みつめて迎えたいひと、
第33話 雪灯act.1―another,side story「陽はまた昇る」
河辺駅で降りて改札を抜けると周太はほっと息を吐いた。
ふれる空気はどこか水けをふくんで冷んやりと清々しい、ゆっくり辺りを見回すと一面の窓が視界に映りこんだ。
奥多摩の山波がコンコースの窓から白銀の姿を魅せてくれる、足がひきよせられて白銀の窓辺に周太は立った。
雪山の連なりが雪曇の空にあわく美しい、白染まる雪の町と山に周太は微笑んだ。
「…ん、きれいだな」
2時間ほど前は雪山が怖かった。
冬富士に登った英二の下山連絡が届かない、その不安が怖かった。
けれど英二は無事の留守電を入れてくれた。きれいな低い声が嬉しくて幸せだった。
そのメッセージを聴きながら青梅線に揺られてくる道のりは、不安が重たかった分だけ軽やかに思えた。
もう一度聴きたいな?雪山を眺めながら携帯を開くとちょうど着信が入った。
「…美代さん?」
着信表示に映し出された友達の名前に周太は首をかしげた。
たぶん今の時刻はJAに勤務する美代は仕事中だろう、どうしたのかなと思いながら周太は電話を繋いだ。
「はい、」
「湯原くん、急にごめんなさい…いま仕事中だよね?」
いつもの遠慮がちな口調だけれど、どこか元気がない。
きっと美代も富士の雪崩を知っている、そして心配になって周太に電話を架けてくれた。
だいじょうぶだよと想いながら周太は答えた。
「ん、出張でね、ちょうど河辺駅に着いたとこなんだ…」
「青梅署ね?…じゃあ宮田くんに会えるのね、」
電話の向こうが驚いた気配が伝わって、うれしそうに訊いてくれる。
もっと安心させてあげたいな?微笑んで周太は教えた。
「ん、そうだよ。一緒に仕事するんだ、国村さんも一緒だよ」
「光ちゃんも…良かった、」
やさしいため息がほっと流れ落ちて笑顔の気配が伝わってくる。
きっと国村は美代に連絡をしていないのだろう。それも仕方ないかなと周太は首傾げた。
あの国村の思考パターンだとたぶん自分の仕事や「山」は恋人には持ち込まない。
だから自分が雪崩に遭っても決して話さないだろう。
そんな国村と英二はよく似ているけれど、英二は周太に全てを話してくれる。
でもこれは女の子と男同士の違いもあるのかな?
そんな考えを巡らしながら美代の安心を電話で繋いでいると、ほっと一息の強いため息が聞こえた。
「あのね、湯原くんはいつまで青梅にいるの?」
「ん、今夜と明日が仕事なんだ…だから明後日までいるよ?」
「そうなの、でも、…やっぱり忙しいかな?」
話しながら左手首のクライマーウォッチを見て、周太はゆっくり歩きだした。
16時より前には青梅署警察医診察室に着かないといけない。
雪道を革靴で気をつけて歩きながら周太は微笑んで訊いてみた。
「ん、明日の夕方以降なら、大丈夫…なにかあるの?」
少し考え込むような気配が電話越しに伝わってくる。
歩きながら美代の返事を待っていると、遠慮がちに訊いてくれた。
「うん、あのね、カラオケに一緒に行ってほしいなあって…でも、宮田くんとの時間をとっちゃうのも、ね?」
「からおけ?」
訊き返しながらすこし周太も考えた。周太はカラオケには行ったことが無いし、歌もあんまり知らない。
そんな自分と一緒に行っても楽しいだろうか?考えながら周太は訊いてみた。
「俺、カラオケは行ったこと無いんだ…歌もね、あまり知らないよ?それでも、だいじょうぶ?」
「うん、もちろん。湯原くんと話したいの。カラオケはね、もちろん私は歌うんだけど、もし湯原くん嫌じゃなければ、ね?」
「それで美代さんが良ければ…あ、英二も誘っていいかな?」
できれば一緒に過ごしていたい、そんな本音も美代なら解ってくれるはず。
そんな想いで告げた言葉に美代は頷いてくれた。
「うん、一緒に来てね?河辺駅の近くのカラオケ屋にいこう、って思うんだけど」
「ん、英二が解ると思う…美代さんはカラオケ、すきなの?」
なにげなく訊いた周太の言葉に一瞬、哀しそうな気配が繋がれた。
どうしたの?そう訊こうとした周太に美代は明るく笑ってくれた。
「あのね?カラオケは気晴らしなのよ。明日は気晴らしにつきあってほしいの、お願いしていい?」
気晴らしと美代は言った。
気晴らししたい理由があるから美代はカラオケに行くのだろう。
それはきっと雪崩と国村のことが原因じゃないのかな?そう考えながら周太は頷いた。
「ん、いいよ?…あ、また本とか教えてくれる?」
「うん、あのね、手紙に書いた公開講座のテキストとか、どうかな?」
「あ、見てみたいな…このあいだの本、木の話のやつが面白かったよ?」
そう電話で話しながら歩いて周太は青梅署についた。
携帯を切ってエントランスを入ると警察医診察室へと向かう。
なつかしい扉を見つめて微笑むと周太はノックして扉を開いた。
「失礼します、先生、」
白い壁の診察室は記憶のままに穏かな空気が佇んでいる。
その空気の中に白衣姿でロマンスグレーの横顔が振向いてくれた。
「やあ、こんにちは、湯原くん。よく来てくれましたね?さあ、荷物をおろしてください」
「はい、失礼いたします…吉村先生、」
コートと荷物を置いて周太は吉村の目を真直ぐに見つめた。
記憶と変わらず吉村医師は穏やかに微笑んでくれている。
この医師にまた自分は援けて貰えた、感謝の想いに周太は頭を下げた。
「呼んでくださって、ありがとうございます…我儘を言って申し訳ありません、」
「ああ、そんな頭を下げないでください?こちらこそ助けていただくのですから。さあ、お茶にしましょう?」
穏やかに笑って吉村医師は茶菓子の支度をしてくれる。
この医師はいつも穏やかで気さくで、こうして自分の茶菓子を分けてくれる。
この穏やかさが静に癒してくれる温もりがあたたかい。微笑んで周太はサイドテーブルへと立った。
「はい、先生。じゃあ俺、コーヒー淹れますね」
「よろしくお願いします、湯原くんのコーヒー楽しみにしていました、」
「俺もね、先生?お茶菓子は何かな、って楽しみにしていました」
「うん、うれしいですね。今日はね、生姜を使った珍しいお菓子があるんです」
和やかに話しながら周太は、2つのマグカップにドリップ式コーヒーをセットしていく。
電気ポットの湯だけれど、ゆっくり湯を注いでいくと芳ばしい香りが白い部屋を充たしていく。
おだやかな時が心地いい、今は任務の出張できているからスーツ姿だけれど寛いだ気持ちになっていく。
ほっと吐息をついたとき、廊下の足音に周太は気がついた。
「おや、登山靴の足音ですね?湯原くん、きっとね、宮田くんたちですよ?」
そう吉村医師が微笑んだとき、軽やかなノックが診察室に響いた。
からり開けられた扉から、底抜けに明るい目で国村が笑って覗きこんだ。
「先生、遅くなってすみませんでした。うん?あんた、誰?」
国村のセリフが怪訝そうな声になっている。きっと今日の周太の姿がプライベートと違い過ぎて国村には解り難いのだろう。
プライベートの周太は前髪をおろして英二が選んでくれた明るい色の服を着ている。
けれど今は任務中で前髪をあげてダークグレーのスーツを着て、我ながら印象が変わると思う。
…すこしはね、大人っぽく見えているかな?
