主な私の読書空間は通勤や出張で移動する電車や飛行機の中だ。
乗物の中というのはどういうわけだか「トイレ」の中と同じぐらい考え事に集中することができる。(但し携帯音楽プレーヤーからのチャカチャカノイズは聞こえないものとする)
なぜだか考え事ができる空間というのは読書にも向いており、かつ乗り物独特の揺れがロッキングチェアの役割も果たしてくれるのか、時として快適でさえあるのだ。
但しトイレと乗り物の中では「個室=トイレ」と「大部屋=乗物の中」という大きな違いがある。
このため電車や飛行機の中では読むことのできない活字媒体も存在する。
例えば新聞。
私は電車の中では決して新聞は読まない。
その理油は様々だが、最も大きな理由は新聞はサイズが大きすぎることにある、
新聞はたとえタブロイド判であったとしても満員電車では広げて読むことができないうえに、もし折りたたんで読んでもページをめくることがかなり困難な作業になってしまうからだ。
ただでさえ私は新聞を読むのが下手くそで、読み終わった後などは、
「ちゃんと綺麗に畳んでくれへんかったら、困るやないの」
と嫁さんに叱られながら折り目も何もクシャクシャになった新聞を畳みなおさなかればならないのだ。
また日経や産経、読売、など一般紙を読んでいる分には問題はない。しかしサンスポやダイスポ、夕刊紙などは目のやり場に困るページもあるので電車の中で読むのには適していない。
稀に電車の中で立派なスーツを着込んだ紳士が「おはようサンスポ」のページを熱心に読んでいるのを見かけることがある。
こういう人たちはいったいどういう神経をしているのだろうか。
一方、電車の中で気軽に読めない書籍としてエロ本とお笑い本が挙げられる。
エロ本を挙げる理由は問われるまでもないことで、「おはようサンスポ」を公衆の面前で平気で読む紳士でもエロ本まではページを開けないだろう。
また、笑い本もシーンと静まり返った車内で突如笑いが止らなくなったりする可能性をはらんでおり「危ない人」扱いさえる危険性がある。
お茶の水大学教授の土屋賢二氏のエッセイはそんな分野に分類される書籍なのだ。
もちろんエロ本ではなくお笑い本として分類されるものだ。
「博士の異常な弁解」は週刊文春に連載されているエッセイ集。
私は週刊文春を講読しているのだが、最近面倒くさくなってツチヤエッセイを読まずにいた。
しかしこういうふうに改めてエッセイ集となったものを買い求めて読むと、なるほど、面白い。
電車の中で読んでいて思わず「アハッ!」と声を上げてしまうくらい、危険な面白いさを持った1冊なのであった。
~「博士の異常な弁解」土屋賢二著 文藝春秋社発行~
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