繋がる一本の線 護り、眠れるもの
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第43話 護標act.4―side story「陽はまた昇る」
雪洞を照らす蝋燭の灯りの、オレンジ色がやわらかい。
おだやかな空気のなかで、英二は10年間の秘密に口を開いた。
「俺ね、モデル、やっていたんだ」
細い目がちょっと大きくなって首傾げこんだ。
ひとつ瞬いて、テノールの声が笑って訊いてきた。
「ヌードモデル?」
どうしてそうなるんだろう?
いつもながらのエロオヤジ発想に、呆れながらも笑ってしまった。
「ちがうよ、服を着ている方のモデルだよ、」
「へえ?意外だね、」
なんで意外なんだろう?
たぶん国村なりの推理があるのだろう、英二は訊いてみた。
「どうして意外?」
「だってさ、ヌードモデルならソンナに顔が出ないだろ?だから秘密にしやすいよね、」
「あ、なるほど、」
それは気がつかなかったな?感心して英二は素直に笑った。
そんな英二の顔を見ながら酒を啜りこんで、国村はまた首傾げこんだ。
「でも、服着ている方のモデルだと、雑誌とかに載るってことだよね?でも秘密だった、ってさ?よくバレなかったな、おまえ、」
普通はそう考えるだろうな?
秘密を通せている理由に少し困りながら、部分的に事実を言った。
「かなりメイクするし、プロフィールも全部伏せてあったから、」
「よく伏せられたよね?それに、メイクしたって普通は解かるんじゃない?なによりさ、おまえの性格でよくモデルやったよな、」
なんか事情があるんだろ?そんなふうに細い目が温かに笑みながら訊いてくる。
やっぱり国村は理詰めで考えてくる、もう最初から話した方が良いだろう。
でも恥ずかしいなと思いながら、英二は微笑んだ。
「最初はね、頼まれたんだ」
「頼まれて、か。おまえらしいね?」
英二のコップに酒を注いで、細い目が温かに笑んでくれる。
自分の性格をよく理解してくれている、そんな安心感に自然と口は開かれた。
「家から少し行った所に、桜で有名な公園があるんだよ。花の時期は混むんだけど、静かな所にベンチがあってさ。
そこで俺、本を読むの好きだったんだ。その日も本読んでいて、声かけられて。困っているから、助けてくれって言われたんだ」
静かな桜の下のベンチは自分の特等席だった。けれど実家に帰らなくなってからは、一度も行っていない。
あのベンチは今でもあるのかな?懐かしい想いに微笑んだ英二に、テノールの声が訊いてくれた。
「助けてくれ、って何があったワケ?」
「モデルさんが急に来られなくなったんだ、車が渋滞に巻き込まれたらしい。それで俺にモデルをしてほしいって。でも俺、断ったんだ、」
「うん、おまえなら当然、断るだろね、」
そりゃそうだろう?そんな顔で頷いてくれる。
こんな理解が嬉しくて、英二も素直に頷いた。
「うん、嫌だったんだ、そういうの。でも偉いカメラマンを待たせていて、撮影の時間も限られているから、って言うんだ。
どうしても今すぐ撮影しないといけない、代わりのモデルがどうしても必要なんだ、って…その人、俺に一生懸命に頼んでくれて。
きちんとした仕立てのスーツ着た、30歳くらいの女の人がさ?泣きそうな顔で一生懸命に頭下げてくれて、放っておけなくなったんだ、」
「ソンナに頼まれたら、おまえなら断れないだろうな?で、引受けたんだ、」
「うん、」
頷いて酒をひとくち飲むと、ほっと息を吐いた。
あのときの困ったことを思い出しながら、英二は続けた。
「でも俺、中学生だったんだよ、」
「あ、それはマズいね?おまえ、私立だったろ?」
すぐに気づいて相槌を打ってくれる。
その通りに、ほんとうは「まずい」ことだった。
「そう、所謂お坊ちゃま学校でさ、バイトとか絶対禁止。それ以上に、両親に知られたら大変だったと思う。
だから俺、条件を出したんだ。俺がどこの誰なのか探らないこと、写真も俺だって解らないように出来るなら良いです、って。
そうしたら、絶対にプライバシーは守ると約束しますって言われてね。その場で一筆書いてもらって、受けとってからOKしたんだ」
あのときは驚いたけれど、それなりに冷静だった。
当時の自分にすこし感心した英二に、国村も感心気に笑いかけてくれた。
「一筆書いてもらうなんてさ、周到なオマエらしいね。それで、プロフィールは一切伏せられたんだ?」
「うん。もし俺の身元とかを調べれば、そちらにご迷惑がかかります。そういうふうに警告もしたんだ、ほんとのことだから、」
「だね。嫌がる中学生を、無理にモデルにした、なんてね?オヤジさんが知ったら、怖いことになるだろね、」
言わなくても国村は解かるんだな?