すこし良い気分で周太はコーヒーを淹れ終えた。
ドリップを外した時もう一つの足音を懐かしく感じられた。
ゆっくり振向いて見つめた視界の真ん中に、切長い目が見つめ返してくれて呼吸が一瞬止められた。
切長い目、端正な顔立ち、白皙の貌。見上げる長身の美しいひと。
このひとの無事をどれだけ自分は願って祈っただろう。
そしていま無事に約束通り帰ってきて、この目の前に立ってくれた。
このひとの帰りを待っていた、笑顔で迎えたいと待っていた。うれしくて周太は微笑んだ。
「お帰りなさい、英二…」
見つめる想いの真ん中で切長い目がすこし大きくなる。
この顔好きだなと見つめる端正な口元が披いて英二の想いを押し出した。
「…周太!」
登山ザックを背負ったままで英二は一歩、大きく診察室へと踏み込んだ。
このままだと抱きしめられてしまう?そんな予想に周太は自分より大きな体へストップをかけた。
「…っ、えいじ、だめっ、」
精一杯の力で押し退けたのに英二に周太は抱きこまれた。
抱きよせてくれる力強い腕、温かな懐、深い樹木のような英二の香。
どれも逢いたかった、無事でいてほしかった、いまこんなに無事がうれしい。
…ね、無事、だった…
涙が零れそうになって周太は目を瞑った。
ひとつ呼吸をして涙の想いをもういちど、こころの底へと戻して受け留める。
いまはまだ泣いてはいけない、だって皆がいる。それに英二の無事を笑顔で迎えてあげていたい。
…それに、こんなに抱きしめるほど英二は自分の迎えを喜んでくれる
うれしくて心の裡で微笑みながらも、でもやっぱり今はダメと困りながら思ってしまう。
だってここは青梅警察署の吉村医師の診察室で、今の自分は任務中の警察官なのに。
それなのに抱き合っての再会はダメだろう、周太は英二の説得を始めた。
「えいじ、ここではだめだ、けいさつかんだろ?ね、いうこと聴いて?」
「なんで、周太?俺、ほんとに周太に逢いたかったのに。ね、周太?冷たいこと言わないでよ」
今の状況を英二は忘れてしまったらしい。
そんなにまで想ってもらえている、それは心から嬉しい。
けれど今は思い出して貰わないと?遠慮がちに周太は口を開いた。
「…だって…せんせいもくにむらさんもみてるよ?…お願い、言うこと聴いて?」
言われて英二は思い出したように辺りを見回した、ここは青梅署警察医の診察室だと思い出したらしい。
周太を見つけた英二は周りの事を全部きれいに忘れていた、そんな様子で英二は首傾げている。
そんなふうに我に返りかけた英二に、周太は躾のように言い聞かせた。
「ね、英二?…ここは、吉村先生の大切な診察室だよ?だから、だめだ」
「…あ、そうだったな、うん。解ったよ、周太」
素直に頷いて英二は周太に笑いかけてくれた。
こんふうに警察官としての職場でまで直情的に振る舞われると困ってしまう。
けれどやっぱり、我を忘れるほど自分を求めて抱きしめてくれることは、ほんとうは嬉しい。
困ってしまう、けれど嬉しい。ふたつの想いのはざまで周太は困りながら英二に微笑みかけた。
「ん。ありがとう、英二?…聴いてくれて、うれしいよ」
「うん、俺、周太のお願いは聴くよ?」
周太が英二を宥めている間に国村は徐にサイドテーブルの前に立った。
そして周太の淹れたコーヒーを勝手にとって啜りこむと満足げに細目が微笑んで、ちらっとこちらを見た。
またコーヒーをひとくち啜りこんで、機嫌よく細い目を笑ませると国村は周太に笑いかけた。
「湯原くん、前髪で雰囲気ずいぶん変わるんだね?
ちょっと一瞬解らなかったよ。うん、やっぱり湯原くんのコーヒーは旨いな。はい、先生どうぞ」
「ありがとう、国村くん。うん、美味しいです」
吉村医師にもマグカップを渡し、背負っていた登山ザックをおろすと国村は椅子に座ってコーヒーを飲み始めた。
そして温かな芳ばしい湯気の翳から国村は愉しげに笑って言った。
「ほら。おふたりさん、続けていいよ?
