愛しきひとへ、

第42話 雪陵act.1―side story「陽はまた昇る」
雪を奔るせせらぎが夜の底から湧きあがる。
氷の砕ける微かな聲まじる水音が、満天に鳴る星々と密やかに響き合う。
アイゼンの雪ふむ音が静かに沁みる、この静謐と凍る吐息に微笑んでしまう。
この冷厳を歩く今が嬉しい、この喜びに並んで歩く隣が笑った。
「ご機嫌だね?俺の別嬪パートナーは、」
透明なテノールが凍る大気に愉しげに笑う。
またすごい呼び名がついているな?可笑しくて英二も笑い返した。
「なんか恥ずかしい呼び名だな、国村?他は無いのかよ、」
「じゃ、変態パートナーとケダモノパートナー、どっちがいい?」
どっちも嫌だよ?
本当はそう言いたい所だけれど、前ほど強く出れそうにない。
困ったなと想いながら英二は微笑んだ。
「別嬪、が一番良いかな?」
「だろ?これもね、エロ別嬪パートナーの略なんだけどさ。ま、今夜の尋問次第で、また改名するかもね?」
やっぱりその話になるんだな?
どこまでなら口を割ってもいいものか、考えながら英二は答えた。
「尋問されるんだ、俺?」
「当然だろ?今夜はね、密談には最高の環境だよ?楽しみだな、さっさと登って雪洞掘ろうね、宮田」
ご機嫌な細い目が笑んでいる。
この様子では今夜はさぞ、話を引き摺り出されることだろう。
すこし気をつけないとな?そっと心に心棒をいれた英二に、登山グローブの指が行く手を示しt。
「ほら、あれが河童橋だよ?あれ渡ったらさ、一挙に岳沢小屋通過して前穂高な?」
よく絵葉書などで見る橋の姿が雪のなか現れる。
ここまではホテルや旅館が立ち並んで観光地の雰囲気が濃い。
あの橋を渡れば、雪山の世界になっていく。
「うん、楽しみだな?目標タイム2時間だっけ?」
「そ。夜明けには三角点タッチしたいからさ。で、次に第三峰の奥穂高まで30分な、」
話しながら梓川のせせらぎを渡っていく。
渡ってすぐの登山口で立ち止まると、クライマーウォッチの高度計とタイムをセッティングした。
見つめる文字盤に、この時計の贈り主が見せた微笑が慕わしい。
ほんの数日前に過ごした緊張、それ以上の幸せな時間を共にした面影に英二は微笑んだ。
―周太。今から、山に入るよ?
いまごろ当番勤務の交番で、警察官として業務に就いているだろう。
早朝4時の新宿は平和で穏やかだろうか?愛するひとは無事に過ごしているだろうか?
大切な婚約者の無事と笑顔を今日も祈りながら、英二はアイゼンのベルトを確認した。
登山靴の紐も確認して立ち上がると、同じように確認を済ませた国村がピッケルで先を示し笑った。
「よし、準備OKだね?じゃ、行くよ、」
「うん、今日もよろしくな、」
明るいアンザイレンパートナーに笑いかけて、英二は歩き出した。
鬱蒼とした樹林帯をヘッドライトの灯に登って行く、やがて岩の前にくると冷たい風が吹きつけた。
「これがさ、岳沢名物の天然クーラーだよ」
「これって、風穴だったよな。地下から風が来るんだろ?」
「そ、夏でも氷柱がさがってるよ、」
話しながら登りつめて次第に傾斜がきつくなってくる。
それでもパートナーの呼吸とペースに合わせて英二は登って行った。
そして岳沢小屋にでると、奥明神沢の雪渓を辿るルートをとった。
「夏道の重太郎新道はさ、6月下旬頃まで通れないんだよね、」
「期間の短い道なんだな、」
「そ、山はいつも貌が変わるからね。さて、そろそろ斜度も40度超えてくるよ、」
標高2,170m岳沢小屋から標高3,090m前穂高岳まで、標高差800mほどを一気に登っていく。
ピッケルを使って登ってく雪渓にはデブリ、雪崩の痕が見られる。
雪の流れたトレースに、10日ほど前の遭難と1つの懸念を英二は見つめた。
あの遭難で陥った昏睡状態から目覚めた英二の前で、国村は泣いた。
あの涙に籠る哀しみの記憶と想いに向き合う瞬間が、今回の山行で訪れるだろう。
その全てを自分は真直ぐに受けとめたい。
―これを超えられなかったら国村は、たぶん、
もし今回、これを国村が超えられなければ?
