

使徒たちは、五旬節の日に聖霊が来られるまで聖母とともに九日の間、準備をしました。聖霊は彼らをその賜物で、とりわけ愛で満たされました。彼らは天主への愛で燃え上がり、主が以前お告げになったように、その愛で全世界に火をつけたいと願いました。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。聖母の御心は大きくされ、私たちの主イエズス・キリストのすべての肢体を、教会の全ての肢体を抱くまでになりました。聖母は今や私たちの母でいらっしゃり、私たちに対して持っていらっしゃる望みのうち、私たちの救いほど大きいものは他にありません。聖母はまた、私たちが聖霊で、聖性の霊で、全てのものを超えた天主への愛の霊、天主のための隣人への愛の霊で満たされるよう望んでおられます。聖母は私たちに、自分の周りの人々への宣教者になるよう、自分の近くにいるすべての人々に同じ愛を燃え立たせるよう望んでおられます。

聖母は罪なくして御宿りになりました。聖母は罪なくして生きられました。悪魔に一歩も譲ることなく、天主とまったく矛盾することなく、いつも完全に聖霊に忠実でした。今や報いの時がやって来ました。罪を知ることのなかった聖母は、罪の結果、墓での腐敗を知ることはおできになりません。天主の御子に命をお与えになった聖母は、すぐに報いをお受けになることになります。その霊魂に対してだけでなく、その体に対しても栄光の被昇天によって。こうして聖母は、天主の報いは一つ一つの努力にふさわしく与えられ、地上のどんな喜びをも無限に超えるものであることの生ける証しとなられたのです。聖母の被昇天というこの偉大なる神秘が、私たちの心と霊魂を、過ぎ去っていつか消え去るこの世の喜びを超えて高く上げ、私たちの心を天国から離れないようにしますように!

その後聖母は、天国で元后としての冠を受けられました。天主なる御子が聖母に、私たちの利益のための素晴らしい御力をお与えなりました。その御力は、聖母の御取り次ぎと母としての配慮によって、ここ地上の私たちを助けてくださるためのものです。聖母は、すべての天使をご自分の意のままになさり、彼らにご自分の命令を実行させられます! そして、天使たちはそれを喜んで行ないます。彼らはみな、聖母に与えられた恩寵と栄光の充満を敬っているからです。彼らは聖母の騎士であり、私たちもまた、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって聖母の騎士になることができ、またそうするべきです。マリアにお仕えすることによって、私たちがお仕えするのはイエズスです。主が王でいらっしゃるのですから! 私たちが天国へ行って永遠に聖母や諸聖人とともに、限りなく永遠に至るまで天主において私たちの喜びを得ることができるよう、この地上において正しい生き方ができますように!

皆さんお分かりのように、聖なるロザリオは、私たちの信仰に関する本質的な神秘を私たちに黙想させ、マリアを通して私たちの主イエズス・キリストの深い知識に私たちを導きます。聖なるロザリオは本質的に、二つの最も美しい祈りでできています。私たちの主イエズス・キリストご自身が教えてくださった「天にまします」、これはあらゆる祈りの中の最高の祈りであり、この中で私たちは主をお喜ばせするのに必要なすべてのことを順序だてて願うのです。また、「めでたし」も聖書の言葉からできていますが、前半だけでなく後半も、聖人たちによって一つにまとめられました。これらの祈りは、玄義を黙想しながら霊魂が息をするようなものになります。息の繰り返しが私たちの体の命に必要であるのと同じように、この祈りの繰り返しは私たちの霊魂の命に不可欠です。聖なるロザリオをうまく祈れば、私たちはマリアの汚れなき御心にもっともっと入っていくことができるでしょう。そしてこの最も聖なる道を通って、イエズスの至聖なる聖心に入っていき、そこで永遠の幸せを見いだすことになるでしょう。

私たちがロザリオを愛し、ロザリオを生き、私たちの主イエズス・キリストの国を広めるために、天国へ行くために、汚れなき御心への信心をもって、特に自分の家族にロザリオを広めることができますように! アーメン。




2021年10月6日は、10月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年10月06日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年10月6日は、10月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


ヴィガノ大司教「カトリック信者は、司教たちの暴政によって迫害されている司祭たちに、自分たちの家を開放し、ミサのために利用できるようにしてください。司祭の霊的な支援から恵みを受けてください。」

2021年10月06日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教(ビガノ大司教)報道発表「米国の複数の教区における最近のワクチン接種義務の導入について」

PRESS RELEASE: ABOUT THE RECENT IMPOSITION OF THE MANDATORY VACCINATION IN SOME AMERICAN DIOCESES

2021年10月3日

米国の複数の教区、特にシカゴ大司教区では、教会当局が聖職者や信者の従業員に対して、ミサや典礼活動、司牧活動に参加する条件として、また役務をもった司祭であるという事実だけであっても、ワクチン接種を義務付けていることを、私たちはみな知るようになりました。また、イタリアや他の国々でも同様の専制的な措置が課せられています。

教区長の規定に従わない司祭たちは、司祭としての働きと生活の手段を奪われるでしょう。その結果、多くの教会が閉鎖され、実験的な遺伝子血清の接種を受けない人々の代わりとなり得る聖職者がいないために、「salus animarum」(霊魂の救い)に非常に深刻なダメージを与えることになるでしょう。知られている限りでは、米国市民として、またカトリック信者としての正当な権利として、冒涜的で正当化されない規定を明確に拒否することに反対する霊魂の牧者が少なからず存在するのです。その規定は、無効で、関係者を死のリスクを含む具体的で即時の危険で深刻な副作用にさらしてしまうにもかかわらずです。製造に人工妊娠中絶による胎児の細胞株が使用されている医薬品の接種を受け入れることの道徳的意味合いについては言及しません。