旨いコーヒー飲みながらね、しっかり堪能させてもらうからさ。なかなか眼福だな、ねえ?」
からり笑った国村を見て、つい英二も笑ってしまった。
その隙に英二の腕を押し退けて周太は抜け出すと、もう2つのマグカップを出してコーヒーをセットした。
冬富士からも雪崩からも無事に帰ってきてくれた英二、温かいコーヒーで寛いで疲れを癒してほしい。
そんな想いにコーヒーを淹れる手は動かしていくけれど、きっと首筋はもう真赤になっている。
…どうして赤くなりやすいのかな?ほら、ちゃんと湯を見ていないと
自分に言い聞かせながら湯を注ぐ手許に集中しようと周太は湯気を見つめた。
それでもやっぱり、きれいな低い声は周太の意識を惹きよせて、英二の話す言葉が聞こえてきた。
「先生、ご挨拶もせずに申し訳ありませんでした。遅くなってすみません、」
「いや、いいんだ。無事に帰ってきてくれて良かった、遭難救助お疲れさまでした」
すこし笑いをこらえながら吉村医師は英二を労ってくれている。
いつもどおりの穏やかな2人の会話と空気、なんだかいつもよりほっとして周太は1つ吐息をこぼした。
「ありがとうございます、ご心配を申しわけありません。でも、いい経験をさせて貰えました」
「そうですね。君たちはこれから谷川岳や剣岳にも登るのでしょう?その前に良い心構えになったかな?」
「はい、富山県警の方たちに比べたら、って思います」
英二の言葉にクリスマスに聴いたことを周太は思い出した。
―…いついかなるときも尽くして求めぬ山のレスキューでいよ、目立つ必要は一切ない。本当にそうだなって俺は思ったよ
富山県警山岳警備隊の実録書を英二はクリスマスに読んでいた。
日本警察の山岳レスキューにおいて最も過酷でストイックだと言われる富山県警山岳警備隊。その1人の言葉に英二は感銘を受けていた。
実直で真面目、直情的なほど一途な情熱を持っている英二なら、ストイックな姿は理解しやすく当然憧れるだろう。
…そして、ね、英二?あの人たちが立つ危険にだって、英二は立つことを厭わない。そうでしょう?
ずっと「生きる誇り」を探していた英二。
初めて出会った日の冷酷な美しい笑顔の底から密やかに見つめてくれた、実直で一途な熱いまなざし。
あの想いとまなざしを見つめてしまったから、自分は初めての恋に掴まった。
あの想いのまま素直に英二は生き始めて、そして今もう厳冬の雪山で遭難救助を務めて、その話をしている。
「吉田大沢の雪崩か…ひどい風だったでしょう?」
「ほんとにさ、マジ酷かったですよ?まったくね、雪崩の予測もしないで登るなんざね、不調法者です」
「そうだね、国村?でもさ、俺だってすこし前はね、あの彼と同じだったよ、」
「おまえはね、宮田?ちゃんと勉強して訓練も積んでから登ったろ、だからいいんだよ。
富士はさ、冬でも安易に登っちゃうヤツ多いんだよね、最高峰の標高と気象を舐めすぎなんだよ。入山料とる案もさ、仕方ないよね」
相変わらずの謙虚な英二の言葉がうれしい、うれしくて微笑んだ周太の手許でコーヒーが満ちた。
3人の会話の合間にそっと周太はマグカップを英二に差し出した。
「…はい、どうぞ?」
「ありがとう、周太」
うれしそうに英二は微笑んで周太を見た。
そうして見つめて英二は、おや?と気がついたように首傾げた。
「ね、周太?どうしてスーツ姿なんだ、前髪もあげているし?」
この姿は久しぶりに英二に見せた。
活動服姿で前髪をあげている所は11月の射撃大会とクリスマスの朝に見ている。
けれどスーツ姿では卒業式の日から一度も見せていなかった。
微笑んで周太は英二に答えた。
「公務の出張で来させて頂いたからスーツなんだ。だからね、英二?俺は今は警察官だよ」
「出張って周太、何の用件?当番勤務はどうしたんだ、」
「当番勤務よりこちらの出張が優先だって言われて。用件は、吉村先生?」
言いながら周太は吉村医師を見て微笑んだ。
なんだか自分から話すのは恥ずかしい、そんなふうに吉村医師を見るとすぐ解って周太に軽く頷いてくれた。
そして吉村医師は穏やかに笑って国村と英二に教えてくれた。
「私がね、湯原くんをお呼びしたんです。
今日明日の弾道調査の射手2名のうち、1名は国村くんです。
けれどもう1名が青梅署には該当者がいなくて。なので私が後藤さんと相談して新宿署に依頼を出しました」
公務の出張なら周太は堂々と新宿署の業務や訓練をすべてキャンセルできる。
しかも自主トレーニングまで「疲労をためるな」と上司がキャンセルしてくれた。
また吉村医師の賢明な配慮に甘えさせて貰った。いつもながら自分はこの医師にどんなに援けられているだろう?
いつか何かで恩返しできるだろうか、そう思っている周太の視界の先で英二は微笑んで丁寧に礼をした。
「先生、ありがとうございます」
「いいえ、私の方がお願いをしたのです。
宮田くんも国村くんも富士の訓練から戻ったばかりですが、よろしくお願いします」
笑って頭を下げてくれる吉村医師に国村も頭を下げた。
そして底抜けに明るい目で愉快気に笑って口を開いた。
「はい、先生。俺は大丈夫です。
湯原くん?警視庁の射撃大会前にさ、お互いの狙撃をみることになっちゃうな。ま、よろしくね」
からりと笑う国村の顔はいつもどおりに明るい。
けれど、さっき美代は電話で哀しげだった、きっと国村の身に起きたことへの不安を感じていた。
その不安の原因を周太はもう吉村医師から聴かされている。けれど自分の口から勝手に美代に話す訳にはいかない。
同じ男として国村の矜持が解るから話さない、そしてそういう誇り高い国村が自分は好きだ。
今日明日とこの友人と鑑識調査のテスト射手を務める、そうやって初めて射撃で競うことになる。
…このひとは天才だ、けれど、自分も負けたくない
ほんとうは射撃に自分は向いていないと自分がいちばんよく知っている。
それでも父の為に必死で努力して自分はテスト射手に指名してもらえるまでになれた。
自分の無理な努力で積み上げたものは不自然で、天与の才能の豊かさに並べれば当然見劣りするだろう。
けれど13年を積んだ1つだから胸張って挑戦してみたい。周太は微笑んで国村に答えた。
「はい、よろしくお願いします」
きちんと頭を下げる周太を見て国村が首を傾げた。
いまは警察官だと思うとつい周太は、敬語に戻って折り目正しくなってしまう。
そんな周太に国村は首傾げて、すっと目を細めて笑った。
「ふうん?いつもと違うね、湯原くん。これが警察官モードなのかな?でも、なんかアレだな、」
「…あれ?」
つりこまれるように思わず周太が復唱した「あれ」が何か見当がつかない。
復唱に誘われるように国村の唇の端が上がり、底抜けに明るい目が愉快に笑った。
「かわいい子がストイックなのってさ、そそられるんだよね?いいね、狙撃はもっとストイックになるんだろな?楽しみだよ、ねえ?」
ご機嫌に笑うと国村はマグカップを片づけて「じゃ、着替えてくるね」と行ってしまった。
マグカップを抱えたままの周太の首筋が熱くなってくる。
…だって「そそる」ってなに?
