萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 雪火act.9―side story「陽はまた昇る」

2012-02-17 22:43:40 | 陽はまた昇るside story
おおらかな想い、かがやき見つめて




第33話 雪火act.9―side story「陽はまた昇る」

朝は3人で登った道をいま英二はひとり登っていく。
アイゼンに踏みしめる雪は午後の陽に溶けて、また冷え締ってきている。
ざくりざくりと雪の音を聞きながら、おだやかな冬の陽が魅せる木洩れ日を英二は楽しんだ。
ときおり聞こえる梢から雪こぼれる音、樹幹に揺れる針葉樹の緑光る陽に、さっき聴いた曲が響いてくる。

透明な音と沈思の音がたがいに呼びかわす旋律、切ない甘い響きの音たち。
単音と和音が追いかけあい廻る、深い沈思のトーンから透明な音色にうつる共鳴。
雪や風の光、秋のきらめき冬の静謐をみせる森を想わせた、やわらかに透明な旋律の聲。
甘やかな哀切と明るい温もりが美しいピアノに、やさしい低い透りぬけていく美しい声。
ふっと歌詞の一節が想いこぼれて英二は口遊んだ。

「…季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように…夢なら夢のままでかまわない」

底抜けに明るい目をした誇らかな自由まぶしい、誰より大好きな友人。
秀麗な顔に似合わぬエロオヤジで酒豪で、自由な心のままに恋愛も経験も楽しめる余裕が大きい。
美しい山ヤの最高の魂のまま純粋無垢まばゆい、常に真直ぐな偽りない心で英二を運命の友だと言ってくれた。
冬富士の雪崩にも共に耐え抜いた絶対的信頼を結び合える、唯ひとりの生涯のアンザイレンパートナー。
そんな友人が自分の唯ひとり愛するひとに、永遠の「無償の愛」を誓う歌を詠いあげた。

「…枯れない花のように、」

ふっと口遊みこぼれる想いの歌詞が、雪の里山へと静かにとけこんだ。
昨夜も唯一言で誇らかに国村が告げた言葉が、この歌詞に響いてしまう。

―大切だよ?

ただ一言に告げた想い。
誇り高らかな自由に純粋無垢なままの恋と、大らかな温かい透明な愛。
これが国村の唯一の「逆鱗」でもある唯ひとつ大切にしたい想い。
そんな想いがあの歌に教えられた、永遠の無償の愛だと真直ぐに透明なテノールの声が旋律に告げていた。
きっとまだ今の自分には理解しきれない深い大きい純粋無垢な想いたち。

― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

昨夜に国村が言ったことは、この大らかな美しい「無償の愛」を告げていた。
こんな愛し方があるなんて自分は知らなかった、そして知った今は敵わないと思ってしまう。
それでも自分は、自分なりの愛する想いに周太を大切にしたい。
たとえ周太がこの「無償の愛」を選んでも受け入れたい、それが周太の望みなら叶えてあげたい。
そんな祈りがもう心に芽生えて温かい、その温もりがどこか誇らしくて英二は微笑んだ。

登山道から参道に抜けて、山上の集落を歩いていく。
今朝は3人一緒に歩いた雪の道、秋には雲取山に登った翌日に周太と一緒に歩いた道だった。
ざくりとアイゼンに雪ふんで歩き、英二は一本の常緑樹の前に佇んだ。
濃い緑の葉が艶やかに冬の陽へ照り映えている、その豊かな緑のはざまには白い花が凛として空へ咲いていく。
雪を頂きながらも白い花は繊細な花びらを青空へ咲かせ、冬の陽にまばゆく端然と佇んでいた。

―…あの山茶花が、ここにも咲いている…なんか、嬉しいな…なんかね、迎えてもらう感じだな

雲取山から下山した初雪の翌日、周太はこの木を見あげて微笑んでいた。
出逢った頃の頑なで強張っていた顔と別人の穏やかな顔になった、そんな笑顔をうれしく自分も見つめた。
この木は山茶花『雪山』という名の周太の誕生花、同じ花木が川崎の庭でも佇んでいる。
この木を周太の分身のようにも想えて自分は毎日見つめてきた。
一緒に見上げたあの日から2ヶ月を過ぎて今は雪のなかひとり佇んで見上げている。
そして周太は今この奥多摩で英二に体ごと刻まれた心の傷を癒されているだろう、大らかな国村の想いに包まれながら。
いまどうか周太が幸せに微笑んでいてほしい、祈る想いに英二は山茶花へ微笑んだ。

―…ね、周太?俺たちはさ、…いろんなことが、あったね?

春に出逢ってから10ヶ月、周太は英二を支え続けてくれた。
きっと出逢いの瞬間から惹かれていた、純粋で繊細な強い眼差しに見惚れていた。
警察学校を脱走した夜には哀しみを受けとめて泣かせて、暗い憎悪から救ってくれた。
それから拳銃と父親の話をして警察官の道に立つ覚悟を教えてくれた、女子寮侵入の冤罪の時も信じて援けてくれた。
そうして山岳訓練の日に初めて周太を背負い、ともに山岳レスキューへの夢も自分は背負った。
そして迎えた卒業式の夜に英二の想いを受けとめて体の繋がりを受入れてくれた。
あの夜の周太はずっと震えていた、痛みを堪えて泣いていた、それでも逃げないでくれた。
そんなふうに受けとめて隣にいることを選んでくれた、ただ「英二のきれいな笑顔が大切」それだけの理由で。

―…俺の笑顔だけ、祈ってくれた…周太、いつも…

そして今の全てが始まって、自分は山岳救助隊員として山ヤの警察官として生きる道も誇りも、最高峰の夢まで手に入れた。
そんな自分の夢も誇りも全てを、周太は微笑んで受けとめて純粋なやさしい温もりで支えてくれた。
10歳の純粋無垢なままでも強く立って勇気を抱いて、ずっと自分を支えてくれた。
それはどんなにか決断と覚悟が必要だったことだろう?
どれだけ周太は泣いたのだろう?