パンデミックという茶番劇へベルゴリオの位階階級が従属していることと、いわゆるワクチン接種の押し付けは、天主の役務者たちをパンデミックの導師(guru)に、司教たちを実験的血清のセールスマンに、教会の体全体を集団実験のいけにえに変えてしまったのです。これは、キリストの教会の神聖な使命、牧者の権能、司祭の任務に対する前例のない裏切りであり、啓示された宗教を、偶像崇拝に近い疑似科学的なカルトに置き換えるプロセスです。これらの濫用が、その腐敗と利益相反が今や世界的に知られ、糾弾されている世俗の権威からもたらされたものであるならば、教会の権威によるこの世界的犯罪への協力はさらに深刻なものです。

このような法律違反に直面したとき、グレート・リセットという悪魔的なグローバリストの計画に位階階級が意図的に加担していることを躊躇なく糾弾し、聖座によって批准されたこの抑圧に断固として勇気をもって抵抗することが必要です。

ダビューク(アイオワ州)で開催された「任務を解かれた司祭のための連合」を支持する先日のイベントで私が打ち出したアピールを私はもう一度強く訴えます。また、調整された取り組みで司祭たちを支援するよう信者の皆さんをお招きします。「国際的な財団」を設立して、信者の皆さんから寄付金を集め、ベルゴリオの現体制と共謀している教区や小教区から迂回させることが必要です。司教たちが銀行口座に影響を受けていることに気づけば、おそらく良き司祭たちを追放する仕事を控えめにするように誘導されるでしょう。「任務を解かれた司祭のための連合」やその他の類似したプロジェクトのような取り組みは、この迫害の時代に緊急に必要とされています。私たち一人一人が、それぞれの手段に応じて、具体的な貢献をすることができます。金銭的な貢献だけではなく、単に、献金を良き聖職者への嫌がらせに使う人ではなく、献金に値する人に割り当てるだけでもいいのです。

カトリック信者は、グローバリズムと同盟した司教たちの暴政によって迫害されている司祭たちに自分たちの家を開放し、ミサの聖なる犠牲のために利用できるようにしてください。このような家庭の祭壇の周りに集まることで、強固な共同体は、聖三位一体にふさわしい礼拝を続け、司祭の霊的な支援から恩恵を受けることができます。そして、一つの信仰と祈りを分かち合うことによって育まれる兄弟愛的な愛徳が、今日、傭い人や裏切り者によって見えにくくなっている聖なる教会の再生の始まりとなりますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
前駐米教皇大使
2021年10月3日
聖霊降臨後第十九主日


ヴィガノ大司教「私は、迫害されている修道女たちに、私の絶え間ない祈りを保証し、彼女らが断固として抵抗し、迫害者の回心のために自分たちの苦しみを捧げるように招きます。」

2021年10月05日 | カトリック・ニュースなど

Archbishop Viganò Defends Traditional Convents

ヴィガノ大司教、聖伝の女子修道院を擁護する

2021年10月1日

【編集者注】真のカトリックのミサの最終的な消滅を宣言したフランシスコの自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)を受けて聖伝への攻撃が加速する中、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は聖伝の女子修道院や男子修道院を支持する力強い声明を発表しました。今週の「News Roundup」でお伝えしたように、ペンシルバニア州フェアフィールドにある聖伝のカルメル会女子修道院は、すでに彼らに迫害をもたらたす一つの動きである「訪問」を受けています。この訪問は、無原罪の聖母のフランシスコ会(Franciscan Friars of the Immaculate)に対する最初の動きを彷彿とさせます。

暴君的なバチカンのなすがままである聖伝の小さき者たちに対する大司教の司牧的配慮とお気遣いに感謝申し上げます。―編集長ブライアン・M・マッコール


観想生活の修道女の修道院を擁護する声明

私は、深い悲しみと強い憤りをもって、バチカンの奉献・使徒的生活会省が、米国のさまざまな観想的な女性修道者の修道院で行っている使徒的訪問に関連する出来事に注目しています。

これらの使徒的訪問は、教会法上の規範と法の最も基本的な原則に違反して行われており、修道女たちが受けている尋問を特徴づける威嚇と脅迫、そしてこれらの女子修道院のメンバーに対して行使されている心理的な暴力は、教皇庁の省の役人たちの行動をなさしめるべき愛徳と正義の原則に反しています。これらすべてが、その不安を与える証拠のすべてにおいて明らかにしているのは、ベルゴリオ【教皇フランシスコ】の正確な指示に従って、同省長官のジョアン・ブラス・ジ・アビス枢機卿と次官のホセ・ロドリゲス・カルバーヨ大司教によってすでに与えられている命令の皮肉な実行者である訪問者たちが、迫害の意図という偏見を持っていることです。どの共同体が標的になっても、修道女たちを分裂させる目的で行われる訪問者たちによる騒ぎ立てや集団いじめはいつも同じで、修道女の個人的な良心に反するという段階に至るまで強い心理的圧力をかけて、沈黙、祈りによる黙想、償いの生活に慣れている人々にとって深刻な妨害をつくり出そうとしているのです。

この粛清作戦の背後には、ベルゴリオの教会の活動を特徴づけるすべてのものと同様に、観想生活の共同体に対する、特に聖伝と古代の典礼に結びついた人々に対する憎悪と聖像破壊的な怒りがあります。このような憎悪は、悪名高い指示書「コル・オランス」(Cor Orans)【女性の観想生活に関する使徒的憲章「Vultum Dei Quaerere」の補足指示書。2018年】とその残酷で無慈悲な適用によって一般的になりました。また、目立つことは、これらの共同体が受け取る資金や寄付金に異常なほどの強い関心を持ち、バチカンがそれらの金銭を可能なあらゆる口実を使って自分のものにしようとしていることです。

このような憎悪は法的にも規律的にも正当化されません。なぜなら、バチカンに標的にされるこれらの修道院は、その修道会のカリスマ【天主からの賜物である特別な力】にしたがって、聖なる創立者たちに忠実に、また教会との真摯な交わりの精神で生活することに自らを限定しているからです。創立者たちの規則を実践し、トリエント典礼を行っているすべての団体で起きているように、彼らの召命の数は増加しているところです。これらの修道女たちの「過ち」は、教会の不変の教導権とその二千年の聖伝、そしてその由緒ある典礼に忠実であり続けたいと思っていることです。結局、ベルゴリオの冷酷な破壊行為に直面して、男女を問わず、世俗的・宗教的共同体のすべての「過ち」はただこれだけなのです。