そんな疑問に途惑いながら周太はコーヒーを飲みこんだ。
こっちが真剣でいるのに躱されたみたい?けれど国村の自由で明るい、そして温かい笑顔は憎めない。
そんな友人と任務に就くことは、きっと楽しいだろう。すこし微笑んで周太は最後のコーヒーを喉へおさめた。
「はい、周太。カップ洗うから、」
隣から英二が笑いかけてくれる。
いつものように優しい英二、気遣ってカップを洗って片付けてくれる。
この大好きなひとにも恥ずかしくないように任務を務めたい、そんな想いで見つめる英二は吉村医師に声を掛けた。
「じゃあ先生、俺たちも着替えて用意してきますね。こちらに伺えばよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします。宮田くんは鑑識ファイルの準備をお願いできますか?」
「解りました、すぐ仕度してきます。ほら、周太?」
マグカップを洗い終わると周太の腕をとって立たせてくれる。
いつもの穏やかで優しい、きれいな笑顔が周太を見つめて笑っている。
ほんの数時間前には自分は不安の哀しみの底にいた、けれど今この目の前に英二が無事でいてくれる。
それが不思議で、そして心から幸せで、周太は泣きたかった。
「周太?登山服を持ってきたんだろ?俺の部屋で着替えて来よう」
「ん、…あ、はい」
思わず生返事になって周太はすこし困ってしまった。
けれど英二はやさしく微笑んで、周太の荷物まで持って診察室の扉を開けてくれた。
「周太、行こう?」
ロビーを抜けて独身寮へと歩いていく廊下も懐かしい。
歩きながら英二は周太に訊いてくれる。
「周太、今夜の宿はどうしたの?」
「ん、前も泊まったホテル。でもチェックインはまだなんだ、急いでこっちに来たから」
「ああ、急だったからね。周太、疲れていない?」
「ん、だいじょうぶ…ありがとう、英二」
やさしい気遣いの言葉をたくさんくれる。そんな想いがうれしくて周太は微笑んだ。
そして懐かしい扉の前に来ると英二は自室の扉を開けてくれた。
「どうぞ、周太。散らかっているけど、ごめんね」
「おじゃまします、」
一緒に部屋へ入って扉を閉めて、英二は荷物をおろした。
そして体を起こした英二の姿を見た瞬間に、周太の心がことんと動いた。
「…英二!」
腕を伸ばして周太は英二の首に抱きついた。
おだやかで深い森のような香が温かい、力強い鼓動が伝わってくる。
生きている。英二は生きて無事に自分の隣に帰ってきてくれた。見あげた大好きな顔は、きれいな微笑が温かい。
生きて無事でいていてくれた、安心と喜びと唯ひとつの想いが迫りあげて止められない。
もう涙はとめられない、迫りあげるまま想いがあふれて瞳から涙がこぼれ落ちた。
「…っ、英二…よかった…っ、…えいじ、」
大切な名前がまた呼べた。
呼んで見あげた白皙の頬に、細く赤い裂傷がひとすじ奔っている。
鋭いもので裂かれた傷は氷の破片がつけたのだろうか、そんな傷に雪崩の風が凍る轟然だったことが解ってしまう。
ほんとうに危険な場所から帰ってきてくれた。掌でそっと頬の傷ふれるとまた涙がこぼれ落ちていく。
「…えいじ、怪我…でも、ぶじだった…えいじ、…っ」
最高峰の氷に裂かれた頬の細く赤い傷、そっと撫でて、とまらない涙があふれてしまう。
英二は最高峰で怪我を負ってしまった、それでも今こうして目の前で自分を見つめている。
きれいな笑顔は温かく生きていて、無事に現実にほんとうに英二がいてくれる。
この数時間前は不安で涙がとまらなくて、新宿の森のなか遠くこのひとを想っていた。
そしていま目の前に立って、唯ひとつの想いのひとは周太を抱きしめてくれる。
「ごめん、周太…」
抱きしめて長い指で頬を包んで、そっとキスをしてくれる。
唯ひとり隣に迎えたい人が抱きしめてくれている、この愛するひとが隣に帰ってきてくれた。
唯ひとり唯ひとつの想い、このひとだけを自分は待っていたい。ずっと信じて待って迎え続けたい。
そんな想いに見つめる先で、きれいな笑顔が優しく謝ってくれた。
「ごめん、周太。いっぱい心配させたね、ごめんね周太」
「英二、…っ、でんわも、繋がらなくて…それで、吉村先生に…泣いて…それで、…呼んでくれて、っ」
涙と一緒に言葉があふれ出す、堪えたものがいっぺんに零れ落ちていく。
ほんとうは診察室では涙を我慢していた、微笑んで英二を迎えたかったから。
笑って「お帰りなさい」を言って幸せに出迎えて受けとめたかったから。
「周太、」
きれいに笑って英二は周太の瞳を覗きこんでくれる。
涙こぼれる瞳のはしに口づけて涙を英二はふくみとってくれる。
どうか笑って迎えてほしいよ?そんなふうに真直ぐ瞳を見つめて英二はきれいに笑ってくれた。
「ただいま、周太」
きれいな低い声、大好きな声が「ただいま」を言って名前を呼んでくれる。
こんなふうに自分は出迎えたくて待っていた。うれしくて周太はきれいに微笑んだ。
「おかえりなさい、英二」
おかえりなさい、この隣に。
そんな想いで見あげる大好きな顔に、きれいな笑顔がひとつ華やかに咲いた。
「ただいま、周太。俺の婚約者さん?最高峰からね、愛してるって言って帰ってきたよ」
(to be continued)
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第33話 雪灯act.1―another,side story「陽はまた昇る」
河辺駅で降りて改札を抜けると周太はほっと息を吐いた。
ふれる空気はどこか水けをふくんで冷んやりと清々しい、ゆっくり辺りを見回すと一面の窓が視界に映りこんだ。
奥多摩の山波がコンコースの窓から白銀の姿を魅せてくれる、足がひきよせられて白銀の窓辺に周太は立った。
雪山の連なりが雪曇の空にあわく美しい、白染まる雪の町と山に周太は微笑んだ。
「…ん、きれいだな」
2時間ほど前は雪山が怖かった。
冬富士に登った英二の下山連絡が届かない、その不安が怖かった。
けれど英二は無事の留守電を入れてくれた。きれいな低い声が嬉しくて幸せだった。
そのメッセージを聴きながら青梅線に揺られてくる道のりは、不安が重たかった分だけ軽やかに思えた。
もう一度聴きたいな?雪山を眺めながら携帯を開くとちょうど着信が入った。