この「もし」は絶対にあってはならない。最高のクライマーとして国村が生きる為には、必ず超えなくてはいけない。
そして国村が超えるためには英二の支えが必要になる、きっと他の誰もが支えることは出来ないだろう。
必ず自分が超えさせてみせる、この覚悟と責任が与えられることは、自分にとって幸せだと想う。
そんな想いに微笑んで、慎重にアイゼンの足運んでいく隣で国村が笑った。
「ほら、宮田。もう頂上につくよ?」
からり明るく笑うアンザイレンパートナーは機嫌よく登って行く。
その愉しげな笑顔に、ふっと最初の曙光が映えた。
「日の出だな、」
白銀の山頂に今日初めての光が射しこんだ。
青藍の夜闇を光がゆるやかに染めあげて、大きな空は薄紫の暁を迎えていく。
蒼く闇に浮かんでいた山嶺は陽光あかるく輝いて白銀の姿を現した。
壮麗な雪山の暁が、大らかに空抱いて夜を明けさせた。
「…きれいだな、雪山は、」
心からの賞賛に吐息がこぼれた。
その吐息の向う広やかにたなびく薄紫の明雲に、夜と暁に抱きしめた名残が香ってしまう。
あの薄紫色の記憶が心ふれていく、あの色の幸福と愛しい記憶が目を覚ましそうになる。
あの薄紫は、愛する人が好む野すみれの花のいろ、夜の衣から解いた帯の色。
そして茶花の椿を摘んだ時も、あの色の衣を着ていた。
―…ふわって花が落ちてきて、それを掌で受けとめた花なんだ
薄紫の袂を風に揺らしながら、話してくれた「白澄椿の偶然」の物語。
あの白い花に英二を重ね見つめながら、小柄な体を雨に濡らして受けとめてくれた。
やさしい掌が花を受けとめた、その瞬間はきっと?
そんな確信が心ふれて、不思議な縁を信じたくなる。
―周太、君はきっと、俺の運命を司っているよ?
この自分が山に立つ切欠は、周太の一言だった。
あの一言を告げてくれた警察学校の山岳訓練。あれから数カ月の今、自分は3,000m級の高峰に佇んでいる。
この峻厳な世界への憧れも誇りも全て、あの一言が始まりだった。
そしてこの世界に立つことで、名声も地位もすべて自分は手に入れる道に立ってしまった。
いまこの隣に立っている最高のクライマー、この男のパートナーに選ばれた為に。
この今のすべてが、唯ひとつの恋と愛から始まった。
それが今自分をこの場所に連れてきた、その運命が不思議で、けれど必然のようにも思える。
そんな想いと見つめている眼下では、夜の山闇が光にとけて朝が広がっていく。
白銀にそまるホテルや旅館の屋根が見え、そのなかにある建物に英二は微笑んだ。
「国村、あれが東京医科大の診療所かな?」
かしゃん、
カメラのシャッター切ると国村も、英二の指さす方を見てくれる。
「そ、吉村先生に聴いたんだ?」
「うん、昔、ここでシーズンは常駐した事がある、って聴いたよ」
昨日の朝、いつものように診察室を手伝いながら英二も教えてもらった。
昔から吉村とは知人の国村は当然知っている、いつもどおり底抜けに明るい目は笑った。
「ERに移って、最初の5年位はいたんだよね。山ヤの先生には適任だよな?」
「そうだな?先生、ご自分でも『適任だったかな?』って笑ってたよ、」
楽しげに話してくれた、吉村医師の笑顔を想いながら英二も頷いた。
この吉村医師の話は楽しかった、けれど隣で笑っている友人には哀しい記憶を起こさせるだろうか?
そんな迷いをすこし見つめながらも英二は口を開いた。
「そのとき夏休みは、雅樹さんも一緒に来ていたんだってな?」
底抜けに明るい目が、ふっと揺らめいた。
けれどすぐに笑って透明なテノールが教えてくえた。
「そ、雅樹さん、小学生から中学生の頃だね。そのとき雅樹さん、1人でもさ、ここまで登ったりしたんだって。
でさ、救急法の勉強してからは、怪我人とか見つけると助けていたらしい。そういうの嬉しかったって、雅樹さん言ってた」
純粋無垢な細い目は診療所の屋根を、おだやかな眼差しに見つめている。
その温かな眼差しが見つめているのは、遠く愛しい面影なのだろう。
この山嶺には国村の大切な想いと魂が、懐深く抱かれ眠っている。
―受けとめてやりたい、国村の想いを、
雅樹を知る人誰もが英二を見ると、雅樹に似ていると懐かしむ。
こんなふうに15年経った今でも、雅樹は生前のままに愛されている。
そんな雅樹は父の故郷である奥多摩で余暇は過ごしていた、そんな雅樹を奥多摩の山ヤは皆、愛した。
だから今になって納得がいく。御岳の山ヤだった田中が、新任の英二に親しんでくれた切欠が何だったのか解かる。
だから15年前の秋、雅樹が亡くなった時には多くの人が奥多摩でも泣いていた。
そうした周囲の哀しみに対して国村は、自分まで一緒に泣くことは決してできない。
国村は両親の前でも、きっと田中の前でも泣けなかっただろう。誰もが泣いていたから。
そういう強靭な優しさを国村は抱いている。
けれど15年間ずっと溜った涙は今も、重たく国村の心に沈みこんでいる。
そのことを遭難して目覚めた朝に、国村の涙に見てしまった。
―だから、今からでも、泣かせてやりたい。15年分を吐きださせてやりたい
この山に国村が英二と登る。
その意味はきっと、国村の山ヤ人生にとって深い。
だからこそ、ここできちんと整理させてやりたい。そして必ず超えさせてみせる。
このことを今回、唯ひとりのアンザイレンパートナーとして援けてやれたらいい。
そんな想いで見た隣から、透明なテノールの声が愉快に笑ってくれた。
「さて、宮田?三角点タッチしようよ、ほら、」
からり笑って国村は英二の腕を掴んでくれる。
