萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 雪火act.8―side story「陽はまた昇る」

2012-02-16 22:48:24 | 陽はまた昇るside story
偽らぬ想い、




第33話 雪火act.8―side story「陽はまた昇る」

青梅署独身寮へ戻ると英二は活動服を用意してから浴場へ行った。
髪を洗い体を洗って浴槽へ浸かると、ほっとため息が湯気へと融けこんだ。
朝7時前の浴場には人気が無い、誰もいない安堵感にふっと涙が頬を伝って湯へと零れ墜ちた。
今更ながらに自分が周太にした事の痛みと重みが迫り上げて、目の奥へ熱が生まれてしまう。
どんなに後悔しても遅い、そんな自責と自分の鈍麻した心への悔しさが痛くて堪らない。あふれる痛みが口からこぼれた。

「…どうして、…ばか、だ、俺は…」

気付けば自分は「体を繋げば温もりが手に入る」と思い込んでいた。
たとえ好きでもない相手でも、求められて体を繋げれば温もりに一瞬は寂寞とした心を忘れられたから。
だから大好きな周太なら、愛し合っている周太なら、どんな時でも体を繋げれば温もりが生まれると思い込んでいた。
たとえ周太の心が他の人間へ傾きかけても「婚約者」という立場で抱きよせてしまえば心ごと掴まえられると思った。
けれど、

「いつも言ってるだろ?おまえはさ、ばかだね?宮田、」

からり明るいテノールの声が響いて英二は振り向いた。
ふり向いた視線の先で底抜けに明るい目が笑って、のんびり英二の隣で湯に浸かっている。
いつの間に国村は隣にいたのだろう?驚きながらも微笑んで英二は涙を払った。

「うん、…もし、国村がさ、気付かせてくれなかったら…もっとバカになるとこだった」
「そっか。で、どう気づいたんだよ?」

明るい温かな眼差しで「話してみろよ?」と訊いてくれる。
いつもながら大らかな優しさで国村は英二に吐き出させようとしている、そんな友人がいま隣に来てくれたことが嬉しい。
嬉しさに微笑みながら英二は涙をひとつまた零した。

「うん…俺、体を繋げばさ、温もりが手に入るってね、どこか思っていたんだ。
別にどうでもいい相手でもさ、求められてね、体を繋ぐとさ…いつもね、その相手に情がわいたから。
抱き合えばやっぱり温くて。それで一瞬は寂しさとかを忘れられたから。一瞬だけだ、それでも忘れられたんだ。
だから…もし心から大切な相手と抱き合えたら、ずっと寂しくなくなるのかなって。ずっと、そういう相手を探してた」

真直ぐ英二を見つめながら国村は髪をかきあげた。
かきあげた手を湯へおろすと、そっと温かに微笑んで穏やかに言ってくれた。

「求められて与えて、でも充たされない。…おまえはね、そういうふうに、ずっと傷ついてきたな」

やっぱり国村は解ってくれている。
こういうのは嬉しい、理解された嬉しさに心がほどけて涙がまたこぼれた。

「うん、…わかってくれるんだ、国村…」
「まあね、アンザイレンパートナーだからさ?しかも生涯のね、」

やさしい温かな微笑が英二を真直ぐ見つめてくれる。
ほんとうは国村は心底さっきは怒っていた、それが英二には解る。
けれど心から気づいた英二も理解してくれて、こうして想いを吐き出させに今も来てくれた。
こういう友人がいる自分は幸せだ、幸せな安堵感にも英二は素直に口を開いた。

「だから大好きな周太なら、愛している周太なら、さ…どんな時でも体を繋げれば温もりが生まれると思い込んだ。
だから昨日の午後も、婚約者という立場で無理でも抱いてしまえば、周太を心ごと掴まえられると思ったんだ。
それで、周太も幸せなんだって、俺、勝手に都合よく考えていた…さっき国村に教えられるまで、気付こうとしなかった。
周太は俺のこと怖かったはずだ、怒っているはずだ。なのに無理に笑ってくれた、そんな周太の優しさに気づかなくて…
俺は、周太は幸せに想っているって勝手に決めつけていたんだよ、強姦されて幸せな人間なんかいるわけないのに?俺はバカだ」

重みが吐き出されて心がすこし軽くなる、そして解けた心から涙があふれていく。
頬を伝う涙がこぼれて湯に融けこんでいく、そんな英二を国村はただ微笑んで受けとめてくれている。
しずかな大らかな優しさが明るい目から伝わって、よけいに英二は涙がこぼれた。
こぼれる涙のまま英二は想いを言葉にした。

「くにむら…すこしさ、俺、いま…嫌なヤツになってもいい、かな?」
「うん?話したいならさ、想ったまま言いな。俺はね、お前の話はさ、何だって聴きたいよ?おまえが大好きだからね」

底抜けに明るい目が笑って「言っちまいな?」と大らかに温かい。
きっと国村はもう、自分が何を言おうとしているのか解っている、それでも「大好きだ」と言って受けとめようとしてくれる。
ほんとうに敵わない、こんな大らかな友達が自分も大好きだ。英二はきれいに笑った。

「俺はね、国村?無理矢理でも体を繋げればさ…周太の心を繋ぎとめられるって、想い込もうとしたんだよ?
体を掴まえてしまえば周太の心を掴まえて、周太は俺のものになるって。たとえ周太の心が他の人間へ傾きかけていても、」

