選んだ道と場所と、「隣」

第33話 雪灯act.3―another,side story「陽はまた昇る」
実験場に薄暮がふり始めている。
刻々と変わりゆく視界の明度のなか、周太は射手として雪の山中に立っていた。
射撃場での堅い足元に慣れた周太には雪の感触に違和感を感じられてしまう。
なにより時おり吹く風が気になる、こうした風は弾道を変えてしまう要因になる。
初めての野外での狙撃、しかも雪の山中では全てが周太にとって異世界だった。
それでも規定通りの姿勢で周太はライフルを構えた。
初弾発砲の衝撃が、華奢な骨格を震わせて体を抜けていく。
響く衝撃波に周太は一瞬目を細め、けれどすぐに真直ぐ標的を見つめた。
初めて見て扱うM1500バーミントンハンティングモデルは、装薬式特有の衝撃が大きい。
…装薬ライフル、しかも大口径で狩猟用…競技用とは違う
体幹をしっかり立てて衝撃に姿勢を揺らされないよう、一発ずつを狙撃していく。
高校時代から使っていた競技用ライフルとは照準精度が異なっている、そしてエアーと装薬では威力が違う。
何もかもが初めての感覚がM1500の発砲の瞬間から伝わってくる。
…視界が、悪い
黄昏時に特有の明度の急激な変化が、的を見つめる瞳孔の収縮を惑わせてくる。
それでも真直ぐに的を見つめながら周太は5発の狙撃を終えた。
そのあとは拳銃での狙撃6発になる、ほぼ毎日扱っている馴れた感触がありがたかった。
でも、ほんとうは拳銃なんて好きじゃない。
父が殉職したあの春の夜に、これが本当は人殺しの道具だと思い知っているから。
あの春の夜に見つめた父の遺体、父の手錠、それから庭に満開だった夜桜。
あの春の夜ほんとうは父が本を読んでくれる約束だった、ココアを楽しんで夜桜を眺めながら。
あの春の朝に父とした幸せな夜桜の約束は、ただ一発の拳銃で壊されてしまった。
そうして自分たち家族の笑顔まで、全てが壊されてしまった。
…そして、あの夜に、お父さんが拳銃に斃れなかったら…きっと英二には、逢えなかった
父に生きていてほしかった、その想いは本当の気持ち。
けれど英二に逢えない生き方は、今はもう考えられない。
その英二への想いの為に今日も新宿から自分はここへ来た、それも射手に指名してもらえたから、ここへ来れた。
あの春の夜に放たれた拳銃の、一発の弾丸。
その一発の弾丸が、この自分の「今」全てを作り上げている。
…いちばん忌まわしい拳銃、けれど拳銃が、いちばん大切な英二と自分をめぐり逢せた
このことは運命の冷たい冗談?
それとも自分を救うための温かな運命の微笑み?
拳銃を廻る自分の運命がいまも想いに廻ってしまう、けれど体は正確に動いて6発の弾丸は正確に標的を狙撃した。
リボルバー式拳銃での狙撃も終わると、黄昏の緋色がより濃くなった。
たぶん全弾なんとか的中できているはず、ほっと息を吐くと横から国村が話しかけてくれた。
「おつかれ、湯原くん。標高1,800mのポイントに移動するよ、300ほど登ることになる。いま息苦しいとかある?」
「大丈夫です、」
短く答えて周太は銃火器ケースを持った。
拳銃とライフル銃の重さが掌に掛る、けれどこの程度では重たいなど言えるわけがない。
こんどの夏か秋には毎日この重さを抱えて生きるだろう、今から重さに慣れておけるのは幸運だろうと思う。
雪道をアイゼンで踏んで周太は銃火器の重みと一緒に標高1,800mの現場に立った。
ここでもライフルと拳銃の狙撃を終えると、一旦小休止になった。
ここで日没を待ってから夜間の狙撃調査をし、それからさっきの1,500mポイントでまた狙撃に入る。
ほっと息ついた周太に、きれいな低い声が話しかけてくれた。
「周太?はい、コーヒーだけど、温かいよ?」
きれいな長い指が温かな湯気のカップを差し出してくれる。
両掌で受け取って周太はひとくち啜りこんで、ほっと我に返った。
「…あ、英二…ありがとう、コーヒー」
「うん、周太。あと、これな」
長い指で山岳救助隊服の胸ポケットから、オレンジ色のパッケージを出してくれる。
ひとつぶ取り出すと微笑んで英二は、周太の顔を覗きこんでくれた。
「はい、周太?あーん、して」
「…え、でも、いまにんむちゅうだよえいじ?あ、」
話しているうちに口のなかへと長い指がオレンジ色の飴を入れてくれた。
やさしい蜂蜜の甘さとオレンジの香が口に広がってくる、これは幼い頃から周太が馴染んだ味だった。
すこし喉が弱い周太は、この「はちみつオレンジのど飴」を子供の頃から好んで口に入れてきている。
それで卒業配置の朝にも周太は持っていて別れ際に英二の掌に渡した。以来いつも英二も買い足して持ってくれている。
隣で英二も口に入れると周太に笑いかけてくれた。
「おいしいだろ?山ではさ、行動食に甘いもの口に入れた方が良いんだ」
「ん、…おいしいね、ありがとう英二」
ほんとうは今は任務中、けれどつい素顔に戻されて周太は微笑んだ。
やさしい英二の穏やかさは現場でも変わらない、それが一緒に任務に就いてよくわかる。
この任務中ほんとうは英二も吉村医師のサポートで弾痕チェックなど忙しい、けれどこまめに声を掛けてくれている。
どうして英二はこんなに自分を想い続けてくれるのだろう?そんな想いで見上げた先で、きれいな笑顔を向けてくれた。
「ね、周太?今夜はさ、何が食べたいとかある?」
「ん、…野菜とか、食べたいかな?今日の昼はパンだけだったから…」
「じゃあ周太、腹減っただろ?ごめん、気がつかなくって」
「あ、吉村先生のお茶菓子頂いたし…だいじょうぶだよ?」
他愛ない会話にも英二が寄せてくれる想いが伝えられてくる。
きれいな低い声がやさしく響くのがうれしくて周太は微笑んだ、やっぱりこのひとを想ってしまう。
自分は国村のようには恵まれていないけれど、こんなに想ってもらえている。
なぜこんなに自分を想ってくれるのか不思議だ、けれど与えられるなら幸せは素直に受け取ればいい。
…だって、明日があるか解らない、人は誰でも。だから今の幸せを見つめていたい
いま隣に立ってくれる美しいひと、その想いと温もりが自分の幸せの全て。
この幸せを見つめたくて守りたくて自分は今日ここまで新宿からやってきた。
そしてまたこの隣に自分は今、立っている。今この瞬間が幸せで周太は微笑んだ。
「ね、英二?雪の奥多摩は、きれいだね…一緒に見られて、よかった」
「だろ?周太、俺もね、周太と一緒に見られて今、すごく幸せだよ」
きれいな笑顔が笑ってくれる、この笑顔が自分は大好きだ。
かりっと飴を最後に噛みながら笑顔を見つめていると、横からテノールの透る声が話しかけてくれた。
「はい、湯原くん。これ食って?」
白い掌がアーモンドチョコレートの箱を差し出してくれていた。
底抜けに明るい目が「遠慮しないで?」と温かく笑ってくれる。素直に頷いて周太は1粒とった。
「ん、ありがとう、国村さん。頂きます」
「どういたしまして。もっと食いなよ、湯原くん。この後もさ、射撃して下山するんだ。腹減っちゃキツイだろ?」
言いながら周太の掌を持つと5,6粒載せてくれた。
やっぱり国村は優しい、そしてよく解ってくれている空気がある。素直に周太は口に入れた。
アーモンドの芳ばしい香りと触感がおいしい、うれしいなと周太は国村を見あげた。
「ん、おいしいです。ありがとう」
「そ、よかったよ。うん、笑うとさ?やっぱ可愛いよね、湯原くん。眼福だな」
愉しげに細い目を笑ませて国村もアーモンドチョコレートを口に放り込んだ。
こんなふうに国村は周太を笑わせて寛がせてくれようとしている、そんな気遣いが温かい。
国村の持っている天与の才能や体は羨ましいと思う、けれどやっぱり好きだなと素直に周太は思えた。
「もっと食う?ほら、遠慮しないでね」
「あ、はい。でもまだあるから…」
そう言いかけた周太の掌にまたチョコレートを白い指で載せてくれた。
載せながら自分もチョコレートをごりごり噛んでいる国村を、隣から英二が笑いながら小突いた。
「国村、あまり周太にちょっかい出すなよ、俺の周太なんだから」
「チョコあげて可愛いね、って言っただけだろ?それがなに、『ちょっかい』になるんだ?」
呆れたように笑って国村はまたチョコレートを口に放り込んだ。
そして周太を見て「ほら、嫉妬してるね?」と目で笑ってくれる、それが嬉しくて周太も微笑んだ。
そんな周太の腕を惹きよせて英二は国村に笑って言い返しはじめた。
「おまえの場合はね、なんか危ないの。ほら、周太?あんまり国村を見つめちゃダメ、周太はね、俺だけ見つめていればいい」
「…え、あの…」
何て答えればいいのだろう?
