「絶対零度」 罠、悪戯な支配者
第35話 予警act.5―side story「陽はまた昇る」
青梅署の観覧場所へ戻ると後藤がゼッケンを外して待っていた。
他の補欠ふたりも既に外し終えて、寛いだ雰囲気に3人で愉しげに話している。
戻ってくる英二を見つけると後藤が嬉しげに手招きで呼んでくれた。
「よかったよ、宮田。もう始まるからな、探しに行こうかと思っていたよ」
「あ、すみませんでした。ちょっと外の空気吸ってきたんです」
素直に謝る英二に構わんよと笑って後藤が隣を勧めてくれる。
そして後藤の隣に英二が立つと愉しげに後藤が教えてくれた。
「宮田、今日はな?おまえさんに会ってほしい男がいるんだ。
駐車場での短時間だが、ヤツは時間がとれなくてなあ。また改めて話す時間はとるが、まずは今日、この場で会ってほしいんだ」
地域部長蒔田警視長。
警視庁全所轄を統括する地位、警視庁ナンバー3の階級を持つ幹部。
開会式で国村に「賛同」の拍手をおくってくれた、警視庁山岳会副会長を兼任するノンキャリア出身の山ヤの警察官。
きっと彼のことを後藤は言ってくれている。
さっき国村が推理した通りにやはり、このために後藤は英二をこの場へと連れてきたかったのだろう。
この面会が英二の進路を決定する、そして周太を守る為の立場と権利を得ていく土台初めとなるだろう。
いま動き出す自分の運命に微笑んで、きれいに英二は頷いた。
「はい、よろしくお願い致します」
「こちらこそな、よろしく頼むよ。きっとね、おまえさんも好きな男だ。そしてヤツはおまえさんを好きだろうよ」
素直に頷いた英二をうれしそうに見て、後藤は大らかな目を愉快に微笑ませた。
後藤に笑い返しながら何げなく会場を見渡すと「あいつ」がさり気なく視線を会場に走らせる姿が視界に映った。
たぶん「あの扉」の前で遭った『ココアの缶の男』を彼は探している、けれど彼は英二だとは気づけないだろう。
さっきの英二と今ここに立つ英二では気配が全く違うから。
さっき英二は雲取山麓のブナの木と呼吸を合わせ、自分の気配をあの森の空気に変えてしまった。
こういう「気配を変える」ことを英二は秋に雲取山麓を国村と巡視中、ツキノワグマの「小十郎」に出会ったとき教わっている。
山では時に気配を潜ませて、山に住む動物の邪魔をしないことが礼儀であり、互いの静穏を守る「山」のルールだった。
それを使って英二は「正体不明の男」として彼の前に立ち、ココアの缶を見せつけて微笑んだ。
あの男の視線が第10方面からこちらへとやってくる、そして彼の視線は英二を見たけれど気づかずに通り過ぎた。
ほら、やっぱり俺のことは掴まえられないね?ちいさく笑って英二は前髪を透かして彼を観察した。
どこか途惑いと焦り、混乱が彼のようすから強くなっていくのが英二には解ってしまう。
きっと彼は「13年前の亡霊」に遭った気持ちだろうな?可笑しくてちいさく英二は微笑んだ。
周太の父と英二は顔の造りは似ていない。
けれど周太の父の同期だった安本や、後藤副隊長によると笑顔の雰囲気が時おり似ているらしい。
遭難救助現場で遺体収容となると英二は憂いがちの笑顔になってしまう、そんなとき後藤に「湯原と似ている」と言われる。
さっき「あの扉」の前で彼と出遭ったとき、英二は扉の向こう側と周太の通る道への陰鬱な哀しみに微笑んだ。
そんな英二に声を掛けられた瞬間の彼はまさに「亡霊に遭った」ような顔で機先を制されていた。
この男もそう、「あの扉」の世界の住人は「ココアの缶を持った男」にすこし脅かされたらいい。
13年前の春の日までココアの缶をよく持っていた男、その存在を感じれば周太の扱いを粗雑には出来ないだろうから。
こんなふうに自分は「周太の父」の想いを抱いて、この警察組織で周太を守っていくだろう。
今日この大会で周太の進路はほぼ確定する、その哀切を見つめて自分はここで見守った。
そして自分もまた周太と同じように今日この場で、2つの側面の運命が決まっていく。
この2つの側面の鍵は「周太」そして国村が並び立つ。この運命すらも自分は結局このために利用していくだろう。
おだやかに心に据わっていく覚悟と意志を見つめながら英二は、そっとシャツ越しに合鍵にふれて真直ぐ前を見た。
視線の先、壇上を見あげると幹部達がもう並んでいる。
そして閉会式の開始が告げられ、閉会の次第が進み始めた。
進んでいく閉会の次第のなか、英二は周太と国村の横顔を見つめた。
これから表彰されるふたりは最前列に並んでいる。
穏やかな静謐の表情と底抜けに明るい誇らかな自由の顔と、ふたりらしい表情が対照的だった。
満点優勝で並んだ2人はどちらから先に表彰台へ昇るのかな?そう見ている先で次第は表彰式へと移って行った。
「それでは表彰式を行います、センター・ファイア・ピストルの部、優勝者2名。壇上へと上がりなさい」
言葉に国村が軽く頷いて「先に行きな?」と周太へ掌を延べて先を譲った。
すこし遠慮がちな顔を周太が見せると、笑って国村は小柄な背中を前へ押し出した。
そして周太を先にして壇上へあがり、賞状授与も先に立たせて国村は微笑んだ。
その様子を見て警視総監は周太の賞状を受けとり読み上げた。
「表彰状、湯原周太殿。警視庁けん銃射撃競技大会において優秀な成績を修め…」
読み上げられる賞状の前に佇む小柄な背中は静かだった。
その背中に向けられる視線を英二は瞳の端に捕えながら心裡で嘲笑った。
さっきの競技中に比べれば「あいつ」の視線は随分とおとなしくなっている。
たぶん「あの扉」の前で英二と、「亡霊」と遭遇してしまったことが遠慮を生んでいるのかもしれない。
彼もきっと周太の父を知っている、だから「ココアの缶」に反応して英二を問質そうとした。
あの、英二と目があった瞬間の、機先を制された驚きと亡霊でも見るような怯懦がひらめいていた顔。
きっと彼は上手に表情を隠したと思っていただろう、けれど英二には解ってしまう。
先ほどの遭遇は英二も意図していなかった、けれど、どんな偶然でも周太を守る方へ少しでも傾くなら良い。
やさしい想いに微笑んだ視線の向こうで、小柄な背中は端正な姿勢で賞状を受けっている。
そして踵を返し階段を降りようとした黒目がちの瞳が、英二の視線を見つけて微笑んだ。
―…英二?見ててくれたよね、
真直ぐに微笑んだ瞳からちいさな言葉が聞こえて英二は微笑んで頷いた。
ほんの一瞬の見交わし合いの時、けれど温かで英二は嬉しかった。
嬉しく見守る先で周太は、壇上から降りて選手の列に戻っていく。
良かったなと微笑んだ先で今度は国村の表彰が始まった。
「表彰状、国村…光一殿、」
いま「国村」の後で一瞬の間があった。
なんだろうと見ている英二の横で可笑しそうに後藤がちいさく笑っている。
その様子に英二は思い出し納得に微笑んだ。
去年の春先に国村は「勲章をいっぱいつけた人」が奥多摩へ視察に訪れたときに案内役を務めている。
そのときは積雪があった、けれどその男は注意を聴かずアイゼンを履かないで転び滑落しかけた。
それを国村に責任転嫁しようとした男はキツイお灸を国村に据えられてしまった。
この恥を黙秘させたい男の意図から、昇進試験で巡査部長になったばかりだった国村を特進で警部補に任命している。
そのとき以来の再会が今まさに壇上で、表彰状1枚をはさんで行われているのだろう。
きっと「勲章をいっぱいつけた人」は悪夢が蘇ったような想いだろうな?
そんな同情を寄せて眺めている先で賞状の読み上げが終わった。
そして国村へと賞状を授与しようとしたとき、ぱん、と賞状が警視総監の斜め後方へと飛んでしまった。
「ずいぶんとイキの良い賞状みたいですね?」
テノールの声が楽しげに会場に透って笑っている。
笑いながら国村は壇上のすこし奥まった場所へ進み、すっと端正な姿勢で片膝をついた。
そして賞状を拾いあげるとまた立ち上がって、幹部席へ向き直り姿勢を整えた。
「横切る無礼を失礼いたしました」
端正な敬礼をおくると国村は、警視総監の立つ演台の前に戻り会釈すると微笑んだ。
そして儀礼通りの持ち方をして真直ぐ立つと、警視総監を一瞥して階段へと踏み出していく
降りていく国村の底抜けに明るい目が笑って、かすかな一瞬だけ英二に目配せを送ってよこした。
これは何か意味があるんだろうな?
考えながら見ている壇上で、国村と入替わり階段を昇った3位受賞者が壇上で転んだ。
衆目を集める壇上で転ぶのは心身とも痛そうだな?