―…たくさん、泣かせたよね?…ごめん、…ごめん周太

その涙と想いに自分は報いたい。
英二が望みのまま生きることを望んでくれた周太、だから周太が望みに生きる姿を自分が今度は支えたい。
たとえ周太が国村の愛を選んだとしても微笑んで受け入れたい、そして真直ぐに周太を守りたい。
それがたとえ自分の居場所を失うのであっても構わない。
ただ真直ぐに心で繋がり支える大きな愛情を自分も抱きたい。

―…ね、周太?俺はね、今からが本当に周太を愛せるようになる…きっと、

ゆっくり目の奥へ熱が昇りかける、それも微笑んで英二は瞬くと想いと一緒に呑みこんだ。
そうして涙を呑んだ心から、想いが言葉になってこぼれた。

「…周太、ありがとう、…愛しているから、自由をあげたいよ?そして、笑ってほしいよ、」

雪輝く御岳の空へと想いがとけて、ふく山風が駆けぬけた。
やわらかな雪ふくむ山風に白い花びらが舞いふって、ゆるやかに英二の頬を撫でて花は散っていく。
静謐の御岳の山に咲く白い花の木の前で英二は舞いふる花に微笑んで佇んだ。


夕食は周太のリクエストで「ラーメン」だった。
青梅署診察室での吉村医師と過ごすコーヒーの時間を楽しんで、国村の四駆に周太の荷物を積んだ。
そして周太のリクエストに国村は笑って、青梅署からも近いラーメン屋に四駆を停めてくれた。

「海鮮系だよ、海老と鯛のだしがあるんだ、」
「へえ、変わってるな?」

英二も初めて来た店だった、食券を買って注文すると水を飲んでひと息ついた。
初めての店を珍しげに眺めている周太が可愛くて英二は微笑んだ。
いつもの新宿の店とは雰囲気がまた違う、きっと珍しさを周太も愉しんでいるのだろう。
間もなくラーメンが運ばれて、食べながら英二は口を開いた。

「午後は?」

質問に国村は底抜けに明るい目で温かく笑んで頷いてくれる。
そしていつもの調子でからり応えてくれた。

「うん、ちょっと近場のね、景色のいいとこ案内したよ。奥多摩湖とかさ、あとはウチで茶を飲んだね」
「あ、国村ん家に行ったんだ?」

ひとつ心拍を聞いて英二は相槌を打った。
午前中も国村の家でふたりは過ごしていた、それは重箱の牡丹餅といなり寿司で堂々と国村は明かしている。
けれどピアノのことは周太も何も言わない、だから英二も訊かないでいた。
午後もまた国村はピアノを弾いたのだろうか?そんな質問を温かいスープと一緒に英二は呑みこんだ。
きっと聴かない方が良いな、そんなふうに秘密をそっと見守っていたい優しい想いが素直に生まれている。

ふたりの繋がりに気づき、国村の怒りに自分が犯した過ちを気づかされたのは数時間前のこと。
その数時間で自分も随分と変われたのかな?いま自分の裡に見つめられる優しい沈黙が進歩を感じさせてくれる。
すこし大人になれたかな、心の麻痺が治ったかな?うれしくて微笑んだ英二に、ゆったりと周太が教えてくれた。

「ん、…写真をね、見せてもらったんだ。きれいな雪山の写真、素敵だったよ?」
「雪山?…あ、田中さんのか?」

御岳を愛したアマチュア写真家の山ヤ、田中。
田中は国村の親戚で、マナスルで亡くなった両親の代わりに国内の高峰へ国村を連れて登り山ヤの基礎を教え育てた。
その田中は氷雨に打たれ故郷の御岳山に抱かれる眠りについた、その時に田中を看取ったのは英二と国村だった。
御岳を愛し美しい山ヤの人生を送った田中は「山を愛する気持ちを撮っている」と英二にも教えてくれた。
その遺作を何点か国村も持っていると聴いていた、英二の質問に国村は懐かしげに微笑んだ。

「うん、田中のじいさんと一緒に登ったときの写真とかね。あとはさ、おやじの撮ったやつ」
「おやじさん、写真家だったのか?」

高峰マナスルで国村の両親はセラック崩壊に巻き込まれ亡くなったことは英二も聴いている。
あとは農家だったことは知っているが、写真のことは初耳だった。聴かれて国村は笑って教えてくれた。

「農家やりながらね、登りに行くと撮ってた。山専門のフリーカメラマンだったんだ、学生時代かららしいけどね」
「へえ、すごいな。じゃあ国村、身内にカメラマンが2人もいるんだな、」

英二の質問に笑って国村は頷いた。
そして箸を動かしながら父親の話をしてくれた。

「そういうことになるな?おやじはね、田中のじいさんの影響で山も写真も始めたんだよ。
で、おやじはプロになっちゃった。だからさ、ウチのじいさんからすると『写真の所為でクマ撃ちをやらなかった』ってお冠だ」
「そっか、それで国村のことは子供の時からクマ撃ち猟に連れて行ったのか?」
「そ、早いうちに仕込んでしまえってね。で、お蔭で俺はさ、射撃も写真もそれなりになれたってワケ」

からり笑って教えてくれる。
いま「写真も」って言ったな?英二は首傾げて微笑んで訊いてみた。

「おまえ、写真も出来るんだ?」
「うん?ま、出来るってほどでもないけどね。
おやじと田中のじいさんとね、2人掛かりで山に連れてかれて写真撮ってればさ?いいかげん覚えちゃうだろ、」
「ふうん、おまえって何でも出来るな?ね、周太、国村の写真は見たの?」

