萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 雪灯act.8―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-08 22:58:38 | 陽はまた昇るanother,side story
痛みを抱いても、想いは




第33話 雪灯act.8―another,side story「陽はまた昇る」

全ての狙撃実験が終了して撤収作業も終えると、奥多摩交番での事後処理が始まった。
奥多摩交番へ戻ると周太と国村は、最後のザイル狙撃の発砲回数と狙撃姿勢などを聴かれていく。
空薬莢の数をカウントし、山麓でザイルを観察しながら吉村と英二がメモしていた発砲回数との照合をする。
そのメモにある発砲回数より空薬莢の数は1つ多い、後藤副隊長が英二に視線を向けた。

「うん?回数が1つ合わないな、でも吉村と宮田とは同じ数だな?谺がすごかったからかな、どうだった宮田?」
「はい、あのポイントでは谺がひどくて。雪で音の吸収もありましたから、発砲音と谺を聴き間違えたかもしれません」

穏やかに微笑んで英二が後藤に答えてくれる。
その横から国村が底抜けに明るい目で笑って唇の端をあげた。

「ああ、連射したから当然、聴き落としますね」

からりと「当然だろ?」と笑っている。
笑う国村を見て英二が首を傾げた向こうで後藤が「やられた、」という顔になって口を開いた。

「光一?おまえ、最後は片手撃ちの連射で狙撃したな?また、めんどくさくなったんだろう?」
「あ、ばれちゃったね?そうだよ、後藤のおじさん。俺、腹減っちゃってさ。早く終わらせたかったんだよね、」

悪戯っ子の顔に戻って国村が愉しげに答えた。
まいったなあと後藤がため息を吐いた横で、刑事課の澤野が驚くまま国村に訊いた。

「君、あの大口径ライフルで片手撃ちが出来るのか?」
「はい、出来ます。でも、これは内緒にしてくださいね、普通の人が真似したら肩壊しますから」
「それはそうだろう、でもなぜ君は出来るんだい?」
「ウチは農家ですけど、クマ撃ちの家系なんですよ。で、直伝の技があるんです。あれで狙撃すると命中率がよくって」

飄々と笑って答える国村に澤野が感心して頷いている。
けれど後藤は困ったように頭を掻いて吉村と英二に尋ねた。

「普通の狙撃法と違うやり方じゃあ、データとしてどうだい?」
「そうですね、一般データとしては使えませんね?どうでしょう、宮田くん」

可笑しそうに笑いながら吉村が英二の顔を見ている。
英二も苦笑しながら吉村に答えた。

「はい、その通りだと思います。申し訳ありません、きちんと国村に『普通の狙撃で』と俺が言っていませんでした」

きれいに頭を下げて英二が後藤たちに詫びを述べた。
端正な礼をする長身の姿に周太は心がつきんと痛んだ。

…俺が、勝手に誤解して威嚇発砲して…それなのに国村に…青梅署の人達も巻き込んで…英二に頭を下げさせて…

自分がしたことの重みと意味があらためて圧し掛かる。
自分はなんて愚かなことをしたのだろう?もっと他に方法があったはず、それなのに。
警察学校の山岳訓練で滑落した時も、自分が軽率な判断をしたせいだった。
そのために英二の肩には今も熱を持つと現れるザイル痕を負っている。そして今度は国村に自分の罪を負わせてしまう。
哀しくて俯いた左掌にふっと指がふれて思わず周太は隣を見あげた。

「ごめんね、湯原?俺が勝手に連射しちゃってさ。
またザイル狙撃だけやり直しみたいだね。まあ、日にちは未定だけどさ、悪いけどまた新宿から来てくれな」

底抜けに明るい目が「気にしないで?」と言いながら明るく笑ってくれる。
こうして軽やかに笑って事もなげに周太の罪を背負って国村は笑ってしまう。
このひとの想いに自分は報いてあげたい、それには今はどうすればいい?ゆっくり瞬いて周太は微笑んだ。

「はい、ぜひ呼んでください。お役にたつなら、また務めさせて頂きたいです」
「うん、ありがとう。またよろしくね、湯原巡査?」

階級で呼んで「警部補である俺の命令に背いちゃダメだよ?」と念押ししてくれる。
もう国村はとっくに覚悟して揺るがない、あかるく軽やかに笑って周太の罪を背負ってくれた。
もう自分も覚悟して背負われるしかない、あらためて周太は覚悟を微笑んで呑みこんだ。
そして最後のザイル切断の時の説明を国村は1人で話し終え、誰も異議をはさむことなく終了した。

昼食を摂り青梅署に戻ると警察医診察室で周太はコーヒーを淹れた。
ゆるやかな午後の陽ざしが白い部屋をオレンジ色の光に暖めていく。
マグカップへとおちていく湯の音と芳ばしい湯気がやさしくて、瞳の奥に温かな気配を呼んでしまう。
ゆっくり瞬いて涙おさめた視線の先でクライマーウォッチは14時すぎを示している、そっと周太はため息を吐いた。

昨日の朝に起きた冬富士の雪崩。
そして連絡のつかない英二の安否に揺すぶられた心のまま自分は吉村医師に電話した。
いますぐ警察官を辞職しても英二の元へ駆けつけたい、そう吐露した周太に吉村医師はここへ公務で招いてくれた。
それはたった24時間ほど前のこと、けれどこの24時間で自分は変えられてしまった。

 ― 山桜のドリアード、俺は待っていたよ?…やっと逢えたね、俺のドリアード

ずっと自分を待ち続けてくれた、1人の美しい山ヤ。
大切にしている秘密の山桜の木。その精霊ドリアードは周太だと信じて見つめ続けてくれている。
雪の森で見つめた14年前の唯一度の出逢い、そのために。