奉献・使徒的生活会省によって行われている組織的な解体作業を、はっきりとした言葉で糾弾することが、まさに牧者としての私の義務であると考えています。同省は、あらゆる形態の奉献生活への嫌悪感を秘密に持っている指導者たちを擁し、彼らに命令を与えた者【ベルゴリオ】と完全に調和しており、さらには神秘体の最も貴重で最も弱い部分を今も将来も守ることができない教区長たちは、最も不愉快で無関心な沈黙を保っているのです。

バチカンの無慈悲な迫害がすでに他の栄えていた女性修道者たちの共同体を襲い、今では完全に破壊されていることを、私たちは忘れてはなりません。私が思い浮かべているのは、少し例を挙げれば、無原罪の聖母のフランシスコ会(イタリア)、サン・テニャン・シュル・ロエのマリアの小さき修道女会(フランス)、アウエルバッハの修道女会(ドイツ)、聖霊のドミニコ修道女会(フランス)などです。

私は、今回の行動の責任者たちこそが、最初に懲戒処分を受けるべき者たちであるとも言及します。カルバーヨが小さき兄弟会(フランシスコ会)の総長として関与した、非常に深刻な財務スキャンダルにかかわっているためです。カルバーヨの地位は非常に評判を落としたため、省の次官は通常レオニーナの壁【バチカンの壁】の外に住んでいるにもかかわらず、奉献・使徒的生活会省の次官はバチカン内に住まなければなりませんでした。

解放神学の悪名高い信奉者であるブラス・ジ・アビス枢機卿は、ベルゴリオのディープ・チャーチの統治を特徴づけるスターリン主義的な方法に従って、奉献生活の団体のメンバーをまさに「再教育」するために、ベルゴリオによって奉献・使徒的生活会省のトップに任命されました。これは、2013年以降、バチカンを支配している恐怖政治という環境に沿った、最悪の独裁体制にふさわしい粛清です。

私は、兄弟である司教、司祭、そして何よりも忠実な信者の皆さんに、観想生活の女子修道院や聖伝の修道共同体の破壊に反対する声を上げてくださるように要請します。迫害されている修道女たちを守り、天主と教会共同体全体の目に憎むべきこの迫害に責任ある者たちを暴露するために、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」が公布された後、ここ数週間で悪化してきている攻撃の犠牲者に、霊的・道徳的な支援だけでなく、物質的・メディア的な支援をすることが必要です。

教会の権威の変質に直面して、長上たちへの荘厳な従順の誓いと、長上たちが追求する邪悪な目的の証拠とを両立させることがいかに難しいか、また私たちの主の御名によって権威を行使すべき人々に抵抗しなければならないことがいかに苦痛であるか、私はよく理解しています。それにもかかわらず、長上たちに協力することは、一種の共謀や罪深い黙認に問われることになるでしょう。天主への従順と教会への忠実は、両者の敵であることを自ら示している人々への盲目的な追従につながることはあってはなりません。つまり、聖ペトロの言葉によれば、「私たちは人間よりも天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)。このことは、修道者だけでなく、世俗の聖職者にも当てはまります。教会の体の解体に直面しているとき、彼らの沈黙がこれ以上続くことはあってはならないのです。

修道女を悩ませているこの重大な良心のジレンマを考慮して、私は信心深い信者および女子修道院の後援者の皆さんに、修道院とその財産の独立性を保証し保護するために、適切な法的手段によっても積極的に働くよう、特に訴えかけます。

私は、迫害されている修道女たちに、私の絶え間ない祈りを保証し、彼女らが断固として抵抗し、迫害者の回心のために自分たちの苦しみを捧げるように招きます。この沈黙しているキリストの花嫁たちが、【フランス革命の】恐怖政治のときにカルメルの誓願すなわち修道誓願を捨てなかったためギロチンにかけられた16人の修道女 --- コンピエーニュのカルメル会殉教者たち --- の痛みに満ちたカルワリオに霊的に一致しますように。血に飢えた革命家たちにより、「信仰への憎悪によって」(in odium fidei)迫害されたこれらの奉献された女性たちの英雄的な抵抗が、この背教の時代において彼女らのお手本となりますように。

この背教の時代には、教会の最も貴重な宝物であり、敵の攻撃に対する最も効果的な障壁である観想生活の共同体を保護すべき人々によって、反カトリック的な迫害とイデオロギー的な怒りが引き起こされているのです。これらの祝福された霊魂たちの絶え間ない祈りがなければ、この歴史的な戦いが最も激しくなるまさにその瞬間に、教会の体はさらに武装解除されてしまうことでしょう。

福音のたとえ話に出てくる賢い乙女たち(マテオ25章1-13節)のように、修道女たちが自分たちの天主なる浄配に忠実であり、灯火をともして天主を待ち望むことができますように。この暗黒の時代は過ぎ去り、それに伴って彼らに対して怒りを見せる反逆者たちも過ぎ去るでしょう。

バチカンの最高位の人々、特にホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、奉献・使徒的生活会省のこれらの非常に重大な罪について、天主にお答えしなければならないでしょう。これらの罪には、イデオロギー的な良からぬ意味合いが無いとは言えぬ上に、教会の善と霊魂の救いに反して権威を濫用しているからです。主が、カトリック位階階級を苦しめている背教をまだ認めたくない多くの人々の目を開いてくださいますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
前駐米教皇大使
2021年10月1日


守護の天使は存在しています。目には見えませんが守護の天使たちも一緒にミサに与って御聖体を礼拝しています。これは本当です。目に見えない事実、真理です。この事を知って下さい。

2021年10月05日 | お説教・霊的講話

2021年10月2日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ(守護の天使の祝日)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お話の前にお知らせがあります。今日は10月の初土曜日で、守護の天使の祝日です。今日は初土曜日ですから、マリア様の汚れなき御心のミサを捧げています。