相変わらずの察しよい怜悧さが嬉しい、笑って英二は頷いた、」
「そう。きっと訴訟とかするよ?だから俺、事務所の人にも自分のこと、全部黙秘したんだ。それなら、知らなかった、で済むだろ?」
もし父が知ったなら、きっとモデル事務所を訴えるだろう。
父は弁護士資格を持って大企業の法務室を担う、ビジネス法務のプロフェッショナルでいる。
しかも外資系企業だから国際的に知人が多い、こうした情報網もバックボーンに訴訟すれば事務所を潰すくらい容易い。
それが一番怖いと自分でも思ったから、だから最初にはっきり言わせて貰った。
「黙秘することで、自分が責任を負ったんだ?おまえらしいね、中学の時から真面目堅物くんは変わらないんだな、」
「堅物で真面目は、根本的な性格だからね?」
笑って頷いて英二はコップに口付けた。
あまい香が喉を下りていく、ふわり抜ける芳香に微笑んで話しを続けた。
「それで俺は、撮影の待機場所になるテントに連れて行かれたんだ。そこでメイクと衣装をしてくれてさ?
名前とか、誰も訊かないでくれた。そして出来上がった俺はね、黒い振袖に赤い帯を締めた、長い黒髪の女の子になっていたんだよ、」
あのとき鏡を見た自分は、困ったけれど安心もした。
そんな記憶に笑った英二を、大きくなった細い目が見つめた。
「美少女モデルだった、ってことか?」
「うん、性別から違かったし、お蔭でね?俺が誰なのか、全く解からなくなってた、」
「そりゃ、誰だか解からなくなるね?さぞ美少女だったろな、いいね。で、どんな写真とカメラマンだったワケ?」
愉しそうに笑って底抜けに明るい目が見つめてくれる。
その目が前と少し違う雰囲気があるのは、きっと「恋人」のキスの所為だろう。
いつもどおり、けれど少しの変化を見つめながら英二は、記憶を話しだした。
「桜の下で女の子が佇んでいる、そんな写真だよ。カメラマンはイギリス人だった、40代くらいの男の人で。
帰国スケジュールがあるから、その時間しか撮影できなかったんだ。どうしても大和撫子を撮影したい、って希望だったらしい」
「なるほどね。それじゃ、どうしてもピンチヒッター欲しいよな。ポラとか貰ったんだろ?」
「うん、」
彼はポラロイドの試写を記念にプレゼントしてくれた。
自分だと思えない姿に驚きながらも、いい記念かなと思って素直に貰ってきてある。
あの写真を見たら、国村と周太はなんて言うんだろう?思いながら微笑んだ英二にテノールが笑った。
「でも、大和撫子の正体は、サムライだったんだ?で、彼は全く気づかなかったんだ?」
「気づかなかったよ。可笑しいよな、男が大和撫子だなんて。きっと今の俺を見たら、驚くんじゃないかな?」
大和撫子、このフレーズが当時も本音は困った。
今話を聴く友人も可笑しそうに笑いながら、けれど褒めてくれた。
「でも、宮田ならね?そりゃあ美少女で満足したんじゃないの、彼?」
「うん、だから困ったんだよ、」
そこから始まる困った話に、英二は口を開いた。
「そのカメラマンの人、世界で有名な人だったんだ。それで俺の写真で、なんか大きい賞を取っちゃったんだよ。
それもあって、俺を気に入ってくれてね?また撮影をしたい、って事務所にオファーを掛けてきたんだ。それで事務所の人は困って。
桜の時は、その場でバイト代もらって別れたし、もちろん連絡先教えなかったから。そしたら俺、またベンチのところで捕まったんだ、」
あのときは驚いたな?
