萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 雪灯act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-05 23:15:44 | 陽はまた昇るanother,side story
交錯、真実と真相と、記憶の想い




第33話 雪灯act.5―another,side story「陽はまた昇る」

朝陽に染まる雪山は光り輝いていた。
白銀を曙光が染めていく山蔭で、周太は標的へと豊和M1500のトリガーを引いていく。
このトリガーが競技用ライフルに慣れた周太には重い。
狩猟用ライフルは競技ほど精密な射撃を必要とせず、かつ猟野での安全性の為にトリガーを重く作られている。

刻々と明るくなる視界は瞳孔の散瞳が徐々に進んでいくのだろう、昨日の黄昏よりは視界のブレが無く楽だった。
そうして標的を真直ぐ見つめて周太は5発の狙撃を終えた。
きちんと的中が出来ただろうか?そんな小さな不安を想いながら周太は拳銃へと持ち替えた。
いつもより今すこし重たく感じる「拳銃」の感触に小さなため息が零れてしまう。
あと数時間後には自分は?そんな想いに囚われかけて小さく周太は頭をふった。

…いまはテスト射手の任務を終えること、それだけを考えよう

ひとつ呼吸すると周太は真直ぐ標的へノンサイト片手撃ちに構えた。
普段から携行する自分専用の拳銃ではないけれど、全く同じモデルのリボルバー式拳銃は掌に馴染みやすい。
明度の変化していく標的を真直ぐに狙撃していく衝撃も、馴染んだ感覚になっている。
やはりM1500とは衝撃も全く違う、そして衝撃が体を抜けていく感覚に自分は本来射撃は不向きだと思い知らされる。
それでも、今日、自分はテスト射手を務め上げたい。
このテスト射手として選んでもらえた、だから英二と同じ現場に立つことが出来た。
一緒に任務に就いて、警察官としての英二の顔を見ることが出来た。

…もう、これで、いい

きらめく曙光に照らされた標的の点が黒目がちの瞳に映りこむ。
ちいさく周太は微笑んで、最後の一発を撃ち終えた。

標高1,800m地点実験場での狙撃をすべて終えて、標高1,500m地点実験場へと下山する。
アイゼンに踏む雪は昨夜より堅く締って、ざくりざくり踏む音が静かな山の朝に響いていく。
この音がどこか懐かしい。きっと父と雪山を見ようと新雪の森に遊んだ、あの日の感触の記憶だろう。
懐かしさに微笑んだ周太に、並んで歩く国村が笑いかけてくれた。

「うん?湯原くん、なんか楽しいんだ?」

足元に気をつけながら周太は横を見あげた。
見あげた雪白の顔は木洩日に艶やかな頬が紅潮している、ふと周太は首を傾げた。
底抜けに明るい目が「どうしたの?」と温かい眼差しで訊いてくれている、そんな表情に何かが引っ掛かる。
この数時間後のことを思ってしまう所為だろうか?

…やさしい温かい、きれいなひと…ごめんなさい、

やっぱり自分はこのひとが好きだ。
そっと心でつぶやいて周太は微笑んで国村に答えた。

「ん、…昔、父と雪の日に奥多摩へ来たことがあって。こんなふうに雪を歩いたな、って懐かしくて」
「ふうん、新雪の日だったのかな、いつ来たの?」
「ん、朝早くに雪が降った日で…小学校3年生の冬…今頃だった、かな?」

たしか年明けだった記憶がある。
あのとき母は「ちょっと遅めの新年会を兼ねてね、日帰り旅行なの」と出掛けた、そしてほろ酔いで帰ってきた。
そんな上機嫌の母に父は笑って「ん、夕食の支度は俺がするよ?」と言って台所に立ってくれて、周太も手伝った。
温かい父の手料理と明るい母の笑顔の記憶が懐かしい、幸せと切ない想いで周太は記憶に微笑んだ。

…お父さん、ごめんなさい…お母さん、もう、ご飯作ってあげられないかもしれない…ごめんなさい

心の裡の大切なひとへ「ごめんなさい」を告げていく。
こんなことは哀しい、辛くて痛くてたまらない。
けれど自分はそれでも唯ひとつの想いに全てを懸けたい。
唯ひとつの想いに唯ひとり想う愛するひと、その心も体も自分こそが守りたい。
その為に自分は昨夜から幾度も覚悟を重ねて、今もこうして心に祈っている。

どうか、英二を守ることが出来ますように。
そしてどうか、誰も傷つけること無く願いが叶いますように。

ただ2つの願いを祈ってしまう。
だってもう自分はすでに、この唯ひとつの想いの為に人を傷つけている。
もう自分は英二の母親を傷つけている、だからもう誰も傷つけたくない。

そして自分は知っている、英二が自分の体を大切に考えない原因は英二の母親だということも。
彼女は息子の華やかに美しい容貌と能力に理想を見つめて自慢に思ってきた。そして息子の心には向き合おうとしなかった。
けれど英二の内面は実直で物堅く直情的なまま誇り高い、そんな内面は容貌と真逆で母親の理想とは違ってしまう。
それは英二の美しい容貌に惹かれて集まる人間にも同じことだった。
そうして英二は周囲の期待通りに自分を繕って、要領の良いフリの冷たい仮面をかぶってしまった。
そして英二は母親から「無償の愛」を与えられない孤独を埋めるように、求められるままに体だけを与えてしまった。
本当は健やかで真直ぐな心の英二、それなのに時おり充たされない想いを体だけの関係に委ねて、尚更に心を傷つけてきた。
そうやって英二はずっと自分の「美しい体」に苦しんできた。

だからもし英二の母親が息子の心を見つめて「無償の愛」を注いでいたら。
きっと英二は真直ぐな心のままに生きて、繕った冷たい仮面も被らずに済んだだろう。
きっと体だけを与えるような恋愛ゲームもしないで済んだ、心を傷だらけにしないで済んだ。
けれど現実には英二は心を傷だらけにして、顔は笑っても冷たく心を閉ざしていた。

