雪、山、光 枯れない花のように

第33話 雪灯act.12―another,side story「陽はまた昇る」
周太の想いがわかるように細い目がちらっと周太を見て「そろそろだね、」と微笑んだ。
そうして光一は英二の目を覗きこんで訊いてくれた。
「さて、宮田?聴かせてほしいね、無理強いされるのって、愉しい?」
「嫌だよ、こんなの愉しくない…怖い。周太の前でなんて、絶対に嫌だ、」
切長い目が睫毛を伏せている。ほんとうに怖いのだろう、すこし震えている。
大丈夫かなと心配で周太が見ていると光一は冷静に英二の目を覗きこんだ。
「じゃあさ、宮田?お前はね、謝るべきことと、言うべきことがあるよな?」
切長い目が哀しそうに周太を見つめてくれる。
そして光一を見あげると、そっと瞬いて頷いてくれた。
「うん、…周太に謝りたい、俺…ばかだ、本当に俺はバカだ、恥ずかしい…国村、周太に謝らせてくれよ?」
「よし、気がついたな?やっぱり、おまえは真直ぐだね。大好きだよ、そういうとこがさ」
そっと光一は英二の拘束を解いて、周太を振り返ると微笑んで「おいで?」と目で呼んでくれた。
頷いて周太は素直に立ちあがるとベッドの傍に行って、涙たたえた切長い目に微笑んだ。
ゆっくり起き上がった切長い目が周太を見あげてくれる、そして一滴の涙を流すと英二の口が開かれた。
「ごめんね、周太…無理強いなんて…怖かった、ね…俺、ほんとうにバカだ…ごめん、周太」
切長い目から涙があふれていく。きれいな涙を見つめて周太はすこしだけ微笑んだ。
英二もすこし微笑むと言葉を続けてくれた。
「もう絶対に無理強いなんてしない…だから周太、許してくれる?
俺の傍から居なくならないで?…もう絶対に周太が嫌がることしないから、許してほしい…いなくならないで?」
きれいな涙で「お願い」してくれる。
こんなきれいな泣顔されたら、ちょっと弱い。そう見つめていると光一が英二の顎に白い指をかけた。
「こら、宮田?おまえはね、俺の『女』になったんだろ?なのにね、勝手に決めるんじゃないよ?」
「ごめん、国村…俺、やっぱり周太がいい…ごめん、離してほしい、ごめん…俺がバカだったんだ…」
きれいな切長の目が泣いている。
哀しそうな目が哀しくて、つきんと心が痛んで周太は俯きかけた。
「うん、バカだね、おまえはさ?」
からり明るく光一が笑った。
笑って英二の顎にかけた指を外すと、そのまま一発、白皙の額を弾いた。
ばちん、
いい音がして額に桜色の痕が現れる。
痕を白い指で突いて光一は、底抜けに明るい目で笑った。
「ごめんね、宮田?俺たちヤっちゃったなんて嘘だよ。おまえはね、一晩中ずっと酔っぱらって眠りこんでいたんだよ」
「…え、」
切長い目がまた大きくなる。
そんな可愛い表情の英二に光一は可笑しそうに笑った。
「ねむってるお前を置いてさ、俺はね、湯原をひとりで迎えに行ったんだよ。
で、湯原が元気なかったからさ?ちょっとドライブして事情聴いてね、おまえを懲らしめたくなった俺は悪戯を考えたってワケ。
まったくね、おまえはバカだよ?大事な婚約者に体を無理強いなんかして。そんな酷いことしたらね、逃げられても文句言えないね」
明るく笑いながらも「無理強いはダメだ」とはっきり言ってくれる。
英二も素直に頷いて、光一を真直ぐ見つめて約束してくれた。
「うん、…俺、よく解ったよ?さっき本当に怖かった…
本気で止めてくれって言って、止めて貰えないの、怖かった。
俺、周太がいい、だから無理強いはもうしない。約束する…ごめん、国村。気付かせてくれて、ありがとう」
「だろ?まったくバカだね。されるまで解らないなんてさ。さあ、これに懲りてね、2度とあんなことするんじゃないよ?」
やさしく細い目が笑んで白い指が軽く英二の額を小突いた。
そしてベッドから降りるとマウンテンコートを羽織って、1つ伸びをすると光一は言った。
「さて、宮田?今日は日勤だろ?早く寮に戻って仕度しな、遅刻するよ?ほら、」
言いながら示したクライマーウォッチの時刻は6:45を指している。
頭をひとつふって英二は微笑んで、脱がされていたニットを着るとベッドから降りた。
「うん、ありがとう。でも周太の朝食を1人にしちゃうの嫌だな、」
「ん、大丈夫だよ?」
心配してくれるのがうれしい、微笑んで周太は答えた。
でも一緒にいたいのにな?そんな顔の英二に光一が笑ってまた額を小突いた。
「いいからね、おまえは早くしな?湯原の朝飯とかはね、俺が一緒させてもらうよ?
で、吉村先生のとこも連れて行く。御岳山の巡廻と自主トレも俺が送ってやるよ。それでいいんだろ?」
端正な白皙の貌に華やかな笑顔が咲いて、うれしそうに英二は光一の提案に頷いた。
「うん、ありがとう。国村と周太が1日ずっと一緒になるのはね、ちょっと妬けるけどさ。でもお願いするよ」
「おう、任せな、」
からり笑って光一は引受けると周太に微笑んだ。
「ほら、湯原?名前呼んでやりなよ、安心させてやって、」
もう「お仕置き」は終わったからね?そんなふうに細い目が笑っている。
これで光一の気は済んだらしい、また英二と親しい友人でアンザイレンパートナーのふたりになれるだろう。
よかったと安心する想いがやわらかい、ほっと周太は微笑んで英二に笑いかけた。
「ん、…英二?またあとでね…行ってらっしゃい、」
切長い目が泣きそうになって、きれいに笑ってくれる。
ふっと長い腕を伸ばしかけて止めて、きれいな低い声が訊いてくれた。
「うん、…ありがとう、周太…ね、周太?いま、一度だけ抱きしめてもいい?…ダメならそう言ってよ?」
自分に怖い思いをさせたと英二は気がついて、気遣ってくれている。
英二を見つめる視界の端で光一が細い目を温かく笑ませて、ゆっくり瞬いた。
君さえよければね?そんな大らかな優しいまなざしが笑って頷いてくれる。
ちいさく周太も頷くと、そっと英二を抱きしめて微笑んだ。
「ん、英二?俺ね、ほんとに怖かったし、嫌だったよ?…だからもうしないでね?」
抱きしめられて切長い目がすこし大きくなって、そして心から幸せそうに笑った。
長い腕をそっと周太の肩にまわして、やさしく抱きしめると涙をひとつ零して言ってくれた。
「うん、周太…もう絶対にしないよ?ごめん、周太…ごめんなさい、…俺を置いていかないで…」
俺を置いていかないで。
きれいな涙とそう言われたら置いてなんていけない。
ひとつ呼吸して周太は自分より大きな体の英二を抱きとめた。
「ん、…あとで、御岳山であおうね、英二?」
「来てくれるんだね、周太?ありがとう、じゃあ俺、行ってくるね」
幸せそうな美しい笑顔を残して英二は寮へと戻っていった。
見送って光一は周太に底抜けに明るい目で笑いかけて提案してくれた。
「さて、ドリアード?俺もね、ちょっと寮で風呂入って着替えてくるよ?
君も風呂入って、さっぱりするといいよ。支度が済んだらまた迎えに来るからね、そしたらチェックアウトして朝飯に行こう?」
「ん、…ありがとう。待ってるね、」
素直に頷いた周太に細い目が温かに笑んでくれる。
そして耳元へ優しいキスをして、笑いかけてくれた。
「今日はね、一緒に行きたいところがあるんだ。宮田との約束の合間に、午後になるかな。一緒に行ってくれるかな?」
どこに光一が行きたいのか。
きっとあの場所に行くのだろう、きれいに笑って周太は素直に頷いた。
じゃあまたねと笑って光一がいったん寮へ戻ると、周太は着替えを仕度して浴室へ入った。
シャワーで温かな湯を頭からかぶると、ふっと心がほどけて涙がこぼれ落ちてくる。
さっき光一の目の前で英二を抱きしめた時。心がどこか軋んで痛かった。
それでも光一は大らかな優しさに佇んで「よかったね?」と笑いかけてくれていた。
どうして光一は、あんな大きな想いで見つめられるのだろう?
自分も英二に「無償の愛」を贈りたいと想っている、けれど光一のように大らかにはまだ笑えない。
光一と英二、ふたりの想いを抱いていったなら。
いつか自分も大らかな優しさと想いに大きな心で佇んでいけるだろうか?