素直な同情を寄せながら見ている先で、今度は制服警察官の部の表彰式が始まった。
そしてまた壇上に上がった途端に滑りかけ、講演台に寄りかかると選手は踏みとどまった。
また転びかけたな、そう見守っていると今度は2位の選手も壇上で転んだ。
どうもおかしい。
なぜ3人も立続けに転ぶのだろう?こんな偶然なんてあるものだろうか。
怪訝に見ている先で選手達は皆、軽く滑りかけまた転んでいく。
―…賞状授与とかはさ、絶好のチャンスだな
ただ俺の歩いた跡はさ、ちょっと滑落事故が増えるかな
もともと滑りやすいよねえ、ああいう壇上ってさ。まあ何人すっ転ぶかはね、その日によって違うよな
武蔵野署へ射撃の練習に行くミニパト車中で「当日なんとか楽しむ努力の手間」を国村は話していた。
どうやら国村は「手間」を省かなかったらしい、そんな状況が壇上で繰り広げられていく。
たぶん周太を先に壇上へ行かせた意図は、これに巻き込まない為だったのだろうな?
納得しながら困ったなと微笑んでいると横から後藤が、ごく低めた声で英二に訊いてくれる。
「…宮田?おまえさん、この状況をな、どう思うかい?」
「たぶん、副隊長と同じこと思っています」
可笑しくて笑いを飲みこみながら英二は答えた。
そして答えながら1つの心配を壇上の1名へ向けていた。
―…勲章がいっぱいついている人はさ、一個くらい軽くした方が体に良いよな。ねえ?
うん、賞状授与とかはさ、絶好のチャンスだな
あのとき話していた「当日なんとか楽しむ努力」はこのことがメインだった。
きっと警察組織に対して本気で怒った国村は努力の手間を惜しまなかったのだろうな?
確信しながら見つめる先で表彰式が終わり、警視総監が自席へ戻ろうと斜め後ろへと歩を進めた。
がったん、 大きな音響と一緒に警視総監は転倒し、プライドが滑落した
警視庁けん銃射撃競技大会。
その最後を飾るはずの閉会式の壇上1点に視線が統べられた。
全102署・第10方面と本部その全てから集まった警察官全員の面前で、その頂点に立つ男は呆気なく転んだ。
そうして「勲章がいっぱいついている人」は転倒の衝撃に、勲章が1つ外され落っこちた。
やっぱりやっちゃんたんだな?
予想通りの展開に英二は心裡に大笑いしながら首傾げ、介抱に慌ただしい壇上を見つめた。
こんなこと可笑しくて仕方ない、けれど転んだ心身への受傷状態がレスキューとして心配になる。
きっと脈拍は早く掌は汗ばんで冷たくなっている、高血圧だとまた心配だ、きっと右の肩と大腿部に軽度の打撲、でも大丈夫だろう。
そして「存分にやってこい」と国村にGOサインを出したのは自分だったと想い出し、すこし英二は困った。
自分は教唆犯になるだろうか?
「…なあ、宮田?あれはな、そういうことかね?」
大らかな目で笑いながら低い声で「困ったもんだな」と後藤が微笑んでいる。
きっと国村が「なにかやる」予想はしていただろう、けれどここまで徹底するとは思わない。
でもいまは何を言っても仕方ないだろう、微笑んで英二は短く答えた。
「はい、」
短く答えながら英二は自分のポジションに潜む意外な影響力を考え込んだ。
この競技大会で国村は「山」に育まれた能力を使い、怜悧な論破と能力の誇示で「悪戯」をしかけ警視庁を制圧した。
それは純粋無垢な怒りを容赦なく叩きつけた結果だろう、その怒りを英二も肯定したことで国村は一切の手加減を止めたらしい。
この大胆不敵な友人のアンザイレンパートナーであることは、どうも責任が大きいらしい。
こんどからもっと慎重に発言しよう、そんな反省と約束を自分にしながら英二は閉会式を最後まで見届けた。
すべて終わって後藤たちと戸外へ出るとき、新宿署の先輩達と歩いていく周太に会えた。
すぐに気がついて周太は先輩に断りを入れると、青梅署の皆といる英二と国村の許へ駆け寄ってくれる。
そして周太はまず後藤副隊長へ挨拶をした。
「おひさしぶりです、先月はありがとうございました、」
「湯原くん、こちらこそだよ。先月は助かった、ありがとうな。
そして優勝おめでとう。ずっと見させてもらったよ、きれいな姿勢でなあ、本当にすばらしかったよ。君の誠実さがな、見事だった」
大らかに温かな目で笑って後藤は率直に賞賛と祝辞を周太に贈った。
その眼差しは懐かしさと哀切に温かい、周太の父とは警視庁山岳会の先輩後輩として親しかった後藤は周太に友人の姿も見たのだろう。
そんな温かい率直に褒められて周太は、気恥ずかしげでも嬉しそうに微笑んだ。
「はい、ありがとうございます。でも、国村さんのスピードに比べたら全然出来ていません」
「いいんだよ、湯原くん。君の射撃はね、君だけのスタイルだろう?それになあ、こいつの射撃はね、クマ撃ち用だから」
笑って国村の肩を叩きながら後藤は周太を励ましてくれる。
今日の競技会は後藤にとって、国村の両親と周太の父と、若くして逝った友人たちの代わりに遺児を見守る日でもあった。
きっと後藤は警察官である以上、今日の結果が周太の進路にもたらす不安を知っている。
それでも大切な友人の遺児2人の優勝を見守ったことは後藤にとって喜びだろう、こんな後藤の実直な温かさが英二は好きだ。
そんな後藤に周太は素直に頭を下げて微笑み返すと、今度は国村と英二に向き合った。
「国村、優勝おめでとう。ほんとうにね、すごかった。俺も頑張りたいって思えた、よ?」
微笑んで国村を見上げる周太の顔はすっきりとして楽しげでいる。
心から整理がついている、そんな落ち着きが解って英二は嬉しかった。
そんな周太を底抜けに明るい目で温かに見つめて、けれど笑って国村は率直に思う所を言った。
「ありがとうね。俺もさ、眼福だったよ?ストイックな湯原は色っぽくてさ。
もし競技中に見えたら、マジあぶないとこだったよ?ブースの壁があってよかったって、俺は初めて思ったね」
「…そういうことここでいわれてもほんとこまるから…こういうとこでは、ね?」
術科センターだろうがお構いなしのエロトークに、素直に反応していく周太の首筋が赤らんでいく。
こんな様子が可愛いなと見守っている英二に、見上げた黒目がちの瞳が訊いてくれた。
「英二?ずっと、見ててくれたね…俺、出来ていたかな?」
「大丈夫、周太はね、ちゃんと出来ていたよ。お父さんも見てた、きっとね」
きれいに笑って英二は「ほんとうだよ」と目でも答えた。
そんな英二の笑顔にうれしそうに笑って、周太はまた新宿署の輪へと戻っていった。
小柄な後姿を見送ると、英二たち青梅署も往路と同じ2手に分かれて駐車場へと向かった。
駐車場へ着くと青梅署パトカーの前で初老の男がコート姿で佇んでいる。
その姿を認めると後藤副隊長が嬉しげに笑って手をあげた。
「よお、久しぶりだなあ、蒔田」
「はい、後藤さん、ご無沙汰しています。山井くんもお元気そうですね。国村くん、優勝おめでとうございます」
お互いうれしそうに旧交の挨拶を交わしながら、蒔田は気さくに国村にも笑いかけている。
いつもの底抜けに明るい目で笑って応え、国村は頭を下げた。
「はい、ありがとうございます。蒔田さん、開会式はありがとうございました」
「いや、こちらこそ礼を言いたいです。山ヤの警察官を代表してくれて本当にありがとう、うれしかったです」
あかるい声で笑って蒔田は国村に頭を下げた。
ほんとうに蒔田は気さくで謙虚な山ヤらしい人柄のようだった、そんな蒔田に国村は素直に頷いて微笑んでいる。
その国村と並んで見ている英二を振り返ると、後藤は蒔田に言った。
「蒔田、彼がよく話している宮田だよ。吉村にも好かれてな、警察医の手伝いまでしてくれている」
「はい、吉村先生にも伺っています。初めまして、宮田くん。地域部長の蒔田です、警視庁山岳会の副会長をさせて頂いています」
穏やかに微笑んで英二に握手を求めてくれる。
こういうフランクな幹部は警察組織では珍しいだろう、まず敬礼をすると英二は素直に握手をして微笑んだ。
「初めてお目にかかります、青梅署山岳救助隊所属の宮田です」
「うん、伺っている通りですね。誠実で、きれいな笑顔をされている。これじゃあ国村くん、君は大好きでしょう?」
率直に英二を褒めてくれながら蒔田は国村に笑いかけた。
笑いかけられて国村は頷くと、いつもの調子でからり笑って答えた。
「はい、蒔田さん。俺のアンザイレンパートナーは宮田だけです。だってね、この俺のフォロー出来るヤツは少ないでしょう?」
「そうですね?うん、いい信頼関係が出来ている、なるほど」
愉しそうに頷くと蒔田は後藤に笑いかけた。
「後藤さん、仰る通りだと思います。私の方からも人事部に掛けあいましょう、」
「ああ、よろしく頼むよ?さて、では本人に聴いてみよう、」
大らかな目で笑って後藤は英二を真直ぐに見た。
おだやかに微笑んで英二が見つめ返すと後藤は言ってくれた。
「宮田、こんな駐車場での話で済まないが、この蒔田が時間が無くてな。聴いてくれるかい?」
「はい、なんでしょうか?」
心裡に1つ呼吸して英二は後藤の深い目を真直ぐに見つめた。
見つめた目は楽しげに笑って、率直に話してくれた。
「おまえさんをな、警視庁のクライマーとして正式に任官させたいんだ。
そして警視庁山岳会に正式に所属してくれ。宮田にな、国村と一緒に最高峰の踏破を始めてほしいんだ。
クライマーの警察官として山岳レスキューのプロを目指してほしい、そしてトップクライマーになって国村の踏破を援けてほしいんだ。
宮田はな、まだ卒配期間で山ヤの年数も浅いが、国村の信頼が固いよ。そして素質がある、努力を積んで山と任務に向き合っている。
だから、おまえさんの素質と姿勢に俺たち山岳会は懸けたい、国村のパートナーをお前さんに決めたいよ。さあ、宮田の意見はどうだい?」
クライマーとしての任官。
それは山ヤの警察官として生涯を生きることを意味している。
山に廻る生と死に「人間の尊厳」を守るため自分の生命と誇りを懸け、山の峻厳な危険に立ち続けること。
そして最高のクライマー国村と完全に並んで、世界最高の危険地帯「最高峰」の頂点に共に立ち続けることを選ぶ道だった。
いま周太を廻る国村との想いの交錯がある、けれど最高の山ヤで一番の友人と並ぶ権利は手離せない。
こんな自分はまだ山ヤの道に立って半年も経っていない、それでも信じて最高峰の夢を懸けようと言ってもらえる。
こんな自分でも求められ信頼され、可能性を見つめてもらえる。この外見だけじゃなく体ごと意志と心を認めてくれている。
この喜びたちが最高の危険と背中合わせであっても自分は迷うことは無い、真直ぐな想いに英二は頷いた。
「はい、お願いいたします」
短いけれど明確な意思表示に英二は誇らかに微笑んだ。
その笑顔に後藤と蒔田が楽しそうに頷いてくれる、隣からは国村が肩をごつんとぶつけて笑った。
「よし、宮田?これでね、俺たちは名実ともに公私ともアンザイレンパートナーだ。
これでもう、誰にはばかることなく俺たち、ずっとこれから一緒だよ?よろしくね、俺の生涯のアンザイレンパートナー」
底抜けに明るい目が愉しげに笑っている。
笑って頷きながら英二は答えた。
「うん、よろしくな。でも『誰にはばかることなく』とかはさ?ちょっと…違うんじゃないか?」
「なにが違うんだよ?じゃあなにさ、俺たちってさ、誰かにはばかる必要があるわけ?」
「う、ん…なんだろ?ニュアンスの問題?」
普通は「誰にはばかることなく」なんて恋人同士で使うんじゃないのかな?