こういうことは慣れていない、解らなくて周太が途惑っていると国村が笑って言ってくれた。
「ばかだね、宮田はさ。ほら、湯原くん困ってるだろ?まったく嫌だね、嫉妬深い男はさ。ほら、吉村先生のとこ戻る時間だろ?」
「あ、ほんとだ。ありがと、国村。でも、周太にはちょっかい出すなよ?…周太、また後でね?」
クライマーウォッチのLEDをつけて時刻を見ると英二は吉村医師の元へ戻っていった。
英二は今回の弾道調査で吉村医師の助手として標的の弾痕確認をしている。
山闇に染まりだす雪道を吉村医師の元へ歩いていく背中を周太は見つめていた。
その背中がまた逞しく広やかになっている、ほっとため息を吐いた周太に国村が笑いかけてくれた。
「やっぱり、大好きなんだ?」
「…ん、」
思わず素顔に戻って周太は微笑んで頷いた。
これは自分にとって一番大切なこと、だから嘘もつけない堂々としていたい。
そんな周太に底抜けに明るい目が温かく笑んで、きれいに笑ってくれた。
「うん、いいよね、そういうのはさ。さて、俺たちも戻る時間だね。夜間の狙撃は暗くて面倒だけどさ、さっきの夕暮れより楽だよ」
これから任務に戻る、そして初めての夜間狙撃をこれから行う。
すっと沈着になる意識に警察官の顔に戻って、周太は折り目正しく返事した。
「はい、よろしくおねがいします」
「お、警察官の顔になったね?この顔も俺は好きだよ、凛々しくてさ」
やさしい温かい目で褒めてくれる。
国村の底抜けに明るい目にはいつも、裏が無くて率直な想いだけが温かい。
こうして話していると自分もこのひとが大好きだなと素直に想えて、なんだか周太は嬉しかった。
「じゃ、ヘッドライト点けよう。夜の冷え込みで雪が一層締りはじめる、凍って滑りやすいから気をつけて」
「はい、」
素直に頷きながら周太はヘルメットのヘッドライトを点灯した。
その横で国村は山岳救助隊制帽のキャップにヘッドライトを点けている。
あかるいライトに照らされる顔は、雪白の肌がうかぶようで秀麗な顔立ちの横顔がきれいだった。
並んで歩きながら周太はちいさく首を傾げた。
…やっぱり、きれいなひと、だね
国村は容姿も体格も才能も恵まれている。
そんな国村は英二と並ぶと本当に似合っていて、それが羨ましい気持ちも周太にはある。
けれどそれ以上に国村は底抜けに明るく純粋で、真直ぐに大らかな優しさが温かい。
いつも周太のことを細やかに気遣ってくれて温かさが嬉しい、そんな国村が周太も好きだった。
「先に目視の狙撃から始めるよ、そのあと暗視スコープを使う。目が慣れると楽だよ」
「前回も同じだったんですか?」
「うん、そうだよ。標的の位置はさっきと同じだからさ、解りやすいかな」
話しながら射手の立ち位置に戻って、周太は標的を見つめた。
夜間の狙撃は目視と暗視スコープの両方とも、ヘッドライトも消した状態で狙撃を行う。
夜の底にほの暗くかすかな標的を見つめて周太は狙いを定めた。
父の軌跡を追う。
そう決めた日から自分は「実戦」の射撃を意識して努力した。
だから夜間の目視も簡単に手に入る玩具のエアガンで鍛えてはきた、けれど実弾での狙撃は初めてになる。
山の冷気がおりる雪明りの底では暗い自室でよりずっと視界が効きやすい。
そうして目視での狙撃を終えた後に暗視スコープでの狙撃も終えた。
「おつかれさま、湯原くん。夜間の方が楽だったろ?」
「はい、目が楽でした」
標高1,500mの実験場へ移動しながら国村が話しかけてくれる。
話しながら並んで歩いて、時折アイゼンを雪にとられそうになる周太を素早く支えてくれた。
「…あ、すみません」
「うん、雪がもう凍ってきてるからね、アイゼンの刃が刺さり難くなってるかな。いつでも俺の腕とか掴んでいいからね?」
ヘッドライトの下で底抜けに明るい目が温かく笑んでくれる。
やさしい明るい笑顔がきれいで、見上げるたびに周太は不思議だなと思った。
この笑顔を毎日いつも英二は見ている。青梅署の寮で御岳駐在所で、そして山岳救助の現場で毎日、すぐ横で見ている。
その英二の場所に今は自分が立って、こうして国村を見ている。なんだかそれが不思議でならない。
そして英二が見ている世界をこうして、少しでも見させてもらえることが嬉しい。
…こうして一緒に任務に就いて、なぜ英二が友達になったのか、わかる…
よく似た背格好の英二と国村は性格も共通点が多い。
直情的で思った通りを率直に言ってくれるから、裏が無くて安心できる。
やさしい気遣いも似ていて、黙っていても見てくれていて必要な時に手助けしてくれる。
任務に対しても真直ぐで緻密な計算をしながら動いて無駄が無い、きっとお互いに任務でも山でも良いコンビだろう。
今まで周太は英二と国村のプライベートな面しか知らなかった、そして今回は新しい面を見ている。
そんな英二の声が、国村と並んで歩く周太の後ろから聞こえてくる。
「先生、瞳孔の収縮は個人差があるでしょうか?」
「はい、個人認証装置にはそれが利用されていますね。
微弱なフラッシュ光を目に照射して、瞳孔反応時の虹彩輝度変化や瞳孔径変化を利用した生体検知法が開発されています」
「では先生、夕方の狙撃の場合は瞳孔は散瞳が起きますよね?そして明方なら縮瞳と。
そのときの瞳孔径変化の速度と標的を見て狙撃に移る時間の変化。これは比例するでしょうか?
もし比例するなら、個人特定の参考には出来るかなと思ったのですが。個人認証装置の応用って感じですけれど」
「そうですね、年齢や性別などで瞳孔のサイズ自体も違いますし。
では射手の方が銃座に入って標的を見る、そこからトリガーを引くまでの時間を比較して確認しましょう」
きれいな低い声の会話にも英二の「今」が解る。
警察学校時代に女子寮侵入の疑いをかけられた英二は、現場に落ちていたタオルから指紋採取しようとした。
もちろんタオルから指紋採取はまず出来ない、それは鑑識のテキストに書いてあることだった。
あまりに解っていない英二が見ていられなくて、周太は英二を手伝って現場に残された足跡から犯人を捜した。
そんな英二が今は吉村医師の鑑識調査の助手を務めて、瞳孔径変化による個人特定の話をしている。
…そう、あのあと英二は、鑑識の質問をよくするようになった…そして毎晩一緒に勉強するのが、当たり前になって
ふっと記憶が呼び起されて周太は微笑んだ。
本来が怜悧な性質で実直な英二はあの時、鑑識の知識不足を補いたいと真剣に思ったのだろう。
それで周太のところに毎晩来ては勉強して、気がついたら英二は鑑識も得意科目になっていた。
そうして身に付けた鑑識知識がいま、自殺遺体や凍死体の死体見分が多いこの奥多摩で勤務する英二の役に立っている。
きっとあのころの英二を、この青梅署の人達が見たらさぞ意外で驚くのだろうな?
思ったことが可笑しくて周太はすこし笑ってしまった。そんな周太を国村が覗きこんで訊いてくれる。
「うん?湯原くん、なんか楽しいことあった?」
「あ、はい…ちょっと、英二のね、警察学校の時を思い出して」
「ふうん、どんな話?」
ちょっと興味があるよ?底抜けに明るい目を笑ませて訊いてくれる。
なんだか楽しくて周太は女子寮侵入の冤罪と鑑識の話を国村に聴かせた。
ちょうど標高1,500mの実験場に着くころ話し終えると国村が少し驚いたように言った。
「へえ、宮田がねえ?女子寮侵入の嫌疑も驚きだけどさ、あいつが予習もしてなかった、っていうのはもっと意外だね?」
「ん、そうなんですよね…あの頃と今だと、きっと別人みたいです」
「ほんとだよ、あいつ。堅物クソ真面目のクセにさ、そんなチャライことするなんて生意気だよ、ねえ?」
生意気という表現が面白くて周太は笑ってしまった。
でも確かに国村の言う通りだろう。本来が実直で真面目で一途な英二は、本質的にストイックな部分が強い。
だからこそ警視庁管内でも厳しい現場になる奥多摩地域を希望し山岳救助隊の道も選んだ。
その厳しさは今回、こうして一緒に任務に就いてみて周太は身に染みて感じてしまう。
いま後ろで英二は鑑識について吉村医師と話していた。
その様子はごく日常的な会話をする雰囲気で国村も普通の顔をしていた。
そんな「普通」は、この青梅署が鑑識知識が日常的に使われる現場だということになる。
それだけ死体見分の件数も多く経験する、そんな現実が垣間見えてしまう。
それにいま雪道を夜間歩いている時も、青梅署のメンバーの誰もが馴れた雰囲気だった。
山岳救助隊員はもちろん刑事課のメンバーも普通に暗い雪道を歩いていく。
きっとこんなふうに夜間でも雪でも、遭難救助に捜索や見分などがあれば駆けつけているのだろう。
自然の厳しい環境にも、任務の為には分け入っていく。
そんな厳しさは副都心である新宿署にはもちろん無い、そしてきっとこの現実を都心部の警察官は知らない。
…そして、自然の厳しさの前には、言い訳なんて出来ない
標高1,500m実験場での夜間狙撃実験が始まった。
横では国村がどこか馴れた雰囲気で的確に標的を狙撃していく、そんな様子が並んで同時に標的を見つめていても伝わってくる。
この国村の「馴れ」は恵まれた才能や体格、環境からも生まれるものだろう。
けれど国村の雪山での狙撃に慣れた技術は、それだけ厳しい環境を日常とするから生まれている。
さっきまで国村の才能や体格、環境をただ羨ましくも想った、けれど今、標高1,800mの実験場と往復して理解できる。
…厳しい現場に、真直ぐ立ってきた。だから出来ることなんだ…
国村はこの奥多摩に生まれた、奥多摩の山を愛して農家を営んで、奥多摩で山ヤの警察官になった。
その生き方は国村にとって楽しく自然体だろう、けれど都心部での生活よりずっと厳しい自然との対峙で生きている。
そうした環境の厳しさの1つに「クマ撃ち」の姿があり、雪山での狙撃にも馴れた姿が作られている。
そんな自然環境の厳しさの前には言い訳など許されず頼るのは「自分」しかいない。
そんな問答無用の峻厳を周太は今夜の狙撃に思い知らされた。その厳しさも真直ぐ受けとめ楽しむ明るさと強さが国村にはある。
…厳しいからこそ、きっと、明るくて優しい
そんな国村がまぶしい、そして大好きだなと素直に想えてくる。
さっき奥多摩交番の2階で国村の体を見た時は羨望で苦しくなった、けれど今はもう違う感情に変わっている。
国村の無駄のない逞しい美しい体は、自然の峻厳にも真直ぐ立つ生活から生まれたもの。
その生活には日々細かいことにもきっと、日常的にすらなった努力があるのだろう。
そんな努力に気づかずただ羨ましく思いかけていた、自分は本当に幼いのだと気付かされる。
それでも今日、気付けて良かった。
今日この雪山で国村の姿をすこし知れた、だからきっと嫉妬から自由になっていけるだろう。
そんな想いにかすかに微笑んで、周太は最後の一発の狙撃を終えた。
奥多摩交番へ戻ると国村と周太は銃のメンテナンスをした。
それから明日の打ち合わせを済ませると国村の運転するミニパトカーで青梅署への帰路に着いた。
後部座席に座った周太の隣には吉村医師がまた乗ってくれている。
冬山用の装備でいる吉村はいつもの白衣姿より、どこか愉しげで陽気にも見えた。
「湯原くん、おつかれさまでした。雪山で夜間で、初めて扱う狩猟用ライフルで。
どれもが決していい条件ではありません、それでも引き受けてくれて。本当にありがとうございました」
穏やかな笑顔で吉村医師は頭を下げてくれる。
そんなふうにされたら困ってしまうのに?周太は素直に想ったままを吉村に話した。
「先生、こちらこそいい機会を戴きました。
本当なら七機の銃火器対策の方にお願いする任務でしたよね?
俺はまだ卒配期間の新人です、それでも俺を呼んでくださって、任せて下さって…本当に、ありがとうございます」
今回の出張の発端は、周太が英二のことで不安になって吉村医師に電話したことだった。
そんな我儘を聴いて吉村医師は、新人でも周太の指名に踏み切ってくれた。それが申し訳なくて周太は頭を下げた。
けれど吉村医師は笑って周太に言ってくれた。
「湯原くん。君はね、11月の全国警察射撃大会での優勝者でしょう?
だから君にお願いしたかったんです、後藤さん達とも話していました。この実験は的中精度が大切ですから」
「あの、俺、ちゃんと的中できていたでしょうか?
俺、ライフルは競技用しか知らなくて。装薬ライフルの狩猟用は、初めて見たくらいなんです」
拳銃はきっと大丈夫だった。けれどM1500はどうだったのだろう?
競技用ライフルなら数ミリの誤射も防ぐための装備がある、けれど狩猟用ライフルではそこまでの精度は持たせていない。
そうした初めての照準や装備に正直、周太は途惑いながら最初は狙撃していた。
見た感じは的中していた、けれど数ミリの誤差が気になってしまう。
そんな周太に吉村医師は笑って教えてくれた。
「今日は夜間で時間が無いから詳細な調査はしていません。けれど弾痕だけは見ました。
どれも全てがね、きちんと的中していましたよ。国村くんも湯原くんもね。そうでしたよね、宮田くん?」
吉村医師の呼びかけに周太の前の助手席から英二が振り返ってくれる。
そしてきれいな笑顔で周太に笑いかけて教えてくれた。
「はい、そうです。ね、周太?きちんと周太は出来ていたよ、やっぱりすごいね、周太」
「ほんと?…よかった、」
ほんとうに良かった、うれしくて周太は微笑んだ。
吉村医師は新人警察官の自分を信頼して、優秀で現場の実績もある国村と並んでの射手に選んでくれた。
その信頼に周太は応えたかった、今日の分は出来ていたことが安心になって温かい。
ほっとため息を吐いた周太は、ふっと気持ちの張りが緩んでいくのを感じた。
…明日は、明け方と日中の狙撃…それから、ザイル狙撃?