14年前の雪ふる明るい朝、自分は父と奥多摩を訪れた。
そのとき奥多摩交番に立ち寄る父から離れて自分は森へと遊びに行った。
うさぎの足跡に誘われて森の奥へと自分は雪のなかをふみこんだ。
そこで大きな山桜の美しい梢をみあげて、きれいな樹に会えたことが幸せでうれしくて佇んで。
そして、国村と自分は出逢った。

  “その姿を一目見てより恋に悩み 心は騒ぎ 涙はあふれ”

出逢った瞬間を国村は「Dedans des Prez je vis une Dryade」に託して告げてくれた。
その瞬間を見つめ続けた14年間の想いを、周太が向ける銃口の前で誇らかに笑って告げてくれた。
あの雪の森の日の出逢いこそが山ヤとして生きる誇りだと国村は微笑んだ。

けれど。その日を自分はずっと忘れていた、昨日思い出すまでは。
父の殉職からほとんどの記憶を封じ込めていた、そしてこの記憶も一緒に封じ込められていた。
けれど。国村はずっと14年間この記憶を宝物のように抱いて、誇らかな自由に立つ山ヤとして成長していった。
毎日のように山桜に逢いに行って周太との再会を待ちながら。

それを知った今と昨日の自分では、もう世界が違う。
昨日の自分は英二への想いだけ抱いて、国村にかすかな嫉妬とそれでも好きだと友情を想っていた。
けれど今の自分は国村の14年間の想いをもう心の底に温もりとして抱いている。
ひとつの想いが存在を大きくしていく今、昨日と同じように世界を見ることはもう、出来ない。

マグカップがひとつ温かなコーヒーに充たされる。
ゆっくり順に湯を注ぐに追ってまた、ひとつずつマグカップが充ちていく。
コーヒーのフィルターを透って湯は深い樹皮の色と香りへ変化する。
あの卒業式の翌朝も自分はこうしてコーヒーを見つめて、一夜で変えられた自分とフィルターを透る湯を重ねた。
そして今も、雪の森で国村に想い告げられた時間に変えられた自分と、コーヒーの想いが重なっていく。

…ずっと13年間は孤独で…それなのに、こんなにいっぺんに2つも、

いま英二と国村は救助隊服を着替えるからと青梅署独身寮へと戻っている。
じきに2人並んで歩いて戻ってくるだろう、自分はそのときどんな想いを抱くのだろう?
こんなことが自分に起きるなんて?
そんな途惑いがため息になって吉村医師を周太の方へ振り返らせた。

「湯原くん?なにか話したいことが、あるみたいですね」

声かけられて上げた視線の先でロマンスグレーの穏やかな笑顔が受けとめてくれる。
いつも通りの温かな笑顔がうれしくて、すこし周太は微笑んだ。

「はい、…でも、どう話していいかも、解らないんです…困ったことですよね?」

ほんとうに困ってしまう、こんなことは初めてのことだから。
さっき下山する時も覚悟した。けれど覚悟を何度しても途惑いはなかなか治まらない。
どう話していいかも解らない、途惑うまま佇む周太に吉村医師は茶菓子と椅子を勧めてくれた。

「まずは座って、甘いもの口に入れましょう。それからね、話したいように話せば大丈夫。君なら出来ますよ」

マグカップをサイドテーブルに置いて茶菓子と並べてくれる。素直に座ると周太はコーヒーを啜って茶菓子を口にした。
ほろり広がる甘さが爽やかでおいしい、柑橘の香が好みでうれしくて微笑んだ。

「ん、おいしいです。柚子ですか?」
「はい、柚子の黄身しぐれです。この辺りはね、柚子も名物なんですよ。なかなか良い味でしょう?」

楽しそうに教えてくれながら吉村医師も茶菓子を口に運んでいる。
いつものように穏やかな寛いだ空気がやさしい、やさしい空気に周太の唇がそっと開かれた。

「3つの想いがあるんです…どれも大切で…でも、1つはいけない事かもしれなくて…でも、大切なんです」

英二との「絶対の約束」の想い、国村との「山の秘密」の想い。そして美代との温かで楽しい友情。
どれも大切でやさしく自分の心を温めてくれる、その全てを大切にして相手に温もりを報いたい。
けれど、国村との「山の秘密」を抱くことは、英二にはきっと理解できない。そして美代はどう想うのだろう?
それでも国村が自分を「山の秘密」のままに想うことは誰にも止めさせられない。
そして自分は国村の一途な想いを大切に抱いてあげていたい。

「いけないこと。なぜ、そう思うんですか?」

穏やかな眼差しが温かく訊いてくれる。
今日も吉村医師は真直ぐに自分と向き合ってくれる、その安堵に周太の瞳から涙がこぼれた。

「…ほかの2つを、傷付けそうで…いけないって、…すみません、泣いたりして…」
「いいんだ、泣きたいときは泣くのがね、いちばんだよ?さ、拭いたらね、コーヒーひとくち飲んでごらん?」

微笑んで吉村医師がティッシュ箱を渡してくれる。
差し出されるまま1枚受けとって瞳を拭うと、周太は素直にコーヒーを飲んだ。
なにかすこし心がほぐれてくる、かすかに微笑んだ周太に吉村医師も微笑んでくれた。

「うん…ひとの心はね、不思議だな?
そして美しいな、君を見ているとね、いつも私はそう思います。君はね、繊細でやさしい。
だからきっと、今も悩んでしまうのだろうね?その3つの想いどれも、やさしくしてあげたいから。そうでしょう?」

「はい、…3つとも傷つけたくない。でも、それは贅沢なのでしょうか?…俺は、ずるいのかもしれない、って」

こうして話していても国村への想いがすこしずつ変化していくのが解る。
あんなふうに一途な純粋無垢な想いを向けられて、心動かないひとなんているのだろうか?
それでも春に出会ってから見つめた英二の想いが大切で、どこか居心地良い美代との友達の時間も大切で。
こんな自分はずるいのかもしれない、もう逃げたい気持ちすら起きそうになる。
そんな途惑いのまま周太は言葉を押し出した。