もう10年前になる記憶に困って笑った英二に、テノールが可笑しそうに訊いてきた。
「事務所の人、ずっと待ち伏せしていた、ってコト?」
「うん、オファーが来てから毎日、誰かしら見に来ていたみたいでさ。いつもどおりベンチに座って本開いたら、捕まった、」
「で、また美少女に化けて、例のカメラマンに写真撮られたんだ?」
それだけで終わらなかった。
10年前のまま困った顔になって、英二は微笑んだ。
「写真撮って、カメラマン本人から契約書を差し出されたよ。彼の専属モデルをやる、っていうね、」
「ふっ、」
感心と呆れがハーフになった顔が、おかしそうに噴出した。
ほら、やっぱり笑われた。仕方ないと思いながら英二は、肚を括って話しだした。
「そこの事務所の人達がね、自分のところのモデルだ、って苦し紛れで、彼に嘘をついていたんだ。
それで必死に俺のこと、探していたらしい。そのときも俺、また1度きりだと思って行ったから、もちろん専属のことは断った。
そうしたらね?このカメラマンの機嫌を損ねたら、事務所の存続にかかわります、路頭に迷います、お願いしますって、頭下げられて。
もう必死で、皆さんに一生懸命お願いされて。だから俺は条件だしたんだ。この間も言ったように、全て秘密で通してくれるなら、って。
だから契約書は芸名でのサインだけ、あとは連絡とれるように事務所名義の携帯を預った。で、俺は彼の専属モデルになったんだよ、」
ひと息に話して、英二はコップに口をつけた。
馥郁と甘い香にほっと息をついて落着くと、10年間の秘密を話したことが不思議に思えてくる。
まだ中学生から始めて、モデルのような派手な仕事、それも女装だった。
こんなことは、とても自分には人に言えない。
まして父が知ってしまったら訴訟騒ぎになるだろうし、息子を愛玩していた母の反応は想像するのも怖い。
もう一生内緒にしようと思っていた、それを話せる相手がいることは幸運かもしれない。
そんな相手は同じようにコップの酒を呑みこんで、英二に尋ねてきた。
「世界の巨匠の専属か、なるほどね。ソレじゃあ高額ギャラで、貯金も出来るワケだ。で?おまえの芸名ってなんだったの?」
これは本当に言いたくないんだけど。
そう思いながらも、もう全部ぶちまけたくなって、英二は口を開いた。
「『媛』、」
ひとつ瞬く間があって、テノールの声が尋ねた。
「princesse、の姫?」
「そうだよ。カメラマンが俺を、そう呼んだから」
最初の撮影の時から彼は「ヒメ、」「princess、」と英二を呼んできた。
まだ声変わりの前だったし、きっと彼は本気で女性だと思っていたのだろう。
今までの人生で「困った事ベスト3」に入る記憶に、友人は容赦なく質問をした。
「カメラマンが、宮田を、姫って呼んだから、それが芸名になった、ってこと?」
「そうだよ、救援の援と旁が同じ方の、『媛』だけどね、」
応えた英二を、底抜けに明るい目が見つめてくる。
その目を愉快に笑ませると、テノールは笑い声をあげた。
「あはははっ!『媛』、」
透明な笑い声が、蝋燭照らす雪洞に響いた。
「なるほどね、媛、か?あはははっ。世界の巨匠の専属美少女、大和撫子モデルには、ピッタリだね?へえ、彼もねえ?
