新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

伊集院静『ミチクサ先生』その⑩ 279~298

2021年04月04日 | 本・新聞小説
散歩がてらにナショナルギャラリーに出かけた金之助(漱石)。ここでのターナーとの出逢いがきっかけになった美術館巡りは、深い霧に神経衰弱さえ自覚し鬱陶しい日々を送っていた金之助(漱石)にある光を差しのべてくれました。
特に、「ハムレット」の恋人オフィーリアの悲劇の結末を描いたジョン・エヴァレット・ミレイ″オフィーリア″に深く感銘をうけます。


『若く美しい娘、オフィーリアがひっそりとした水辺に浮かんでいる。両手と顔を水面から出し、ドレスを着たオフィーリアはまるで浮遊したように描かれてある。水にわずかに浮かんだドレスの上に、水辺に咲いた花が木から舞い落ちていて、まるで落花の、椿の花びらのように、この苛酷な悲劇の結末をより鮮やかなものにしている』と、文学作品の物語の根幹、叙情を一枚の絵で表現できることに深く感じ入ります。
帰国して書いた、熊本・那古井温泉を舞台にした『草枕』にもオフィーリアは度々出てきます。

この頃イギリスに注文された戦艦「三笠」が進水式を終え引き渡しを待っていました。国家公務員が給与の10%を無条件で国に収めていて、その製艦費の結晶なのです。
ロシアの南下政策に神経をとがらせていた英国にとって日本の海軍力は信頼できるものであり、日英同盟を締結するのは当然の流れでした。

当時、長ければ半年もかかる日本からの手紙。正岡子規の「僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ・・・今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク・・・」に鼻の奥を熱くしながら、子規の期待に応えるべく英文学に励むことを新たに決意します。
下宿のオーナーから自転車に乗ることを進められ猛特訓します。

その頃子規は、母と妹の愛情に支えられて壮絶な最後を迎えていました。子規は己を信じ漱石を信じるまっすぐな若者。その友を得た金之助は幸運でした。
手紙に「子規逝くや十七日の月明けに」の句を添えて、子規の死を知らせてくれたのは高浜虚子でした。
死の事実だけが金之助の胸の底に届き、悲しみのなかで「手向くべき線香もなくて暮の秋」など5句の悼句を発句します。これほどの数を発句したのはあとにも先にも、その秋だけでした。

そんな中、金之助の2年間の留学生活も終わろうとしていました。金之助は他の留学生に比べて驚くほど多くの本を買い込み、本の山の中の暗い部屋で一日じっと机につき、一点を見つめている・・・。゙夏目狂セリ゙の電報が文部省に届きます。



文部省はドイツに滞在する同期留学生の藤代禎輔に、金之助を保護しすぐに日本に連れ帰るよう指示します。
しかしロンドンで見た金之助は何一つ変わらない江戸っ子の金之助で、藤代は一人先に帰国しました。
金之助が神経衰弱の自覚があったのは事実。だから療養のために自転車に乗ったり、スコットランド旅行で美しい田園風景に触れて回復しつつあったのも確かだったのです。
帰国準備の中で本の多さに、周りは「この街の本を皆持って行くのか?いっそ大英博物館も一緒に船に積んだらどうだ」と呆れるほどでした。
その大量の書物と金之助を乗せた船が出発したのは明治35年の師走のことでした。

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