…そうなりたい、いつか…
しずかな覚悟と希望に微笑んで周太はシャワーの栓を止めた。
体を拭い着替えて髪を拭っていると、ふと鏡の自分と目があった。
見つめ返す黒目がちの瞳は、また昨日よりも深みがあざやかになっている。
きっと光一の一途な14年の歳月がいま、周太の瞳を変えていくのだろう。
そっと微笑んで周太は浴室の扉を開いた。
午前中の御岳山巡廻を終えたのは10時半だった。
町を巡回して駐在所に戻る英二と、山麓の滝本駅で別れて光一の四駆に周太は乗った。
運転席に納まると光一は周太に笑いかけて「時間の提案」を示した。
「さて、ドリアード?次の宮田の約束、自主トレーニングの時間まで2時間ほどあるんだ。
この時間に昼飯も済ませるんだけどさ?どこか行きたい所とかあるかな、あんまり遠くはいけないけどね、」
「ん、そうすると御岳のどこか、かな?…光一のお薦めはある?」
穏やかに笑って周太は運転席を見て訊いてみた。
ハンドルに腕組んでのせた雪白の貌がすこし首傾げると、底抜けに明るい目が笑って言ってくれた。
「うん、嫌じゃなかったらね、俺んちに来る?」
「…光一の家?…御岳の?」
すこし意外で周太は訊いてみた。
軽く頷いて光一は愉しげに口を開いた。
「うん、俺の家。気楽だよ?」
「…でも、急になんて…悪くない?」
遠慮がちに周太は訊いてみた。
けれど何でもない顔で光一は笑って誘ってくれた。
「ぜんぜん。ウチのばあちゃんってね、縁側ですぐ茶を出すんだよ。
で、おばちゃん達の溜り場になってるからさ?ちょっと煩いかもしれないけどね。ま、それくらいに気楽な家だよ」
友達の家に行くことは、父が殉職してから13年間ずっと周太には一度も無かった。
その13年越しの初めてが、父が殉職する直前に約束した相手の家になる。
なにか不思議な廻りを感じる光一の誘い、この廻りに委ねてみたくて周太は素直に頷いた。
「ん、…じゃあ、お邪魔させてもらうね?」
「よし、じゃ、決まりだね、」
周太の承諾に底抜けに明るい目が愉しげに笑った。
クラッチとアクセルを器用に操作して四駆が動き出すと、からり光一は笑った。
「うん、遠慮しないでね?ばあちゃんさ、きれいな男の子は好きだから喜ぶよ」
「…ん?…そういうのは気恥ずかしいんだけど…じゃあ、英二は喜ばれたでしょ?」
「宮田はね、まだ来たこと無いんだよ。
あいつ、俺の射撃訓練に付き合っている上にね?吉村先生の手伝いと副隊長の個人講習も受けているからね、忙しくってさ、」
なにげない会話に英二の努力を光一は教えてくれる。
昨日から今日にかけて周太に積もった英二への不安を少しでも軽くしたいのだろう。
こういう細やかな優しさが光一にはある。そういう繊細さが周太には寛げる、こんな想いも嬉しくて周太は微笑んだ。
光一の家は実朴な農家らしい構えだった。
屋敷内の駐車スペースに四駆を停めておりると、ふっと稲藁の香が頬掠める。
敷地内には蔵と納屋があり、裏は立派な長屋門になっている。
こうした農家に来ることは田中の葬儀の時しかなかった周太は、きちんと見た農家の造りに興味をひかれた。
そんな周太に光一は愉しげに訊いてくれた。
「めずらしい?」
「ん、…俺、農家ってね、田中さんのお葬式でしか来たこと無くて」
「あのとき、参列していたんだね?」
すこし驚いて光一が訊いてくれる。
そういえば光一は田中の親戚だと訊いていた、頷いて周太は答えた。
「ん、英二の話を聴いてね、素敵なひとなんだな、って…田中さんみたいに生きれたらいいなって想った」
周太の言葉にうれしそうに明るい目が笑んだ。
楽しげに周太の左掌をとると光一は言ってくれた。
「うん、俺もね、田中のじいさんみたいに生きたいよ。自分の生まれ育った場所を大切にして、最後はそこで眠りたい」
「…ん、…素敵だね、」
素直に周太も頷いて光一に付いて屋敷へと入った。
艶やかな黒栗色の木肌が美しい柱と床が式台に迎えてくれる、古式の農家らしい造りが見事でほっと周太は息ついた。
その隣で透るテノールの声で奥へ呼びかけても返事が無い。さっさと登山靴を脱いで上がると光一は首傾げた。
「うん?どっか出掛けちゃったのかな、なんだっけ?」
言いながらカレンダーを覗きこむと納得した顔で頷いて笑った。
どうしたのかなと見ていると底抜けに明るい目が笑って教えてくれた。
「組合の日帰り旅行だってさ。そう言えば美代も言っていたっけね?ま、いいか。気楽にのんびりしてよ」
笑いながら光一は周太を玄関から引っ張り上げると、手際よく大きな急須に茶を淹れて盆に載せた。
それを持って農家独特の急斜になった梯子階段へと周太を連れて昇ると、天井が屋根のまま斜めの空間へと出た。
「俺の部屋なんだ。昔はね、蚕の部屋に使ったらしいよ」
豪農らしい見事な梁がうつくしい部屋は、しっかりとした無垢材の床と風通しの良い木製の窓が温かい。
磨き抜かれた木材が見事な屋根裏部屋は、文机と低く作られた書架、桐ダンスに木製のベッドが置かれている。
それから額縁に収められた見事な雪山の写真が何点か壁に掛けられて窓のようだった。
重厚な黒栗色と白の空間は落ち着いた空気が居心地いい、きれいな梁を見あげて周太は微笑んだ。
「すてきな部屋だね…屋根裏部屋になる?」
部屋の隅から大きな白いクッションを持って来てくれた光一に周太は訊いてみた。
クッションを勧めてくれながら光一は笑って応えてくれる。
「うん、そうだね。すこし天井は高いけど、そういうことになるな」
周太も自室に屋根裏部屋がついている。
こんな共通点がうれしくて周太は光一に教えた。
「あのね、俺の部屋はね…普通の2階の部屋なんだけど、屋根裏部屋もあるんだ」
「へえ、屋根裏部屋なんだ、同じだね。どんな部屋?」
やっぱり「同じ」で興味を持ってくれた。
想った通りが嬉しくて周太は話し始めた。
「ん、無垢材の床で木製の窓だよ。天井と壁は白い漆喰塗…ベージュ色の木材と白の部屋なんだ。
本棚と揺り椅子と、踏み台の木箱。ちいさなテーブル…それからね、木のトランクがあって。あと天窓があるんだ」
「ふうん、天窓か。いいな、星や月が見えるね。木のトランクって珍しいな、古いもの?」
木製のトランク。あれは周太の大切なものになる。
それに気がついて訊いてくれたことが嬉しくて、周太は微笑んだ。
「ん。祖父がね、使っていた物らしくて…それをね、ちいさい頃から宝箱にしているんだ」
「へえ、宝箱が木のトランクか。いいな、ドリアードらしい。木の妖精の宝箱が木のトランクなんてさ?」
愉しげに笑って光一は持ってきた茶を湯呑に汲んで渡してくれる。
ほんとうは宝箱のことを話すのを少しだけ迷っていた、けれど受けとめられて嬉しくて周太は笑った。
「ん、大切なトランクなんだ…でもね?23歳にもなった男が、宝箱なんて可笑しいかなって…」
「おかしくないよ、ドリアード?すごく君らしいね、」
率直に聴いて笑って受けとめてくれる。こんな率直さが嬉しくて周太は微笑んだ。
細い目を温かに笑ませて光一は茶を飲むと、隅の窓際にある布をかぶせた大きな箱の前にたって周太に笑いかけた。
「俺なんてね?“らしくない”こんな宝物もってるんだ、」
底抜けに明るい目が可笑しそうに笑った。
笑いながら白い掌が据えられた大きな箱型の天鵞絨カバーをはずしていく。
そうして現れたのは飴いろ艶やかな木製の縦型ピアノだった。
「きれい…ピアノだね、」
「うん、」
傍に立ってアップライトピアノを覗きこむと周太は微笑んだ。
木目が透けて見える明るい塗色がきれいで、椅子の座面はカバーとお揃いの天鵞絨張になっている。
可愛らしい造りの古いものの様で、職人の手になる温かみがどこか漂っていた。
きれいな楽器がうれしくて周太は訊いてみた。
「これは光一のピアノ?…光一は弾けるの?」
「うん、おふくろのだったんだ」
底抜けに明るい目が笑って頷いてくれる。
そっと蓋を開いて鍵盤のカバーを器用に巻き外しながらテノールの声が教えてくれた。
「山ヤやりながらね、ピアノの先生していたんだよ」
光一の両親は国内ファイナリストのクライマーだった。
そして2人そろって光一の中学校入学まもなく高峰マナスルで遭難死している。
周太は10歳になる春に父を亡くし、光一は13歳になる春に両親を亡くした。
そんな2人が23歳を迎えた今14年ぶりに再会をしている。不思議な運命の巡りを想いながら周太はそっと微笑んだ。
「山を愛して、音楽を愛して…お母さん、素敵なひとだね、」
「うん?まあね、ちょっと破天荒だったけどさ、」
底抜けに明るい目が笑いながら光一はピアノの前に座った。
すこしだけ考えるように周太を見あげると、微笑んで白い指を鍵盤へと落としこんだ。
1音目、高く澄んだ音。
すぐ2、3音目が連なって、4音目。
そして5音目から弾きだされる調べに、風が生まれた。
黒と白の鍵盤を雪白の指がおどっていく、梢を駆けゆく風みせる調べが指先からわきいでる。
山を森を風ながれる軌跡、梢ゆれる木洩れ日の煌めき、風韻と光がまばゆい音たち。
あふれだす木々と光と風の音、そこから想いが生まれだす。
透明な音と沈思の音がたがいに呼びあいだす。
高い音と低い音の重なりに、交錯する想い映すよう切ない甘い調べが響いていく。
単音と和音の追いかけあい、深い沈思のトーンから透明な聲うつる哀しみの共鳴。
そして穏やかな深い和音がやさしく交す重なり響いて、
透明な旋律の聲はゆるやかに空気へとけた。
5分間ほどの時間。
透明な音で紡ぎだされた光景は、深い森の時と想いを周太の心へ映した。
「…ん、…すてきだった、…この曲、好きだな」
ほっとため息と一緒に告げて周太は微笑んだ。
微笑んで見つめる光一の弾きなれた白い指に、ピアノで母の記憶と向きあった想いの記憶が切ない。
こんなふうに母への哀惜と愛情を音に見つめて光一は10年間を生きてきた。
そんな明るく凛とした姿が透明なピアノの音と響いていた、その大らかな優しさの温もりに今もう心が充ちている。
温かな想いに光一の目を見つめると、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「うん、ありがとう。俺の好きな曲なんだ」
弾き終えて鍵盤から離れた白い指が、漆黒の髪をかきあげる。
かきあげる腕のはざまから、すこし照れくさそうに光一が笑って周太を見あげた。
「でもね?あんまりさ、人には弾けるって言わないんだ。らしくないだろ?」
底抜けに明るい目が可笑しそうに笑っている。
けれど周太は微笑んで率直に言った。
「似合ってるよ?…曲もね、深い森みたいで…光一らしいな、って」
「うん、…ドリアードにそう言われると、うれしいね?」
気恥ずかしげに笑って光一は周太を見つめた。
そして軽く頷くと、すこし苦笑するように周太に告げた。
「この曲さ、クラシックじゃないんだ。いわゆるJpopっていうかな?歌詞があるんだよね」
「ん、…どんな歌なの?」
聴いてみたい、素直にそう思って周太は光一の目を見た。
底抜けに明るい目が恥ずかしげに苦笑して、でも笑ってうなずいてくれた。
「弾き語りで歌うなんてさ?マジ、らしくないからね。絶対に誰にも言わないでほしい、宮田にも美代にもね」
「ん、秘密だね…光一、聴かせて?」
素直にお願いして周太は微笑んだ。
お願いされたら仕方ないね?そう笑って光一は鍵盤に向かってくれた。
1音目の高い音と透明な声。
やさしい透明なテノールの声が低く静謐に充ちて想いと旋律をなぞる。
そして深い森の光と風が、言葉に想いを乗せて指先と心からあふれだした。
…
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて
君を想う
奏であう言葉は心地よい旋律
君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
You are aside of me wo- every day…
残された哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて 靡く
あざやかな君が 僕を奪う
季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ胸を染める いつまでも君を想い…
ひと廻り光一は静かに歌い終えた。
けれど白い指先は第1音の高音を再び弾いて、透明な声が最初の言葉を紡いだ。
そして歌と旋律が屋根裏の部屋にふたたび廻り想いを奏で始めた。
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない 花のように 揺らめいて 君を想う…
深い森の旋律と透明なテノールの声が紡ぎだす歌。
その歌詞の全てが、14年の光一の歳月をそのまま歌い上げていた。
幾度も独り見つめた深い森に廻った14年の季節を想うよう歌が廻っていく。
そうして歌い上げられた想いに、周太の瞳から涙がこぼれた。
―The love to you is alive in me. Wo-every day for love. You are aside of me wo- every day.