きれいに笑ったまま英二は大好きな友人の顔を見た。
見つめる先で底抜けに明るい目は真直ぐに英二を見つめて、きれいに透明に微笑でいる。
自分と国村は似ていて、どちらも直情的で思ったことしか言わない出来ない。
だから国村も英二が言うことが解ってしまう「他の人間」が誰を指すのかも解っている、そんな信頼のまま英二は口を開いた。

「昨日、国村と周太が下山してきたとき。お互いに呼び捨てで呼び合っていた。
ふたりの空気はきれいだった、やさしくて穏やかで俺は見惚れたんだ、本当は。だから周太の手をすぐ繋いだんだ、俺は。
おまえに周太を連れて行かれるって思ったから。そしてさ…俺、周太の、ああいう顔って初めて見たんだ、だから悔しかったんだ」

涙があふれて、けれど英二は笑っていた。
悔しいと思ったことをその相手に曝け出す。きっと前なら考えられなかった、けれどこの友人には隠さず話してしまいたかった。
それぐらい英二はこの大らかな優しさ誇り高い、最高の山ヤの魂を持った友人が好きだった。
真直ぐな底抜けに明るい目が優しい温かい眼差しで見つめてくれる、その温もりに甘えるように英二は口を開いた。

「最初に国村を見たとき、周太と似ているって思ったんだ。
でも、一緒に仕事して山登って仲良くなってさ?
おまえって大胆で酒好きでエロオヤジだって解って、似てないなって思うようになった。
でもさ…やっぱり似ている、ふたりは。アンザイレンパートナーになって、一緒に過ごすようになってから、そう気がついたよ」

両手で髪をかきあげながら国村は穏やかに微笑んだ。
そして髪かきあげる腕のはざまからテノールの声が訊いた。

「どこが似てる?」

やさしいトーンの声がほっとする。
本当は、もう許してもらえないかもしれないと英二は覚悟していた。
いつも笑っている国村、唯一のアンザイレンパートナーとして英二を大切にしてくれる国村。
そんな国村が英二を組み伏せ容赦ない怒りを叩きつけた、侮辱を浴びせ誇りを打ち砕いて満足げに笑った。
だから気づかされてしまう、きっと自分はこの友人の「逆鱗」に触れた。
いつも大らかな優しい友人にはきっと唯一の「逆鱗」を自分は踏み躙った、だから許されなくても仕方ないと思った。

そして知らされた国村の逆鱗は「周太」だった。
組み伏せた英二へと凄絶な艶麗に微笑みながらも、透明な細い目の深みからは真直ぐに「怒り」が英二を突き刺していた。
大らかで深く透明な怒りは英二の魂に響いた、最高の山ヤの魂が真直ぐむけた純粋無垢なまま容赦ない怒りは雄渾に英二を呑みこんだ。
いつも国村は「山」で不躾に不注意だった遭難者へストレートにお灸を据えてみせる。
それ以上の怒りを英二は初めて見た。

なぜ国村の逆鱗が周太なのか?それは解らない。
けれど心底から怒りを剥きだしにするほど、国村は周太を大切に想っている。
まだ国村と周太は出会って3ヶ月程度、なのになぜ国村はそこまで周太を想うのかは解らない。
けれどなぜか納得するものを英二は感じている。
もう思ったままを話したい、英二は微笑んで口を開いた。

「純粋無垢なところ。これがまず一番だよ、ふたりは一緒なんだ。
それから、ふたりとも文学書をよく読んでいるからかな。繊細で豊かな感覚が鋭い感じがする、やさしい透明な空気がある。
だから想ったんだ…周太が国村に惹かれても仕方ないって。似ていると解りあいやすい、俺と国村みたいに。しかも純粋同士は、尚更」

真直ぐな底抜けに明るい目が湯気の向こうから英二を見つめてくれる。
こんな目で見てくれる真直ぐな心を、きっと純粋な周太は大好きになるだろう。
そんな確信をしても英二はどこか穏やかだった。

「周太は、俺が望むなら国村と関係を持っても良いって覚悟してくれた。
だから俺もね、…周太がね、国村を想ったとしても見守りたいって、覚悟したいんだ。
周太は俺が望むように生きてほしいって願ってくれている、だから俺も、周太が望む生き方を願いたい。
そしてもし周太が許してくれるなら、周太を守らせてほしい。
俺はね、周太に呆れられて嫌われても仕方ない。だから婚約を白紙に戻されても当然だ。
それでも…友達って立場に戻るとしても、さ?俺はね、周太を守ることは止めたくないんだ。きっとね、愛することも止められない」

国村に告げながら心がゆっくり凪いでいく。
ほんとうは欲しいものは掴んだら離したくない、けれどもし周太の笑顔の為だというのなら?
英二の体を守る為に周太は国村に銃口を向けた、そんな周太の想いを知りながら愚かな自分は周太の体を無理に奪った。
それでも周太は英二に微笑んでくれた、そんな周太の笑顔も想いも、もう傷つけたくはない。
これ以上はもう、自分の所為で傷つけてしまいたくない。

だから周太が笑ってくれるなら自分は何でも出来るだろう。
たとえそれが周太の手を離すことだとしても潔く頷ける強さが今、欲しい。
たとえ自分だけのものに出来なくても、大らかな愛情で周太を支えて守りぬく。そんな大きな愛情で見つめられたら。
そうしたら自分が周太にしたことを少しでも償えるだろうか?

静かな覚悟がそっと肚におちていくのを英二は見つめた。
覚悟を見つめる想いのむこうでは、大らかな優しい目が英二を真直ぐ見つめてくれている。
この眼差しの持ち主は周太の為に本気で怒って、英二を諌めてくれた。
そんな国村は周太を心から大切に想っている、だから昨夜も唯一言で誇らかに告げてくれた。

 ―… 大切だよ?