急に話が回ってきて驚いたように周太が丼から顔を上げてくれた。
ちょっと驚いて大きくなった瞳が可愛い、やっぱり愛しくて英二は微笑んだ。
すこし首傾げると周太は口を開いてくれた。

「ん、見せてもらったよ。マッターホルンとか…三大北壁?どれもね、きれいだった」
「グランド・ジョラスとアイガー?」
「ん。そう、それ…マッターホルンのね、山小屋が不思議だった…どうやって建てたのかな、って」

温かな丼に箸をつけながら周太は明るい目で楽しそうに話してくれる。
きっと寛げる楽しい時間を過ごしてきた、そんな様子が解って英二は嬉しかった。
こんな寛ぎを自分はあげられない、けれど周太には必要な事だとこんな会話の様子からも解る。
これからどう周太に接したらいいだろう?その考えを新宿に着くまでに纏められるだろうか?
出来れば新宿での別れ際にはきちんと話しておきたい、そして落ち着いた心で周太には2月の射撃大会に臨んでほしい。

2月に開催される警視庁けん銃射撃大会。
その場もきっと周太を狙撃手の後任として見られる機会になるだろう。
父の軌跡を追って向き合うために周太が選んだ道、けれど本来の周太の性質では困難すぎる道になる。
それを援けるためにも自分は今、周太への独占欲も乗り越える必要があるだろう。
きっと国村なら周太を守る為に最大の協力者・パートナーになれる。
けれど誇り高い国村は対等に認めなければパートナーにはならない、結果として国村だけの力で動くだろう。

そしてすでに威嚇発砲の件で国村は、独りで周太を援けてしまっている。
そのことを国村はまだ英二には話さない、それは周太を守る上でのパートナーとしては英二を認めていないという事だろう。
英二が踏み込むべきではない周太と国村の繋がりに懸けて、国村は周太を守ろうとしている。
それを英二は昨夕に周太の体を無理強いしたことで踏み躙ってしまった、そして国村の周太についての信頼も裏切った。
「アンザイレンパートナーと周太を守るパートナーは別件」そんな声が聞こえそうになる。

「ね、英二?…マッターホルンの頂上でもね、写真送ってね、」

落着いた大好きな声に英二は沈思から顔を上げて周太に微笑んだ。
本当は周太はいま英二を怖いはず、それでも優しい「約束」を求めてくれる。
きっと優しい約束で英二が無事に帰ってこれるよう気遣って、今もさり気ない優しさで包んでくれる。
こんな大切なことも前は気づけない事も多かったかもしれない、今は気づけた「ごめんね」を想いながら英二は微笑んだ。

「うん、送るよ?…ありがとう、周太」
「ん?…こっちこそね、英二?ありがとう、だよ、」

やわらかな笑顔がまぶしい。
周太はこの数時間できれいになっている、それだけ幸せな時間を過ごしてくれたのだろう。
この数時間を国村に周太を託した自分の選択は正しかった、間違えなかった事が嬉しくて英二はきれいに笑った。

新宿署の近くに国村は四駆を停めてくれた。
国村は周太の荷物をまとめると、英二に渡して底抜けに明るい目で笑ってくれた。

「ほら、ちゃんと寮の入口まで送り届けてこいな?ここで俺は待ってるよ、」
「一緒に行かないのか?」

訊いた英二の額を白い指が軽く小突いた。
そして細い目を温かく笑ませて国村は言ってくれた。

「ばかだね、おまえは。ふたりで話すべきことがあるだろ?婚約者としての責任をきちんとしてきなね、俺はここで待ってるよ」

からり笑うと国村は周太の前へと立った。
やさしい眼差しで黒目がちの瞳を覗きこむと、おだやかなトーンで微笑んだ。

「次に会うときは競技会かな?風邪とかひかないようにね、楽しみにしてるよ」
「ん、ありがとう…お互いに気をつけようね、」

黒目がちの瞳が微笑んで国村を見あげている。
ふたりの空気はおだやかで透明なやさしさが、きれいだった。
この空気を守ってあげたい、そんな願いがふっと心に自然に起き上がって英二は微笑んだ。
こういう優しい気持ちを自分が抱けたことが意外で、なにか温かさが心に充ちてくる。
こんな想いはうれしい、温かな気持ちを抱いて英二は周太に笑いかけた。

「周太、行こうか?」
「ん。荷物ありがとう…ごめんね、英二?」
「そんなふうにさ、あやまらないでよ。周太?じゃ、国村。ちょっと行ってくるな、」

すこし歩いてすぐに新宿署独身寮の入口に着いた。
いつも別れる大きな街路樹の下に立つと、英二は周太へ微笑んだ。

「周太、すこしだけ話を聴いてくれるかな?そしてね、本当の周太の気持ちを、出来たら答えてほしいよ」

微笑んで英二は黒目がちの瞳を真直ぐに見つめた。
見つめた瞳はすこし考えて、けれど真直ぐ見つめ返して笑って頷いてくれた。

「ん。なに?英二…」

頷いてくれる笑顔がきれいで、このまま抱きしめたい。
けれど今は話して心を向き合うべき時だろう、ひとつ呼吸して英二は口を開いた。

「周太、俺はね、卒配してからはさ、ずっと俺が周太を守っていると思っていた。
でも本当はね、周太…俺がずっと周太に守ってもらっていた。
いつも周太が『お帰りなさい』って言ってくれる、その優しさにね、俺は守られていた。
でも周太、もし、俺が実家に帰れない事に周太が責任を感じているなら、それは違うんだ。周太の所為じゃない、」