この疑問をうまく国村に言えなくて英二は笑いながら困った。
そんなふうに笑いながらやりとりする国村と英二を眺めて、後藤と蒔田は愉しげに笑った。
「な、蒔田?宮田だとな、国村はこんな感じでリラックスするんだよ、冬富士でも仲良く帰って来た」
「はい、良いですね。これだったら、難所でも一緒に越えられますよ、きっと」
そんなふうに笑って頷きあう後藤と蒔田は、山ヤの警察官の親しい先輩後輩同士そのものだった。
そうして暫く話すと蒔田は青梅署の4人に端正な礼を送ってくれた。
「では、そろそろ戻らなくてはいけません。宮田くん、近々に書類が届くかと思います、お手数ですがサインなどお願いします」
「はい、よろしくお願い致します」
きれいに大らかな笑顔を英二は敬礼と一緒におくった。
そんな英二の顔を見て蒔田はうれしそうに笑ってくれた。
「ほんとうに君は、良い笑顔をしますね。こんどはお酒もご一緒したいです、またお願いしますね」
そう笑って蒔田はパトカーに乗り込んで自分の職場へと帰って行った。
都心方向へ戻っていく姿を見送ると、英二達も国村の運転するパトカーに乗りこんだ。
そうして青梅署へと戻る車中で、後藤が愉しそうに言ってくれた。
「宮田。おまえさん、蒔田に気に入られちゃったな?あいつ、きっと本当に酒を誘ってくるよ、一緒に呑んでやってくれな?」
「はい、いろんな山のお話が伺えそうですね?」
素直に頷いて英二は答えた。
頷く英二に笑って後藤はそうだなと言葉を続けてくれる。
「そうだな、あいつはね、いろんな山を知っているから愉しいよ。でもな、たぶん国村も一緒だからなあ、ちょっと宮田は大変かもな」
「うん?なんで俺が一緒だと大変なんですかね?」
「だってな、おまえ場所とかお構いなしで自分のペースだろう?真面目な宮田はな、おまえの分まで気を遣って大変だよ」
後藤の言葉に国村が聞き咎めて笑い、後藤がまぜっかえしている。
それを笑って訊きながら英二は、今日の自分に起きた転換を心裡しずかに考えていた。
このことは近いうちに周太と周太の母には話しておく必要があるだろう。どう話そうと考えながら英二はシャツ越しふれる合鍵に微笑だ。
その晩、英二は以前の約束通り国村に酒をおごった。
この大会出場を嫌がっていた国村に愉しみを作ろうと「大会後は酒を飲ませる」と英二は約束をしていた。
その約束通りに英二は酒を買い、そして初めて国村の御岳の家を訪れた。
いつも国村の祖母は差入にと、心づくしの重箱を国村に持たせては英二や藤岡にもご馳走してくれる。
すでに藤岡は訪問して礼を述べているが、英二は個人訓練や吉村医師の手伝いなどで時間が取れず、ずっと気にしていた。
そんな英二に国村は、大会の結果を祖父母に報告しがてら帰りたいと提案してくれて決まった訪問だった。
こんなふうに友人の家に泊まりで遊びに行くことは英二には初めてになる、すこし緊張して英二は国村家の門を潜った。
「さあ、たくさん食べてね?」
そう言って国村の祖母は、重厚な栗材の食卓いっぱいに惣菜を並べて英二をもてなしてくれた。
祖母と言ってもまだ60代で孫の年の割に若い。そんな彼女は楽しげに英二の御岳での評判を話し始めた。
「宮田くんね、すごく評判良いのよ?やさしくって、しかもすごいイケメンでしょ?
だから羨ましがられるのよ、光一の友達だなんていいわねって。一緒に食事して泊まって貰って、また自慢の種が出来たわ」
あかるいトーンの話し方は年齢より若くて、祖母と言うより母親のようだと英二は思った。
その隣で国村の祖父は楽しげに話を聴きながら、たまに悪戯っ子のような目で英二に笑ってくる。
温かい雰囲気がうれしいと思いながら、惣菜の心づくしに遠慮なく箸をつけて英二は微笑んだ。
「ありがとうございます、でも、なんか申し訳ないですね?もし今日、俺、ガッカリさせたらすみません」
「がっかりなんかしないわよ?まあ、そんなこと言うなんて、可愛いわー、光一と大違いね」
朗らかに笑って英二に「お替りは?」と掌をさしだしてくれる。
ありがたく茶碗を差し出す隣から、からり笑って国村が言った。
「だろ?こいつはね、そりゃ真面目で可愛い別嬪なんだよ。不真面目な俺とは違うね。
だから比較するんじゃないよ、ばあちゃん。だいたいさ、こういう俺に育てちゃったのはね、ばあちゃんだろ?」
「あら、あんたはね、勝手に山で育っちゃったのよ?だから私の責任じゃないわね。ねえ、あなた?」
急に話をふられて国村の祖父は、蕎麦猪口で呑んでいた酒に軽く咽た。
すぐに治めて軽く笑うと悪戯っ子な目で彼は笑った。
「うん、そうだな。光一は山っ子だからなあ?わしらの責任ばっかりじゃないね。
ま、そんな山っ子でもさ、警視庁の射撃大会で優勝できるんだからな。山っ子もまあ、大したもんかな。ねえ?」
どことなく国村と似た話し方で笑って、また酒をひとくち飲みこんだ。
この祖父が国村にクマ撃ちを教え込んだと聴いている、きっと山でのこともよく知っているのだろう。
すこし訊いてみたいな?英二は口を開いた。
「山っ子、おじいさんもそう思われるんですか?」
「うん、思うとも。宮田くんも思うだろ?」
英二の質問に愉快気に頷いて彼はまた酒を呑んだ。
そして機嫌よく笑うと「山っ子」の話をしてくれた。
「光一はね、山と畑が育てたようなもんだよ。まだ3歳くらいからか、ウチの山の畑をよく手伝ってね。
で、手伝いが終わるとな、ふいっと居なくなるんだよ。そんなときは光一、たいてい山で遊んでいるんだ。
けれどこいつはね、絶対にどの山で遊んだとか言わない。そんな調子で朝まで帰らないで、ずっと山にいたこともあるよ」
「朝まで、」
思わず訊きかえした英二に、国村の祖父は愉快そうに頷いてくれる。
愉しげな目を英二の隣で飄々と食事している孫へ向けて、教えてくれた。
「そ、朝までだよ。最初は9歳の時だったかな?