ただ一言だった、けれど温かな大らかな愛情の響きが透明で、きれいだった。
その「大切」がどんな想いのものか?
きっとまだ今の自分が聴いても理解できない、そんな深い大きい純粋無垢なものに想えた。
自分はまだ心が欠落したまま壊れて、それが周太を傷つけてしまう。そんな愚かさを今回に思いしらされた。
だからまだ国村の想いを聴く資格すら自分は無い。
けれどいつか国村の想いを聴くに相応しい自分に成れたなら、きっと聴くこともあるだろう。
そんな静かな覚悟と決意を見つめながら英二は口を開いた。

「こんなふうにさ、俺は唯ひとり守りたくて大切にしたい人を傷つけた、ばかな人間だ。
未熟で傲慢で、相手の想いに真剣に向き合うことも上手く出来ない…おまえにもね、呆れられて当然だ。
でも俺はね、自分を諦めたくない。いつか周太にも国村にも相応しい男になりたい。だから国村、正直に教えてほしい」

底抜けに明るい目は真直ぐに英二を見つめて微笑んでくれる。
大らかな温かいまま「なんでも訊きな?」と目で促してくれている。
まだそんなふうに受けとめてくれるんだな、友人の優しさが嬉しくて英二は微笑んだ。
きれいに微笑んで英二は真直ぐに国村の目を見て言った。

「こんな足りない俺だ、でも…国村、俺はまだ、おまえのアンザイレンパートナーでいられるのかな?」

真直ぐ見つめた先で底抜けに明るい目が誇らかに笑ってくれる。
そしてテノールの声が透って英二に明確に告げた。

「俺のアンザイレンパートナーは宮田だけだ。生涯ずっとね、」

からり笑って白い指が英二の額を小突いてくれた。
そして大らかな優しい笑顔が温かく英二を迎えて言った。

「最高峰へ行くよ?宮田。俺たちは生涯ずっと一緒だ、何があってもね。約束だ、」

きれいに笑って英二は涙をひとつ零した。
こういう友人に出会えた自分は幸せだ、おだやかな誇りに英二は微笑んだ。

「うん、ずっと一緒に最高峰へ行くよ。おまえの専属レスキューとして俺は、最高のレスキューになってみせる。約束だ、」

英二の言葉に国村の秀麗な顔が愉しげに笑ってくれる。
もう一度、とん、と白い指が英二の額を小突いて言ってくれた。

「おう、約束だよ?2月の北岳とかも楽しみだな、滝谷とか行きたいな?」
「うん、雪のビバークとかするんだよな?楽しみだな、初めてだよ?」

雪山の計画の話をふたりで笑いあいながら、英二は幸せだった。
自分はこの友人のきっと逆鱗に触れた、その逆鱗は自分の婚約者だった。
その現実を知らされて途方に暮れる想いもある、けれど逃げたくはない。この友人を失いたくない。
この友人と叶える「最高峰の踏破」という夢も諦めない、そして婚約者の想いも笑顔も大切にしたい。
まだ方法は解らない、それでも受けとめていける自分になっていけたら。
そんな心と想いに懸ける夢をひとつ抱いて英二は、大切なアンザイレンパートナーの友人と「最高峰の夢」に笑った。


御岳駐在所へ出勤すると英二は、まず電気ポットをセットして簡単な掃除をする。
ストーブを点けパソコンを立ち上げて、その間に茶を淹れておく。
いつものように周太に教わったやり方で茶を淹れながら、ふっと心が軋んで英二は微笑んだ。
この茶の一杯も周太に教えられて自分は出来るようになった、スーパーの買い物もそうだった。
そして山ヤの警察官としてここに来れたのも周太が生きる誇りを教えてくれたからだった。
いったい幾つのことを自分は、周太に教えられて出来るようになっただろう?

そんな周太に自分は酷い仕打ちをした、それが残酷だと知ろうともせずに過ちを犯してしまった。
このあと朝の御岳山巡廻に周太はつきあってくれる、こんな無知な残酷を犯した自分との約束を周太は守ろうとしている。
いったいどう周太に報いたら自分は償えるのだろう?ほっとため息を吐いて英二は茶を片手にパソコンの前に座った。
さっき覗いた登山計画書用のポストに提出されていた何枚かを手にとって、チェックしながら入力をしていく。
冬の早朝から入山する登山者だからさすがに計画書も手馴れている、スムーズに入力を終えて英二は書類をファイルへと戻した。

「おはよう、宮田。今朝も早いなあ、」

声にふり向くと御岳駐在所長の岩崎が奥から山岳救助隊服姿で現れた。
今朝は早めの登山道巡視にいくのだろう、微笑んで英二は給湯室へと立った。

「おはようございます、ちょっと調べたいことがあって。いま先に登山計画書は入力を終えたんですけど、」

話ながら岩崎に茶を淹れて出した。
ありがとうと受けとって岩崎は英二に訊いてくれる。

「うん、パソコンの使用かな?業務の合間だったら別に構わないよ、吉村先生の講義の件かな?」
「はい、ちょっとラテン語を調べたくて」
「お、このまえ話していた解剖学のことか。じゃあ救急法の件じゃないか、それなら業務にかかわる。堂々とパソコン使ってくれ」