今日も一緒に山を楽しもう?そう笑っている細い目はいつもどおり大らかで自由がまぶしい。
この笑顔が自分は好きだ、いま抱いている友人への痛切を肚に落としこんで英二は微笑んだ。
「うん、おまえが1番手で、俺が2番だな、」
「そ、だからちょっと待ってなね?」
雪に埋もれかけた三角点の前に立って、嬉しそうに笑っている。
ぽん、と馴れた手つきで点の雪に手形を付けると英二をふり向いて微笑んだ。
「お待たせ、ほら、やんな?」
「うん、ありがとう、」
素直に笑いかけて英二も三角点の前に立った。
同じように雪へと付けた長い指の手形に、国村は愉しげに笑って口を開いた。
「よし、良い手形だね。でさ、ここの東壁について、おまえ知ってる?」
この場所については資料を読んだ、吉村医師に話も聞いている。
頷きながら英二は答えた。
「滝谷と双肩っていわれるロッククライミングゲレンデ、そして『氷壁』の現場だな?」
「正解、ナイロンザイル事件の現場だ、」
1955年1月2日。
前穂高岳東壁を登攀中だった岩稜会3人パーティのうち一人が約50cm滑落した。
そのとき頭上の岩にかけた8ミリナイロンザイルがショックもなく切断、彼は墜死した。
この8ミリナイロンザイルは1トン以上の抗張力があるとメーカー保証がついた新品だった。
メーカー保証付そして新品だった、この事実が醜い真実を暴く社会的事件となり小説『氷壁』も書かれていく。
この「醜い真実」に、底抜けに明るい目へと怒りが閃き微笑んだ。
「山ヤがさ?いい加減な技術と詐欺商売の犠牲になったんだ、それはこの現場だけじゃない、」
「うん。他にも、何件も事故があったな?その事故の上に俺たちはさ、今、無事にザイルを使っているんだよな」
ナイロンザイルが開発された黎明期の「人災」事件だった。
このナイロンザイル切断事件は岩稜会の件に止まらず、同様に多発し死傷者が累積されていく。
これら遭難事故によりナイロンザイルの耐性実験が行われ、安全基準が作られた。この基準制定以後は犠牲者は出ていない。
この安全基準について英二は法科の学生時代にも学んだ、その記憶と知識のファイルが示した内容を口にした。
「あの岩稜会の事件が発端になって、ザイルも適用対象の消費生活用製品安全法が制定されているな?
その2年後にザイルの安全基準が公布されてさ、それで8ミリザイルはダブル使用でも、登山用には不認可になったんだよな」
さらり口からファイルの記述が現れてくれる。
そんな英二を底抜けに明るい目が見て、率直に感心してくれた。
「ふうん、さすが法学部出身だね、宮田?おまえ、酒造法とか詳しかったしさ、商法系強いよな、」
「父さんが企業法務やってるからね、こういう話もよくしてくれたんだ、」
自分の頭にある法律ファイルは大学で学んだ事と、父から受けとった知識で出来ている。
そのことへの感謝に微笑んだ英二に、細い目が温かに笑いかけてくれた。
「なるほどね?おまえ、ホント性格とか中身はオヤジさん似なんだ、」
「うん、よくそう言われる、」
嬉しい気持ちを素直に認めて、英二は微笑んだ。
川崎で父と久しぶりに顔を合わせたときも、改めて似ているなと自分でも思っている。
今度はいつ会えるかな?そんなことを想いながらも事故と法律制定の哀しい軌跡に口を開いた。
「安全法が1973年、安全基準が1975年だ。20年もかかった、この間には少なくとも20人がザイル切断事故で亡くなってる。
だから俺、この事件の判例とか読むといつも思った。もっと早く法律が出来ていたら、この遭難死は防げたのにな、ってさ」
事故から20年経ての法律制定。
この立法の遅延が法制度自体への疑問となって、法学生だった自分の心に蹲った。
これだけ期間が掛かった原因は様々な問題の多発にある、この問題を引き起こす人間の心理たちが哀しい。
こうした心理の抑止力として、法律の起源は性悪説から生まれた。けれど結局この抑止力すらも「性悪」の人間が司法する。
だからこそ問題は多発し立法の遅延は起きた、この法治と人間心理のイタチゴッコが哀しい。
この心理と「多発」を見つめる隣から、透明なテノールが裁断するよう口を開いた。
「あれが世界初のザイルの安全基準に繋がった、それは良い事だろうね。
けれどデッチアゲの公開実験がされた、そして岩稜会の問題提起を日本山岳会が認めるのが遅れた。
メンツと生命の尊厳を秤にかけたんだよな?で、この遅れの為にザイルの事故は続いた。身勝手なメンツが山に人を殺させたね」
東壁の断崖を底抜けに明るい目が見つめて、テノールの声が静かな怒りを孕んでいる。
この怒りは英二にも解ってしまう。登山の自由を守るべき組織が見せた態度は、山ヤであれば誰もが許せないだろう。
そして自分達は山ヤの警察官、山に廻る生命の尊厳を守る任務に命懸けで立っている。だから逆のことはされたくない。
そしてこの「身勝手なメンツ」は警察組織に生きるなら、無関係ではいられない。ちいさな覚悟と英二は微笑んだ。
「うん、国村の言う通りだな。だから俺、昇進するよ?警視庁山岳会が『身勝手なメンツ』に負けない発言力を保てるように、」
「よく解かってきたね、宮田?頼りにしてるよ、俺の可愛いアンザイレンパートナー?」
底抜けに明るい目が嬉しげに笑ってくれる。
ぽん、と肩叩いて愉しそうに笑いながら国村は口を開いた。
「ここの頂上直下の東壁もイイよ、北尾根Ⅳ峰のフェースもまた良い。松高ルートってふうにルート名はパイオニアをつけてある。