「逃げたくない、手放したくない、そう想うんです。けれど時が経つごと苦しくなって…わからないんです」

また涙がひとつこぼれて周太は持ったままのティッシュで瞳を拭った。
そんな周太に吉村医師は、またひとつ茶菓子を懐紙に載せて勧めてくれると、温かく目を笑ませて口を開いてくれた。

「うん、想いはね、変化するものです。人間は日々、刻々と成長していくでしょう?
それと一緒にね、目に見えなくても心だって成長していきます。だからね、君は今きっと、とても心が成長している時です」

「心が、成長して…?」

聴き返した周太に吉村医師は頷いてくれた。
ひとくちコーヒーを啜ると、温かな眼差しで微笑んでまた言葉を続けてくれた。

「はい、心がね、急に成長して痛んでいるんです。
ほら、成長痛って聴いたことあるでしょう?急に背が伸びるとね、背中とか関節が痛くなるんです。
特に背の大きい人は多いかな?宮田くんや国村くんは大きいでしょう、成長期にずいぶん痛い思いしたかもしれないね」

ふたりの名前。
途端に周太の瞳からまた涙が生まれて零れてしまった。
こぼれる涙を見つめて吉村医師は穏やかに微笑んで頷いてくれた。

「うん、…やっぱり国村くん。そうなのでしょう?」
「…どうして?」

どうして解るのだろう?
途惑うままに吉村医師の目を見つめると、温かく微笑んでくれた。

「国村くんとはね、彼が赤ちゃんの頃からの付合いです。雅樹も彼を可愛がっていました。
彼は一人っ子だからね、ときおり一緒に山に登る雅樹を兄のように想ってくれていた。それで山の話を私にもしてくれて。
そうやって昔からよく知っているからね、解りやすいんです。国村くんが誰を特別に想っているか、誰を信頼して誰を好きなのか」

「…解りやすい、ですか?」
「はい、私には。私は警察医でカウンセラーもします、その仕事柄もあるかな?そして今回は特に普通は解り難いでしょうね」

解ってくれる人がいる。そのことが安心感になって周太はすこし微笑んだ。
吉村医師は国村の想いに気づいていた、「山の秘密」は知らなくても理解してくれている。
すべて話すことは出来なくても気持ちが楽になっていく、ほっと吐息がこぼれた周太に吉村医師は言ってくれた。

「彼は純粋無垢です、何にも捉われず自由で真直ぐで。
だから多分ね?これっぽっちも彼は悩んでいませんよ、執われないからね。
彼は『今』に満足しています。たまには寂しいかもしれませんが、それも愉しめる。そしてね、ほんとうに幸せそうですよ?」

言って可笑しそうに吉村医師が笑った。その明るい楽しげな表情にすこし心がほぐれて周太も微笑んだ。
可笑しそうに微笑んだまま吉村医師は言ってくれた。

「だからね、こっちが悩むのは損です。
こっちが悩んでも悩まなくてもね、彼は自分が信じるように君に接するから不可抗力です。
それでも湯原くん、君は繊細でやさしすぎるから悩むでしょう?でも、それでいい。たくさん悩んでね、いいんだ」

「悩んで、いいんですか…?こんな俺は、ずるくないでしょうか?」

遠慮がちに周太は唇を開いた。
そんな周太にやさしい笑顔をおくって吉村医師は微笑んだ。

「悩んで心が痛む、それは心の成長する証拠です。
きっと君はね、繊細で優しい分だけ悩んでしまうだろうね?
そうして心の成長痛を経験できます。たくさん悩んで心が痛んだ分、きっと君は大きな心に成長できる。
そうやって君はね、大きな心の人になれるはずだよ。それは素晴らしいことです、少しもずるいことじゃない。
そして大きな心になった君が今度は沢山の心を受けとめて、勇気を贈ることが出来るようになる。私はね、そう思います」

心の成長痛、大きな心に。
自分にもそれが出来ると吉村医師は言ってくれる。
この医師はいつもこうして自分に勇気を贈ってくれる、あらためて好きだと周太は微笑んだ。
自分もこんな人になれるかもしれない、ちいさな自信と自分への肯定が周太の心に温かく芽吹いていく。
温もりのままに周太は微笑んで吉村医師に言った。

「はい、…先生、俺、たくさん悩んでみます。きちんと国村のことにも向き合って、泣いてみます。
あのね、先生?俺はね、体が小さいことが本当はコンプレックスで…英二や国村が羨ましい時があるんです。
でも、こんな俺でも心の大きさは、負けないようになれるでしょうか?大きな心のひとに、俺もなれるでしょうか?」

吉村医師の目を見て周太は訊いてみた。
その視線を真直ぐ受けとめて吉村医師は穏やかに微笑んで頷いてくれた。

「はい、君ならね、なれます。あの2人はね、真直ぐで悩みが少ないでしょう?それも素敵です。
けれどね、君は多くの痛みを知っているだけ、多くの人の想いを理解して受けとめられる。
そうして多くの視点を持っていけば、必ず大きな心の人に成れます。きっとね、あの2人分くらいだったら両方とも受けとめられますよ」

両方とも受けとめて。
そんなふうに「どちらも大切にしていいんだ」と肯定してくれている。
ほっと息を吐いて周太は微笑んで、コーヒーをひとくち飲むと吉村医師にきれいに笑いかけた。

「はい、大きな心のひとに成ってみせます。そして受けとめていきたい、大切にします…きちんと。
ありがとうございます、ほんとうに…俺ね、吉村先生のこと大好きです。明日もまた、お邪魔しても良いですか?」

「うれしいですね、ありがとう。私もね、君のこと大好きです。やさしくて純粋で、努力家で。
そしてコーヒーを淹れるのが上手です。だから明日もコーヒー淹れに来てくれたら、うれしいですよ。お願いできますか?」