そう、ザイル狙撃。
いったいどういう目的なんだろう?
そんなことを考えているうちに、ことんと周太は眠りにおちこんでいった。
やわらかな背中の感触があたたかくて気持ちいい。
気持ちいいなという感覚の底から、ふっと周太の瞳が披かれた。
ゆるやかに合っていく焦点に切長い目が映りこんで、きれいに笑いかけてくれた。
「おはよう、周太。俺の婚約者さん、」
ひとつゆっくり周太は瞬いて、小首を傾げて英二を見上げた。
さっきまでミニパトカーの後部座席に乗っていた。けれど天井が英二の向こうには見えている?
背中の下はやわらかなベッドが気持ちいい。
…墜落睡眠、しちゃったのかな?
ことんと眠り込んだ、そんなかすかな記憶がある。
そのまま英二が運んでくれてビジネスホテルにチェックインしたのかな?
そう考えながらも目の前の笑顔がうれしくて、周太は手を伸ばして英二の頬にふれた。
「…えいじ?」
呼んだ名前にきれいに笑ってくれた。
笑顔に近づきたくて掌でくるんだ顔を惹きよせると笑顔が近づいて、やわらかな感触が唇にふりこぼれた。
「…っ、」
やわらかな熱、惹きこまれる甘やかな熱、ゆっくり幸せな想いが充ちてやさしい。
午前中には新宿で英二の無事を願って想いに涙が流れた。そして今はキスに熱がふれてくれる、そんな幸せなが温かい。
しずかに離れて英二は周太を見つめてくれた。
「周太、俺のこと、迎えに来てくれたね?…ありがとう、周太。愛してるよ」
迎えに来てくれた。そんなふうに英二は解ってくれている。
想ったままを素直に伝えたくて周太は唇を開いた。
「…ん、…ただ待っているのは、嫌だったんだ…あいしているから」
言っている端から頬も熱くなってくる。
やっぱりこんなの気恥ずかしい、けれど想いは伝えられてうれしい。
そんなふうに見上げていると笑って英二は抱き上げてくれた。
「周太、おいで?」
軽く英二は抱き上げてソファに座らせてくれる。
気恥ずかしさに俯いて、ふと周太は気がついた。
シャツの裾が長い?袖も長くて掌を覆ってしまう。このシャツは自分のじゃない?
…あ、きっと、英二のシャツ
大きめのシャツが可愛かった、そう英二は年明けに言ってくれた。
だからまた着せくれた?気恥ずかしくて頬が熱いまま座っていると英二は食事を並べてくれた。
自分が眠っている間に買ってきてくれたのだろう、自分だけ寝ていたことが申し訳なくて見つめていると、グラスを渡してくれた。
「はい、周太」
「あ、…ありがとう、英二」
グラスにはオレンジ色の発泡性の飲み物が入っている。この色と香りに周太は覚えがあった。
年明けに実家で飲んだあのお酒?だとしたら気恥ずかしい、そっと周太は英二の顔を見あげた。
そんな周太のグラスにグラスでふれて英二はきれいに笑ってくれた。
「ミモザだよ?」
スパークリングワインとオレンジのカクテル「ミモザ」
ヨーロッパでは結婚式の祝の酒だと、婚約の花束を贈ってくれた夜に英二が教えてくれた。
そして知らずに飲んだ自分を英二はそのまま抱きしめて「あの時」を始めてしまった。
記憶の恥ずかしさに顔あげられなくてグラスを見つめてしまう。困っていると英二は笑いかけてくれた。
「軽めの酒だし一杯だけだ、よく眠れるようにね、周太?」
「…ん、はい」
これはオレンジの味がおいしかった。
グラスに口つけるとオレンジの香がおいしい、ひとくち飲んで周太は笑った。
「おいしいね?オレンジの香で好き…けっこんしきのなのは…はずかしいんだけど」
「うん、周太。このあいだもさ、気に入ったみたいだったから。
好きなら恥ずかしがらずに飲んで?ほら、周太?オレンジのケーキもあるよ?」
気に入ったと気付いてくれた心遣いがうれしい、自分の好みを英二は知ってくれている。
こんなふうに自分を喜ばせようと気遣って英二はいつも優しい。
この優しさに自分はどれだけ救われてきただろう、うれしくて周太は微笑んだ。
「あ…うれしいな、甘いもの、ちょっと食べたかったんだ。あ、」
周太は立って自分のボストンバッグを開いた。紙袋を取出すと中身は壊れていないらしい。
良かったと思いながらソファに座りなおすと紙袋を開いた。その袋を見て英二が微笑んでくれた。
「いつものパン屋、今日も行ったんだね、周太?」
「ん…いつもね、当番勤務の日はここで買って、夕飯にするんだ」
これを言うのは気恥ずかしい。
このパン屋は英二の記憶がたくさんある、しかも英二の好きなクロワッサンを買っている。
当番勤務にこれを持って行くなんて勤務中まで英二のことを想っていると解ってしまう。
けれど英二が好きだからと持ってきてしまった。クロワッサンとオレンジブレッドを皿へ置くと英二が笑いかけてくれた。
「ね、周太?このクロワッサン、半分こしてくれる?」
「英二もし食べたかったら、1個ぜんぶ食べてもいいよ?…俺、オレンジの食べたいし」
予想通りがうれしくて周太は笑いかけた。
けれど英二は微笑んで半分にすると1つを周太に渡した。
「はい、周太?俺ね、半分こしたいんだ。周太とね、1つを分けっこしたい」
「そうなの?」
好きなパンなのに半分が良いなんて?どうしてかなと見た英二の笑顔がすっと近づいて周太の頬にキスをした。
嬉しいけど恥ずかしい。困ったなと思っていると英二が何か思い出したように少し笑った。
楽しそうで周太は訊いてみた。
「どうしたの、…英二?」
「うん、周太はね、きれいで可愛くって、大好きだなあって思って」
半分のクロワッサンを手にとって周太は英二を見た。
それで笑っていたの?不思議でまた訊いてみた。
「それで、笑っていたの?」
「そうだよ、周太。周太が俺の婚約者で良かったなあってさ、幸せで笑った」
「ん…?そう、なの?」
なんだか英二がすこし変?違和感を感じながらも周太は食事を口にした。
野菜を使った惣菜が何品かある、トマトのカプレーゼがおいしかった。
実験場で何が食べたいと英二が訊いてくれた時、野菜と周太が答えたから気を遣ってくれたのだろう。
そんな気遣いがうれしい食事がすんで周太はコーヒーを淹れると、オレンジのケーキにフォークをつけた。
あっさりした甘さと生のオレンジがおいしい、好みの味が嬉しくて英二に笑いかけた。
「ん、…英二、このケーキおいしいよ?」
「よかった。ね、周太?俺にもひとくちくれる?」
「はい、どうぞ?」
周太はケーキ皿にフォークを添えて差し出した。
けれど英二は笑って長い人差し指で自分の口元を指差してみせた。
「ね、周太?あーん、してよ」
さっき英二が実験場でしたあれだろうか?気恥ずかしくて熱が首筋に昇ってくる。
でもしてほしいな?そんなふうに英二から微笑みかけられた。
「お願い、周太?俺、周太に食べさせてほしいよ?」
「…そう、なの?」
どうしよう?皿を片手に持ったまま考え込んでしまう。
そんな周太を見ながら英二はきれいに笑った。
「そうだよ?」
こんなきれいな笑顔で言われたら断れない。
周太はフォークを持つとケーキを一口分切った。
そしてフォークの先に刺すと英二の口元へ差し出して、困りながら周太は口を開いた。
「あの、はい…」
ちょっと「あーん」は難しい自分はこれが精一杯。
これで勘弁してほしいな?そう見つめた英二は笑ってケーキを口に入れてくれた。
良かった、安心してケーキを食べて始めた唇の端を温かい感触が撫でた。
「…っ!」
いま唇の端を英二は舐めたの?驚いて呼吸が一瞬止まってしまう。
そんなに驚かなくてもいいのに?そう瞳を覗きこんで英二は教えてくれた。
「トマトが付いていたんだよ、周太?」
「…ん、はい…とってくれてありがとう」
唇の端を気にしながら周太は食べ終えたケーキの皿をテーブルにおいた。
その隣でまた英二が何か思い出したように笑い始めた、さっきから何を笑うのだろう?
こんなに可笑しがるなんて?周太は訊いてみた。
「英二?今日はどうしたの?」
聴いて見上げた先で英二の目が愉しげに笑っている。
愉しげな目はどこか親しみを想うような雰囲気のまま英二は周太に訊いた。
「うん?ね、周太?もし俺がね、誰かに襲われちゃったら、どうする?」
襲われる?どういう意味だろう?
この雰囲気はきっと英二には愉しい親しい相手が「誰か」だという事だろう。
そんな考えを巡らす周太に英二がキスをして微笑んだ、その途端に考えがまとまった。
襲われる、は、からだのこと?
その相手は英二にとって親しい愉しい…それは、
俯いた瞳から涙がこぼれ落ちた。
今日も何度も想ってしまった「どうして英二は自分を選んでしまう?いつもきれいな人を見ているのに」
その答えがこれなのかな?答えが哀しくて涙がとまらない。
「周太?ね、どうしたの?」
焦ったような目が周太の顔を覗きこんだ。
見つめられた瞳からまた涙がこぼれてしまう、そして小さな声が周太の唇からこぼれた。
「…くにむらさんと、なにかあった、の?」
周太は抱え込んだ膝に顔を伏せた。
伏せこんだ視界は暗くて何も見えない、それで今は良いと思えてしまう。
暗い視界へ涙を落としながら周太は心につぶやいた。
…いまは、近寄らないで…
英二は雪山に惹かれるように共に登る国村に惹かれてしまった?
それも仕方ないのかもしれない、英二の輝く場所は「山」そこに生きる国村に惹かれても当然だろう。
そして自分は父の軌跡を追う危険へ行こうとしている、そんな自分より英二は正当な場所へ国村と行った方が良い。
そんな哀しい「仕方ない」が自分で胸に痛い。
…また、孤独に戻る、のかな?
ああ、やっぱり。そんな声が聞こえてしまう。
ああ、やっぱり、こんなことならずっと独りでいれば良かった。
一度でも名前を呼ばれ愛された記憶が生まれてしまえば忘れられたら悲しい。
「Le dernier amour du prince Genghi」
源氏の君の最後の恋―『Nouvelles orientales』にある恋愛小説。
光源氏は美しく才能あふれて、けれど母の愛に恵まれず孤独のままに無償の愛を求めていた。
そんな源氏と英二と似ている、そして源氏は無償の愛を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
光源氏に最後まで尽くし無償の愛を捧げた花散里、けれど源氏の最後の時に名前を呼んでもらえない。
自分も英二に無償の愛を捧げたいと願っている、けれど、
…やっぱり、花散里と同じ…?
愛するひとに名前を呼んでもらえない、それは本当に哀しいこと。
最初から呼ばれていなければ、最初から無いものと思うから辛くはない。
けれど一度でも名前を呼ばれて愛された記憶があるのなら?
…こんなことなら、ずっと、孤独でいた方が…よかった?
ほんとうにそうだろうか?
ほんとうに英二に愛されず孤独なままでいた方が、良かった?
名前を呼ばれて愛された記憶、ないほうがいい?