「…美代さん?」
着信表示に映し出された友達の名前に周太は首をかしげた。
たぶん今の時刻はJAに勤務する美代は仕事中だろう、どうしたのかなと思いながら周太は電話を繋いだ。
「はい、」
「湯原くん、急にごめんなさい…いま仕事中だよね?」
いつもの遠慮がちな口調だけれど、どこか元気がない。
きっと美代も富士の雪崩を知っている、そして心配になって周太に電話を架けてくれた。
だいじょうぶだよと想いながら周太は答えた。
「ん、出張でね、ちょうど河辺駅に着いたとこなんだ…」
「青梅署ね?…じゃあ宮田くんに会えるのね、」
電話の向こうが驚いた気配が伝わって、うれしそうに訊いてくれる。
もっと安心させてあげたいな?微笑んで周太は教えた。
「ん、そうだよ。一緒に仕事するんだ、国村さんも一緒だよ」
「光ちゃんも…良かった、」
やさしいため息がほっと流れ落ちて笑顔の気配が伝わってくる。
きっと国村は美代に連絡をしていないのだろう。それも仕方ないかなと周太は首傾げた。
あの国村の思考パターンだとたぶん自分の仕事や「山」は恋人には持ち込まない。
だから自分が雪崩に遭っても決して話さないだろう。
そんな国村と英二はよく似ているけれど、英二は周太に全てを話してくれる。
でもこれは女の子と男同士の違いもあるのかな?
そんな考えを巡らしながら美代の安心を電話で繋いでいると、ほっと一息の強いため息が聞こえた。
「あのね、湯原くんはいつまで青梅にいるの?」
「ん、今夜と明日が仕事なんだ…だから明後日までいるよ?」
「そうなの、でも、…やっぱり忙しいかな?」
話しながら左手首のクライマーウォッチを見て、周太はゆっくり歩きだした。
16時より前には青梅署警察医診察室に着かないといけない。
雪道を革靴で気をつけて歩きながら周太は微笑んで訊いてみた。
「ん、明日の夕方以降なら、大丈夫…なにかあるの?」
少し考え込むような気配が電話越しに伝わってくる。
歩きながら美代の返事を待っていると、遠慮がちに訊いてくれた。
「うん、あのね、カラオケに一緒に行ってほしいなあって…でも、宮田くんとの時間をとっちゃうのも、ね?」
「からおけ?」
訊き返しながらすこし周太も考えた。周太はカラオケには行ったことが無いし、歌もあんまり知らない。
そんな自分と一緒に行っても楽しいだろうか?考えながら周太は訊いてみた。
「俺、カラオケは行ったこと無いんだ…歌もね、あまり知らないよ?それでも、だいじょうぶ?」
「うん、もちろん。湯原くんと話したいの。カラオケはね、もちろん私は歌うんだけど、もし湯原くん嫌じゃなければ、ね?」
「それで美代さんが良ければ…あ、英二も誘っていいかな?」
できれば一緒に過ごしていたい、そんな本音も美代なら解ってくれるはず。
そんな想いで告げた言葉に美代は頷いてくれた。
「うん、一緒に来てね?河辺駅の近くのカラオケ屋にいこう、って思うんだけど」
「ん、英二が解ると思う…美代さんはカラオケ、すきなの?」
なにげなく訊いた周太の言葉に一瞬、哀しそうな気配が繋がれた。
どうしたの?そう訊こうとした周太に美代は明るく笑ってくれた。
「あのね?カラオケは気晴らしなのよ。明日は気晴らしにつきあってほしいの、お願いしていい?」
気晴らしと美代は言った。
気晴らししたい理由があるから美代はカラオケに行くのだろう。
それはきっと雪崩と国村のことが原因じゃないのかな?そう考えながら周太は頷いた。
「ん、いいよ?…あ、また本とか教えてくれる?」
「うん、あのね、手紙に書いた公開講座のテキストとか、どうかな?」
「あ、見てみたいな…このあいだの本、木の話のやつが面白かったよ?」
そう電話で話しながら歩いて周太は青梅署についた。
携帯を切ってエントランスを入ると警察医診察室へと向かう。
なつかしい扉を見つめて微笑むと周太はノックして扉を開いた。
「失礼します、先生、」
白い壁の診察室は記憶のままに穏かな空気が佇んでいる。
その空気の中に白衣姿でロマンスグレーの横顔が振向いてくれた。
「やあ、こんにちは、湯原くん。よく来てくれましたね?さあ、荷物をおろしてください」
「はい、失礼いたします…吉村先生、」
コートと荷物を置いて周太は吉村の目を真直ぐに見つめた。
記憶と変わらず吉村医師は穏やかに微笑んでくれている。
この医師にまた自分は援けて貰えた、感謝の想いに周太は頭を下げた。
「呼んでくださって、ありがとうございます…我儘を言って申し訳ありません、」
「ああ、そんな頭を下げないでください?こちらこそ助けていただくのですから。さあ、お茶にしましょう?」
穏やかに笑って吉村医師は茶菓子の支度をしてくれる。
この医師はいつも穏やかで気さくで、こうして自分の茶菓子を分けてくれる。
この穏やかさが静に癒してくれる温もりがあたたかい。微笑んで周太はサイドテーブルへと立った。
「はい、先生。じゃあ俺、コーヒー淹れますね」
「よろしくお願いします、湯原くんのコーヒー楽しみにしていました、」
「俺もね、先生?お茶菓子は何かな、って楽しみにしていました」
「うん、うれしいですね。今日はね、生姜を使った珍しいお菓子があるんです」
和やかに話しながら周太は、2つのマグカップにドリップ式コーヒーをセットしていく。
電気ポットの湯だけれど、ゆっくり湯を注いでいくと芳ばしい香りが白い部屋を充たしていく。
おだやかな時が心地いい、今は任務の出張できているからスーツ姿だけれど寛いだ気持ちになっていく。
ほっと吐息をついたとき、廊下の足音に周太は気がついた。
「おや、登山靴の足音ですね?湯原くん、きっとね、宮田くんたちですよ?」
そう吉村医師が微笑んだとき、軽やかなノックが診察室に響いた。
からり開けられた扉から、底抜けに明るい目で国村が笑って覗きこんだ。
「先生、遅くなってすみませんでした。うん?あんた、誰?」
国村のセリフが怪訝そうな声になっている。きっと今日の周太の姿がプライベートと違い過ぎて国村には解り難いのだろう。
プライベートの周太は前髪をおろして英二が選んでくれた明るい色の服を着ている。
けれど今は任務中で前髪をあげてダークグレーのスーツを着て、我ながら印象が変わると思う。
…すこしはね、大人っぽく見えているかな?