うれしそうに心から微笑んで吉村医師は頷いてくれる。
やっぱり吉村医師は受けとめてくれた、うれしくて微笑んで周太はうなずいた。

「はい、コーヒー淹れに来ます…ありがとう、先生」

そう言って周太はきれいに笑った。
心がひとつまた温かさに充たされていく、いま言って貰った「心の大きなひと」その目標が温かい。
ほんとうは英二と国村と、2人への想いをひとつに抱くことは過ちかもしれない。
けれど「不可抗力だ」と吉村医師は言ってくれる、本当にそうだと自分でも解ってしまう。
だって自分の心を誤魔化すなど誰が出来るのだろう?ならば向き合うしかない。
向き合って悩んで呑みこんで、心を広げられたら。いつか大きな心で想いを昇華できるかもしれない。

…逃げない、もう、どの想いからも

そっと微笑んで周太はコーヒーを啜りこんだ。
その背中に2つの足音が近づいてくる。
愉しげな会話と親しい空気が足音に交されて近づいてくる。

「おや、2人みたいですね?楽しそうに歩いてくる、」

笑って吉村医師が立ちあがると、懐紙と茶菓子の支度を始めてくれる。
周太も立って小さなカウンターでセットしておいたドリップコーヒーに湯を注いだ。
ゆるやかに湯の音と芳ばしい香りが立ち昇っていく。
コーヒーが湯に湧く姿を見つめていると、からり扉が開かれた。

「失礼します、お、コーヒー淹れてくれてるんだね?ありがとう、湯原」

透るテノールの声が周太の横顔に笑いかけてくれる。
その声も前とは違って聞こえてしまう、かすかな途惑いを想いながら周太は振り向いた。
振向いた視線の先で底抜けに明るい目が活動服姿で、いつものように笑っている。
その隣には切長い目が穏やかな静謐で見つめてくれていた。

「周太、コーヒーありがとう、」

きれいな低い声がやさしい、やっぱりこの声が好きと想ってしまう。
またこの声が自分の名前を呼んでくれた、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、もう出来るよ?座っていて、」
「うん、でも手伝うよ。周太こそ疲れただろ?」

きれいに微笑んで英二が隣に立ってくれる。
その様子を見ていた国村は、さっさと座ると周太の飲みかけのコーヒーに口をつけた。
ひとくち飲んで満足げに細い目を笑ませると周太を振り返って微笑んだ。

「うん、やっぱり湯原のコーヒーは旨いね。宮田、いい機会だからさ、今おさらいしてもらえよ?」

飄々と笑って国村はマグカップに唇をつけてコーヒーを啜っている。
そんな国村に英二は呆れたように笑いかけた。

「国村、また勝手にひとの飲んで。おまえの淹れてやっているだろ?」
「うん?俺はね、宮田のコーヒーじゃなくってさ、湯原の淹れたヤツを飲みたかったんだよね。勝手に飲んでごめんね、湯原」

もう首筋が熱くなっている、だって俺のまぐかっぷなのになにしているの?
これってかんせつなんとかっていうやつなんじゃないの?
途惑って隣を見あげると、英二は可笑しそうに笑いながらコーヒーを淹れている。

…怒ってはいない、ね?

すこしほっとしって、そんな自分に昨日との違いを想ってしまう。昨日までならこんな心配はしなかった。
こんなふうに違いが大きくなるのだろうか、初めての心の動きに途惑いながら覚悟をまた1つ周太は呑みこんだ。
そんな周太に微笑んで、淹れ終えたコーヒーを2つ持つと英二がサイドテーブルへと置いてくれた。

「はい、周太。俺の淹れたの飲んで?」

きれいに笑ってマグカップを渡してくれる。
こうして一緒に英二といると穏やかな優しい静けさが心地いい、うれしくて周太は微笑んで受け取った。
しばらく4人でコーヒーを楽しむと、クライマーウォッチを見ながら国村が立ちあがった。

「うん、そろそろ行くかな?」
「夕方の巡回も行くんだよな、疲れていないか?国村」
「大丈夫だよ。ちょっと登山計画書を見て、御岳山ぐるっと歩くだけだしね。コーヒー旨かったよ、湯原。ごちそうさま」

底抜けに明るい目で笑いかけて、流しにマグカップを持っていってくれる。
ちょうど自分のカップも空になって周太も流しへと立った。
もう国村はマグカップを洗い始めている、隣に立った周太に気がつくと微笑んで一言さらり言った。

「あいつね、喜んだよ?」
「…え、?」

ちいさく訊いた周太に国村は、優しく底抜けに明るい目で温かく微笑んだ。

「狙撃の話だよ、すこしだけ風呂でね」

さっき英二と国村は山岳救助隊服から着替える時に一緒に寮の風呂を使っている。
そこで話してくれたのだろう、微笑んで周太はうなずいた。

「ん、…ありがとう、」
「きっとまた訊かれるね。でも山の話は、ね?」

透明なテノールの声を空気にとけるよう低めて言うと、悪戯っ子の目で笑ってくれた。
洗ったマグカップを戻して活動服の袖を直すと「またね?」と目で言って国村は振り返った。

「じゃ、俺、行きます。先生、今日はお疲れさまでした。じゃ、宮田、湯原、またな、」

からり笑いながら制帽を被ると登山靴の足音は廊下を遠ざかって行った。
遠ざかる足音に覚えてしまう感覚が、いま近くで話している低いきれいな声に罪悪感を想ってしまう。
それでも感覚を誤魔化すことなんで誰が出来るだろう?