で、涸沢側ではⅢ峰フェース。末端の屏風岩もイイよ。屏風岩の登攀ベースは横尾谷でさ、標高差700mはダイナミックで楽しいね、」
教えてくれながら指さしてくれるルートは白銀に輝いている。
あの白銀の竜の背はどうなっているのかな?未知の道へ憧憬に英二は微笑んだ。
「いいな、いつか登ってみたいな、」
「だろ?でも今回は俺たち往復縦走するから、壁は滝谷に絞る。さ、第三峰に行くよ。で、一挙に槍の穂先まで縦走な?」
機嫌良く笑って雪を踏み歩き始めていく。
心から山を楽しんでいる、そんな笑顔がいつもながら明るくまぶしい。
この笑顔を、槍岳の先でも必ず見たいと心から願ってしまう。
―必ず超えさせる、そして笑わせてやりたい
容易いことではないだろう、それでも超えさせなくてはいけない。
そして守ってやりたい。大切な友人でアンザイレンパートナー、この男の山ヤの誇りを守ってやりたい。
きっと守れる、大丈夫。そんな確信に英二も微笑んで大切な友人と雪道を歩き出した。
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槍ヶ岳山頂に立ったのは午前10時より前だった。
標高3,180m日本第5峰は氷河が削り残した氷食尖峰、狭い頂上は名の如く「槍の鉾先」になっている。
そして天に槍つくピラミダルな山容は、360度が白銀の雪稜をひろやかに従えていく。
銀色輝く尾根は東西南北に東鎌、西鎌、槍穂高、北鎌の四稜。
青い翳おとす沢は東南に槍沢、南西に槍平とも呼ばれる飛騨沢、北西に千丈沢、北東に天丈沢の四沢。
雄渾に広がる白銀と蒼の世界に英二は、肚の底から綺麗に笑った。
「雄大だな、そして綺麗だ。奥穂の山頂も綺麗だったけど、ここは凄いな、」
「だろ?全方向、大パノラマだからね、」
ご機嫌な底抜けに明るい目は遠望しながら、ファインダーを覗いている。
まだ午前中の明るい陽光に輝く雪稜は、どこまでも無垢にまばゆい。
ナイフリッジから吹き上げる風に体感温度は零下30度を下回っている。
頬撫でる風は切りつけ厳しい、それでも今立っている点の展望は心ごと視線を奪っていく。
―周太?すごい世界だよ、見せてあげたい
雪稜に視線は奪われる、けれど優しい笑顔の面影は心に抱いて離れられない。
この笑顔を喜ばせたくて、英二はポケットから携帯を出して電源を入れた。
素早くシャッターを押して画面を確認すると、白銀と蒼の世界が輝く映像が明確に撮れている。
すぐ送りたいけれど、この寒冷と電波状況では電力消耗が激しい。また電源を切って英二は仕舞いこんだ。
隣でも一眼レフをザックに納めなおした国村が、機嫌よく目を細めて笑った。
「天気はイイ、でも気温は低い。最高の雪山日和だね、」
「うん、天気に恵まれて良かったよ。おかげで時間に余裕があるな、北穂で雪洞掘るんだろ?」
いま10時過ぎ、ならば時間は足りるだろう。
ずっと見つめている覚悟と確認した英二に、透明なテノールが答えた。
「だよ。コンディション良いし、俺たちなら2時間あれば充分着けるね。昼過ぎには北穂の小屋で飯食ってさ、1時には雪洞だね、」
ザックのベルトを確認しながら答えてくれる。
いつもどおりに国村は落着いて、大好きな雪山を楽しんでいる。
この様子と天候ならいけるだろう、重ねてきた覚悟を見つめて英二は笑いかけた。
「じゃあさ、ちょっと寄り道も出来るよな?」
「うん、出来るね。午後、滝谷ちょっと降りたい?」
からり笑いながら国村は南西の元来た道へと行きかけた。
その腕を掴んで英二は、真直ぐにアンザイレンパートナーの瞳見つめて微笑んだ。
「北鎌尾根の独標に行こう、国村、」
15年前の10月下旬。
山ヤの医学生だった雅樹は、23歳で長野の高峰に遭難死した。
晩秋の雪そまる尾根を歩いていた雅樹はアイゼンベルトを直そうと屈んだ。
その瞬間、急な突風に煽られバランスを崩し、雅樹は雪の断崖を滑落した。
けれど雅樹は生きていた。
しかし落ちた側の左足と左腕が骨折していた。
それでも雅樹なら、応急処置をし自力で下山が出来ただろう。
けれどその時だけは、雅樹は救急用具を家に忘れた。そして単独行だった為に救けも呼べなかった。
そして雅樹は、滑落現場から数百メートル先で凍死体の姿になって発見された。
そのとき雅樹は日本第5峰、槍ヶ岳に登っていた。
「国村、北鎌尾根を往復縦走しよう。俺たち2人なら、今からの時間で行けるよな?」
槍ヶ岳屈指のバリエーションルート北鎌尾根、それが雅樹最後のトレースだった。
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(to be continued)
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第42話 雪陵act.1―side story「陽はまた昇る」
雪を奔るせせらぎが夜の底から湧きあがる。
氷の砕ける微かな聲まじる水音が、満天に鳴る星々と密やかに響き合う。
アイゼンの雪ふむ音が静かに沁みる、この静謐と凍る吐息に微笑んでしまう。
この冷厳を歩く今が嬉しい、この喜びに並んで歩く隣が笑った。
「ご機嫌だね?俺の別嬪パートナーは、」
透明なテノールが凍る大気に愉しげに笑う。
またすごい呼び名がついているな?可笑しくて英二も笑い返した。
「なんか恥ずかしい呼び名だな、国村?他は無いのかよ、」
「じゃ、変態パートナーとケダモノパートナー、どっちがいい?」
どっちも嫌だよ?