僕のなかに君への愛は生きている その愛の為に日々があるよ 毎日、君は僕の傍にいるんだ
信じて14年を深い森で独り待ち続けた、純粋無垢な少年の想い。
夢なら夢のままでかまわない、そんな覚悟を見つめても待ち続けて。
きっと明日は逢える。そう信じて毎日を深い森に待ち続けた喜びと真実の想い。
14年の季節が深い森に廻っても、枯れることなく誇らかに花咲いて想い続けて。
…残された、哀しい記憶…残したのは自分、哀しんだのは光一
14年の歳月を深い森に光一を独り残したまま、周太は13年前に撃たれた一発の弾丸に記憶も想いも眠らせた。
それでも光一は14年を超えて周太の銃口の前にたって、周太の記憶も想いもすべてを蘇らせた。
そして14年の季節を超えた再会に光一はただ「無償の愛」を周太に贈ってくれる。
語りあう言葉は心地よい旋律、君が傍に居るだけでいいと微笑んで。
微笑んだ瞳を失さない為なら、たとえ逢えない夜でも明るく笑って想いを見つめて。
木洩陽のように包んでくれる強い変わらぬ「山の秘密」に誓い周太を守ってくれる。
…あ、
また一滴こぼれた涙に、涙が止まらない。
歌に告げられていく14年の歳月を廻った森の季節が周太の心を充たしていく。
充たされあふれる想いが黒目がちの瞳から涙になってこぼれてしまう。
どうしたらいいのだろう?ただ涙が止まらない。
自分は13年間を孤独に見つめた。
けれどこの部屋で深い森で、光一も独り信じて待ち続けてくれていた。
そうして14年の時を過ごした、ふたつの孤独は歳月も場所も超えて再び廻りあえた。
この想いの廻りあいは、どうなっていくのだろう?
このふたりに運命はどう繋がっていけるの?
ふたり別々の場所と想いに見つめた歳月が愛しい。
そして出逢えた「今」が愛しくて離せない。
ただ涙を流して佇む周太の前で、穏やかな深い和音が重ねられる。
そして透明なテノールの声が歌を綴じこんで、屋根裏部屋に静謐がおりた。
鍵盤から静かに白い指が離れて、底抜けに明るい目が周太に温かく微笑んだ。
「泣いてくれるんだね、ドリアード?」
やさしい白い指がそっと周太の頬にふれ涙を拭ってくれる。
指先ふれる温もりが深く涙を誘って充ちる想いに止まらない、ただ涙あふれだす。
穏やかに見つめてくれる温かな細い目に、ただ周太はちいさく頷いた。
「ん、…」
光一に応えたい言葉も、涙に震えて出てこない。
ただ涙の底から光一を見つめて、それでも周太は微笑んだ。
微笑んだ唇が心もほどいてくれる、そして想いがようやく声になった。
「ありがとう、光一、…今ね、幸せだよ?」
どうか笑顔、
精一杯の幸せにいま自分の顔で笑ってほしい。
このひとが14年の歳月に願っていた、幸せな笑顔を今、見せてあげたい。
そんな想いを抱いて周太は光一の目の前で、きれいな幸せの笑顔で笑った。
午後の明るい青空が奥多摩の山波を銀色に映えさせる。
雪ふく風がひんやりと意識を覚まさせながら、やさしい森の静謐をながれてゆく。
ふるような冬の陽が木立のはざまから、ゆるやかに穏やかな木洩陽となって照らしていた。
あの幼い頃の雪の森の記憶。
あのとき自分がこんなふうにまた、雪の森へ立つことになるなんて思わなかった。
14年前の記憶と想いを辿るよう、アイゼンに雪踏んで森の奥へ歩いていく。
その行くさきを木洩陽があかるく照らして、白銀が温かな光にきらめいていた。
「今の時間はね、太陽の光がちょうど射して、きれいなんだ。ほら、」
針葉樹と広葉樹が交わされる梢から光が雪へ射していく。
その光が真直ぐに軌跡をみせて光の梯子を架けていた。
きれいな光の梯子に微笑んで周太は光の名前を口にした。
「ん、…天使の梯子がかかってるね、」
「あ、やっぱりその名前知っているんだね?」
さくりさくり新雪と締雪を踏みしめながらいく音が静かな森にやさしい。
左掌を繋いで曳いてくれながら、子供のままの笑顔が笑いかけてくれる。
「ほら、ドリアード?あそこにさ、『雪の花』が咲いている」
白い指が差し示した方にはスノードロップが雪を割り花開いていた。
かすかな森の風に揺れて咲く「雪の花」は白銀のなか可憐に佇んでいる。
自分が好きな花との再会がうれしい、周太は微笑んだ。
「ん、…この花はね、好きなんだ。実家の庭にも咲いている」
微笑んだ周太に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
笑いながら明るく透るテノールの声が教えてくれた。
「うん、俺も好きだよ。雪を割っても咲く強い花だ、潔くて清らかで、愛しいよ」
そんなふうに周太もこの花が好きだ。
なぜか光一とは想いの感覚が似ている?そんな相似が不思議で、けれどうれしい。
自分の裡に感じる「うれしい」想いを静かに見つめながら周太は微笑んだ。
「そういうのはね、ほんとうに綺麗だよね…
俺の家の庭はね、この花もそう…奥多摩の森を映すように造ったらしくて、木や草や花がたくさんあるんだ」
雪のなか咲く花に、ふるい端正な家と庭がなつかしい。
こんどいつ帰られるかなと想う横顔に、きれいなテノールの声が笑いかけてくれた。
「奥多摩の森が庭にあるんだね、」
「ん。そうなんだ…祖父がね、そんなふうに庭を造ったらしい、」
周太が生まれる前に亡くなったという祖父。
この祖父が使っていた書斎は、いまの周太の部屋から上がる屋根裏の小部屋だった。
けれど、祖父がどんなひとだったのか周太は何も教えられていない、母も父から教えられなかった。
奥多摩の森を庭に映しこんだ祖父はどんなひとだったのだろう?
