それぞれの世界、想い重ねるいろ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9f/3a00c1350375f904fadcd8db1e796c30.jpg)
第33話 雪灯act.9―another,side story「陽はまた昇る」
ゆるやかな芳ばしい湯気が黄昏の部屋に充ちていく。
湯がフィルターを透るやさしい音を見つめながら周太はため息を吐いた。
いま心も体も本当は痛い、抱かれておちた眠りから目覚めて最初に見た、あの笑顔の美しさに傷ついた。
「おはよう、周太?俺の花嫁さん、…ほんとに周太、きれいだね?」
きれいな優しい笑顔の英二。けれど体を無理に繋ぐことが周太にとって残酷だと気付かない。
以前の英二が複数の相手と体の関係を持ったことは聴いている、それを孤独を紛らす手段にしていたことも。
そんな英二にはきっと、周太が体を繋ぐ意味も重みも理解しきれない。
そして周太がどんな想いで国村に銃口を向けたのかも結局は解っていない。
それでも、きれいな笑顔が大好きで、見つめられれば嬉しいと想ってしまう。
そして今は「山の秘密」に国村への想いを抱いた分を、英二を大切にすることで償いたい。
けれど今はどこか寂しい心は寒々しくて、浴室へも一緒にはいることを頷いてしまった。
この体への残酷な仕打ちの寂しさに、少し英二と離れてしまえば自分の心に溝が生まれそうで怖い。
それでも明日の夜には新宿へ帰らないといけない。
この想いのまま帰っても英二を愛し続けられるのだろうか?
見つからない答えの出口が解らない、誰か救けてほしいと泣きそうな心が蹲っていく。
…俺はね、君が幸せな姿を見つめたい、幸せな笑顔を見ていたい…
君がいちばん愛するひとの元へ君を帰してあげたいんだ…愛するひとの隣はさ、いちばん幸せな笑顔になれるだろ?
明るい雪の森で告げられた美しい山ヤの真心が温かい。
青空のもと国村が願ってくれた、周太の幸せだけを祈る想いが温かでうれしかった。
けれどいま自分は愛するひとの隣で心からの幸せな笑顔にはなれない。
…ね、国村…俺はね、いま愛するひとの隣で、涙をこらえて笑っている、よ…
寂しい、哀しい、心も体も痛い。
そんな想いとコーヒーを見つめる周太の背中に、ふっと温もりがふれてくる。
振向いたすぐ傍で端正な白皙の顔が幸せそうに微笑んだ。こんな笑顔は狡い、心で責めながら周太は遠慮がちに申し出た。
「あのね、英二?…台所のことしている時はね、あぶないから…すこし離れていて?ね、年明けに家でも、お願いしたよね?」
「うん?周太、ここは台所じゃないよ?火も無いし包丁だって使っていない。問題ないよね、周太?」
「でも、お湯は熱いよ?…あぶないと思う」
いつもながら距離が近すぎて緊張してしまう、そして気恥ずかしい。
けれど今はそれだけじゃない。本当は今、英二に怒りを持っている自分がいる。
自分は英二に体を大切にしてほしくて国村に銃口をむけてしまった。
そのことを英二は知っていた、それなのに英二は自分の体を無理に繋いでしまった。
自分は罪を犯しても英二の体を守ろうとした、その意味を英二は解っていないから「無理」が出来てしまう。
なぜ無理に体を繋げることは、たとえ愛情からでも無理矢理なら残酷だとまだ解らないの?
こんな軽い考えの人間を守る為に、自分は罪を犯し国村にまで罪を背負わせたのだろうか?
こんなに傍にいたがるほど好きだというなら、なぜ解ってくれない?
…こんなに英二は軽く想ってしまう、すこしも解ってくれていない
こんな事のために国村に…美しい山ヤの人生に罪を負わせて…哀しい、悔しい…どうして?
英二はたくさんの笑顔と幸せを自分にくれた。
13年前の事件の真実と想いを探して、父の想いも受けとめて、沢山の服を贈って、婚約の花束を贈って。
そんな大切なひとが自分の体を無理に繋いでしまった、この傷に裏切られた哀しみが時の経過と共に痛みだす。
そうした英二の強引な愛情が自分と国村が罪を犯した意味を呆気なく踏み躙っていく。
すこし距離がほしい、英二と離れて考えたい。
そんな想いと同時に今、このまま離れたら英二を見つめ続ける自信も無い。
けれど「いつか英二の為だけに掌を使う」そんな約束にこめられた幸せを信じたい。
どうしたらいいのだろう?途惑うまま見つめる切長い目が、やさしく穏やかに微笑んだ。
「ほら、周太?もうコーヒー出来たよ。ありがとう、周太」
「あ、…はい、」
遠のいている心は生返事になってしまう。
けれど英二は気付かず幸せそうに笑って、コーヒーを運んでくれた。
「かわいいね、周太は。ほら、座ろう?」
ソファに落ち着くと英二は買ってきてくれた食事をひろげてくれる。
こんな優しい気遣いが出来る英二なのに「体」のことだけは欠落ちている、そして生まれたすれ違いが哀しい。
それでも隣で笑顔見つめれば幸せで、だから尚更に唯一つの欠落が哀しくなる。
「Le dernier amour du prince Genghi」―源氏の君の最後の恋
光源氏の晩年を見つめる「無償の愛」に尽くした花散里の物語。
すべてに恵まれ美しく才能あふれた光源氏、けれど母の愛情に渇望して「無償の愛」を求め恋を渡り歩いて体を重ねていた。
その生涯の果に年老い盲目となった源氏を支えた花散里の「無償の愛」への報いは「名前を忘れる」という冷たい仕打ち。
そんな源氏と英二は恵まれた生い立ちと美しさ、母の「無償の愛」を渇望する想いも体への考え方まで似ている。
だから周太は花散里に自分を重ねてしまった、自分の名前を愛するひとに忘れられる哀しみを想って辛かった。
それでも愛された記憶に報いたくて、英二の体を大切にしてほしくて銃口を国村に向けてしまった。
けれど英二は源氏と同じで周太の「無償の愛」は解らない、解らないまま無理に体を繋げて幸せだと思っている。
自分の「無償の愛」は英二に届かない、そして自分は国村の「無償の愛」のまま罪を国村にも負わせてしまった。
そんな想いの哀しみに座り込んだままでも大好きな英二の笑顔を曇らせたくなくて周太は微笑んでいた。
そうして早めの夕食を摂りながら、英二は富士山の話をしてくれる。
「もうあのときはね、雪崩が起きるカウントダウンだった。
そして救助者の人がいるところは、雪崩が起きたら風に巻きこまれるポイントだったんだ。
だからすぐに行って救けなきゃいけなかったんだ。雪と風が強かった、ホワイトアウトも起こしかけていた。
それでね周太?俺たちは初めてきちんとアンザイレンを組んだんだ。そのお蔭で国村を救けることが出来たんだよ」
アンザイレンパートナー。
幼い日に父と穂高岳を見ながら聴いた話がなつかしい。
山を愛した父は「生涯のアンザイレンパートナー」に出会う憧れを語ってくれた。
同じくらいの体格と体重、同等の力量、そして深い信頼関係が求められると教えてくれた。
そして体格が大きい英二と国村は簡単には自分のパートナーを選べない、まして最高の力量を持つ国村は尚更だろう。
そんな国村は英二の力量に将来性を信じ指導して、世界の最高峰へ登頂するアンザイレンパートナーを組もうとしている。
そして2人は富士山で初めてアンザイレンを組み、そのことが国村の生命を救った。
きっと2人の信頼関係はまた深まっただろう、それを大切にしてあげたい。
そう思うと英二の「周太の体」への無理解は国村には気づかれない方がいい。
大らかに山ヤの自由な心で生きる国村は「山」への不敬以外では滅多に怒らないと聴いている。
そんな国村は周太を「山桜のドリアード」として「山」への愛情の結晶と14年間ずっと見つめてきた。
そういう国村はきっと、周太の体を英二が無理強いしたと知れば最も大切な「山への愛」を傷つけたと本気で怒りだす。
最高の山ヤの魂が大らかなまま発する怒り。それは冬富士の雪崩と似た何者にも平等に容赦しない冷厳が想われてしまう。
やっぱり国村には言えない、自分ひとりで見つめよう。ちいさな決意で見上げた隣で英二が微笑んで言葉を続けた。
「救助者を俺が背負っていた、それで国村はね、俺をザイル確保してくれていた。
そこへ雪崩でおきる強い風が吹き始めた。すぐピッケルを使って雪と風に体を支えたんだ。
けれど飛ばされた雪の塊が国村に直撃したんだ、そして国村はピッケルごと飛ばされた。それぐらい強い風だった。
でもアンザイレンザイルと確保用のザイルで俺と繋がれていたから、あいつは滑落しないで済んだ。
そして俺もね、周太?あいつを救けたくってさ、だから自分は飛ばされないぞって頑張れた。周太のこと想いながらね」
「…俺のこと?」
自分のことを想いながら英二は風雪に耐えて生還してくれた?
見あげた口もとに優しいキスを贈ってくれてから英二は微笑んだ。
「そうだよ、周太。あの時の俺はね、周太の笑顔をずっと見つめていた。
真っ白な視界のなかでさ、ピッケルを握りしめる自分の手を見つめながらね、心はずっと周太のことを見つめていたんだ。
そうやって俺はね、周太?絶対に帰るために耐えろって自分を応援したんだ。周太の笑顔の隣に帰りたい、それだけだったよ」
初雪の夜、このビジネスホテルの一室。
英二の無事を願って「絶対の約束」を結ぶために自分は心と体を全て捧げた。
英二が自分との幸せな記憶を抱いていれば、どんな場所からも自分の隣に帰りたいと強く願ってくれる。
そう信じてあの夜に1つの勇気を抱いて「絶対の約束」をこの体で結んだ。
それが英二と国村を生還させてくれた?それは自分の体を使った意味があったということ?
それは英二が少しでも体の意味を受けとめてくれていること。もし本当ならうれしい、そっと周太は訊いてみた。
「…俺のこと、忘れないでいてくれた?」
「もちろんだよ、周太?俺はね、いつだって周太のことばっかりだ。
山小屋でも、頂上でだって、周太のことばかり考えてた。それで国村にね、『おまえ嫁さんのことばっかりだなあ』って笑われた」
「頂上でも?…山小屋でも、…いつも?」
見つめる視界が水の紗に揺れ始める。
自分が体を捧げた「絶対の約束」がすこしでも英二の心に生きてくれている?
どうかお願い少しでも信じさせてほしい、そんな想いの真ん中で英二は愛しく周太を見つめて微笑んだ。
「そうだよ周太、最高峰の頂上で周太を想った。
山小屋の夜にも周太のこと想って、周太のことばっかり話したよ?
俺はね、周太?最高峰にいても、夜も昼も朝も、ずっと周太のことばっかりだったんだ。
周太が贈ってくれたクライマーウォッチを見つめてね、周太は何しているかなあってさ?つい、考えてた。周太ばっかりだ」
最高峰にも自分の想いを連れて行ってほしい。
そんな想いで贈ったクライマーウォッチを見つめてくれていた?
そして最高峰へ行っても自分をずっと想ってくれたの?少しでも「絶対の約束」に捧げた意味を解っている?
「頂上で…夜も昼も朝も、…うれしい、な」
かすかな期待だけでも幸せで、微笑みに涙がこぼれてしまう。
信じたい想いの期待が心を迫りあげる、このまま信じてしまえたらいいのに?