快く承諾してくれると岩崎は大岳山の巡廻へと早めに出かけて行った。
鋸尾根まで巡廻するために時間がかかるからと早出したかったらしい。
見送って英二はクライマーウォッチを見た。午前8時過ぎ、御岳山巡廻まで30分程は時間をとれるだろう。
更衣室のロッカーに行くと英二は一冊のファイルを取り戻ってきた。
パソコンの前に再び座って開くと、まず解剖学の専門書で解り難かったラテン語の表現をweb辞書で検索する。
ラテン語の辞書は買って持っているけれど、例文を見て訳したい箇所はweb辞書の例文集が便利だった。
それが終わると英二はファイルの真ん中のページを開いた、ページには抜書きしたラテン語の文章がいくつか書かれている。
その文章をweb辞書で英二は検索すると抜書きした文章へと日本語訳を書き加えていく。
それを読みながら英二はすこし微笑んで、時に考え込んだ。

抜書きしたラテン語の文章、これは周太の父の日記帳の文章だった。
年明けに書斎の抽斗から英二はこれを見つけて持ち帰ってきた。この日記帳の存在は周太も母も知らない。
その抽斗は他の抽斗とは違う鍵になっているから、ふたりには開けられなかった。
けれど英二は開けることが出来た、その鍵は周太の父の遺品である家の合鍵で開錠できる仕組みだったから。
周太の父の遺品である合鍵を、英二は周太の母から譲られた。以来、細くて丈夫な革紐に通して首から提げている。
この鍵を持っていることを、自分はまだ許されるのだろうか?

 ―… 英二、…また、玄関を開けて?

昨日の夕方に周太はそう言ってくれた。
あの言葉はどんな想いで自分に言ってくれたのだろう?
言われたとき自分は単純に喜んでいた、けれど本当は周太は英二に体も心も傷つけられて、きっと心は泣いていた。
それなのになぜ、周太は言ってくれたのだろう?

 ―… 英二を信じて、ごはん作って待っているから、帰ってきて?
    ずっと英二の隣で生きていたい、英二の帰る場所でいたい…それがきっとね、俺にとっていちばん幸せなんだ

「…まさか、周太?…母のことで、」

思い出した周太の言葉に心軋んで、思わず英二は独り言をこぼした。
周太が言ってくれた「ごはん作って待っている」これは母親が子供にかける言葉に似ている。
もしかして周太は英二の母親に求める想いに気がついている?途端にパズルのピースが嵌っていくのを英二は見つめた。
周太は年明けに時間が無くてもお節料理を手作りしてくれた、いつも英二の心配をして「お帰りなさい」と言ってくれる。
いつも温かい食事を手作りしてくれる、そんな家庭的な温かさを英二に周太は贈ってくれる。
そうした周太の温もりは本来なら「母親」が子供に贈ってくれるものだろう。

英二の母親も息子の為に何でもしてくれた。
手料理も贅沢な食材だった、衣服もセレクトショップで見繕った洒落たものばかりだった。
けれどそれは「美貌で才能もある息子」を自慢するための支度だと自分は知っている。

幼い頃に避暑に行った山荘で、野山に遊んで帰ってきたとき英二は泥だらけで膝小僧も転んで血が出ていた。
そんな英二を見て母は目を逸らしてしまった。
その目が「汚い息子は見なかったことにしよう」と言ったのを英二は気づいてしまった。
あのときは姉が風呂できれいにして着替えさせ、傷の手当てもしてくれた。
そうして普段の「美しい息子」に戻った英二を見ると母はいつも通りに優しく接してくれた。

そういう母の態度はずっと変わらなかった、外見と通信簿が立派なら見つめてくれて、母の理想に外れると無視された。
そんな母の姿に英二は「自分の心は母にとってどうでも良いのだ」と気付かざるを得なかった。
そういう母だから勿論、周太とのことは受け入れるわけもなく義絶してしまった。
そうして英二は実家へ帰ることも出来なくなった。

周太は、英二が帰る実家を失ったことを、周太の所為だと責めているのではないだろうか?
帰る場所を失った英二を周太は受けとめることで、英二が最高峰の危険にも克つ意思を失わないよう守ってくれている?
だから周太は「帰ってきて」と言ってくれるのではないだろうか。
周太は英二が帰る場所を失ったことを自責して、だから英二に傷つけられても英二の「帰る場所」であろうとしている。
もしそうだとしたら、自分は二重に周太を縛り付けているのではないだろうか?

「…周太、違うよ?…周太の所為じゃない、」

もとはと言えば自分が周太を好きになって始まったことだった。
あの卒業式の夜だってそう、想いを告げるだけでただ一緒に眠れば良かったはずだった。
それなのに忘れてほしくない想いと独占欲で、無理に周太の体を抱いて傷つけてしまった。
あのとき怖い想いをさせたことを自責している、それなのに昨日はもっと怖い想いをさせてしまった。
それなのに、こんな自分に周太は「帰ってきて」と微笑んでくれる。

優しい繊細な周太、なにもかも「周太の為に英二はやってくれた」と気遣って痛みをひとり抱え込んで。
そんな優しい繊細さに自分は何も気づいて来れなかった?
どれだけ自分は周太の優しさに甘えてきたのだろう?
たとえ周太が英二をすこしでも愛しているとしても、こんな傷だらけになる愛し方は哀しい。
そんな愛し方を周太に自分はずっと強いていた?