本当はそう言いたい所だけれど、前ほど強く出れそうにない。
困ったなと想いながら英二は微笑んだ。
「別嬪、が一番良いかな?」
「だろ?これもね、エロ別嬪パートナーの略なんだけどさ。ま、今夜の尋問次第で、また改名するかもね?」
やっぱりその話になるんだな?
どこまでなら口を割ってもいいものか、考えながら英二は答えた。
「尋問されるんだ、俺?」
「当然だろ?今夜はね、密談には最高の環境だよ?楽しみだな、さっさと登って雪洞掘ろうね、宮田」
ご機嫌な細い目が笑んでいる。
この様子では今夜はさぞ、話を引き摺り出されることだろう。
すこし気をつけないとな?そっと心に心棒をいれた英二に、登山グローブの指が行く手を示しt。
「ほら、あれが河童橋だよ?あれ渡ったらさ、一挙に岳沢小屋通過して前穂高な?」
よく絵葉書などで見る橋の姿が雪のなか現れる。
ここまではホテルや旅館が立ち並んで観光地の雰囲気が濃い。
あの橋を渡れば、雪山の世界になっていく。
「うん、楽しみだな?目標タイム2時間だっけ?」
「そ。夜明けには三角点タッチしたいからさ。で、次に第三峰の奥穂高まで30分な、」
話しながら梓川のせせらぎを渡っていく。
渡ってすぐの登山口で立ち止まると、クライマーウォッチの高度計とタイムをセッティングした。
見つめる文字盤に、この時計の贈り主が見せた微笑が慕わしい。
ほんの数日前に過ごした緊張、それ以上の幸せな時間を共にした面影に英二は微笑んだ。
―周太。今から、山に入るよ?
いまごろ当番勤務の交番で、警察官として業務に就いているだろう。
早朝4時の新宿は平和で穏やかだろうか?愛するひとは無事に過ごしているだろうか?
大切な婚約者の無事と笑顔を今日も祈りながら、英二はアイゼンのベルトを確認した。
登山靴の紐も確認して立ち上がると、同じように確認を済ませた国村がピッケルで先を示し笑った。
「よし、準備OKだね?じゃ、行くよ、」
「うん、今日もよろしくな、」
明るいアンザイレンパートナーに笑いかけて、英二は歩き出した。
鬱蒼とした樹林帯をヘッドライトの灯に登って行く、やがて岩の前にくると冷たい風が吹きつけた。
「これがさ、岳沢名物の天然クーラーだよ」
「これって、風穴だったよな。地下から風が来るんだろ?」
「そ、夏でも氷柱がさがってるよ、」
話しながら登りつめて次第に傾斜がきつくなってくる。
それでもパートナーの呼吸とペースに合わせて英二は登って行った。
そして岳沢小屋にでると、奥明神沢の雪渓を辿るルートをとった。
「夏道の重太郎新道はさ、6月下旬頃まで通れないんだよね、」
「期間の短い道なんだな、」
「そ、山はいつも貌が変わるからね。さて、そろそろ斜度も40度超えてくるよ、」
標高2,170m岳沢小屋から標高3,090m前穂高岳まで、標高差800mほどを一気に登っていく。
ピッケルを使って登ってく雪渓にはデブリ、雪崩の痕が見られる。
雪の流れたトレースに、10日ほど前の遭難と1つの懸念を英二は見つめた。
あの遭難で陥った昏睡状態から目覚めた英二の前で、国村は泣いた。
あの涙に籠る哀しみの記憶と想いに向き合う瞬間が、今回の山行で訪れるだろう。
その全てを自分は真直ぐに受けとめたい。
―これを超えられなかったら国村は、たぶん、
もし今回、これを国村が超えられなければ?