思わず想いに沈みかけた周太に光一が笑いかけてくれた。
「お祖父さんが奥多摩を愛してくれた。
そのおかげで君は、奥多摩の森の庭で生まれ育ったんだね。
そんな君が俺とこの森で出逢った。偶然みたいで、運命的だなって想うとね、なんか嬉しいよ」
底抜けに明るい目で笑ってくれる。
明るい純粋無垢な想いがまぶしい目は誇らかで愉しげだった。
こういう明るさが好きだと想ってしまう、素直に周太は頷いた。
「ん、…なんか、うれしいね」
祖父がどんなひとだったのか?なにも解らない。
けれど奥多摩を愛し、森を愛するひとだったことは解る。
その祖父が川崎に造った奥多摩の森で自分は生まれ育ち、奥多摩の最高峰で生まれ育った光一と想いを重ねている。
そんな自分はいま勤務する新宿でも、奥多摩の森を模した公園に日々を慰められている。
この公園のベンチで周太への想いを自覚した英二は、山岳救助隊を志して奥多摩に生きることを選んだ。
そして英二は周太を奥多摩へ連れて来てくれた、そうして周太と光一は14年の歳月を超えて再会した。
奥多摩を廻る自分の運命の不思議を見つめながら、周太は雪の森の奥へ進んでいった。
「うん、もうすこしで着くよ?疲れてないかな、」
「ん、だいじょうぶ…あ、」
ふっと視界から木々が列を空けるように分かれていく。
ひとすじの道のように木々が並ぶ間を光一は周太の左掌を曳いて進んでいく。
道のはてに城門のような大きな欅が2本並んでいる、その2本の姿に記憶の弦がふるえた。
「…この木、知ってる…」
つぶやきがこぼれるまま周太は欅の幹にふれた。
登山グローブを外して掌と木肌を重ねあわせると、どこか温もりと水音の鼓動が肌から揺れていく。
そっと幹に耳ふれると気配のように微かな水音がふれる、この微かな音を自分は知っている。
やっぱりここに自分は14年前に来た、その確信に触覚と聴覚から訴えかけられた。
「うん、知っているはずだよ?君はね、14年前もこうして俺とここに立っていたから。
あの日に俺と君は一緒に過ごした、そして下界へと戻っていく君をね、森の入口まで俺は送ったんだ。こうして左掌を繋いで」
なつかしそうに笑いながら光一は自分も登山グローブを外した。
そして大きな右手に周太の左掌をとって、底抜けに明るい目に温かく微笑んだ。
「行こう、ドリアード?君の木が待ってる、」
透るテノールの声が笑いかけて、繋いだ左掌をやさしく握ってくれる。
素直に微笑んで周太は光一に手を曳かれて、大きな欅の間を通った。
そして視界にひろがった巨樹の坐所で、おだやかな空気に周太は微笑んだ。
山桜の大きな梢が天高く広やかに、青空を抱いていた。
あわく紅紫をふくんだ艶やかな木肌は雪の白いベールを透かして佇んでいる。
白く凍れる細やかな枝は、たがいに想い交すような繊細な造形で青空を透かし魅せていた。
白く梢いろどる雪は花のように咲いて、ふりそそぐ冬の午後の陽に輝きあふれていく。
山桜はいま、光と雪の花を満開に輝かせていた。
真青な大空を戴冠し、白い花を誇り高らかに灯して、雪の森の静謐に佇んでいた。
この木を自分は知っている。
そっと紅ふくんだ木肌に掌を重ねると、なめらかな冷たさがふれる。
ふれる掌と木肌のはざま温もりが生まれてくる、温かさを周太は微笑んで見つめた。
そして耳を幹へつけて静かに周太は瞳を閉じた。
1月の終わりに佇む桜。
あと3か月もしたら満開の花が咲き誇っていく。
その花の彩りを今、この温かな皮のしたに流れる樹液へと蓄え抱いている。
ゆるやかなかすかな花のいろさそう水音に、ことしの花の美しさを周太は祈った。
咲くのなら美しく咲かせたあげたい、そんな花への祈りを捧げて周太は静かに幹から離れた。
「ふれさせてくれて、…待っていてくれて、ありがとう…」
かすかな声で山桜に告げて周太は微笑んだ。
この山桜はどれだけの歳月をここに佇んでいるのだろう?
大きな幹とひろやかな梢は、この山桜の生命力の豊麗さを示して輝いている。
この木が見つめた時の長さのなかでは自分の「今」は一瞬のことだろう。
それでも自分は「今」一瞬を大切に重ねられたらいい。
山桜の巨樹に見上げた時の長さと命の豊麗に、心が穏やかに凪いでくる。
いま再び見つめ始めた光一への想い、春から見つめる英二への想い、そして美代との温かな交友。
一瞬だからこそどれも見つめたい、大切に出来たら良い。
沢山悩んで泣くかもしれない、それでも心の成長痛だと笑って受けとめて、大きな心をこの身に抱きたい。
…ん、だいじょうぶ。山桜、…ありがとう
心に微笑んで周太はゆっくり振向いた。
ふり向いた想いの真ん中で、光一がじっと周太を見つめて雪の森に佇んでいる。
ああ、この瞬間を自分は知っている。遠い近い14年前の記憶に微笑んで周太は唇を開いた。
「この木が好きなの…?」
見つめる想いの真ん中で純粋無垢な想いが微笑んだ。
底抜けに明るい目が笑って、透るテノールの声が応えてくれる。
「いちばん好きで大切だ」
真直ぐな明るく誇らかな視線、真直ぐ届く透明な声。
この眼差しも、この声の想いも自分は知っている。
撃ち砕かれていた瞬間が甦っていく今を見つめながら周太は一言、あざやかに微笑んで答えた。
「同じだね、」
光一の底抜けに明るい目からこぼれる涙に冬の陽が輝いた。
きれいに笑った秀麗な顔、そして透明なテノールの声が言ってくれた。
「お帰り、山桜のドリアード。ずっと、ずっと待っていたよ?」
告げてくれる微笑みが雪の森を歩いて近づいてくれる。
光一が雪ふむ音だけが響く森の静謐のそこで、明るい眼差しが周太に微笑んだ。
「逢いたかった、ずっと信じてた、ここで待っていれば逢えるってね、信じていたよ」
「ん、…ここに来たかったよ?逢いたかった、」
微笑んで見上げる先で底抜けに明るい目から涙が生まれていく。
いま美しい涙をながす「山桜のドリアード」の名前を自分にくれたひと。
ドリアードは森の妖精。自分が棲む木を分身として木と運命を共にする。
そして自分の名前に冠しているのは、このいま立つ背後の大きな山桜の木。
雪の森に佇む大きな山桜の木、光一の大切な山桜。
この山桜の前に出逢い言葉を交わし、ひと時を過ごした幼い9歳の冬の記憶。
その幼い一瞬のひと時を光一は唯一度「永遠の時間」の宝物として抱いて温めてきた。
その永遠の時間にただ見つめて想って、いつか訪れる再会を信じて14年間を待ち続けてくれていた。
…君に俺の命も誇りも預けて話したいんだよ。そして全部信じてほしいんだ
14年間ずっとね、君の笑顔に逢いたかったんだ
雪の森で見つめた14年間の光一の想い、そしてこの先も片想いを愉しむと言ってくれた想い。
どの想いも純粋無垢できれいで光り輝いている、大らかな優しさと穏やかな温もりに充ちている。
その純粋無垢な想いのままに光一はもう、周太が犯した罪すら軽やかに背負いきれいに笑っている。
底抜けに明るい瞳で真直ぐに見つめて、ただ「山」の峻厳なルールを畏敬し愛する、美しい山ヤ。
その愛の結晶として見つめる山桜の巨樹をいちばん大切にして。
そして山桜の樹霊ドリアードを唯一度の出逢いに恋し、唯ひとつ愛した。
美しい山ヤは「山桜のドリアード」として周太だけを想うと決めている。
美しい山ヤが14年間を懸け、そしてこの先すべて懸ける想いは、自分以外の誰も受けとめられない。
だから逃げない、自分だけしか出来ないのなら受けとめたい。美しい山ヤの想い全てを美しいままにしたい。
この美しさを愛さない、そんなことはもう出来ない。
「ドリアード、ここでまた逢えたね?」
底抜けに明るい目が幸せに笑って、透明なテノールの声が名前を呼んでくれる。
この声は無垢な響きと明るい透明はそのまま、出逢った瞬間の純真なままで待っていた。
なつかしさと愛しさに微笑んで見上げて、周太は名前を呼んだ。
「ん、光一、逢えたね…」
応えながら周太は一歩前に踏み出した。
見上げる瞳は子供のままに純真で、真直ぐ見つめて笑ってくれる。
この瞳も純真もすべて自分が守りたい、その祈りが心にもう根を張っていくのがわかる。
もう一歩踏み出す両手を伸ばして、山の冷気にあわく紅潮そまる頬を、ふたつの掌でそっと包んだ。
「光一、」
名前呼んで微笑んで、そっと純粋無垢な瞳を近づける。
そして近寄せた額へと静かに周太はキスをした。
「うん…ドリアード、君から額にキスしてくれた」
幸せな笑顔の底抜けに明るい瞳がまばゆい。
このまばゆい明るさが大好きになっている、真直ぐな視線も明るい瞳も真直ぐな透明な声も。
14年前の想いは甦って今、山桜の前で花開こうとするのを穏やかに周太は見つめた。
見つめる心の弦にふれる記憶の声と歌が、そっと想いに寄りそってくる。
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて
君を想う
奏であう言葉は心地よい旋律
君が傍に居るだけでいい
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
まばゆい木洩陽と風韻の旋律が心の弦を響きだす。
透明な音と沈思の音がたがいに呼びあいだす、ふたつの孤独が再会を喜んでいる。
もう想いは定まってしまう、けれどそれでいい。きれいに笑って周太は真直ぐに光一を見つめて告げた。
「光一、大好きだよ…きっと、いつも想うよ?」
そして、いつか愛してしまう。そう遠い未来ではないかもしれない。
そのとき自分は、なに想うのだろう?