それでも冷たい仮面の底から英二は、真実の姿を眼差しに映して周太を見つめてくれた。
実直で直情的な一途な熱を持った瞳、ずっと生きる意味と誇りを探し続けている想い。
素顔のままに望みのままに生きたいと誇り高い自由が真直ぐに見つめていた。
そして英二の眼差しに自分は初めて恋をした。

そんな傷だらけの心で英二は、あの警察学校を脱走した夜に寮の自分の部屋の扉を叩いてくれた。
捨てられた犬のような、無表情で、暗い哀しみに堕ちこんでしまった瞳が痛かった。
そんな瞳で英二は自分に救いを求めてきてくれた。
だから自分こそが英二を救ってあげたい、守ってあげたい。
心を傷つける原因になった体も、この自分こそが大切に見つめて守ってあげたい。

…ね、英二?どんな理由があっても、心から望むのではなかったら、体を与えたりしないで?
 あなたの心も体も、ほんとうに大切なんだから…どうか、きれいなままでいて?

“きれいな笑顔のままでいてほしい、自由な心と体で笑ってほしい”

心の深いところから唯ひとつ願っている。
唯ひとり愛するひと、だから心から幸せに笑って生きていてほしい。
それが自分が抱いている、唯ひとつの願い。

…だから…このひとも、自分は許せない…好きなひと、それでも許せない

並んで歩いている国村を周太は見上げた。
見あげた底抜けに明るい目は、やさしく温かく笑んで周太を受けとめてくれる。
きれいな雪白の肌うつくしい顔は上品に明るくて、山岳救助隊制帽の下で愉しげに笑っている。
最高のクライマーを嘱望される才能、山ヤの誇らかな自由まぶしい「山の申し子」の純粋無垢な心。
そんな心のままに自分のことも優しく見つめてくれて、転がしもするけれど本当は温かい眼差しで大切にしてくれる。
このひとが自分は好きだ、そして英二の大切なアンザイレンパートナーでもある、大切なひと。

けれど、昨日の朝の雪崩で負った怪我に、国村は山ヤの誇りを傷つけられた。
その誇りを守る為に英二に黙秘を望んで、その黙秘と「誇りの傷」を癒すために英二の体を要求してしまった。
そのことが自分はどうしても許せない。
もう自分は英二の想いを昨夜の一夜に全身で気づかされてしまったから。

昨夜の英二は、やさしくて。
今日の早暁からテスト射手に立つ自分への気遣いが、ふれてくれる指先からやさしかった。
いつも英二は熱のままに求めてやさしくても熱い花に覆われるような烈しさで抱きしめてくれる。
けれど昨夜の英二は愛情をこめながら疲れさせないように静かに優しく抱いてくれていた。
そうやって周太の体を宝物のように大切に抱きしめて、おだやかな眠りへ安らがせてくれた。

ほんとうは英二は昨夜は、きっともっと激しい求めたい想いを抱いていた。
富士の雪崩の危険に遭って、ずっと自分を危険のさなか求めて想って、そうして生還してくれた。
そんな危険から戻った心の望むままに周太を求めたい、そんな切なさが伝わって尚更に英二の想いが切なくて嬉しかった。

…だから、わかってしまった…英二が本当に求めてくれるのは、自分だけ、だってこと

だから自分は許せない。
英二が望まない体のことを無理強いすることは、相手が誰でも許せなくなった。
きっと英二は体のことを愉しむことも出来る人、それは自分に出会う前の英二の生活からも解ってしまう。
そんな英二は本当に望まなくても、体のことを愉しんでしまえるのだろう。
そして相手が国村なら、ただ体だけとは違うから愉しみやすいだろう。そんなこと解ってしまう。
自分はまだ心は10歳と10ヶ月程度の子供、だけど英二のことは解ってしまう。

…でも、すこしでも無理強いなんて、だめ…すこしでも傷つけてほしくない。きれいでいてほしい

ほんのすこしでも、もう、傷つかないで?
自分にとっては英二の心も体も宝物だから、そして英二にとって大切な体だから。
英二が山ヤとして生きるなら、自身の体こそが山ヤの自由と誇りを守る唯一のものだから。

そして解ってほしい、国村にもそのことを。
国村は自分にとっても大切な友達だと想っている、だからどうか解ってほしい。
けれど国村のような美しい体の持ち主には、自分のこんな想いは小さい悩みかも知れない。
だから解って貰えないかもしれない、そんな可能性が冷たく心を撫でて、怖い。

そしてもし解って貰えなかったら、自分こそが危険な結果になることも解っている。
自分よりずっと恵まれた体、射撃の才能、奥多摩の山中。そのうえ逮捕術も得意だと英二から聴いている。
もし国村が本気を出したなら自分など敵うわけがない。

…こわい、でも…

雪道を下山する足取りの合間に思わず、大きくため息がこぼれてしまう。
こんな態度は気づかれてしまう、そっと周太は登山グローブで口元を覆って横を見あげた。
けれど国村は細い目を優しく笑ませて周太を見かえすと、楽しげに教えてくれた。

「ほら、もう着くよ?きっとね、宮田はいま吉村先生と標的の鑑識チェックしている。よかったら見ておいでよ?」

いつもどおりの優しい笑顔に心でほっとしてしまう。
それなのに、こんな優しい笑顔のひとに自分は酷いことをする。それが痛くて苦しくて、哀しい。
けれど周太は微笑んで頷くと吉村医師と英二の元へと足を向けた。

「おや、湯原くん?よかったらご覧になりますか、勉強家のきみは興味あるでしょう?」

すぐに気がついて吉村医師は穏やかに周太に微笑だ。
その近くでペーパーボードに書きこみながら英二も顔をあげて笑いかけてくれる。
ほんとうに良いのかな?遠慮がちに周太は訊いてみた。