今日実は、私たちの兄妹姉妹であるダヴィドさんご夫婦が結婚10周年記念で、そして子供たちと一緒に愛徳と奉仕と、そしてこのイエズス様の婚姻の神秘を祝う為に、感謝しようと思っています。そこで司祭の退場の前に、二人は特別の祝福を受ける予定です。どうぞ皆さんもお祈り下さい。

今日は守護の天使の祝日です。ちょうど初土曜日とも重なりましたけれども、守護の天使について少し黙想致しましょう。

守護の天使は私たち一人一人に必ず与えられています。天使というのは、私たちよりも遥かに優れた存在です。私たちのような肉体を持っていない、まさに天主様に近い存在です。もちろん天主様は無限の存在ですが、天使は有限で、始めがあり、限りがあります。しかし私たちを遥かに超える霊的な存在です。

このような方が私たちの守護者として。ボディーガードとして、私たちを守るガイドとして、与えられました。これは、「天主三位一体が私たちをどれほど愛しておられるか」という事の表れです。

守護の天使は一体私たちに何を求めているでしょうか?それは、私たちがイエズス様を愛して、礼拝して、そして遂にはイエズス様から与えられる永遠の喜びを、自分と一緒に、天使たちと一緒に分かち合うという事です。3つ、実際に起こった事を話させて下さい。

1つは、聖ペトロの話です。聖ペトロは、ユダヤ人によって牢に押し入れられました。全教会は聖ペトロの為に、初代教皇の為に祈っていました。すると天主はイエズス様は、守護の天使を送って、聖ペトロを監獄から奇跡的に脱獄する事ができるように助けました。
天使が現れると、「さぁ、ペトロ、起きて俺について来い。」すると、鎖も解けて、鍵があったドアも開いて、そして無事に逃げる事ができました。
聖ペトロが我に返ってみると「あぁ、自分は助かっている!」という事がありました。

第2は、ファチマです。ファチマでポルトガルの守護の天使が子供たちに現れて、御聖体を持って、そして御聖体を宇宙に浮かせたまま、カリスを宙に浮かせたまま、額ずいて、そして、
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
これを子供たちに3回やって見せてお祈りをして、そして子供たちにやるように、私たちにもするように、と命じました。

第3は秋田です。秋田のシスター笹川は、ミサの時にミサに与っているシスターたちと一緒に、そのシスターたちや、あるいは司式司祭の守護の天使が跪いて、御聖体を礼拝しているのを見ています。

守護の天使は存在しています。今、私たちは目には見えませんが、皆さんの守護の天使たちも、皆さんと一緒にミサに与っています。そして御聖体を礼拝しています。これは本当です。目に見えない事実、真理です。この事を知って下さい。

ですから、もしも危険に遭った時、誘惑に遭った時、もしも苦しい時に、「守護の天使がいる」という事を決して忘れないで下さい。私たちを必ず助けて下さいます。危ない時にそこから救い出すことができます。

では、今日は守護の天使に、今まで守って下さった事を感謝しつつ、一緒になって御聖体を礼拝致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


喜びの玄義 第1玄義黙想
2021年10月2日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』

今日は10月の初土曜日ですので、初土の信心として15分間、ロザリオの玄義の内の1つを黙想する事に致しましょう。

特に10月はロザリオの聖なる月ですので、喜びの第1玄義の、天使が御告げをマリア様になさり、マリア様が最初に天使のアヴェ・マリアの言葉を聞いた、天主の御母となる、という玄義を黙想する事を提案致します。

マリア様、マリア様は天使の御告げを受けた時に、「我は主の使い女なり。仰せの如く我になれかし」と仰いました。「救い主の母になる」という事は、「苦しみの連続だ」とご存知でした。しかしその苦しみを全て受け入れる事を表明されました。「仰せの如く我になれかし。」

マリア様、私もマリア様に倣って、主の御旨を果たす事ができますように助けて下さい。主の御旨として送られる十字架や苦しみを、マリア様と共に御捧げする事ができるように助けて下さい。それを霊魂の救いの為に使う事ができるように助けて下さい。

この言葉でマリア様はいつも、イエズス様を御胎内に宿されました。私もいつも、主と共にいる御恵みを与えて下さい。

お知らせ


カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2021年10月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計116人でした。大阪では24人でした。天主に感謝!

ダバオ(フィリピン)にあるオブレート・シスターたちの修練院のための「第二献金箱」ですが、東京では 50,901円が、大阪では43,000円が集まりました。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なお心に感謝いたします。

昨日の初土曜日は、ちょうどダヴィドさんご夫婦が結婚10周年記念日で、三人の子供たちと一緒に修道院のミサに与り祝福を受けました。修道院では29人がミサに与りました。

【大阪でのミサの時間】
来週の主日(10月10日)から来年の1月16日までの3か月間、例外的に、大阪での主日のミサの時間が、午後6時半に変更になる予定です。また大阪では、金曜日と土曜日のミサの代わりに、月曜日の午前6時半のミサになる予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をお願い致します。

【報告】【東京】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 116, including children.

09:00 mass
M: 21 (incl. 5 children)
F: 23 (incl. 4 children)
Total: 44 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 3 children)
F: 28 (incl. 6 children)
Total: 49 (incl. 9 children)

12:30 mass
M: 14 (incl. 0 child)
F: 17 (incl. 1 child)
Total: 31 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 8 children)
F: 63 (incl. 11 children)
Total: 116 (incl. 19 children)


2021年10月3日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for October 3, 2021

2021年10月03日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(別名「トリエント・ミサ」)にご招待します。
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。


今週末:2021年10月1日(初金)10月2日(初土)10月3日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図
 10月1日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭
 10月2日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭
 10月3日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図
10月3日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間に、告解の秘蹟を受けることができます。司祭は二階の告解の部屋に待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

◎10月3日のミサでは、ミサの会場の出入り口に「第二献金箱」が用意されます。ダバオ(フィリピン)にあるオブレート・シスターたちの修練院のためです。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なお心を感謝いたします。

◎10月10日から来年の1月16日までの3か月間、例外的に、大阪での主日のミサの時間が午後6時半に変更になり、金曜日と土曜日のミサの代わりに、月曜日の午前6時半のミサになる予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をお願い致します。

Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of October 3rd, 2021.
Mass times in Tokyo: October 3rd

09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.