この「もし」は絶対にあってはならない。最高のクライマーとして国村が生きる為には、必ず超えなくてはいけない。
そして国村が超えるためには英二の支えが必要になる、きっと他の誰もが支えることは出来ないだろう。
必ず自分が超えさせてみせる、この覚悟と責任が与えられることは、自分にとって幸せだと想う。
そんな想いに微笑んで、慎重にアイゼンの足運んでいく隣で国村が笑った。
「ほら、宮田。もう頂上につくよ?」
からり明るく笑うアンザイレンパートナーは機嫌よく登って行く。
その愉しげな笑顔に、ふっと最初の曙光が映えた。
「日の出だな、」
白銀の山頂に今日初めての光が射しこんだ。
青藍の夜闇を光がゆるやかに染めあげて、大きな空は薄紫の暁を迎えていく。
蒼く闇に浮かんでいた山嶺は陽光あかるく輝いて白銀の姿を現した。
壮麗な雪山の暁が、大らかに空抱いて夜を明けさせた。
「…きれいだな、雪山は、」
心からの賞賛に吐息がこぼれた。
その吐息の向う広やかにたなびく薄紫の明雲に、夜と暁に抱きしめた名残が香ってしまう。
あの薄紫色の記憶が心ふれていく、あの色の幸福と愛しい記憶が目を覚ましそうになる。
あの薄紫は、愛する人が好む野すみれの花のいろ、夜の衣から解いた帯の色。
そして茶花の椿を摘んだ時も、あの色の衣を着ていた。
―…ふわって花が落ちてきて、それを掌で受けとめた花なんだ
薄紫の袂を風に揺らしながら、話してくれた「白澄椿の偶然」の物語。
あの白い花に英二を重ね見つめながら、小柄な体を雨に濡らして受けとめてくれた。
やさしい掌が花を受けとめた、その瞬間はきっと?
そんな確信が心ふれて、不思議な縁を信じたくなる。
―周太、君はきっと、俺の運命を司っているよ?
この自分が山に立つ切欠は、周太の一言だった。
あの一言を告げてくれた警察学校の山岳訓練。あれから数カ月の今、自分は3,000m級の高峰に佇んでいる。
この峻厳な世界への憧れも誇りも全て、あの一言が始まりだった。
そしてこの世界に立つことで、名声も地位もすべて自分は手に入れる道に立ってしまった。
いまこの隣に立っている最高のクライマー、この男のパートナーに選ばれた為に。
この今のすべてが、唯ひとつの恋と愛から始まった。
それが今自分をこの場所に連れてきた、その運命が不思議で、けれど必然のようにも思える。
そんな想いと見つめている眼下では、夜の山闇が光にとけて朝が広がっていく。
白銀にそまるホテルや旅館の屋根が見え、そのなかにある建物に英二は微笑んだ。
「国村、あれが東京医科大の診療所かな?」
かしゃん、
カメラのシャッター切ると国村も、英二の指さす方を見てくれる。
「そ、吉村先生に聴いたんだ?」
「うん、昔、ここでシーズンは常駐した事がある、って聴いたよ」
昨日の朝、いつものように診察室を手伝いながら英二も教えてもらった。
昔から吉村とは知人の国村は当然知っている、いつもどおり底抜けに明るい目は笑った。
「ERに移って、最初の5年位はいたんだよね。山ヤの先生には適任だよな?」
「そうだな?先生、ご自分でも『適任だったかな?』って笑ってたよ、」
楽しげに話してくれた、吉村医師の笑顔を想いながら英二も頷いた。
この吉村医師の話は楽しかった、けれど隣で笑っている友人には哀しい記憶を起こさせるだろうか?
そんな迷いをすこし見つめながらも英二は口を開いた。
「そのとき夏休みは、雅樹さんも一緒に来ていたんだってな?」
底抜けに明るい目が、ふっと揺らめいた。
けれどすぐに笑って透明なテノールが教えてくえた。
「そ、雅樹さん、小学生から中学生の頃だね。そのとき雅樹さん、1人でもさ、ここまで登ったりしたんだって。
でさ、救急法の勉強してからは、怪我人とか見つけると助けていたらしい。そういうの嬉しかったって、雅樹さん言ってた」
純粋無垢な細い目は診療所の屋根を、おだやかな眼差しに見つめている。
その温かな眼差しが見つめているのは、遠く愛しい面影なのだろう。
この山嶺には国村の大切な想いと魂が、懐深く抱かれ眠っている。
―受けとめてやりたい、国村の想いを、
雅樹を知る人誰もが英二を見ると、雅樹に似ていると懐かしむ。
こんなふうに15年経った今でも、雅樹は生前のままに愛されている。
そんな雅樹は父の故郷である奥多摩で余暇は過ごしていた、そんな雅樹を奥多摩の山ヤは皆、愛した。
だから今になって納得がいく。御岳の山ヤだった田中が、新任の英二に親しんでくれた切欠が何だったのか解かる。
だから15年前の秋、雅樹が亡くなった時には多くの人が奥多摩でも泣いていた。
そうした周囲の哀しみに対して国村は、自分まで一緒に泣くことは決してできない。
国村は両親の前でも、きっと田中の前でも泣けなかっただろう。誰もが泣いていたから。
そういう強靭な優しさを国村は抱いている。
けれど15年間ずっと溜った涙は今も、重たく国村の心に沈みこんでいる。
そのことを遭難して目覚めた朝に、国村の涙に見てしまった。
―だから、今からでも、泣かせてやりたい。15年分を吐きださせてやりたい
この山に国村が英二と登る。
その意味はきっと、国村の山ヤ人生にとって深い。
だからこそ、ここできちんと整理させてやりたい。そして必ず超えさせてみせる。