目の前の黒目がちの瞳がすこし大きくなる。
やさしい眼差しが英二を真直ぐ見つめて「どうして?」と訊いてくれる。
ほんとだよ?そんな想いで見つめ返して英二は微笑んだ。

「俺が実家に帰らないのはね、母親にもう会いたくないからなんだ。
あの卒業式の夜、もし周太に告白していなくても。きっと俺は実家に帰らない。
なぜならね、周太?俺はもう母親にとって『理想の息子』じゃないんだ、だから帰らないんだよ。傷つけあうだけだから」

「…理想の息子じゃない、って…」

黒目がちの瞳が哀しそうに揺れてくれる。
こんな顔させたいんじゃないのに?けれど自分の為に哀しんでくれることが幸せで嬉しい。
でも気にしないでほしい、そんな想いで微笑んで英二は口を開いた。

「俺ね、子供の頃にさ、避暑に行った先で泥だらけになったんだ。そのとき母親は俺を見ないフリした。
それで姉ちゃんが俺を洗って怪我の手当てしてくれた。きれいになった俺を見てね、母親はやっと振向いてくれた。
そんな母なんだ、だからね?いま俺が山岳救助隊員として毎日向き合う業務も母には受け入れられないんだ。
遺体を見分したりさ、救助の応急処置で手を血だらけにしたり、泥だらけになる。そんな俺の掌はね、母には受け入れられない」

苦労知らずにお嬢様育ちの母。
きっと山岳救助隊員の実情を知ったら、卒倒するだろう。
だから英二は母に何も言っていない。母は都市の警察官しか知らないから英二もあの姿だと思っている。
けれど自分が立ちたい現場は都市ではない、山ヤの警察官として山に廻る生と死と峻厳な山の掟に従う現場に立ちたい。
その想いを英二は素直に言葉にした。

「きっと母にとっては俺の掌は泥と血にまみれた汚らわしい掌だ。
けれどね周太?この掌が泥と血に塗れた分だけ、俺は自分の生き方に向き合えた。俺にとって今この掌は誇りなんだ。
山を愛する人を手助けした掌だ。疲れた最後に山で安らぎを求めてね、自分から山に眠った人の想いを受け留めた掌だよ。
それは厳しい、でもその厳しさに俺は立っていたい。そして最高のレスキューになって最高のクライマーと最高峰へ登りたい。
俺はこの生き方を望むんだ。でも、こういう生き方は母には受け入れられない。だから俺は帰らない、母には会わないんだよ?」

だから母にはもう会わない。
母の自分への愛情は間違いも多い、けれど自分には唯ひとり生みの母。
だから会って傷つけたくはない、きっとこれも「聴かなくていい事、踏み込めない領域」だから母には会えない。
そしてそれを後悔も自分はしていない、だって自分は心から望める生き方を見つけたのだから。

「だから周太?俺が実家へ帰らないのはね、周太を愛したからじゃない。俺が素直に本音で生きるために、帰らないだけだよ」

黒目がちの瞳から涙がこぼれて落ちる。
この瞳をどれだけ自分は無神経に傷付けてきただろう?
それでも泣いてくれる、やさしい瞳が愛しくて英二は微笑んだ。

「そしてね、周太?この生き方を選べたのは周太のおかげだよ。
そして卒配から今日まで、こんな俺が厳しい現場に立てたのも周太がね、いつも支えてくれたから。
周太、いつも俺の笑顔だけを願ってくれているね?…だからね、俺はここまで来れたよ?
最高のクライマーのアンザイレンパートナーにも選んでもらえた、最高峰の夢すら俺はもらえたんだ。
もう俺はね、周太?たくさんのものを周太にはもらっている、生きる誇り、生きる意味、そして愛する温もりまで。だから、」

泣きながら微笑んでくれる黒目がちの瞳に英二は微笑んだ。
この純粋な瞳に自分が出来る、精一杯の愛情と感謝を今ここで贈りたい。きれいに英二は笑った。

「周太、俺はね?周太が俺を支えてくれたように、周太が望みに生きる姿を支えたい。
だから周太、周太が望まないならね、無理に体で繋がらなくっても良いんだ。そしてね、周太…これは疑うとかじゃなく訊いて?」

すこし驚いた瞳が英二を見つめてくれる。
やっぱりこの自分が「体」を求めないって意外かな?大きくなった可愛い瞳に笑いかけて英二は続けた。

「周太にはね、恋愛すらも望むまま自由に生きてほしいんだ。
だから周太?たとえもし周太が他のひとを愛してもね、俺は受け入れたい。
それがたとえ自分の帰る場所を失うのであっても構わないんだ、もう俺には『山』があるから。
そしてね、周太が他のひとを見つめてもね、俺が周太を愛することは変わらない。だから周太、許してほしいんだ」

真直ぐ見つめて微笑む先で黒目がちの瞳が大きくなる。
やっぱり驚いているよね?きれいに笑って英二は続けた。

「このまま俺にも周太を守らせてほしい、その為に形だけでもいいから婚約者でいることを許してほしい。
だから約束する、俺はもう絶対に周太を束縛しない。体も無理強いはしない、そして周太の心に自由でいてほしい、望むままに。
そしてね、約束するよ?俺は絶対に周太より先には死なない。必ず周太を守る為にね、俺は最高峰からでも生きて戻る。そしてね、」

新宿の真ん中の街路樹の闇で、英二はふっと冬富士の姿を想った。
あの雪崩が起きたのは2日前、けれどその2日でこんなにも自分は大きく変わった。
そしていま抱いている周太への想いは痛切とそれ以上に大きな喜びが温かい、真直ぐ笑って英二は周太に約束した。