Mass location:

"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5
Mass schedule in OSAKA:
Fri, October 1: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, October 2: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, October 3: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

On October 3rd, a second collection will be done in all our chapels of the Asia district, for the benefit of our Oblates sisters Novitiate in Davao. Thank you for your kind generosity.


幼きイエズスの聖テレジアの燃える望み「霊魂の救い」|Sermon about Apostolic Zeal|Sermon sur l’esprit missionnaire

2021年10月02日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年10月3日は聖霊降臨後第十九主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十九主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教「キリストの教会が非常に深刻な危機にさらされていることこの危機と背教の起源は、今では最も穏健な人にとっても明らかだ。その起源は教会をこの世のメンタリティーに合わせようと望んだことにある。

2021年10月02日 | カトリック・ニュースなど

現在の悪の原因は、私たちの主イエズス・キリストの普遍的王権に対する反逆である。私たちがイエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心に奉献することで、災いに終止符を打つことができる。

Archbishop Viganò Addresses Cancelled Priests
ヴィガノ大司教、任務を解かれた司祭たちに語りかける

Archbishop Viganò addresses the Aquinas Communications Sept 22, 2021 Fundraiser from Coalition for Canceled Priests on Vimeo.

2021年9月23日

親愛なる司祭である兄弟の皆さん、
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

キリストの教会が非常に深刻な危機にさらされていることや、カトリックの位階階級が使徒継承の使命という重大な義務を果たしていないこと、その大部分が堕落していることを私が述べても、皆さんがすでにご存じのことを言っているだけです。この危機と背教の起源は、今では最も穏健な人にとっても明らかなものです。その起源は、教会をこの世のメンタリティーに合わせようと望んだことにあります。忘れないでください、この世のかしらとはサタン、「princeps mundi hujus」(この世のかしら)(ヨハネ12章31節)です。

カトリック信者として、私たちは聖なる教会が決して崩壊しないということを知っており、信じています。つまり、聖なる教会は、「portæ inferi non prævalebunt」[地獄の門も勝てぬ](マテオ16章18節)という主の約束によって、地獄の門に圧倒されることはありません。しかし、私たちが目の当たりにしているのは、位階階級の腐敗した部分(簡潔のために私はこれをディープ・チャーチと呼んでいます)が完全にディープ・ステートの言いなりになってしまっている恐ろしい状況という現実です。

これは裏切りであり、これによって、牧者たちや教会の最高位にある人々は非常に重大な道徳的責任を負うことになり、司祭や信者は、他の時代では採用したり正当化したりするのが難しいであろう勇気ある選択をすることが必要になっています。私たちは、歴史的な衝突である一つの戦争に直面しているのですが、この戦争で私たちの将軍たちは軍隊を率いて敵に立ち向かわせようとしないだけでなく、実際には武器を捨てて無条件で降伏するよう命じており、最も勇敢な兵士たちを追い出し、最も忠実な役人たちを罰しているのです。カトリック教会の参謀本部全体が敵と同盟していることが明らかになっており、自らが本来守るべき人々の敵、すなわち、キリストとその御旗の下で奉仕することを誇りとする人々の敵となっているのです。

教会の歴史全体の中で、途方もなく、またこれまでにないこの状況を、黙示録に照らしてどのように理解すればよいでしょうか。私たちはまず第一に、超自然のまなざしを持たなければなりません。これによって、現在の出来事が起こるのを天主がお許しになっていること、そしてこの出来事がどんな場合でも決して教会を圧倒するのに成功することはないことを理解します。大いなる背教は聖書で予言されており、私たちは準備できないままではありません。聖ヨハネの黙示録の言葉と、認可された私的な啓示によって照らされた私たちは、最終的に麦と毒麦を分けるために終末の時代が必要であることを理解し、誰がキリストの味方で誰がキリストの敵であるかを認識することができます。

同様に、私たちが直面していると知っている艱難は、何十年、あえて言えば何世紀にもわたって行われてきたカトリック信者と一部の位階階級の不信仰に対する正当な罰でもあることを理解しなければなりません。世間体、恐怖、道徳的・教理的な逸脱、世俗的なメンタリティーや私たちの主の敵との妥協に根ざした私的かつ公的な不信仰です。フランス革命は、ルイ十四世が王国の国旗を主に奉献しなかったことに対する天主の罰であったことを考えると、このフランス王の不従順が欧州の未来にもたらした結果を私たちはよく理解します。

私たちの主が1689年に、フランス王ルイ十四世に伝える任務とともに、聖マルガリータ・マリア・アラコックに委託なさったメッセージを思い起こしてみましょう。

「わが聖心の長男に知らせよ。彼のこの世における誕生が、わが聖なる幼少期の功徳への信心のおかげで得られたように、彼の恩寵と永遠の栄光への誕生は、彼が自らをわが崇むべき聖心に奉献することによって得られるであろう。わが聖心は、彼の心に勝利し、それによって地上の偉大な者たちの心に勝利することを望んでいる」。
【注:イエズス・キリストの聖心はフランス王のことを「長男」と呼ぶが、それはフランスがカトリック教会の長女と呼ばれているからである。ルイ十三世はなかなか子供を得ることができずに、幼きイエズスに対する信心によってようやく生まれたのがルイ十四世であった。】

「聖心は、彼の宮殿に君臨し、彼の旗に描かれ、彼の紋章に刻まれることを望んでいる。それにより、彼はすべての敵に勝利し、思い上がった傲慢な敵を彼の足元に置き、教会のすべての敵に勝利することができる」。