涙が暗い視界へ落ち込んでいく、そんな背中に温もりが寄りそってくれる。
そっと長い腕がまわされて自分の膝ごと体がくるみこまれていく。
そして頬に温かいなめらかな感触が寄りそった。
…だきしめて、くれている、
この腕がうれしい。温もりが感触が、背中に寄りそってくる想いがうれしい。
この腕になんど抱きしめられただろう?卒業式の前から英二は抱きしめてくれていた、親しい友達として。
その記憶が懐かしくて温かい、けれど「友達として」が今は痛い。英二は「友達として」国村と体を交したかもしれないから。
きれいで純粋無垢な大らかな優しいひと、心のまま無垢な雪のように白肌の美しいひと。
あんなひとに求められて断れるひとなんているのだろうか。
「国村ね、怪我しただろ?それをさ、あいつ本当は誰にも知られたくなかったんだ。」
きれいな低い声が、そっと聞こえてきた。
周太は心を声へと寄せながら涙をこぼした。
「山ヤが誇り高いのは自分のミスを許さないからだ。
謙虚に山を学んで自分のミスを許さない、そんな誇りが山を登る自由を山ヤに与えてくれるんだ。
だから最高の山ヤの心を持った国村にはね、自分のミスじゃなくても遭難しかけたことが許せないんだ。
あいつはさ、尊敬も憧れも愛情すらね、全てを『山』に見つめている。あいつには山が全てなんだ。
そんな山に自分が怪我をさせられたなんてね、国村は誇りに懸けて許せなくて、誰にも知られたくなかったんだ」
国村はきっとそうだろう。
だから英二も口止めされているだろうと想っていた。
そして聴かされて想ってしまう、真直ぐ「山」を愛せる国村が自分も好きだ。
真直ぐ想いを懸ける一途な熱をもつ誇り高い男、そんな姿は男として憧れ尊敬してしまう。
誰も嫌いになれない、自分の想いの行方は怒りにも出来ない、ただ独り抱きしめるしかない。
そんな想いと涙あふれそうな体を抱きしめる腕に力こめられていく。その力にまた思いが募って心が蹲って動けない。
「だから国村はね、俺に口止めしようとしたんだ。こんなふうにね?
『誰かに喋るならそれでも構わない、知られたらストレスだろう、でもおまえで楽しませて貰えば解消できるから』
そんなふうに俺のことをね、あいつ脅迫したんだよ?あいつはね、俺を手籠めにしたって自分の山ヤの誇りを守りたいんだ」
「…てごめ?」
「無理やりにね、裸にさせてしちゃうことだよ?でも大丈夫、俺は、そんなことされていないから」
「…ん、」
ちいさな返事と頷いた。
そして心の底へことんと冷たい氷塊がすべりこんだのを暗い視界で見つめていた。
無理やり?今はされていない、けれどいつかされてしまう?
―おまえで楽しませて貰えば
楽しむ、そんな単語が心に痛い。
英二は楽しそうに思い出し笑いをしていた。
だから解ってしまう、きっと英二にとっても「楽しい」ことなのだろう。
けれど無理やりなんて絶対にだめ、英二を傷つけてほしくない。
たとえ英二が自分を忘れてしまっても傷ついてなんか欲しくない。
…だって唯ひとり愛してる、他なんかいない、唯ひとつだから、きれいでいてほしい
だからお願い。このひとに無理強いなんてしないで傷つけないで。
けれどもし英二みずから望むなら止めることも自分はしないから。
最高峰へ望んで登るのを見送ると同じように、英二が望むように生きることを止めない。
だって自分が一番願っている、英二が望みのまま自由に生きて心から笑っている姿を。
唯ひとつ、もし自分の願いが叶うなら。
きっと自分はこれだけを願ってしまう、祈ってしまう。唯ひとつの想いだから叶えてほしい。
“英二の笑顔がきれいなままでいてほしい”
だからどうか英二の笑顔を壊さないで?
無理強いして傷つけないで、お願いだから。だから自分も英二を無理に隣に止めることをしない。
けれどもし許されるなら、きれいな笑顔を見つめて報いを求めない愛を与えてあげたい。
ただ受けとめて安らがせてあげたい。
花散里のように忘れられてしまっても、ひとときでも英二を隣に迎え安らがせてあげられたなら。
そして名前を呼ばれ愛された記憶があるのなら、それで幸せだと想えてしまう。
こんなことなら孤独でいた方がよかった。前はそう思っただろう。
けれど今はもう愛されず孤独なままでいた方が良かったなんて思えない。
だって今まだ涙は止まらないけれど、静かな温かいものが心に座ってくれた。
名前を呼ばれて愛された記憶。
その記憶がいま心に座って強い静かな温もりになってくれている。
これがあればきっと平気。そんな想いがもう心に動かない。
孤独な13年間は冷たい世界だった。
けれどいま心には静かで温かいものが抱かれている、1つの勇気と意志と覚悟も抱いている。
その全てが唯ひとつの想いから生まれてくれた宝物の温もりたち。
だからもし独りになっても、きっとこの温もりが自分を支えてくれる。
そして許されるなら遠くからでいい、唯ひとり愛するひとの笑顔が輝く姿を見つめられたらいい。
英二が他の人を選んでも、宝物の温もりは自分のもの。だから唯ひとつの想いまで失うわけじゃない。
「国村はね、雪山に怪我をさせられた。けれど、雪山によって手当てされたんだよ、周太」
「…雪山が、手当て?」
顔はまだ上げられない、哀しい顔だから見せられない。
けれど相槌だけでも贈って言葉を受けとめてあげたい。
この声も言葉も全てが大切で、ひとつも零してしまいたくない。
「そうだよ、周太?雪の塊がぶつかって国村は打撲を負った。
その直後に雪に埋められることで怪我は冷やされ固定された、雪へ埋まることで応急処置と同じ効果を受けたんだ。
そして国村の怪我は最小限で済んだ。だから俺は思ったんだ。国村は本当に山に愛されている、本当に山の申し子だってね。
こういう事があるのかって不思議だった。でも国村らしいって思ったよ。だから俺はね、あいつに思ったまま言ったんだ」
山の申し子。
そんな国村だからこそ「山」を愛し始めている英二も一番の友達としていたい。
そして自分も国村を、憎むことなんて出来ない。
「…ん、…よろこんだでしょ?国村さん」
「うん。明るい顔でね、うれしそうだったよ、周太」
よかったと心から想えてしまう。国村を嫌いになんてなれない、温もりをたくさんくれた人だから。
けれどもし英二に体を無理強いをするのなら、何を懸けても止めてしまいたい。
英二は唯ひとりの人だから、少しも傷つけてほしくない、きれいなままでいてほしい。
そんな想いと蹲る体にそっと抱きしめる力が強くなって微笑んだ気配に英二が言ってくれた。
「そこまでしても国村が誇りを守りたい気持ち。それは俺にも解るんだ。俺もね、周太のことでは同じだから」
…同じ?
そっと周太は顔を膝からあげて、隣の切長い目を見つめた。
泣顔のままの周太にそっと英二はキスをしてくれた。
「周太?俺はね、周太を守る為なら何だってする。
周太を守って幸せにする事、それがね、俺にとって一番の誇りなんだ。だからお願いだ、周太?俺を捨てないでよ」
捨てる、わけなんてないのに?
英二が他の人を選んでも、この唯ひとつの想いを自分は手放さない。
もし花散里のように忘れられても、もう自分の想いは枯れることすら出来ない。
誰よりも想ってくれて名前を呼んで愛してくれた、唯ひとりの記憶が色あせることはない。
そんな記憶たちは温もりの宝物になったから。
婚約者と呼んで、絶対の約束を結んで、最高峰から想いを告げてくれた。
そんな愛しい想いをたくさんくれたひと、だから今も笑っていてほしい。
きれいに笑って周太は掌を英二の頬に添えてキスをした。
幸せな熱がふれて願いを想う ― どうかこのまま、きれいな笑顔で生きていて?
そのためになら自分は全て懸けて後悔しない。周太は真直ぐ英二を見つめた。
「捨てない。俺は英二の隣でいたい。だから今日も俺、…ごめんなさい、英二…ほんとうは俺、今すぐ警察官を辞めようって思った」
「周太?どうして、」
英二が驚いている。
「父の軌跡を追うために自分は警察官になる」その想いだけに13年間を全て懸けて自分は生きてきた、それを捨てると言ったから。
けれどもう自分は唯ひとつの想いを英二の為に抱いてしまった。それを英二に聴いてほしい。
愛された幸せな記憶を贈ってくれたこと、その感謝と幸せな自分の想いを知ってほしい。
いつか忘れられてしまうかもしれない、それでも今この一瞬でも知ってくれたらいい。周太は静かに唇を開いた。
「いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しい…だから警察官を辞めようとしたんだ」
視界に涙の紗が降りていく。
それでも今を記憶したくて周太は涙こぼさずに英二を真直ぐに見つめた。
「いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…そう吉村先生に言ったんだ。
英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、…そう言ったんだ」
きっと後悔する、今日の午前中に自分はそう思った。
そしてその通りだったと今あらためて思う、今朝起きた冬富士の雪崩が「明日」を変えてしまったから。
そんな想いに見つめる向こう側で、おだやかに微笑んで英二が訊いてくれる。
「俺たち、明日には逢う約束をしていたよね。それなのにどうして周太、いま俺に逢いたかったの?」」
明日には逢える、自分もそう思っていた。
けれど今もう思い知らされる「明日があるかなんて解らない」
ほんとうは「明日」は新宿で一緒に穏かな時間を過ごすはずだった、けれど今の「明日」はもう違う。
いま隣に座る英二を真直ぐに見て周太は言った。
「だって…明日があるか、解らない…っ、」
明日があるか解らない、だから今はどうか抱きしめさせて?
明日の今頃自分はもうここに、いられないかもしれないから。
もしかしたら明日の今頃はもう、あなたは他の人のところへ行くかもしれないから。
想いのまま周太は英二に抱きついた。
「…英二…!」
どうか今は名前を呼ばせて?今しかないかもしれないから。
そして願っていいなら微かでも覚えていてほしい、自分が名前を呼んであなたを愛したこと。
そして今この時だけでも我儘を言わせて?見あげる瞳から涙がこぼれ落ちた。
「英二、待ってる、いつまでだって…だから帰ってきて英二、俺の隣だけに…お願い、英二、他のところへなんて行かないで!」
呼んだ名前、告げた約束、願いたかった「わがまま」と想いの祈りたち。
だって今この時はまだ、このひとは自分だけを想って見つめてくれている。
だから今この時は自分がこのひとを掴まえていても許されるでしょう?
まだ今なら自分が想って願って祈っても、いいのでしょう?