打合わせを吉村医師と英二が済ませるのを待ってビジネスホテルに戻ると15時だった。
部屋に戻ると英二はバスタブに湯を張ってくれた。

「周太、雪山で冷えただろ?温まってきて、」
「ん、…ありがとう、英二。温まらせてもらうね」

素直に微笑んで周太は頷くと、着替えを仕度して浴室へと入った。
温かな湯に浸かると体と心がゆっくりほどけて、ほどける心へ面影と透明なテノールの声が浮かびあがってくる。
うかぶ想いを真直ぐに見つめながら、静かな涙がそっと周太の頬を伝った。

 …森の精ドリアード…その姿を一目見てより恋に悩み 心は騒ぎ 涙はあふれ
  14年前の雪の森での出会いは心から幸せだった。やっぱり『山』で俺は唯ひとつの想いも見つけた

雪白の明るさ透ける肌に紅潮させた頬の秀麗な顔。
底抜けに明るい目で温かな「無償の愛」を抱いた純粋無垢なままの笑顔。
透明なテノールの声が告げてくれた14年間ひとり見つめてくれた想い。

 …君は俺にとって永遠に最愛の人だ。
  たとえ抱くことが出来なくってもね、心は誤魔化せないだろ?
  だから許してほしいよ、片想いし続けながら君を見つめて生きることをさ

真直ぐな想い、真直ぐな恋と愛。
最高の山ヤの魂と誇りを懸けて唯一の想いを自分に向けてくれている。
けれど自分は英二にすべてを与える約束をしてしまった、そして父の軌跡を追う危険にすら自分は立っている。
その危険のリスクをも国村は背負うと笑って、もう今日だって自分の罪を肩代わりしてしまった。
もう国村は「片想い」に全てを懸けて生き始めてしまった。

 …周太。俺のドリアード、唯ひとり恋して愛している。 
  14年間ずっと君だけ想ってた、そしてこれからもずっと、いちばん大好きだ

いったい自分はどうしてあの美しい山ヤに出会ったのだろう、幸せにしてあげることも出来ないのに?
あの美しい山ヤの運命を自分が狂わせてしまった、そんな想いが痛くて堪らない。

…でも、逃げない…見つめるって、決めたから…逃げられない、想いからは

ただ頬つたう涙が湯へとけこんでいく。
13年前に父が殉職した時もそうだった「殉職」の現実から逃げられないと悟って向き合うことを決めた。
その為に父と同じ射撃の名手の警察官になろうと努力した、その努力がいま自分をここに立たせている。
それと同じようにこの想いも逃げられない、もう国村は自分を再び見つけて隣に立ってしまったから。
そして見つけられたことを自分も本当は嬉しいと想ってしまっている。
もう受けとめた想いは自分の心に芽生えている、今もこぼれる涙にふれて想いの芽は大きくなっていく。
自分の想いの芽を見つめながら浮ぶ声に周太は心傾けた。

 …俺の唯ひとり最愛の人だよ。
  俺の命と誇りをかけて変わらない、ずっと愛していく
  そして君が俺のドリアードだということはね、俺と君だけの『山』の秘密だ

自分の大切な山桜のドリアードは周太だと言って見つめてくれている。
そんな「山の秘密の名前」を国村は自分に与えてくれた、そのことがうれしい。

「…山の、秘密、…」

ちいさなつぶやきが温かな湯気にとけていく。
国村が告げてくれた「山の秘密」の約束が心の深く温もりになっている。
この温もりの透明な明るさと美しさは、もう大切な宝物になってしまった。
英二のことを想いながらも、国村が寄せてくれる想いを拒むことも出来ない。
だからもう心は決まっている、静かに微笑んで周太は想いをつぶやいた。

「…見つめて、いくね?…」

昨日までと全く同じようには世界を見ることは出来ない。
けれど昨日より今の方が美しく想えている、そして心を誤魔化すことも出来ない。
もう抱いてしまった想いなら真直ぐ見つめていくしかない。微笑んで周太は湯からあがった。
湯を拭って英二が贈ってくれた白いシャツを身にまとうと周太は鏡を見つめた。
昨日と違う、今朝とも違う、どこか深いものを湛えてしまった瞳が見つめ返してくる。

…美しい山ヤの想いがもう、自分の瞳にも映っている…

この想いは罪だろうか?
それでも自分は逃げることは、もうしない。
あんなふうに美しい想いで見つめるひとを他に知らない、だから見つめたい。
見つめる鏡の瞳のむこうには浴室の扉が映っている。
この扉の向こうには婚約者が待っているだろう。
この春に出会って初めて恋して愛した唯ひとり、今もその想いは変わらない。
けれど14年前の冬に始まっていた雪の森の恋と愛も、心に抱いたまま扉を開きたい。

どうか、勇気をください。
すべてを守りきる勇気と覚悟を抱いて、周太は扉を開いた。

「ありがとう、英二…温かかったよ?」

微笑んで見つめた先で英二は本を読んでいる。
きっと山岳レスキューの本だろう、勉強家の英二は寸暇を使っては本を読むから。
掛けた声に本を閉じ立ち上がりながら、きれいな笑顔が笑いかけてくれる。

「よかった、周太。おいで?髪がまだ濡れてる、ほら、」
「ん、あ、…はい」

右掌をひいてソファに座らせてくれると、英二は周太の濡れ髪をタオルで拭きはじめた。
やさしい英二の想いが拭いてくれる指先から伝わってくる、そして独占したい想いも解ってしまう。
やっぱり英二には国村の想いは何も理解できない、自分が抱いているこの想いも解ってはもらえない。
この4か月弱は英二と想いを融け合せるように重ねてきた、けれど初めて解りあえない心が生まれている。

…それでも、大切に出来るはず。きっと、その道は見つけられる

2つの想いが自分に与えられる運命だというのなら。
その2つを大切にする事が自分に出来るから与えられたはず。
きっとどちらも正しく想い受けとめることが出来る道がある、どうかその希望を抱いていたい。
髪を拭いてくれるタオルの翳で周太はちいさく微笑んだ。