ははっ、彼、『媛』って呼んじゃうくらい、おまえの美貌に跪いちゃたんだ?この俺と好みが同じだなんて、お目が高いね?あははっ」
やっぱり笑われた。
だから尚更に秘密にしたかったのにな?困りながら英二は友人に微笑んだ。
「そんなに笑うなよ。ほんと恥ずかしいんだから、俺、」
「恥ずかしがるなよ?世界に誇れる大和撫子の代表なんだからさ、おまえはね?はははっ、俺のパートナーは撫子媛だったんだね、」
ご機嫌なテノールが雪洞に響きわたっていく。
誰もいないところで話してよかったな、その点では安堵しながら英二は諦め半分で言った。
「そんなに笑ってもらえて、光栄だよ?」
「ふっ、大いに光栄がれよ?こんなに俺が、大笑いするのも珍しいんだからね、あはははははっ、」
底抜けに明るい目が愉快で堪らないと言っている。
きっと今は何を言っても無駄だろうな?英二は困りながら鍋の具合を見、椀によそった。
熱い椀を大笑いしている前に置いて、自分の分もよそうと英二は黙々食べだした。
「うん、旨いな、」
熱い味噌味のスープが、寒い空気に1日いた体に沁みていく。
雪山では温度だけでも充分ご馳走になる、そのうえ国村は味付けのセンスが良い。
味噌仕立ての鳥鍋を楽しみながら酒を呑んでいると、ようやく笑いを納めたテノールが訊いてきた。
「でも大和撫子なんてね、そりゃあ欧米人のハートを掴んだろ?おまえ、大人気だったんじゃないの?」
ほら、気づかれた。
この洞察力と論理力の鋭い同僚に、半分自棄で英二は自白した。
「そうだよ。俺の写真は、アメリカとかヨーロッパの雑誌を飾ってるよ、」
「だから日本では、あまり知られないで済んだ、ってワケか。でも、逆輸入もあっただろ?」
「みたいだな。でも俺、自分の写真がどこに載ったとか、よく知らない。興味なかったし、」
「おまえらしいね?で、いつまでモデルやって、どうやって辞めた?」
「大学2年まで。もう勉強と就職に専念したかったし、20歳になって男っぽくなってきたから、って言った、」
あの頃までは中性的な雰囲気が強かったと、自分でも思う。
懐かしい困った記憶に微笑んだ英二に、国村が笑いかけた。
「よく20歳まで、男だってばれなかったな。カメラマンは、ずっと宮田は女の子だって思ってたんだろ?おまえ、声と身長はどうだった?」
「うん。もちろん声は途中から低くなったけど、ハスキーヴォイスだと思われていたんだ。咽仏も20歳まではあまり無かったし。
身長は日本人では高いけれど、海外の女性モデルは同じくらいあるだろ?それで、イギリス人から見ると不自然はなかったらしい、」
「そっか。外人だから、海外規格で見て来るもんな?で、この経験のお蔭で宮田、キングスイングリッシュが得意なんだ、」
なぜ国村が知っているのだろう?
青梅署で英語を使ったことは今のところ殆どない、不思議に思って英二は訊いてみた。
「なぜ国村、俺の英語のこと知ってるんだ?」
「周太が言っていたんだよね。ワーズワスを綺麗なキングスイングリッシュで読んでもらって、楽しかった。って、」
馨の命日の夜のことだ。
おだやかな幸せの記憶に英二は微笑んだ。
「あのとき周太が教えてくれたんだ。お父さんは、ワーズワスを使って周太に英語を教えていたらしい。
だから周太、キングスイングリッシュの発音を良く知っているんだ。お父さんが自分で、周太に英語を教えていたから、」
周太の父、馨は英文学者になる夢を持っていた。
けれど「ある事情」から警視庁の警察官になっている。この謎のすべてはまだ解けてはいない。
きっと馨は、本当は英文学を諦めたくなかった。それでも諦めざるを得ない状況に追い込まれている。
この哀しみは、息子にだけでも英語を教えることで少しは癒されただろうか?そんな想い佇んだ英二に国村が言ってくれた。
「おやじさん、息子に英語を教えられて、幸せだったろうね?きっとワーズワスも、好きだったんだろうな、」
同じように国村も感じている。
あの紺青色の日記帳を思い出しながら、英二は頷いた。
「うん、好きだったと思う。たぶん、オックスフォードにいた頃に読んでいた本なんだ、お父さんが子供時代に、」
…子供時代を過ごしたオックスフォード、あの時ふれた美しい豊かな文章たち。
その思い出と記憶が私を支え援けてくれた…私は日本人でも私の心を育てたのは英文学、だから知っている。
文章と想いには国境は無い、このことを私はオックスフォードの日々に教えられた…
あの美しい文章から自分が得たように、生きるにおける喜びと美しさを次の人々へ贈らせてほしい…
あのときは母を失った想いが辛く、日本に置いてきた祖母との別れも哀しかった。
けれどオックスフォードで出逢った文章たちが私を勇気づけ励まし、哀しみも受とめ豊かな心を贈ってくれた。母のように。
だからこうも想う、私にとっての「母」は英国の美しい文章たちだったのだと。
英国の文章を母にし、フランス文学者の父に愛されて、私の子供時代はオックスフォードに豊かな文学の時を過ごせた。
馨が遺した日記帳、最初のページに記された想いたち。
きっと、あの想いの最初が「William Wordsworth」だったのだろう。
だから馨は 『Wordsworth詩集』を捨てられなかった、そして幼い息子に伝えた。
他の英文学書すべてを捨て、英文学への夢を捨て去ってしまった後でも、最初の一冊は捨てられなかった。
その想いが切ない、想いのまま英二は切なさに微笑んだ。
「俺、周太を救いたいよ、国村?…周太のお父さんの夢を、すこしでも叶えたいんだ。周太を援けることで、」
輝くよう幸福な夢と才能にあふれていた、あの日記帳の最初のページ。
あの書き手の想いを少しでもかなえたい、この想い見つめる向うから透明なテノールが笑ってくれた。
「うん、きっと叶えられるよ?おまえならね、大丈夫、」
「ありがとう、」
誰かに大丈夫と言ってもらえるのは、温かい。
嬉しいなと笑った英二に、底抜けに明るい目が微笑んで言った。
「おまえの初モデル写真、こんど見せてね?モチロン嫌だ、なんて言わないよね。大和撫子の、媛・サ・マ?」
やっぱり格好の餌食を与えたらしい。
きっと「嫌だ」といったら、自分の過去は強請の種になるのだろうな?