信じたい想いに英二の頬に掌を添えると周太は静かにキスをした。
どうか信じさせてほしい、自分の想いを解ってほしい、そんな想いを重ねた唇に遺したい。
どうか想いが遺せていますように。そんな祈りに離れて周太はきれいに笑った。
「英二…俺の想いを、最高峰に連れて行ってくれたね、…ありがとう」
最高峰へ想いは連れて行ってほしい、そう自分は願っていた。
たしかに英二は「体」を解ってはいなくて大切にする方法も間違えてしまう、けれど自分への想いは偽りない。
その想いに最高峰へも登ってくれている、そこで見た世界を自分にも聴かせてほしい。
すこしだけ明るい心になって周太は英二を見あげた。
「うん、周太。ずっとね、周太の想いと俺、一緒にいたんだ。だから頑張れた、そしてね、見つめた世界は美しかったよ」
「日本の最高峰の、世界?」
「そうだよ、最高峰の世界。冬富士はね、エベレストと同じ気象状況なんだ。
山頂の気圧は標高4,000mって言われている。そうやって日本ではいちばんの最高峰に冬富士はなるんだ。
そこはね、周太?雪の白銀と、青空と。蒼い雲の翳だけの世界だった。とても静かで、世界は人間のものじゃないって解った」
冬富士が魅せる「最高峰」の荘厳な世界。
そこは息づく命の気配はない、ただ雄渾な静謐に雪と氷が支配する冷厳の掟が充ちる世界。
そこへ英二はもう魅せられている、憧れが声に言葉に響いている。
冬富士の雪崩に国村は命の危険に晒され、英二も同じだったろう。
けれどふたりの雪の高峰への想いはなにひとつ傷ついてはいない、弥増す憧れだけがまぶしい。
そしていま話してくれる英二の笑顔がまぶしくて愛しいと想ってしまう。
このまま英二を信じて明日を見つめられたら?
そんな想いが幸せの気配と並んでいる、そして雪の森で見つめた「山の秘密」も共に今は抱いている。
抱いた「山の秘密」が純粋無垢な温もりに美しい、その秘密を共に抱いた美しい山ヤを想ってしまう。
英二が夢に立つパートナーでもある、あの美しい山ヤ。英二が自分の隣にいるように、あの山ヤも自分の隣に立っている。
ふたりは共に最高峰へ立つのだろう、その無事を自分は祈りたい。
それぞれに正反対の愛情で自分を守り見つめようとしてくれる、ふたりとも大切だから。
そんな想いの周太の両掌をとると英二は穏やかに掌へ唇をよせて、きれいに笑った。
「周太、俺はね?またあの場所に立ちに行きたい。周太の想いを抱いて、最高峰へまた立ちたい。
あの雪と空だけの世界に立つこと。きっとずっと、生きている限り望んでしまうと思う。
国村の為だけじゃなく、自分の望みとして、あの場所に生きたい。周太には心配をかける…でも、どうか許してほしい」
想いを告げる英二を真直ぐに周太は見つめて聴いていた。
英二の夢と誇りの場所「最高峰」そこへ立った笑顔を自分は見つめたい。
生きる誇りと意味を探していた英二のまなざしに自分は恋をした、その想いは今も変わらない。
今度のことで英二にかすかな不信も今は持っている、それでもこの恋は色あせてはいない。
…きっとね、英二への想いはもう、枯れることもできない、
そして今あらためて気がつかされるのは「想い」には割算は無いということ。
このいま国村への想いが時の経過と共に存在を大きくしている、それでも英二への想いは色あせてはいない。
ふたつの想いがそれぞれの色彩で鮮やかに心へ温もりを与えてくれている。
どちらも大切だと素直に想っている、それなら潔く真直ぐ向き合っていけばいい。
もうどちらからも逃げないと自分は決めている、この決意に抱いた勇気と温もりに周太は微笑んだ。
微笑んだ周太の瞳に穏かに笑いかけて英二は「約束」を告げてくれた。
「周太、あらためて約束する。
最高峰から周太への想いをずっと告げ続けるよ、そして必ず無事に周太の隣へ帰る。
俺は笑って山へ登るよ、そして必ず周太の隣に帰る。そうして俺は周太にね、今みたいに山の話をするよ。
そうやって俺は山ヤとして生きたい、周太を守って、ずっと周太を幸せに笑わせて、ずっと周太の隣で生きていきたい」
どうかお願いを聴き届けてほしいよ?切長い目が実直なまま真摯な想いに見つめてくれる。
この真直ぐな眼差しが自分はやっぱり好きでいる、そんな素直な想いに周太は微笑んだ。
今まだ「体」のことでショックは残っている、けれどこの真直ぐな想いには応えてあげたい。きれいに笑って周太は答えた。
「はい、英二…ずっと俺の隣に帰ってきて?そして、山の話を聴かせて?
そして時々はね、俺も山へ連れて行って?英二が見る世界を俺も見に行きたいんだ…
最高峰とかは無理だろうけれど、でも、そのクライマーウォッチが俺の代わりに、英二の立つ世界を見てくれる。
だから一緒に連れて行って、俺のこと想いだして?…英二を信じて、ごはん作って待っているから、帰ってきて?
そしてずっと英二の隣で生きていたい、英二の帰る場所でいたい…それがきっとね、俺にとっていちばん幸せなんだ」
英二が見る世界を一緒に見たい。
そして英二が帰る場所でいたい。
卒業式の翌朝に英二は周太のことで実の母親に義絶された。それ以来もう実家へは帰っていない。
そして英二は帰る場所は周太の隣だけにしてしまった。
それなのに自分が居なくなったら英二は帰る場所を失ってしまう。
だからやっぱり隣にいてあげたい、いまの英二の全ては自分と出会ったことから始まったのだから。
それでも14年前から甦った想いを見つめることも止められないだろう。
きっと悩むことも自分なら多くなる、それでも英二の隣でいたい。
たくさんの約束への想いと微笑んだ周太に、英二はきれいに笑ってくれた。
「うん、…ありがとう、周太。ほんとにね、俺…うれしくて、幸せだよ
だから周太?絶対に俺から離れて行かないで?必ず俺には全てを話して、そして俺に周太を守らせて。絶対に、」
守っていくために「全て」を話していく。
この言葉の意味はこれから自分が進んでいく父の軌跡の先のこと。
その軌跡の先で「全て」を話すことは警察組織の「禁忌」になっている。それを英二は知って話してほしいと願っている。
それは英二を危険に巻きこむことになる、躊躇いを見つめて周太は訊いた。
「…全てを、話すの?」
どうか自分を信じてすべて委ねて?そんな想いを映して切長い目が穏やかに見つめてくれる。
きれいに笑って英二は周太に告げてくれた。
「そうだよ、周太。今までも、これから先に起きることも、全て俺には話してほしい。
そうしたら周太が望むものはね、全て俺があげる。俺が周太を幸せにするよ?
周太が必要なものはね、全て俺が見つけて周太にあげるよ?だからすべて話して、そして俺に望んで?」
掌を包み込んでくれる長い指の掌は白くてきれいなままに見える。
けれど少し厚みを増して固くなった手のひらの感触に、英二の努力の痕が伝わってくる。
まだ「体」のことで心はすれ違っている、けれどこの掌は信じられる。
この掌が信じられることは隣で過ごした10ヶ月の記憶と想いで解っている。
それでも唯一つ「山の秘密」だけは話せないけれど、信じていきたい。ゆっくり瞬くと微笑んで周太は頷いた。
「はい、…全て話します。だから英二…幸せにして?」
これから先と今までの全てを、英二に話していく約束、けれど「山の秘密」だけは話せない。
この「山の秘密」は英二が愛する「山」での約束ごと、「山」に最も愛される山の申し子と結んだ絶対の約束だから話せない。
ね、英二?
全て話して解り合えるなら幸せだと俺も想うよ?
けれど英二と自分ではそれは難しい、警察官としても適性が違うように性格も違う2人だから。
そして英二が体を大切に出来ないことが自分には理解できないように、きっと英二は「山の秘密」を理解は出来ない。
この「山の秘密」に託された山の申し子の大らかな優しさ誇り高い「無償の愛」は英二には解らない。
だから話さない。
食後のコーヒーを淹れて飲みながら、英二は富士山や他の山の話もしてくれた。
そんなふうに夜の穏やかな時間を楽しんでいた19時すぎ、周太の携帯がきれいな曲を流した。
「…あ、美代さんから、」
携帯を開いて発信元を見た周太は英二を見あげた。
美代は昨日の昼間に電話をくれて、気晴らしのカラオケに行きたいと言っていた。
たぶん美代は昨日の冬富士の雪崩で哀しみと心配と怒りにゆれている、その不安を聴いてあげられたらいい。
けれどそこに国村も来るだろう、そうして4人が揃ったとき自分は何を想うだろう?
この電話出てもいいのだろうか?そんな想いで隣を見あげると英二は笑いかけてくれた。
「ほら、周太?きっと美代さん、カラオケの話じゃないかな?早く出てあげなよ」
「ん、…いいの?」
「俺は大丈夫だよ?ただし、周太の体が辛くなければ、だよ。それでね、俺も一緒させてって言って?」
周太の体を英二は気遣ってくれる、こんな優しい英二なのに「体を繋ぐ」ことは別になってしまう。
それほど英二は「心」と「体」を切り離して考えなくては生きられなかったのだろうか?
これほどまでに「母親からの無償の愛の欠落」は英二の心に欠落を作っているのだろうか?
それはどんなにか寂しく、哀しいことだろう?
英二は、すき好んで母親から愛されなかったわけじゃない。
英二は、「心」と「体」を切り離すほど冷たい哀しい孤独を、望んで抱いたわけじゃない。
英二の孤独は23年間かけて凍らされた哀しみ。
それを出会って10ヶ月足らずの時間で、全てを温め癒すことは難しくて当たり前だろう。
だからまだ英二が「体」を解らなくても仕方ないかもしれない。
そして自分はひとりっ子で両親の愛情を独占してきた、父の殉職は辛くても両親の愛情を疑うことなく信じ育てられている。
そんな自分が英二の無理解を責めることは傲慢かもしれない。
…やっぱり、受けとめてあげたい
英二の凍りついた哀しみを受けとめて温めてあげたい。
隣に咲く美しい笑顔の底にねむる哀しみに「無償の愛」が温度を蘇らせていく。
いま心が温かい、甦っていく温もりと微笑んで周太は英二に笑いかけた。
「ん、ありがとう、英二」
これで温かい心で美代の話を聴いてあげられる、やさしい温もりに微笑んで周太は電話を繋いだ。
繋いだ向こうから安心した想いと遠慮がちな気配が、やわらかなトーンの声と送られてきた。
「こんばんは、湯原くん…あの、ね?カラオケ、やっぱり一緒に行くのお願いしてもいいかな?」
そんなに遠慮しなくていいのに?
けれど自分には美代の遠慮がちな気持ちが解る、きっと美代はこの誘いを「わがまま」だと困っている。
でも友達の「わがまま」を聴けることは周太にとって初めてで、こういうのは嬉しい。うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、…いいよ?」
微笑んだ周太の返事に嬉しそうな気配が繋いだ向こうで明るくなる。
そして美代は、うれしそうに寛いで話してくれた。
「あのね、今、宮田くんも一緒にいるんだよね?」
「そう、」
「じゃあね、よかったら一緒に来てもらってね?せっかく一緒にいるのに、ごめんね?でも、宮田くんとも話せたら嬉しいな」
やっぱり美代は昨日の冬富士の雪崩に気がついている。
だから英二に雪崩のことと、国村といちばん親しい英二の考えの両方を聴いてみたいのだろう。
そういう美代からの信頼は英二も嬉しいだろう、この2人の繋がりも温かで周太は微笑んだ。
「よかった、喜ぶと思う」
「ほんと?よかった、迷惑かなって思ってて…うれしいな。それでね、あの、光ちゃんは私が湯原くんに電話したこと、知ってる?」
「あ、ん、」
光ちゃん。近しい親しい呼び名。
呼び名から国村への近しい想いを聴いて、心がすこし軋んでしまう。いま国村から寄せられる自分への想いを知っているから。
国村の幼馴染で恋人の美代、この国村の想いを知ったら何て想うのだろう?