すこし良い気分で周太はコーヒーを淹れ終えた。
ドリップを外した時もう一つの足音を懐かしく感じられた。
ゆっくり振向いて見つめた視界の真ん中に、切長い目が見つめ返してくれて呼吸が一瞬止められた。
切長い目、端正な顔立ち、白皙の貌。見上げる長身の美しいひと。
このひとの無事をどれだけ自分は願って祈っただろう。
そしていま無事に約束通り帰ってきて、この目の前に立ってくれた。
このひとの帰りを待っていた、笑顔で迎えたいと待っていた。うれしくて周太は微笑んだ。
「お帰りなさい、英二…」
見つめる想いの真ん中で切長い目がすこし大きくなる。
この顔好きだなと見つめる端正な口元が披いて英二の想いを押し出した。
「…周太!」
登山ザックを背負ったままで英二は一歩、大きく診察室へと踏み込んだ。
このままだと抱きしめられてしまう?そんな予想に周太は自分より大きな体へストップをかけた。
「…っ、えいじ、だめっ、」
精一杯の力で押し退けたのに英二に周太は抱きこまれた。
抱きよせてくれる力強い腕、温かな懐、深い樹木のような英二の香。
どれも逢いたかった、無事でいてほしかった、いまこんなに無事がうれしい。
…ね、無事、だった…
涙が零れそうになって周太は目を瞑った。
ひとつ呼吸をして涙の想いをもういちど、こころの底へと戻して受け留める。
いまはまだ泣いてはいけない、だって皆がいる。それに英二の無事を笑顔で迎えてあげていたい。
…それに、こんなに抱きしめるほど英二は自分の迎えを喜んでくれる
うれしくて心の裡で微笑みながらも、でもやっぱり今はダメと困りながら思ってしまう。
だってここは青梅警察署の吉村医師の診察室で、今の自分は任務中の警察官なのに。
それなのに抱き合っての再会はダメだろう、周太は英二の説得を始めた。
「えいじ、ここではだめだ、けいさつかんだろ?ね、いうこと聴いて?」
「なんで、周太?俺、ほんとに周太に逢いたかったのに。ね、周太?冷たいこと言わないでよ」
今の状況を英二は忘れてしまったらしい。
そんなにまで想ってもらえている、それは心から嬉しい。
けれど今は思い出して貰わないと?遠慮がちに周太は口を開いた。
「…だって…せんせいもくにむらさんもみてるよ?…お願い、言うこと聴いて?」
言われて英二は思い出したように辺りを見回した、ここは青梅署警察医の診察室だと思い出したらしい。
周太を見つけた英二は周りの事を全部きれいに忘れていた、そんな様子で英二は首傾げている。
そんなふうに我に返りかけた英二に、周太は躾のように言い聞かせた。
「ね、英二?…ここは、吉村先生の大切な診察室だよ?だから、だめだ」
「…あ、そうだったな、うん。解ったよ、周太」
素直に頷いて英二は周太に笑いかけてくれた。
こんふうに警察官としての職場でまで直情的に振る舞われると困ってしまう。
けれどやっぱり、我を忘れるほど自分を求めて抱きしめてくれることは、ほんとうは嬉しい。
困ってしまう、けれど嬉しい。ふたつの想いのはざまで周太は困りながら英二に微笑みかけた。
「ん。ありがとう、英二?…聴いてくれて、うれしいよ」
「うん、俺、周太のお願いは聴くよ?」
周太が英二を宥めている間に国村は徐にサイドテーブルの前に立った。
そして周太の淹れたコーヒーを勝手にとって啜りこむと満足げに細目が微笑んで、ちらっとこちらを見た。
またコーヒーをひとくち啜りこんで、機嫌よく細い目を笑ませると国村は周太に笑いかけた。
「湯原くん、前髪で雰囲気ずいぶん変わるんだね?
ちょっと一瞬解らなかったよ。うん、やっぱり湯原くんのコーヒーは旨いな。はい、先生どうぞ」
「ありがとう、国村くん。うん、美味しいです」
吉村医師にもマグカップを渡し、背負っていた登山ザックをおろすと国村は椅子に座ってコーヒーを飲み始めた。
そして温かな芳ばしい湯気の翳から国村は愉しげに笑って言った。
「ほら。おふたりさん、続けていいよ?