だから今なら触れても許される、頬の傷にふれて涙がこぼれ落ちていく。
「…怪我…なんて…ダメ…俺の知らない所で、怪我なんて、しないで…!…無事でいて、お願い…笑って帰ってきて、…!」
最高峰の氷に裂かれた英二の頬。
この傷がまるで誓約の証の様にも見えてしまう「最高峰に生きる運命に立つ」契約の聖痕のよう。
その最高峰の危険をもう思い知らされている、だってもう冬富士で雪崩が起きてしまった。
その雪崩が国村の誇りを傷つけ英二は体を要求された、そして自分は狙撃手の銃を今日初めて持った。
今日の朝まで自分は唯ひとつの想いが、ずっと続くと信じていた。
唯ひとつの相手との時間がずっと生涯続いて「いつか」幸せな時間に過ごす穏やかな日々がくる。
そんな絶対の約束と婚約と「明日」の約束。それだけを見つめて必ず隣に英二が帰ってくると信じていた。
けれど冬富士の雪崩がもう、「明日」を呑みこんでしまった。
(to be continued)
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第33話 雪灯act.3―another,side story「陽はまた昇る」
実験場に薄暮がふり始めている。
刻々と変わりゆく視界の明度のなか、周太は射手として雪の山中に立っていた。
射撃場での堅い足元に慣れた周太には雪の感触に違和感を感じられてしまう。
なにより時おり吹く風が気になる、こうした風は弾道を変えてしまう要因になる。
初めての野外での狙撃、しかも雪の山中では全てが周太にとって異世界だった。
それでも規定通りの姿勢で周太はライフルを構えた。
初弾発砲の衝撃が、華奢な骨格を震わせて体を抜けていく。
響く衝撃波に周太は一瞬目を細め、けれどすぐに真直ぐ標的を見つめた。
初めて見て扱うM1500バーミントンハンティングモデルは、装薬式特有の衝撃が大きい。
…装薬ライフル、しかも大口径で狩猟用…競技用とは違う
体幹をしっかり立てて衝撃に姿勢を揺らされないよう、一発ずつを狙撃していく。
高校時代から使っていた競技用ライフルとは照準精度が異なっている、そしてエアーと装薬では威力が違う。
何もかもが初めての感覚がM1500の発砲の瞬間から伝わってくる。
…視界が、悪い
黄昏時に特有の明度の急激な変化が、的を見つめる瞳孔の収縮を惑わせてくる。
それでも真直ぐに的を見つめながら周太は5発の狙撃を終えた。
そのあとは拳銃での狙撃6発になる、ほぼ毎日扱っている馴れた感触がありがたかった。
でも、ほんとうは拳銃なんて好きじゃない。
父が殉職したあの春の夜に、これが本当は人殺しの道具だと思い知っているから。
あの春の夜に見つめた父の遺体、父の手錠、それから庭に満開だった夜桜。
あの春の夜ほんとうは父が本を読んでくれる約束だった、ココアを楽しんで夜桜を眺めながら。
あの春の朝に父とした幸せな夜桜の約束は、ただ一発の拳銃で壊されてしまった。
そうして自分たち家族の笑顔まで、全てが壊されてしまった。
…そして、あの夜に、お父さんが拳銃に斃れなかったら…きっと英二には、逢えなかった
父に生きていてほしかった、その想いは本当の気持ち。
けれど英二に逢えない生き方は、今はもう考えられない。
その英二への想いの為に今日も新宿から自分はここへ来た、それも射手に指名してもらえたから、ここへ来れた。
あの春の夜に放たれた拳銃の、一発の弾丸。
その一発の弾丸が、この自分の「今」全てを作り上げている。
…いちばん忌まわしい拳銃、けれど拳銃が、いちばん大切な英二と自分をめぐり逢せた
このことは運命の冷たい冗談?
それとも自分を救うための温かな運命の微笑み?
拳銃を廻る自分の運命がいまも想いに廻ってしまう、けれど体は正確に動いて6発の弾丸は正確に標的を狙撃した。
リボルバー式拳銃での狙撃も終わると、黄昏の緋色がより濃くなった。
たぶん全弾なんとか的中できているはず、ほっと息を吐くと横から国村が話しかけてくれた。
「おつかれ、湯原くん。標高1,800mのポイントに移動するよ、300ほど登ることになる。いま息苦しいとかある?」
「大丈夫です、」
短く答えて周太は銃火器ケースを持った。
拳銃とライフル銃の重さが掌に掛る、けれどこの程度では重たいなど言えるわけがない。
こんどの夏か秋には毎日この重さを抱えて生きるだろう、今から重さに慣れておけるのは幸運だろうと思う。
雪道をアイゼンで踏んで周太は銃火器の重みと一緒に標高1,800mの現場に立った。
ここでもライフルと拳銃の狙撃を終えると、一旦小休止になった。
ここで日没を待ってから夜間の狙撃調査をし、それからさっきの1,500mポイントでまた狙撃に入る。
ほっと息ついた周太に、きれいな低い声が話しかけてくれた。
「周太?はい、コーヒーだけど、温かいよ?」
きれいな長い指が温かな湯気のカップを差し出してくれる。
両掌で受け取って周太はひとくち啜りこんで、ほっと我に返った。
「…あ、英二…ありがとう、コーヒー」
「うん、周太。あと、これな」
長い指で山岳救助隊服の胸ポケットから、オレンジ色のパッケージを出してくれる。
ひとつぶ取り出すと微笑んで英二は、周太の顔を覗きこんでくれた。
「はい、周太?あーん、して」
「…え、でも、いまにんむちゅうだよえいじ?あ、」
話しているうちに口のなかへと長い指がオレンジ色の飴を入れてくれた。
やさしい蜂蜜の甘さとオレンジの香が口に広がってくる、これは幼い頃から周太が馴染んだ味だった。
すこし喉が弱い周太は、この「はちみつオレンジのど飴」を子供の頃から好んで口に入れてきている。
それで卒業配置の朝にも周太は持っていて別れ際に英二の掌に渡した。以来いつも英二も買い足して持ってくれている。
隣で英二も口に入れると周太に笑いかけてくれた。
「おいしいだろ?山ではさ、行動食に甘いもの口に入れた方が良いんだ」
「ん、…おいしいね、ありがとう英二」
ほんとうは今は任務中、けれどつい素顔に戻されて周太は微笑んだ。
やさしい英二の穏やかさは現場でも変わらない、それが一緒に任務に就いてよくわかる。
この任務中ほんとうは英二も吉村医師のサポートで弾痕チェックなど忙しい、けれどこまめに声を掛けてくれている。
どうして英二はこんなに自分を想い続けてくれるのだろう?そんな想いで見上げた先で、きれいな笑顔を向けてくれた。
「ね、周太?今夜はさ、何が食べたいとかある?」
「ん、…野菜とか、食べたいかな?今日の昼はパンだけだったから…」
「じゃあ周太、腹減っただろ?ごめん、気がつかなくって」
「あ、吉村先生のお茶菓子頂いたし…だいじょうぶだよ?」
他愛ない会話にも英二が寄せてくれる想いが伝えられてくる。
きれいな低い声がやさしく響くのがうれしくて周太は微笑んだ、やっぱりこのひとを想ってしまう。
自分は国村のようには恵まれていないけれど、こんなに想ってもらえている。
なぜこんなに自分を想ってくれるのか不思議だ、けれど与えられるなら幸せは素直に受け取ればいい。
…だって、明日があるか解らない、人は誰でも。だから今の幸せを見つめていたい
いま隣に立ってくれる美しいひと、その想いと温もりが自分の幸せの全て。
この幸せを見つめたくて守りたくて自分は今日ここまで新宿からやってきた。
そしてまたこの隣に自分は今、立っている。今この瞬間が幸せで周太は微笑んだ。
「ね、英二?雪の奥多摩は、きれいだね…一緒に見られて、よかった」
「だろ?周太、俺もね、周太と一緒に見られて今、すごく幸せだよ」
きれいな笑顔が笑ってくれる、この笑顔が自分は大好きだ。
かりっと飴を最後に噛みながら笑顔を見つめていると、横からテノールの透る声が話しかけてくれた。
「はい、湯原くん。これ食って?」
白い掌がアーモンドチョコレートの箱を差し出してくれていた。
底抜けに明るい目が「遠慮しないで?」と温かく笑ってくれる。素直に頷いて周太は1粒とった。
「ん、ありがとう、国村さん。頂きます」
「どういたしまして。もっと食いなよ、湯原くん。この後もさ、射撃して下山するんだ。腹減っちゃキツイだろ?」
言いながら周太の掌を持つと5,6粒載せてくれた。
やっぱり国村は優しい、そしてよく解ってくれている空気がある。素直に周太は口に入れた。
アーモンドの芳ばしい香りと触感がおいしい、うれしいなと周太は国村を見あげた。
「ん、おいしいです。ありがとう」
「そ、よかったよ。うん、笑うとさ?やっぱ可愛いよね、湯原くん。眼福だな」
愉しげに細い目を笑ませて国村もアーモンドチョコレートを口に放り込んだ。
こんなふうに国村は周太を笑わせて寛がせてくれようとしている、そんな気遣いが温かい。
国村の持っている天与の才能や体は羨ましいと思う、けれどやっぱり好きだなと素直に周太は思えた。
「もっと食う?ほら、遠慮しないでね」
「あ、はい。でもまだあるから…」
そう言いかけた周太の掌にまたチョコレートを白い指で載せてくれた。
載せながら自分もチョコレートをごりごり噛んでいる国村を、隣から英二が笑いながら小突いた。
「国村、あまり周太にちょっかい出すなよ、俺の周太なんだから」
「チョコあげて可愛いね、って言っただけだろ?それがなに、『ちょっかい』になるんだ?」
呆れたように笑って国村はまたチョコレートを口に放り込んだ。
そして周太を見て「ほら、嫉妬してるね?」と目で笑ってくれる、それが嬉しくて周太も微笑んだ。
そんな周太の腕を惹きよせて英二は国村に笑って言い返しはじめた。
「おまえの場合はね、なんか危ないの。ほら、周太?あんまり国村を見つめちゃダメ、周太はね、俺だけ見つめていればいい」
「…え、あの…」
何て答えればいいのだろう?