美代は周太にとって大好きな植物の話をお互いに遠慮なく楽しめて、悩みを相談してくれようとする初めての友達。
この友達を失いたくない大切にしたい、その方法を見つけたい。
…吉村先生、俺でもきっと、答えは見つけられますよね?
昼間に吉村医師に話した「3つの想い」のことを想いながら周太は心で1つ呼吸した。
呼吸してすこし大きくなった心に、美代が気恥ずかしげに訊いてくれた。
「あの、ね?光ちゃん、来てくれるって思う?」
やっぱり美代は本音は国村に逢いたいのだろう。
怒るほど心配していた恋人に逢って無事を確かめたい、そんな美代の想いはよく解る。自分は新宿から来てしまった位だから。
同じ想いを抱いている友達がいることが嬉しい、その相手が国村だということが小さな痛みを伴うけれど。
この小さな痛みに自分の本音が知らされる。
いま英二への「無償の愛」をあらためて深められている、けれど国村への想いは生きている。
甦った14年前の雪の森の約束、「山の秘密」の温かな純粋無垢な笑顔と想い。
白銀と青空の美しい想いと記憶と約束は、もう枯れることはない。
そんな確信がたった数時間でも、あざやかに周太の心に深く根をはり豊かな梢を蘇らせている。
きっと14年の歳月を信じて雪の森に待ち続けた「山の申し子」の祈りが届いてしまった。
その祈りが自分は、心から嬉しくて、愛しい。
きっと国村は来るだろう、美代に会いに。
そして「山桜のドリアード」である周太に逢うために。
きっと来てしまうね?純粋無垢な笑顔の面影に微笑んで周太は美代に答えた。
「…きっとね、来ると思うよ?」
ほっと安堵する喜びが電話の向こうで生まれている。
この喜びも自分は大切に守りたい、ちいさな決意をまた1つ抱いて周太は美代の声に心を傾けた。
「うん、ごめんね、湯原くん?ありがとう…
あのね、カラオケ屋なんだけど。河辺駅の近くなの、場所とか解るかな?宮田くんに場所を言った方が良いかな?」
「ん、わかるかな?あ、ちょっとまってね、替るから」
周太は携帯の送話口をそっと掌で抑え込んだ。
そして英二を見あげて携帯を差し出しながら、ちいさな声で英二に話した。
「あのね、英二?カラオケの場所、聴いてくれる?」
「うん、周太。解ったよ、ちょっと携帯借りるな?」
笑って答えながら英二は周太の携帯を受けとってくれると、美代と話し始めた。
美代と話し始めた横顔は穏やかで優しい、こんなふうに英二の本来もつ誠実な優しさは見えてくる。
このひとの本来の素顔は直情的だけれど実直で穏やかで優しい静謐を抱いている。
この優しさがいつか英二に「体」を大切にする意味を気付かせる、そう信じて見つめていたい。
ひとつの信頼に微笑んで周太はボストンバッグを開くと着替えを出した。
あわい水色とボルドーのボーダーニット、あかるい温かみのベージュの細身カーゴパンツ。
それから水色の縁刺繍がある白いTシャツと、きれいな水色の靴下。
どれも英二が選んで買ってくれた服ばかり、そして明るい綺麗な色ばかりを選んでくれた。
こんなふうに綺麗で明るいものと英二は自分を見つめてくれている、想ってくれる英二の気持ちが伝わってくる。
この英二の想いを信じて隣にいたい、そして幸せの温もりで英二の凍りついた哀しみを癒したい。
また今日のように何度も泣くかもしれない、それでも逃げたくはない。穏やかな意志と微笑んで周太は着替えた。
着替えてマグカップを洗うと周太はダッフルコートとマフラーをハンガーから外した。
明るい青みのグレーがきれいなヘリンボーン生地のコート、あわいブルーとボルドーにモノトーンのストライプのマフラ―。
これも英二が選んで買ってくれた、今回の登山ウェア一式も年明けに贈ってくれたもの。
こんなに全て英二が揃えてくれていることが申し訳なくて、このあいだも母に訊いてみた。
けれど母は「服を贈りたがる男の人っているのよね、遠慮なく喜んで着てあげるのが一番のお返しよ」と笑ってしまう。
けれど何かお返ししたいな?そう考えていると英二の話し声が終わって携帯を閉じる音が聞こえた。
「かわいい周太、」
きれいな低い声に名前を呼ばれて、周太は顔をあげた。
見あげた先で端正な顔はうれしそうに笑って、周太の頬にキスしてくれた。
「似合ってるよ?服、着てくれてうれしいな」
「ん、ありがとう…」
応えながらも頬へのキスが気恥ずかしくて、そっと周太は指で頬を撫でた。
ほら、もう自分はこんなふうに幸せな気持ちになっている。
さっき温もりを取り戻した「無償の愛」と与えられた優しいキスが嬉しくて周太は微笑んだ。
「あの、カラオケ、ごめんね?英二」
「どうして周太が謝るんだ?」
「ん、…英二に逢いに来たのに、美代さんとね、約束しちゃったし…」
答えながら周太は抱えたダッフルコートとマフラーに目を落とした。
着替えようとシャツを脱いだ英二の白皙の肌が気恥ずかしさに見られない。
警察学校ではいつも一緒にいたから風呂も一緒で、周太も平気で英二の前で着替えていた。
けれど卒業式の夜に初めて「あの時」を過ごしてからは恥ずかしくて仕方ない。
こんなにも自分は「体」にこだわるし大切で重大なこと、それを英二も解ってくれたらいいのにと願ってしまう。
「気にしなくていいのに?だって2人とも、会いたかったんだろ?」
「ん、そう。本の話とかもしたくて…それに美代さん、昨日の電話とか、哀しそうで…」
周太も美代と会いたい、会話を楽しんで一緒に時間を過ごしたい。
警察学校でも瀬尾や関根と友達になれて、新宿署で一緒の深堀とはいろんな話も出来る。
けれど本当に好きで興味がある植物や料理の話は美代としか周太は出来ない。
子供の頃も草花や料理が好きというと「男のくせに」と言われることが多くて、両親以外には話さなくなった。
いまは英二には話せるけれど、お互いに興味があるわけではない。
だから同じように興味を持っている美代と、遠慮なく満足するまで話したかった。
そんな大切な友達の美代がいま、国村のことで哀しんで悩んでいる。
その悩み哀しみを周太がどうにか出来るとは思えない、それでも一緒にいて隣に座って想いを聴いてあげたい。
一緒に泣いて笑えたら少しは美代の心の重さも楽になるかもしれない、そう思って周太は今夜は会いたかった。
そして美代の悩みの対象である国村とも、今夜は向き合いたい。
大切な友達である美代と、その想いの相手である国村と自分。その3人の想いをどう自分が見つめるのかを知りたい。
…美代さん、国村。俺はね、ふたりとも大切だよ?だから…向き合いたい
そして英二もそこに立ち会うことになる。
この4人の間に交わされていく想いと記憶の交錯を自分は真直ぐ見つめたい、そして1つ心を大きくしたい。
さっき英二への怒りも哀しみも見つめた果てに、英二への「無償の愛」を深く大きくできたように。
「はい、周太?お待たせ、着替え終わったよ」
大好きな声に顔をあげるとブラックミリタリージャケットを羽織りながら英二が笑いかけてくれる。
このジャケットコートは雲取山に登った帰りに新宿で着ていた記憶がある。
煌びやかなクリスマスのイルミネーションのなかで、山闇のような漆黒がビル風に翻ってきれいだった。
そして今この前に佇んでる端正な長身の姿もきれいで、記憶と今とに見惚れて周太は微笑んだ。
「行こうか?あの駅のカフェでね、美代さん待ってるよ。周太?」
やさしく微笑んで英二は周太の右掌を左手にくるんでジャケットのポケットに入れてくれる。
あの夜もこうして新宿のホワイトクリスマスを想わせる光を歩いていくれた。
幸せな初冬の夜の記憶の温もりを抱いて周太は、雪白い青梅の街へ出かけた。
歩き始めてすぐにマフラーが夜の山風にほどけて、首筋からこぼれそうになる。
気がついて英二は立ち止まるとマフラーを巻きなおしてくれた。
「ほら、周太?マフラーちゃんと巻こう?」
きれいな長い指が器用に動いて、温かくマフラーを巻いてくれる。
いつも上手だなと襟元を見ながら周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう…なんかね、上手に巻けないんだ、俺」
「周太、ほかは器用なのにな?でもそういうの、かわいいよ」
かわいい、そう言われて嬉しいと素直に想える。
言ってくれる端正な貌はやさしくて周太への想いが温かい。
この温もりにひそむ熱情に自分は掌をひかれて13年間の孤独と向き合い越えて来た、だから今ここに立っている。
だから。もし英二が愛してくれなかったら、自分は国村と再会できなかったかもしれない。
英二の独占で示す熱情の愛が、国村の大らかな無償の愛を14年の時を超えて甦らせた。
―… 周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ
本来の植生と違う場所で咲く花を見つけたとき、父はそんなふうに教えてくれた。
この言葉は雲取山でヤクシソウを見つけた不思議な想いに曳かれるよう甦ってくれた。
世田谷の高級住宅街に生まれ育った英二と、奥多摩の最高峰で生を受けた国村の繋がりにあのヤクシソウが重なっていく。
…ね、お父さん?ひとは、不思議だね…
父の記憶と一緒にふたりの想いを見つめるうちに、待ち合わせのカフェに周太は着いていた。
カフェに入って見渡すと、窓際の席でマグカップを前に本を美代が読んでいる。
美代とは初対面の雲取山に登った後以来だから、2ヶ月ぶりの再会で2度目の顔合わせになる。
それなのに昔馴染みの様にうれしくて周太は、すぐに隣へ行って笑いかけた。
「美代さん、こんばんは…それ、あのテキストだよね?」
「あ、こんばんは湯原くん、」
明るい瞳が愉しげに笑ってくれる。
笑い返してくれながら美代は座っている隣を「座ってね?」と示して勧めてくれた。
素直に座った周太に美代はうれしそうに話しかけてくれる。
「そう、話していたやつよ?よかったら貸してあげようと思って。読むかな?」
「ん。読んでみたいな、借りていいの?」
「嫌なら言わないよ?はい、これ袋も良かったら使ってね」
2ヶ月ぶりの再会、まだ会うのも2度目。
それでも美代は寛いで楽しそうに話してくれる。周太も寛いだ気持ちでマフラーを外しながら笑い返した。
「ん、ありがとう。これに長生きする葉っぱのことが書いてあるんだよね?」
「そうよ、このあいだ電話でも言っていた『ウェルウィッチア』について載っているテキストよ」
「ん。数百年から一千年も生きる、って言っていた植物だよね?…すごいね、植物って不思議だな…」
「ね?ほんとにそう。こんな面白いものがあるって、すごいね?」
ときおり美代と周太は他愛ない話で電話するようになっている。
美代は御岳駐在所でみかける英二の様子とJAで見聞きする新しい農品種などを話す。
周太は書店で見つけた新しい植物の本を読んだ感想や新宿のいつもの公園で見つけた珍しい植物の話をする。
ふと思い出したことを周太は話しだした。
「そういえばね、美代さん?環境省のレッドリストに記載された絶滅危惧植物の種子は、保存の取組みがされているよね」
「うん、そうだね。絶滅なんて、絶対に嫌だね…」
哀しそうな顔になって美代はすこし俯いてしまった。
こんなふうに美代は植物を本当に好きでいる、自分と同じ想いの友達が嬉しくて微笑むと周太は続けた。
「俺ね、つい最近に知ったんだけど。俺がいつも行く新宿の公園はね、普通種子保存システムのモデル施設になっているらしいね?」
「あ、じゃあ湯原くんがいつも行くのって、新宿御苑ね?」
勉強家の美代はやっぱり知っていたらしい。
よかったと思いながら周太も訊いてみた。
「ん、そう…美代さん、知ってるの?」
「うん。一度行ってみたいな、って思うんだけどね?