このことを今回、唯ひとりのアンザイレンパートナーとして援けてやれたらいい。
そんな想いで見た隣から、透明なテノールの声が愉快に笑ってくれた。
「さて、宮田?三角点タッチしようよ、ほら、」
からり笑って国村は英二の腕を掴んでくれる。
今日も一緒に山を楽しもう?そう笑っている細い目はいつもどおり大らかで自由がまぶしい。
この笑顔が自分は好きだ、いま抱いている友人への痛切を肚に落としこんで英二は微笑んだ。
「うん、おまえが1番手で、俺が2番だな、」
「そ、だからちょっと待ってなね?」
雪に埋もれかけた三角点の前に立って、嬉しそうに笑っている。
ぽん、と馴れた手つきで点の雪に手形を付けると英二をふり向いて微笑んだ。
「お待たせ、ほら、やんな?」
「うん、ありがとう、」
素直に笑いかけて英二も三角点の前に立った。
同じように雪へと付けた長い指の手形に、国村は愉しげに笑って口を開いた。
「よし、良い手形だね。でさ、ここの東壁について、おまえ知ってる?」
この場所については資料を読んだ、吉村医師に話も聞いている。
頷きながら英二は答えた。
「滝谷と双肩っていわれるロッククライミングゲレンデ、そして『氷壁』の現場だな?」
「正解、ナイロンザイル事件の現場だ、」
1955年1月2日。
前穂高岳東壁を登攀中だった岩稜会3人パーティのうち一人が約50cm滑落した。
そのとき頭上の岩にかけた8ミリナイロンザイルがショックもなく切断、彼は墜死した。
この8ミリナイロンザイルは1トン以上の抗張力があるとメーカー保証がついた新品だった。
メーカー保証付そして新品だった、この事実が醜い真実を暴く社会的事件となり小説『氷壁』も書かれていく。
この「醜い真実」に、底抜けに明るい目へと怒りが閃き微笑んだ。
「山ヤがさ?いい加減な技術と詐欺商売の犠牲になったんだ、それはこの現場だけじゃない、」
「うん。他にも、何件も事故があったな?その事故の上に俺たちはさ、今、無事にザイルを使っているんだよな」
ナイロンザイルが開発された黎明期の「人災」事件だった。
このナイロンザイル切断事件は岩稜会の件に止まらず、同様に多発し死傷者が累積されていく。
これら遭難事故によりナイロンザイルの耐性実験が行われ、安全基準が作られた。この基準制定以後は犠牲者は出ていない。
この安全基準について英二は法科の学生時代にも学んだ、その記憶と知識のファイルが示した内容を口にした。
「あの岩稜会の事件が発端になって、ザイルも適用対象の消費生活用製品安全法が制定されているな?
その2年後にザイルの安全基準が公布されてさ、それで8ミリザイルはダブル使用でも、登山用には不認可になったんだよな」
さらり口からファイルの記述が現れてくれる。
そんな英二を底抜けに明るい目が見て、率直に感心してくれた。
「ふうん、さすが法学部出身だね、宮田?おまえ、酒造法とか詳しかったしさ、商法系強いよな、」
「父さんが企業法務やってるからね、こういう話もよくしてくれたんだ、」
自分の頭にある法律ファイルは大学で学んだ事と、父から受けとった知識で出来ている。
そのことへの感謝に微笑んだ英二に、細い目が温かに笑いかけてくれた。
「なるほどね?おまえ、ホント性格とか中身はオヤジさん似なんだ、」
「うん、よくそう言われる、」
嬉しい気持ちを素直に認めて、英二は微笑んだ。
川崎で父と久しぶりに顔を合わせたときも、改めて似ているなと自分でも思っている。
今度はいつ会えるかな?そんなことを想いながらも事故と法律制定の哀しい軌跡に口を開いた。
「安全法が1973年、安全基準が1975年だ。20年もかかった、この間には少なくとも20人がザイル切断事故で亡くなってる。
だから俺、この事件の判例とか読むといつも思った。もっと早く法律が出来ていたら、この遭難死は防げたのにな、ってさ」
事故から20年経ての法律制定。
この立法の遅延が法制度自体への疑問となって、法学生だった自分の心に蹲った。
これだけ期間が掛かった原因は様々な問題の多発にある、この問題を引き起こす人間の心理たちが哀しい。
こうした心理の抑止力として、法律の起源は性悪説から生まれた。けれど結局この抑止力すらも「性悪」の人間が司法する。
だからこそ問題は多発し立法の遅延は起きた、この法治と人間心理のイタチゴッコが哀しい。
この心理と「多発」を見つめる隣から、透明なテノールが裁断するよう口を開いた。
「あれが世界初のザイルの安全基準に繋がった、それは良い事だろうね。
けれどデッチアゲの公開実験がされた、そして岩稜会の問題提起を日本山岳会が認めるのが遅れた。
メンツと生命の尊厳を秤にかけたんだよな?で、この遅れの為にザイルの事故は続いた。身勝手なメンツが山に人を殺させたね」
東壁の断崖を底抜けに明るい目が見つめて、テノールの声が静かな怒りを孕んでいる。
この怒りは英二にも解ってしまう。登山の自由を守るべき組織が見せた態度は、山ヤであれば誰もが許せないだろう。
そして自分達は山ヤの警察官、山に廻る生命の尊厳を守る任務に命懸けで立っている。だから逆のことはされたくない。
そしてこの「身勝手なメンツ」は警察組織に生きるなら、無関係ではいられない。ちいさな覚悟と英二は微笑んだ。