困ったまま英二は、自分のアンザイレンパートナーに微笑んだ。
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21時になると馬場島派出所との定時交信を国村は始めた。
雪洞の入口から気象状態を報告し、互いに情報交換をしていく。
その内容を聴きながら英二は、空になった鍋を片づけた。ちょうど終わったとき無線を終えた国村が笑った。
「飯も食ったし、定時交信も終わったし、広げよっかね、」
機嫌良く言いながら国村はザックを開けている。
何を広げるのかなと見ている先で、見覚えのある大きい袋が取りだされた。
やっぱりこれを持って来たんだ?ちょっと笑った英二の前に、2Lサイズのシュラフが広がった。
―ちょっと、途惑う、かな?
こころ独り言つぶやきながら、すこしだけ首傾げこんでしまう。
あの雪原でのキスが、今夜この友人と一緒に寝ることを緊張させていく。
意識し過ぎなだけかなとも思うけれど、いま隠す途惑いも心にまでは隠せない。
どうしたらいいのかな?ぼんやり眺めていると、青いウェアの腕が英二を引っ張り込んでシュラフに座らせた。
「さあ、媛。今宵のお褥が出来ましたよ?」
「その名前、絶対に人前で呼ぶなよ?」
きっぱりと英二は断言した。
この名前を業界では覚えている人間が居るかもしれない、その可能性が怖い。
こんな懸念に向けた目線を、底抜けに明るい目が笑って受けとめた。
「当たり前だね、山の秘密に懸けて内緒の約束だ。それにさ、こんな可愛い呼び名、そう簡単に教えられないね、」
「そういうもんか?」
なんだか可笑しくて英二は笑ってしまった。
愉しげに一緒に笑いだしながら、国村は約束してくれた。
「そういうもんだね、山限定の呼び名にするよ。さ、媛サマ?お支度をいたしましょうね、」
可笑しそうに笑った国村は、がばり英二を組み伏せてシュラフに押倒した。
ひっくり返されて驚いていると、勝手に登山靴が脱がされていく。
「ちょっと、国村?それくらい自分でやるってば、」
「ご遠慮なく。媛の手を煩わせることはございませんよ、」
底抜けに明るい目が愉快に笑っている。
どうやら新しい悪ふざけとして「媛」が餌食になったらしい。
困りながら見ているうちに、脱がされた登山靴はきちんと袋に納められ、シュラフの中に入れられた。
もし靴が凍りつけば凍傷を招き、遭難にも繋がりかねない。その予防として靴が万が一にも凍らないようにしておく。
同じように自分の靴も仕舞いこむと国村は、さっさと英二の背中に抱きついてシュラフに潜りこんだ。
「さ、媛?私が添い寝いたしますから、安心してお休みくださいね、」
やっぱりこうなるんだな?