「…どうしたら、いい?…」

ため息と想いが口からこぼれ落ちていく。
自分の周太への愛情をあらためて考え直すいま、愕然とさせられる。
英二は大人の恋愛のペースで周太を抱いて体の繋がりを持たせ婚約まで申し込んだ。
けれどそういう大人の独占的でもある「恋愛の誠意」は、はたして周太にとって本当に幸せだろうか?
13年間の孤独の為に心は11歳にもならない周太。
そんな周太の繊細で純粋な子供の心では、英二が向ける大人の恋愛を受けとめる事は時に苦しかったのではないだろうか?
自分なりの精一杯で愛情と誠意を示そうとしてきた、けれど周太の心と想いに自分は真直ぐ向き合っていただろうか?

 ― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

昨夜に聴いた、国村の言葉が示す意味。
自分が今まで周太にしてきたことは真逆の愛情表現だった、そう気づいた今は途方に暮れそうになる。
どんなに想いが真剣でも方法を間違えてしまったなら?そんな間違えが昨日の自分が周太へ犯した過ちそのままでいる。
確かに周太から体を繋ぐことを求めてくれる時もある、けれどそれも英二を気遣うタイミングが多いと気付かされる。
あの初雪の夜の「絶対の約束」だってそうだ、雪山に立つ英二の心配をするあまり周太は思い切ってくれた。
そう、「思い切って」じゃないと周太は出来ない、いつもどこか決心して体の繋がりに踏み切っている。
そんな周太は本当は、どんな恋愛を望んでいるのだろう?

 ― 湯原は性格も純粋で清純だろ、そのうえ心が10歳のままだ。さ、考えな?自分が10歳の時どうだった

昨夜ビルの屋上でされた国村の問いかけに、素直に考えて今は気づける。
本当は周太は10歳の子供らしい、おだやかで自由な恋愛を経験するべき時なのではないだろうか?
昨夜、国村が言った言葉のように「体は繋げずに心を繋いでいく」穏やかで優しい恋愛が必要なのではないだろうか?
けれど自分にはそれが果たして出来るのだろうか?
母親から「心」を無視され続けた自分は「体のことが全て」と、どこかまだ思い込んでいる。
そして体の繋がりで心も繋がれると思いがちでいる、そんな自分に穏かな恋愛は出来るだろうか?

「…体を繋げなくても、心は繋げられる…」

つぶやきがこぼれてため息を吐くと英二は左手首を見た。
もう仕度する時間になる、パソコンを落として英二は立ちあがると更衣室へ向かった。
山岳救助隊服に着替えながら時折、クライマーウォッチが目に映りこむ。
この時計を周太が贈ってくれたのは「最高峰でも英二が周太を想いだして無事に帰る意思を忘れない」為だった。
いま帰るべき家庭も失っている英二に、周太自身が帰る場所となって英二の無事を支えようとしている。
まだ10歳の子供のままで大人の事情も恋愛も受け留めて。

どうしてだろう?
どうして周太は純粋無垢なままでも強く凛として立っていられる?
そんな美しさ強さに惹かれて自分はここまで来られた。
もう自分は生きる誇りも夢も全て手に入れた、充分に周太には貰い過ぎている。

それなのに愛情も温もりも周太は自分にくれた。
いつも英二が望みのまま夢に立って生きる姿を心から周太は望んでくれた。
たとえ英二が国村と体の関係を持っても英二が望むのなら良いとまで言ってくれた。
それは10歳の子供の潔癖な愛情からすれば苦しい決意だったはず、それでも周太は願ってくれた。
そんな周太の愛情に自分は気付かずに、体を無理強いして周太の心を傷つけた。
それでも周太はまだ自分を大切にしようとしてくれる。

だから今は決心したい。
たとえ周太が国村を選んでも、それが周太の望みなら支えたい。
10歳の純粋無垢なままでも自分を支えてくれる周太の、望みのままに生きる姿を自分は支えたい。
それがたとえ自分の居場所を失うのであっても。
そして自分の愛情を真直ぐに心だけで示してみたい。

「よし。行くか、」

決意を心にきちんと抱いて英二は微笑んだ。
そして登山靴にゲイターを履いて登山ザックを背負うと英二は更衣室の扉を開けた。


雪道を英二は自転車で走って御岳山を見あげた。
滑りやすいアイスバーンを器用に避けて御岳山麓の滝本駅に着くと、いつもの場所に自転車を置かせてもらう。
そして登山口でアイゼンを履いていると話し声が聞こえて英二は顔を上げた。

「お、宮田のが先だったね?はい、ちゃんと送り届けたよ?」

からり笑って国村が周太を英二の前へと連れて来てくれた。
英二が贈った冬用の登山ジャケットを今日も周太は着てくれている、あわい水色が似合っていて英二は微笑んだ。
周太も微笑んで英二の隣へと来てくれる、その黒目がちの瞳を見つめて英二は笑いかけた。

「周太、朝ごはんはどうしたの?」
「ん、国村がね、山で作ってくれて…おいしかったよ?」

楽しそうに周太は微笑んで教えてくれる。
その言葉に頷いて国村を振り返ると、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「クッカーでココア作ってさ、パンを炙った程度だよ? ごめんね湯原、あんな簡単なので。でもさ、雪の山頂はよかったろ?」
「ん、きれいだった。朝陽に雪が光ってて…ああいう朝ごはんは、いいね…ね、英二も朝に登る時はあんな感じ?」
「そうだな、握飯とカップ麺だけど、雰囲気は一緒だな?」

周太は英二にも楽しそうに訊いてくれる。
そんな様子を見て微笑むと、国村は踵を返して駐車場へと足を向けた。その青い登山ジャケットの腕を英二はとっさに掴んだ。
掴まれて立ち止まると国村は明るい温かな目を英二に向けてくれた。