「周太、約束する。俺は最高のレスキューとして、いつも遭難者だって無事に連れて生きて戻る。
そして最高のクライマーの専属レスキューとして、必ず国村を無事に生きて帰らせる。
そうやって俺はね、絶対にしぶとく生き抜いてアンザイレンパートナーも救助者も生きて連れて戻るレスキューになるよ」

真直ぐ見つめる想いの真ん中で黒目がちの瞳が涙をひとつこぼした。
そして瞳から、きれいに笑って周太は言ってくれた。

「ん、…しぶといレスキュー、素敵だね?」
「おう、素敵だろ?だからね、周太?もし俺に惚れ直してさ、抱いてほしくなったら何時でも言ってよ?大歓迎だからね」

明るく英二は笑った。
笑う先で黒目がちの瞳が気恥ずかしげに微笑んで、そっと英二の両掌へと掌を重ねてくれた。

「英二、英二の掌はね、きれいだよ?…俺は、いちばん知ってる。ほんとうにね、きれいなんだ…」

告げてくれる言葉と重ねた掌が温かい。
やさしい温もりに微笑んだ英二に、しずかに周太が言ってくれた。

「いま俺ね、体は…時間がほしいんだ。英二がくれる温もりは幸せで…ほんとうに大切なんだ。
でもね、まだショックが抜けていない…俺はね、やっぱりまだ11歳にもならない子供のままで…途惑ってしまうんだ。
それでもね、英二…俺はね、英二を愛する想いは変わっていないんだ。こんなに体は竦んでも、英二を想ってる。…でも、」

黒目がちの瞳が真直ぐ見つめてくれる。
その瞳が言いたいことはもう解っている、そして秘密のまま見守ってあげたい穏やかな想いが温かい。
国村との想いは周太にとって、きっと大切な友人の美代への罪悪感が大きい、だからそっと秘密のままにしてあげたい。
きれいに笑って英二は周太の言葉を遮った。

「大丈夫、周太。きっとね?俺は言わなくても解ってる。それでね、周太をありのまま受け留めたいんだ。
俺はね、周太?体さえ繋げば心も繋がるって思いこんでいた、でも今はもう気づいてる。
ただ真直ぐにさ、心で繋がって支える。そういうね、やさしい恋愛を俺も抱きたいんだ。だからきっと、心で解ってるよ?」

黒目がちの瞳がゆれて涙がこぼれて落ちた。
そして幸せな微笑みが気恥ずかしげに英二に告げてくれた。

「ん、ありがとう、英二…ね、英二にね、今、抱きついていい?」
「うん、当然だろ?俺はね、全部が周太のものだよ?
俺ね、周太の一番じゃなくても良い。ただ周太のものでいたい、だからね、周太?俺のこと好きにしていいよ、」

明るく笑って英二は荷物を持ったまま軽く腕を広げてみせた。
大丈夫、おいで?目で告げて微笑んだ英二に、周太がそっと抱きついてくれた。
やわらかく小柄な肩を抱いた温もりは、ただ穏やかで幸せで愛しい。

この小柄な肩はどれだけ背負っているだろう?
どうか少しでも楽にしてあげたい、その為なら自分は何だって出来る。
だから形だけの婚約でもなんでも構わない、ただこの肩を守りたい。幸せな笑顔が見られるなら、それで良い。
いま自分が抱いている誇りも夢も最高の友人も、この小柄な肩が全て与えてくれた。だから今度は自分が与えたい。

  I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy 
  I'll be your hope I'll be your love Be everything that you need.
  僕は君が見ている夢になろう 僕は君の抱く祈りになろう 君がもう諦めている願いにも、僕はなれるよ
  僕は君の希望になる、僕は君の愛になっていく 君が必要とするもの、全てに僕はなる

13年前の事件に決着をつけた翌朝に周太を奥多摩に初めて連れて行った。
そのときに周太にipodで贈った歌は自分が「僕」だと思っていた、けれど本当は自分は「君」だった。
夢に、祈りに、願いに、希望、愛。その全てに周太はなってくれた。
その全てを与えてくれた愛しいひとへ、自分は今からこそ想いの全てを懸けて返していけたらいい。
どうか今度こそ真直ぐ愛せますように、祈りを抱いて英二は見上げる黒目がちの瞳に微笑んだ。

「ね、周太?教えてほしいよ、俺はね、お父さんの合鍵を持っていても、いいのかな?」

訊いた想いの先で黒目がちの瞳が微笑んだ。
そして真直ぐ見つめて笑って答えてくれた。

「ん、持っていて?俺はね、…贅沢なこと言うよ?きっとね、酷い、わがまま…なんだけれど、」
「わがまま、贅沢、言ってほしいよ?俺に甘えてよ、周太、」

ほんとうに甘えてほしい、何でもいいから。
そして少しでも自分を必要としてほしい、心から存在を求めてくれたなら。
わがまま聴かせてよ?そう目で笑って英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ瞳はすこし笑ってくれて、そして唇を開いてくれた。

「あのね、英二…きっと俺は、たとえ他のひとを好きになっても、英二のことはずっと愛している。
こんなの狡いかもしれない、でも気持ちに嘘はつけない、誤魔化せない…大好きなんだ。
英二には、ずっと俺の隣に帰ってきてほしい、傍に居てほしい。きれいな笑顔を見ていたい…
他のひとを好きになるかもしれない、そんなこと言いながらで図々しい…けれど、お願い、俺を独りにしないで?…傍に居て」

きれいな純粋な瞳が「一緒にいてくれる?」と訊いてくれる。
こんな顔でお願いされたら断れるわけない。そして心が充たされて温かい、英二は微笑んだ。

「うん、周太。傍にいるよ?俺は周太が望むなら傍にいる。
だからね、周太。安心していい、どうか自由に人を好きになってほしい、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい」