「大好きって言ってくれるんだね、…信じちゃうよ?」
「ん、信じて?」
告げた想いの真ん中で、底抜けに明るい目が誇らかに温かく笑った。
そして光一は周太の耳元へキスをした。
純粋無垢な想いは誇らかな自由のままで、冬の陽ふる雪の森で14年の歳月を熔かしていく。
熔かされた歳月の向こうから、雪の花輝く山桜のもと出逢った想いは、再び廻り重なりだす。
そして山桜の森に時がまた、ゆっくりと動き始める。
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】
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第33話 雪灯act.12―another,side story「陽はまた昇る」
周太の想いがわかるように細い目がちらっと周太を見て「そろそろだね、」と微笑んだ。
そうして光一は英二の目を覗きこんで訊いてくれた。
「さて、宮田?聴かせてほしいね、無理強いされるのって、愉しい?」
「嫌だよ、こんなの愉しくない…怖い。周太の前でなんて、絶対に嫌だ、」
切長い目が睫毛を伏せている。ほんとうに怖いのだろう、すこし震えている。
大丈夫かなと心配で周太が見ていると光一は冷静に英二の目を覗きこんだ。
「じゃあさ、宮田?お前はね、謝るべきことと、言うべきことがあるよな?」
切長い目が哀しそうに周太を見つめてくれる。
そして光一を見あげると、そっと瞬いて頷いてくれた。
「うん、…周太に謝りたい、俺…ばかだ、本当に俺はバカだ、恥ずかしい…国村、周太に謝らせてくれよ?」
「よし、気がついたな?やっぱり、おまえは真直ぐだね。大好きだよ、そういうとこがさ」
そっと光一は英二の拘束を解いて、周太を振り返ると微笑んで「おいで?」と目で呼んでくれた。
頷いて周太は素直に立ちあがるとベッドの傍に行って、涙たたえた切長い目に微笑んだ。
ゆっくり起き上がった切長い目が周太を見あげてくれる、そして一滴の涙を流すと英二の口が開かれた。
「ごめんね、周太…無理強いなんて…怖かった、ね…俺、ほんとうにバカだ…ごめん、周太」
切長い目から涙があふれていく。きれいな涙を見つめて周太はすこしだけ微笑んだ。
英二もすこし微笑むと言葉を続けてくれた。
「もう絶対に無理強いなんてしない…だから周太、許してくれる?
俺の傍から居なくならないで?…もう絶対に周太が嫌がることしないから、許してほしい…いなくならないで?」
きれいな涙で「お願い」してくれる。
こんなきれいな泣顔されたら、ちょっと弱い。そう見つめていると光一が英二の顎に白い指をかけた。
「こら、宮田?おまえはね、俺の『女』になったんだろ?なのにね、勝手に決めるんじゃないよ?」
「ごめん、国村…俺、やっぱり周太がいい…ごめん、離してほしい、ごめん…俺がバカだったんだ…」
きれいな切長の目が泣いている。
哀しそうな目が哀しくて、つきんと心が痛んで周太は俯きかけた。
「うん、バカだね、おまえはさ?」
からり明るく光一が笑った。
笑って英二の顎にかけた指を外すと、そのまま一発、白皙の額を弾いた。
ばちん、
いい音がして額に桜色の痕が現れる。
痕を白い指で突いて光一は、底抜けに明るい目で笑った。
「ごめんね、宮田?俺たちヤっちゃったなんて嘘だよ。おまえはね、一晩中ずっと酔っぱらって眠りこんでいたんだよ」
「…え、」
切長い目がまた大きくなる。
そんな可愛い表情の英二に光一は可笑しそうに笑った。
「ねむってるお前を置いてさ、俺はね、湯原をひとりで迎えに行ったんだよ。
で、湯原が元気なかったからさ?ちょっとドライブして事情聴いてね、おまえを懲らしめたくなった俺は悪戯を考えたってワケ。
まったくね、おまえはバカだよ?大事な婚約者に体を無理強いなんかして。そんな酷いことしたらね、逃げられても文句言えないね」
明るく笑いながらも「無理強いはダメだ」とはっきり言ってくれる。
英二も素直に頷いて、光一を真直ぐ見つめて約束してくれた。
「うん、…俺、よく解ったよ?さっき本当に怖かった…
本気で止めてくれって言って、止めて貰えないの、怖かった。
俺、周太がいい、だから無理強いはもうしない。約束する…ごめん、国村。気付かせてくれて、ありがとう」
「だろ?まったくバカだね。されるまで解らないなんてさ。さあ、これに懲りてね、2度とあんなことするんじゃないよ?」
やさしく細い目が笑んで白い指が軽く英二の額を小突いた。
そしてベッドから降りるとマウンテンコートを羽織って、1つ伸びをすると光一は言った。
「さて、宮田?今日は日勤だろ?早く寮に戻って仕度しな、遅刻するよ?ほら、」
言いながら示したクライマーウォッチの時刻は6:45を指している。
頭をひとつふって英二は微笑んで、脱がされていたニットを着るとベッドから降りた。
「うん、ありがとう。でも周太の朝食を1人にしちゃうの嫌だな、」
「ん、大丈夫だよ?」
心配してくれるのがうれしい、微笑んで周太は答えた。
でも一緒にいたいのにな?そんな顔の英二に光一が笑ってまた額を小突いた。
「いいからね、おまえは早くしな?湯原の朝飯とかはね、俺が一緒させてもらうよ?
で、吉村先生のとこも連れて行く。御岳山の巡廻と自主トレも俺が送ってやるよ。それでいいんだろ?」
端正な白皙の貌に華やかな笑顔が咲いて、うれしそうに英二は光一の提案に頷いた。
「うん、ありがとう。国村と周太が1日ずっと一緒になるのはね、ちょっと妬けるけどさ。でもお願いするよ」
「おう、任せな、」
からり笑って光一は引受けると周太に微笑んだ。
「ほら、湯原?名前呼んでやりなよ、安心させてやって、」
もう「お仕置き」は終わったからね?そんなふうに細い目が笑っている。
これで光一の気は済んだらしい、また英二と親しい友人でアンザイレンパートナーのふたりになれるだろう。
よかったと安心する想いがやわらかい、ほっと周太は微笑んで英二に笑いかけた。
「ん、…英二?またあとでね…行ってらっしゃい、」
切長い目が泣きそうになって、きれいに笑ってくれる。
ふっと長い腕を伸ばしかけて止めて、きれいな低い声が訊いてくれた。
「うん、…ありがとう、周太…ね、周太?いま、一度だけ抱きしめてもいい?…ダメならそう言ってよ?」
自分に怖い思いをさせたと英二は気がついて、気遣ってくれている。
英二を見つめる視界の端で光一が細い目を温かく笑ませて、ゆっくり瞬いた。
君さえよければね?そんな大らかな優しいまなざしが笑って頷いてくれる。
ちいさく周太も頷くと、そっと英二を抱きしめて微笑んだ。
「ん、英二?俺ね、ほんとに怖かったし、嫌だったよ?…だからもうしないでね?」
抱きしめられて切長い目がすこし大きくなって、そして心から幸せそうに笑った。
長い腕をそっと周太の肩にまわして、やさしく抱きしめると涙をひとつ零して言ってくれた。
「うん、周太…もう絶対にしないよ?ごめん、周太…ごめんなさい、…俺を置いていかないで…」
俺を置いていかないで。
きれいな涙とそう言われたら置いてなんていけない。
ひとつ呼吸して周太は自分より大きな体の英二を抱きとめた。
「ん、…あとで、御岳山であおうね、英二?」
「来てくれるんだね、周太?ありがとう、じゃあ俺、行ってくるね」
幸せそうな美しい笑顔を残して英二は寮へと戻っていった。
見送って光一は周太に底抜けに明るい目で笑いかけて提案してくれた。
「さて、ドリアード?俺もね、ちょっと寮で風呂入って着替えてくるよ?
君も風呂入って、さっぱりするといいよ。支度が済んだらまた迎えに来るからね、そしたらチェックアウトして朝飯に行こう?」
「ん、…ありがとう。待ってるね、」
素直に頷いた周太に細い目が温かに笑んでくれる。
そして耳元へ優しいキスをして、笑いかけてくれた。
「今日はね、一緒に行きたいところがあるんだ。宮田との約束の合間に、午後になるかな。一緒に行ってくれるかな?」
どこに光一が行きたいのか。
きっとあの場所に行くのだろう、きれいに笑って周太は素直に頷いた。
じゃあまたねと笑って光一がいったん寮へ戻ると、周太は着替えを仕度して浴室へ入った。
シャワーで温かな湯を頭からかぶると、ふっと心がほどけて涙がこぼれ落ちてくる。
さっき光一の目の前で英二を抱きしめた時。心がどこか軋んで痛かった。
それでも光一は大らかな優しさに佇んで「よかったね?」と笑いかけてくれていた。
どうして光一は、あんな大きな想いで見つめられるのだろう?
自分も英二に「無償の愛」を贈りたいと想っている、けれど光一のように大らかにはまだ笑えない。
光一と英二、ふたりの想いを抱いていったなら。
いつか自分も大らかな優しさと想いに大きな心で佇んでいけるだろうか?