なんか新宿って都会って感じでね、気後れしちゃって…JAのイベントとかではね、新宿にも行ったことあるのだけど、ね?」
美代は周太と同じ23歳の若い女性でいる。それなのに「都会で気後れ」と言って困った顔になっている。
そういう美代の素朴さが周太には気楽になれる、楽しくて周太は微笑んだ。
「ん、新宿ってなんかそうだよね?俺もね、まだ慣れないんだ…でも、あの公園だけは好きだよ。居心地良いんだ、」
「やっぱりいい感じなのね?いいな、ね、もし行くなら案内してくれる?」
「ん、いいよ?植物園もあってね、面白いんだ」
いつ一緒に行こうかと話をしていると、前にマグカップが置かれて周太は見上げた。
見あげた先できれいな笑顔が微笑んだ。
「はい、周太?オレンジラテだよ」
「あ、ごめんね?英二、俺だけ座ってた…ごめんなさい」
美代を見つけて嬉しくて、寛いだ話が楽しくて、すっかり英二を忘れてしまっていた。
申し訳ない恥ずかしさで首筋が熱くなってくる、そんな周太に英二は優しく笑いかけてくれた。
「気にしない、お喋り楽しいんだろ?」
おだやかな低いきれいな声で言いながら「大丈夫だよ?」と切長い目が笑ってくれる。
やさしい静謐とソファに座ってコーヒーを啜る英二が、やっぱり自分は好きだと想ってしまう。
唯ひとつの想いに自分はこのひとに恋して愛し始めた、その想いはやっぱり間違ってはいない。
そんな確信と同じほどに、国村の「無償の愛」もきっと間違いないと確信がされている。
きっともう少ししたら英二と国村と、そして美代との3つの想いを自分は見つめることになるだろう。
…どれも大切で宝物の想いたち。真直ぐ見つめて正しい道を見つけたい
ひそやかな覚悟とおだやかな勇気が心に温かい。
見つめる自分の想いに微笑んで周太はマグカップに唇をつけた。
「これ飲んだらさ、カラオケ行こうか?ね、美代さん」
「うん、ありがとう…ごめんね、お邪魔しちゃって」
「いいよ?あとでまた周太とのんびりするし、」
英二と話している美代はきれいなあかるい瞳をしている。
けれど本当は哀しみと怒りを抱いてしまったことが周太には解る。
きっと遠慮がちな美代は、国村への心配や怒りも「わがまま」かもしれないと自責してしまう。
そんな美代の気持ちが周太には解る、自分自身がそういう考え方をする癖があるから。
いろいろ聴いてあげられたらいな?自分とよく似た考えをする友達を想いながら周太はオレンジラテを飲みほした。
初めて足を踏み入れたカラオケ屋は明るくてきれいだった。
受付カウンターで美代は馴れた様子で手続きをしている。
その様子を隣で眺めていると後ろから、透るテノールの声に話しかけられた。
「おつかれさん、ふたりとも。美代、昨日は天気予報、見てた?」
数時間前にも聴いた透明なテノールの声。
その声に聴いてしまう想いが昨日とは全く違っている自分がいる。
ゆっくり振向いて見上げると、雪白の貌を冬の夜気に紅潮させて明るく国村が笑っていた。
その隣には英二が穏やかな静謐と佇んで、きれいに微笑んでいる。
漆黒の山闇のようなミリタリージャケットコート姿の英二。
真白な雪山のようなミリタリーマウンテンコート姿の国村。
対照的な色彩と相似形の端正な長身が、それぞれの笑顔で佇んでいる。
どちらも本当にきれいで見惚れてしまう、そして不思議だと想ってしまう。
ふたりは最高峰へ登っていく運命に立つ生涯のアンザイレンパートナー同士、ふたり並んだ姿が似合っている。
そんなふたりと自分は14年の時と「父の殉職」をはさんで出逢った。
この出逢いの意味をこれから自分は見つめていく。
…どうか、大切に出来ますように
覚悟を見つめて微笑んだ周太のコートの袖を、そっと美代が掴んだ。
振向くと「一緒に来てね?」とあかるい瞳が哀しそうでも悪戯っ子の目で笑っている。
周太の袖を掴んだまま美代は明るく笑って国村に答えた。
「おつかれさま、見たけど?ね、湯原くん行こ、早く歌おう?」
「ん?…」
首傾げて微笑んだ周太のを袖を掴んだまま、美代は歩き始めた。
その力が意外な強さで引っ張られてしまう、驚いて周太は美代に訴えた。
「まって、美代さん、」
けれど美代は周太を曳いて廊下を歩いてしまう。
困って振り向くと、底抜けに明るい目がじっと周太を見つめていた。
切ない想いを映した眼差しに心響いてしまう、なにか声を掛けたくて周太は口を開いた。
「…国村、おつかれさま?」
ふっと切なさが和んで細い目が温かく笑んでくれる。
うれしくて微笑んだ視線の先で英二がやさしい眼差しで笑いかけてくれた。
「…あ、えいじ、」
言いかけた時に角を曲がって、ふたりの姿が見えなくなった。
ほっと思わずため息が出て美代を振り返ると、すこし泣きそうな顔になっている。
その泣顔の意味が自分には解る、周太は美代に微笑んだ。
「ん。…無事に、あえたね?」
無事に国村とまた会えたね、うれしいね?
そんな想いを込めた言葉に泣きそうな顔が振向いて、きれいな明るい目から涙がひとつ落ちて笑ってくれた。
「うん、…あえた…ありがとう、…わかってくれて…」
涙がまたこぼれかけた時、ちょうど割当てられた部屋の扉が現れた。
急いで美代は扉を開くと周太を引っ張り込んで、ぱたんと扉を閉めると微笑んだ。
「泣いたなんてね、絶対に光ちゃんに見せたくないの」
カラオケのコントローラーを持つと美代は適当に曲を入れていく。
そして涙と一緒に周太に笑いかけた。
「いまからね、大きな声で歌って泣くの。だから一緒にいて?」
どうか一緒に泣いてほしい、ひとりは寂しいから。
きれいな明るい目が真直ぐ想いを伝えて泣き笑いしてくれる。
大切な友達に「お願い」してもらえた、美代の想いが心に響いて周太は微笑んだ。
「ん。一緒にいるよ?…安心して、ね?」
気持ちが解るよ安心していいよ、一緒にいるよ?
そう微笑んだ周太の瞳からも涙がひとつこぼれて、見つめていた美代が笑ってくれた。
微笑んで美代がマイクを持った時、静かに扉が開いて英二が覗きこんだ。
「お邪魔して、ごめんね。ちょっと屋上に行っているから、ゆっくりしてね」
おだやかに優しい笑顔で英二が笑いかけてくれる。
優しい笑顔に安心したように美代が、いつものあかるい笑顔で英二に答えた。
「うん、ありがとう。ちょっと湯原くんを独り占めさせてね?」
「美代さんなら良いよ?周太、またあとでね、」
可笑しそうに、けれど優しい眼差しで切長い目が微笑んでくれる。
きっと英二の本音は周太を独占していたい、けれど友達の美代を大切にしたい周太の想いを優先してくれている。
英二は周太を想って理解しようとしている、その想いが幸せで周太は微笑んだ。
「ん、またあとでね、英二」
きれいな笑顔をみせて英二はそっと扉を閉じてくれた。
遠ざかっていく端正な足音を聴きながら、美代は周太に微笑んだ。
「宮田くん、ほんと優しいね?いいな、湯原くん」
「ん、そう?…でも結構、困ることあるけど…」
首傾げて答えた周太に美代が笑って、コントローラーを渡してくれる。
なにか歌ってねと言うことらしい、困ったなと思いながら選曲の画面を開くと美代が口を開いた。
「困ることなんてね、光ちゃんはそればっかりよ?あ、曲が始まったね、」
曲が始まって「また続きは後でね」と美代は笑って画面に向かった。
どんな歌を歌うのかな?画面を見て周太は、表示された題名に目が大きくなった。
『男』
ただ1文字だけの題名。
国村の論理を表現する言葉は「男」と「山」だろうと英二も言っていた。
そのまんまの題名が可笑しくて周太は笑ってしまった。
笑った周太に美代は悪戯っ子の目で笑いかけて、あかるい声で高らかに歌い始めた。
何くわぬ顔して 違う女の話をしないで
少しやさしさが たりないんじゃない
アップテンポな曲にのせて歌詞が次々と画面に現れてくる。
きれいな明るい美代の声が上手にビートを追いかけて歌い上げていく。
上手だなと感心しながら美代と画面を見比べていると、笑いながら美代が画面を指差して周太は字幕を見た。
身勝手な癖 いいかげんもう 冗談じゃない
「…ふっ、」
思わず周太は噴出してしまった。
最高峰を真直ぐ見つめて山ヤの誇らかな自由に生きる国村の論理は、男と山ヤの精神なら当然の考え方になる。
そんな国村論理は同じ男の周太でも振回される程「自由」で、きっと女の子の論理からしたらさぞ「身勝手」だろう。
噴出した周太に愉しげに笑って美代はビートに乗って歌ってくれる。
愛してると繰り返し言ってるじゃない
“愛がたりない?”
ふざけないで わがまますぎる
だいたい実は男なんて あまったれで情けなくて
だいたい いつも男なんて 自分勝手で頭にくる
愛してると先に言ったからって 勝ち誇らないで
そんなことじゃ愛は計れない
なんだか英二みたいな歌詞?可笑しくて周太は笑った、きっと美代にとってはそのまま国村を示すのだろう。
キーワード「わがまま」「自分勝手」「勝ち誇」そして「頭にくる」がはっきりしていて小気味良いなと想ってしまう。
こんなに明るく怒れたら気持ち良いだろうな?
明るい友達に微笑んだ周太に、また美代が悪戯っ子の目で画面を指差した。
行先も言わない 朝まで帰らない 気まぐれな癖 このままじゃもう 冗談じゃない
冬富士の雪崩の話に限らず国村は「山」の話を美代には限られたことしか言わない。
そして想いのまま山へ行ってしまう「気まぐれな癖」に美代は昔からつき合わされて「冗談じゃない」も本音だろう。
こんなふうに明るく歌ってぶちまけてくる美代が愉しくて周太は笑った。
笑った周太に満足げに美代も笑って、あかるく大きな声で高らかに歌っていく。
愛し方に答えないと知ってるけど
どうしてくれるの どうすればいい だけど
きれいな明るい目から涙がこぼれた。
「どうすればいい」そんな疑問への想いは周太にも解る。
ほんとうに、あんな自由なふたりを「どうすればいい」のだろう?考えると哀しくなる時がある。
けれど美代は涙こぼしながらも、きれいに明るく笑ってビートに乗って「国村への怒り」を高らかに歌った。
だいたい いつも男なんて 自分勝手で頭にくる
歌いきると美代は、すっきりした顔でマイクを置いた。
すこし気恥ずかしげに周太に笑いかけて美代は口を開いた。
「ごめんね、こんなとこ見せちゃって…びっくりした?」
「ううん、すごくね、楽しかったよ?」
率直に周太は感想を述べて明るく笑った。
【歌詞引用:「男」久宝瑠璃子】
(to be continued)
にほんブログ村
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9f/3a00c1350375f904fadcd8db1e796c30.jpg)
第33話 雪灯act.9―another,side story「陽はまた昇る」
ゆるやかな芳ばしい湯気が黄昏の部屋に充ちていく。
湯がフィルターを透るやさしい音を見つめながら周太はため息を吐いた。
いま心も体も本当は痛い、抱かれておちた眠りから目覚めて最初に見た、あの笑顔の美しさに傷ついた。
「おはよう、周太?俺の花嫁さん、…ほんとに周太、きれいだね?」
きれいな優しい笑顔の英二。けれど体を無理に繋ぐことが周太にとって残酷だと気付かない。
以前の英二が複数の相手と体の関係を持ったことは聴いている、それを孤独を紛らす手段にしていたことも。
そんな英二にはきっと、周太が体を繋ぐ意味も重みも理解しきれない。
そして周太がどんな想いで国村に銃口を向けたのかも結局は解っていない。
それでも、きれいな笑顔が大好きで、見つめられれば嬉しいと想ってしまう。
そして今は「山の秘密」に国村への想いを抱いた分を、英二を大切にすることで償いたい。
けれど今はどこか寂しい心は寒々しくて、浴室へも一緒にはいることを頷いてしまった。
この体への残酷な仕打ちの寂しさに、少し英二と離れてしまえば自分の心に溝が生まれそうで怖い。
それでも明日の夜には新宿へ帰らないといけない。
この想いのまま帰っても英二を愛し続けられるのだろうか?