「はい。でも、お邪魔ではありませんか?」
「いいえ、どうぞ遠慮せずに見てください。勉強になって良いでしょう?」

温かい勧めに周太は素直に頷いた。
英二も穏やかに微笑んで頷き返してくれる、この笑顔の近くで少しでも過ごしたい。
そんな想いも抱いて周太は邪魔にならないように測定されていく標的を見守った。

「では上腕部のデータ計測に入ります。まず橈骨と上腕二頭筋の接点、ここは貫通です」
「はい、橈骨の粉砕はどの程度ですか?」

2人は標的の弾痕を切開して、標的内部の弾道について確認作業を進めている。
人体と同じ組成と強度で作られた標的の狙撃部位ごとに筋繊維の断裂状態、骨の粉砕程度などもデータにとっていた。
ちょうど1体が終わって次の標的へ移りながら、吉村医師は周太に教えてくれる。

「こうしたデータをですね、実際の犯罪発生時には被害者と照合して、犯行状況の推定をするんです。
奥多摩は狩猟区域ですから、狙撃による犯罪の可能性も高い。そして狙撃の犯罪者は危険です、ですから備えています」

狙撃の犯罪者。
心がつきんと痛んで周太はひとつ瞬いた。けれど微笑んで吉村医師に訊いてみた。

「俺のデータは役に立ちそうですか?」
「はい、とても役に立ちます。湯原くんと国村くんの狙撃は本当に正確です、おかげで良い基準データが作成できます」
「ほんとうですか、…よかった」

ほっとして周太は微笑んだ。これは最後になるかもしれない任務だから、きちんと役目を終えたい。
それが役立ててもらえるのなら嬉しい、嬉しくて微笑んだ周太に吉村医師は温かい笑顔で教えてくれる。

「はい、本当です。ここまで見た標的はどれも同じ条件の部位のすべて、2人の弾痕も弾道も合致しています。
これはね、なかなか難しいことでしょう?すごいことだと感心して話していました、そうですよね、宮田くん?」

吉村医師に声かけられて英二がペーパーボードから顔をあげた。
そして周太にきれいに笑いかけて言ってくれた。

「はい、先生。そうだよ、周太?どれもね、みんな同じだった。ちょっとね周太、俺、嫉妬しそうだよ?」
「嫉妬?」

どうして嫉妬するのだろう?
不思議に思って首傾げると英二が笑って教えてくれた。

「だってね、周太?周太とお揃いなんだよ、あいつがさ?そんなの狡い、周太は俺だけのなのに。
俺なんか周太と同じ射撃姿勢なのにさ。それで国村はちょっと姿勢が違うだろ?その癖まったく弾痕が同じなんて、狡い」

「そう、なの?」
「そうだよ周太。ね、周太、国村を見つめないでよ?」

そう言って「絶対ダメだよ?」と目でも念押しして英二はペーパーボードへと視線を移した。
その途端に冷静でおだやかな視線になって英二は吉村医師の助手を務め始めた。

「先生、次の標的は標高1,800m地点・午前6時45分狙撃開始、射手・国村警部補です」
「はい、わかりました。では頭部から始めます、」

青梅署では首都の山岳地域という立地から都心で疲れた自殺者が迷い込みやすい。
そのため遺体の発見も多く行政見分の機会も青梅署の警察官たちは多いと聴いている
そのとき他殺遺体を自殺と誤って判断すれば、犯罪がひとつ隠匿されることに繋がってしまう。
だから青梅署の警察官には個々の鑑識知識が必要とされる、そんなふうに周太も英二から聴いていた。

…そういう現場で、英二は努力している。そして助手まで務めている、卒配4か月程度なのに

初めての行政見分をした夜、英二は泣いた。
携帯電話で繋いだ周太の隣で縊死自殺者の話をして、涙を一滴だけ流すと残りは呑みこんだ。
そんな英二は当日も翌日も食事を残さずきちんと摂った、先輩たちにタフだと褒められたよと笑っていた。
そして見分で知り合った警察医吉村の助手を、自分から進んで務めるようになった。
そうして鑑識と救急法を吉村から教わりながら、時には行政見分の立会まで助手として付き添っている。
いつも英二は周太に山の話と遭難救助の話をしてくれる、遭難死の現場にも立会ったと聴いた。
けれど行政見分はその都度はもう話さない、けれど何度か立会ったとだけは聴いている。

山に廻る生と死。
その現実を見つめて英二は山ヤの警察官として奥多摩に立っている。
山に登る人を援け危険を救い、山に死んだ人の想いを受けとめて生きている。

これが英二の望んだ生きる道と誇りの姿だと自分は誰よりも知っている。
そして望みのまま誇らかに生きる英二の姿を、きっと自分がいちばん願ってきた。
一度は見てみたいと思っていた英二の山ヤの警察官としての姿。
それを昨日から確かに見つめられて輝く姿の記憶が出来た、それが嬉しくて周太は微笑んだ。

…もう、これでいい…見られて、幸せだった。愛するひとの夢に立つ姿は、やっぱり、きれいだった

この姿を支える心も体も自分こそが守りたい。
そっと心に微笑んで周太は、作業する吉村医師の手元を見ていた。
吉村医師は前職が大学病院のER担当教授、その前は法医学教室に在籍した経験がある。
それを示すように吉村の手元はよどみなく鮮やかに作業を進めていく。

「周太、楽しい?」

きれいな低い声が話しかけてくれる。
この声が自分は本当に好き、ずっと聴いていられたらいい。
どうか今夜も聴けますように。ちいさな祈りを想いながら周太は警察官の顔のまま答えた。