晩飯になっても帰ってこない、でもまあ腹が減ったら帰るだろうって、わしらは思ったね。
ところがちっとも帰らないでな?どうしたもんかと思ったんだよ。で、朝になったらね『朝飯は?』って帰って来たよ」
最初の朝帰りが9歳、しかも祖父母は大して動じないで待っていた雰囲気でいる。
なんだか大らかな家なんだな?そんな感想も国村らしくて英二は笑った。
そんな英二を見て国村の祖父母は嬉しそうに笑って、また話してくれた。
「光一はね、山に行ったら満足するまでは、絶対に帰らない子だったのよ。
だからね?最初の朝帰りの時も、きっとまだ山にいたいのだろうって、私たちは思ったの。
それで朝になって帰ってきたからね、朝ごはん食べさせながら、夜はどうしていたのか訊いてみたらね?
光一は『木と話していたよ』って笑って言うのよ。あとは何にも言わないで、笑っているだけ。ね、光一?覚えてるでしょ、」
「うん?まあね、」
からりと笑って応えると、国村はまた食卓のものに箸つけて満足げに口を動かした。
朝まで山にいて夜はどうしていたのか?たぶん国村が前にも言っていた「山の秘密」の領域だから言わないのだろう。
きっと大切な「秘密」なのだろう、なら静かにそのままで大切にさせてやりたい。
こういう「秘密」なら自分は好きだ、祖父母が話してくれる友人のエピソードを楽しく聴きながら英二は優しい想いに微笑んでいた。
そんなふうに温かい食事を終えて風呂を借りると、酒と蕎麦猪口2つを持って国村の部屋へとあがった。
豪農らしい黒栗の梁や床が美しい白と焦茶の空間は清々しい、清澄で古材の温かみある雰囲気は国村らしくて英二は微笑んだ。
きちんと片付いた簡素な部屋には、雪山の写真が窓のように額縁に収められ白銀と青空を魅せている。
田中や国村の父、そして国村自身が撮影したという写真たちは、まばゆい雪山の荘厳な空気が美しい。
きれいだなと眺めながら床に片胡坐で座って、差向かいに酒を呑み始めると英二は訊いてみた。
「表彰式の時、どうやって壇上でさ、あんなに何人も転ばせたんだ?」
「うん?ああ、冬山と同じ理屈だけど?」
からり笑って国村は酒を満たした蕎麦猪口を片手にご機嫌でいる。
もうすこし詳しい説明がほしいな?そう目で訊くと可笑しそうに国村が教えてくれた。
「冷媒ガスと水、それだけだよ。で、壇の床をさ、人工的に凍らせてやったんだよ、うすーい氷を張ってね」
「それってさ、おしぼりとかの瞬間冷凍するスプレーと同じ原理?」
前にWEBで見た冷媒ガスの製品を英二は思い出した。
でもどんな仕組みだろう?思っている先で国村は謎解きを始めてくれた。
「そ、あれよりね、ちょっと強力なやつが出来るんだよね。
で、靴底にさ、ちょっと仕掛けしといたんだ。前に言っただろ?俺の歩いた跡はさ、ちょっと滑落事故が増えるかなって」
「へえ、おまえ、ほんとに色々と器用だな。賞状をあの位置に飛ばしたのも、おまえだろ?」
「ま、ね。俺はね、悪戯も全力だよ?知ってるだろ、宮田だったらさ」
ある意味で思った通りの回答が楽しげに寄せられる。
今日の国村は本気で怒っていたことを考えると、これ位で済んだのは幸運かもしれない。
感心と可笑しさに笑いながら、英二は訊きたかったことを口にした。
「うん、そうだな。でさ、優勝を決めた最後の弾丸。あれはわざと『あの扉』を撃ったんだろ?」
「当然だね、」
さらっと答えて国村は酒を啜りこんだ。
底抜けに明るい目を酒に笑ませながら、こんどはテノールの声が訊いてきた。
「言っただろ?プライドを粉々に砕いてやるってさ。でも俺の真意はそれだけじゃないね、おまえには解っているんだろ?」
やっぱり『あの扉』に弾丸を埋め込んだ理由は2つある。
きっと自分と同じ考えで、このアンザイレンパートナーは狙撃したのだろうな?思ったままを英二は言った。
「あの場所を通るとき、あの弾丸を必ず見ることになる。ひとつには『あの扉』に対する侮辱として。
そして、あの弾丸を見ることで周太が心の支えに出来るように、おまえと俺の存在を周太に想い出させること。じゃないかな?」
静かに微笑んで訊いた英二に細い目が満足げに笑いかける。
満足げに笑いながらテノールが楽しげに透った。
「正解、」
そのとおりだと同意を表明する笑みを英二に投げて国村は酒を呑んだ。
ふっと香る吐息をついた口が愉快そうに笑った。
「やっぱり解るんだね、おまえはさ?俺たち、体格バランスだけじゃなくて、ほんと考え方の相性もイイな。
やっぱり宮田が、俺の唯ひとりのアンザイレンパートナーだ。あんな場所に立っても意思の疎通が出来ている、文句なしだね」
底抜けに明るい目が温かに笑って英二を見つめてくれる。
まだ出逢って5ヶ月足らず、けれど国村と英二は一緒に山岳救助の現場と山に立ち命綱を共にしてきた。
その度ごとに「確信」が深まっていることを国村は率直に今日も告げてくれる。
これは自分も同じ想いだろう、きれいに笑って英二は頷いた。
「ありがとな、俺もそう想うよ。でも俺はね?
まだ国村の技術にも経験にも遠く及ばない、並ぶなんておこがましいよ。
でも必ず俺は、おまえの専属レスキューに相応しい力をつける。そして誰もが納得するようなアンザイレンパートナーになるよ」
素直に笑って英二は頷きながら今日はじめて会った蒔田を思った。
この警視庁で幹部になった今も、謙虚なまま「山ヤの警察官」に誇りを持っていた姿は自分もこうありたいと思える。
自分も今日のこの謙虚な想いを忘れずに山ヤの誇りに立ち続けていたい、想いに微笑んだ英二に国村が愉しげに笑いかけた。
「おう、信じてるよ?ま、もう今日さ、ほぼ公式に俺のパートナーに決まっちゃったけどね。
たぶん北岳の前には書類が来るよ。で、クライマー任官の同意書とか山岳会登録してさ、決まりだね。生涯かけて山ヤの警察官だ」
「うん、生涯ずっと俺は、山ヤの警察官でいたいよ。そして国村のアンザイレンパートナーをずっとやる。約束だ、」
まだ卒配期間5か月目、警察学校入校から1年経っていない。
それでも自分はこの進路に駆けて誇りを懸けることを決められる、もうその確信は据わっている。
この道に立つことが周太を援けられる道となる、そして自分はこのパートナーが大切だ、だから命も生涯も懸けられる。
きっと約束だよ?そう微笑んだ英二の笑顔に、底抜けに明るい目が愉しげに笑いかけた。
「俺たちの約束だね、しかも公式文書で俺たちは公認パートナーになる。
そしたらさ、み・や・た?俺たち、もうプライベートでも仕事でもさ、一生ずっと離れられない仲になっちゃうね?」
「そうだな?でもさ、なんかその言い回し、ちょっと嫌だな」
ずっと一緒なら自分は出来れば周太がいいな?そんな率直な自分の感想に英二は微笑んだ。
過ちを犯した自分は償いのためにも今は、周太と恋人として接することはしない。
償いと、そして周太の父の遺志を探すために、自分は今は周太の「父」の立場で見つめることを決めている。
この立場がいつ終わるのか、その先がどうなるのか。まだ解らない、けれど周太が望むなら一生ずっと傍にいて離れたくない。
それが一生ずっと恋人や伴侶ではなく「父」や保護者の立場であっても構わない、ただ傍にいて支え守ってやりたい。
たとえどうあろうとも、愛してる想いに嘘はつけない。
ただ尽くし支えて、幸せな笑顔が見られたらそれで良い。
そんな穏やかな想いに微笑んだ英二を見て、底抜けに明るい目がすこし深くなった。
深い目がすぐ悪戯に閃いて国村は、蕎麦猪口を盆に置くと長い腕を伸ばし、背後から英二の体を固めて笑った。
「まったくさ、きれいな笑顔だね、宮田。
最高の別嬪でエロいおまえがさ、公私とも俺の専属パートナーなんてホント嬉しいよ。一生可愛がってあげるからね、み・や・た」
可笑しそうに笑いながらテノールの声が囁きに媚びふくませた。
こんなふうに国村は、お得意のエロトークで英二のかすかな寂しさを一緒に笑い飛ばそうとしている。
国村は英二の周太に対する大らかな想いと寂しい想いをよく解ってくれている、そのために国村は数日前に御岳の河原で泣いた。
そんな国村の気持ちが自分にはよく解る、きれいに微笑んで英二は肩越しにふり向いた。
「褒めて可愛がってくれるのはさ、うれしいんだけど。でもさ、なに抱きついてんだよ?」
「うん?このほうがさ、温いだろ?ちょっと寒いなあって思ってさ、」
「うそつけ、寒くないよ、ストーブついてるだろ?なんの悪戯企んでるんだよ、」
この男の悪戯ならきっと愉しいだろうな?