困りながらも可笑しくて英二は笑ってしまった。
「なあ?今夜はずっと、俺って『媛』なわけ?」
「俺が飽きるまでね、」
テノールの声が楽しげに答えて、英二の肩に白い顎が乗せられる。
雪白の頬を英二の頬にくっつけながら、国村は愉快に笑った。
「媛?今宵は私が、シッカリ温めて差上げますからね。熱い夜を、お過ごしくださいませ、」
「もう熱いから、遠慮するよ?」
笑って答えた英二を、愉しげな笑顔が覗きこんだ。
そして可笑しそうに笑いながら、白い指を英二のウェアの衿元に掛けた。
「あれ、熱いんだ?じゃ、遠慮なく、」
言いながら白い指が、ウェアのファスナーを引きおろした。
「ちょっ、国村?」
驚いた英二を悪戯っ子に細い目が笑う。
そして衿に手を掛けると、一挙に肩からウェアが脱がされた。
どういうつもりだろう?驚いているうちに国村は自身もウェアを脱いで、英二のものと纏めてシュラフに入れた。
「はい、これで熱くないよね?ちゃんとシュラフに仕舞ったから、朝は温いの着られるからね、」
無邪気に笑って、フリースの背中に抱きついてくる。
ほんとうに英二が熱いと思っただけらしい、すこし緊張ほどいた英二にテノールの声が笑った。
「アレ?いま、ほっとしただろ?おまえ、俺に襲われちゃうとでも思ったワケ?」
なんて答えたら良いのかな?
いつもなら簡単に答えを返せるのに、心に一瞬詰まってしまう。
ちょっと途方にくれそうな心に、ふっと周太からのメールが映りこんだ。
…想いのまま素直に山の時間を過ごしてください。
英二のすべてを信じているから、英二の応えかたは正しいと信じます。
身構えることなんか、必要ない。
メールがくれた想いとコンパスに心定めると、自然と微笑が零れてくれる。
ゆるやかな心のまま微笑んで、くるり寝返り打つと英二は国村に向かい合った。
「うん、ちょっと思ったよ?だって国村、昼間だって、いきなりキスしただろ?俺、驚いたんだからな、」
真直ぐに目を見て英二は笑いかけた。
見つめた細い目が微かに途惑って、けれど透明なテノールは応えてくれた。
「あそこでは俺、キスしたかったんだよね。…嫌、だった?」
No、そう言ってほしい。
そんな想いが細い目に切なく浮かび上がる。この眼差しに英二は3か月ほど前の記憶を見つめた。
― 御岳小橋のときの目だ
御岳小橋で発見された投身自殺。その遺体を英二だと思った国村は、心と言葉を喪うほどに衝撃を受けた。
あのとき国村は英二を失った悲嘆と、自分の初恋が英二を死に追い込んだと自責した。
そして純粋無垢な魂のままに、自分の心を壊してしまった。
国村は無言のまま岩崎の呼びかけにも反応しなくなった、瞳はただ真黒に一点を見つめ、蒼白の顔は人形のように固まっていた。
けれど英二の呼びかけに国村は戻った。底抜けに明るい瞳は笑い、透明なテノールの声で名前を呼んで、泣いてくれた。
―…ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺
なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ。おまえを失って絶望したんだ、俺は
率直に想いを言ってくれた目は、どうか離れないでと訴えてくれた。
ほんとうに、英二を失ったら心を壊すほど大切に想っている、そんな国村の想いが嬉しかった。
あのときの気持ちと今とは変わらない、素直に笑って英二は応えた。
「驚いたけど、嫌じゃなかったな?でも、途惑うよ、」
「途惑う?」
すこし意外そうに訊きかえしてくれる。
いつも心のまま正直に生きる無垢な国村からしたら、英二の途惑いは不思議かもしれない。
これも、そのまま言えばいい。笑って英二は応えた。
「うん、途惑ったよ?だってさ、いちばんの友達がキスしたら、何に変わるんだろう、って思ったんだ。
俺はね、いちばんの恋人は周太だろ?それなのに国村がキスして恋人になったら、国村は2番以下になってしまう。
それが哀しかった、国村にはさ?1番で唯ひとりの親友、って呼べる相手でいてほしいから。だから、2番以下になってほしくないんだ」
見つめる先で、ちいさな呼吸が桜色の唇からこぼれる。
無垢の瞳で英二を見つめてくれながら、透明なテノールが訊いた。
「俺、いまはもう、2番以下になった?それとも…1番の親友、ってポジションにいる?」