…そうなりたい、いつか…
しずかな覚悟と希望に微笑んで周太はシャワーの栓を止めた。
体を拭い着替えて髪を拭っていると、ふと鏡の自分と目があった。
見つめ返す黒目がちの瞳は、また昨日よりも深みがあざやかになっている。
きっと光一の一途な14年の歳月がいま、周太の瞳を変えていくのだろう。
そっと微笑んで周太は浴室の扉を開いた。
午前中の御岳山巡廻を終えたのは10時半だった。
町を巡回して駐在所に戻る英二と、山麓の滝本駅で別れて光一の四駆に周太は乗った。
運転席に納まると光一は周太に笑いかけて「時間の提案」を示した。
「さて、ドリアード?次の宮田の約束、自主トレーニングの時間まで2時間ほどあるんだ。
この時間に昼飯も済ませるんだけどさ?どこか行きたい所とかあるかな、あんまり遠くはいけないけどね、」
「ん、そうすると御岳のどこか、かな?…光一のお薦めはある?」
穏やかに笑って周太は運転席を見て訊いてみた。
ハンドルに腕組んでのせた雪白の貌がすこし首傾げると、底抜けに明るい目が笑って言ってくれた。
「うん、嫌じゃなかったらね、俺んちに来る?」
「…光一の家?…御岳の?」
すこし意外で周太は訊いてみた。
軽く頷いて光一は愉しげに口を開いた。
「うん、俺の家。気楽だよ?」
「…でも、急になんて…悪くない?」
遠慮がちに周太は訊いてみた。
けれど何でもない顔で光一は笑って誘ってくれた。
「ぜんぜん。ウチのばあちゃんってね、縁側ですぐ茶を出すんだよ。
で、おばちゃん達の溜り場になってるからさ?ちょっと煩いかもしれないけどね。ま、それくらいに気楽な家だよ」
友達の家に行くことは、父が殉職してから13年間ずっと周太には一度も無かった。
その13年越しの初めてが、父が殉職する直前に約束した相手の家になる。
なにか不思議な廻りを感じる光一の誘い、この廻りに委ねてみたくて周太は素直に頷いた。
「ん、…じゃあ、お邪魔させてもらうね?」
「よし、じゃ、決まりだね、」
周太の承諾に底抜けに明るい目が愉しげに笑った。
クラッチとアクセルを器用に操作して四駆が動き出すと、からり光一は笑った。
「うん、遠慮しないでね?ばあちゃんさ、きれいな男の子は好きだから喜ぶよ」
「…ん?…そういうのは気恥ずかしいんだけど…じゃあ、英二は喜ばれたでしょ?」
「宮田はね、まだ来たこと無いんだよ。
あいつ、俺の射撃訓練に付き合っている上にね?吉村先生の手伝いと副隊長の個人講習も受けているからね、忙しくってさ、」
なにげない会話に英二の努力を光一は教えてくれる。
昨日から今日にかけて周太に積もった英二への不安を少しでも軽くしたいのだろう。
こういう細やかな優しさが光一にはある。そういう繊細さが周太には寛げる、こんな想いも嬉しくて周太は微笑んだ。
光一の家は実朴な農家らしい構えだった。
屋敷内の駐車スペースに四駆を停めておりると、ふっと稲藁の香が頬掠める。
敷地内には蔵と納屋があり、裏は立派な長屋門になっている。
こうした農家に来ることは田中の葬儀の時しかなかった周太は、きちんと見た農家の造りに興味をひかれた。
そんな周太に光一は愉しげに訊いてくれた。
「めずらしい?」
「ん、…俺、農家ってね、田中さんのお葬式でしか来たこと無くて」
「あのとき、参列していたんだね?」
すこし驚いて光一が訊いてくれる。
そういえば光一は田中の親戚だと訊いていた、頷いて周太は答えた。
「ん、英二の話を聴いてね、素敵なひとなんだな、って…田中さんみたいに生きれたらいいなって想った」
周太の言葉にうれしそうに明るい目が笑んだ。
楽しげに周太の左掌をとると光一は言ってくれた。
「うん、俺もね、田中のじいさんみたいに生きたいよ。自分の生まれ育った場所を大切にして、最後はそこで眠りたい」
「…ん、…素敵だね、」
素直に周太も頷いて光一に付いて屋敷へと入った。
艶やかな黒栗色の木肌が美しい柱と床が式台に迎えてくれる、古式の農家らしい造りが見事でほっと周太は息ついた。
その隣で透るテノールの声で奥へ呼びかけても返事が無い。さっさと登山靴を脱いで上がると光一は首傾げた。
「うん?どっか出掛けちゃったのかな、なんだっけ?」
言いながらカレンダーを覗きこむと納得した顔で頷いて笑った。
どうしたのかなと見ていると底抜けに明るい目が笑って教えてくれた。
「組合の日帰り旅行だってさ。そう言えば美代も言っていたっけね?ま、いいか。気楽にのんびりしてよ」
笑いながら光一は周太を玄関から引っ張り上げると、手際よく大きな急須に茶を淹れて盆に載せた。
それを持って農家独特の急斜になった梯子階段へと周太を連れて昇ると、天井が屋根のまま斜めの空間へと出た。
「俺の部屋なんだ。昔はね、蚕の部屋に使ったらしいよ」
豪農らしい見事な梁がうつくしい部屋は、しっかりとした無垢材の床と風通しの良い木製の窓が温かい。
磨き抜かれた木材が見事な屋根裏部屋は、文机と低く作られた書架、桐ダンスに木製のベッドが置かれている。
それから額縁に収められた見事な雪山の写真が何点か壁に掛けられて窓のようだった。
重厚な黒栗色と白の空間は落ち着いた空気が居心地いい、きれいな梁を見あげて周太は微笑んだ。
「すてきな部屋だね…屋根裏部屋になる?」
部屋の隅から大きな白いクッションを持って来てくれた光一に周太は訊いてみた。
クッションを勧めてくれながら光一は笑って応えてくれる。
「うん、そうだね。すこし天井は高いけど、そういうことになるな」
周太も自室に屋根裏部屋がついている。
こんな共通点がうれしくて周太は光一に教えた。
「あのね、俺の部屋はね…普通の2階の部屋なんだけど、屋根裏部屋もあるんだ」
「へえ、屋根裏部屋なんだ、同じだね。どんな部屋?」
やっぱり「同じ」で興味を持ってくれた。
想った通りが嬉しくて周太は話し始めた。
「ん、無垢材の床で木製の窓だよ。天井と壁は白い漆喰塗…ベージュ色の木材と白の部屋なんだ。
本棚と揺り椅子と、踏み台の木箱。ちいさなテーブル…それからね、木のトランクがあって。あと天窓があるんだ」
「ふうん、天窓か。いいな、星や月が見えるね。木のトランクって珍しいな、古いもの?」
木製のトランク。あれは周太の大切なものになる。
それに気がついて訊いてくれたことが嬉しくて、周太は微笑んだ。
「ん。祖父がね、使っていた物らしくて…それをね、ちいさい頃から宝箱にしているんだ」
「へえ、宝箱が木のトランクか。いいな、ドリアードらしい。木の妖精の宝箱が木のトランクなんてさ?」
愉しげに笑って光一は持ってきた茶を湯呑に汲んで渡してくれる。
ほんとうは宝箱のことを話すのを少しだけ迷っていた、けれど受けとめられて嬉しくて周太は笑った。
「ん、大切なトランクなんだ…でもね?23歳にもなった男が、宝箱なんて可笑しいかなって…」
「おかしくないよ、ドリアード?すごく君らしいね、」
率直に聴いて笑って受けとめてくれる。こんな率直さが嬉しくて周太は微笑んだ。
細い目を温かに笑ませて光一は茶を飲むと、隅の窓際にある布をかぶせた大きな箱の前にたって周太に笑いかけた。
「俺なんてね?“らしくない”こんな宝物もってるんだ、」
底抜けに明るい目が可笑しそうに笑った。
笑いながら白い掌が据えられた大きな箱型の天鵞絨カバーをはずしていく。
そうして現れたのは飴いろ艶やかな木製の縦型ピアノだった。
「きれい…ピアノだね、」
「うん、」
傍に立ってアップライトピアノを覗きこむと周太は微笑んだ。
木目が透けて見える明るい塗色がきれいで、椅子の座面はカバーとお揃いの天鵞絨張になっている。
可愛らしい造りの古いものの様で、職人の手になる温かみがどこか漂っていた。
きれいな楽器がうれしくて周太は訊いてみた。
「これは光一のピアノ?…光一は弾けるの?」
「うん、おふくろのだったんだ」
底抜けに明るい目が笑って頷いてくれる。
そっと蓋を開いて鍵盤のカバーを器用に巻き外しながらテノールの声が教えてくれた。
「山ヤやりながらね、ピアノの先生していたんだよ」
光一の両親は国内ファイナリストのクライマーだった。
そして2人そろって光一の中学校入学まもなく高峰マナスルで遭難死している。
周太は10歳になる春に父を亡くし、光一は13歳になる春に両親を亡くした。
そんな2人が23歳を迎えた今14年ぶりに再会をしている。不思議な運命の巡りを想いながら周太はそっと微笑んだ。
「山を愛して、音楽を愛して…お母さん、素敵なひとだね、」
「うん?まあね、ちょっと破天荒だったけどさ、」
底抜けに明るい目が笑いながら光一はピアノの前に座った。
すこしだけ考えるように周太を見あげると、微笑んで白い指を鍵盤へと落としこんだ。
1音目、高く澄んだ音。
すぐ2、3音目が連なって、4音目。
そして5音目から弾きだされる調べに、風が生まれた。
黒と白の鍵盤を雪白の指がおどっていく、梢を駆けゆく風みせる調べが指先からわきいでる。
山を森を風ながれる軌跡、梢ゆれる木洩れ日の煌めき、風韻と光がまばゆい音たち。
あふれだす木々と光と風の音、そこから想いが生まれだす。
透明な音と沈思の音がたがいに呼びあいだす。
高い音と低い音の重なりに、交錯する想い映すよう切ない甘い調べが響いていく。
単音と和音の追いかけあい、深い沈思のトーンから透明な聲うつる哀しみの共鳴。
そして穏やかな深い和音がやさしく交す重なり響いて、
透明な旋律の聲はゆるやかに空気へとけた。
5分間ほどの時間。
透明な音で紡ぎだされた光景は、深い森の時と想いを周太の心へ映した。
「…ん、…すてきだった、…この曲、好きだな」
ほっとため息と一緒に告げて周太は微笑んだ。
微笑んで見つめる光一の弾きなれた白い指に、ピアノで母の記憶と向きあった想いの記憶が切ない。
こんなふうに母への哀惜と愛情を音に見つめて光一は10年間を生きてきた。
そんな明るく凛とした姿が透明なピアノの音と響いていた、その大らかな優しさの温もりに今もう心が充ちている。
温かな想いに光一の目を見つめると、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「うん、ありがとう。俺の好きな曲なんだ」
弾き終えて鍵盤から離れた白い指が、漆黒の髪をかきあげる。
かきあげる腕のはざまから、すこし照れくさそうに光一が笑って周太を見あげた。
「でもね?あんまりさ、人には弾けるって言わないんだ。らしくないだろ?」
底抜けに明るい目が可笑しそうに笑っている。
けれど周太は微笑んで率直に言った。
「似合ってるよ?…曲もね、深い森みたいで…光一らしいな、って」
「うん、…ドリアードにそう言われると、うれしいね?」
気恥ずかしげに笑って光一は周太を見つめた。
そして軽く頷くと、すこし苦笑するように周太に告げた。
「この曲さ、クラシックじゃないんだ。いわゆるJpopっていうかな?歌詞があるんだよね」
「ん、…どんな歌なの?」
聴いてみたい、素直にそう思って周太は光一の目を見た。
底抜けに明るい目が恥ずかしげに苦笑して、でも笑ってうなずいてくれた。
「弾き語りで歌うなんてさ?マジ、らしくないからね。絶対に誰にも言わないでほしい、宮田にも美代にもね」
「ん、秘密だね…光一、聴かせて?」
素直にお願いして周太は微笑んだ。
お願いされたら仕方ないね?そう笑って光一は鍵盤に向かってくれた。
1音目の高い音と透明な声。
やさしい透明なテノールの声が低く静謐に充ちて想いと旋律をなぞる。
そして深い森の光と風が、言葉に想いを乗せて指先と心からあふれだした。
…
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて
君を想う
奏であう言葉は心地よい旋律
君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
You are aside of me wo- every day…
残された哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて 靡く
あざやかな君が 僕を奪う
季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ胸を染める いつまでも君を想い…
ひと廻り光一は静かに歌い終えた。
けれど白い指先は第1音の高音を再び弾いて、透明な声が最初の言葉を紡いだ。
そして歌と旋律が屋根裏の部屋にふたたび廻り想いを奏で始めた。
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない 花のように 揺らめいて 君を想う…
深い森の旋律と透明なテノールの声が紡ぎだす歌。
その歌詞の全てが、14年の光一の歳月をそのまま歌い上げていた。
幾度も独り見つめた深い森に廻った14年の季節を想うよう歌が廻っていく。
そうして歌い上げられた想いに、周太の瞳から涙がこぼれた。
―The love to you is alive in me. Wo-every day for love. You are aside of me wo- every day.