「うん、国村の言う通りだな。だから俺、昇進するよ?警視庁山岳会が『身勝手なメンツ』に負けない発言力を保てるように、」
「よく解かってきたね、宮田?頼りにしてるよ、俺の可愛いアンザイレンパートナー?」
底抜けに明るい目が嬉しげに笑ってくれる。
ぽん、と肩叩いて愉しそうに笑いながら国村は口を開いた。
「ここの頂上直下の東壁もイイよ、北尾根Ⅳ峰のフェースもまた良い。松高ルートってふうにルート名はパイオニアをつけてある。
で、涸沢側ではⅢ峰フェース。末端の屏風岩もイイよ。屏風岩の登攀ベースは横尾谷でさ、標高差700mはダイナミックで楽しいね、」
教えてくれながら指さしてくれるルートは白銀に輝いている。
あの白銀の竜の背はどうなっているのかな?未知の道へ憧憬に英二は微笑んだ。
「いいな、いつか登ってみたいな、」
「だろ?でも今回は俺たち往復縦走するから、壁は滝谷に絞る。さ、第三峰に行くよ。で、一挙に槍の穂先まで縦走な?」
機嫌良く笑って雪を踏み歩き始めていく。
心から山を楽しんでいる、そんな笑顔がいつもながら明るくまぶしい。
この笑顔を、槍岳の先でも必ず見たいと心から願ってしまう。
―必ず超えさせる、そして笑わせてやりたい
容易いことではないだろう、それでも超えさせなくてはいけない。
そして守ってやりたい。大切な友人でアンザイレンパートナー、この男の山ヤの誇りを守ってやりたい。
きっと守れる、大丈夫。そんな確信に英二も微笑んで大切な友人と雪道を歩き出した。
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槍ヶ岳山頂に立ったのは午前10時より前だった。
標高3,180m日本第5峰は氷河が削り残した氷食尖峰、狭い頂上は名の如く「槍の鉾先」になっている。
そして天に槍つくピラミダルな山容は、360度が白銀の雪稜をひろやかに従えていく。
銀色輝く尾根は東西南北に東鎌、西鎌、槍穂高、北鎌の四稜。
青い翳おとす沢は東南に槍沢、南西に槍平とも呼ばれる飛騨沢、北西に千丈沢、北東に天丈沢の四沢。
雄渾に広がる白銀と蒼の世界に英二は、肚の底から綺麗に笑った。
「雄大だな、そして綺麗だ。奥穂の山頂も綺麗だったけど、ここは凄いな、」
「だろ?全方向、大パノラマだからね、」
ご機嫌な底抜けに明るい目は遠望しながら、ファインダーを覗いている。
まだ午前中の明るい陽光に輝く雪稜は、どこまでも無垢にまばゆい。
ナイフリッジから吹き上げる風に体感温度は零下30度を下回っている。
頬撫でる風は切りつけ厳しい、それでも今立っている点の展望は心ごと視線を奪っていく。
―周太?すごい世界だよ、見せてあげたい
雪稜に視線は奪われる、けれど優しい笑顔の面影は心に抱いて離れられない。
この笑顔を喜ばせたくて、英二はポケットから携帯を出して電源を入れた。
素早くシャッターを押して画面を確認すると、白銀と蒼の世界が輝く映像が明確に撮れている。
すぐ送りたいけれど、この寒冷と電波状況では電力消耗が激しい。また電源を切って英二は仕舞いこんだ。
隣でも一眼レフをザックに納めなおした国村が、機嫌よく目を細めて笑った。
「天気はイイ、でも気温は低い。最高の雪山日和だね、」
「うん、天気に恵まれて良かったよ。おかげで時間に余裕があるな、北穂で雪洞掘るんだろ?」
いま10時過ぎ、ならば時間は足りるだろう。
ずっと見つめている覚悟と確認した英二に、透明なテノールが答えた。
「だよ。コンディション良いし、俺たちなら2時間あれば充分着けるね。昼過ぎには北穂の小屋で飯食ってさ、1時には雪洞だね、」
ザックのベルトを確認しながら答えてくれる。
いつもどおりに国村は落着いて、大好きな雪山を楽しんでいる。
この様子と天候ならいけるだろう、重ねてきた覚悟を見つめて英二は笑いかけた。
「じゃあさ、ちょっと寄り道も出来るよな?」
「うん、出来るね。午後、滝谷ちょっと降りたい?」
からり笑いながら国村は南西の元来た道へと行きかけた。
その腕を掴んで英二は、真直ぐにアンザイレンパートナーの瞳見つめて微笑んだ。
「北鎌尾根の独標に行こう、国村、」
15年前の10月下旬。
山ヤの医学生だった雅樹は、23歳で長野の高峰に遭難死した。
晩秋の雪そまる尾根を歩いていた雅樹はアイゼンベルトを直そうと屈んだ。
その瞬間、急な突風に煽られバランスを崩し、雅樹は雪の断崖を滑落した。
けれど雅樹は生きていた。
しかし落ちた側の左足と左腕が骨折していた。
それでも雅樹なら、応急処置をし自力で下山が出来ただろう。
けれどその時だけは、雅樹は救急用具を家に忘れた。そして単独行だった為に救けも呼べなかった。
そして雅樹は、滑落現場から数百メートル先で凍死体の姿になって発見された。
そのとき雅樹は日本第5峰、槍ヶ岳に登っていた。
「国村、北鎌尾根を往復縦走しよう。俺たち2人なら、今からの時間で行けるよな?」
槍ヶ岳屈指のバリエーションルート北鎌尾根、それが雅樹最後のトレースだった。
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(to be continued)
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