「ん、英二?ちょっとくすぐったいよ?」

ときおり首筋をくすぐる指、きっと笑わそうとしてくれている。
きっと英二は漠然と、周太の哀しみに気付いてこうしているのだろう。
こんなふうに言わないでも解ってもらえることが幸せで周太は微笑んだ。
微笑んだ周太にうれしそうに低いきれいな声が笑った。

「どうして、周太?くすぐってないよ、ほら」
「うそ、くすぐってる、だめ、英二、っや、」

くすぐられて笑いながら、かすかな涙が瞳に浮かんでくる。
くすぐったくて?解りあえない哀しみ?それともいま独り御岳山を歩く美しい山ヤへの想い?
きっと全部かもしれない、それなら全てを真直ぐ見つめていればいい。
ゆっくり瞬いて涙を収めたとき、そっとタオルが離れて長い指が髪を梳いてくれた。

「はい、周太。これで髪、さっぱりしただろ?」
「ん、ありがとう英二。でも、くすぐるの驚いたよ?…もう、」
「楽しかっただろ?周太、たくさん笑ってくれて可愛かったよ?」

話しながら英二は、冷蔵庫からひとつの瓶と2つのグラスを取出した。
サイドテーブルに置いたグラスに瓶から注ぐと、透明なオレンジにきれいな泡が昇っていく。
グラスの1つを周太に渡すと英二は笑いかけた。

「はい、俺の花嫁さん」

グラスからオレンジが泡と一緒に昇って香っていく。
この飲み物の意味を自分は知っている、つきんと心が痛んで周太は遠慮がちに唇を開いた。

「英二?これって、酒だよね?…まだ昼間なのに…?」
「そう、ミモザだよ?はい、周太。乾杯、」

きれいに笑って英二は周太のグラスに、こつんと触れさせてから自分のグラスに口付けた。
さらっと言われた「ミモザ」の意味がいまは心に痛んでしまう。
このミモザは結婚を寿ぐ意味のカクテル、そして「あの時」が始まる予告でもあるから。

ほんの3時間ほどまえに甦った「山の秘密」が今は14年前の雪の森に心を戻している。
14年前の幼い日に見つめた雪白の肌と桜色の頬の少年、底抜けに明るい目で笑う真直ぐな眼差。
その面影と想いを見つめた心は「ミモザ」を今は飲みたくないと泣いている。

すこしだけ、時間がほしい。待ってほしいのに?
けれど見上げた先で英二は微笑んで、ミモザを口に含むと周太の頬を両掌でくるんだ。

「英二、…っ、」

そっと英二はキスをしてミモザを口移しで周太の唇で注ぎ込んでしまった。
軽く背中を押されるままに喉がこくんと動いてしまう。
のどから堕ちていくオレンジの香を残して唇を離すと英二は微笑んだ。

「ね、周太?いま、俺のキスで結婚のお酒を飲んじゃったね。だから逃げないで?」

逃げる、その言葉が心に痛い。
もう自分は逃げるつもりはない、けれど「山の秘密」で心を分けてしまった。
そのことを漠然と英二は気づいたのかもしれない、それでも構わない。
そんなちいさな図太さを自分の心に驚いて、そのまま周太は英二に答えた。

「逃げる、なんて…どうして、そんなこと言うの、英二?」
「周太、逃がさないよ?もう周太は、俺だけのものなんだから」

長い腕が体を巻いて抱き上げていく。
抱き上げて額に額でふれあいながら微笑んで英二は周太の瞳を覗きこんだ。
見つめ返した先で切長い目はたぶん、威嚇発砲のことを聴こうとしてくれている。
それならこのまま話せばいいのに?まだ「あの時」だけは待ってほしくて周太は唇を開いた。

「…英二、もしかして…っ、」

言いかけたけれどシーツにしずめられて抱きしめられていく。
抱きしめて頬寄せて言いかけた唇にくちびるが重ねられて言葉を奪われる。
いつもより熱い唇が今は怖い、お願いだから時間がほしい。
どうしても待ってほしい、喘いで逸らした隙間から周太はお願いをしようとした。

「…っ、まって…え、」

その質問はいまは聴かないよ?そんなキスが深く重ねられていく。
でも待ってほしい、お願いだから待って?
まだ今は心が雪の森に佇んでいる、だから今は待ってほしい、心から望んで「あの時」を迎えたい。
そんな願いに離れようとしても熱い唇が逃がしてくれない、長い指には白いシャツが絡めとられていく。

  …心から求められる体の繋がりは幸せだよ

雪の森で聴いた美しい山ヤの優しい言葉が、いま、砕かれてしまう。
雪の森で見つめた純粋無垢な笑顔を見つめた瞳のままで、涙こぼれおちて睫は閉じられた。

…どうして、

抱きしめられた肢体から砕かれた想いと一緒に力が消えていく。
重ねた唇のはざま言葉を喪った声はただ体の感覚だけをこぼしている。
覗きこまれる瞳には目の前のことが虚ろに映っているだけ。
心も想いも体の感覚に浚われて、体から離されたまま心が遠くで泣いている。

「…周太、」

きれいな低い声が名前を呼んでくれる。
いつもなら愛しくて嬉しい声、けれど今は遠くで泣いている心が戻ってこない。

「周太、昨日は俺のこと、迎えにきてくれたね…教えて?そんなに俺のことが好き?」

好き、今でも。
けれど本当はそれだけじゃない、だって今もう心が遠くにいる。
それでもこの目の前の愛するひとを哀しませたくない。
責められるような感覚の底から周太は唇を開いた。

「すき…えいじだけ…」

ごめんなさい、英二。
ほんとうはもう、あなただけじゃない。
もしさっき「待って」の願いを聴いてくれたなら「英二だけ」だったかもしれない。
けれど、もう…砕いてしまったのはね、英二、あなただよ?