可笑しくて肩越しに笑いかけると底抜けに明るいは真直ぐ英二を見つめてくれる。
その眼差しが真剣で、どこかもどかしげに感じられた。英二はふっと訊いた。
「どうした、国村?言いたいことあったらさ、言えよ?」
訊きながら英二は長い腕を伸ばすと酒を満たした蕎麦猪口を床の盆に置いた。
(to be continued)
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第35話 予警act.5―side story「陽はまた昇る」
青梅署の観覧場所へ戻ると後藤がゼッケンを外して待っていた。
他の補欠ふたりも既に外し終えて、寛いだ雰囲気に3人で愉しげに話している。
戻ってくる英二を見つけると後藤が嬉しげに手招きで呼んでくれた。
「よかったよ、宮田。もう始まるからな、探しに行こうかと思っていたよ」
「あ、すみませんでした。ちょっと外の空気吸ってきたんです」
素直に謝る英二に構わんよと笑って後藤が隣を勧めてくれる。
そして後藤の隣に英二が立つと愉しげに後藤が教えてくれた。
「宮田、今日はな?おまえさんに会ってほしい男がいるんだ。
駐車場での短時間だが、ヤツは時間がとれなくてなあ。また改めて話す時間はとるが、まずは今日、この場で会ってほしいんだ」
地域部長蒔田警視長。
警視庁全所轄を統括する地位、警視庁ナンバー3の階級を持つ幹部。
開会式で国村に「賛同」の拍手をおくってくれた、警視庁山岳会副会長を兼任するノンキャリア出身の山ヤの警察官。
きっと彼のことを後藤は言ってくれている。
さっき国村が推理した通りにやはり、このために後藤は英二をこの場へと連れてきたかったのだろう。
この面会が英二の進路を決定する、そして周太を守る為の立場と権利を得ていく土台初めとなるだろう。
いま動き出す自分の運命に微笑んで、きれいに英二は頷いた。
「はい、よろしくお願い致します」
「こちらこそな、よろしく頼むよ。きっとね、おまえさんも好きな男だ。そしてヤツはおまえさんを好きだろうよ」
素直に頷いた英二をうれしそうに見て、後藤は大らかな目を愉快に微笑ませた。
後藤に笑い返しながら何げなく会場を見渡すと「あいつ」がさり気なく視線を会場に走らせる姿が視界に映った。
たぶん「あの扉」の前で遭った『ココアの缶の男』を彼は探している、けれど彼は英二だとは気づけないだろう。
さっきの英二と今ここに立つ英二では気配が全く違うから。
さっき英二は雲取山麓のブナの木と呼吸を合わせ、自分の気配をあの森の空気に変えてしまった。
こういう「気配を変える」ことを英二は秋に雲取山麓を国村と巡視中、ツキノワグマの「小十郎」に出会ったとき教わっている。
山では時に気配を潜ませて、山に住む動物の邪魔をしないことが礼儀であり、互いの静穏を守る「山」のルールだった。
それを使って英二は「正体不明の男」として彼の前に立ち、ココアの缶を見せつけて微笑んだ。
あの男の視線が第10方面からこちらへとやってくる、そして彼の視線は英二を見たけれど気づかずに通り過ぎた。
ほら、やっぱり俺のことは掴まえられないね?ちいさく笑って英二は前髪を透かして彼を観察した。
どこか途惑いと焦り、混乱が彼のようすから強くなっていくのが英二には解ってしまう。
きっと彼は「13年前の亡霊」に遭った気持ちだろうな?可笑しくてちいさく英二は微笑んだ。
周太の父と英二は顔の造りは似ていない。
けれど周太の父の同期だった安本や、後藤副隊長によると笑顔の雰囲気が時おり似ているらしい。
遭難救助現場で遺体収容となると英二は憂いがちの笑顔になってしまう、そんなとき後藤に「湯原と似ている」と言われる。
さっき「あの扉」の前で彼と出遭ったとき、英二は扉の向こう側と周太の通る道への陰鬱な哀しみに微笑んだ。
そんな英二に声を掛けられた瞬間の彼はまさに「亡霊に遭った」ような顔で機先を制されていた。
この男もそう、「あの扉」の世界の住人は「ココアの缶を持った男」にすこし脅かされたらいい。
13年前の春の日までココアの缶をよく持っていた男、その存在を感じれば周太の扱いを粗雑には出来ないだろうから。
こんなふうに自分は「周太の父」の想いを抱いて、この警察組織で周太を守っていくだろう。
今日この大会で周太の進路はほぼ確定する、その哀切を見つめて自分はここで見守った。
そして自分もまた周太と同じように今日この場で、2つの側面の運命が決まっていく。
この2つの側面の鍵は「周太」そして国村が並び立つ。この運命すらも自分は結局このために利用していくだろう。
おだやかに心に据わっていく覚悟と意志を見つめながら英二は、そっとシャツ越しに合鍵にふれて真直ぐ前を見た。
視線の先、壇上を見あげると幹部達がもう並んでいる。
そして閉会式の開始が告げられ、閉会の次第が進み始めた。
進んでいく閉会の次第のなか、英二は周太と国村の横顔を見つめた。
これから表彰されるふたりは最前列に並んでいる。
穏やかな静謐の表情と底抜けに明るい誇らかな自由の顔と、ふたりらしい表情が対照的だった。
満点優勝で並んだ2人はどちらから先に表彰台へ昇るのかな?そう見ている先で次第は表彰式へと移って行った。
「それでは表彰式を行います、センター・ファイア・ピストルの部、優勝者2名。壇上へと上がりなさい」
言葉に国村が軽く頷いて「先に行きな?」と周太へ掌を延べて先を譲った。
すこし遠慮がちな顔を周太が見せると、笑って国村は小柄な背中を前へ押し出した。
そして周太を先にして壇上へあがり、賞状授与も先に立たせて国村は微笑んだ。
その様子を見て警視総監は周太の賞状を受けとり読み上げた。
「表彰状、湯原周太殿。警視庁けん銃射撃競技大会において優秀な成績を修め…」
読み上げられる賞状の前に佇む小柄な背中は静かだった。
その背中に向けられる視線を英二は瞳の端に捕えながら心裡で嘲笑った。
さっきの競技中に比べれば「あいつ」の視線は随分とおとなしくなっている。
たぶん「あの扉」の前で英二と、「亡霊」と遭遇してしまったことが遠慮を生んでいるのかもしれない。
彼もきっと周太の父を知っている、だから「ココアの缶」に反応して英二を問質そうとした。
あの、英二と目があった瞬間の、機先を制された驚きと亡霊でも見るような怯懦がひらめいていた顔。
きっと彼は上手に表情を隠したと思っていただろう、けれど英二には解ってしまう。
先ほどの遭遇は英二も意図していなかった、けれど、どんな偶然でも周太を守る方へ少しでも傾くなら良い。
やさしい想いに微笑んだ視線の向こうで、小柄な背中は端正な姿勢で賞状を受けっている。
そして踵を返し階段を降りようとした黒目がちの瞳が、英二の視線を見つけて微笑んだ。
―…英二?見ててくれたよね、
真直ぐに微笑んだ瞳からちいさな言葉が聞こえて英二は微笑んで頷いた。
ほんの一瞬の見交わし合いの時、けれど温かで英二は嬉しかった。
嬉しく見守る先で周太は、壇上から降りて選手の列に戻っていく。
良かったなと微笑んだ先で今度は国村の表彰が始まった。
「表彰状、国村…光一殿、」
いま「国村」の後で一瞬の間があった。
なんだろうと見ている英二の横で可笑しそうに後藤がちいさく笑っている。
その様子に英二は思い出し納得に微笑んだ。
去年の春先に国村は「勲章をいっぱいつけた人」が奥多摩へ視察に訪れたときに案内役を務めている。
そのときは積雪があった、けれどその男は注意を聴かずアイゼンを履かないで転び滑落しかけた。
それを国村に責任転嫁しようとした男はキツイお灸を国村に据えられてしまった。
この恥を黙秘させたい男の意図から、昇進試験で巡査部長になったばかりだった国村を特進で警部補に任命している。
そのとき以来の再会が今まさに壇上で、表彰状1枚をはさんで行われているのだろう。
きっと「勲章をいっぱいつけた人」は悪夢が蘇ったような想いだろうな?
そんな同情を寄せて眺めている先で賞状の読み上げが終わった。
そして国村へと賞状を授与しようとしたとき、ぱん、と賞状が警視総監の斜め後方へと飛んでしまった。
「ずいぶんとイキの良い賞状みたいですね?」
テノールの声が楽しげに会場に透って笑っている。
笑いながら国村は壇上のすこし奥まった場所へ進み、すっと端正な姿勢で片膝をついた。
そして賞状を拾いあげるとまた立ち上がって、幹部席へ向き直り姿勢を整えた。
「横切る無礼を失礼いたしました」
端正な敬礼をおくると国村は、警視総監の立つ演台の前に戻り会釈すると微笑んだ。
そして儀礼通りの持ち方をして真直ぐ立つと、警視総監を一瞥して階段へと踏み出していく
降りていく国村の底抜けに明るい目が笑って、かすかな一瞬だけ英二に目配せを送ってよこした。
これは何か意味があるんだろうな?
考えながら見ている壇上で、国村と入替わり階段を昇った3位受賞者が壇上で転んだ。
衆目を集める壇上で転ぶのは心身とも痛そうだな?