見つからない答えの出口が解らない、誰か救けてほしいと泣きそうな心が蹲っていく。
…俺はね、君が幸せな姿を見つめたい、幸せな笑顔を見ていたい…
君がいちばん愛するひとの元へ君を帰してあげたいんだ…愛するひとの隣はさ、いちばん幸せな笑顔になれるだろ?
明るい雪の森で告げられた美しい山ヤの真心が温かい。
青空のもと国村が願ってくれた、周太の幸せだけを祈る想いが温かでうれしかった。
けれどいま自分は愛するひとの隣で心からの幸せな笑顔にはなれない。
…ね、国村…俺はね、いま愛するひとの隣で、涙をこらえて笑っている、よ…
寂しい、哀しい、心も体も痛い。
そんな想いとコーヒーを見つめる周太の背中に、ふっと温もりがふれてくる。
振向いたすぐ傍で端正な白皙の顔が幸せそうに微笑んだ。こんな笑顔は狡い、心で責めながら周太は遠慮がちに申し出た。
「あのね、英二?…台所のことしている時はね、あぶないから…すこし離れていて?ね、年明けに家でも、お願いしたよね?」
「うん?周太、ここは台所じゃないよ?火も無いし包丁だって使っていない。問題ないよね、周太?」
「でも、お湯は熱いよ?…あぶないと思う」
いつもながら距離が近すぎて緊張してしまう、そして気恥ずかしい。
けれど今はそれだけじゃない。本当は今、英二に怒りを持っている自分がいる。
自分は英二に体を大切にしてほしくて国村に銃口をむけてしまった。
そのことを英二は知っていた、それなのに英二は自分の体を無理に繋いでしまった。
自分は罪を犯しても英二の体を守ろうとした、その意味を英二は解っていないから「無理」が出来てしまう。
なぜ無理に体を繋げることは、たとえ愛情からでも無理矢理なら残酷だとまだ解らないの?
こんな軽い考えの人間を守る為に、自分は罪を犯し国村にまで罪を背負わせたのだろうか?
こんなに傍にいたがるほど好きだというなら、なぜ解ってくれない?
…こんなに英二は軽く想ってしまう、すこしも解ってくれていない
こんな事のために国村に…美しい山ヤの人生に罪を負わせて…哀しい、悔しい…どうして?
英二はたくさんの笑顔と幸せを自分にくれた。
13年前の事件の真実と想いを探して、父の想いも受けとめて、沢山の服を贈って、婚約の花束を贈って。
そんな大切なひとが自分の体を無理に繋いでしまった、この傷に裏切られた哀しみが時の経過と共に痛みだす。
そうした英二の強引な愛情が自分と国村が罪を犯した意味を呆気なく踏み躙っていく。
すこし距離がほしい、英二と離れて考えたい。
そんな想いと同時に今、このまま離れたら英二を見つめ続ける自信も無い。
けれど「いつか英二の為だけに掌を使う」そんな約束にこめられた幸せを信じたい。
どうしたらいいのだろう?途惑うまま見つめる切長い目が、やさしく穏やかに微笑んだ。
「ほら、周太?もうコーヒー出来たよ。ありがとう、周太」
「あ、…はい、」
遠のいている心は生返事になってしまう。
けれど英二は気付かず幸せそうに笑って、コーヒーを運んでくれた。
「かわいいね、周太は。ほら、座ろう?」
ソファに落ち着くと英二は買ってきてくれた食事をひろげてくれる。
こんな優しい気遣いが出来る英二なのに「体」のことだけは欠落ちている、そして生まれたすれ違いが哀しい。
それでも隣で笑顔見つめれば幸せで、だから尚更に唯一つの欠落が哀しくなる。
「Le dernier amour du prince Genghi」―源氏の君の最後の恋
光源氏の晩年を見つめる「無償の愛」に尽くした花散里の物語。
すべてに恵まれ美しく才能あふれた光源氏、けれど母の愛情に渇望して「無償の愛」を求め恋を渡り歩いて体を重ねていた。
その生涯の果に年老い盲目となった源氏を支えた花散里の「無償の愛」への報いは「名前を忘れる」という冷たい仕打ち。
そんな源氏と英二は恵まれた生い立ちと美しさ、母の「無償の愛」を渇望する想いも体への考え方まで似ている。
だから周太は花散里に自分を重ねてしまった、自分の名前を愛するひとに忘れられる哀しみを想って辛かった。
それでも愛された記憶に報いたくて、英二の体を大切にしてほしくて銃口を国村に向けてしまった。
けれど英二は源氏と同じで周太の「無償の愛」は解らない、解らないまま無理に体を繋げて幸せだと思っている。
自分の「無償の愛」は英二に届かない、そして自分は国村の「無償の愛」のまま罪を国村にも負わせてしまった。
そんな想いの哀しみに座り込んだままでも大好きな英二の笑顔を曇らせたくなくて周太は微笑んでいた。
そうして早めの夕食を摂りながら、英二は富士山の話をしてくれる。
「もうあのときはね、雪崩が起きるカウントダウンだった。
そして救助者の人がいるところは、雪崩が起きたら風に巻きこまれるポイントだったんだ。
だからすぐに行って救けなきゃいけなかったんだ。雪と風が強かった、ホワイトアウトも起こしかけていた。
それでね周太?俺たちは初めてきちんとアンザイレンを組んだんだ。そのお蔭で国村を救けることが出来たんだよ」
アンザイレンパートナー。
幼い日に父と穂高岳を見ながら聴いた話がなつかしい。
山を愛した父は「生涯のアンザイレンパートナー」に出会う憧れを語ってくれた。
同じくらいの体格と体重、同等の力量、そして深い信頼関係が求められると教えてくれた。
そして体格が大きい英二と国村は簡単には自分のパートナーを選べない、まして最高の力量を持つ国村は尚更だろう。
そんな国村は英二の力量に将来性を信じ指導して、世界の最高峰へ登頂するアンザイレンパートナーを組もうとしている。
そして2人は富士山で初めてアンザイレンを組み、そのことが国村の生命を救った。
きっと2人の信頼関係はまた深まっただろう、それを大切にしてあげたい。
そう思うと英二の「周太の体」への無理解は国村には気づかれない方がいい。
大らかに山ヤの自由な心で生きる国村は「山」への不敬以外では滅多に怒らないと聴いている。
そんな国村は周太を「山桜のドリアード」として「山」への愛情の結晶と14年間ずっと見つめてきた。
そういう国村はきっと、周太の体を英二が無理強いしたと知れば最も大切な「山への愛」を傷つけたと本気で怒りだす。
最高の山ヤの魂が大らかなまま発する怒り。それは冬富士の雪崩と似た何者にも平等に容赦しない冷厳が想われてしまう。
やっぱり国村には言えない、自分ひとりで見つめよう。ちいさな決意で見上げた隣で英二が微笑んで言葉を続けた。
「救助者を俺が背負っていた、それで国村はね、俺をザイル確保してくれていた。
そこへ雪崩でおきる強い風が吹き始めた。すぐピッケルを使って雪と風に体を支えたんだ。
けれど飛ばされた雪の塊が国村に直撃したんだ、そして国村はピッケルごと飛ばされた。それぐらい強い風だった。
でもアンザイレンザイルと確保用のザイルで俺と繋がれていたから、あいつは滑落しないで済んだ。
そして俺もね、周太?あいつを救けたくってさ、だから自分は飛ばされないぞって頑張れた。周太のこと想いながらね」
「…俺のこと?」
自分のことを想いながら英二は風雪に耐えて生還してくれた?
見あげた口もとに優しいキスを贈ってくれてから英二は微笑んだ。
「そうだよ、周太。あの時の俺はね、周太の笑顔をずっと見つめていた。
真っ白な視界のなかでさ、ピッケルを握りしめる自分の手を見つめながらね、心はずっと周太のことを見つめていたんだ。
そうやって俺はね、周太?絶対に帰るために耐えろって自分を応援したんだ。周太の笑顔の隣に帰りたい、それだけだったよ」
初雪の夜、このビジネスホテルの一室。
英二の無事を願って「絶対の約束」を結ぶために自分は心と体を全て捧げた。
英二が自分との幸せな記憶を抱いていれば、どんな場所からも自分の隣に帰りたいと強く願ってくれる。
そう信じてあの夜に1つの勇気を抱いて「絶対の約束」をこの体で結んだ。
それが英二と国村を生還させてくれた?それは自分の体を使った意味があったということ?
それは英二が少しでも体の意味を受けとめてくれていること。もし本当ならうれしい、そっと周太は訊いてみた。
「…俺のこと、忘れないでいてくれた?」
「もちろんだよ、周太?俺はね、いつだって周太のことばっかりだ。
山小屋でも、頂上でだって、周太のことばかり考えてた。それで国村にね、『おまえ嫁さんのことばっかりだなあ』って笑われた」
「頂上でも?…山小屋でも、…いつも?」
見つめる視界が水の紗に揺れ始める。
自分が体を捧げた「絶対の約束」がすこしでも英二の心に生きてくれている?
どうかお願い少しでも信じさせてほしい、そんな想いの真ん中で英二は愛しく周太を見つめて微笑んだ。
「そうだよ周太、最高峰の頂上で周太を想った。
山小屋の夜にも周太のこと想って、周太のことばっかり話したよ?
俺はね、周太?最高峰にいても、夜も昼も朝も、ずっと周太のことばっかりだったんだ。
周太が贈ってくれたクライマーウォッチを見つめてね、周太は何しているかなあってさ?つい、考えてた。周太ばっかりだ」
最高峰にも自分の想いを連れて行ってほしい。
そんな想いで贈ったクライマーウォッチを見つめてくれていた?
そして最高峰へ行っても自分をずっと想ってくれたの?少しでも「絶対の約束」に捧げた意味を解っている?
「頂上で…夜も昼も朝も、…うれしい、な」
かすかな期待だけでも幸せで、微笑みに涙がこぼれてしまう。
信じたい想いの期待が心を迫りあげる、このまま信じてしまえたらいいのに?