黒目がちの瞳が真直ぐに英二を見つめてくれる。
真直ぐ見つめて微笑んで、そっと周太が訊いてくれた。

「…恋愛も、いいの?」

ひとつ心で英二は呼吸する。
さあ、いま、一番きれいな笑顔で笑いたい。そんな祈りに英二は大らかな美しい笑顔に笑った。

「うん、いちばんね、恋愛を見つめてほしい。きっとね、周太が幸せになるためには大切なことだから。
周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだろ?だから、色んな人に出会ってほしいんだ。
たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと、大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしいんだ」

真直ぐ見つめる瞳が英二の目に映りこむ。
純粋無垢な子供のままの瞳、この瞳の美しさを自分は正しく守りたい。想いの祈りのままに英二は言葉を続けた。

「それでね、周太が出会った人のなかで、もし俺と一緒にいたいって心から想って望んでくれたら。その時に俺と結婚してほしい」

「…出会った人のなかで、英二を選んだら。そういうこと?」
「そうだよ、周太?でも安心してほしい、選ぶ前だってね、周太が望むなら俺は一緒に暮らすよ。だからさ、飯また作って?」

きれいに笑って英二はお願いをした。
真直ぐ見つめる黒目がちの瞳は、やわらかいに笑って頷いてくれる。
こういう瞳で笑ってもらうのは初めてで、その寛いだ笑顔が英二は誇らしくて微笑んだ。

「周太、周太が望む限りね、ずっと一緒に暮らしていこう?
でも周太、覚えていてほしい。たとえ結婚しても周太の心はずっと自由だ。
だからもし、いつか俺と結婚してもね。周太が大切なひとを想う心は、ずっと大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せて?」

黒目がちの瞳がきれいに幸せに笑って、静かに頷いてくれた。
幸せな笑顔に涙がこぼれて、街路樹の木の下闇にも涙は光になって英二の目に映りこんでくれる。
こういう笑顔をずっと見たかった、見せてもらえる「今」が誇らしくて英二はきれいに笑った。

「ね、教えて、周太。周太は俺の体を求めて傍にいてほしい?それともね、心と温もりを求めてくれている?」

きれいな瞳が真直ぐ英二を見つめてくれる。
そして率直に微笑んで言ってくれた。

「どちらも大切だよ?でもなにより一緒にいたいのは、英二の心と温もり…俺はね、英二の心と寄添いたい」

ずっと自分は「体」を求められ「心」は無視されていた。母からも。
だから心だけをを求めてもらったことは無い、そして心を認めてほしいとずっと願っていた。
いま幸せが温かい、そして気付かされる。
きっと体の繋がり無しでも、人は繋がれることを確かめたかったのは自分の方だった。

ずっと母に否定されてきた、自分の本音と心。
ほんとうは子供の頃だって野山で泥だらけで遊びたかった、川や海や山でたくさん遊んで、そして抱きしめてほしかった。
けれどそんな本音も自由な心も母は認めてくれなかった、きれいな人形のように塵1つ許してくれなくて。
どうか受け留めて欲しいな?そんなささやかな願いで英二は周太に訊いてみた。

「ね、周太?もし俺がね、山から泥だらけで傷だらけでさ、帰ってきたら。そしたら周太はどうしてくれる?」

黒目がちの瞳が優しく微笑んだ。
すこし考えて、それから穏やかに笑って周太は言ってくれた。

「抱きしめて『無事で良かった、』って笑いたい…それからね、お風呂に入れてあげたい…あ、一緒には入らないよ?」
「うん、でも周太が入りたかったらさ、いつでも歓迎だよ?」

さらっと本音を言って英二はきれいに笑った。
やっぱり周太は受けとめてくれた、うれしくて笑う英二に黒目がちの瞳が微笑んでいる。
そしてねと周太は続けてくれた。

「でね、ごはん作ってあげたい。それから、あったかいお布団で寝かせてあげたいな…でも、えっちなことはだめだよ?」

言葉の最後は真赤になってしまった。
それでも黒目がちの瞳は英二を真直ぐ見つめて微笑んでくれた。
こんな穏やかな会話がうれしい、きれいに笑って英二は頷いた。

「うん、周太がしたいって言わなかったらしない…周太、俺の心を愛してくれて。本当に、ありがとう、幸せだよ?」

ずっと心を見つめて欲しかった。
その願いがかなえられていた、そんなことに自分は気づかずにいた。
気付けた今が幸せで英二はただ、抱きしめた温もりに微笑んだ。

周太が寮の入口の階段を昇って、扉があいて締る音がする。
きちんと寮へ入った周太を見送って英二は踵を返した。
ビル風がすこし冷たい、ブラックミリタリージャケットの裾を風に翻しながら英二は通りを歩いていく。
そして国村の四駆のもとへくると助手席の窓を軽くノックした。
ノックの音に運転席で目を瞑っていた横顔が、組んでいた腕をほどいて笑いながら扉のロックを開けてくれる。

「きちんと話せたみたいだね、イイ顔しているよ、おまえ、」

底抜けに明るい目で温かく笑みながら国村はシートベルトを嵌めた。
助手席で英二もシートベルトをすると運転席へ明るく微笑んだ、

「うん、ちゃんと話せたよ?俺たちね、『清い交際』ってやつを始めるんだ、」
「ふうん?清い交際、おまえが、ねえ?」

ハンドルを捌きながら細い目が「話せよ?」と笑ってくれる。
そんな友人の目を見つめながら英二は口を開いた。

「まずね、俺が実家に帰らない理由をさ、きちんと話した。
俺の母親ってさ、俺のこと『きれいな息子』として見たいんだよ。
だからさ?山岳救助隊として応急処置や死体見分するなんて知ったらね、ほんとに卒倒して発狂すると思うんだ。
きっと母からしたら、今の俺の掌は血と泥にまみれて汚らわしい。それが解るから、もう母に会えないし帰れないんだよ」