「聖心は、受難の時に侮辱され、屈辱を受け、軽蔑されたのと同じほど、今日、王侯の宮殿に栄華を極めて入り、大いに尊ばれることを望んでいる。また聖心は、自分が滅ぼされたのと同じように、地上の偉大な者たちが地にまで低くされ、自分の足元で辱められるのを見たいと願っている」。

しかし、3世紀以上も前に、公務を司る者たちの不従順が、王の中の王であるイエズス・キリストの厳しい罰に値するものであったならば、教会を司る者たちの不従順が、どれほどの災難を引き起こしたかを想像してみましょう。

世俗社会が、フランス革命によって、自由主義と社会主義の誤謬を広めるために、普遍的な王をその天主なる主権から追い出したのならば、教皇と司教たちは、公会議革命によって、神秘体のかしらとその代理者から三重冠を取り除き、キリストの教会を司教団体制(collegiality)と司教会議[シノドス]中心制(synodality)の名の下に、一種の議会制共和国にしたのです。

このことに注意しましょう。私たちの主イエズス・キリストは、もはや諸国家の主権者として認められていないだけではありません。今では教会の主権者としても認められておらず、教会では、天主の栄光と霊魂の救いという目標が、人間の栄光とその結果としての霊魂の破滅に置き換えられています。昨日は悪徳だったものが、今日は聖徳なのです。バチカン、教区、修道会にはびこる「近代主義的セクト」の今の行動はすべて、これまで教えられ、私たちに伝えられてきたものを覆すという特徴があるのです。

このような反逆と不信仰という状況の中で、忠実であり続け、これまで常に行ってきたことをし続けようと努力する人々は、本当の正式な迫害の対象となっています。この迫害は、聖伝主義者をルフェーブル派とか前公会議派と指定して嘲笑することから始まりました。そして、全体主義体制で使われていた慣習に従って、良きカトリック信者は、社会学者が「異論の病理学化」(pathologization of dissent)と呼ぶように、狂気や病気であると定義されてきました。

私が大げさな表現を使っていると思わないでください。つい先日も、コスタリカのある司祭【Father Sixto Varela】が、彼の司教であるバルトロメ・ブイゲス司教(Bishop Bartolomé Buigues)が禁止しているにもかかわらず、パウロ六世のミサをラテン語で捧げたというだけで、聖職停止になり、精神科の治療を強制的に受けさせられたばかりです(こちら)。

今日、私たちは反体制派が「犯罪化」(criminalization)されているのを目撃しています。彼らが物理的に排除されるのはまだ見られないとしても、彼らの多くが「divinis」(聖職)を停止され、支援の手段そのものを奪われ、教会生活から追放されていることを私たちは知っています。

その一方で、つまずきを与える人物たちや、あらゆる種類の姦淫者たちが処罰されず、職務から追放されないだけでなく、昇進さえし、ベルゴリオの隣に立って写真に納まり名声を得ているのです。ベルゴリオは、彼らを自分の近くに置いていますが、それは、自分に都合のいい方法で彼らを使うことができると知っているからです。では、なぜ高位聖職者たちの堕落が公会議派の計画の役に立っているのかを理解しましょう。彼らの弱点は、教会と信者に対する最悪の残虐行為を実行する上で、彼らの従順と共謀を得るための優れた手段なのです。

「任務を解かれた司祭のための連合」(Coalition For Canceled Priests)の取り組みは、今起きていることへの反応であるのは確かです。なぜなら、このプロジェクトは、不忠実で反逆的な司教による迫害や教会法上の濫用の犠牲者である司祭を支援することを目的としているからです。自分に委ねられた群れを知恵と愛徳をもって治めず悪事を働くために、司教たちの権威は奪われ、その権威が制定された目的に反して彼らが使用した瞬間に消滅してしまうのです。

彼らが権力を握っていることは事実ですが、この権力は専制的に濫用されていて、これについて人は黙ったままでいることができず、また、黙ったままでいてはいけないのです。飢えた狼とまでは言わないにしても、自らが傭い人であることを明らかにした牧者たちの違法行為を断固として非難するために声を上げることは、私たちの義務です。そして、違法で無効な命令に従わないだけでなく、良心的な異議申し立てを行い、これらの羊の皮を被った狼の犠牲者を保護することを目的とした取り組みを作り出すことも、私たちの権利です。

また、この賞賛すべき取り組みと並行して、国際的な財団を設立して、信者からの献金や寄付を、ベルゴリオの現体制と共謀している教区や小教区から転用して集めることを提案させてください。司教たちは、自分たちの銀行口座が打撃を受けていることを知れば、良き司祭を追放するというアプローチをやめるように説得されるはずです。また、民事上あるいは教会法上を問わず、裁判所が迫害されている人々の側に立つならば、迫害者は権力の濫用に気をつけるようになるでしょう。

一方、「任務を解かれた司祭のための連合」やその他の同様のプロジェクトのような取り組みは、憐れみのわざを実践し、天主の御前で功徳を積むという機会を与えてくれます。私たち一人一人が、自分の力に応じて、具体的な貢献をすることができます。それは必ずしも金銭的なものだけではありませんが、自分の献金を、良き聖職者を弾圧するために使う人々に与えるのではなく、献金に値する人々に割り当てるだけでよいのです。

しかし、物質的な援助に加えて、私たちは皆、共同体の感覚を再発見するように求められていることを忘れないようにしましょう。共同体とは、公会議の位階階級が好んで口にする言葉ですが、彼らはカトリック的な意味で実践することはありません。もし私たちがキリストにおける真の兄弟であるならば、兄弟として、司祭たちを歓迎し、宿泊場所を提供し、友人を集めることができる家庭の祭壇を準備することによっても、お互いに助け合うべきです。

今日、司祭館を追い出されて路上生活をしている人々のために、料理の作り方、壁を作ったり屋根を修理したりする方法など、最も謙虚なものであっても、自分の能力を司祭たちのために提供すべきです。私たちは、聖伝の心で司祭や修道者の召命に寛大に応えてきたにもかかわらず、今日公会議派によって押し付けられている教理的・道徳的な逸脱を受け入れなければ、叙階や修道誓願が危険にさらされているのが分かっている若者たちのことを考えなければなりません。私たちは、教導権に忠実であり続ける数少ない司教たちや枢機卿たちに、敵と同盟していることを十分に証明した人々とは対話する可能性がないことを、明確に理解してもらわなければなりません。