「うん?どうしたんだ、宮田?」
「おまえもさ、今日は一緒に巡廻しよう。3人で行きたいんだ、」

笑って英二は言うと、国村の腕を掴んだまま登山道の方へ歩き出した。
ひきずられるように歩きながら、呆れたように国村が笑ってくれる。

「なに、おまえ?デートの邪魔だろ、俺がいたらさ。俺はね、馬に蹴られたくないよ」
「たまには馬に蹴られたら?」

さらっと言い返して英二は笑った。
笑いながら英二は周太の瞳を見つめて微笑んだ。

「周太、教えてほしいよ?国村が一緒なのと、ふたりだけなのと。どっちがいい?」

訊かれて黒目がちの瞳がゆっくり瞬いた。
すこし考え込むように右掌を頬に添えて、そして口を開いてくれた。

「ん。3人が、いいな?…国村、一緒に登ってくれる?」

真直ぐに黒目がちの瞳が英二を見、国村を見つめた。
ふっと細い目が和んで、やさしい笑顔で国村が口を開いた。

「そっか。でも俺さ?今日はパンツは普通のカーゴなんだよね?だからあんまり雪深いとこは、入れないよ?」
「ん、…俺もそう、…登山ジャケットは着ているけど、あとはね、普通の服だから…一緒だよ?」

見ると周太はダークブラウンのカラージーンズを履いている。ジャケットからのぞくインナーも白いニットのようだった。
かわいいなと思いながら英二はふたりに笑いかけた。

「今日の御岳山は、そこまで積雪も無いから大丈夫。じゃ、ふたりとも同行よろしくな」
「ふうん、ほんとに俺、一緒に登るんだ?ま、いいけどね、」

そう言って笑うと国村はキックステップで歩き始めた。
見るとアイゼンを国村は履いていない、英二は登山ザックから予備のアイゼンを出した。

「ほら、履けよ。自分のアイゼンはどうしたんだ、国村?」
「お、悪いね、借りるよ。俺のはさ、車に置いてきたんだよね。一緒に登ると思ってなくてさ…うん、いい感じかな、」

笑いながら馴れた手つきで履き終ると、足慣らしをして頷いてくれる。
ほんとうに国村は英二と周太を2人で御岳山へ登らせてくれるつもりだった、きっと話す時間を作ろうとしてくれたのだろう。
けれど今はきっと2人にならない方が良い、自責とちいさな決断に英二は微笑んだ。


御岳山の巡回を終えて2人と山麓で別れると、英二はまた自転車に乗って町の巡回へと廻った。
雪の積もる山間の町は空気が冴えて気持ちがいい、雪道を自転車で走っていくとどこか頭を抜けるような感覚が爽やかになる。
いつもの道を通りながらときおり出会う町の人と挨拶を交して、農家が多い地域へと入っていく。
見あげる農家の垣根や庭木が雪で白く凍っている、白い花が咲き誇るような家々の庭が美しくて英二は微笑んだ。

そうして町を回っていくと、ふっとピアノの音が聞こえて英二は止まった。
この町でこの時間にピアノを聴くのは珍しい、透明な音に実家で姉がときおり弾いてくれた音色が懐かしくて英二は微笑んだ。
どこの家で弾いているのかな?音色を辿りながら巡回して英二は一軒の農家の前で停まった。

透明な音と沈思の音がたがいに呼びかわすような旋律、切ない甘い調べが響いていく。
単音と和音の追いかけあいに、深い沈思のトーンから透明な音色にうつる共鳴が哀切でも、どこか明るい。
舞いふるような踊るような旋律が、ふる雪や風のゆらめき光のきらめきを魅せていく、秋か冬の森を想わすイメージの曲。
そして深い和音がやわらかに交す重なり響いて、透明な旋律の聲はゆるやかに空気へとけた。

「…巧いな、」

ひと言ほっと微笑んで英二はクライマーウォッチを見た。
まだ時間に余裕がある、もう少し聴いて行っても大丈夫だろう。
どうせなら聴きながら仕事しよう、英二はペーパーボードとペンを出して登山道の注意点を書きこみ始めた。
今日は3人一緒だったから要点しかまだ書いていない。詳細を今のうちに書いてしまいたかった。
そうしてペンを走らす耳にピアノの旋律が、きれいな低く歌う透明なテノールの声を乗せて響きはじめた。

  …
  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う
  ……
  夢なら夢のままでかまわない 
  愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


英語の発音もきれいで歌いなれた雰囲気、ピアノの響きに合わせた低い穏やかなトーン。
やさしい低い歌い方なのに純粋なテノールの声はよく透って、歌詞もはっきりと聞こえてくる。
ずいぶん巧いなと感心して何気なく英二は表札を見た。

「…『国村』?」

驚いて英二は目の前の農家を見直した。
立派な長屋門が裏になった、蔵が2棟ある豪農といった雰囲気の屋敷構え。
その屋根裏風の2階からまたピアノの音色が流れて英二は目を細めて見つめた。
木枠の美しい窓の向こう、きれいな飴いろのアップライトピアノが見える。その前に座る横顔に英二は目を大きくした。

「…国村、…」

遠目にも分かる雪白の秀麗な横顔が、深く透明に繊細な表情と声で歌っている。
見たことのない友人の表情に惹きこまれるよう英二は見つめ、手許のペンが停まった。
国村がピアノを弾くことも、こんなきれいな声で歌うことも英二は知らない。
意外で驚いて、けれどあの友人には似合うようにも思えた。