「うん、…そっか、そういう考え方の人もいるね。…母親はさ、傷つけたくないもんな」

テノールの声がやさしく答えてくれる。
やっぱり国村は解ってくれた、うれしく微笑んで英二は続けた。

「うん。俺が実家に帰らないのは周太の所為じゃない、俺が自分らしく生きることを選んだから帰れない。
そのことをね、きちんと解ってもらいたかったんだ。義務や責任感を周太に持ってほしくないんだ。それからこう言った。
俺はもう絶対に周太を束縛しない。体も無理強いはしない、そして周太の心に自由でいてほしい、望むままに。
自由に人を好きになってほしいんだ、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい。
周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだ、色んな人に出会ってね、きちんと心にも成長してほしい。
たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと、大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしい。
でもね、周太を守るためには婚約の立場は便利だ。だから形だけでもいいから婚約者でいることを許してほしい。そう言ったんだ」

「それで『清い交際』なんだね、…うん、心からさ、相手を想って、愛してるな?…いいね、」

納得したように運転席の横顔が頷いて、そっと英二を振向くと温かな眼差しが笑ってくれた。
この友人は解ってくれる。うれしい想いと頷きながら微笑んで、英二は静かに口を開いた。

「うん、ありがとう、国村…それでね、あらためて申し込んだよ。
周太が出会った人のなかで、もし俺と一緒にいたいって心から想って望んでくれたら結婚してほしいって。
選ぶ前だってね、周太が望むなら俺は一緒に暮らすよ。そしてね、たとえ結婚しても周太の心はずっと自由だ。
だからもし俺と結婚しても、周太が大切なひとを想う心は大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せてほしいんだ」

「結婚しても、か…うん、心は縛れない、…でもさ、おまえがそう言うのって、すごいな?」

温かな率直な応えをしてくれる。
率直に受け留められて認めてもらえる、その安心感と信頼できる想いが幸せで英二は微笑んだ。

「そしてね、約束したんだ。俺は絶対に周太より先には死なない。
必ず周太を守る為に俺は最高峰からでも生きて戻る。俺はどこからでも遭難者も連れて生きて戻る。
最高のクライマーの専属レスキューを務めるアンザイレンパートナーとしてね、必ず国村を無事に生きて帰らせる。そう約束した」

必ず国村を無事に生きて帰らせる。
そうはっきり周太に約束をしたとき、黒目がちの瞳が微笑んだ。
そしていま隣の運転席でも、大らかに穏やかな微笑みがきれいに咲いてくれた。
この顔も初めてみせてもらった、その「初めて」が心から誇らしい、きれいに笑って英二は口を開いた。

「俺はね、国村。ずっと『体』を求められも『心』は無視されていた、母からもね。
だから俺はね、『心』だけをを求めてもらったことは無いんだよ、心は体のおまけって感じで。
でも俺はずっと心を認めてほしいって願っていた。この外見に関係なく『俺』を真直ぐ見てほしかった。
だからきっとさ?体の繋がり無しでも人と繋がれることを確かめたかったのはね、俺の方だ…周太以上にね」

英二の言葉にやさしい眼差しが温かく応えてくれる。
大丈夫だ。そう目で言いながら、きれいなテノールの声がやさしく言ってくれた。

「うん、…そうだね。おまえはさ、これからだね。
大丈夫だよ、宮田?俺はね、おまえの心が大好きだよ。だから生涯のアンザイレンパートナーって俺は言うんだ。
そりゃ体格や適性も組むのには大事だけどさ?俺にとってはね、大好きになれるかが一番大切だよ。だから自信持て、いいね?」

ここに自分を真直ぐ見てくれる友人がいる。
自分はこの友人のまさに「逆鱗」に触れた、滅多に起きださない怒りを呼び起してしまった。
けれどを許し受けとめて励ましてくれる、きっと自分はこうして無条件に受け入れられたいと願っていた。
願いが叶った幸せに英二は素直に微笑んだ。

「うん、自信持つよ?それで俺、いつか国村にも周太にもね、本当に相応しい男になりたい。もっと訓練とかも頑張りたい、」
「俺のレスキュー、頼むよ?俺のアンザイレンパートナーはさ、結構大変だろうけどさ」
「おう、任せてよ。俺、努力するからね」

きれいに笑って英二は答えた。
そんな英二に底抜けに明るい目が笑って言ってくれた。

「さて、宮田?せっかく高速に乗ったしさ、ちょっと俺、行きたいとこあるんだけど。つきあってね、」
「別にいいよ、でも俺、明日も出勤だからさ。間に合うように帰らせてよ?」

どこに行くのか国村は言わない、けれど任せて大丈夫と自分が一番知っている。おだやかな信頼に英二は微笑んだ。
運転席では行先も訊かない英二に満足したように細い目が笑った。

「もちろん、ちゃんと送り届けるよ、眠り姫」
「うん?眠り姫ってなんだよ?」

何気なく訊き返した英二をちらっと細い目が見て笑った。
そして透るテノールの声が答えてくれる。

「おまえのことだよ、宮田。今朝もね、これから意地悪しようっていうのにさ?あんまり美人な寝顔でちょっと怯んだよ」
「そうか?でもさ、結局きちんとお仕置きしてくれたんだろ?ありがとうな、」
「ま、ね。感謝しろよ?」

からり笑って国村はハンドルを捌いていく。
他愛ない話をしながら高速道路を走っていく車窓がすこし曇ってくる、きっと外気が冷えはじめたのだろう。
そっとふれてみると窓ガラスは冷たい、夜の闇を透かすと雪に白い山がかすかに見えた。
もう奥多摩を通り過ぎる所だろうか?黒い夜と白い山を眺める英二の隣で、ふっと国村がつぶやいた。