「ん、こういうのって見る機会ないし、おもしろいな?」
「そっか、良かったね、周太?俺もね、この調査は初めてだからさ、おもしろいよ。一緒だね、周太」

うれしそうに微笑んでくれながら英二はペーパーボードにペンを走らせていく。
そのペンを持つ指は警察学校時代と変わらない、きれいで長い白い指だった。
けれど自分は知っている、きれいな指の長い掌は多くの想いを受けとめて、卒配4か月弱を過ごしている。
英二の、きれいな指の長い掌。どんなに自分にはきれいに見えて大好きでいるだろう。
この掌も自分が守りたい、その為なら何だって自分は出来る。
そんな想いを静かに心へ落し込みながら、周太は警察官の顔のままで、大好きな掌の記していく計測数値を見つめていた。

「湯原くん?次の始めるよ、これが終わったらさ、次の実験場へ移動するから」

テノールの透声が自分を呼びに来た。この声のひとも自分は好きだ、そして信じていたいと心から願っている。
どうか信じさせてほしい、ひとつ呼吸しながら周太は声に答えた。

「はい、今、行きます」

素直に返事をしてから、周太は吉村医師に見せて貰った礼を述べた。
それから英二の隣に立つと、大好きな笑顔を見あげて微笑んだ。

「英二、本当によく勉強しているね?…頑張ってね」
「そうかな?ありがとう、周太」

ほら、うれしそうに笑いかけて名前呼んでくれる。
きれいな笑顔が幸せに自分に笑いかけて「大好きだよ」と切長い目が言ってくれる。
どうかお願い英二、あなたの夢と誇りにずっと頑張っていてほしい。そして、きれいな笑顔のままでいて?
そんな祈りと笑顔を英二に残して、周太は国村との狙撃へと戻った。

標高1,500m地点での狙撃実験も終わり、撤収作業が始まった。
ここで撤収作業チームと別れて狙撃・鑑識・標的確保のチームだけで次の実験場に移動する。
銃火器ケースをきちんと閉じて携行すると後藤副隊長が周太に話しかけてくれた。

「やあ、疲れてはいないかい?」
「はい、大丈夫です、」

後藤の笑顔は大らかで温かい。警視庁山岳会長で警視庁随一のクライマーの後藤だけれど気さくで周太にも話しやすい。
英二も憧れの山ヤだよと話してくれる人だった。

「うん、そうか。湯原くんはな、雪の奥多摩には前にも、来たことがあっただろう?」
「はい、小学校3年生の時に…なぜ、ご存じなのですか?」

そのことは吉村に昨日と国村にさっき話したことしかない。英二にもまだ話していないことだった。
なぜ後藤副隊長が知っているのだろう?不思議で篤実な後藤の笑顔を見つめると、温かく笑って教えてくれた。

「君のお父さんはね、警視庁山岳会にも入っていたんだよ。
それでな、奥多摩に遊びに来ると、俺のいる奥多摩交番にも顔を出してくれていたんだ。
あの時もそうだったよ、12月の明るい雪空の朝だったな。お父さんが俺と話している間、湯原くんは近くの森で遊んでいたろう?」

そういえば、あの日は自分だけで森にいた時間があった。
うさぎらしい足跡を雪の上に見つけて、それを見ながらアイゼンを履いて歩いていた。
なつかしい楽しかった雪の森の記憶たち、微笑んで周太は頷いた。

「はい、うさぎの足跡を見つけて…あ、あの時って、後藤副隊長とお会いしていますか?」

ふと戻った記憶のなかで、ちいさな騒ぎがあった。
うさぎの足跡を見ているうちに自分は森の奥深くへ行ってしまった。
そして大きな木を見て嬉しくなって時間を忘れているうちに、父が探しに来てくれた。
そのときに誰か大人が一緒にいてくれた?急に戻った記憶に周太は驚いて後藤の顔を見ると、温かく笑ってくれた。

「そうだよ、湯原くん?やっと思い出してくれたな、俺はね、9歳の君にもう会っているんだ。
あのとき君は『道迷い』で遭難者になるところだったよ?でな、お父さんは本当に心配して大変だったんだ」
「はい、あの…すみませんでした、お世話になりました。そして、思い出せなくて失礼しました、すみません」

すっかり忘れていた記憶。
きっと雪の森で独り迷ったら危険だった、そして後藤は命の恩人だった。
そんな大切なひとを自分は、再会しても気付かずにいたなんて?恥ずかしくて顔が熱くなる周太に後藤は優しく言ってくれた。

「いいや、構わない。そういうわけで俺は、お父さんのことはよく知っているよ。
だからな、君にお父さんの話をして良いのか解らなかった、それで秋に会ったときは黙っていたんだよ。
でもな、吉村からもう大丈夫と聴いてな。それで今こうして話させてもらったんだ、俺は隠し事とかは苦手でなあ、」

大らかに笑って周太に温かい眼差しを向けてくれる。
父のことを知っている人がこんなに身近にいた、嬉しくて周太は微笑んで訊いてみた。

「はい、もう大丈夫です…お気遣いすみませんでした、ありがとうございました…あの、では、父の葬儀にも?」
「ああ、お通夜へと参列させてもらったよ。だから君の家にも俺は行っている。川崎だったな、」

13年前の春の日、母は通夜と葬儀を自宅で行うことに決めた。
家を愛し大切にしていた父を、斎場ではなく家から送り出したい。そう言って母は自宅葬の手配をした。
なつかしくて哀しい春の日の記憶に一緒に立ちあってくれたひと。なにか再会がうれしくて周太は端正に礼をした。

「はい。遠くから、ありがとうございました」
「いや、礼なんていいんだ。俺はね、お父さんを見送りに行きたかったんだ。
お父さんはな、本当に良いヤツだったから。いつも任務が忙しくてな、山岳会の集まりはあまり来られなかった。
けれど奥多摩で登るときはな、律儀に俺に声を掛けてくれてなあ。だから交番の2階でな、いつも一緒に酒を飲んだよ」