信じたい想いに英二の頬に掌を添えると周太は静かにキスをした。
どうか信じさせてほしい、自分の想いを解ってほしい、そんな想いを重ねた唇に遺したい。
どうか想いが遺せていますように。そんな祈りに離れて周太はきれいに笑った。
「英二…俺の想いを、最高峰に連れて行ってくれたね、…ありがとう」
最高峰へ想いは連れて行ってほしい、そう自分は願っていた。
たしかに英二は「体」を解ってはいなくて大切にする方法も間違えてしまう、けれど自分への想いは偽りない。
その想いに最高峰へも登ってくれている、そこで見た世界を自分にも聴かせてほしい。
すこしだけ明るい心になって周太は英二を見あげた。
「うん、周太。ずっとね、周太の想いと俺、一緒にいたんだ。だから頑張れた、そしてね、見つめた世界は美しかったよ」
「日本の最高峰の、世界?」
「そうだよ、最高峰の世界。冬富士はね、エベレストと同じ気象状況なんだ。
山頂の気圧は標高4,000mって言われている。そうやって日本ではいちばんの最高峰に冬富士はなるんだ。
そこはね、周太?雪の白銀と、青空と。蒼い雲の翳だけの世界だった。とても静かで、世界は人間のものじゃないって解った」
冬富士が魅せる「最高峰」の荘厳な世界。
そこは息づく命の気配はない、ただ雄渾な静謐に雪と氷が支配する冷厳の掟が充ちる世界。
そこへ英二はもう魅せられている、憧れが声に言葉に響いている。
冬富士の雪崩に国村は命の危険に晒され、英二も同じだったろう。
けれどふたりの雪の高峰への想いはなにひとつ傷ついてはいない、弥増す憧れだけがまぶしい。
そしていま話してくれる英二の笑顔がまぶしくて愛しいと想ってしまう。
このまま英二を信じて明日を見つめられたら?
そんな想いが幸せの気配と並んでいる、そして雪の森で見つめた「山の秘密」も共に今は抱いている。
抱いた「山の秘密」が純粋無垢な温もりに美しい、その秘密を共に抱いた美しい山ヤを想ってしまう。
英二が夢に立つパートナーでもある、あの美しい山ヤ。英二が自分の隣にいるように、あの山ヤも自分の隣に立っている。
ふたりは共に最高峰へ立つのだろう、その無事を自分は祈りたい。
それぞれに正反対の愛情で自分を守り見つめようとしてくれる、ふたりとも大切だから。
そんな想いの周太の両掌をとると英二は穏やかに掌へ唇をよせて、きれいに笑った。
「周太、俺はね?またあの場所に立ちに行きたい。周太の想いを抱いて、最高峰へまた立ちたい。
あの雪と空だけの世界に立つこと。きっとずっと、生きている限り望んでしまうと思う。
国村の為だけじゃなく、自分の望みとして、あの場所に生きたい。周太には心配をかける…でも、どうか許してほしい」
想いを告げる英二を真直ぐに周太は見つめて聴いていた。
英二の夢と誇りの場所「最高峰」そこへ立った笑顔を自分は見つめたい。
生きる誇りと意味を探していた英二のまなざしに自分は恋をした、その想いは今も変わらない。
今度のことで英二にかすかな不信も今は持っている、それでもこの恋は色あせてはいない。
…きっとね、英二への想いはもう、枯れることもできない、
そして今あらためて気がつかされるのは「想い」には割算は無いということ。
このいま国村への想いが時の経過と共に存在を大きくしている、それでも英二への想いは色あせてはいない。
ふたつの想いがそれぞれの色彩で鮮やかに心へ温もりを与えてくれている。
どちらも大切だと素直に想っている、それなら潔く真直ぐ向き合っていけばいい。
もうどちらからも逃げないと自分は決めている、この決意に抱いた勇気と温もりに周太は微笑んだ。
微笑んだ周太の瞳に穏かに笑いかけて英二は「約束」を告げてくれた。
「周太、あらためて約束する。
最高峰から周太への想いをずっと告げ続けるよ、そして必ず無事に周太の隣へ帰る。
俺は笑って山へ登るよ、そして必ず周太の隣に帰る。そうして俺は周太にね、今みたいに山の話をするよ。
そうやって俺は山ヤとして生きたい、周太を守って、ずっと周太を幸せに笑わせて、ずっと周太の隣で生きていきたい」
どうかお願いを聴き届けてほしいよ?切長い目が実直なまま真摯な想いに見つめてくれる。
この真直ぐな眼差しが自分はやっぱり好きでいる、そんな素直な想いに周太は微笑んだ。
今まだ「体」のことでショックは残っている、けれどこの真直ぐな想いには応えてあげたい。きれいに笑って周太は答えた。
「はい、英二…ずっと俺の隣に帰ってきて?そして、山の話を聴かせて?
そして時々はね、俺も山へ連れて行って?英二が見る世界を俺も見に行きたいんだ…
最高峰とかは無理だろうけれど、でも、そのクライマーウォッチが俺の代わりに、英二の立つ世界を見てくれる。
だから一緒に連れて行って、俺のこと想いだして?…英二を信じて、ごはん作って待っているから、帰ってきて?
そしてずっと英二の隣で生きていたい、英二の帰る場所でいたい…それがきっとね、俺にとっていちばん幸せなんだ」
英二が見る世界を一緒に見たい。
そして英二が帰る場所でいたい。
卒業式の翌朝に英二は周太のことで実の母親に義絶された。それ以来もう実家へは帰っていない。
そして英二は帰る場所は周太の隣だけにしてしまった。
それなのに自分が居なくなったら英二は帰る場所を失ってしまう。
だからやっぱり隣にいてあげたい、いまの英二の全ては自分と出会ったことから始まったのだから。
それでも14年前から甦った想いを見つめることも止められないだろう。
きっと悩むことも自分なら多くなる、それでも英二の隣でいたい。
たくさんの約束への想いと微笑んだ周太に、英二はきれいに笑ってくれた。
「うん、…ありがとう、周太。ほんとにね、俺…うれしくて、幸せだよ
だから周太?絶対に俺から離れて行かないで?必ず俺には全てを話して、そして俺に周太を守らせて。絶対に、」
守っていくために「全て」を話していく。
この言葉の意味はこれから自分が進んでいく父の軌跡の先のこと。
その軌跡の先で「全て」を話すことは警察組織の「禁忌」になっている。それを英二は知って話してほしいと願っている。
それは英二を危険に巻きこむことになる、躊躇いを見つめて周太は訊いた。
「…全てを、話すの?」
どうか自分を信じてすべて委ねて?そんな想いを映して切長い目が穏やかに見つめてくれる。
きれいに笑って英二は周太に告げてくれた。
「そうだよ、周太。今までも、これから先に起きることも、全て俺には話してほしい。
そうしたら周太が望むものはね、全て俺があげる。俺が周太を幸せにするよ?
周太が必要なものはね、全て俺が見つけて周太にあげるよ?だからすべて話して、そして俺に望んで?」
掌を包み込んでくれる長い指の掌は白くてきれいなままに見える。
けれど少し厚みを増して固くなった手のひらの感触に、英二の努力の痕が伝わってくる。
まだ「体」のことで心はすれ違っている、けれどこの掌は信じられる。
この掌が信じられることは隣で過ごした10ヶ月の記憶と想いで解っている。
それでも唯一つ「山の秘密」だけは話せないけれど、信じていきたい。ゆっくり瞬くと微笑んで周太は頷いた。
「はい、…全て話します。だから英二…幸せにして?」
これから先と今までの全てを、英二に話していく約束、けれど「山の秘密」だけは話せない。
この「山の秘密」は英二が愛する「山」での約束ごと、「山」に最も愛される山の申し子と結んだ絶対の約束だから話せない。
ね、英二?
全て話して解り合えるなら幸せだと俺も想うよ?
けれど英二と自分ではそれは難しい、警察官としても適性が違うように性格も違う2人だから。
そして英二が体を大切に出来ないことが自分には理解できないように、きっと英二は「山の秘密」を理解は出来ない。
この「山の秘密」に託された山の申し子の大らかな優しさ誇り高い「無償の愛」は英二には解らない。
だから話さない。
食後のコーヒーを淹れて飲みながら、英二は富士山や他の山の話もしてくれた。
そんなふうに夜の穏やかな時間を楽しんでいた19時すぎ、周太の携帯がきれいな曲を流した。
「…あ、美代さんから、」
携帯を開いて発信元を見た周太は英二を見あげた。
美代は昨日の昼間に電話をくれて、気晴らしのカラオケに行きたいと言っていた。
たぶん美代は昨日の冬富士の雪崩で哀しみと心配と怒りにゆれている、その不安を聴いてあげられたらいい。
けれどそこに国村も来るだろう、そうして4人が揃ったとき自分は何を想うだろう?
この電話出てもいいのだろうか?そんな想いで隣を見あげると英二は笑いかけてくれた。
「ほら、周太?きっと美代さん、カラオケの話じゃないかな?早く出てあげなよ」
「ん、…いいの?」
「俺は大丈夫だよ?ただし、周太の体が辛くなければ、だよ。それでね、俺も一緒させてって言って?」
周太の体を英二は気遣ってくれる、こんな優しい英二なのに「体を繋ぐ」ことは別になってしまう。
それほど英二は「心」と「体」を切り離して考えなくては生きられなかったのだろうか?
これほどまでに「母親からの無償の愛の欠落」は英二の心に欠落を作っているのだろうか?
それはどんなにか寂しく、哀しいことだろう?
英二は、すき好んで母親から愛されなかったわけじゃない。
英二は、「心」と「体」を切り離すほど冷たい哀しい孤独を、望んで抱いたわけじゃない。
英二の孤独は23年間かけて凍らされた哀しみ。
それを出会って10ヶ月足らずの時間で、全てを温め癒すことは難しくて当たり前だろう。
だからまだ英二が「体」を解らなくても仕方ないかもしれない。
そして自分はひとりっ子で両親の愛情を独占してきた、父の殉職は辛くても両親の愛情を疑うことなく信じ育てられている。
そんな自分が英二の無理解を責めることは傲慢かもしれない。
…やっぱり、受けとめてあげたい
英二の凍りついた哀しみを受けとめて温めてあげたい。
隣に咲く美しい笑顔の底にねむる哀しみに「無償の愛」が温度を蘇らせていく。
いま心が温かい、甦っていく温もりと微笑んで周太は英二に笑いかけた。
「ん、ありがとう、英二」
これで温かい心で美代の話を聴いてあげられる、やさしい温もりに微笑んで周太は電話を繋いだ。
繋いだ向こうから安心した想いと遠慮がちな気配が、やわらかなトーンの声と送られてきた。
「こんばんは、湯原くん…あの、ね?カラオケ、やっぱり一緒に行くのお願いしてもいいかな?」
そんなに遠慮しなくていいのに?
けれど自分には美代の遠慮がちな気持ちが解る、きっと美代はこの誘いを「わがまま」だと困っている。
でも友達の「わがまま」を聴けることは周太にとって初めてで、こういうのは嬉しい。うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、…いいよ?」
微笑んだ周太の返事に嬉しそうな気配が繋いだ向こうで明るくなる。
そして美代は、うれしそうに寛いで話してくれた。
「あのね、今、宮田くんも一緒にいるんだよね?」
「そう、」
「じゃあね、よかったら一緒に来てもらってね?せっかく一緒にいるのに、ごめんね?でも、宮田くんとも話せたら嬉しいな」
やっぱり美代は昨日の冬富士の雪崩に気がついている。
だから英二に雪崩のことと、国村といちばん親しい英二の考えの両方を聴いてみたいのだろう。
そういう美代からの信頼は英二も嬉しいだろう、この2人の繋がりも温かで周太は微笑んだ。
「よかった、喜ぶと思う」
「ほんと?よかった、迷惑かなって思ってて…うれしいな。それでね、あの、光ちゃんは私が湯原くんに電話したこと、知ってる?」
「あ、ん、」
光ちゃん。近しい親しい呼び名。
呼び名から国村への近しい想いを聴いて、心がすこし軋んでしまう。いま国村から寄せられる自分への想いを知っているから。
国村の幼馴染で恋人の美代、この国村の想いを知ったら何て想うのだろう?