僕のなかに君への愛は生きている その愛の為に日々があるよ 毎日、君は僕の傍にいるんだ
信じて14年を深い森で独り待ち続けた、純粋無垢な少年の想い。
夢なら夢のままでかまわない、そんな覚悟を見つめても待ち続けて。
きっと明日は逢える。そう信じて毎日を深い森に待ち続けた喜びと真実の想い。
14年の季節が深い森に廻っても、枯れることなく誇らかに花咲いて想い続けて。
…残された、哀しい記憶…残したのは自分、哀しんだのは光一
14年の歳月を深い森に光一を独り残したまま、周太は13年前に撃たれた一発の弾丸に記憶も想いも眠らせた。
それでも光一は14年を超えて周太の銃口の前にたって、周太の記憶も想いもすべてを蘇らせた。
そして14年の季節を超えた再会に光一はただ「無償の愛」を周太に贈ってくれる。
語りあう言葉は心地よい旋律、君が傍に居るだけでいいと微笑んで。
微笑んだ瞳を失さない為なら、たとえ逢えない夜でも明るく笑って想いを見つめて。
木洩陽のように包んでくれる強い変わらぬ「山の秘密」に誓い周太を守ってくれる。
…あ、
また一滴こぼれた涙に、涙が止まらない。
歌に告げられていく14年の歳月を廻った森の季節が周太の心を充たしていく。
充たされあふれる想いが黒目がちの瞳から涙になってこぼれてしまう。
どうしたらいいのだろう?ただ涙が止まらない。
自分は13年間を孤独に見つめた。
けれどこの部屋で深い森で、光一も独り信じて待ち続けてくれていた。
そうして14年の時を過ごした、ふたつの孤独は歳月も場所も超えて再び廻りあえた。
この想いの廻りあいは、どうなっていくのだろう?
このふたりに運命はどう繋がっていけるの?
ふたり別々の場所と想いに見つめた歳月が愛しい。
そして出逢えた「今」が愛しくて離せない。
ただ涙を流して佇む周太の前で、穏やかな深い和音が重ねられる。
そして透明なテノールの声が歌を綴じこんで、屋根裏部屋に静謐がおりた。
鍵盤から静かに白い指が離れて、底抜けに明るい目が周太に温かく微笑んだ。
「泣いてくれるんだね、ドリアード?」
やさしい白い指がそっと周太の頬にふれ涙を拭ってくれる。
指先ふれる温もりが深く涙を誘って充ちる想いに止まらない、ただ涙あふれだす。
穏やかに見つめてくれる温かな細い目に、ただ周太はちいさく頷いた。
「ん、…」
光一に応えたい言葉も、涙に震えて出てこない。
ただ涙の底から光一を見つめて、それでも周太は微笑んだ。
微笑んだ唇が心もほどいてくれる、そして想いがようやく声になった。
「ありがとう、光一、…今ね、幸せだよ?」
どうか笑顔、
精一杯の幸せにいま自分の顔で笑ってほしい。
このひとが14年の歳月に願っていた、幸せな笑顔を今、見せてあげたい。
そんな想いを抱いて周太は光一の目の前で、きれいな幸せの笑顔で笑った。
午後の明るい青空が奥多摩の山波を銀色に映えさせる。
雪ふく風がひんやりと意識を覚まさせながら、やさしい森の静謐をながれてゆく。
ふるような冬の陽が木立のはざまから、ゆるやかに穏やかな木洩陽となって照らしていた。
あの幼い頃の雪の森の記憶。
あのとき自分がこんなふうにまた、雪の森へ立つことになるなんて思わなかった。
14年前の記憶と想いを辿るよう、アイゼンに雪踏んで森の奥へ歩いていく。
その行くさきを木洩陽があかるく照らして、白銀が温かな光にきらめいていた。
「今の時間はね、太陽の光がちょうど射して、きれいなんだ。ほら、」
針葉樹と広葉樹が交わされる梢から光が雪へ射していく。
その光が真直ぐに軌跡をみせて光の梯子を架けていた。
きれいな光の梯子に微笑んで周太は光の名前を口にした。
「ん、…天使の梯子がかかってるね、」
「あ、やっぱりその名前知っているんだね?」
さくりさくり新雪と締雪を踏みしめながらいく音が静かな森にやさしい。
左掌を繋いで曳いてくれながら、子供のままの笑顔が笑いかけてくれる。
「ほら、ドリアード?あそこにさ、『雪の花』が咲いている」
白い指が差し示した方にはスノードロップが雪を割り花開いていた。
かすかな森の風に揺れて咲く「雪の花」は白銀のなか可憐に佇んでいる。
自分が好きな花との再会がうれしい、周太は微笑んだ。
「ん、…この花はね、好きなんだ。実家の庭にも咲いている」
微笑んだ周太に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
笑いながら明るく透るテノールの声が教えてくれた。
「うん、俺も好きだよ。雪を割っても咲く強い花だ、潔くて清らかで、愛しいよ」
そんなふうに周太もこの花が好きだ。
なぜか光一とは想いの感覚が似ている?そんな相似が不思議で、けれどうれしい。
自分の裡に感じる「うれしい」想いを静かに見つめながら周太は微笑んだ。
「そういうのはね、ほんとうに綺麗だよね…
俺の家の庭はね、この花もそう…奥多摩の森を映すように造ったらしくて、木や草や花がたくさんあるんだ」
雪のなか咲く花に、ふるい端正な家と庭がなつかしい。
こんどいつ帰られるかなと想う横顔に、きれいなテノールの声が笑いかけてくれた。
「奥多摩の森が庭にあるんだね、」
「ん。そうなんだ…祖父がね、そんなふうに庭を造ったらしい、」
周太が生まれる前に亡くなったという祖父。
この祖父が使っていた書斎は、いまの周太の部屋から上がる屋根裏の小部屋だった。
けれど、祖父がどんなひとだったのか周太は何も教えられていない、母も父から教えられなかった。
奥多摩の森を庭に映しこんだ祖父はどんなひとだったのだろう?