不安そうな揺らぎが声にある。
こんな国村は初めて見る、それが不思議な想いのまま英二は微笑んだ。
「いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、」
「よかった、俺、1番なんだね?」
安堵が雪白の貌に花のようほころんだ。
きれいな笑顔だな?思わず見惚れながら笑った英二に、白いフリース姿が抱きついた。
「キスくらいじゃ、俺たちは変わらないよね?そんな脆い関係じゃないよね?俺たち、…ずっと一緒だよね?」
小さな子の様に抱きついて、頬よせてくれる。
フリース越しの鼓動がすこし速くて、けれど温かい。
どこか大らかな想いのままに英二は、そっと背中を叩いてやりながら微笑んだ。
「うん、ずっと一緒だ。キスでも壊れないよ、俺たちは。お互いに、たった1人のザイルパートナー同士だ。他なんていない、」
「そうだよね?…宮田にも、俺しかいないよね?…俺、ほんとうに、おまえのことは、離したくないんだ…離れないでよ、」
頬を離し、間近くから無垢な瞳が真直ぐ見つめてくれる。
どうか離れないで?その想いが北鎌尾根で見つめた慟哭に重なって、英二の目の奥が熱くなった。
「離れないよ?唯一の親友だから。なにがあっても俺は、国村のザイルパートナーだよ。お前と一緒に、最高峰に登りたいんだ」
これが自分の素直な想い。
唯一無二の存在、親友でザイルパートナー。この大切な存在を離したくはない。
どうか笑っていてほしい、守っていきたい。想い微笑んだ英二を、無垢な瞳は見つめて微笑んだ。
「キス、して…いい?」
すこしだけ困ったよう英二の目が大きくなる。
それでも微笑んだまま見つめる想いの真中で、視線を結んだまま透明なテノールが微笑んだ。
「エデンのキス、したい…親友だけど、キス、したい。おまえとは、」
エデンのキスは「恋人」のキスだった。
それなのに「親友だけど、」と告げる想いが切なくさせられる。
ひとつ心に呼吸して、英二はきれいに笑いかけた。
「うん、いいよ?キスしよ、」
応えた向こう、無垢な瞳が瞠られる。
いま言ったことは本当なの?そんな問いかけを黒い瞳に浮かべながら、桜色の唇が開いた。
「…ほんとに、いい?」
「いいよ?」
笑顔のまま応えて、少し困りながらも穏かな想いは温かい。
いま凪いでいる心のまんま、自分は応えればいい。無垢の瞳と見つめあって英二は言葉を続けた。
「おまえ、言っていたよな?心を繋いだ相手と、体ふれ合ったことが無いって。
でも俺とくっつくと安心する、温かいって想えるって。無条件に許す安心があって信じられる、そう言ってくれたよな。
だからさ?俺とキスでふれあって、国村が幸せになれるんだったら、してもいいな、って思うんだけど。それじゃダメかな?」
率直に想いのままを告げていく。
こんな男同士で友達同士、キスでふれあうなんて変かもしれない。
けれど今はこれが自然に想えて、想いのままに英二は親友に笑いかけた。
「どうする?国村、キスする?」
「…うん、」
うなずいて気恥ずかしげに雪白の貌が笑ってくれる。
英二の肩に腕をまわして、瞳見つめて。そして透明なテノールが願った。
「俺のこと、今はさ、名前で呼んでくれる?…光一、って、呼んでほしいんだ、」
名前で呼ぶこと。
呼び方もすこし近づけて、体のふれあいをしたい。
どこかいつもと違うトーンの声、羞んだような笑顔、真直ぐで切ない瞳、なにもかも少しずつ「いつも」と違う。
これもきっと「山の秘密」なんだろうな?この想いに親友の瞳見つめ、きれいに英二は笑いかけた。
「光一?キス、しようか、」
呼ばれた名前に、幸せな笑顔が咲いてくれる。
そっと雪白の貌が近寄せられて、ゆるやかに長い睫は伏せられていく。
そうして桜色の唇ふれて、薄紅のキスに夜は惹きこまれた。
あまやかで清明な香が頬撫でて、花の馥郁が口移しされていく。
ふれるだけの温もりのキス、口づけのはざま零れこむ香が不思議で、どこか神秘を想わせられる。
やさしい温もりが唇ふれて撫でていく、艶やかな花びらふれるようなキスが重なっていく。
まるで花とキスするようで、けれど瞳開いたままの視界には大切な友人の貌が映っている。
この相手の貌とキスの感触に見惚れながら、惹きこまれている意識のなか自問した。
― どうして、頷けたのだろう?