美代は周太にとって大好きな植物の話をお互いに遠慮なく楽しめて、悩みを相談してくれようとする初めての友達。
この友達を失いたくない大切にしたい、その方法を見つけたい。
…吉村先生、俺でもきっと、答えは見つけられますよね?
昼間に吉村医師に話した「3つの想い」のことを想いながら周太は心で1つ呼吸した。
呼吸してすこし大きくなった心に、美代が気恥ずかしげに訊いてくれた。
「あの、ね?光ちゃん、来てくれるって思う?」
やっぱり美代は本音は国村に逢いたいのだろう。
怒るほど心配していた恋人に逢って無事を確かめたい、そんな美代の想いはよく解る。自分は新宿から来てしまった位だから。
同じ想いを抱いている友達がいることが嬉しい、その相手が国村だということが小さな痛みを伴うけれど。
この小さな痛みに自分の本音が知らされる。
いま英二への「無償の愛」をあらためて深められている、けれど国村への想いは生きている。
甦った14年前の雪の森の約束、「山の秘密」の温かな純粋無垢な笑顔と想い。
白銀と青空の美しい想いと記憶と約束は、もう枯れることはない。
そんな確信がたった数時間でも、あざやかに周太の心に深く根をはり豊かな梢を蘇らせている。
きっと14年の歳月を信じて雪の森に待ち続けた「山の申し子」の祈りが届いてしまった。
その祈りが自分は、心から嬉しくて、愛しい。
きっと国村は来るだろう、美代に会いに。
そして「山桜のドリアード」である周太に逢うために。
きっと来てしまうね?純粋無垢な笑顔の面影に微笑んで周太は美代に答えた。
「…きっとね、来ると思うよ?」
ほっと安堵する喜びが電話の向こうで生まれている。
この喜びも自分は大切に守りたい、ちいさな決意をまた1つ抱いて周太は美代の声に心を傾けた。
「うん、ごめんね、湯原くん?ありがとう…
あのね、カラオケ屋なんだけど。河辺駅の近くなの、場所とか解るかな?宮田くんに場所を言った方が良いかな?」
「ん、わかるかな?あ、ちょっとまってね、替るから」
周太は携帯の送話口をそっと掌で抑え込んだ。
そして英二を見あげて携帯を差し出しながら、ちいさな声で英二に話した。
「あのね、英二?カラオケの場所、聴いてくれる?」
「うん、周太。解ったよ、ちょっと携帯借りるな?」
笑って答えながら英二は周太の携帯を受けとってくれると、美代と話し始めた。
美代と話し始めた横顔は穏やかで優しい、こんなふうに英二の本来もつ誠実な優しさは見えてくる。
このひとの本来の素顔は直情的だけれど実直で穏やかで優しい静謐を抱いている。
この優しさがいつか英二に「体」を大切にする意味を気付かせる、そう信じて見つめていたい。
ひとつの信頼に微笑んで周太はボストンバッグを開くと着替えを出した。
あわい水色とボルドーのボーダーニット、あかるい温かみのベージュの細身カーゴパンツ。
それから水色の縁刺繍がある白いTシャツと、きれいな水色の靴下。
どれも英二が選んで買ってくれた服ばかり、そして明るい綺麗な色ばかりを選んでくれた。
こんなふうに綺麗で明るいものと英二は自分を見つめてくれている、想ってくれる英二の気持ちが伝わってくる。
この英二の想いを信じて隣にいたい、そして幸せの温もりで英二の凍りついた哀しみを癒したい。
また今日のように何度も泣くかもしれない、それでも逃げたくはない。穏やかな意志と微笑んで周太は着替えた。
着替えてマグカップを洗うと周太はダッフルコートとマフラーをハンガーから外した。
明るい青みのグレーがきれいなヘリンボーン生地のコート、あわいブルーとボルドーにモノトーンのストライプのマフラ―。
これも英二が選んで買ってくれた、今回の登山ウェア一式も年明けに贈ってくれたもの。
こんなに全て英二が揃えてくれていることが申し訳なくて、このあいだも母に訊いてみた。
けれど母は「服を贈りたがる男の人っているのよね、遠慮なく喜んで着てあげるのが一番のお返しよ」と笑ってしまう。
けれど何かお返ししたいな?そう考えていると英二の話し声が終わって携帯を閉じる音が聞こえた。
「かわいい周太、」
きれいな低い声に名前を呼ばれて、周太は顔をあげた。
見あげた先で端正な顔はうれしそうに笑って、周太の頬にキスしてくれた。
「似合ってるよ?服、着てくれてうれしいな」
「ん、ありがとう…」
応えながらも頬へのキスが気恥ずかしくて、そっと周太は指で頬を撫でた。
ほら、もう自分はこんなふうに幸せな気持ちになっている。
さっき温もりを取り戻した「無償の愛」と与えられた優しいキスが嬉しくて周太は微笑んだ。
「あの、カラオケ、ごめんね?英二」
「どうして周太が謝るんだ?」
「ん、…英二に逢いに来たのに、美代さんとね、約束しちゃったし…」
答えながら周太は抱えたダッフルコートとマフラーに目を落とした。
着替えようとシャツを脱いだ英二の白皙の肌が気恥ずかしさに見られない。
警察学校ではいつも一緒にいたから風呂も一緒で、周太も平気で英二の前で着替えていた。
けれど卒業式の夜に初めて「あの時」を過ごしてからは恥ずかしくて仕方ない。
こんなにも自分は「体」にこだわるし大切で重大なこと、それを英二も解ってくれたらいいのにと願ってしまう。
「気にしなくていいのに?だって2人とも、会いたかったんだろ?」
「ん、そう。本の話とかもしたくて…それに美代さん、昨日の電話とか、哀しそうで…」
周太も美代と会いたい、会話を楽しんで一緒に時間を過ごしたい。
警察学校でも瀬尾や関根と友達になれて、新宿署で一緒の深堀とはいろんな話も出来る。
けれど本当に好きで興味がある植物や料理の話は美代としか周太は出来ない。
子供の頃も草花や料理が好きというと「男のくせに」と言われることが多くて、両親以外には話さなくなった。
いまは英二には話せるけれど、お互いに興味があるわけではない。
だから同じように興味を持っている美代と、遠慮なく満足するまで話したかった。
そんな大切な友達の美代がいま、国村のことで哀しんで悩んでいる。
その悩み哀しみを周太がどうにか出来るとは思えない、それでも一緒にいて隣に座って想いを聴いてあげたい。
一緒に泣いて笑えたら少しは美代の心の重さも楽になるかもしれない、そう思って周太は今夜は会いたかった。
そして美代の悩みの対象である国村とも、今夜は向き合いたい。
大切な友達である美代と、その想いの相手である国村と自分。その3人の想いをどう自分が見つめるのかを知りたい。
…美代さん、国村。俺はね、ふたりとも大切だよ?だから…向き合いたい
そして英二もそこに立ち会うことになる。
この4人の間に交わされていく想いと記憶の交錯を自分は真直ぐ見つめたい、そして1つ心を大きくしたい。
さっき英二への怒りも哀しみも見つめた果てに、英二への「無償の愛」を深く大きくできたように。
「はい、周太?お待たせ、着替え終わったよ」
大好きな声に顔をあげるとブラックミリタリージャケットを羽織りながら英二が笑いかけてくれる。
このジャケットコートは雲取山に登った帰りに新宿で着ていた記憶がある。
煌びやかなクリスマスのイルミネーションのなかで、山闇のような漆黒がビル風に翻ってきれいだった。
そして今この前に佇んでる端正な長身の姿もきれいで、記憶と今とに見惚れて周太は微笑んだ。
「行こうか?あの駅のカフェでね、美代さん待ってるよ。周太?」
やさしく微笑んで英二は周太の右掌を左手にくるんでジャケットのポケットに入れてくれる。
あの夜もこうして新宿のホワイトクリスマスを想わせる光を歩いていくれた。
幸せな初冬の夜の記憶の温もりを抱いて周太は、雪白い青梅の街へ出かけた。
歩き始めてすぐにマフラーが夜の山風にほどけて、首筋からこぼれそうになる。
気がついて英二は立ち止まるとマフラーを巻きなおしてくれた。
「ほら、周太?マフラーちゃんと巻こう?」
きれいな長い指が器用に動いて、温かくマフラーを巻いてくれる。
いつも上手だなと襟元を見ながら周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう…なんかね、上手に巻けないんだ、俺」
「周太、ほかは器用なのにな?でもそういうの、かわいいよ」
かわいい、そう言われて嬉しいと素直に想える。
言ってくれる端正な貌はやさしくて周太への想いが温かい。
この温もりにひそむ熱情に自分は掌をひかれて13年間の孤独と向き合い越えて来た、だから今ここに立っている。
だから。もし英二が愛してくれなかったら、自分は国村と再会できなかったかもしれない。
英二の独占で示す熱情の愛が、国村の大らかな無償の愛を14年の時を超えて甦らせた。
―… 周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ
本来の植生と違う場所で咲く花を見つけたとき、父はそんなふうに教えてくれた。
この言葉は雲取山でヤクシソウを見つけた不思議な想いに曳かれるよう甦ってくれた。
世田谷の高級住宅街に生まれ育った英二と、奥多摩の最高峰で生を受けた国村の繋がりにあのヤクシソウが重なっていく。
…ね、お父さん?ひとは、不思議だね…
父の記憶と一緒にふたりの想いを見つめるうちに、待ち合わせのカフェに周太は着いていた。
カフェに入って見渡すと、窓際の席でマグカップを前に本を美代が読んでいる。
美代とは初対面の雲取山に登った後以来だから、2ヶ月ぶりの再会で2度目の顔合わせになる。
それなのに昔馴染みの様にうれしくて周太は、すぐに隣へ行って笑いかけた。
「美代さん、こんばんは…それ、あのテキストだよね?」
「あ、こんばんは湯原くん、」
明るい瞳が愉しげに笑ってくれる。
笑い返してくれながら美代は座っている隣を「座ってね?」と示して勧めてくれた。
素直に座った周太に美代はうれしそうに話しかけてくれる。
「そう、話していたやつよ?よかったら貸してあげようと思って。読むかな?」
「ん。読んでみたいな、借りていいの?」
「嫌なら言わないよ?はい、これ袋も良かったら使ってね」
2ヶ月ぶりの再会、まだ会うのも2度目。
それでも美代は寛いで楽しそうに話してくれる。周太も寛いだ気持ちでマフラーを外しながら笑い返した。
「ん、ありがとう。これに長生きする葉っぱのことが書いてあるんだよね?」
「そうよ、このあいだ電話でも言っていた『ウェルウィッチア』について載っているテキストよ」
「ん。数百年から一千年も生きる、って言っていた植物だよね?…すごいね、植物って不思議だな…」
「ね?ほんとにそう。こんな面白いものがあるって、すごいね?」
ときおり美代と周太は他愛ない話で電話するようになっている。
美代は御岳駐在所でみかける英二の様子とJAで見聞きする新しい農品種などを話す。
周太は書店で見つけた新しい植物の本を読んだ感想や新宿のいつもの公園で見つけた珍しい植物の話をする。
ふと思い出したことを周太は話しだした。
「そういえばね、美代さん?環境省のレッドリストに記載された絶滅危惧植物の種子は、保存の取組みがされているよね」
「うん、そうだね。絶滅なんて、絶対に嫌だね…」
哀しそうな顔になって美代はすこし俯いてしまった。
こんなふうに美代は植物を本当に好きでいる、自分と同じ想いの友達が嬉しくて微笑むと周太は続けた。
「俺ね、つい最近に知ったんだけど。俺がいつも行く新宿の公園はね、普通種子保存システムのモデル施設になっているらしいね?」
「あ、じゃあ湯原くんがいつも行くのって、新宿御苑ね?」
勉強家の美代はやっぱり知っていたらしい。
よかったと思いながら周太も訊いてみた。
「ん、そう…美代さん、知ってるの?」
「うん。一度行ってみたいな、って思うんだけどね?