素直な同情を寄せながら見ている先で、今度は制服警察官の部の表彰式が始まった。
そしてまた壇上に上がった途端に滑りかけ、講演台に寄りかかると選手は踏みとどまった。
また転びかけたな、そう見守っていると今度は2位の選手も壇上で転んだ。
どうもおかしい。
なぜ3人も立続けに転ぶのだろう?こんな偶然なんてあるものだろうか。
怪訝に見ている先で選手達は皆、軽く滑りかけまた転んでいく。
―…賞状授与とかはさ、絶好のチャンスだな
ただ俺の歩いた跡はさ、ちょっと滑落事故が増えるかな
もともと滑りやすいよねえ、ああいう壇上ってさ。まあ何人すっ転ぶかはね、その日によって違うよな
武蔵野署へ射撃の練習に行くミニパト車中で「当日なんとか楽しむ努力の手間」を国村は話していた。
どうやら国村は「手間」を省かなかったらしい、そんな状況が壇上で繰り広げられていく。
たぶん周太を先に壇上へ行かせた意図は、これに巻き込まない為だったのだろうな?
納得しながら困ったなと微笑んでいると横から後藤が、ごく低めた声で英二に訊いてくれる。
「…宮田?おまえさん、この状況をな、どう思うかい?」
「たぶん、副隊長と同じこと思っています」
可笑しくて笑いを飲みこみながら英二は答えた。
そして答えながら1つの心配を壇上の1名へ向けていた。
―…勲章がいっぱいついている人はさ、一個くらい軽くした方が体に良いよな。ねえ?
うん、賞状授与とかはさ、絶好のチャンスだな
あのとき話していた「当日なんとか楽しむ努力」はこのことがメインだった。
きっと警察組織に対して本気で怒った国村は努力の手間を惜しまなかったのだろうな?
確信しながら見つめる先で表彰式が終わり、警視総監が自席へ戻ろうと斜め後ろへと歩を進めた。
がったん、 大きな音響と一緒に警視総監は転倒し、プライドが滑落した
警視庁けん銃射撃競技大会。
その最後を飾るはずの閉会式の壇上1点に視線が統べられた。
全102署・第10方面と本部その全てから集まった警察官全員の面前で、その頂点に立つ男は呆気なく転んだ。
そうして「勲章がいっぱいついている人」は転倒の衝撃に、勲章が1つ外され落っこちた。
やっぱりやっちゃんたんだな?
予想通りの展開に英二は心裡に大笑いしながら首傾げ、介抱に慌ただしい壇上を見つめた。
こんなこと可笑しくて仕方ない、けれど転んだ心身への受傷状態がレスキューとして心配になる。
きっと脈拍は早く掌は汗ばんで冷たくなっている、高血圧だとまた心配だ、きっと右の肩と大腿部に軽度の打撲、でも大丈夫だろう。
そして「存分にやってこい」と国村にGOサインを出したのは自分だったと想い出し、すこし英二は困った。
自分は教唆犯になるだろうか?
「…なあ、宮田?あれはな、そういうことかね?」
大らかな目で笑いながら低い声で「困ったもんだな」と後藤が微笑んでいる。
きっと国村が「なにかやる」予想はしていただろう、けれどここまで徹底するとは思わない。
でもいまは何を言っても仕方ないだろう、微笑んで英二は短く答えた。
「はい、」
短く答えながら英二は自分のポジションに潜む意外な影響力を考え込んだ。
この競技大会で国村は「山」に育まれた能力を使い、怜悧な論破と能力の誇示で「悪戯」をしかけ警視庁を制圧した。
それは純粋無垢な怒りを容赦なく叩きつけた結果だろう、その怒りを英二も肯定したことで国村は一切の手加減を止めたらしい。
この大胆不敵な友人のアンザイレンパートナーであることは、どうも責任が大きいらしい。
こんどからもっと慎重に発言しよう、そんな反省と約束を自分にしながら英二は閉会式を最後まで見届けた。
すべて終わって後藤たちと戸外へ出るとき、新宿署の先輩達と歩いていく周太に会えた。
すぐに気がついて周太は先輩に断りを入れると、青梅署の皆といる英二と国村の許へ駆け寄ってくれる。
そして周太はまず後藤副隊長へ挨拶をした。
「おひさしぶりです、先月はありがとうございました、」
「湯原くん、こちらこそだよ。先月は助かった、ありがとうな。
そして優勝おめでとう。ずっと見させてもらったよ、きれいな姿勢でなあ、本当にすばらしかったよ。君の誠実さがな、見事だった」
大らかに温かな目で笑って後藤は率直に賞賛と祝辞を周太に贈った。
その眼差しは懐かしさと哀切に温かい、周太の父とは警視庁山岳会の先輩後輩として親しかった後藤は周太に友人の姿も見たのだろう。
そんな温かい率直に褒められて周太は、気恥ずかしげでも嬉しそうに微笑んだ。
「はい、ありがとうございます。でも、国村さんのスピードに比べたら全然出来ていません」
「いいんだよ、湯原くん。君の射撃はね、君だけのスタイルだろう?それになあ、こいつの射撃はね、クマ撃ち用だから」
笑って国村の肩を叩きながら後藤は周太を励ましてくれる。
今日の競技会は後藤にとって、国村の両親と周太の父と、若くして逝った友人たちの代わりに遺児を見守る日でもあった。
きっと後藤は警察官である以上、今日の結果が周太の進路にもたらす不安を知っている。
それでも大切な友人の遺児2人の優勝を見守ったことは後藤にとって喜びだろう、こんな後藤の実直な温かさが英二は好きだ。
そんな後藤に周太は素直に頭を下げて微笑み返すと、今度は国村と英二に向き合った。
「国村、優勝おめでとう。ほんとうにね、すごかった。俺も頑張りたいって思えた、よ?」
微笑んで国村を見上げる周太の顔はすっきりとして楽しげでいる。
心から整理がついている、そんな落ち着きが解って英二は嬉しかった。
そんな周太を底抜けに明るい目で温かに見つめて、けれど笑って国村は率直に思う所を言った。
「ありがとうね。俺もさ、眼福だったよ?ストイックな湯原は色っぽくてさ。
もし競技中に見えたら、マジあぶないとこだったよ?ブースの壁があってよかったって、俺は初めて思ったね」
「…そういうことここでいわれてもほんとこまるから…こういうとこでは、ね?」
術科センターだろうがお構いなしのエロトークに、素直に反応していく周太の首筋が赤らんでいく。
こんな様子が可愛いなと見守っている英二に、見上げた黒目がちの瞳が訊いてくれた。
「英二?ずっと、見ててくれたね…俺、出来ていたかな?」
「大丈夫、周太はね、ちゃんと出来ていたよ。お父さんも見てた、きっとね」
きれいに笑って英二は「ほんとうだよ」と目でも答えた。
そんな英二の笑顔にうれしそうに笑って、周太はまた新宿署の輪へと戻っていった。
小柄な後姿を見送ると、英二たち青梅署も往路と同じ2手に分かれて駐車場へと向かった。
駐車場へ着くと青梅署パトカーの前で初老の男がコート姿で佇んでいる。
その姿を認めると後藤副隊長が嬉しげに笑って手をあげた。
「よお、久しぶりだなあ、蒔田」
「はい、後藤さん、ご無沙汰しています。山井くんもお元気そうですね。国村くん、優勝おめでとうございます」
お互いうれしそうに旧交の挨拶を交わしながら、蒔田は気さくに国村にも笑いかけている。
いつもの底抜けに明るい目で笑って応え、国村は頭を下げた。
「はい、ありがとうございます。蒔田さん、開会式はありがとうございました」
「いや、こちらこそ礼を言いたいです。山ヤの警察官を代表してくれて本当にありがとう、うれしかったです」
あかるい声で笑って蒔田は国村に頭を下げた。
ほんとうに蒔田は気さくで謙虚な山ヤらしい人柄のようだった、そんな蒔田に国村は素直に頷いて微笑んでいる。
その国村と並んで見ている英二を振り返ると、後藤は蒔田に言った。
「蒔田、彼がよく話している宮田だよ。吉村にも好かれてな、警察医の手伝いまでしてくれている」
「はい、吉村先生にも伺っています。初めまして、宮田くん。地域部長の蒔田です、警視庁山岳会の副会長をさせて頂いています」
穏やかに微笑んで英二に握手を求めてくれる。
こういうフランクな幹部は警察組織では珍しいだろう、まず敬礼をすると英二は素直に握手をして微笑んだ。
「初めてお目にかかります、青梅署山岳救助隊所属の宮田です」
「うん、伺っている通りですね。誠実で、きれいな笑顔をされている。これじゃあ国村くん、君は大好きでしょう?」
率直に英二を褒めてくれながら蒔田は国村に笑いかけた。
笑いかけられて国村は頷くと、いつもの調子でからり笑って答えた。
「はい、蒔田さん。俺のアンザイレンパートナーは宮田だけです。だってね、この俺のフォロー出来るヤツは少ないでしょう?」
「そうですね?うん、いい信頼関係が出来ている、なるほど」
愉しそうに頷くと蒔田は後藤に笑いかけた。
「後藤さん、仰る通りだと思います。私の方からも人事部に掛けあいましょう、」
「ああ、よろしく頼むよ?さて、では本人に聴いてみよう、」
大らかな目で笑って後藤は英二を真直ぐに見た。
おだやかに微笑んで英二が見つめ返すと後藤は言ってくれた。
「宮田、こんな駐車場での話で済まないが、この蒔田が時間が無くてな。聴いてくれるかい?」
「はい、なんでしょうか?」
心裡に1つ呼吸して英二は後藤の深い目を真直ぐに見つめた。
見つめた目は楽しげに笑って、率直に話してくれた。
「おまえさんをな、警視庁のクライマーとして正式に任官させたいんだ。
そして警視庁山岳会に正式に所属してくれ。宮田にな、国村と一緒に最高峰の踏破を始めてほしいんだ。
クライマーの警察官として山岳レスキューのプロを目指してほしい、そしてトップクライマーになって国村の踏破を援けてほしいんだ。
宮田はな、まだ卒配期間で山ヤの年数も浅いが、国村の信頼が固いよ。そして素質がある、努力を積んで山と任務に向き合っている。
だから、おまえさんの素質と姿勢に俺たち山岳会は懸けたい、国村のパートナーをお前さんに決めたいよ。さあ、宮田の意見はどうだい?」
クライマーとしての任官。
それは山ヤの警察官として生涯を生きることを意味している。
山に廻る生と死に「人間の尊厳」を守るため自分の生命と誇りを懸け、山の峻厳な危険に立ち続けること。
そして最高のクライマー国村と完全に並んで、世界最高の危険地帯「最高峰」の頂点に共に立ち続けることを選ぶ道だった。
いま周太を廻る国村との想いの交錯がある、けれど最高の山ヤで一番の友人と並ぶ権利は手離せない。
こんな自分はまだ山ヤの道に立って半年も経っていない、それでも信じて最高峰の夢を懸けようと言ってもらえる。
こんな自分でも求められ信頼され、可能性を見つめてもらえる。この外見だけじゃなく体ごと意志と心を認めてくれている。
この喜びたちが最高の危険と背中合わせであっても自分は迷うことは無い、真直ぐな想いに英二は頷いた。
「はい、お願いいたします」
短いけれど明確な意思表示に英二は誇らかに微笑んだ。
その笑顔に後藤と蒔田が楽しそうに頷いてくれる、隣からは国村が肩をごつんとぶつけて笑った。
「よし、宮田?これでね、俺たちは名実ともに公私ともアンザイレンパートナーだ。
これでもう、誰にはばかることなく俺たち、ずっとこれから一緒だよ?よろしくね、俺の生涯のアンザイレンパートナー」
底抜けに明るい目が愉しげに笑っている。
笑って頷きながら英二は答えた。
「うん、よろしくな。でも『誰にはばかることなく』とかはさ?ちょっと…違うんじゃないか?」
「なにが違うんだよ?じゃあなにさ、俺たちってさ、誰かにはばかる必要があるわけ?」
「う、ん…なんだろ?ニュアンスの問題?」
普通は「誰にはばかることなく」なんて恋人同士で使うんじゃないのかな?