11月に英二と雲取山に登ったとき、周太は奥多摩交番に往復とも立ち寄っている。
そして下山のときに後藤は、ミズナラの樽で作ったというウィスキーを飲ませてくれた。
その酒を父も飲んでいたのだろうか?周太は訊いてみた。

「あの、もしかして、秋にご馳走になった、ミズナラのお酒ですか?」

訊いた周太を見て後藤の目は温かく笑んでくれる。
そして楽しそうに口を開いてくれた。

「そうだ、あの酒だよ。俺はね、湯原くん?君のお父さんと約束していたんだ。
息子さんが大きくなったらな、ここで一緒に飲ませろよ、ってね。
だから俺は驚いたんだよ。だってなあ、宮田が君を連れてきたんだから。しかも同じ警察官だ、驚いて、懐かしかった」

ね、お父さん?
お父さんの約束を英二は、知らないでも叶えてくれてるよ?
どうしていつも英二はこうやって、お父さんの願いを一つずつ叶えられるんだろう?
どうして英二は、いつも解るんだろう?

…ね、お父さん、こうやってずっと、見守ってくれているんだね?

どうしたらいいのだろう?
こんなふうに自分は守られている、けれど自分はこの後することは?
そして国村は後藤にとって大切な存在なのに?

…それでも、やっぱり、英二を守りたい。なにがあっても

だって父の大切な約束を英二は叶えてくれる。
そんな大切なひとを自分は守りたい、その為には何だってしてしまう。
けれど後藤への感謝の想いはきちんと伝えたい、きれいに笑って周太は後藤に言った。

「父との約束を、守ってくださったお酒なんですね?…きっと父は、うれしかったと思います。
そして、お通夜に来て下さったことも。父は山を、奥多摩を愛していました。
だから奥多摩から見送りに来てくださったこと、本当に、うれしかったと思います…本当に、ありがとうございました」

きれいに笑って周太は端正な礼をした。
そんな周太に後藤はうれしそうに温かく微笑んで言ってくれた。

「うん、君はね、お母さんに似ているな?でも笑った顔がね、お父さんとも似ている。
君のお父さんはな、本当に良い笑顔の男だったよ。俺はね、君のお父さんが好きだった。だから亡くなった時は悔しかった。
だからな、湯原くん?俺に出来ることは君にしてあげたいんだ。ここに1人そういう人間がいるってこと、忘れないでくれ」

そう言って大きな笑顔を見せて後藤は「じゃあまた後でな」と笑って、次の現場へ行く仕度に向かった。
その背中が広やかに大きくて頼もしくて、山ヤの誇らかな自由が静かに佇んでいた。
大きな背中を見送る周太の瞳から涙がひとつ山の雪へとこぼれおちた。

…ね、お父さん?お父さんのこと、真直ぐ見てくれてるひと、だね?

ここにも1人、父を真直ぐ見つめてくれる人がいた。
父を「殉職」に関係なく「本当に良い笑顔の男だった」と惜しんで変わらない友情を示してくれる。
そんな後藤の真直ぐな友情はどんなにか父を、母を自分を救ってくれただろう?
うれしくて周太は涙をもうひとつ零した、そして後藤へと心で哀しい謝罪をおくった。

…あなたも大好きです。でも、ごめんなさい、後藤さん…

もう自分は後藤のことも大好きでいる。
でも、そんな後藤の大切なひとに自分がこれからすることは?
けれど自分も英二を守りたい、父の夢も願いも叶えてくれる大切な英二を守りたい。
そのために自分はもう、1つの勇気も覚悟も抱いてしまっている。

…父のこと、自分のこと、本当に、ありがとうございます…そして、ごめんなさい

唯ひとりの大切な愛するひと。
どうしても守りたい、そんな想いに周太はそっと瞳を指で拭った。

「湯原くん、」

テノールの透る声に名前を呼ばれて周太はひとつ呼吸をした。
ゆっくり振向くと底抜けに明るい目が温かく笑ってくれている。

「ほら、移動だよ?でね、宮田が呼んでる。隣に来てってさ」
「はい、ありがとうございます」

微笑んで周太が頷くと、やさしく笑って国村は英二のところへ連れて行ってくれる。
歩きながら周太の足元を見て、ふと立ち止まってくれた。

「うん、アイゼンに雪が団子になってるな?ちょっと俺に掴まって、片足をあげて見せて?」

そう言いながら周太の体を片腕で支えると、ピッケルでアイゼンを叩いて雪を落としてくれる。
掴んだ腕は細身でも端正な筋肉が支えているのが解る、きっと山で畑で鍛えてきた体なのだろう。
そんな日々の生活で積み上げている端正な体に、これから自分がすること。
ちいさな震えが起きそうで周太はゆっくり瞬いて心を凪がせた。

「はい、これで大丈夫だよ。また歩き難くなったら言ってね?ほら、あそこで宮田が見てるよ?」

底抜けに明るい目は温かで広やかに優しい。
この目に周太は祈るような想いで見上げながら微笑んで素直に頷いた。
すぐに英二の元へ行くと切長い目が周太を覗きこんで微笑んだ。

「ほら、周太?あんまり国村を見つめちゃダメ、」
「ん、…そんなに見てた?」
「ちょっとでもね周太、俺は嫉妬しちゃうよ?さ、行こう周太」

次の実験場へ向かいながら英二は次の狙撃について説明をしてくれた。
すっかり明るくなった午前中の雪山を歩きながら、英二は周太に笑いかけながら話してくれる。

「周太、ザイルへの狙撃はね?宙吊り遺体収容の再現実験になるんだ…
群馬県の谷川岳はね、剱岳や穂高岳と、日本三大岩場の一つに数えられる。
ロッククライミングの場所なんだ、それで谷川岳には一ノ倉沢ってとこがある。
ここは穂高岳の滝谷とならぶ厳しい岩場だ。マッターホルンとかに挑戦する練習場としても使われることも多い」