いつもは大胆不敵で愉快な男、けれど繊細で豊かな美しい感受性を持っている。
生来の文学青年風で耽美なほど繊細な風貌からすれば、ピアノを奏でられることも美しい声も相応しい。
見惚れるように見つめる向こうで曲は一度終わり、けれどまた第1音の高音が再び弾かれ透明な声が最初の言葉を紡いだ。
そして歌と旋律がふたたび雪の光景へと廻り想いを奏で始めた。

  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 
  君を想う

  奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
  微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
  降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
  夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


  残された哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
  はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて靡く あざやかな君が 僕を奪う
  季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように
  夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ胸を染める いつまでも君を想い
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


しずかに歌い終えると国村は向こう側へと顔を向けて、誰かと話している。
その向こうに誰かが立っているけれど暗がりで見えない。でもその誰かが誰なのか?そんなことは決まっている。
この家は国村の家、あの部屋は国村の自室だろう。そこで国村はピアノを弾いて「誰か」に歌を詠いあげた。
そっと英二は歌詞を言葉につぶやいた。

「…季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように…」

秋か冬の森のような旋律にのせた、永遠の愛を誓う想いの歌。
その愛は「夢なら夢のままでかまわない、愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは真実だから」そんな無償の愛。
ぱさりとペーパーボードが雪の道に落ちた音に足元を見おろすと、白銀に輝く雪の光にやさしく瞳が射抜かれた。
ゆっくり瞬いて焦点を戻すと英二は、すこし雪に濡れたボードを拾いあげてそっと雫を拭った。
そして静かに自転車を動かして英二はまた巡廻を始めた。


早めの昼食が済んだ頃、国村は周太を連れて御岳駐在所に来てくれた。
いつもの調子で奥の休憩室に陣取ると持ってきた風呂敷包みを広げてくれる。
それを覗きこんで岩崎が笑った。

「お、国村のお得意だな?ずいぶんとまあ、たくさん作ったじゃないか」
「みんなで食べようと思いましてね、奥さんと息子さんにもどうぞ、」
「ありがとう、国村が作ったのも旨いんだよな、奥さんたち喜ぶよ、」

話ながら馴れた手つきで国村は皿へと取り分けて岩崎へと渡している。
何かなと英二も覗きこむと、重箱いっぱい牡丹餅といなり寿司が一段ずつ詰められていた。
巧いもんだなと眺めながら英二は訊いてみた。

「これ、おまえが作ってきたのか?」
「そうだよ、俺の作った米と小豆でね。いなり寿司の揚げは祖母ちゃんが作ったやつだよ、」

皿にとると英二にも渡してくれる。
素直に座って箸をとると、周太が茶を淹れて持ってきてくれた。

「コーヒーよりも、お茶の方が良いかな、って思って…熱いからきをつけて、」
「ありがとう、ね、周太?これは周太も手伝ったの?」

湯呑を受けとりながら訊いてみると、素直に周太は頷いた。
そして楽しそうに微笑んで教えてくれる。

「ん、手伝わせてもらったよ?…俺、牡丹餅って初めて作った。餡を漉すのとか、面白かったよ?」
「へえ、あんこまで作ったのか、すごいな」
「ちょうど、祖母ちゃんが小豆を水煮してあってさ。で、餡を作れるなって思ってね」

教えてくれながら国村も自分の分を取り分けている。
勧められるまま英二も食べてみると、さらりと甘い餡にほどよく潰された餅米が美味しい。
ちょっと高級な和菓子屋にも負けない味に英二は驚いた。

「これ、旨いよ?すごいな、国村。おまえ、こんなことも出来るんだ」
「うん?まあね、高校でもやったしさ、祖母ちゃんの手伝い昔っからしてるしね。甘いもん好きなんだよね、」

言いながら本人も満足げに目を笑ませて口を動かしている。
周太も美味しそうに微笑んでいる、きっと料理も好きな周太には素朴な菓子作りは楽しかっただろう。
ふたり並んで農家の台所に立つ時間はやさしい温もりで周太を包んだ、そんな気配が幸せそうな周太に見える。
周太の体と心の傷を国村は、大らかな優しさのままに接して癒そうとしてくれている。
こういう愛し方は自分にはまだ難しい、けれど出来るようになりたい。穏やかな願いに微笑んだ英二に国村が声を掛けてくれた。

「いなり寿司のさ、揚げの味とかどうだ?好みと違っていたらごめんな、」
「うん、旨いよ。酢飯も良い味だな、具もたくさん入ってるな、」
「どれもウチの野菜だよ。椎茸も池の端で作ってるんだ、香も好いだろ?」

愉しげに温かく笑いながら「もっと食いなよ、」と英二にも勧めてくれる。
どれも温かで端正な味がする料理たちは、どこか周太の手料理とも似ていて納得と切なさが響いてしまう。
ふたりには英二が踏み込めない繋がりがある、そんな確信も手料理から解るような気がした。
やさしいピアノながれる時間、台所の穏やかな温もり、そんな素朴で繊細な豊かな時間に繋がれる想いたち。
ふるよう伝わる想いに確信を見つめながら昼の時間を英二は穏やかに微笑んだ。