この疑問をうまく国村に言えなくて英二は笑いながら困った。
そんなふうに笑いながらやりとりする国村と英二を眺めて、後藤と蒔田は愉しげに笑った。
「な、蒔田?宮田だとな、国村はこんな感じでリラックスするんだよ、冬富士でも仲良く帰って来た」
「はい、良いですね。これだったら、難所でも一緒に越えられますよ、きっと」
そんなふうに笑って頷きあう後藤と蒔田は、山ヤの警察官の親しい先輩後輩同士そのものだった。
そうして暫く話すと蒔田は青梅署の4人に端正な礼を送ってくれた。
「では、そろそろ戻らなくてはいけません。宮田くん、近々に書類が届くかと思います、お手数ですがサインなどお願いします」
「はい、よろしくお願い致します」
きれいに大らかな笑顔を英二は敬礼と一緒におくった。
そんな英二の顔を見て蒔田はうれしそうに笑ってくれた。
「ほんとうに君は、良い笑顔をしますね。こんどはお酒もご一緒したいです、またお願いしますね」
そう笑って蒔田はパトカーに乗り込んで自分の職場へと帰って行った。
都心方向へ戻っていく姿を見送ると、英二達も国村の運転するパトカーに乗りこんだ。
そうして青梅署へと戻る車中で、後藤が愉しそうに言ってくれた。
「宮田。おまえさん、蒔田に気に入られちゃったな?あいつ、きっと本当に酒を誘ってくるよ、一緒に呑んでやってくれな?」
「はい、いろんな山のお話が伺えそうですね?」
素直に頷いて英二は答えた。
頷く英二に笑って後藤はそうだなと言葉を続けてくれる。
「そうだな、あいつはね、いろんな山を知っているから愉しいよ。でもな、たぶん国村も一緒だからなあ、ちょっと宮田は大変かもな」
「うん?なんで俺が一緒だと大変なんですかね?」
「だってな、おまえ場所とかお構いなしで自分のペースだろう?真面目な宮田はな、おまえの分まで気を遣って大変だよ」
後藤の言葉に国村が聞き咎めて笑い、後藤がまぜっかえしている。
それを笑って訊きながら英二は、今日の自分に起きた転換を心裡しずかに考えていた。
このことは近いうちに周太と周太の母には話しておく必要があるだろう。どう話そうと考えながら英二はシャツ越しふれる合鍵に微笑だ。
その晩、英二は以前の約束通り国村に酒をおごった。
この大会出場を嫌がっていた国村に愉しみを作ろうと「大会後は酒を飲ませる」と英二は約束をしていた。
その約束通りに英二は酒を買い、そして初めて国村の御岳の家を訪れた。
いつも国村の祖母は差入にと、心づくしの重箱を国村に持たせては英二や藤岡にもご馳走してくれる。
すでに藤岡は訪問して礼を述べているが、英二は個人訓練や吉村医師の手伝いなどで時間が取れず、ずっと気にしていた。
そんな英二に国村は、大会の結果を祖父母に報告しがてら帰りたいと提案してくれて決まった訪問だった。
こんなふうに友人の家に泊まりで遊びに行くことは英二には初めてになる、すこし緊張して英二は国村家の門を潜った。
「さあ、たくさん食べてね?」
そう言って国村の祖母は、重厚な栗材の食卓いっぱいに惣菜を並べて英二をもてなしてくれた。
祖母と言ってもまだ60代で孫の年の割に若い。そんな彼女は楽しげに英二の御岳での評判を話し始めた。
「宮田くんね、すごく評判良いのよ?やさしくって、しかもすごいイケメンでしょ?
だから羨ましがられるのよ、光一の友達だなんていいわねって。一緒に食事して泊まって貰って、また自慢の種が出来たわ」
あかるいトーンの話し方は年齢より若くて、祖母と言うより母親のようだと英二は思った。
その隣で国村の祖父は楽しげに話を聴きながら、たまに悪戯っ子のような目で英二に笑ってくる。
温かい雰囲気がうれしいと思いながら、惣菜の心づくしに遠慮なく箸をつけて英二は微笑んだ。
「ありがとうございます、でも、なんか申し訳ないですね?もし今日、俺、ガッカリさせたらすみません」
「がっかりなんかしないわよ?まあ、そんなこと言うなんて、可愛いわー、光一と大違いね」
朗らかに笑って英二に「お替りは?」と掌をさしだしてくれる。
ありがたく茶碗を差し出す隣から、からり笑って国村が言った。
「だろ?こいつはね、そりゃ真面目で可愛い別嬪なんだよ。不真面目な俺とは違うね。
だから比較するんじゃないよ、ばあちゃん。だいたいさ、こういう俺に育てちゃったのはね、ばあちゃんだろ?」
「あら、あんたはね、勝手に山で育っちゃったのよ?だから私の責任じゃないわね。ねえ、あなた?」
急に話をふられて国村の祖父は、蕎麦猪口で呑んでいた酒に軽く咽た。
すぐに治めて軽く笑うと悪戯っ子な目で彼は笑った。
「うん、そうだな。光一は山っ子だからなあ?わしらの責任ばっかりじゃないね。
ま、そんな山っ子でもさ、警視庁の射撃大会で優勝できるんだからな。山っ子もまあ、大したもんかな。ねえ?」
どことなく国村と似た話し方で笑って、また酒をひとくち飲みこんだ。
この祖父が国村にクマ撃ちを教え込んだと聴いている、きっと山でのこともよく知っているのだろう。
すこし訊いてみたいな?英二は口を開いた。
「山っ子、おじいさんもそう思われるんですか?」
「うん、思うとも。宮田くんも思うだろ?」
英二の質問に愉快気に頷いて彼はまた酒を呑んだ。
そして機嫌よく笑うと「山っ子」の話をしてくれた。
「光一はね、山と畑が育てたようなもんだよ。まだ3歳くらいからか、ウチの山の畑をよく手伝ってね。
で、手伝いが終わるとな、ふいっと居なくなるんだよ。そんなときは光一、たいてい山で遊んでいるんだ。
けれどこいつはね、絶対にどの山で遊んだとか言わない。そんな調子で朝まで帰らないで、ずっと山にいたこともあるよ」
「朝まで、」
思わず訊きかえした英二に、国村の祖父は愉快そうに頷いてくれる。
愉しげな目を英二の隣で飄々と食事している孫へ向けて、教えてくれた。
「そ、朝までだよ。最初は9歳の時だったかな?