  …心から求められる体の繋がりは幸せだよ

雪の森で聴いた美しい山ヤの、やさしい言葉。
あの言葉を告げてくれた想いと祈りが温かくて幸せだった。
自分が心から愛するひとと体を重ねる幸せを、無償の愛で見つめて守ろうとしてくれる。
その想いと祈りの温かさがうれしくて幸せで大切にしようと願った。
無償の愛へ応えられないなら、せめて想いも祈りも大切に守らせてほしいと願ってしまう。
けれどいま、自分の拒絶を聴かないで英二は無理に体を繋いでしまった。
心から求めない体の繋がりを英二が望んでしまった、そのことが哀しくてならない。

「だから、俺を慰めて、周太?やさしくキスしてよ」

きれいな笑顔が微熱をふくんだ眼差しで見下ろしている。
いまもう心砕かれている、けれどこの笑顔が好きで守りたくて、拒むことも出来ない。
こんな酷いことをされたと心で泣いている、けれどこの笑顔には微笑んでしまう。
周太は微笑んで掌を英二の頬に添えると、そっと唇を重ねて静かに離れた。

「ん…キス、うれしいよ?周太、素直で可愛いね、このまま素直でいてくれる?」
「…はい、」
「うん、かわいいね、周太?…俺の婚約者さん、愛してるよ?…だから素直でいて、」

言葉と一緒に体がまた深みへと繋げられていく。
こうして離れないようにして英二が何かを告げようとしている。
きっと威嚇発砲のことだろう、訊かれる覚悟を定めながら周太は切長い目を見つめていた。
そして静かに周太の瞳を見つめて英二はおだやかに告げた。

「…ね、周太?…俺のために、銃を国村に向けさせたね?…国村のこと、周太だって好きなのに」

…くにむら、

聴かされた名前に心がふるえて遠くから泣いている。
いま英二に抱かれている時なのに、雪の森の想いと記憶が蘇って心ふるわせていく。
ふるわされた心の深くから、純粋無垢な笑顔と14年前の約束が甦ってしまう。

  …桜、咲いたら、きれい?
   うん、そりゃきれいだよ。雪みたいに白い雲がね、この木におりたみたいに花が咲くんだ。
   ん、…見たいな。4月には咲く?
   そうだね、4月には咲くな。その前には3月にね、ウチの山では梅がきれいになるよ。
   梅?山に梅があるの?
   うん。山に白い霞がかかるみたいでね、あわい赤が朝陽みたいにきれいだ。佳い香でさ。見においでよ、また逢いたいよ?
   ん、…逢いに来るね?そして木に咲く花たちを見せて?

遠い日の幸せだった雪の森の記憶。
そこで出逢った少年の純粋無垢な約束が心に響いていく。
あの約束を果たせなかった理由すら記憶が蘇っている、その理由をあのひとに話したい。

…また、逢いたい…約束を守りたい、逢いたい

また逢いたい、14年前の約束を果たしたい。
ひとり14年も深い森に待たせてしまった、あの少年の想いを叶えてあげたい。
いま愛するひとに抱きしめられ囁かれながらも、想ってしまう願いにはもう嘘は吐けない。

「周太、俺を守る為に、国村に銃を向けさせたね…」

呼ばれる自分の名前と純粋無垢なひとの名前。
ふたつの名前に心が遠くから戻って、勇気と覚悟が心に温かく熱を取り戻す。
この名前の為にも自分はいま強くなりたい、そして想いを大切にしてあげたい。
ゆっくり瞬いて戻った心を瞳に映すと周太は英二を見つめた。

「ごめんね…周太、辛かったね」

辛い想いをさせた後悔と解り合いたい願いに、きれいな切長い目が泣いている。
このひとも苦しんでくれた、そんな想いが伝わって周太の心がすこし微笑んだ。
無理に体を繋いでも心を繋いで解り合いたい、そんな願いが切長い目に見えている。
まだ英二には、からだの大切さが解っていない。だから無理に体を繋ぐことで心も繋ごうとしてしまう。

…しかたないことかもしれない、英二には…けれど、

ちいさなため息が心にこぼれていく。
からだと心への想いの違い、その擦れ違いがさっき自分の心の手綱を切ってしまった。
手綱を切られた心はそのいくらかを、雪の森へ行ってしまって帰ってこない。
それでも自分は英二も愛している。想いに見あげる周太の瞳から涙がひとつこぼれ落ちた。

「…だって、まもりたかった…英二のこと…傷ついてほしく、ない…きれいで、いて?…」

「周太?俺だってね、周太には傷ついてほしくない… 俺にはね、いちばん周太がきれいなんだから。
 俺の為に周太が傷つくなんて嫌だ。だって俺、周太の掌が大好きだ…周太の掌は拳銃よりも、草や木や、花の方が似合う」

やさしくふれて閉じ込めながら、一途な想いを告げてくれる。
いま言われた「傷ついてほしくない」けれど自分は今もう無理に体を繋げられ英二に傷つけられている。
こんな愛する告白からすらも、周太が体を繋げる想いを英二が解っていないと告げてしまう。
そんな解り合えない想いが哀しくて、やっぱり手綱が切られた心のいくらかは雪の森から帰らない。
それでも、この掌を今も大好きだと告げてくれる想いがうれしくて微笑みが生まれてしまう。
解り合えない哀しみと想われる喜びのはざまに瞳から涙が零れおちた。

「ほんと?…英二、…きれいなの?」

「きれいだよ、周太?誰よりも、何があっても、ずっと周太だけがきれいだ。
 周太の掌も心も、全部いちばん好きだ、いちばんきれいだ。…そして全部がね、もう俺のものだよ」

全部が英二のもの。
ほんとうにそうだった、昨日までは。
自分の為に英二は全てを懸けてくれている、分籍して家族を捨てても自分を守ろうとしている。
だから自分も全てを懸けて英二の想いに応えたい、そう願っていた。