遺体収容、その言葉に心が冷やりとしてしまう。
それも「宙吊り」になっていた、そんな厳しい岩場。

…そこが、マッターホルンに行くための、練習場…

欧州三大北壁の1つだと英二が前に話してくれた、その三大北壁すべてを国村は高校時代に踏破している。
英二は本配属後から海外の高峰へ国村と登り始めることになっている、きっとマッターホルンは最初に行くだろう。
そのための練習はもう今冬から始まっている、だからきっと一ノ倉沢も英二は行くだろう。
そんな想いのなかで周太は警察官の顔のまま英二に訊いた。

「その一ノ倉沢で起きた遭難事故のこと、なんだね?」

微笑んで英二が頷いてくれる、たぶん自分がなぜ訊いたのか英二は解っただろう。
見あげる先で英二は穏やかに説明を進めた。

「もう50年以上前の事件なんだ、周太。遺体がザイルで宙吊りになってね。
そのザイルを狙撃で切断して遺体を落下させることで収容したんだ。最終的に消費した弾丸はね、1300発に上ったんだ。
当時のニュース映画では『あまりに痛ましい遺体収容作業』だったって言っている。
この時のザイル切断をね今日は再現してもらうんだ。弾丸数は限られているし条件も違うけれどね。
奥多摩にもクライミングのポイントがある、同じ事故が起きないとも限らない。備えて対応を考える参考データにするんだよ」

…ザイルで宙吊り、落下…収容…

どれも現実に起きたこと、そして英二はきっとそこへ行く。
それどころかこの奥多摩にも「同じ事故が起きないとも限らない」きっと英二は既にそこは登っただろう。
昨日の冬富士もそうだった、「山」はいつも峻厳な自然の掟の支配下にある。
だから山ヤは謙虚に努力して山を知り山を登る技術を体に備えていく、そんな「謙虚」が山ヤの誇り高らかな自由を守る。
ほっと息を吐いて周太は英二を見あげて、そして穏やかな口調で話しかけた。

「…一ノ倉沢。いつか、英二も登りに行くのでしょう?」
「うん、行くよ、周太。この冬の間に国村と行ってくる。いま登っておかないと、来シーズンに間に合わないからね」

実直な英二は、謙虚に努力することを知っている。
そうした謙虚さが英二に生きる道と誇りを掴んでいく力になっている、それを自分は知っている。
きっと英二は努力していくだろう、そして自由に山ヤとして笑って生きていける。
だから大丈夫、英二は望みのままに笑って登っていけるだろう。
そして輝くような笑顔を最高峰で見せてくれる、その姿を自分は誰よりも願っている。

…けれど、その姿を自分はもう、見られないかもしれない…

「ほんとバカだね、この男はさ?湯原くん、そんな俯かなくていい。ほら、こっちを見なよ?」

透るテノールの声に周太は顔をあげた。
見あげた先で雪白の秀麗な顔が明るく笑って見つめてくれている。
そして細い目を温かく笑ませながら国村は教えてくれた。

「俺と宮田はさ、体格がそっくりだろ?
俺はね、一ノ倉沢も滝谷もね、無事に登って帰ってきた。マッターホルンもね。
だから大丈夫だよ。俺と似ている宮田なら、必ず無事に登れるね。そして無事に帰ってくる。安心しな?」

底抜けに明るい目は真直ぐに周太を見つめてくれる。
体格だけではなく国村と英二は性格も似て、直情的で思ったことしか言えない。
だからこの言葉は「本当に出来る」と国村が確信できるから言ってくれているだろう。
そんな真直ぐな視線にすこし微笑んで周太は国村に短く訊いた。

「ほんとうに?」
「ほんとうだね。こいつは俺が無事に帰らせるからさ。だいじょうぶだよ、湯原くん?俺が約束するよ」

…無事の帰りを、約束してくれる、でも…自分は…

ゆっくり瞬くと周太は歩きながら足元を見つめた。
これから自分は国村に酷いことをする。それでも国村は英二を嫌いには絶対にならない、ずっと一緒にいるだろう。
だから必ず英二を無事に帰らせ続けてくれるだろう、けれど自分は英二の帰りを迎えられるだろうか?
そっと微笑んで周太は国村に答えた。

「ん、…そう、だね」

答えて周太は向こうの空を見あげた、そこには岩場とザイルが見えている。
もうじきあのザイルの狙撃をする、そして、その任務が終わった後は?
想うだけで涙が迫り上げて哀しみと重たさが心に圧し掛かる。
そんな想いを抱いてザイル狙撃の銃座へ向かう登山口へ着いた。

国村と周太は、今度はふたりで狙撃の銃座ポイントへと登ることになっている。
後藤副隊長たちはザイルに吊るされた標的が、滑落する予定ポイントへと回収のため、ここからは別行動だった。
登山口へ歩きだしながら、底抜けに明るい目で国村は周太に笑いかけてくれた。

「さ、湯原くん?ここから2人きりだけどさ、安心しなね?襲ったりしないからさ」
「ん、はい…ええ、」

襲ったりしない。そんな言葉すら今は重たい、自分がする事を思うと。
ほっと小さくため息を周太は吐いた、そのとき周太の右掌を長い指が掴んだ。

「周太、」

きれいな低い声が呼んでくれる名前に振り向いた。
見あげた切長い目がいつか見た表情のまま周太を見つめて、端正な口が開いた。

「周太?今夜はね、俺、…周太と晩飯、食えるんだよね?」

どうかお願い頷いて?そんな祈るような想いが切長い目から伝わってくる。
きっと英二はまた解ってくれている、漠然としていても感じて自分の想いと繋がってくれている。

…こんなふうに、いつも想いを繋げてくれるね、英二?

このひとが本当に好き、愛しい、大切にしたい。
想いが心の深くからあふれてくる、どれも温かい想いたち。
この想いをすこしでも今このひとに伝えてあげたい、そして幸せな記憶を贈ってあげたい。
名前を呼んで唯ひとり愛された記憶の温もりを、約束に託して遺していきたい。
そして自分も笑顔を記憶したい。大好きな、きれいな笑顔を記憶してずっと宝物にしたい。

記憶は目に見えない、想いも目には見えない。
だからこそきっと、どこへでも持って行けるはず。

たとえ万が一に自分が英二の隣へ帰ってこれない場所へ向かっても、きっと記憶と想いは抱いていける。
だから今きれいな笑顔を見ていきたい。どうか笑ってほしい愛するひと、きれいな笑顔を自分に見せて?
想いのなかへ微笑んで周太は英二に約束をした。

「ん。一緒に食べて?…なに食べたい?」
「周太が食べたいものが良い、俺、周太がしたいこと一緒にしたい。だから、周太?俺、周太と一緒が良いよ?」

でも今も一緒に行きたいのに?
そんな英二の想いがあふれるように、右掌を掴んでくれる長い指から伝わってくる。
ほんとうに一緒にいてあげたい、いつまでも。そして英二が充たされるまで、ずっと受けとめて安らがせ続けてあげたい。
けれど今は英二を連れてはいけない、自分だけで行かなくてはいけない。

ここには父に変わらぬ友情を示してくれる人がいる、その人に父の名を辱めない為に自分は射手を務めたい。
ここには父に守られた幸せの記憶が眠っている、その場所に立って今度は自分が愛するひとを守りたい。
そして英二に教えてあげたい、人として山ヤとして体を大切にすることの意味を。
だから今も英二に「大切」だと想いを与えてあげたい、そんな想いの底から周太は微笑んだ。

「ん。一緒が良いな?…俺はね、英二が食べたいものが、食べたいな?…考えておいて、お願い、英二」

どうか英二。自分に何が起きても、英二はきちんと食事して?
きちんと食べたいものを食べて体を大切にしてほしい。そして山に登って輝く笑顔でいて?
想いを心に伝えながら周太は、右掌を掴んでくれる英二の掌に左掌も重ねた。
そして右掌と左掌でくるむようにして、そっと英二の手を離した。

「…周太、」
「行ってきます、英二?」

きれいに笑って周太は踵を返した。
きっといま英二は背中を見つめている、たぶん心で何度も名前を呼んでくれている。
音にならない英二の声を聴きながら、周太は国村を見あげた。

「さて、行こうかな?じゃ、湯原くん手を貸して?ここちょっと危ないんだ」
「はい、お願いします」

差し出された登山グローブの掌に、周太は自分の掌を預けた。
周太の掌を握ると国村は登山道入り口の凍った沢を越えさせてくれる。

「ここは岩場だ、アイゼンの刃を傷めないようにね?このあとが困っちゃうからさ、」
「ん、…ありがとうございます」

雪の下で岩場を刃が削る瞬間がある。
そこを国村の手にとられながら越えて凍った雪の沢辺に周太は立った。

「もう、手、離して大丈夫です」
「うん?でもここ滑りやすいんだ、このまま渡るよ?」

テノールの透る声が優しい。
優しい声に手をひかれるまま周太は沢を渡りきると、雪道へと入った。
それでも国村は繋いだ手を離さずに登っていく。けれどアイゼンの下はそんなに滑ってはいない。
もう大丈夫なのに?遠慮がちに周太は並んで歩く国村に話しかけた。

「あの、もう足元も大丈夫です。手、離しても平気ですから」
「うん?」

振向いた雪白の秀麗な顔は、雪の冷気に紅潮した頬が桜が咲いたようだった。
そんなきれいな顔で細い目を温かく笑ませて国村は答えてくれる。

「ああ、このほうがね、湯原くんが登るペースが解りやすいんだ。だから手は繋いだまま登るよ?」
「ん、…そういうもの、なんですか?」

そういう話は初めて聞いたな?周太は首を傾げた。
父からも英二からも聴いたことが無い、けれど2人が知らなくて国村は知っている事もあるだろう。
そんなふうに考え込んでいると底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「うん、そういうもの。ってことにしといてよ。
まあ、かわいい子じゃなかったらさ、俺もこんなことしないけどね?さ、もうすこし頑張ろう、あとちょっとだよ」

からり笑って愉しげに国村は、しっかり周太の手を握ってしまった。
そして自分の畑や山の話をしてくれながら国村は周太の手をひいて登っていく。

「うちはね、蕎麦と梅なんだ。山の上の畑も多くてね、そこに毎日ずっと登っているんだ。とくに梅林はね」
「山に梅林があるんですか?」
「そ。ほんとにね、花の盛りはきれいなんだ。
白が多いから、そりゃ清楚で見事だよ、俺の自慢なんだ。3月の上旬が佳い、見においでよ?」

つきんと心が痛くなる。
これから酷いことをしようとする自分に国村は、大切な梅林を見せる約束をくれる。
ほんとうに何もなく見に行けたらいいのに?
そんな想いで俯きかける周太に温かく細い目が笑いかけてくれた。

「ほら、湯原くん?俯いたらさ、周りが見えない。見なよ、ここは雪の森だよ?」
「…あ、はい」

言われて見上げると木洩れ日がそっと額に降りこぼれた。
しずかな午前中のあかるい陽光が、そっと雪曇りのはざまから森に降ってくる。
さくさくと雪踏む音の合間にときおり凍った梢から、ぱさりと雪が落ちる音が響く。
この光景を自分は知っている、なつかしい記憶に周太は微笑んだ。

「お、笑ってくれたね?うん、やっぱりさ、笑った顔のが良いね。かわいいよ?」

底抜けに明るい目が笑ってくれる。
やさしい明るい笑顔に周太は心の深くでまた涙がこぼれた。

「さ、着いたよ。あそこにザイルが見えるだろ?」

笑って国村は登山グローブの指で岩場の方を示した。
指先の向こう300~350m程先にザイルが風に揺れている、その先には標的と同じ人体模型が吊るされていた。
あれがもし生身の人間だったら?ずきりと心が軋んだまま周太は表情に顕わしてしまった。
そんな周太の掌を握りしめて国村が微笑んで言ってくれた。