なんか新宿って都会って感じでね、気後れしちゃって…JAのイベントとかではね、新宿にも行ったことあるのだけど、ね?」
美代は周太と同じ23歳の若い女性でいる。それなのに「都会で気後れ」と言って困った顔になっている。
そういう美代の素朴さが周太には気楽になれる、楽しくて周太は微笑んだ。
「ん、新宿ってなんかそうだよね?俺もね、まだ慣れないんだ…でも、あの公園だけは好きだよ。居心地良いんだ、」
「やっぱりいい感じなのね?いいな、ね、もし行くなら案内してくれる?」
「ん、いいよ?植物園もあってね、面白いんだ」
いつ一緒に行こうかと話をしていると、前にマグカップが置かれて周太は見上げた。
見あげた先できれいな笑顔が微笑んだ。
「はい、周太?オレンジラテだよ」
「あ、ごめんね?英二、俺だけ座ってた…ごめんなさい」
美代を見つけて嬉しくて、寛いだ話が楽しくて、すっかり英二を忘れてしまっていた。
申し訳ない恥ずかしさで首筋が熱くなってくる、そんな周太に英二は優しく笑いかけてくれた。
「気にしない、お喋り楽しいんだろ?」
おだやかな低いきれいな声で言いながら「大丈夫だよ?」と切長い目が笑ってくれる。
やさしい静謐とソファに座ってコーヒーを啜る英二が、やっぱり自分は好きだと想ってしまう。
唯ひとつの想いに自分はこのひとに恋して愛し始めた、その想いはやっぱり間違ってはいない。
そんな確信と同じほどに、国村の「無償の愛」もきっと間違いないと確信がされている。
きっともう少ししたら英二と国村と、そして美代との3つの想いを自分は見つめることになるだろう。
…どれも大切で宝物の想いたち。真直ぐ見つめて正しい道を見つけたい
ひそやかな覚悟とおだやかな勇気が心に温かい。
見つめる自分の想いに微笑んで周太はマグカップに唇をつけた。
「これ飲んだらさ、カラオケ行こうか?ね、美代さん」
「うん、ありがとう…ごめんね、お邪魔しちゃって」
「いいよ?あとでまた周太とのんびりするし、」
英二と話している美代はきれいなあかるい瞳をしている。
けれど本当は哀しみと怒りを抱いてしまったことが周太には解る。
きっと遠慮がちな美代は、国村への心配や怒りも「わがまま」かもしれないと自責してしまう。
そんな美代の気持ちが周太には解る、自分自身がそういう考え方をする癖があるから。
いろいろ聴いてあげられたらいな?自分とよく似た考えをする友達を想いながら周太はオレンジラテを飲みほした。
初めて足を踏み入れたカラオケ屋は明るくてきれいだった。
受付カウンターで美代は馴れた様子で手続きをしている。
その様子を隣で眺めていると後ろから、透るテノールの声に話しかけられた。
「おつかれさん、ふたりとも。美代、昨日は天気予報、見てた?」
数時間前にも聴いた透明なテノールの声。
その声に聴いてしまう想いが昨日とは全く違っている自分がいる。
ゆっくり振向いて見上げると、雪白の貌を冬の夜気に紅潮させて明るく国村が笑っていた。
その隣には英二が穏やかな静謐と佇んで、きれいに微笑んでいる。
漆黒の山闇のようなミリタリージャケットコート姿の英二。
真白な雪山のようなミリタリーマウンテンコート姿の国村。
対照的な色彩と相似形の端正な長身が、それぞれの笑顔で佇んでいる。
どちらも本当にきれいで見惚れてしまう、そして不思議だと想ってしまう。
ふたりは最高峰へ登っていく運命に立つ生涯のアンザイレンパートナー同士、ふたり並んだ姿が似合っている。
そんなふたりと自分は14年の時と「父の殉職」をはさんで出逢った。
この出逢いの意味をこれから自分は見つめていく。
…どうか、大切に出来ますように
覚悟を見つめて微笑んだ周太のコートの袖を、そっと美代が掴んだ。
振向くと「一緒に来てね?」とあかるい瞳が哀しそうでも悪戯っ子の目で笑っている。
周太の袖を掴んだまま美代は明るく笑って国村に答えた。
「おつかれさま、見たけど?ね、湯原くん行こ、早く歌おう?」
「ん?…」
首傾げて微笑んだ周太のを袖を掴んだまま、美代は歩き始めた。
その力が意外な強さで引っ張られてしまう、驚いて周太は美代に訴えた。
「まって、美代さん、」
けれど美代は周太を曳いて廊下を歩いてしまう。
困って振り向くと、底抜けに明るい目がじっと周太を見つめていた。
切ない想いを映した眼差しに心響いてしまう、なにか声を掛けたくて周太は口を開いた。
「…国村、おつかれさま?」
ふっと切なさが和んで細い目が温かく笑んでくれる。
うれしくて微笑んだ視線の先で英二がやさしい眼差しで笑いかけてくれた。
「…あ、えいじ、」
言いかけた時に角を曲がって、ふたりの姿が見えなくなった。
ほっと思わずため息が出て美代を振り返ると、すこし泣きそうな顔になっている。
その泣顔の意味が自分には解る、周太は美代に微笑んだ。
「ん。…無事に、あえたね?」
無事に国村とまた会えたね、うれしいね?
そんな想いを込めた言葉に泣きそうな顔が振向いて、きれいな明るい目から涙がひとつ落ちて笑ってくれた。
「うん、…あえた…ありがとう、…わかってくれて…」
涙がまたこぼれかけた時、ちょうど割当てられた部屋の扉が現れた。
急いで美代は扉を開くと周太を引っ張り込んで、ぱたんと扉を閉めると微笑んだ。
「泣いたなんてね、絶対に光ちゃんに見せたくないの」
カラオケのコントローラーを持つと美代は適当に曲を入れていく。
そして涙と一緒に周太に笑いかけた。
「いまからね、大きな声で歌って泣くの。だから一緒にいて?」
どうか一緒に泣いてほしい、ひとりは寂しいから。
きれいな明るい目が真直ぐ想いを伝えて泣き笑いしてくれる。
大切な友達に「お願い」してもらえた、美代の想いが心に響いて周太は微笑んだ。
「ん。一緒にいるよ?…安心して、ね?」
気持ちが解るよ安心していいよ、一緒にいるよ?
そう微笑んだ周太の瞳からも涙がひとつこぼれて、見つめていた美代が笑ってくれた。
微笑んで美代がマイクを持った時、静かに扉が開いて英二が覗きこんだ。
「お邪魔して、ごめんね。ちょっと屋上に行っているから、ゆっくりしてね」
おだやかに優しい笑顔で英二が笑いかけてくれる。
優しい笑顔に安心したように美代が、いつものあかるい笑顔で英二に答えた。
「うん、ありがとう。ちょっと湯原くんを独り占めさせてね?」
「美代さんなら良いよ?周太、またあとでね、」
可笑しそうに、けれど優しい眼差しで切長い目が微笑んでくれる。
きっと英二の本音は周太を独占していたい、けれど友達の美代を大切にしたい周太の想いを優先してくれている。
英二は周太を想って理解しようとしている、その想いが幸せで周太は微笑んだ。
「ん、またあとでね、英二」
きれいな笑顔をみせて英二はそっと扉を閉じてくれた。
遠ざかっていく端正な足音を聴きながら、美代は周太に微笑んだ。
「宮田くん、ほんと優しいね?いいな、湯原くん」
「ん、そう?…でも結構、困ることあるけど…」
首傾げて答えた周太に美代が笑って、コントローラーを渡してくれる。
なにか歌ってねと言うことらしい、困ったなと思いながら選曲の画面を開くと美代が口を開いた。
「困ることなんてね、光ちゃんはそればっかりよ?あ、曲が始まったね、」
曲が始まって「また続きは後でね」と美代は笑って画面に向かった。
どんな歌を歌うのかな?画面を見て周太は、表示された題名に目が大きくなった。
『男』
ただ1文字だけの題名。
国村の論理を表現する言葉は「男」と「山」だろうと英二も言っていた。
そのまんまの題名が可笑しくて周太は笑ってしまった。
笑った周太に美代は悪戯っ子の目で笑いかけて、あかるい声で高らかに歌い始めた。
何くわぬ顔して 違う女の話をしないで
少しやさしさが たりないんじゃない
アップテンポな曲にのせて歌詞が次々と画面に現れてくる。
きれいな明るい美代の声が上手にビートを追いかけて歌い上げていく。
上手だなと感心しながら美代と画面を見比べていると、笑いながら美代が画面を指差して周太は字幕を見た。
身勝手な癖 いいかげんもう 冗談じゃない
「…ふっ、」
思わず周太は噴出してしまった。
最高峰を真直ぐ見つめて山ヤの誇らかな自由に生きる国村の論理は、男と山ヤの精神なら当然の考え方になる。
そんな国村論理は同じ男の周太でも振回される程「自由」で、きっと女の子の論理からしたらさぞ「身勝手」だろう。
噴出した周太に愉しげに笑って美代はビートに乗って歌ってくれる。
愛してると繰り返し言ってるじゃない
“愛がたりない?”
ふざけないで わがまますぎる
だいたい実は男なんて あまったれで情けなくて
だいたい いつも男なんて 自分勝手で頭にくる
愛してると先に言ったからって 勝ち誇らないで
そんなことじゃ愛は計れない
なんだか英二みたいな歌詞?可笑しくて周太は笑った、きっと美代にとってはそのまま国村を示すのだろう。
キーワード「わがまま」「自分勝手」「勝ち誇」そして「頭にくる」がはっきりしていて小気味良いなと想ってしまう。
こんなに明るく怒れたら気持ち良いだろうな?
明るい友達に微笑んだ周太に、また美代が悪戯っ子の目で画面を指差した。
行先も言わない 朝まで帰らない 気まぐれな癖 このままじゃもう 冗談じゃない
冬富士の雪崩の話に限らず国村は「山」の話を美代には限られたことしか言わない。
そして想いのまま山へ行ってしまう「気まぐれな癖」に美代は昔からつき合わされて「冗談じゃない」も本音だろう。
こんなふうに明るく歌ってぶちまけてくる美代が愉しくて周太は笑った。
笑った周太に満足げに美代も笑って、あかるく大きな声で高らかに歌っていく。
愛し方に答えないと知ってるけど
どうしてくれるの どうすればいい だけど
きれいな明るい目から涙がこぼれた。
「どうすればいい」そんな疑問への想いは周太にも解る。
ほんとうに、あんな自由なふたりを「どうすればいい」のだろう?考えると哀しくなる時がある。
けれど美代は涙こぼしながらも、きれいに明るく笑ってビートに乗って「国村への怒り」を高らかに歌った。
だいたい いつも男なんて 自分勝手で頭にくる
歌いきると美代は、すっきりした顔でマイクを置いた。
すこし気恥ずかしげに周太に笑いかけて美代は口を開いた。
「ごめんね、こんなとこ見せちゃって…びっくりした?」
「ううん、すごくね、楽しかったよ?」
率直に周太は感想を述べて明るく笑った。
【歌詞引用:「男」久宝瑠璃子】
(to be continued)
![にほんブログ村 小説ブログへ](http://novel.blogmura.com/img/novel88_31.gif)