新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

伊集院静『ミチクサ先生』その⑦

2021年01月22日 | 本・新聞小説
1月1日付け朝刊の前月の<あらすじ>『父直克がなくなったの機に金之助は久しぶりに上京した。正岡子規と句会などで旧交を温めたが、病の進行に心を痛める。一方、妻鏡子は再び流産し、鎌倉で療養していた。』
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209回~228回
上京した金之助(漱石)は東京と鏡子の療養先の鎌倉を行き来していました。そんなある日親友・米山保三郎の弔いの意味もあり鎌倉の円覚寺を訪れます。少し前に親友であり尊敬もしていた保三郎を亡くしていた金之助の心の動揺は計り知れないものでした。その保三郎とかつて訪れた思いでの円覚寺で供養をしてもらいます。

療養中の鏡子を残して熊本に帰った金之助はそのまま新しい引っ越し先へ。「月に行く漱石妻を忘れたり」と一句。漱石は熊本で4回も引っ越しをしています。もちろんあの猫も一緒で、鏡子も回復し戻ってくるとまた元の学生の出入りの多い生活が始まりました。

このころ山川信次郎と熊本市内から西北にある小天(おあま)温泉をたびたび訪れています。『山路を登りながら、こう考えた』の名文は山川との会話の中でこの山道で生まれました。
宿泊するのは前田案山子の別宅。前田は旧細川藩の槍術指南、明治以降は衆議院議員の肩書を持っています。政治家や仲間を熊本に招く折に使った温泉のある別宅でした。

部屋の座卓も茶棚も趣味がよく若冲の一筆書きの鶴の画も、主の枯淡な選択は金之助の心にぴったりきて満足するものでした。金之助は子供のころ牛込の蔵で山水画や浮世絵をよく見ていたのです。
ここで案山子の娘「前田卓(つな)子」に出会います。年の頃21~2歳。まなざしの美しいこの女性の面影がずっと心に残ります。
温泉の湯気の向こうに鶴のように立っている、その立ち姿がなんとも優雅であり美しい艶姿に見惚れていました。『美しいものを眺めるだけで、さらに言えばその対象を考え、思いあぐねるだけで、気持ちが高揚しているのがわかる。まったく人間はそういう生きものなのではないかと思う』。脳裏にあらわれるツナコの姿に漱石は戸惑うこもしばしば・・・。
このことが漱石の描く女性像の一つになるようです。のちに執筆した『草枕』はこの一帯で過ごした日々のできごとを思いつくままに書いた名作です。
この後どう展開するのでしょうか。


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