こういうことは慣れていない、解らなくて周太が途惑っていると国村が笑って言ってくれた。
「ばかだね、宮田はさ。ほら、湯原くん困ってるだろ?まったく嫌だね、嫉妬深い男はさ。ほら、吉村先生のとこ戻る時間だろ?」
「あ、ほんとだ。ありがと、国村。でも、周太にはちょっかい出すなよ?…周太、また後でね?」
クライマーウォッチのLEDをつけて時刻を見ると英二は吉村医師の元へ戻っていった。
英二は今回の弾道調査で吉村医師の助手として標的の弾痕確認をしている。
山闇に染まりだす雪道を吉村医師の元へ歩いていく背中を周太は見つめていた。
その背中がまた逞しく広やかになっている、ほっとため息を吐いた周太に国村が笑いかけてくれた。
「やっぱり、大好きなんだ?」
「…ん、」
思わず素顔に戻って周太は微笑んで頷いた。
これは自分にとって一番大切なこと、だから嘘もつけない堂々としていたい。
そんな周太に底抜けに明るい目が温かく笑んで、きれいに笑ってくれた。
「うん、いいよね、そういうのはさ。さて、俺たちも戻る時間だね。夜間の狙撃は暗くて面倒だけどさ、さっきの夕暮れより楽だよ」
これから任務に戻る、そして初めての夜間狙撃をこれから行う。
すっと沈着になる意識に警察官の顔に戻って、周太は折り目正しく返事した。
「はい、よろしくおねがいします」
「お、警察官の顔になったね?この顔も俺は好きだよ、凛々しくてさ」
やさしい温かい目で褒めてくれる。
国村の底抜けに明るい目にはいつも、裏が無くて率直な想いだけが温かい。
こうして話していると自分もこのひとが大好きだなと素直に想えて、なんだか周太は嬉しかった。
「じゃ、ヘッドライト点けよう。夜の冷え込みで雪が一層締りはじめる、凍って滑りやすいから気をつけて」
「はい、」
素直に頷きながら周太はヘルメットのヘッドライトを点灯した。
その横で国村は山岳救助隊制帽のキャップにヘッドライトを点けている。
あかるいライトに照らされる顔は、雪白の肌がうかぶようで秀麗な顔立ちの横顔がきれいだった。
並んで歩きながら周太はちいさく首を傾げた。
…やっぱり、きれいなひと、だね
国村は容姿も体格も才能も恵まれている。
そんな国村は英二と並ぶと本当に似合っていて、それが羨ましい気持ちも周太にはある。
けれどそれ以上に国村は底抜けに明るく純粋で、真直ぐに大らかな優しさが温かい。
いつも周太のことを細やかに気遣ってくれて温かさが嬉しい、そんな国村が周太も好きだった。
「先に目視の狙撃から始めるよ、そのあと暗視スコープを使う。目が慣れると楽だよ」
「前回も同じだったんですか?」
「うん、そうだよ。標的の位置はさっきと同じだからさ、解りやすいかな」
話しながら射手の立ち位置に戻って、周太は標的を見つめた。
夜間の狙撃は目視と暗視スコープの両方とも、ヘッドライトも消した状態で狙撃を行う。
夜の底にほの暗くかすかな標的を見つめて周太は狙いを定めた。
父の軌跡を追う。
そう決めた日から自分は「実戦」の射撃を意識して努力した。
だから夜間の目視も簡単に手に入る玩具のエアガンで鍛えてはきた、けれど実弾での狙撃は初めてになる。
山の冷気がおりる雪明りの底では暗い自室でよりずっと視界が効きやすい。
そうして目視での狙撃を終えた後に暗視スコープでの狙撃も終えた。
「おつかれさま、湯原くん。夜間の方が楽だったろ?」
「はい、目が楽でした」
標高1,500mの実験場へ移動しながら国村が話しかけてくれる。
話しながら並んで歩いて、時折アイゼンを雪にとられそうになる周太を素早く支えてくれた。
「…あ、すみません」
「うん、雪がもう凍ってきてるからね、アイゼンの刃が刺さり難くなってるかな。いつでも俺の腕とか掴んでいいからね?」
ヘッドライトの下で底抜けに明るい目が温かく笑んでくれる。
やさしい明るい笑顔がきれいで、見上げるたびに周太は不思議だなと思った。
この笑顔を毎日いつも英二は見ている。青梅署の寮で御岳駐在所で、そして山岳救助の現場で毎日、すぐ横で見ている。
その英二の場所に今は自分が立って、こうして国村を見ている。なんだかそれが不思議でならない。
そして英二が見ている世界をこうして、少しでも見させてもらえることが嬉しい。
…こうして一緒に任務に就いて、なぜ英二が友達になったのか、わかる…
よく似た背格好の英二と国村は性格も共通点が多い。
直情的で思った通りを率直に言ってくれるから、裏が無くて安心できる。
やさしい気遣いも似ていて、黙っていても見てくれていて必要な時に手助けしてくれる。
任務に対しても真直ぐで緻密な計算をしながら動いて無駄が無い、きっとお互いに任務でも山でも良いコンビだろう。
今まで周太は英二と国村のプライベートな面しか知らなかった、そして今回は新しい面を見ている。
そんな英二の声が、国村と並んで歩く周太の後ろから聞こえてくる。
「先生、瞳孔の収縮は個人差があるでしょうか?」
「はい、個人認証装置にはそれが利用されていますね。
微弱なフラッシュ光を目に照射して、瞳孔反応時の虹彩輝度変化や瞳孔径変化を利用した生体検知法が開発されています」
「では先生、夕方の狙撃の場合は瞳孔は散瞳が起きますよね?そして明方なら縮瞳と。
そのときの瞳孔径変化の速度と標的を見て狙撃に移る時間の変化。これは比例するでしょうか?
もし比例するなら、個人特定の参考には出来るかなと思ったのですが。個人認証装置の応用って感じですけれど」
「そうですね、年齢や性別などで瞳孔のサイズ自体も違いますし。
では射手の方が銃座に入って標的を見る、そこからトリガーを引くまでの時間を比較して確認しましょう」
きれいな低い声の会話にも英二の「今」が解る。
警察学校時代に女子寮侵入の疑いをかけられた英二は、現場に落ちていたタオルから指紋採取しようとした。
もちろんタオルから指紋採取はまず出来ない、それは鑑識のテキストに書いてあることだった。
あまりに解っていない英二が見ていられなくて、周太は英二を手伝って現場に残された足跡から犯人を捜した。
そんな英二が今は吉村医師の鑑識調査の助手を務めて、瞳孔径変化による個人特定の話をしている。
…そう、あのあと英二は、鑑識の質問をよくするようになった…そして毎晩一緒に勉強するのが、当たり前になって
ふっと記憶が呼び起されて周太は微笑んだ。
本来が怜悧な性質で実直な英二はあの時、鑑識の知識不足を補いたいと真剣に思ったのだろう。
それで周太のところに毎晩来ては勉強して、気がついたら英二は鑑識も得意科目になっていた。
そうして身に付けた鑑識知識がいま、自殺遺体や凍死体の死体見分が多いこの奥多摩で勤務する英二の役に立っている。
きっとあのころの英二を、この青梅署の人達が見たらさぞ意外で驚くのだろうな?
思ったことが可笑しくて周太はすこし笑ってしまった。そんな周太を国村が覗きこんで訊いてくれる。
「うん?湯原くん、なんか楽しいことあった?」
「あ、はい…ちょっと、英二のね、警察学校の時を思い出して」
「ふうん、どんな話?」
ちょっと興味があるよ?底抜けに明るい目を笑ませて訊いてくれる。
なんだか楽しくて周太は女子寮侵入の冤罪と鑑識の話を国村に聴かせた。
ちょうど標高1,500mの実験場に着くころ話し終えると国村が少し驚いたように言った。
「へえ、宮田がねえ?女子寮侵入の嫌疑も驚きだけどさ、あいつが予習もしてなかった、っていうのはもっと意外だね?」
「ん、そうなんですよね…あの頃と今だと、きっと別人みたいです」
「ほんとだよ、あいつ。堅物クソ真面目のクセにさ、そんなチャライことするなんて生意気だよ、ねえ?」
生意気という表現が面白くて周太は笑ってしまった。
でも確かに国村の言う通りだろう。本来が実直で真面目で一途な英二は、本質的にストイックな部分が強い。
だからこそ警視庁管内でも厳しい現場になる奥多摩地域を希望し山岳救助隊の道も選んだ。
その厳しさは今回、こうして一緒に任務に就いてみて周太は身に染みて感じてしまう。
いま後ろで英二は鑑識について吉村医師と話していた。
その様子はごく日常的な会話をする雰囲気で国村も普通の顔をしていた。
そんな「普通」は、この青梅署が鑑識知識が日常的に使われる現場だということになる。
それだけ死体見分の件数も多く経験する、そんな現実が垣間見えてしまう。
それにいま雪道を夜間歩いている時も、青梅署のメンバーの誰もが馴れた雰囲気だった。
山岳救助隊員はもちろん刑事課のメンバーも普通に暗い雪道を歩いていく。
きっとこんなふうに夜間でも雪でも、遭難救助に捜索や見分などがあれば駆けつけているのだろう。
自然の厳しい環境にも、任務の為には分け入っていく。
そんな厳しさは副都心である新宿署にはもちろん無い、そしてきっとこの現実を都心部の警察官は知らない。
…そして、自然の厳しさの前には、言い訳なんて出来ない
標高1,500m実験場での夜間狙撃実験が始まった。
横では国村がどこか馴れた雰囲気で的確に標的を狙撃していく、そんな様子が並んで同時に標的を見つめていても伝わってくる。
この国村の「馴れ」は恵まれた才能や体格、環境からも生まれるものだろう。
けれど国村の雪山での狙撃に慣れた技術は、それだけ厳しい環境を日常とするから生まれている。
さっきまで国村の才能や体格、環境をただ羨ましくも想った、けれど今、標高1,800mの実験場と往復して理解できる。
…厳しい現場に、真直ぐ立ってきた。だから出来ることなんだ…
国村はこの奥多摩に生まれた、奥多摩の山を愛して農家を営んで、奥多摩で山ヤの警察官になった。
その生き方は国村にとって楽しく自然体だろう、けれど都心部での生活よりずっと厳しい自然との対峙で生きている。
そうした環境の厳しさの1つに「クマ撃ち」の姿があり、雪山での狙撃にも馴れた姿が作られている。
そんな自然環境の厳しさの前には言い訳など許されず頼るのは「自分」しかいない。
そんな問答無用の峻厳を周太は今夜の狙撃に思い知らされた。その厳しさも真直ぐ受けとめ楽しむ明るさと強さが国村にはある。
…厳しいからこそ、きっと、明るくて優しい
そんな国村がまぶしい、そして大好きだなと素直に想えてくる。
さっき奥多摩交番の2階で国村の体を見た時は羨望で苦しくなった、けれど今はもう違う感情に変わっている。
国村の無駄のない逞しい美しい体は、自然の峻厳にも真直ぐ立つ生活から生まれたもの。
その生活には日々細かいことにもきっと、日常的にすらなった努力があるのだろう。
そんな努力に気づかずただ羨ましく思いかけていた、自分は本当に幼いのだと気付かされる。
それでも今日、気付けて良かった。
今日この雪山で国村の姿をすこし知れた、だからきっと嫉妬から自由になっていけるだろう。
そんな想いにかすかに微笑んで、周太は最後の一発の狙撃を終えた。
奥多摩交番へ戻ると国村と周太は銃のメンテナンスをした。
それから明日の打ち合わせを済ませると国村の運転するミニパトカーで青梅署への帰路に着いた。
後部座席に座った周太の隣には吉村医師がまた乗ってくれている。
冬山用の装備でいる吉村はいつもの白衣姿より、どこか愉しげで陽気にも見えた。
「湯原くん、おつかれさまでした。雪山で夜間で、初めて扱う狩猟用ライフルで。
どれもが決していい条件ではありません、それでも引き受けてくれて。本当にありがとうございました」
穏やかな笑顔で吉村医師は頭を下げてくれる。
そんなふうにされたら困ってしまうのに?周太は素直に想ったままを吉村に話した。
「先生、こちらこそいい機会を戴きました。
本当なら七機の銃火器対策の方にお願いする任務でしたよね?
俺はまだ卒配期間の新人です、それでも俺を呼んでくださって、任せて下さって…本当に、ありがとうございます」
今回の出張の発端は、周太が英二のことで不安になって吉村医師に電話したことだった。
そんな我儘を聴いて吉村医師は、新人でも周太の指名に踏み切ってくれた。それが申し訳なくて周太は頭を下げた。
けれど吉村医師は笑って周太に言ってくれた。
「湯原くん。君はね、11月の全国警察射撃大会での優勝者でしょう?
だから君にお願いしたかったんです、後藤さん達とも話していました。この実験は的中精度が大切ですから」
「あの、俺、ちゃんと的中できていたでしょうか?
俺、ライフルは競技用しか知らなくて。装薬ライフルの狩猟用は、初めて見たくらいなんです」
拳銃はきっと大丈夫だった。けれどM1500はどうだったのだろう?
競技用ライフルなら数ミリの誤射も防ぐための装備がある、けれど狩猟用ライフルではそこまでの精度は持たせていない。
そうした初めての照準や装備に正直、周太は途惑いながら最初は狙撃していた。
見た感じは的中していた、けれど数ミリの誤差が気になってしまう。
そんな周太に吉村医師は笑って教えてくれた。
「今日は夜間で時間が無いから詳細な調査はしていません。けれど弾痕だけは見ました。
どれも全てがね、きちんと的中していましたよ。国村くんも湯原くんもね。そうでしたよね、宮田くん?」
吉村医師の呼びかけに周太の前の助手席から英二が振り返ってくれる。
そしてきれいな笑顔で周太に笑いかけて教えてくれた。
「はい、そうです。ね、周太?きちんと周太は出来ていたよ、やっぱりすごいね、周太」
「ほんと?…よかった、」
ほんとうに良かった、うれしくて周太は微笑んだ。
吉村医師は新人警察官の自分を信頼して、優秀で現場の実績もある国村と並んでの射手に選んでくれた。
その信頼に周太は応えたかった、今日の分は出来ていたことが安心になって温かい。
ほっとため息を吐いた周太は、ふっと気持ちの張りが緩んでいくのを感じた。
…明日は、明け方と日中の狙撃…それから、ザイル狙撃?