La Belle au bois dormant…か、」

流麗な言葉に英二は運転席をふり向いた。
ふり向いた視線の先では前を見たまま雪白の貌が夜に浮かんでいる。
雪白の秀麗な横顔はどこか初めて見るような表情で静かに微笑んだ。

「『眠りの森の美女』って、知ってる?」
「うん、王女さまが糸車の錘が刺さって、百年ずっと眠っていたって話だよな。王子さまのキスで目を覚ますんだっけ?」
「そ。茨の森に囲まれた城で百年眠り続けたお姫様の話だ。あれはね、『眠れる森』と『眠る美女』との2つの解釈があるんだ」
「ふたつあるんだ?知らなかったな、『眠る美女』だと思っていたよ、」

La Belle au bois dormant 『眠りの森の美女』をフランス語で国村は言った。この話もフランス版で読んでいるのだろう。
いつもの痛快なエロオヤジぶりからは想像つかない一面だけれど、生来の繊細な風貌にはしっくりくる。
そんな繊細な文学青年の横顔が可笑しそうに笑った。

「うん。おまえはね、ほんと『眠る美女』だよな。今朝も俺のキスで目が覚めちゃうしさ?」
「…え、そんなことしたのか?」
「酔い覚ましをね、口移しで飲ませてやったんだよ。で、そのまま狂言をしてさ?おまえの目を覚まさせてやったってワケ」

からり笑って底抜けに明るい目が可笑しそうに英二を見た。
たしかに言う通り、国村が怒りをぶつけてくれたお蔭で「愛情」について考える目が覚まされた。
そう思うと国村が自分の王子さまなのかな?なんだか愉快で英二は笑った。

「国村って、俺のアンザイレンパートナーだけじゃなくて、俺の王子さまだったんだな?」
「まあね、惚れ直すだろ?」

可笑しそうに国村も笑ってくれる。
こんな冗談がまた言い合えていることが嬉しくて英二は微笑んだ。
いつものように笑う裡に高速を降りて信号に停まると、ふっと秀麗な顔がこちらを向いて口を開いた。

「シャルル・ペローって人が書いたフランスの童話だとさ、王女は王子のキスで目覚めるんじゃないんだ。
ちょうど100年の眠りから覚める時がやってきていた、そのために王女は自分で目を覚ますんだよ。時の訪れに目覚めるんだ」

「時の訪れに?」

ちいさく英二はつぶやいた。
英二のちいさなつぶやきに国村は笑って言ってくれた。

「宮田もね、ちょうど時が来ていたのかもしれない。気づく時がね、」

さらりと笑って国村は静かに車を停めた。
ふり向いて英二に笑いかけると「降りるよ?」と目で声かけてくれる。
微笑んで頷くと英二も助手席の扉を開けて、雪のなか夜を見あげた。

白銀あかるく輝く冬富士が、透明な紺青の夜を従え銀盤の湖の向こうに聳えたっていた。

「…きれいだ、」

そっと呑んだ息は白く凍って肺にすべりこむ。
隣で白い息のあわいから透明なテノールの声が微笑んだ。

「だろ?ここはね、俺が好きなトコのひとつなんだ」

ふる星の明りが雪そまる冬富士と凍る湖を照らして、深い青の夜闇に光り浮かびあがる。
青い闇と白銀が織りなす静謐と雄渾が佇む荘厳な世界。
その静謐に五合目の山小屋の火が見えた。

「山小屋、今日も泊まっている人いるんだ、」

2日前のことなのに懐かしくて英二は微笑んだ。
並んだ隣もうれしそうに笑って応えてくれる。

「だね、いいな。俺、もう登りたいよ。あの最高峰の天辺にさ」
「うん、俺も行きたいな、4月が楽しみだな」

雪のなか晴れた夜空を見上げて並んで笑い合える。
こんな友人がいる幸せに英二は心から感謝した。

「でもさ、次は北岳だね?天候とか上手くいくと良いな、もう雪崩は御免だよ」
「そうだな、なるべくなら雪崩には遭いたくないな?」

見あげる冬富士にこれからの計画を話す、こういうのは愉しい。
愉しくて微笑んで話す英二を、ふっと底抜けに明るい目が深く見つめた。
なんだろうと見つめ返すと、きれいに微笑んで国村が口を開いてくれた。

「宮田。威嚇発砲の音をさ、わざとカウントしなかったね?…協力、ありがとうな」

周太が国村に向けた威嚇発砲。
その事実を秘匿することを「協力」と国村は英二に告げた。
国村は主体になって周太の威嚇発砲を秘匿した、そのことをたった二字の熟語で告げてくれる。
こんなふうに信頼して話してもらえた、嬉しくて英二は穏やかに微笑んだ。

「うん、…俺もね、本気で守りたいんだ。周太のことも国村のこともね」

底抜けに明るい目が温かく笑んで頷いてくれた。
ミリタリーマウンテンコートが冬富士に駆けおりる風と白く翻っていく、その横顔は真直ぐ最高峰の天辺を見つめていた。
この最高のクライマーの想いも夢も、生命と山ヤの自由な心と登る自由も、自分が守りたい。
この最高の山ヤで友人を自分は最高のレスキューとして守って生きたい。
この友人を自分が愛するひとは大切に想っている、だから尚更に守りたい、そして愛するひとの笑顔も守りたい。
そんな想いが今までにない大らかな温もりで心を充たしてくれる。
充ちる温かさが幸せで、夜に輝く最高峰の雪を見つめながら英二はきれいに笑った。



blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする