萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 結晶 in the first光花さく雪の森―another,side story「陽はまた昇る」 

2012-02-14 22:32:16 | 陽はまた昇るanother,side story
光、枯れない花 永遠の秘密と約束



第33話 結晶 in the first 光花さく雪の森―another,side story「陽はまた昇る」

やわらかな温もりが髪を撫でてくれる。
気持ちよくて微笑んで周太は目を覚ました。
目覚めた瞳の向こうで、黒目がちの瞳が楽しそうに微笑んでくれる。

「おはよう、周?今朝もね、天使の寝顔をありがとう、」

笑いながら、やさしい指で頬を額をやわらかく突いてくれる。
うれしくて微笑んで周太は朝の挨拶をした。

「ん、…おはよう、おかあさん、…恥ずかしくなるよ?」
「恥ずかしがりね、周は?でも、ほんと可愛いな、置いて出掛けるの、嫌になっちゃうな?」

愉しげに笑う母の言葉に、急に周太は寂しくなった。
今日は朝早くから母は友達と日帰りで温泉に行く、帰りは夜になると言っていた。
こんなに長時間を母と離れるのは周太は初めてのことになる。
なんだかベッドから出たくなくなって、周太はテディベアを抱っこして丸くなってしまった。

「ん、周?起きてくれないの?おかあさん、周と一緒に朝ごはん食べたいな?」
「…ん、ごはんは一緒に食べたいけど…」

抱っこしたテディベアの影から周太は口ごもった。
もう小学校3年生にもなって、母と離れて留守番したことが無いのはきっと自分くらい。
それも解ってはいる、けれどやっぱり大好きな母が夜までいないのは寂しいと想ってしまう。
でも母が今日の温泉旅行を楽しみにしていることも自分はよく知っている。
毎日カレンダーを見て楽しそうに日にちを数えていたから。

…でもね、…おかあさんがいない日曜日は、さびしいな。ね?

テディベアにちいさく「ね?」と話しかけて周太はため息を吐いた。
ほっと息ついた背中から、やわらかな香がやさしく腕をまわして抱きしめてくれる。
おだやかですこし甘い、桜の花にも似ている母のやわらかな香がうれしくて周太は微笑んだ。
微笑んだ頬にやさしい母の頬がよせられる。

「かわいいな、周、可愛くって抱っこしちゃう、」
「ん、…恥ずかしいよ?…でも、抱っこうれしい、よ?」

よせられる頬のやわらかさも香りも、母のやさしさも幸せで周太は笑った。
そんな幸せな感触に甘えていると、明るく笑いながら母が口を開いた。

「ね、周?今日はね、おかあさん、仲良しのお友達と10年ぶりの旅行なの。
おかあさんね、4月にはお泊りで旅行でしょう?今日は、その練習でお友達と温泉に行くのよ?」
「りょこうの、練習?」

旅行に練習ってあるんだな?
不思議に思って訊いてみると母はいつものように明晰に教えてくれた。

「うん、そうよ?いきなりお泊りでね、おかあさんが夜いなかったら。きっと周はびっくりしちゃうでしょ?」
「…ん、…そう、だね…?」

きっと自分はびっくりするだろうな?周太は4月の自分を心配をした。
ひとりっ子で甘えん坊だと周太は自分でもよく解っている、だから母の言うことは尤もだと頷ける。
けれど4月には4年生になっている、そんなに大きくなって留守番できないのは、きっと恥ずかしいだろう。
そう思うと今日、ちょっと頑張っておく方がきっといい。ちいさな決心で周太は母に微笑んだ。

「ん、今日はね、練習するよ?」
「よかった、おかあさんもね、周と離れる練習なの。だから一緒にがんばろうね?」

抱っこされながら起き上がって周太は母を見あげた。
いま母は「離れる練習」と言った、どういう意味だろう?言葉に心配になって周太は訊いた。

「…はなれる練習、なの?」

ちいさな質問に母はやさしく微笑んで額にキスしてくれる。
そして黒目がちの瞳で周太の瞳を見つめて教えてくれた。

「うん、そうよ。いつかね、周も大人になって、おかあさんから離れて生きていくの。
そのとき、おかあさん寂しくなっちゃって、周を離せないと困るでしょう?だからね、今日から練習するのよ?」

大好きな母と離れて生きていく。
そんな哀しいことは考えたことが無い、びっくりして哀しくて周太は母に抱きついた。

「…そんなのわからない、おかあさん、ぼく、ずっと一緒にいる」
「うん?ありがとう、周。可愛いな、周は、ね?」

やさしい腕が抱きしめてくれる。
ほっと温もりに安心して微笑んだ周太に、黒目がちの瞳がやさしく笑いかけてくれた。

「ね、周。でもね、きっと好きなひと出来るから、離れても大丈夫なのよ?」
「…すきなひと?…おかあさんと、おとうさんの他に?」
「うん、そうよ?」

そんなひと出来るのだろうか?
学校の友達も好きだと思う、けれど父と母ほど好きだなんて想えない。
いつも自分が想うことを周太は素直に母に話した。

「ん、…でもね、おかあさん?花が好き、っていうとね?
おとうさんと、おかあさん以外のひとってね、…男の子なのに変だって、だめだって言うよ?
料理するのとかケーキが好きって言うのも、そういうふうに言われる…この小十郎のこともね、言われたよ?
好きなものを、だめって言うひとをね、好きになるのって難しいよ…だから、ぼくにはね、好きなひと出来ないかも…」

宝物のテディベア「小十郎」を抱きしめながら周太は哀しくなった。
大切にしている「小十郎」を周太は出かける時もリュックにいれて連れて行く。
けれど小学校に入ってからは「ぬいぐるみなんて男の子は変だよ」と言われる時があって哀しくなってしまう。
でも、花もケーキもテディベアも、女の子なら変とは言われない。
なぜ女の子は良くて自分は変なのだろう?小学校に入ってから考えていることを母に周太は訊いてみた。

「おかあさん、ぼくって、変なのかな?…好きなだけなのに…でも、変って言われた…だからね、好きなひと出来ないと思う…」

ぽとんと涙が「小十郎」にふりかかった。
いつか父も母も順番で先に亡くなってしまう、そのことは祖父母が生まれる前に亡くなっているから理解している。
だから父も母も亡くなったら、好きなひとが出来ない自分は独りぼっちになるだろう。
そうしたら誰と好きな花や料理の話をしたらいいのだろう?
そんな孤独を想うと涙がこぼれて、日曜日の朝なのにすっかり周太は哀しくなった。

「周?だいじょうぶよ、」

やさしい穏やかな声が名前を呼んでくれる。
涙ぐんだまま母を見あげると、黒目がちの瞳が愉しげに笑いかけてくれた。

「花が好きで庭を大切にして、おかあさん手伝って料理するのが好きで、家族でケーキ食べてお話しするのが好きで。
大好きな小十郎を大切に出来る。こういうね、やさしい素直な周が好きって、大好きになってくれるひと必ずいるの。
まだちょっと逢えていないだけ、けれど、いつか必ず逢えるの。だから周、自分が好きなことをね、ちゃんと大切にしてね?」

母はすべて解ってくれている。
そして母は間違えたことは無いと周太は知っている、だから母が言う通りなのだろう。
自分にも好きなひとが出来るかな?すこし楽しい気持ちになって周太は訊いてみた。

「…ほんとう?おかあさん、…おとうさんと、おかあさん以外にも、そういうひといる?」
「うん、絶対にいる。おかあさん、約束出来るよ?」

母の約束は必ず守って貰える、だからきっと大丈夫。
うれしくなって微笑んだ周太を、母は嬉しそうに抱っこして顔を覗きこんでくれた。

「うん、ほんと可愛いな、周は。きっと周はね?すごく可愛いから、今にモテて大変になるわよ」
「もてて?」
「そう、大好きってね、沢山の人にいっぺんに言われるの。大変よ?誰を好きになるかね、決めなくちゃいけないんだから」
「…よく、わからないよ?おかあさん、…好きって、むずかしいんだね?」

お喋りしながら周太はようやくベッドから出た。
そして2階の洗面台で顔を洗って口を漱ぐと、母がタオルを渡してくれながら微笑んだ。

「うん、今日もいいお顔。さ、朝ごはん食べようね?仕度しているね」
「ん、着替えたら、お手伝いするね、」

母と廊下で別れると周太は自室へ戻った。
さっき母が話してくれたことはまだよく解らない、けれど温かで周太は嬉しかった。
いつか、大人になればきちんと解るのだろうか?
ちょっと考えながら着替えてベッドをきちんと片づけると、周太は「小十郎」を抱っこして部屋を出た。
廊下へ出ると隣は書斎になっている、なんとなく気配がして周太はノックしてみた。

「…ん、どうぞ?」

扉の向こうから、おだやかな声が聞こえて周太は微笑んだ。
きっと父は自分に読む本を選んでくれている、うれしい予想をしながら周太は扉を開いた。
扉を開けると重厚でかすかに甘い香が頬を撫でる、父の気配の香に周太は書棚の前を見た。
見あげた先では穏やかな冬の朝陽のなかで、白い表紙の本を持った父が佇んでいた。

「おはようございます、おとうさん、」

大好きな父に周太はあいさつをした。
すこし屈むと父は周太の目線にあわせてから微笑んでくれた。

「ん、おはよう、周。今日はね、おとうさんと1日、楽しくしようね?」

いつも忙しい父はなかなか1日一緒にいられない。
それを今日は自分が父を独り占めできる、うれしくなって周太は微笑んだ。

「はい、楽しくします…ね、おとうさん?今日はその本を読んでくれるの?」
「ん、そう…きれいな詩がね、たくさん書いてあるんだ…周が気に入ると良いな、」

やさしい穏やかな微笑で父が本を開いた、それを横から覗きこむとアルファベットと挿絵が書いてある。
アルファベットはすこしだけ解るけれど、文章はよくまだ読めない。
けれど挿絵がきれいで周太は微笑んだ。

「ね、おとうさん?…この絵のひと、きれいだね?髪が短いけど、男のひと?女のひと?」

あわい色彩の挿絵は、大きな木の下で花に手を差し伸べる姿が描いてある。
緑いろ輝く短い髪に白い花をひとつ挿して、あわく青い服を着た人は幸せそうに笑っていた。
きれいなひとだなと見ていると、内緒話のように父が教えてくれた。

「ん、周…このひとはね、男の人でも女の人でもないんだ。木の妖精なんだよ」
「木の、ようせい?」

不思議で聴き返すと父の切長い目が愉しそう笑った。
そして穏やかな声で話してくれた。

「ん。森のね、大きな木に棲んでいる妖精だよ…その木と仲良しでね、笑うのも泣くのも木と一緒なんだ。そして、命も一緒だよ」
「木と、命を一緒にするの…?」
「ん、そうだよ、」

話しながら書斎を出て、周太と父は階段を降りた。
ちゃんと足元を気をつけながら周太は父に訊いてみた。

「ね、おとうさん?…じゃあ、大きな木に会えたら、その妖精とも会える?」
「そうだね、…会えるかもしれない、ね」

きれいな笑顔で父が頷いてくれる。
この笑顔が周太は大好きだった、うれしく父の笑顔を見上げながら周太は質問をした。

「じゃあ、おとうさん?庭のね、大きい木にも…妖精はすんでる?」

すこし考えるふうの顔をして、それから微笑んで父は言ってくれた。

「ん、棲んでるかもしれない。うちの庭はね、奥多摩の森を映しているから…妖精も映したかもしれないね…?」
「ほんと?…すてきだね、妖精がいたら。会ってみたい、」

話ながら仏間へ行って朝の挨拶を済ませて、ダイニングへ行くと甘い香りがして周太は微笑んだ。
きっと自分が好きな甘い卵焼きを母は作ってくれている、うれしい想いで母の隣に行くと青いお皿を渡してくれた。
受けとった青い皿には黄色あざやかな卵焼きが、あまい湯気とのっていた。

「はい、周。運んでね?」
「ん、おいしそうだね…おかあさん、ありがとう」

きっと母は今日は留守番する自分のために好きなものを作ってくれた。
そんな母の温かい愛情がうれしい、こんなふうに母は自分を励まして「離れる練習」をしてくれる。
自分も頑張って今日はその練習をしよう、ちいさな決意と勇気を抱いて周太は皿をダイニングテーブルに置いた。


母を駅まで送って帰ってくると、父と一緒にココアを作った。
いつもより大きな鍋でいっぱいに父は作ってくれる、あまい香りが家中に漂って周太は笑った。

「おとうさん、こんなにね、たくさん飲むの?」
「ん、そうだよ、周?…今日はね、好きなだけココア、飲んでいいよ?…はい、まずは一杯どうぞ?」

きれいな笑顔と一緒にマグカップに注いで渡してくれる。
あたたかな甘い香に微笑んでマグカップを両手で抱えて、周太は父を見あげた。

「おとうさん、いつものとこで飲むの?」
「ん、そう…あそこでね、本を読みながら飲もう?…小十郎も連れておいで?」

笑いあいながらココアを運んで仏間に入ると障子戸を開いた、そこはサンルーム風の板敷廊に籐椅子のセットが据えてある。
大きな洋窓がある板敷廊下は朝の太陽が暖かい、サイドテーブルにココアを置くと2人で籐椅子に座りこんだ。
ひとくちココアを啜りこんで父は白い絹張表紙の本を開いてくれる。
その横から周太は「小十郎」を抱っこしてページを覗きこんだ。

「きれいな妖精だね?…ね、お父さん、この妖精の名前は、なんていうの?」

さっき見たばかりの、緑の髪の妖精を指さして周太は尋ねた。
きれいな笑顔で父は周太を見て流麗なフランス語で名前を言った。

「『Dryade』っていうんだよ、周、」
「どりあーど?」

やさしい雰囲気のきれいな名前を周太は口にした。
復唱する息子の声に微笑んで父は教えてくれる。

「ん、そう…フランス語ではね、Dryade。ギリシア語ではDryas、英語だとね、Dryadって言うんだよ」
「ドリアード…どりゅあす、どらいあど…国によって違うんだね?」
「ん、そう。アルファベットはね、読み方が国によって少しずつ違う…それで、違くなるんだ…周は、どの読み方がね、好きかな?」

楽しそうに父が質問してくれる。
博識な父がしてくれる質問はいつも周太には楽しい、もういちど口のなかで復唱して周太は頷いた。

「ん、ドリアードが好き、かな」
「そう、じゃあね、周?いつかもし逢えたら『Dryade』って呼んであげると良いよ…いちばん好きな名前です、って伝えて」

いちばん好きな名前で呼ぶこと。
そういうのは楽しくて素敵で幸せそうに想える、微笑んで素直に周太は頷いた。

「ん、そうするね…ね、おとうさん、どんな詩なの?」

きれいに微笑んで父は頷いて、ひとくちココアを飲んだ。
あまい香りの湯気がたつマグカップをサイドテーブルに置くと、まず日本語で読んでくれた。

 牧場に見えるのは森の精Dryade
 花に囲まれてくつろぐ姿が美しい
 色鮮やかな帽子のかげには
 緑なす乱れ髪が揺れている

 その姿を一目見てより恋に悩み
 心は騒ぎ 涙はあふれ
 恋の苦しみと悩みはいやましに募り募って
 恋する流し目にさいなまれるばかり

 わたしの瞳には甘やかな毒が注がれる
 その毒が魂の奥深く流れこんで
 わたしは深い痛みを心に刻むだろう

 うつくしい六月のユリの花のように
 太陽の光に熱く照らされて頭を垂れて
 青春の盛りをいたずらに過ごすのだ

温かな甘いココアの湯気と、おだやかに深い父の声が冬の陽だまりにとけていく。
ゆるやかな時間にくるまれて周太は「小十郎」を抱っこしてココアを啜った。
この詩は「森」や「花」そして妖精ドリアードに「ユリ」と詠まれる自然が美しい。
こういう自然を詠んだ詩が周太は好きだ、でも「恋」はよく解らない。
こんなふうに詩は難しい言葉とやさしい言葉が並んで、未知の世界を想わせては不思議な気持ちにしてくれる。
なにより、こうして父が自分のために読んでくれる事が、いつも嬉しくて幸せだった。

 Dedans des Prez je vis une Dryade,
 Qui comme fleur s'assisoyt par les fleurs,
 Et mignotoyt un chappeau de couleurs,
 Echevelee en simple verdugade.

 Des ce jour la ma raison fut malade,
 Mon cuoeur pensif, mes yeulx chargez de pleurs,
 Moy triste et lent: tel amas de douleurs
 En ma franchise imprima son oeillade.

 La je senty dedans mes yeulx voller
 Une doulx venin, qui se vint escouler
 Au fond de lame et: depuis cest oultrage,

 Comme un beau lis, au moys de Juin blesse
 D'un ray trop chault, languist a chef baisse,
 Je me consume au plus verd de mon age.

流麗なフランス語はやわらかな秘密のように聞こえる。
言葉の意味は周太には解らない、けれど音の雰囲気をいつも周太は楽しんでいる。
読み終えて父のきれいな切長い目が周太を見て、微笑んだ。

「どうかな、周。ちょっと難しかった?…恋の詩だから、ね?」
「ん、恋?はね、よく解らない…でも、森の妖精がね、花のなかにいたら…きっと、きれいだね?」
「そうだね、…きれいだね、きっと」

息子の素直な感想に父はやさしく微笑んで、楽しそうに頷いてくれる。
ココアを飲んでページを繰ると父は笑って、またひとつ読んでくれた。

 空よ、大気と風よ、見遥かす平原と山嶺よ
 連なりゆく丘、青い森よ、
 弧をえがく川岸よ 湧きいずる泉よ
 刈られた林よ 緑の草叢よ

 苔に姿のぞかす岩の隠家よ 
 緑野よ 蕾よ花よ 露に濡れた草よ
 葡萄の丘、 金色の麦畑、
 ガチーヌの森よ ロワールの川よ そして哀しき私の詩よ

 心残りのままに私は旅立ってゆく、
 傍近くとも遠くとも 私の心とらえる美しい瞳に、
 さよならは言えなかったから

 空よ 大気よ 風よ 山よ、遥かな草原よ、
 林よ、森よ、岸辺よ、沸きいずる泉よ
 岩屋よ、牧場よ、花たちよ、彼のひとへ私の想いを伝えてほしい

 Ciel, air et vents, plains et monts decouverts,
 Tertres vineux et forets verdoyantes,
 Rivages torts et sources ondoyantes,
 Taillis rases et vous bocages verts,……

空、風、野原、山。そして森、林、花。川と泉、露。
青と緑と、白い花のイメージがきれいで周太は微笑んだ。
たくさん詠みこまれた自然に「想いを伝えて」と言っている、それは何を伝えたいのだろう?
不思議だなと想いながら窓を見て、周太は瞳を大きくした。

「…おとうさん、雪が降ってきた…!」

ついさっき太陽が暖かだった空は、いまは真白なまま白い花のように雪がふってくる。
窓の向こうの庭はもう白いベールをあわくまとって雪の花が梢に咲き始めた。
白く銀いろにそまっていく森のような庭、見惚れて周太は窓辺へと立った。

「…きれい、」

ふる雪にそまる光景に微笑んで、周太は「小十郎」を抱きしめた。
籐椅子から父も立って並んで外を眺めて微笑んだ。

「ん、…きれいだね?お母さん、雪見風呂だって喜んでるかな?」
「ゆきみぶろ?」
「ん、雪を見ながらね、外のお風呂に入るんだよ、」

普段は忙しくて、夜のひと時しか一緒にいられない父が今朝は一緒にいる。
母がいない日曜日は寂しい、けれど大好きな父が一緒にいてくれる今は楽しくて幸せで周太は笑った

「雪のおふろ?楽しそうだね、…おとうさんは入ったことあるの?」
「ん、あるよ…山に登ったときとか…ん?…うん、周、お出かけしよう、」

きれいに笑って父はマグカップと本を持った。
ほんとうに出かけるつもりらしい、急なことに驚きながら周太は父と一緒に仏間を出た。

「ね、おとうさん?どこに行くの?」
「ん、奥多摩の山へ行こう。雪の山をね、周に見せたあげたいんだ…雪のお風呂もいいね?」

雪の山。周太は雪山にはまだ登ったことがない。
父の大切なアルバムで雪山を見たことはある、あと父と眺めた山の本での美しい写真。
あのきれいな景色に今から行ける?うれしくて周太はきれいに笑った。

「ん、行きたい。おとうさん、連れて行って?…なに仕度すればいい?」
「周はね、いつもの採集用の道具かな?あとはね、山用の服とリュックサックを用意すること…あと小十郎連れて行くね?」

こんなふうに父も周太がテディベアを大切にすることを解ってくれている。
うれしくて周太はテディベアの「小十郎」を抱きしめて答えた。

「ん、小十郎も行きたいと思うよ?」
「そうだね?奥多摩にはね、ツキノワグマがたくさん住んでいるんだ…だから小十郎も喜ぶね?」
「クマが住むところは、どんぐりがあるよね?…どんぐり落ちてる?」
「雪が積もっているからね…見つけられるかな?」

楽しい会話をして周太は自室へと行った。
クロゼットからあわい水色の登山ウェアだしてから青と白のリュックサックを持って梯子階段を昇った。
もうひとつの自室になっている屋根裏部屋へあがると、木のトランクの前に周太は座りこんだ。
トランクの錠を開けてひらくと植物採集用の道具をまとめたケースを取り出す。
いつも山に行く時はこれを持って行って、落葉や木の実や花を集めて押花にする。そして後で採集帳にまとめていく。
今日は雪がふっている、その雪の重みで舞い落ちたばかりの木の葉に会えるかもしれない。雪を割って咲く花も咲いている?
どんな葉っぱや木の実や草花に会えるか、楽しみに思いながら周太はリュックサックに大切にケースをしまった。

奥多摩に着いたのは9時半すぎだった。
父は雪道にも馴れた雰囲気で運転してくれる、走っていく道の雪は次第に深くなっていく。
タイヤのチェーンが雪削る音を聞きながら、車窓の白銀の山々に周太は微笑んだ。

「おとうさん、夏や秋とね、山が全然違う…なんかね、真白な竜がねむってるみたいだよ?」
「ん、いい表現だね、周?…そうだね、冬の山は眠っているね、」

大好きな父の笑顔はいつもどおり優しくて、いつもより明るくきれいになっている。
きっと好きな山に行くことが父はうれしくて元気になっている、そんな父の横顔が幸せで周太は微笑んだ。
いつもこういう顔で笑ってほしいな?
やさしい祈りを想いながら車窓を見ているうちに奥多摩交番に車は止まった。

「周、いつものようにね、おとうさん、登山計画書出して、ご挨拶してくるから…
でも、おかあさん今日はいないから、周、ひとりで待つことになるね…周も一緒に交番に入る?それとも外で山を見ていたい?」

いつも家族3人で山へ来る。
父は奥多摩交番で登山計画書を提出しながら、同じ警察官の先輩にご挨拶をしてお話をする。
そのあいだ普段は母と近くの森の入口で、落葉を拾ったりしながら山を見て楽しんでいた。
父と一緒に交番へ入るのも楽しそう、けれどせっかく山に来たなら森でも遊びたいな?考えをまとめてから周太は口を開いた。

「ん、外でね、山を見ていたいです…おとうさん、森に行ってもいい?」
「ん、…いいよ?入口の辺りで遊んでいてね、…迷子になったら大変だから」

すこし考えてから父は微笑んで頷いてくれた。
ひとりで森で遊ぶ許可が出て、すこしだけ大人になれた気持ちに微笑んで周太は素直に頷いた。

「はい、…じゃ、またあとでね?」
「ん、気をつけて遊ぶんだよ?アイゼンも初めてなんだからね、…急に走ったりしちゃ、だめだよ?」

初めて履いたアイゼンの足元を周太は見た。
この冬からは雪の山も登ろうと父が用意してくれていた、新品のアイゼンも楽しくて周太は微笑んで頷いた。
そうして父と離れて周太は、初めて1人で森へと立った。

雪の森はねむっているようだった。
春や夏や秋のような、虫たちや鳥のさえずりも気配がすくない。
葉のざわめきの音もずっと静かで、違う世界に来たような不思議な空気が森に佇んでいた。
もう雪は止んでいる、見上げる梢は雪に凍りついて白い花が満開のように見える。

「ね?小十郎…きれいだね、」

背中のリュックサックから顔だけ出ている「小十郎」に周太は話しかけた。
きっと小十郎も初めて見る雪の森に喜んでいる、そんなふうに想って周太は微笑んだ。
見まわす雪の森の雪面は踏みあとがまだ無い、まっさらな雪がうれしくて周太はそっと手形をつけてみた。
父が二重にしてくれた登山グローブは雪に手を入れても冷たくない、しずかに手を雪からあげると上手に手形がついている。

「ん、ぼくの手形だよ?…ね、小十郎、」

肩越しに「小十郎」に微笑んで、また雪の森を見まわした。
その視界にふと小さな足跡が映りこんで、周太は雪を踏んで進むと近づいて見てみた。
楕円形の細い足跡と、まるい窪みの跡。この組み合わせはなんだった?
屋根裏部屋の本棚にある動物図鑑のページを心で捲って、周太は笑った。

「ん、うさぎ…」

うさぎが森には住んでいる?
小学校の飼育小屋のうさぎは見ているし遊んだこともある、けれど森のうさぎは会ったことが無い。
森に住む、うさぎ。図鑑では見たけれど実際に会ってみたい。

「…会ってみたい、ね?小十郎?」

周太は肩越しにクマに微笑むと、うさぎの足跡と一緒に歩き始めた。
かわいい足跡は規則正しく雪を踏んで行っている、その隣をアイゼンに気をつけながら周太は歩いていく。
図鑑で見た森のうさぎは、冬は真白な毛になると書いてあった。そして耳の先だけすこしだけ黒い毛がある。
目の色も黒だった、あわい紅いろの鼻先と耳のなか…鼻も黒だったかな?
うさぎの足跡を目で追いながら周太は頭のなかの動物図鑑と、楽しいにらめっこして歩いていく。

真白な雪にうす青く足跡が続いていく。
見つめる足跡のまわりには木の根元ちかい幹が、いろんな太さや木肌を魅せてくれる。
ときおり木を見あげてまた雪面に視線を戻すと落葉が見つかる時もあって、うれしく拾ってはメモ帳にはさんだ。
きれいな落葉と雪と、うさぎの足跡を眺めながら静かな雪の森へと周太は踏みこんでいく。
そうして足跡を辿っていくうちに視界から木の根っこが消えて周太は顔を上げた。

「…あ、」

並木道のような真直ぐな雪の道が森に現れていた。
その並木の奥には多きな欅が2つ並んでいる、大きな木を見つけて周太は嬉しくなった。
クマの「小十郎」に周太は肩越しから微笑んだ。

「ね、小十郎?大きな木がいるよ、会いに行こう?」

雪の道にのびる並木道を周太はアイゼンを踏んで進んだ。
歩く一歩ごと大きな欅が近づいて、雄渾な樹影が雪道へと降りかかってくる。
雪の梢を見あげると青空が雲間に覗きはじめている、ふりそそぐ冬の太陽が欅の影を青く雪へ描き始めた。
青い影を辿るように欅に近づくと周太は見上げて微笑んだ。

「…こんにちは、大きいね?…ふれさせてね、」

欅へと挨拶をしながら登山グローブを周太は外した。
きちんとポケットへグローブをしまうと掌を静かに欅の幹へと重ねあわせる。
木肌のすこしざらっとした感触と命ある気配が伝わって、どこか温かい。
そっと耳をつけてみると遠くかすかな水音の気配だけは感じられる、やさしい水の気配に周太は微笑んだ。

…この木も、きちんと生きている…ね、どのくらい生きてきたの?

そっと幹から離れて見上げると手を上げるように梢が青空へと伸びていく。
きっと秋は渋い黄金が美しい木だったろう、けれど冬の繊細な枝に雪まとう姿も周太は好きだなと思う。
そして春は緑やわらかい芽が可愛らしくて息吹こく見られるだろう、見てみたいなと周太は首傾げて微笑んだ。

「ん、…きっと、おかあさんの旅行のとき、また連れて来てもらえるかな?」

4月に母はこんどは泊りがけの旅行に出かけるから、父は連休を取って一緒に留守番してくれる。
そのときまた奥多摩の山へ連れて来てもらえるかもしれない。
きっと連れて来てもらえるだろう、楽しい春の予感に周太は欅に笑いかけた。

「春にね、また会いに来ていい?…きっと、芽吹きもね、すてきだよね?…あ、」

笑いかけた幹の向こうに、明るいひろやかな空間が見える。
どんなところだろう?周太は2本の大きな欅の間を通って、ひろやかな明るい空間へとふみこんだ。
そして視界にひろがった巨樹の坐所で、おだやかな空気に周太は微笑んだ。

大きな雪の梢が高くひろやかに青空と雪雲を抱いていた。
あわく紅紫をふくんだ艶やかな木肌を雪の白いベールに透かして、大きな木は佇んでいる。
白く雪をまとう細やかな枝は、綾とりの糸みたいな繊細な模様に空を透かしていた。
梢の雪は白い花が咲いたようで、雲間からふる冬の太陽にあわく光ってきれいだった。

「こんにちは、あなたは、…さくらの木?」

艶やかな木肌はきっと桜だろう、とても大きくて美しい木。
この木にもふれてみたい、木の根を踏まないよう雪を進んで梢を見あげた。

「さわらせてね…?」

微笑んで声かけるとそっと木肌に掌を重ねた。
なめらかな冷たさがふれて、しばらくすると木肌とのはざまに温もりが生まれてくる。
この木も冬の寒さに佇みながらも命が息づく、うれしくて周太は耳を幹へつけて瞳を閉じた。
1月の終わりに雪のなか佇んでいる桜。
春が来ればきっと満開の花がたくさん咲くのだろう。
いまふれる温かな皮のむこう微かに聞こえる流れる樹液、そこに花のいろの力も流れていく。

…きっとね、きれいな花が咲くね…そのときまた、会いに来れるかな…

幹をながれていく水の音に迎える春と花の美しさを想いながら、周太は微笑んだ。
どうか美しい花が咲きますように、そんな花への祈りを捧げて周太は静かに幹から離れた。
やさしい木肌のてざわりがまだ掌に温かい、うれしいなと想いながらふっと周太は振り向いた。

「…あ、」

ふり向いた視線の先に、青い登山ジャケット姿の男の子が佇んでいた。
雪みたいに色白の顔に真黒な髪が際だって、あわく赤い頬と唇があざやいでいる。
きれいな黒い瞳が真直ぐに、じっと周太を見つめている視線は温かであかるい。
この木が好きで見に来たのかな?自分より背の高い男の子を見つめて周太は微笑んだ。

「…この木が好きなの?」

男の子はすこし首を傾げて、底抜けに明るい目で温かに笑った。
そしてよく透る声がはっきりと周太に告げた。

「いちばん好きで大切だ」

自分もこの木を大好きになっている。
同じように感じるひとがいてくれた、うれしくて周太はきれいに笑いかけた。

「同じだね、」

笑いかけた周太に背の高い少年は嬉しそうに頷いて、さくさく雪を踏んで歩いてきてくれる。
陽だまりに立っている周太の前に来ると、少年は明るく笑いかけた。

「いつも俺さ、ここに逢いに来るんだ。でも、君とは初めて逢ったね?」
「ん、…いつも、この木にあいに来るの?」
「そうだよ。この山桜はね、ほんとに俺の大切なものだからさ。毎日、ずっと逢いに来てるよ」

背の高い少年は誇らかに笑って梢を見あげた。
あかるい透明な雰囲気の笑顔がきれいで、周太は少年の顔を見つめた。
ほんとうに雪みたいに白い肌、なんだか絵本で読んだ「雪ん子」みたい。
そんなふうに見ていると少年が周太を振向いた。

「うん、そこに座ってみなよ?いちばん、この桜がいい感じに見えるよ」

言いながら周太の左掌をとって、大きな常緑樹の下の岩に腰かけさせてくれる。
常緑樹の下で岩には雪もなく陽だまりに温かい、座って桜を見ると大きな梢の全体がよく見えた。
さっき毎日この少年は来ると言っていた、きっと花が咲いた姿も知っているだろう。周太は訊いてみた。

「桜、咲いたら、きれい?」
「うん、そりゃきれいだよ。雪みたいに白い雲がね、この木におりたみたいに花が咲くんだ。真白な花が清楚でね、きれいだ」

まるで大好きなひとの話をするように微笑んで教えてくれる。
きっと植物が好きなのだろうな?自分と同じ興味を持っているのがうれしくて周太は微笑んだ。

「ん、…見たいな。4月には咲く?」
「そうだね、4月には咲くな。その前には3月にね、ウチの山では梅がきれいになるよ」
「梅?山に梅があるの?」

家の庭にも梅は何本か植えられている。公園でも見かける。
でも山で咲く梅はまだ周太は見たことが無い、どんなふうに山の梅は咲くのだろう?
そう思っていると少年は、まるで周太が聴きたいことが解るかのように教えてくれた。

「うん。山に白い霞がかかるみたいでね、あわい赤が朝陽みたいにきれいだ。佳い香りでさ」
「かすみ、あさひ…すてきだね、」

山にあわく花が群れ咲く姿を周太は心に描いてため息を吐いた。
きっとさぞ美しいだろう、そんな山を持っている少年が不思議で周太は隣を見上げた。
見あげた先でからり笑って少年は細い目で温かく笑んだ。

「うん、山の花や木はいいよ?花の季節に限らず、山の木はいいね。
この山桜はね、夏は緑の薄い葉が佳い香りだよ。秋は紅葉が真赤でさ、炎の花が咲いたみたいだよ。
で、冬はこんなふうにね?きれいな枝をみせて白い雪のベールをまとっている。
この山桜はね、毎日ずっと見ていたいよ。いつだってきれいでさ。ほんとうに俺には大切な木で、…大好きだ」

真直ぐに底抜けに明るい目が見つめて「大好きだ」と話してくれた。
この木はほんとうに宝物なのだろう、そして木や花を心から好きで愛している。
自分以外にも男の子で花や植物を好きなひとに会えた、うれしくて周太は素直に笑った。

「ん、…大好き。木っていいよね?梅のかすみ…白い雲の花、炎の花…見たいな、」
「見においでよ、俺が見せてあげる。ここに俺は毎日ずっと来るからさ。だから、また姿を見せてよ、また逢いたいよ?」

「あいたい」と率直に言って笑ってくれる。
こんなふうに真直ぐ言って貰ったことは周太は初めてだった。
自分と同じように木や花を愛する少年、またあってみたいと素直に周太も想える。
ちょっと気恥ずかしく微笑んで周太は頷いた。

「ん、…逢いに来るね?そして木に咲く花たちを見せて?」
「うん、たくさん花を見せてあげるよ。だから逢いに来てね、約束だよ?」

底抜けに明るい目が真直ぐに周太を見つめて笑ってくれる。
笑いながら少年は青いウェアのポケットから箱を出した。
箱を開くと白い指でアーモンドチョコレートを1つとって、周太に笑いかけてくれた。

「ほら、口開けな?うまいよ、」
「くれるの?」
「うん、じゃなきゃ口開けろなんて言わないよ?ほら、」

笑って周太の口にチョコレートを入れてくれると、自分も1粒とって口に放り込んだ。
ごりごり音を立てて噛み砕きながら、愉しげに明るい目が笑っている。
まるいチョコレートは芳ばしくて甘くて、すこしほろ苦くて美味しい。口に広がる甘みと香に周太は微笑んだ。

「ん、…おいしいね、ありがとう」
「うん、もっと食いなよ、ほら、」

笑ってまた白い指でひと粒とって唇にふくませてくれる。
まるいチョコレートを素直に周太が口にふくむと、満足げに細い目を笑ませて少年は紅いろの唇を指先で撫でた。
そしてまた自分でもひとつ口へ放り込んで、ごりごり噛み砕きながら周太に笑いかけてくれる。
大らかで温かな笑顔がやさしい、寛いだ気持ちになって微笑んだ周太に少年は山桜を指し示した。

「ほら、見なよ。瞬間が来るよ?」
「しゅんかん?」

訊き返しながら周太は白い指が示す方をゆっくり振向いた。
そして「瞬間」の意味が瞳から映りこんで呼吸を忘れた。

山桜はいま、光と雪の花を満開に輝かせていた。
真青な大空を戴冠し、白い花を誇り高らかに灯して、雪の森の静謐に佇んでいた。

雪の白い雲は冬の陽にゆるくながれて青く透明な空が雪の森をくるんでいた。
木洩れ日ふりそそぐ森は雪を輝かせて、白銀のなかの山桜は佇んで冬花の姿を周太へ見せてくれる。
大きな木の豊麗な冬のねむり息づく姿に周太はそっと息をもどして、きれいに笑った。