晩飯になっても帰ってこない、でもまあ腹が減ったら帰るだろうって、わしらは思ったね。
ところがちっとも帰らないでな?どうしたもんかと思ったんだよ。で、朝になったらね『朝飯は?』って帰って来たよ」
最初の朝帰りが9歳、しかも祖父母は大して動じないで待っていた雰囲気でいる。
なんだか大らかな家なんだな?そんな感想も国村らしくて英二は笑った。
そんな英二を見て国村の祖父母は嬉しそうに笑って、また話してくれた。
「光一はね、山に行ったら満足するまでは、絶対に帰らない子だったのよ。
だからね?最初の朝帰りの時も、きっとまだ山にいたいのだろうって、私たちは思ったの。
それで朝になって帰ってきたからね、朝ごはん食べさせながら、夜はどうしていたのか訊いてみたらね?
光一は『木と話していたよ』って笑って言うのよ。あとは何にも言わないで、笑っているだけ。ね、光一?覚えてるでしょ、」
「うん?まあね、」
からりと笑って応えると、国村はまた食卓のものに箸つけて満足げに口を動かした。
朝まで山にいて夜はどうしていたのか?たぶん国村が前にも言っていた「山の秘密」の領域だから言わないのだろう。
きっと大切な「秘密」なのだろう、なら静かにそのままで大切にさせてやりたい。
こういう「秘密」なら自分は好きだ、祖父母が話してくれる友人のエピソードを楽しく聴きながら英二は優しい想いに微笑んでいた。
そんなふうに温かい食事を終えて風呂を借りると、酒と蕎麦猪口2つを持って国村の部屋へとあがった。
豪農らしい黒栗の梁や床が美しい白と焦茶の空間は清々しい、清澄で古材の温かみある雰囲気は国村らしくて英二は微笑んだ。
きちんと片付いた簡素な部屋には、雪山の写真が窓のように額縁に収められ白銀と青空を魅せている。
田中や国村の父、そして国村自身が撮影したという写真たちは、まばゆい雪山の荘厳な空気が美しい。
きれいだなと眺めながら床に片胡坐で座って、差向かいに酒を呑み始めると英二は訊いてみた。
「表彰式の時、どうやって壇上でさ、あんなに何人も転ばせたんだ?」
「うん?ああ、冬山と同じ理屈だけど?」
からり笑って国村は酒を満たした蕎麦猪口を片手にご機嫌でいる。
もうすこし詳しい説明がほしいな?そう目で訊くと可笑しそうに国村が教えてくれた。
「冷媒ガスと水、それだけだよ。で、壇の床をさ、人工的に凍らせてやったんだよ、うすーい氷を張ってね」
「それってさ、おしぼりとかの瞬間冷凍するスプレーと同じ原理?」
前にWEBで見た冷媒ガスの製品を英二は思い出した。
でもどんな仕組みだろう?思っている先で国村は謎解きを始めてくれた。
「そ、あれよりね、ちょっと強力なやつが出来るんだよね。
で、靴底にさ、ちょっと仕掛けしといたんだ。前に言っただろ?俺の歩いた跡はさ、ちょっと滑落事故が増えるかなって」
「へえ、おまえ、ほんとに色々と器用だな。賞状をあの位置に飛ばしたのも、おまえだろ?」
「ま、ね。俺はね、悪戯も全力だよ?知ってるだろ、宮田だったらさ」
ある意味で思った通りの回答が楽しげに寄せられる。
今日の国村は本気で怒っていたことを考えると、これ位で済んだのは幸運かもしれない。
感心と可笑しさに笑いながら、英二は訊きたかったことを口にした。
「うん、そうだな。でさ、優勝を決めた最後の弾丸。あれはわざと『あの扉』を撃ったんだろ?」
「当然だね、」
さらっと答えて国村は酒を啜りこんだ。
底抜けに明るい目を酒に笑ませながら、こんどはテノールの声が訊いてきた。
「言っただろ?プライドを粉々に砕いてやるってさ。でも俺の真意はそれだけじゃないね、おまえには解っているんだろ?」
やっぱり『あの扉』に弾丸を埋め込んだ理由は2つある。
きっと自分と同じ考えで、このアンザイレンパートナーは狙撃したのだろうな?思ったままを英二は言った。
「あの場所を通るとき、あの弾丸を必ず見ることになる。ひとつには『あの扉』に対する侮辱として。
そして、あの弾丸を見ることで周太が心の支えに出来るように、おまえと俺の存在を周太に想い出させること。じゃないかな?」
静かに微笑んで訊いた英二に細い目が満足げに笑いかける。
満足げに笑いながらテノールが楽しげに透った。
「正解、」
そのとおりだと同意を表明する笑みを英二に投げて国村は酒を呑んだ。
ふっと香る吐息をついた口が愉快そうに笑った。
「やっぱり解るんだね、おまえはさ?俺たち、体格バランスだけじゃなくて、ほんと考え方の相性もイイな。
やっぱり宮田が、俺の唯ひとりのアンザイレンパートナーだ。あんな場所に立っても意思の疎通が出来ている、文句なしだね」
底抜けに明るい目が温かに笑って英二を見つめてくれる。
まだ出逢って5ヶ月足らず、けれど国村と英二は一緒に山岳救助の現場と山に立ち命綱を共にしてきた。
その度ごとに「確信」が深まっていることを国村は率直に今日も告げてくれる。
これは自分も同じ想いだろう、きれいに笑って英二は頷いた。
「ありがとな、俺もそう想うよ。でも俺はね?
まだ国村の技術にも経験にも遠く及ばない、並ぶなんておこがましいよ。
でも必ず俺は、おまえの専属レスキューに相応しい力をつける。そして誰もが納得するようなアンザイレンパートナーになるよ」
素直に笑って英二は頷きながら今日はじめて会った蒔田を思った。
この警視庁で幹部になった今も、謙虚なまま「山ヤの警察官」に誇りを持っていた姿は自分もこうありたいと思える。
自分も今日のこの謙虚な想いを忘れずに山ヤの誇りに立ち続けていたい、想いに微笑んだ英二に国村が愉しげに笑いかけた。
「おう、信じてるよ?ま、もう今日さ、ほぼ公式に俺のパートナーに決まっちゃったけどね。
たぶん北岳の前には書類が来るよ。で、クライマー任官の同意書とか山岳会登録してさ、決まりだね。生涯かけて山ヤの警察官だ」
「うん、生涯ずっと俺は、山ヤの警察官でいたいよ。そして国村のアンザイレンパートナーをずっとやる。約束だ、」
まだ卒配期間5か月目、警察学校入校から1年経っていない。
それでも自分はこの進路に駆けて誇りを懸けることを決められる、もうその確信は据わっている。
この道に立つことが周太を援けられる道となる、そして自分はこのパートナーが大切だ、だから命も生涯も懸けられる。
きっと約束だよ?そう微笑んだ英二の笑顔に、底抜けに明るい目が愉しげに笑いかけた。
「俺たちの約束だね、しかも公式文書で俺たちは公認パートナーになる。
そしたらさ、み・や・た?俺たち、もうプライベートでも仕事でもさ、一生ずっと離れられない仲になっちゃうね?」
「そうだな?でもさ、なんかその言い回し、ちょっと嫌だな」
ずっと一緒なら自分は出来れば周太がいいな?そんな率直な自分の感想に英二は微笑んだ。
過ちを犯した自分は償いのためにも今は、周太と恋人として接することはしない。
償いと、そして周太の父の遺志を探すために、自分は今は周太の「父」の立場で見つめることを決めている。
この立場がいつ終わるのか、その先がどうなるのか。まだ解らない、けれど周太が望むなら一生ずっと傍にいて離れたくない。
それが一生ずっと恋人や伴侶ではなく「父」や保護者の立場であっても構わない、ただ傍にいて支え守ってやりたい。
たとえどうあろうとも、愛してる想いに嘘はつけない。
ただ尽くし支えて、幸せな笑顔が見られたらそれで良い。
そんな穏やかな想いに微笑んだ英二を見て、底抜けに明るい目がすこし深くなった。
深い目がすぐ悪戯に閃いて国村は、蕎麦猪口を盆に置くと長い腕を伸ばし、背後から英二の体を固めて笑った。
「まったくさ、きれいな笑顔だね、宮田。
最高の別嬪でエロいおまえがさ、公私とも俺の専属パートナーなんてホント嬉しいよ。一生可愛がってあげるからね、み・や・た」
可笑しそうに笑いながらテノールの声が囁きに媚びふくませた。
こんなふうに国村は、お得意のエロトークで英二のかすかな寂しさを一緒に笑い飛ばそうとしている。
国村は英二の周太に対する大らかな想いと寂しい想いをよく解ってくれている、そのために国村は数日前に御岳の河原で泣いた。
そんな国村の気持ちが自分にはよく解る、きれいに微笑んで英二は肩越しにふり向いた。
「褒めて可愛がってくれるのはさ、うれしいんだけど。でもさ、なに抱きついてんだよ?」
「うん?このほうがさ、温いだろ?ちょっと寒いなあって思ってさ、」
「うそつけ、寒くないよ、ストーブついてるだろ?なんの悪戯企んでるんだよ、」
この男の悪戯ならきっと愉しいだろうな?
可笑しくて肩越しに笑いかけると底抜けに明るいは真直ぐ英二を見つめてくれる。
その眼差しが真剣で、どこかもどかしげに感じられた。英二はふっと訊いた。
「どうした、国村?言いたいことあったらさ、言えよ?」
訊きながら英二は長い腕を伸ばすと酒を満たした蕎麦猪口を床の盆に置いた。
(to be continued)
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