思わず想いに沈みかけた周太に光一が笑いかけてくれた。
「お祖父さんが奥多摩を愛してくれた。
そのおかげで君は、奥多摩の森の庭で生まれ育ったんだね。
そんな君が俺とこの森で出逢った。偶然みたいで、運命的だなって想うとね、なんか嬉しいよ」
底抜けに明るい目で笑ってくれる。
明るい純粋無垢な想いがまぶしい目は誇らかで愉しげだった。
こういう明るさが好きだと想ってしまう、素直に周太は頷いた。
「ん、…なんか、うれしいね」
祖父がどんなひとだったのか?なにも解らない。
けれど奥多摩を愛し、森を愛するひとだったことは解る。
その祖父が川崎に造った奥多摩の森で自分は生まれ育ち、奥多摩の最高峰で生まれ育った光一と想いを重ねている。
そんな自分はいま勤務する新宿でも、奥多摩の森を模した公園に日々を慰められている。
この公園のベンチで周太への想いを自覚した英二は、山岳救助隊を志して奥多摩に生きることを選んだ。
そして英二は周太を奥多摩へ連れて来てくれた、そうして周太と光一は14年の歳月を超えて再会した。
奥多摩を廻る自分の運命の不思議を見つめながら、周太は雪の森の奥へ進んでいった。
「うん、もうすこしで着くよ?疲れてないかな、」
「ん、だいじょうぶ…あ、」
ふっと視界から木々が列を空けるように分かれていく。
ひとすじの道のように木々が並ぶ間を光一は周太の左掌を曳いて進んでいく。
道のはてに城門のような大きな欅が2本並んでいる、その2本の姿に記憶の弦がふるえた。
「…この木、知ってる…」
つぶやきがこぼれるまま周太は欅の幹にふれた。
登山グローブを外して掌と木肌を重ねあわせると、どこか温もりと水音の鼓動が肌から揺れていく。
そっと幹に耳ふれると気配のように微かな水音がふれる、この微かな音を自分は知っている。
やっぱりここに自分は14年前に来た、その確信に触覚と聴覚から訴えかけられた。
「うん、知っているはずだよ?君はね、14年前もこうして俺とここに立っていたから。
あの日に俺と君は一緒に過ごした、そして下界へと戻っていく君をね、森の入口まで俺は送ったんだ。こうして左掌を繋いで」
なつかしそうに笑いながら光一は自分も登山グローブを外した。
そして大きな右手に周太の左掌をとって、底抜けに明るい目に温かく微笑んだ。
「行こう、ドリアード?君の木が待ってる、」
透るテノールの声が笑いかけて、繋いだ左掌をやさしく握ってくれる。
素直に微笑んで周太は光一に手を曳かれて、大きな欅の間を通った。
そして視界にひろがった巨樹の坐所で、おだやかな空気に周太は微笑んだ。
山桜の大きな梢が天高く広やかに、青空を抱いていた。
あわく紅紫をふくんだ艶やかな木肌は雪の白いベールを透かして佇んでいる。
白く凍れる細やかな枝は、たがいに想い交すような繊細な造形で青空を透かし魅せていた。
白く梢いろどる雪は花のように咲いて、ふりそそぐ冬の午後の陽に輝きあふれていく。
山桜はいま、光と雪の花を満開に輝かせていた。
真青な大空を戴冠し、白い花を誇り高らかに灯して、雪の森の静謐に佇んでいた。
この木を自分は知っている。
そっと紅ふくんだ木肌に掌を重ねると、なめらかな冷たさがふれる。
ふれる掌と木肌のはざま温もりが生まれてくる、温かさを周太は微笑んで見つめた。
そして耳を幹へつけて静かに周太は瞳を閉じた。
1月の終わりに佇む桜。
あと3か月もしたら満開の花が咲き誇っていく。
その花の彩りを今、この温かな皮のしたに流れる樹液へと蓄え抱いている。
ゆるやかなかすかな花のいろさそう水音に、ことしの花の美しさを周太は祈った。
咲くのなら美しく咲かせたあげたい、そんな花への祈りを捧げて周太は静かに幹から離れた。
「ふれさせてくれて、…待っていてくれて、ありがとう…」
かすかな声で山桜に告げて周太は微笑んだ。
この山桜はどれだけの歳月をここに佇んでいるのだろう?
大きな幹とひろやかな梢は、この山桜の生命力の豊麗さを示して輝いている。
この木が見つめた時の長さのなかでは自分の「今」は一瞬のことだろう。
それでも自分は「今」一瞬を大切に重ねられたらいい。
山桜の巨樹に見上げた時の長さと命の豊麗に、心が穏やかに凪いでくる。
いま再び見つめ始めた光一への想い、春から見つめる英二への想い、そして美代との温かな交友。
一瞬だからこそどれも見つめたい、大切に出来たら良い。
沢山悩んで泣くかもしれない、それでも心の成長痛だと笑って受けとめて、大きな心をこの身に抱きたい。
…ん、だいじょうぶ。山桜、…ありがとう
心に微笑んで周太はゆっくり振向いた。
ふり向いた想いの真ん中で、光一がじっと周太を見つめて雪の森に佇んでいる。
ああ、この瞬間を自分は知っている。遠い近い14年前の記憶に微笑んで周太は唇を開いた。
「この木が好きなの…?」
見つめる想いの真ん中で純粋無垢な想いが微笑んだ。
底抜けに明るい目が笑って、透るテノールの声が応えてくれる。
「いちばん好きで大切だ」
真直ぐな明るく誇らかな視線、真直ぐ届く透明な声。
この眼差しも、この声の想いも自分は知っている。
撃ち砕かれていた瞬間が甦っていく今を見つめながら周太は一言、あざやかに微笑んで答えた。
「同じだね、」
光一の底抜けに明るい目からこぼれる涙に冬の陽が輝いた。
きれいに笑った秀麗な顔、そして透明なテノールの声が言ってくれた。
「お帰り、山桜のドリアード。ずっと、ずっと待っていたよ?」
告げてくれる微笑みが雪の森を歩いて近づいてくれる。
光一が雪ふむ音だけが響く森の静謐のそこで、明るい眼差しが周太に微笑んだ。
「逢いたかった、ずっと信じてた、ここで待っていれば逢えるってね、信じていたよ」
「ん、…ここに来たかったよ?逢いたかった、」
微笑んで見上げる先で底抜けに明るい目から涙が生まれていく。
いま美しい涙をながす「山桜のドリアード」の名前を自分にくれたひと。
ドリアードは森の妖精。自分が棲む木を分身として木と運命を共にする。
そして自分の名前に冠しているのは、このいま立つ背後の大きな山桜の木。
雪の森に佇む大きな山桜の木、光一の大切な山桜。
この山桜の前に出逢い言葉を交わし、ひと時を過ごした幼い9歳の冬の記憶。
その幼い一瞬のひと時を光一は唯一度「永遠の時間」の宝物として抱いて温めてきた。
その永遠の時間にただ見つめて想って、いつか訪れる再会を信じて14年間を待ち続けてくれていた。
…君に俺の命も誇りも預けて話したいんだよ。そして全部信じてほしいんだ
14年間ずっとね、君の笑顔に逢いたかったんだ
雪の森で見つめた14年間の光一の想い、そしてこの先も片想いを愉しむと言ってくれた想い。
どの想いも純粋無垢できれいで光り輝いている、大らかな優しさと穏やかな温もりに充ちている。
その純粋無垢な想いのままに光一はもう、周太が犯した罪すら軽やかに背負いきれいに笑っている。
底抜けに明るい瞳で真直ぐに見つめて、ただ「山」の峻厳なルールを畏敬し愛する、美しい山ヤ。
その愛の結晶として見つめる山桜の巨樹をいちばん大切にして。
そして山桜の樹霊ドリアードを唯一度の出逢いに恋し、唯ひとつ愛した。
美しい山ヤは「山桜のドリアード」として周太だけを想うと決めている。
美しい山ヤが14年間を懸け、そしてこの先すべて懸ける想いは、自分以外の誰も受けとめられない。
だから逃げない、自分だけしか出来ないのなら受けとめたい。美しい山ヤの想い全てを美しいままにしたい。
この美しさを愛さない、そんなことはもう出来ない。
「ドリアード、ここでまた逢えたね?」
底抜けに明るい目が幸せに笑って、透明なテノールの声が名前を呼んでくれる。
この声は無垢な響きと明るい透明はそのまま、出逢った瞬間の純真なままで待っていた。
なつかしさと愛しさに微笑んで見上げて、周太は名前を呼んだ。
「ん、光一、逢えたね…」
応えながら周太は一歩前に踏み出した。
見上げる瞳は子供のままに純真で、真直ぐ見つめて笑ってくれる。
この瞳も純真もすべて自分が守りたい、その祈りが心にもう根を張っていくのがわかる。
もう一歩踏み出す両手を伸ばして、山の冷気にあわく紅潮そまる頬を、ふたつの掌でそっと包んだ。
「光一、」
名前呼んで微笑んで、そっと純粋無垢な瞳を近づける。
そして近寄せた額へと静かに周太はキスをした。
「うん…ドリアード、君から額にキスしてくれた」
幸せな笑顔の底抜けに明るい瞳がまばゆい。
このまばゆい明るさが大好きになっている、真直ぐな視線も明るい瞳も真直ぐな透明な声も。
14年前の想いは甦って今、山桜の前で花開こうとするのを穏やかに周太は見つめた。
見つめる心の弦にふれる記憶の声と歌が、そっと想いに寄りそってくる。
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて
君を想う
奏であう言葉は心地よい旋律
君が傍に居るだけでいい
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
まばゆい木洩陽と風韻の旋律が心の弦を響きだす。
透明な音と沈思の音がたがいに呼びあいだす、ふたつの孤独が再会を喜んでいる。
もう想いは定まってしまう、けれどそれでいい。きれいに笑って周太は真直ぐに光一を見つめて告げた。
「光一、大好きだよ…きっと、いつも想うよ?」
そして、いつか愛してしまう。そう遠い未来ではないかもしれない。
そのとき自分は、なに想うのだろう?
「大好きって言ってくれるんだね、…信じちゃうよ?」
「ん、信じて?」
告げた想いの真ん中で、底抜けに明るい目が誇らかに温かく笑った。
そして光一は周太の耳元へキスをした。
純粋無垢な想いは誇らかな自由のままで、冬の陽ふる雪の森で14年の歳月を熔かしていく。
熔かされた歳月の向こうから、雪の花輝く山桜のもと出逢った想いは、再び廻り重なりだす。
そして山桜の森に時がまた、ゆっくりと動き始める。
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】
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