そう、ザイル狙撃。
いったいどういう目的なんだろう?
そんなことを考えているうちに、ことんと周太は眠りにおちこんでいった。
やわらかな背中の感触があたたかくて気持ちいい。
気持ちいいなという感覚の底から、ふっと周太の瞳が披かれた。
ゆるやかに合っていく焦点に切長い目が映りこんで、きれいに笑いかけてくれた。
「おはよう、周太。俺の婚約者さん、」
ひとつゆっくり周太は瞬いて、小首を傾げて英二を見上げた。
さっきまでミニパトカーの後部座席に乗っていた。けれど天井が英二の向こうには見えている?
背中の下はやわらかなベッドが気持ちいい。
…墜落睡眠、しちゃったのかな?
ことんと眠り込んだ、そんなかすかな記憶がある。
そのまま英二が運んでくれてビジネスホテルにチェックインしたのかな?
そう考えながらも目の前の笑顔がうれしくて、周太は手を伸ばして英二の頬にふれた。
「…えいじ?」
呼んだ名前にきれいに笑ってくれた。
笑顔に近づきたくて掌でくるんだ顔を惹きよせると笑顔が近づいて、やわらかな感触が唇にふりこぼれた。
「…っ、」
やわらかな熱、惹きこまれる甘やかな熱、ゆっくり幸せな想いが充ちてやさしい。
午前中には新宿で英二の無事を願って想いに涙が流れた。そして今はキスに熱がふれてくれる、そんな幸せなが温かい。
しずかに離れて英二は周太を見つめてくれた。
「周太、俺のこと、迎えに来てくれたね?…ありがとう、周太。愛してるよ」
迎えに来てくれた。そんなふうに英二は解ってくれている。
想ったままを素直に伝えたくて周太は唇を開いた。
「…ん、…ただ待っているのは、嫌だったんだ…あいしているから」
言っている端から頬も熱くなってくる。
やっぱりこんなの気恥ずかしい、けれど想いは伝えられてうれしい。
そんなふうに見上げていると笑って英二は抱き上げてくれた。
「周太、おいで?」
軽く英二は抱き上げてソファに座らせてくれる。
気恥ずかしさに俯いて、ふと周太は気がついた。
シャツの裾が長い?袖も長くて掌を覆ってしまう。このシャツは自分のじゃない?
…あ、きっと、英二のシャツ
大きめのシャツが可愛かった、そう英二は年明けに言ってくれた。
だからまた着せくれた?気恥ずかしくて頬が熱いまま座っていると英二は食事を並べてくれた。
自分が眠っている間に買ってきてくれたのだろう、自分だけ寝ていたことが申し訳なくて見つめていると、グラスを渡してくれた。
「はい、周太」
「あ、…ありがとう、英二」
グラスにはオレンジ色の発泡性の飲み物が入っている。この色と香りに周太は覚えがあった。
年明けに実家で飲んだあのお酒?だとしたら気恥ずかしい、そっと周太は英二の顔を見あげた。
そんな周太のグラスにグラスでふれて英二はきれいに笑ってくれた。
「ミモザだよ?」
スパークリングワインとオレンジのカクテル「ミモザ」
ヨーロッパでは結婚式の祝の酒だと、婚約の花束を贈ってくれた夜に英二が教えてくれた。
そして知らずに飲んだ自分を英二はそのまま抱きしめて「あの時」を始めてしまった。
記憶の恥ずかしさに顔あげられなくてグラスを見つめてしまう。困っていると英二は笑いかけてくれた。
「軽めの酒だし一杯だけだ、よく眠れるようにね、周太?」
「…ん、はい」
これはオレンジの味がおいしかった。
グラスに口つけるとオレンジの香がおいしい、ひとくち飲んで周太は笑った。
「おいしいね?オレンジの香で好き…けっこんしきのなのは…はずかしいんだけど」
「うん、周太。このあいだもさ、気に入ったみたいだったから。
好きなら恥ずかしがらずに飲んで?ほら、周太?オレンジのケーキもあるよ?」
気に入ったと気付いてくれた心遣いがうれしい、自分の好みを英二は知ってくれている。
こんなふうに自分を喜ばせようと気遣って英二はいつも優しい。
この優しさに自分はどれだけ救われてきただろう、うれしくて周太は微笑んだ。
「あ…うれしいな、甘いもの、ちょっと食べたかったんだ。あ、」
周太は立って自分のボストンバッグを開いた。紙袋を取出すと中身は壊れていないらしい。
良かったと思いながらソファに座りなおすと紙袋を開いた。その袋を見て英二が微笑んでくれた。
「いつものパン屋、今日も行ったんだね、周太?」
「ん…いつもね、当番勤務の日はここで買って、夕飯にするんだ」
これを言うのは気恥ずかしい。
このパン屋は英二の記憶がたくさんある、しかも英二の好きなクロワッサンを買っている。
当番勤務にこれを持って行くなんて勤務中まで英二のことを想っていると解ってしまう。
けれど英二が好きだからと持ってきてしまった。クロワッサンとオレンジブレッドを皿へ置くと英二が笑いかけてくれた。
「ね、周太?このクロワッサン、半分こしてくれる?」
「英二もし食べたかったら、1個ぜんぶ食べてもいいよ?…俺、オレンジの食べたいし」
予想通りがうれしくて周太は笑いかけた。
けれど英二は微笑んで半分にすると1つを周太に渡した。
「はい、周太?俺ね、半分こしたいんだ。周太とね、1つを分けっこしたい」
「そうなの?」
好きなパンなのに半分が良いなんて?どうしてかなと見た英二の笑顔がすっと近づいて周太の頬にキスをした。
嬉しいけど恥ずかしい。困ったなと思っていると英二が何か思い出したように少し笑った。
楽しそうで周太は訊いてみた。
「どうしたの、…英二?」
「うん、周太はね、きれいで可愛くって、大好きだなあって思って」
半分のクロワッサンを手にとって周太は英二を見た。
それで笑っていたの?不思議でまた訊いてみた。
「それで、笑っていたの?」
「そうだよ、周太。周太が俺の婚約者で良かったなあってさ、幸せで笑った」
「ん…?そう、なの?」
なんだか英二がすこし変?違和感を感じながらも周太は食事を口にした。
野菜を使った惣菜が何品かある、トマトのカプレーゼがおいしかった。
実験場で何が食べたいと英二が訊いてくれた時、野菜と周太が答えたから気を遣ってくれたのだろう。
そんな気遣いがうれしい食事がすんで周太はコーヒーを淹れると、オレンジのケーキにフォークをつけた。
あっさりした甘さと生のオレンジがおいしい、好みの味が嬉しくて英二に笑いかけた。
「ん、…英二、このケーキおいしいよ?」
「よかった。ね、周太?俺にもひとくちくれる?」
「はい、どうぞ?」
周太はケーキ皿にフォークを添えて差し出した。
けれど英二は笑って長い人差し指で自分の口元を指差してみせた。
「ね、周太?あーん、してよ」
さっき英二が実験場でしたあれだろうか?気恥ずかしくて熱が首筋に昇ってくる。
でもしてほしいな?そんなふうに英二から微笑みかけられた。
「お願い、周太?俺、周太に食べさせてほしいよ?」
「…そう、なの?」
どうしよう?皿を片手に持ったまま考え込んでしまう。
そんな周太を見ながら英二はきれいに笑った。
「そうだよ?」
こんなきれいな笑顔で言われたら断れない。
周太はフォークを持つとケーキを一口分切った。
そしてフォークの先に刺すと英二の口元へ差し出して、困りながら周太は口を開いた。
「あの、はい…」
ちょっと「あーん」は難しい自分はこれが精一杯。
これで勘弁してほしいな?そう見つめた英二は笑ってケーキを口に入れてくれた。
良かった、安心してケーキを食べて始めた唇の端を温かい感触が撫でた。
「…っ!」
いま唇の端を英二は舐めたの?驚いて呼吸が一瞬止まってしまう。
そんなに驚かなくてもいいのに?そう瞳を覗きこんで英二は教えてくれた。
「トマトが付いていたんだよ、周太?」
「…ん、はい…とってくれてありがとう」
唇の端を気にしながら周太は食べ終えたケーキの皿をテーブルにおいた。
その隣でまた英二が何か思い出したように笑い始めた、さっきから何を笑うのだろう?
こんなに可笑しがるなんて?周太は訊いてみた。
「英二?今日はどうしたの?」
聴いて見上げた先で英二の目が愉しげに笑っている。
愉しげな目はどこか親しみを想うような雰囲気のまま英二は周太に訊いた。
「うん?ね、周太?もし俺がね、誰かに襲われちゃったら、どうする?」
襲われる?どういう意味だろう?
この雰囲気はきっと英二には愉しい親しい相手が「誰か」だという事だろう。
そんな考えを巡らす周太に英二がキスをして微笑んだ、その途端に考えがまとまった。
襲われる、は、からだのこと?
その相手は英二にとって親しい愉しい…それは、
俯いた瞳から涙がこぼれ落ちた。
今日も何度も想ってしまった「どうして英二は自分を選んでしまう?いつもきれいな人を見ているのに」
その答えがこれなのかな?答えが哀しくて涙がとまらない。
「周太?ね、どうしたの?」
焦ったような目が周太の顔を覗きこんだ。
見つめられた瞳からまた涙がこぼれてしまう、そして小さな声が周太の唇からこぼれた。
「…くにむらさんと、なにかあった、の?」
周太は抱え込んだ膝に顔を伏せた。
伏せこんだ視界は暗くて何も見えない、それで今は良いと思えてしまう。
暗い視界へ涙を落としながら周太は心につぶやいた。
…いまは、近寄らないで…
英二は雪山に惹かれるように共に登る国村に惹かれてしまった?
それも仕方ないのかもしれない、英二の輝く場所は「山」そこに生きる国村に惹かれても当然だろう。
そして自分は父の軌跡を追う危険へ行こうとしている、そんな自分より英二は正当な場所へ国村と行った方が良い。
そんな哀しい「仕方ない」が自分で胸に痛い。
…また、孤独に戻る、のかな?
ああ、やっぱり。そんな声が聞こえてしまう。
ああ、やっぱり、こんなことならずっと独りでいれば良かった。
一度でも名前を呼ばれ愛された記憶が生まれてしまえば忘れられたら悲しい。
「Le dernier amour du prince Genghi」
源氏の君の最後の恋―『Nouvelles orientales』にある恋愛小説。
光源氏は美しく才能あふれて、けれど母の愛に恵まれず孤独のままに無償の愛を求めていた。
そんな源氏と英二と似ている、そして源氏は無償の愛を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
光源氏に最後まで尽くし無償の愛を捧げた花散里、けれど源氏の最後の時に名前を呼んでもらえない。
自分も英二に無償の愛を捧げたいと願っている、けれど、
…やっぱり、花散里と同じ…?
愛するひとに名前を呼んでもらえない、それは本当に哀しいこと。
最初から呼ばれていなければ、最初から無いものと思うから辛くはない。
けれど一度でも名前を呼ばれて愛された記憶があるのなら?
…こんなことなら、ずっと、孤独でいた方が…よかった?
ほんとうにそうだろうか?
ほんとうに英二に愛されず孤独なままでいた方が、良かった?
名前を呼ばれて愛された記憶、ないほうがいい?