「ん、…きれい、…きれいな瞬間、なんだね?」
「そうだよ。光によってさ、モノって見え方が変わるだろ?木や花もそう『山』もね、光によって表情が変わるんだ」

愉しげに細い目が明るく笑んで少年は透明な声で話してくれる。
木、花、山、光。どれも好きな言葉ばかりで楽しい、こういう話が周太は好きだった。
うれしくて周太は少年に訊いてみた。

「ん、…どんな光の時のね、山が好き?」
「そうだな、やっぱり新雪の雪山がいいね。今日みたいにさ、朝早く雪がふって、こうして晴れるとね。雪が輝いてきれいなんだ」

話ながらまたアーモンドチョコを一粒とると周太の唇に含ませてくれる。
素直に入れてもらって口を動かしながら周太は少年の話を聴いていた。
話してくれる瞳は、どこまでも明るく透明で愉しげでいる。こういう目は好きだな?想いながら周太も口を開いた。

「ん、ほんとにね、きれい…いいね、雪の森。また見たいな、」
「また見に来なよ、俺は毎日ここに来るからさ。君も来なよ、また逢って話したいよ?」
「ん、来たいな。…でもね、遠くから来るから、なかなか来れないんだ…」

また来たい、そしてこの少年にあって話したい。
こんなふうに好きな木や花の話を遠慮なく楽しんで、大きな木を一緒に見て笑いたい。
大らかな温かい笑顔を見つめて周太は心から笑いかけた。
そんな周太の笑顔に笑い返してくれながら少年は言ってくれた。

「やっぱりさ、笑顔かわいいね?うん、大丈夫、君は来れる時においでよ。俺は毎日ここに来る、ずっと待っていてあげるよ、」
「ほんとうに?…待っていてくれるの?」

そうしてくれて、またあえたら嬉しい。
ほんとうだといいな?確認したくて訊き返した周太に、底抜けに明るい目が大らかに笑った。

「うん、ずっと待ってるよ?
君が逢いに来るって信じてるからね、だからさ、逢いに来てよ?また逢いたいんだ、君が大好きだよ?」

さらりと言って少年はきれいに笑った。
言われた言葉に周太の瞳が大きくなって、首筋から熱が昇り始めた。
いま言ってくれたこと本当?そんな想いで周太は遠慮がちに訊いてみた。

「あの…いま、なんて言ってくれたの?」
「うん?君が大好きだってこと?」

底抜けに明るい目が温かく笑って周太に訊いた。
やっぱり聴き間違えじゃなかった?
そんな想いで見つめる真ん中で、少年は誇らかに笑って応えた。

「そうだよ。俺はね、君が大好きだ。だからさ、また逢いたいんだよ?だから約束したんだ、ずっと君を待ってる」

大らかな優しい眼差しで透明な声が誇り高らかに周太に告げてくれる。
こんなこと初めて言われた、首筋から昇った熱がもう頬まで熱い。きっと赤くなっている。
でも本当に好きになってくれたのだろうか?周太は思いきって訊いてみた。

「ん、…テディベアとか好きでも、だいじょうぶかな?…
花とか、料理とか、ケーキとか…ね?そういうのをね、男なのに好きとかってどう思うかな?」

訊かれて少年は首傾げた。
そしてすぐに底抜けに明るい目が笑って、あかるく応えてくれた。

「好きならそれで良いだろ?男も女も関係ないね、好きなものがあるのはさ、楽しいだろ?甘いもんだって俺は食うよ、
俺は花も料理も好きだね。山で花を見るのは特に良いもんだ。料理も河原で焚火してやるとね、また旨いよ?作ってあげるよ」

男も女も関係ない、好きならいい。
今朝、母が言ってくれたことに重なる。そして堂々と明るく笑って少年は言ってくれた。

 ―やさしい素直な周が好きって、大好きになってくれるひと必ずいるの
  まだちょっと逢えていないだけ、けれど、いつか必ず逢えるの

「…ほんとに逢えた、ね?」

想いがぽつんと唇からこぼれて周太はきれいに笑った。
周太の呟きにも明るい目はやさしく笑んで周太の背中を覗きこんでくれた。

「このクマ、かわいいな。君のたからもの?」

リュックサックから出た「小十郎」の頭をそっと撫でて微笑んでくれる。
心からテディベアにも頷いてくれている、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、小十郎って言うんだ…赤ちゃんの時からずっと一緒で、大好きなんだ」
「ふうん、いいよね、そういうのってさ。俺はね『山』が大好きなんだ。山にはクマも住んでいる、俺はクマも好きだよ」

テディベアも「いいよね」と笑って肯定してくれる。
こういうのは話しやすくて寛げて、一緒にいたいと想えてしまう。
このひとは、自分も好きかもしれない?

「やまのくま?」
「ツキノワグマがね、奥多摩には住んでいるんだ。春先だとさ、小熊にも会えたりするよ?脅かさないようにね、」
「こぐま…小十郎も会いたいかな?」
「うん、きっと会いたいんじゃない?ね、小十郎?」

周太と一緒にテディベア「小十郎」に話しかけてくれる。
こんなひとは両親以外では周太は初めて出逢った、うれしくて周太は微笑んだ。

…ね、おかあさん。ぼくもね、好きなひとに逢えたかな?

父と母ではない人を、初めて心から好きだと想えた。
楽しく話す合間に少年は、白い指でアーモンドチョコレートを唇へふくませてくれる。
芳ばしい甘さを素直に口に入れながら周太は、雪の森の時を幸せに微笑んだ。

木洩れ日ふる雪の輝き、陽だまり温まる岩の椅子、輝く光の花さく山桜。
ゆるやかに雪の森を駆ける風がふくんだ樹と水の香、かすかな水仙の香、チョコレートの甘さ。
そして雪のように透明な肌と漆黒の髪に、底抜けに明るい目をした背の高い少年。
寛いで話せる時の楽しさが幸せで、ゆっくり周太は時間と少年を見つめていた。

「…ん?…誰か、呼んでいる声が聞こえるな?」

ふっと少年が気がついて耳を澄ませた。
周太も森の入口の方を見て、はっと気がついた。いったい今は何時なのだろう?
すっかり時間を忘れていた、きっと父を心配させている。困って周太は首を傾げた。