そして私たちは、天の元后にして司祭職の母の取り次ぎを通して、天主の御稜威(みいつ)に祈り、今日、頂点から堕落してしまった位階階級の回心のために、私たちの苦しみとこれらの良き司祭たちの苦しみを受け入れてくださるようにお願いしなければなりません。

多くの、あまりにも多くの司祭、修道者、そして聖職者(その中には多くの女性修道者、観想修道会の修道女、活動修道会の修道女がいることを忘れてはなりません)に対して、私は愛情を込めた記念を表し、彼らの苦しみを分かち合い、教会の役務者たちの罪を償うために自らを犠牲として捧げるように、彼ら全員に勧めます。ミサの聖なる犠牲において、天主の、清らかな、聖なる、汚れなきいけにえの奉献に自らを一致させてください。皆さんの人生が、真の司祭の精神をもって、天主をお喜ばせする犠牲となりますように。そして、皆さんが最後の日まで、シメオンの賛歌の言葉 quia viderunt oculi mei salutare tuum[私の目はもう主の救いを見た](ルカ2章30節)を繰り返し唱えることができますように。

私は先に、現在の悪の原因が、私たちの主イエズス・キリストの普遍的王権に対する反逆であることを思い起こしました。私たち一人一人、家族、共同体、国家、そして聖なる教会を、イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心に奉献することで、至聖なる三位一体に御あわれみを起こしていただき、この恐ろしい災いに終止符を打つことができ、少なくともその期間を短縮し、人類の敵に対する王の中の王の勝利を早めることができるのです。これが私の最も切実な願いであり、これが私たちのすべての行動に活力を与えなければならない崇高な意向であり、これがサタンの計画を素晴らしく、かつ避けられない形で終わらせるための土台なのです。Christus vincit, Christus regnat, Christus imperat!(キリストは勝利し、キリストは統治し、キリストは君臨し給う!)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


「起きよ。床を取って、家に帰りなさい。主の家に行きなさい。」「主の家に行こう」と言われて私たちは喜んだ!

2021年10月01日 | お説教・霊的講話

2021年9月26日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(名古屋)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日の主日の福音を黙想する前に、お知らせがあります。

来たる9月29日は大天使聖ミカエルの大祝日で、これは日本の主要な保護者です。何故かというと、こんなことがあったからです。

聖フランシスコ・ザベリオは1549年8月15日に鹿児島に到着しましたが、大天使聖ミカエルの日に、その当時島津のお殿様に面会をする約束がありました。その面会をすると、「自由にやってもいいし、宣教してもらいたい。そしてもしも領民がカトリックになりたいのならば、自由になってもいい。全面的に協力する」と、とても良い返事を頂きました。そこで聖フランシスコ・ザベリオは日本の守護者として、大天使聖ミカエルを選びました。

ですからこの大天使聖ミカエルは、日本にとってとても重要な守護者です。聖ピオ十世会日本も今年創立したばかりですけれども、大天使聖ミカエルに私たちの信徒の方々、そのミッション、全てを、保護に委ねたいと、奉献したいと思っています。皆さんもお祈り下さい。

今日私たちの主は、福音の中で奇跡を行ないました。その奇跡を一緒に黙想致しましょう。

イエズス様がカファルナウムにいる時に、半身不随の中風の男が運ばれて来ました。中風、半身不随というは脳の病気で、手足が麻痺して、体を動かす事できない、誰かが助けてくれないと食べる事も、着替える事も、寝返りを打つ事も不自由だ、という人です。もう何年もこの病気で苦しんでいました。「イエズス様ならきっと治す事ができる」と周りの人が思って、運ばれて来ました。

イエズス様は彼を見ると、最初に仰ったのは、「子供よ、我が子よ、安心せよ。お前の罪は赦された。」

すると、周りにいた人が、「あ、何だこの人は。何でそんな事を言えるのか。罪を赦すのは天主しかする事ができない。なぜこんな事を言う事ができるのか。」

するとイエズス様は、御自分が天主としての罪を赦す事ができる力をお持ちになっている、とははっきり言いませんでした。御謙遜の為に。しかし、「実はそうだ」という事を別の形で示そうとされました。それは天主でしかできない、ただ言葉を以って、この病の者をあっという間に治癒してみせる事です。悪魔にはできません。

彼に、中風の男に言います、「起きよ。床を取って家に帰りなさい。」
すると男は、いきなりむくりと起き上がって、今まで寝ていた床を取って家に帰りました。

これは本当にあった事です。これを以ってイエズス様は、御自分が罪を赦す事ができるし、たった一言を以って病気を治す事もできる、という「天主のみの力を持っている」という事を表します。

これは事実ですけれども、一体何で教会は今日、この話を私たちに聞かせようとしたのでしょうか?一体何の意味があったのでしょうか?私たちはこれを聞いて何を考えれば良いのでしょうか?

それは、実は私たちも今日、イエズス様の前にある意味で運ばれて来ました。そして実は、体が健康なようには見えても、実はこの中風の半身不随の男のように、実はこの地上の事で寝たきりで、自分で天に向かって歩く事もできずに、そしてこの地上の事にうずくまって、愛着して、罪の中にもがいていて、何の身動きもできない状態で、知らないうちに私たちはそうである、という事を教えたいのだ。

そしてイエズス様が私たちに、「子供よ、安心せよ」と優しい言葉をかけて下さっている、という事をお知らせしたいのだ、と。

そして同時にイエズス様は、天主としての力を以て、私たちを癒そうとしています、「さぁ、起き上がって、家に帰りなさい。」

「家に帰りなさい」というのは、実は「天主の家に行きなさい。主の家に行きなさい。」でもあります。「主の家に行こう」と言われて、私たちの心はどれほど喜んだことでしょうか。

これはミサの中に、入祭誦に書いてあります。
“Lætátus sum in his, quæ dicta sunt mihi : in domum Dómini íbimus.”