旨いコーヒー飲みながらね、しっかり堪能させてもらうからさ。なかなか眼福だな、ねえ?」
からり笑った国村を見て、つい英二も笑ってしまった。
その隙に英二の腕を押し退けて周太は抜け出すと、もう2つのマグカップを出してコーヒーをセットした。
冬富士からも雪崩からも無事に帰ってきてくれた英二、温かいコーヒーで寛いで疲れを癒してほしい。
そんな想いにコーヒーを淹れる手は動かしていくけれど、きっと首筋はもう真赤になっている。
…どうして赤くなりやすいのかな?ほら、ちゃんと湯を見ていないと
自分に言い聞かせながら湯を注ぐ手許に集中しようと周太は湯気を見つめた。
それでもやっぱり、きれいな低い声は周太の意識を惹きよせて、英二の話す言葉が聞こえてきた。
「先生、ご挨拶もせずに申し訳ありませんでした。遅くなってすみません、」
「いや、いいんだ。無事に帰ってきてくれて良かった、遭難救助お疲れさまでした」
すこし笑いをこらえながら吉村医師は英二を労ってくれている。
いつもどおりの穏やかな2人の会話と空気、なんだかいつもよりほっとして周太は1つ吐息をこぼした。
「ありがとうございます、ご心配を申しわけありません。でも、いい経験をさせて貰えました」
「そうですね。君たちはこれから谷川岳や剣岳にも登るのでしょう?その前に良い心構えになったかな?」
「はい、富山県警の方たちに比べたら、って思います」
英二の言葉にクリスマスに聴いたことを周太は思い出した。
―…いついかなるときも尽くして求めぬ山のレスキューでいよ、目立つ必要は一切ない。本当にそうだなって俺は思ったよ
富山県警山岳警備隊の実録書を英二はクリスマスに読んでいた。
日本警察の山岳レスキューにおいて最も過酷でストイックだと言われる富山県警山岳警備隊。その1人の言葉に英二は感銘を受けていた。
実直で真面目、直情的なほど一途な情熱を持っている英二なら、ストイックな姿は理解しやすく当然憧れるだろう。
…そして、ね、英二?あの人たちが立つ危険にだって、英二は立つことを厭わない。そうでしょう?
ずっと「生きる誇り」を探していた英二。
初めて出会った日の冷酷な美しい笑顔の底から密やかに見つめてくれた、実直で一途な熱いまなざし。
あの想いとまなざしを見つめてしまったから、自分は初めての恋に掴まった。
あの想いのまま素直に英二は生き始めて、そして今もう厳冬の雪山で遭難救助を務めて、その話をしている。
「吉田大沢の雪崩か…ひどい風だったでしょう?」
「ほんとにさ、マジ酷かったですよ?まったくね、雪崩の予測もしないで登るなんざね、不調法者です」
「そうだね、国村?でもさ、俺だってすこし前はね、あの彼と同じだったよ、」
「おまえはね、宮田?ちゃんと勉強して訓練も積んでから登ったろ、だからいいんだよ。
富士はさ、冬でも安易に登っちゃうヤツ多いんだよね、最高峰の標高と気象を舐めすぎなんだよ。入山料とる案もさ、仕方ないよね」
相変わらずの謙虚な英二の言葉がうれしい、うれしくて微笑んだ周太の手許でコーヒーが満ちた。
3人の会話の合間にそっと周太はマグカップを英二に差し出した。
「…はい、どうぞ?」
「ありがとう、周太」
うれしそうに英二は微笑んで周太を見た。
そうして見つめて英二は、おや?と気がついたように首傾げた。
「ね、周太?どうしてスーツ姿なんだ、前髪もあげているし?」
この姿は久しぶりに英二に見せた。
活動服姿で前髪をあげている所は11月の射撃大会とクリスマスの朝に見ている。
けれどスーツ姿では卒業式の日から一度も見せていなかった。
微笑んで周太は英二に答えた。
「公務の出張で来させて頂いたからスーツなんだ。だからね、英二?俺は今は警察官だよ」
「出張って周太、何の用件?当番勤務はどうしたんだ、」
「当番勤務よりこちらの出張が優先だって言われて。用件は、吉村先生?」
言いながら周太は吉村医師を見て微笑んだ。
なんだか自分から話すのは恥ずかしい、そんなふうに吉村医師を見るとすぐ解って周太に軽く頷いてくれた。
そして吉村医師は穏やかに笑って国村と英二に教えてくれた。
「私がね、湯原くんをお呼びしたんです。
今日明日の弾道調査の射手2名のうち、1名は国村くんです。
けれどもう1名が青梅署には該当者がいなくて。なので私が後藤さんと相談して新宿署に依頼を出しました」
公務の出張なら周太は堂々と新宿署の業務や訓練をすべてキャンセルできる。
しかも自主トレーニングまで「疲労をためるな」と上司がキャンセルしてくれた。
また吉村医師の賢明な配慮に甘えさせて貰った。いつもながら自分はこの医師にどんなに援けられているだろう?
いつか何かで恩返しできるだろうか、そう思っている周太の視界の先で英二は微笑んで丁寧に礼をした。
「先生、ありがとうございます」
「いいえ、私の方がお願いをしたのです。
宮田くんも国村くんも富士の訓練から戻ったばかりですが、よろしくお願いします」
笑って頭を下げてくれる吉村医師に国村も頭を下げた。
そして底抜けに明るい目で愉快気に笑って口を開いた。
「はい、先生。俺は大丈夫です。
湯原くん?警視庁の射撃大会前にさ、お互いの狙撃をみることになっちゃうな。ま、よろしくね」
からりと笑う国村の顔はいつもどおりに明るい。
けれど、さっき美代は電話で哀しげだった、きっと国村の身に起きたことへの不安を感じていた。
その不安の原因を周太はもう吉村医師から聴かされている。けれど自分の口から勝手に美代に話す訳にはいかない。
同じ男として国村の矜持が解るから話さない、そしてそういう誇り高い国村が自分は好きだ。
今日明日とこの友人と鑑識調査のテスト射手を務める、そうやって初めて射撃で競うことになる。
…このひとは天才だ、けれど、自分も負けたくない
ほんとうは射撃に自分は向いていないと自分がいちばんよく知っている。
それでも父の為に必死で努力して自分はテスト射手に指名してもらえるまでになれた。
自分の無理な努力で積み上げたものは不自然で、天与の才能の豊かさに並べれば当然見劣りするだろう。
けれど13年を積んだ1つだから胸張って挑戦してみたい。周太は微笑んで国村に答えた。
「はい、よろしくお願いします」
きちんと頭を下げる周太を見て国村が首を傾げた。
いまは警察官だと思うとつい周太は、敬語に戻って折り目正しくなってしまう。
そんな周太に国村は首傾げて、すっと目を細めて笑った。
「ふうん?いつもと違うね、湯原くん。これが警察官モードなのかな?でも、なんかアレだな、」
「…あれ?」
つりこまれるように思わず周太が復唱した「あれ」が何か見当がつかない。
復唱に誘われるように国村の唇の端が上がり、底抜けに明るい目が愉快に笑った。
「かわいい子がストイックなのってさ、そそられるんだよね?いいね、狙撃はもっとストイックになるんだろな?楽しみだよ、ねえ?」
ご機嫌に笑うと国村はマグカップを片づけて「じゃ、着替えてくるね」と行ってしまった。
マグカップを抱えたままの周太の首筋が熱くなってくる。
…だって「そそる」ってなに?