「もう、戻らなくちゃ」
「うん?そうか、君を呼んでいる声なんだね、じゃあ行こうか?」

立ちあがって少年は周太の左掌をとってくれる。
岩からおろしてくれると底抜けに明るい目が笑って優しく訊いてくれた。

「奥多摩交番の方から来た?」
「ん、そう…おとうさんがね、交番の人とお話しするから、森で遊んで待ってて…あ、」

森の入り口近くで。そう父に言われていたことを思い出して周太は困ってしまった。
たぶんここは森の入口から遠く離れている、父の言いつけを自分は破ってしまった。
怒られてしまうだろうか?すこし俯いた周太を少年は覗きこんだ。

「こんなに森の奥深くまで来たから、困ってる?」
「ん、…入口の辺り、って言われてて…」

周太の言葉にかるく頷くと底抜けに明るい目がやさしく笑んだ。

「うん、まず約束してくれるかな?ここはね、秘密の場所なんだ。
秘密の山桜だよ、誰も知らない。だからね、君も秘密を一緒に守ってほしいんだ。
『山の秘密』はね、絶対に内緒で守らないといけない約束だよ?誰にも話さないって約束してくれるかな、いいね?」

秘密の山桜「山の秘密」そして秘密を分かち合うこと。
どれも初めてで宝物に想える、うれしくて周太は素直に頷いた。

「ん、約束するよ?」
「よし、素直でいいね?さあ、森の入口まで俺が送ってあげる。おいで?」

大らかに優しく笑って繋いだ左掌を曳いてくれる。
もういちど山桜の巨樹を周太は見上げて、それから少年に付いて欅の門を通った。
さっき片方の欅にしか周太はふれていない、もう片方にもふれたくて周太は少年にお願いした。

「あのね、…ケヤキにね、あいさつしてもいいかな?」
「うん?いいよ、あいさつは大事だよね」

きれいに笑って左掌をいったん離してくれた。
微笑んで周太は欅にふれると耳を当てて、遠く微かな水の聲に「再会」を想い微笑んだ。
しずかに欅から離れると周太は少年の右手を左掌に繋いで笑いかけた。

「待ってくれて、ありがとう」
「うん、ずっと待ってるよ?」

温かく微笑んで繋いだ左掌をウェアのポケットに入れてくれる。
そのポケットで固いまるいものがふれて周太は首傾げた。

「ね、なにか入ってるの?」
「うん?ああ、さっき見つけたんだ、あげるよ?」

笑って言いながら周太の左掌に固いまるいものを握らせてくれる。
つややかとごつごつとした手触りに周太は微笑んだ。

「どんぐり?」
「そうだよ、雪でも拾えるとこあるんだ。こんど来た時に教えてあげるよ?」

そうして雪の森を話しながら歩いて森の入口へと向かった。
雪の話、山の話、花や木の話、畑の話と、日本や世界の高い山の話。どの話も周太は楽しかった。
楽しいお喋りで雪の森をぬけていくと、向こうから話し声が聞こえてくる。

「うん、君のお父さんかな?あと、後藤のおじさんだな」

底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑って周太を見た。
なんだろうなと隣を見あげたとき、木々の間から父と空色のウィンドブレーカーを着た人が現れた。
ほっと安堵した顔の大人ふたりを見あげて周太は口を開いた。

「ごめんなさい…」

素直に謝った周太に父は困った顔で微笑んだ。
そして大きな掌で頭を撫でてくれた。

「ん、…心配したよ?無事で良かった…君が連れて来てくれたんだね?」

訊かれて少年はからり笑った。
そして透明な声で父と空色のウィンドブレーカーの人へと言った。

「うん。俺がね、この子をひきとめちゃったんだ。すみませんでした、」
「ん、そう?…周、楽しかったんだね?」

やさしく父が笑いかけて訊いてくれる。
ほんとうに自分は楽しかった、素直に周太は頷いた。

「ん、楽しかったの…だからね?時間忘れて…ごめんなさい、」
「うん?俺がひきとめたんだよ、楽しくて時間忘れるようにね、俺がしちゃったんだ。すみませんでした」

からり明るく笑って少年は「俺の所為です」と周太をかばってくれる。
そんな少年に空色のウィンドブレーカーの人が笑った。

「うん?そんなに引き留めるなんてね、この子を気に入っちゃんたんだな?そうだろう、」
「そうだよ、後藤のおじさん。やっぱり俺をよく解ってるね?そういうわけでさ、俺のせいです。すみませんでした」

大らかな底抜けに明るい目で真直ぐに誇らかな透る声に告げて、少年は周太をかばい通してくれた。
そんな少年にふたりの大人は笑って結局2人とも注意されただけで済んだ。
そして別れ際にまた森の入口へふたりで立つと、少年は透明な声で明るく言ってくれた。

「君が大好きだ、また逢いたいよ。…きっと俺に逢いに来なね、君の木の下で毎日ずっと待ってるから」
「…あの木を、そう言ってくれるの?」

あの山桜を「周太の木」と言ってくれている。
ほんとうに?そんな想いと見つめる少年は、ひそやかな低い透明な声で教えてくれた。

「うん、君の木だろ?そして俺のいちばん大切な木だよ。だから、あの木の下で君を待ってる」

きれいな笑顔で少年は真直ぐに周太を見つめてくれる。
大らかな優しい眼差しが温かい、こんな目は自分は大好きだと素直に想える。
うれしくて周太は頷いて応えた。

「ん、…待ってて?必ず逢いに来るね、いつかきっと…それとね、」

底抜けに明るい目を真直ぐに周太も見つめた。
いつ次に逢えるかわからない、だから想いを伝えておきたい。きれいに笑って周太は少年に告げた。

「あなたがね、好き」

底抜けに明るい目が幸せに輝いた。
大らかにやさしい笑顔が、誇り高らかに少年の顔に花開いていく。
そうして雪の森やさしい木洩れ日のなかで、少年はそっと周太の耳元にキスをした。


屋根裏部屋の木のトランクにはちいさな木箱が二つ。
そのうち一つは木の実がはいっている。
そこに大きなまるい、どんぐりが1つ眠っている。


【詩文引用:ピエール・ド・ロンサール「カサンドラへのソネット」
第51番・森の精ドリアードDedans des Prez je vis une Dryade、第57番・空よ風よCiel, air et vents, plains et monts découverts】

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