「愛してるんだ、周太。だから俺だけを見て、何があっても遠くへなんて行かないで?」
「…英二、」

吐息のようにこぼれていく愛するひとの名前。
この名前のひとに自分は何度と救われて温められてきただろう?
この春に出逢ってからの月日は、13年間の冷たい孤独を癒されて、笑顔を蘇らせてもらう時だった。
このひとの求めてくれる願い全てに応えたい、そう自分も願っている。

…けれど、雪の森の『山の秘密』も、甦ってしまった

10ヶ月間の英二との記憶と想いの交錯、14年前の雪の森で生まれた「山の秘密」国村との想い。
どちらも自分は大切にしていきたい、けれどそれは容易いことじゃない、自分は何度も泣くだろう。
それなら覚悟を今こそ固めてしまえばいい、そして強くなりたい。

 ―君は多くの痛みを知っているだけ、多くの人の想いを理解して受けとめられる
  そうして多くの視点を持っていけば、必ず大きな心の人に成れます
  きっとね、あの2人分くらいだったら両方とも受けとめられますよ

吉村医師に贈って貰った温かな励まし。
きっといま流れる涙も「心の成長痛」ならばまた1つ心が大きくなれるはず。
だから今も思い切り泣いて心痛めばいい。そっと覚悟に微笑んで、ゆっくり1つ瞬くと周太は泣いた。

「っ…ほんとは、怖かった…っ、銃を向けてしまって…ひきがねをひいて…ともだちなのに、」

大好きな友達だった、国村。
それでも英二への想いに自分はM1500の引き金をひいた。

「大好きな人、なのに…っ、くにむら、」

もう、大好きになっている。
純粋無垢な笑顔で大切な「山の秘密」を贈ってくれた。
美しい山ヤの誇りと自由を懸けて、周太の銃口の前で真直ぐな告白をくれた。
青空のもと雪の森で誇り高らかな自由に笑って14年間の想いを明るく堂々と告げてくれた。

「おれのこと、英二と守ろうってしてくれている…それも、知ってる…
 大切な友達、それなのに、止められなくて…英二を守りたかった…傷つけてほしくなくて…
 大切な友達を傷つける、それでも守りたかった、英二を守りたくて…でも、こわかっ、た…」

大切な友達だった、さっきまでは。
けれど今はもう友達じゃない「大切なひと」になってしまった。
そして今はもう国村も守りたい、英二を守るのと同じように国村も守りたい。
だからもう国村を傷つけることは自分には二度とできはしない。

「怖くて、泣きたかった…!」

こわい、今も怖い。
あのM1500の引き金を引いたとき、もし強い風が吹いていたら?
あの瞬間にもし国村が雪に足をとられ姿勢を崩していたら?
そうした可能性があったことが今さらに心を竦ませる、もう国村を喪う事が怖い。
そうして負わせた罪が怖い、自分が犯した「威嚇発砲」その罪を国村は軽やかに笑って潔く背負ってしまった。

「うん、周太?怖かったね、そして哀しかったね?…ごめんね、周太。
大丈夫だから。俺も、国村もね、周太のことわかってる。こういう周太が国村も大好きなんだよ?」

  …大丈夫だ、俺はそういう君が大好きなんだ、純粋な想いに生きる君だから大切なんだよ

やさしい言葉が心に響いて甦ってしまう。
英二の口から告げられた言葉にすら純粋無垢な笑顔が甦る。
いま英二を愛している、愛しているからこそ英二に傷つけられた心と体が泣きながら、やさしい言葉に救いを求めてしまう。
こんなふうに誰かを想うなんて昨日まで知らなかった、英二だけしか知らなかった。
けれど14年前の雪の森の記憶も今日の雪の森の想いも全て、繊細でやさしくて心にふれてしまう。

「そして俺はね、こういう周太だから恋して、大好きになって、愛しているんだ…だからお願いだよ、周太?
どうか俺の隣でいて?ずっと俺だけの居場所でいてよ、俺のこと信じて愛してよ、ずっと俺から離れないでいて?」

英二の隣、英二だけの居場所。その約束は今も想いも変わらない。
けれど今もう既に「山の秘密」のもとで国村が自分の隣に佇んでいる、雪の森の約束のままに。

それでも英二?信じてほしい。
英二には「無償の愛」を自分から贈ってあげたい、安らがせて幸せにしてあげたい。
だからあなたの婚約者のままでいる「いつか」にはあなたの妻になる。英二が求めるまま自分は応えていく。
だから英二、許してほしい。なにも求めない国村に唯一つ「山の秘密」だけは応えてあげたい。

あなたに言葉で許しを乞うことは出来ない願い、けれど自分の心はもう雪の森に甦って偽れない。
どうか許してね?周太はふたつの掌を英二の頬に添わせて微笑んだ。

「離れない、英二。…いつかきっと、必ず、英二のためにばかり掌を遣う、ね…愛してる、英二」

唯一つ「山の秘密」と引替に約束を贈って周太はきれいに微笑んだ。
微笑んだ視線の向こうで英二はきれいに笑ってくれた。

「きっと、俺の為に掌をつかって?…俺と一緒に暮らして、毎日の食事をつくってよ。…ね、俺の婚約者さん」
「ん、…必ず、」

微笑んで掌で英二の頬を惹きよせて、見つめた切長い目は幸せに笑って見つめてくれた。
この幸せを自分が守ってあげたい、そして「山の秘密」も守りたい。
この2人の想いと真実を受けとめられるのは、自分しかいない。
それなら受けとめるしかない、どんなに泣いても潔く微笑んで受けとめて大切に守りたい。

…どうか、2つの想いを大切に出来ますように

ふたつの想いへの1つの祈りを抱いて、周太は英二にキスをした。


(to be continued)

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