そんな疑問に途惑いながら周太はコーヒーを飲みこんだ。
こっちが真剣でいるのに躱されたみたい?けれど国村の自由で明るい、そして温かい笑顔は憎めない。
そんな友人と任務に就くことは、きっと楽しいだろう。すこし微笑んで周太は最後のコーヒーを喉へおさめた。
「はい、周太。カップ洗うから、」
隣から英二が笑いかけてくれる。
いつものように優しい英二、気遣ってカップを洗って片付けてくれる。
この大好きなひとにも恥ずかしくないように任務を務めたい、そんな想いで見つめる英二は吉村医師に声を掛けた。
「じゃあ先生、俺たちも着替えて用意してきますね。こちらに伺えばよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします。宮田くんは鑑識ファイルの準備をお願いできますか?」
「解りました、すぐ仕度してきます。ほら、周太?」
マグカップを洗い終わると周太の腕をとって立たせてくれる。
いつもの穏やかで優しい、きれいな笑顔が周太を見つめて笑っている。
ほんの数時間前には自分は不安の哀しみの底にいた、けれど今この目の前に英二が無事でいてくれる。
それが不思議で、そして心から幸せで、周太は泣きたかった。
「周太?登山服を持ってきたんだろ?俺の部屋で着替えて来よう」
「ん、…あ、はい」
思わず生返事になって周太はすこし困ってしまった。
けれど英二はやさしく微笑んで、周太の荷物まで持って診察室の扉を開けてくれた。
「周太、行こう?」
ロビーを抜けて独身寮へと歩いていく廊下も懐かしい。
歩きながら英二は周太に訊いてくれる。
「周太、今夜の宿はどうしたの?」
「ん、前も泊まったホテル。でもチェックインはまだなんだ、急いでこっちに来たから」
「ああ、急だったからね。周太、疲れていない?」
「ん、だいじょうぶ…ありがとう、英二」
やさしい気遣いの言葉をたくさんくれる。そんな想いがうれしくて周太は微笑んだ。
そして懐かしい扉の前に来ると英二は自室の扉を開けてくれた。
「どうぞ、周太。散らかっているけど、ごめんね」
「おじゃまします、」
一緒に部屋へ入って扉を閉めて、英二は荷物をおろした。
そして体を起こした英二の姿を見た瞬間に、周太の心がことんと動いた。
「…英二!」
腕を伸ばして周太は英二の首に抱きついた。
おだやかで深い森のような香が温かい、力強い鼓動が伝わってくる。
生きている。英二は生きて無事に自分の隣に帰ってきてくれた。見あげた大好きな顔は、きれいな微笑が温かい。
生きて無事でいていてくれた、安心と喜びと唯ひとつの想いが迫りあげて止められない。
もう涙はとめられない、迫りあげるまま想いがあふれて瞳から涙がこぼれ落ちた。
「…っ、英二…よかった…っ、…えいじ、」
大切な名前がまた呼べた。
呼んで見あげた白皙の頬に、細く赤い裂傷がひとすじ奔っている。
鋭いもので裂かれた傷は氷の破片がつけたのだろうか、そんな傷に雪崩の風が凍る轟然だったことが解ってしまう。
ほんとうに危険な場所から帰ってきてくれた。掌でそっと頬の傷ふれるとまた涙がこぼれ落ちていく。
「…えいじ、怪我…でも、ぶじだった…えいじ、…っ」
最高峰の氷に裂かれた頬の細く赤い傷、そっと撫でて、とまらない涙があふれてしまう。
英二は最高峰で怪我を負ってしまった、それでも今こうして目の前で自分を見つめている。
きれいな笑顔は温かく生きていて、無事に現実にほんとうに英二がいてくれる。
この数時間前は不安で涙がとまらなくて、新宿の森のなか遠くこのひとを想っていた。
そしていま目の前に立って、唯ひとつの想いのひとは周太を抱きしめてくれる。
「ごめん、周太…」
抱きしめて長い指で頬を包んで、そっとキスをしてくれる。
唯ひとり隣に迎えたい人が抱きしめてくれている、この愛するひとが隣に帰ってきてくれた。
唯ひとり唯ひとつの想い、このひとだけを自分は待っていたい。ずっと信じて待って迎え続けたい。
そんな想いに見つめる先で、きれいな笑顔が優しく謝ってくれた。
「ごめん、周太。いっぱい心配させたね、ごめんね周太」
「英二、…っ、でんわも、繋がらなくて…それで、吉村先生に…泣いて…それで、…呼んでくれて、っ」
涙と一緒に言葉があふれ出す、堪えたものがいっぺんに零れ落ちていく。
ほんとうは診察室では涙を我慢していた、微笑んで英二を迎えたかったから。
笑って「お帰りなさい」を言って幸せに出迎えて受けとめたかったから。
「周太、」
きれいに笑って英二は周太の瞳を覗きこんでくれる。
涙こぼれる瞳のはしに口づけて涙を英二はふくみとってくれる。
どうか笑って迎えてほしいよ?そんなふうに真直ぐ瞳を見つめて英二はきれいに笑ってくれた。
「ただいま、周太」
きれいな低い声、大好きな声が「ただいま」を言って名前を呼んでくれる。
こんなふうに自分は出迎えたくて待っていた。うれしくて周太はきれいに微笑んだ。
「おかえりなさい、英二」
おかえりなさい、この隣に。
そんな想いで見あげる大好きな顔に、きれいな笑顔がひとつ華やかに咲いた。
「ただいま、周太。俺の婚約者さん?最高峰からね、愛してるって言って帰ってきたよ」
(to be continued)
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