食べ終えると3人で御岳ボルダ―の忍者返しの岩に行った。
冬でも午後なら日当たりの良い岩で、日本で最も有名なボルダリングできる岩・ボルダ―となっている。
その理由は忍者返しがボルダリンググレードの体系の基準になっているということ。
普通「課題」と呼ばれるコースごとにグレードが設定され10級から高難度で六段まであり、忍者返しは1級になってる。
もうひとつの理由は「ハードプロブレムの登竜門」と言われ、上級者への第1歩とされていることだった。
御岳駐在所に勤務する英二と国村にとって、勤務合間の自主トレーニングには調度いい場所とグレードでよく登っている。

今日も日当たりがよく、雪中とはいえ岩は温まっているようだった。
ボルダリング用のシューズに履き替えるとチョークを手にはたいた。
クライマーウォッチの時間を確認して国村が提案してくれる。

「あまり時間ないだろ?宮田はさ、忍者返しに登んな。俺が湯原につきあうよ、マミ岩ならいけるよね?」
「うん、よろしくな、」

短く微笑んで答えて英二はクラッシュパッドをポイントに敷くと岩に手をかけた。
すぐに登り始めていく掌も足も随分と馴れているのが自分で感触に解る。
毎日をこうしてボルダリングやルートクライミングの自主練を国村と積んできた。
いまに岩場として国内最難度の滝谷や一ノ倉沢にも行くだろう、本配属後は海外での訓練も予定されている。
その先には最高峰の踏破が待っている。

そして周太の運命も本配属から大きく動き出す。
あと半年もすれば周太は警察組織の暗部へと曳かれ、命を危険に晒す日々が始まる。
そのときに自分はどこまで守りきれるのか解らない、けれど今もう1人が周太の隣に立つだろう。
きっと周太の隣は英二だけじゃない方が可能性は広がる。
このさき周太が辿る危険な「父の軌跡」そこから無事に戻れる可能性、それが広がる。
周太の隣に立つもう1人がどれだけ有能で信頼できるのか、それを一番自分がよく知っている。
そしてきっともう1人は英二にも解らないほどの強さで、周太を大切に想い守ろうとしている。

だからもう独占は今は出来ない。
周太を守るためなら何だって自分は出来る、だから独占を止めることだって出来るはず。
その覚悟を見つめながら英二は頂上だけを見つめて登って行った。
そして岩を完登して御岳渓谷を英二は見おろし微笑んだ。

碧い水と透明な波が砕ける渓流、白銀そまる河原の輝き。
渓谷を包む森の雪にねむる動物たちの穏やかな気配、冬の陽の温もり。
そして下方の岩場では周太が国村に教わって登攀をしている。
楽しそうな周太の笑顔と底抜けに明るい目の温かい笑顔は、きれいだった。
ふたりの空気は穏やかで温もりが優しかった。

―聴かなくていい事、踏み込むべきではない領域

昨夜あの星ふる屋上で国村が言った言葉が静かに心へ映りこむ。
きっと周太と国村の繋がりはそうした空気がある、そっと確信が心へ肚へふれ落ちてくる。
それならそれでいい、周太が幸せに笑ってくれるなら自分も幸せだと思える。
唯ひとり愛する。
そう決めたのなら愛しぬけばいいだろう。
たとえ周太が他へ想いを傾けても、その想いごと自分は見つめて守ってやりたい。

愛してるよ? 心に想いを告げて微笑むと、英二は岩を下降し始めた。

御岳駐在所へ戻ると英二は午後の巡回は自分だけで行きたいと周太に告げた。
なぜ?と周太は訊いてくれた、それに英二はきれいに笑って答えた。

「午後はね、周太。大岳山の方まで確認に行きたいんだ、今日は御岳から大岳へ抜ける計画書がいくつかあったから」

これは本当のことだった。
そうすると時間も長く険しい部分もあるルートになる、軽装備では避けた方が良い。
けれど、と周太は困ったように言ってくれる。

「でも、英二?約束してるのに…俺、ごめんなさい、ちゃんと装備を整えなくて、」
「周太は悪くないよ?それにな、周太が装備を整えていても連れて行けない、急いで回るから。こっちこそ約束破って、ごめんな?」

きれいに笑って英二は周太に謝った。
ゆっくり瞬いて黒目がちの瞳が英二を見あげて、ちいさなため息を吐くと微笑んで頷いてくれた。

「ん、…じゃあ、新宿までは、送ってくれる?」
「うん、送っていくよ?早く上がれるように、頑張るな。でさ、国村?」

英二の声に底抜けに明るい目が「なんだ?」といつもの温かい笑みで訊いてくれる。
どうか俺のお願い聴いてよね?そんな目で英二は友人へ笑いかけた。

「今回さ、周太は荷物が多いだろ?だからさ、新宿まで車出してもらっていい?」
「うん?俺はいいけどさ、…それで良いワケ?湯原はどうしたい?」

ゆっくりひとつ細い目を瞬いて国村は周太に微笑んだ。
応えるように真直ぐに黒目がちの瞳が英二と国村を見あげて、やさしく微笑んで頷いた。

「ん、お願い出来ると、うれしいな…いいかな?」

やさしい細い目が周太に頷いて、英二を見てすこし首傾げた。
そして軽く頷くと愉しげに底抜けに明るいが笑ってくれた。

「じゃ、決まりだね。宮田、上がる頃にさ、迎えに来てやるよ?
で、青梅署で着替えたら新宿へ向かう。おまえが着替えてる間、俺たち吉村先生のとこにいれば良いだろ?」
「うん、よろしくな、」

そう言って駐在所でふたりを見送った。
駐在所へ戻ると英二は、すぐに書類のチェックに入って業務を進めた。
そして終わると救助隊服に着替えて、一声かけてから御岳山へと向かった。



【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】


(to be continued)

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