涙が暗い視界へ落ち込んでいく、そんな背中に温もりが寄りそってくれる。
そっと長い腕がまわされて自分の膝ごと体がくるみこまれていく。
そして頬に温かいなめらかな感触が寄りそった。
…だきしめて、くれている、
この腕がうれしい。温もりが感触が、背中に寄りそってくる想いがうれしい。
この腕になんど抱きしめられただろう?卒業式の前から英二は抱きしめてくれていた、親しい友達として。
その記憶が懐かしくて温かい、けれど「友達として」が今は痛い。英二は「友達として」国村と体を交したかもしれないから。
きれいで純粋無垢な大らかな優しいひと、心のまま無垢な雪のように白肌の美しいひと。
あんなひとに求められて断れるひとなんているのだろうか。
「国村ね、怪我しただろ?それをさ、あいつ本当は誰にも知られたくなかったんだ。」
きれいな低い声が、そっと聞こえてきた。
周太は心を声へと寄せながら涙をこぼした。
「山ヤが誇り高いのは自分のミスを許さないからだ。
謙虚に山を学んで自分のミスを許さない、そんな誇りが山を登る自由を山ヤに与えてくれるんだ。
だから最高の山ヤの心を持った国村にはね、自分のミスじゃなくても遭難しかけたことが許せないんだ。
あいつはさ、尊敬も憧れも愛情すらね、全てを『山』に見つめている。あいつには山が全てなんだ。
そんな山に自分が怪我をさせられたなんてね、国村は誇りに懸けて許せなくて、誰にも知られたくなかったんだ」
国村はきっとそうだろう。
だから英二も口止めされているだろうと想っていた。
そして聴かされて想ってしまう、真直ぐ「山」を愛せる国村が自分も好きだ。
真直ぐ想いを懸ける一途な熱をもつ誇り高い男、そんな姿は男として憧れ尊敬してしまう。
誰も嫌いになれない、自分の想いの行方は怒りにも出来ない、ただ独り抱きしめるしかない。
そんな想いと涙あふれそうな体を抱きしめる腕に力こめられていく。その力にまた思いが募って心が蹲って動けない。
「だから国村はね、俺に口止めしようとしたんだ。こんなふうにね?
『誰かに喋るならそれでも構わない、知られたらストレスだろう、でもおまえで楽しませて貰えば解消できるから』
そんなふうに俺のことをね、あいつ脅迫したんだよ?あいつはね、俺を手籠めにしたって自分の山ヤの誇りを守りたいんだ」
「…てごめ?」
「無理やりにね、裸にさせてしちゃうことだよ?でも大丈夫、俺は、そんなことされていないから」
「…ん、」
ちいさな返事と頷いた。
そして心の底へことんと冷たい氷塊がすべりこんだのを暗い視界で見つめていた。
無理やり?今はされていない、けれどいつかされてしまう?
―おまえで楽しませて貰えば
楽しむ、そんな単語が心に痛い。
英二は楽しそうに思い出し笑いをしていた。
だから解ってしまう、きっと英二にとっても「楽しい」ことなのだろう。
けれど無理やりなんて絶対にだめ、英二を傷つけてほしくない。
たとえ英二が自分を忘れてしまっても傷ついてなんか欲しくない。
…だって唯ひとり愛してる、他なんかいない、唯ひとつだから、きれいでいてほしい
だからお願い。このひとに無理強いなんてしないで傷つけないで。
けれどもし英二みずから望むなら止めることも自分はしないから。
最高峰へ望んで登るのを見送ると同じように、英二が望むように生きることを止めない。
だって自分が一番願っている、英二が望みのまま自由に生きて心から笑っている姿を。
唯ひとつ、もし自分の願いが叶うなら。
きっと自分はこれだけを願ってしまう、祈ってしまう。唯ひとつの想いだから叶えてほしい。
“英二の笑顔がきれいなままでいてほしい”
だからどうか英二の笑顔を壊さないで?
無理強いして傷つけないで、お願いだから。だから自分も英二を無理に隣に止めることをしない。
けれどもし許されるなら、きれいな笑顔を見つめて報いを求めない愛を与えてあげたい。
ただ受けとめて安らがせてあげたい。
花散里のように忘れられてしまっても、ひとときでも英二を隣に迎え安らがせてあげられたなら。
そして名前を呼ばれ愛された記憶があるのなら、それで幸せだと想えてしまう。
こんなことなら孤独でいた方がよかった。前はそう思っただろう。
けれど今はもう愛されず孤独なままでいた方が良かったなんて思えない。
だって今まだ涙は止まらないけれど、静かな温かいものが心に座ってくれた。
名前を呼ばれて愛された記憶。
その記憶がいま心に座って強い静かな温もりになってくれている。
これがあればきっと平気。そんな想いがもう心に動かない。
孤独な13年間は冷たい世界だった。
けれどいま心には静かで温かいものが抱かれている、1つの勇気と意志と覚悟も抱いている。
その全てが唯ひとつの想いから生まれてくれた宝物の温もりたち。
だからもし独りになっても、きっとこの温もりが自分を支えてくれる。
そして許されるなら遠くからでいい、唯ひとり愛するひとの笑顔が輝く姿を見つめられたらいい。
英二が他の人を選んでも、宝物の温もりは自分のもの。だから唯ひとつの想いまで失うわけじゃない。
「国村はね、雪山に怪我をさせられた。けれど、雪山によって手当てされたんだよ、周太」
「…雪山が、手当て?」
顔はまだ上げられない、哀しい顔だから見せられない。
けれど相槌だけでも贈って言葉を受けとめてあげたい。
この声も言葉も全てが大切で、ひとつも零してしまいたくない。
「そうだよ、周太?雪の塊がぶつかって国村は打撲を負った。
その直後に雪に埋められることで怪我は冷やされ固定された、雪へ埋まることで応急処置と同じ効果を受けたんだ。
そして国村の怪我は最小限で済んだ。だから俺は思ったんだ。国村は本当に山に愛されている、本当に山の申し子だってね。
こういう事があるのかって不思議だった。でも国村らしいって思ったよ。だから俺はね、あいつに思ったまま言ったんだ」
山の申し子。
そんな国村だからこそ「山」を愛し始めている英二も一番の友達としていたい。
そして自分も国村を、憎むことなんて出来ない。
「…ん、…よろこんだでしょ?国村さん」
「うん。明るい顔でね、うれしそうだったよ、周太」
よかったと心から想えてしまう。国村を嫌いになんてなれない、温もりをたくさんくれた人だから。
けれどもし英二に体を無理強いをするのなら、何を懸けても止めてしまいたい。
英二は唯ひとりの人だから、少しも傷つけてほしくない、きれいなままでいてほしい。
そんな想いと蹲る体にそっと抱きしめる力が強くなって微笑んだ気配に英二が言ってくれた。
「そこまでしても国村が誇りを守りたい気持ち。それは俺にも解るんだ。俺もね、周太のことでは同じだから」
…同じ?
そっと周太は顔を膝からあげて、隣の切長い目を見つめた。
泣顔のままの周太にそっと英二はキスをしてくれた。
「周太?俺はね、周太を守る為なら何だってする。
周太を守って幸せにする事、それがね、俺にとって一番の誇りなんだ。だからお願いだ、周太?俺を捨てないでよ」
捨てる、わけなんてないのに?
英二が他の人を選んでも、この唯ひとつの想いを自分は手放さない。
もし花散里のように忘れられても、もう自分の想いは枯れることすら出来ない。
誰よりも想ってくれて名前を呼んで愛してくれた、唯ひとりの記憶が色あせることはない。
そんな記憶たちは温もりの宝物になったから。
婚約者と呼んで、絶対の約束を結んで、最高峰から想いを告げてくれた。
そんな愛しい想いをたくさんくれたひと、だから今も笑っていてほしい。
きれいに笑って周太は掌を英二の頬に添えてキスをした。
幸せな熱がふれて願いを想う ― どうかこのまま、きれいな笑顔で生きていて?
そのためになら自分は全て懸けて後悔しない。周太は真直ぐ英二を見つめた。
「捨てない。俺は英二の隣でいたい。だから今日も俺、…ごめんなさい、英二…ほんとうは俺、今すぐ警察官を辞めようって思った」
「周太?どうして、」
英二が驚いている。
「父の軌跡を追うために自分は警察官になる」その想いだけに13年間を全て懸けて自分は生きてきた、それを捨てると言ったから。
けれどもう自分は唯ひとつの想いを英二の為に抱いてしまった。それを英二に聴いてほしい。
愛された幸せな記憶を贈ってくれたこと、その感謝と幸せな自分の想いを知ってほしい。
いつか忘れられてしまうかもしれない、それでも今この一瞬でも知ってくれたらいい。周太は静かに唇を開いた。
「いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しい…だから警察官を辞めようとしたんだ」
視界に涙の紗が降りていく。
それでも今を記憶したくて周太は涙こぼさずに英二を真直ぐに見つめた。
「いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…そう吉村先生に言ったんだ。
英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、…そう言ったんだ」
きっと後悔する、今日の午前中に自分はそう思った。
そしてその通りだったと今あらためて思う、今朝起きた冬富士の雪崩が「明日」を変えてしまったから。
そんな想いに見つめる向こう側で、おだやかに微笑んで英二が訊いてくれる。
「俺たち、明日には逢う約束をしていたよね。それなのにどうして周太、いま俺に逢いたかったの?」」
明日には逢える、自分もそう思っていた。
けれど今もう思い知らされる「明日があるかなんて解らない」
ほんとうは「明日」は新宿で一緒に穏かな時間を過ごすはずだった、けれど今の「明日」はもう違う。
いま隣に座る英二を真直ぐに見て周太は言った。
「だって…明日があるか、解らない…っ、」
明日があるか解らない、だから今はどうか抱きしめさせて?
明日の今頃自分はもうここに、いられないかもしれないから。
もしかしたら明日の今頃はもう、あなたは他の人のところへ行くかもしれないから。
想いのまま周太は英二に抱きついた。
「…英二…!」
どうか今は名前を呼ばせて?今しかないかもしれないから。
そして願っていいなら微かでも覚えていてほしい、自分が名前を呼んであなたを愛したこと。
そして今この時だけでも我儘を言わせて?見あげる瞳から涙がこぼれ落ちた。
「英二、待ってる、いつまでだって…だから帰ってきて英二、俺の隣だけに…お願い、英二、他のところへなんて行かないで!」
呼んだ名前、告げた約束、願いたかった「わがまま」と想いの祈りたち。
だって今この時はまだ、このひとは自分だけを想って見つめてくれている。
だから今この時は自分がこのひとを掴まえていても許されるでしょう?
まだ今なら自分が想って願って祈っても、いいのでしょう?
だから今なら触れても許される、頬の傷にふれて涙がこぼれ落ちていく。
「…怪我…なんて…ダメ…俺の知らない所で、怪我なんて、しないで…!…無事でいて、お願い…笑って帰ってきて、…!」
最高峰の氷に裂かれた英二の頬。
この傷がまるで誓約の証の様にも見えてしまう「最高峰に生きる運命に立つ」契約の聖痕のよう。
その最高峰の危険をもう思い知らされている、だってもう冬富士で雪崩が起きてしまった。
その雪崩が国村の誇りを傷つけ英二は体を要求された、そして自分は狙撃手の銃を今日初めて持った。
今日の朝まで自分は唯ひとつの想いが、ずっと続くと信じていた。
唯ひとつの相手との時間がずっと生涯続いて「いつか」幸せな時間に過ごす穏やかな日々がくる。
そんな絶対の約束と婚約と「明日」の約束。それだけを見つめて必ず隣に英二が帰ってくると信じていた。
けれど冬富士の雪崩がもう、「明日」を呑みこんでしまった。
(to be continued)