「大丈夫だ、湯原くん。俺は宮田をあんな目には遭わせない、絶対だ」
「…ほんとうに?」

思わず見上げて周太は訊いてしまった。
その瞳を受けとめて底抜けに明るい目が真直ぐ見つめ返して微笑んだ。

「うん、ほんとうだ。約束するよ、この俺がね。何があっても絶対に、約束だ」

透るテノールの声が宣言してくれる。
真直ぐで真摯で明るい国村の「絶対の約束」がそっと周太の心に響いていく。
こんな真直ぐ約束するひとに、自分はこの数十分後には酷いことをしてしまう。
ちいさくため息を吐いて周太は微笑んだ。

「ん、…ありがとう、」
「よし、笑ってくれたね?さて、じゃあ狙撃の準備しよう?ここではライフルだけを使うよ、」

温かく細い目を笑ませて国村は周太の掌をそっと離した。
そして銃座ポイントの近くへ登山ザックをおろすとシートを広げてくれる。
そこへ銃火器ケースを置いてM1500のセッティングを始めた。
周太も自分が貸与されているケースを開けると、慎重に銃身を抱えて確認を始めた。

豊和M1500バーミントンハンティングモデル。
日本産では唯一の大口径ボルトアクションライフルで、害獣駆除使用の目的で作られている。
そしてもうひとつの目的は警察の「狙撃銃」第七機銃火器対策と、そしてSAT狙撃手が使用している。
このモデルか前身のゴールデンベアを父も使っていたかもしれない。

…狙撃、

たった二文字の熟語。
その2字が哀しい、ため息をこぼしながら周太は5発の装弾を終えた。
そんな周太に微笑んで国村が話しかけてくれた。

「これさ、ヘビーバレルってもいうんだよね」
「ヘビーバレル?」
「うん、これ作ってる会社の人なんかね、そう呼んでるらしいよ」

底抜けに明るい目で温かに笑いかけてくれる。
穏やかな目でM1500の銃身を馴れた手つきで持ちながら、国村は言葉を続けてくれる。

「このタイプの狩猟用ライフルはさ、競技用よりずっと頑丈でタフで安全性が求められる。
背に担いで山を駆ける必要があるからね。弾丸も射程とパワーが違うよ、動物は皮下組織や筋肉、骨が厚くて硬い。
それらを撃ち抜かない限り動物は倒せないからさ、弾丸も競技よりずっとタフだ。なにより、山では半矢は絶対に許されない」

「はんや?」

訊きなれない言葉に周太は素直に首を傾げた。
それに頷いて国村は教えてくれた。

「うん、半分の半に弓矢の矢だ。一発で仕留めず『手負い』の状態にするってこと。
そんな半矢の状態にすることは失礼だし残酷だ。特にクマとか大動物はね、半矢になれば逆上して自分を襲わせることになる。
そして殺人や傷害の罪を動物に犯させてしまう、それはお互い不幸だ。そして無駄に血を流すことは山に失礼になる。
だから必ず一発で仕留めるんだ、相手に苦しい思いをさせないように。これが猟師の誇りだよ、そしてね、山のルールだ」

「猟師の誇り、…山のルール」

山の峻厳な掟、そこに国村は生きている。
きっと国村には自然体な生き方で最も相応しい、そのことが言葉からもわかる。
こういうひとが自分は好きだ、そんな想いのはざま周太の心では涙が深まっていく。
涙を心に押し込んだまま周太は、話してくれる明るい笑顔を見つめた。

「うん、山のルールだよ?さて、このモデルの弾丸自体の最大到達距離は4kmだ。
でも射程距離は300mくらいだろ?で、今回のザイルは330m先になる。弾道を気流に乗せて飛距離を伸ばそう。
風の流れをよく読む必要がある。今は谷底から風が吹き上げているから、上へ弾道が逸らされることを計算に入れた方が良いね、」

きれいな笑顔で国村は話し終えた。
底抜けに明るい目で周太を見つめて軽く頷くと、国村はそっとM1500をケースにおろして立ちあがった。

「さてと、銃座の確認をしよっかな。あ、第一射手は俺で良かった?」

今回の標的はザイル一本。
人体模型を避けてザイルを狙撃し切断させる。その狙撃を2名で交互に行っていく。
その先行は前回の経験者で階級も上の国村に定められていた。

「はい、よろしくお願いします」
「はい、了解。うん?雪がわりと深いね、ちょっと雪除けるかな」

ザックから折畳式スコップを出すと国村は、さっさと銃座ポイントの雪を掻いて脇へよけていってくれる。
その背中を見ながら周太は貸与された拳銃のシリンダーを開いて1発だけ弾丸を装填した。
ずっと装着したままのホルスターに拳銃を収めて、ウェアの裾をまた戻すと拳銃は見えない。
素早く視線を国村に戻すと雪を掻き終るところでいる、これなら気付かれていないだろう。
小さくため息を吐いて周太はM1500をとり銃火器ケースを閉じた。

「さて、そろそろ時間かな?銃座ポイントに着こうか」

スコップをまた戻して仕舞うと国村もM1500を携えた。
そして銃座ポイントに着くと国村は、ザイルに目を細めながらクライマーウォッチを見ていく。
静かな雪山の静寂に、目の前の谷から時おり吹きあげる風の音が渺々と哭く。
そんな谷風の聲すらも哀しくて周太は、そっと瞳を閉じた。
その横で国村がクライマーウォッチの時刻に軽く頷いて微笑んだ。

「うん、時間だね。…はい。では、国村警部補ただいまより狙撃を開始します」

無線連絡で開始を告げる。
そして国村はスコープへ視界を入れるとザイルに的を定めた。


(to be continued)

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