それのみならず、「さぁ、主の家に行こう」というのは実は、「ミサに行きなさい。起き上がってミサに行って、そして今までの日常の犠牲や、日常の苦しい事を捧げなさい。主日を聖化しなさい。主日にイエズス様に、私たちの全てを捧げなさい」という事だ、という事を教会は私たちに教えようとしています。

イエズス様は教会を通して私たちに、「さぁ、今日は主日だから、日曜日だから、イエズス様の元に行って、起き上がって、そして祈りを捧げなさい。ミサを捧げなさい。いけにえを捧げなさい。そして天国に行きなさい」と仰っています。

これは、私たちにとって非常に大切な言葉です。何故かというと、イエズス様は私たちに、単なるこの地上での健康を与えるのみならず、永遠の幸せを、永遠の喜びを与えようと思っているからです。

私たちのこの地上の生活は非常に短いものだからです。ですからイエズス様は私たちを、ぜひ天国の御自分の家に連れて行きたい、と思っています。

その為に、ただ口先で「あぁ、行きなさい」と言っただけではなくて、その私たちの為に、まず御自分が御血を以って、十字架の上で自分の血を流されて、全ての事をして下さいました。このイエズス様の愛を是非知って、このイエズス様の言葉に従って下さい。

もちろん今日の中風の人が、「俺、嫌だ!このまま寝てる!」と言えば、せっかくの奇跡の機会も、そのまま終わり。「あぁ、何であの時、お前起きなかったのか。何でそのまま起き上がって家に帰らなかったのか!」あるいはそのチャンスを逃した為に、「また一生そのまま寝転がっていなければならない。」イエズス様の仰った言葉に協力しなかったが為に、そのせっかくのチャンスを逃してしまう、という事があり得ます。

幸いに今日の男は、ちゃんと起き上がって家に帰りました。私たちもそうしなければなりません。今日から是非、主日にイエズス様の言葉を聞いて、そしてできればミサに、そしてもしもできない場合には霊的にロザリオを以って、あるいは霊的にミサに一致して、イエズス様の言葉に従って、主日を聖化するように致しましょう。

私共も聖ピオ十世会も、このミサを皆さんの主日の聖化の為に、これまで通り主日のこのミッションを続けたいと思っています。どのような事があってもこれを続けたいと思っています。ですから皆さんも是非、この主日の聖化の為に、イエズス様の喜びの為に、どうぞ協力をお願い致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズスに信頼して招きに応えなければなりません。私たちも地上での罪への愛着から起き上がって、それをミサで御捧げして、天国へと向かわなければなりません。

2021年10月01日 | お説教・霊的講話

2021年9月26日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お知らせがあります。
来たる9月29日は、大天使聖ミカエルの大祝日で、日本の守護者でもあります。これは、聖フランシスコ・ザベリオが最初に、島津のお殿様と面会した日がこの日で、1549年9月29日。その成功に、大天使聖ミカエルに日本を奉献する事を決意したからです。聖ピオ十世会日本もこれに倣って、私たちのミッション、皆さん、全てを、大天使聖ミカエルの保護に委ねようと思っています。どうぞ心を合わせてお祈り下さい。

今日の福音では、私たちの主が奇跡を起こしました。
半身不随の男を、まず罪を赦して、そしてそのイエズス・キリスト御自身が罪を赦す力をお持ちである、という事を証明する為に、この一言で彼の病を治します。
「起き上がれ。起きて、床を取って家に帰れ。」
するとその男は、その通り起き上がって、それまで寝ていた床を取って家に帰りました。

もちろんこれは歴史上あった本当の事で、これはこれだけで私たちに、「イエズス様が天主である」という事実を示しています。

ところで公教会がこの史実を、この歴史上の話を、出来事を、私たちに今ミサの中で聞かせているのは、「実は、これと同じような事が、このミサで起こりつつある」という事を、「この御恵みがミサで与えられる」という事を示しているからです。

この半身不随の男は、実は人類です。イエズス様は、私たちに憐れみの心を持って、この私たちを癒したい、赦したい、私たちを健康にさせたい、私たちを天国に連れて行きたい、という思いで近寄られて仰います。「子よ、信頼せよ。お前の罪は赦された。さぁ、床を取って家に帰れ。起き上がって家に帰れ。」

私たちは一体、何をしなければならないのでしょうか?

イエズス様に信頼して、そして子供として、イエズス様の仰る通りにしなければなりません。イエズス様の命令に、お招きに応えなければなりません。つまり私たちも、今までの地上での罪への愛着から起き上がって、それをまとめてイエズス様に御捧げして、ミサで御捧げして、そして天国へと向かわなければなりません。

イエズス様が、「さぁ、起きて、今までの地上の事はもう取って、家に、天国の方に歩きなさい」と言うのならば、「いや、もっと寝てた方が楽だから。もっとこうしていたい」と決して言ってはいけません。何故かというと、私たちは今こそ、この御恵みを掴むチャンスがあるからです。これを逃してはなりません。

ですからこの時に私たちは、「私は仕えません!」などと悪魔のようなサタンの言ったような事を言うのではなくて、「誰が天主に如(し)く者あるぞ!」「私はイエズス様の招きに応じます。イエズス様の御旨を果たします!」と応えるように致しましょう。

イエズス様の「霊魂を救いたい」というその愛の炎をご覧になって下さい。このこれを見ると、天主の掟の第二の掟、隣人愛についての掟も、私たちは思わざるを得ません。「隣人の霊魂を救いたい。隣人の霊魂を救う為に、これほどまでになっているイエズス様に協力したい」という思いです。

私たちもこのミサに与って、私たちのこの犠牲を捧げる事を、私たちの周りの多くの人々の霊魂の救いの為にも御捧げ致しましょう。家族の為に、同僚の為に、そして日本に住む、あるいは世界の全ての人々の為にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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