どうして自分は、キスに頷けたのだろう?
受容れた自分が不思議で、けれど、いちばん自然だった。
いま重ねあう唇もしっくり馴染んで、おだやかな熱に心地よさがふれてくる。
こんなキスを周太以外とするなんて、考えたことがなかった。それでも自然と自分は肯えた。
そして今、唇のはざま吐息と想いがふれるままに自分は受けとめている。
…愛してる、好きだ、離れないでよ?
ふれる唇のむこう、想いがおくられてくる。
この想いに自分自身の想いが重なる部分もある、この重なりに応えたい。
キスのまま英二は微笑んで、光一の背中に掌を回すと穏やかに抱きしめた。
「…っ、」
キスのはざま、透明な吐息がこぼれた。
瞳開いたまま見つめている視界に、長い睫がすこし上げられる。
きれいな睫を透かす無垢の瞳が、英二を見つめて問いかけてくる。
…どうして抱きしめてくれる?
そんな問いかけを透明な目が告げる、けれど言葉の応えなんか解らない。
見つめる問いかけの目に微笑んで、そっと黒髪の頭を右掌に抱いた。
そのとき、光一の目から涙がこぼれおちた。
「…あ、」
こぼれる涙に、かすかに唇はなれて声がこぼれる。
こんなふうに泣いてくれる、こんな貌に切ないまま英二は唇を近寄せた。
ふたたび重ねたキスのむこう、微かな驚きと歓びのふるえが伝えられる。
そして躊躇いがちに、唇から熱が偲びこんでキスを甘くした。
…大好きだ、ふれるところで想いを交してよ?融けあいたい、
偲びこむ熱に想い連れられ、心、訪ないにキスで扉開かれる。
甘い熱が蕩かす蜜のようで、ふれる香も唇の感触もどこか花ふれていく。
そうしてキスふれる花の唇が、ふっと微笑みにほころんだ。
『いま、しあわせだ、』
微笑伝えられるキスに、目の前の睫から涙こぼれていく。
あふれ夜露ぬれるよう煌いていく、この幸せの雫を唇で拭い、また花のキスに唇ふれさせる。
花に口づけされるよう、そんなキスに繋がれたまま雪山の夜に微睡んだ。
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翌朝は晴れていた。
スノーシューで雪を踏みわけ下山していく、そのスピードが共に速い。
「宮田、すっかり馴れたね?」
「うん、先生が良いからさ、」
笑って話しながら、どんどん高度が下がっていく。
2時間ほどで馬場島派出所に到着すると、下山報告の挨拶をして山タンを返却した。
この山タンは遭難者の捜索用に携行させられるもので、受信機能しか付いていない。
「ようするにさ、遭難死の場合の、ってコトだもんね、あれ」
派出所を後にして歩きながら、からりテノールの声が笑っている。
こんなふうに、遭難死を想定するほど積雪期の剱岳は険しい。この実感を想いながら英二は微笑んだ。
「うん、本当に厳しい現場だな、」
「だな?条例も勧告もある、それでも遭難者が多いんだよね、ここは」
相槌を打って話す国村は、いつもどおりに明るい。
こんなふうに歩いていると昨夜の時間は、幻だったようにも思えてくる。
切ない甘い、花のようなキスに繋ぎ合った微睡みの時。
どこまでも無垢で真直ぐな想いが、大らかな強さのまま泣いていた。
泣きながら幸せに微笑んで、キスに全身と心の全てを繋いで幸福を見つめていた。
お互いの想いはすこし違くて、その違いが切なくて、けれど重なる想いの幸福だけを友人は見つめていた。
いま与えられる幸せを、心から歓び籠めて受けとろうとする、そんな無垢な想いが愛しかった。
そうしてキス繋いだままに目覚めた朝は、いつもどおりだった。
微睡みから覚めて、最後にキスを交わして、そして離れた瞬間から「いつも」になっていた。
けれど唇には花の香が、今もまだ遺されている。
― あれは「山の秘密」の時間だ、
山の秘密の時は、ありのまま。
ただ本物の想いと心だけが、隠さず見つめてくれる。
だから、どんなに夢のような不思議な時だったとしても、その夢すら真実だろう。
だから、自分があの時に抱いた想いは、きっと本音が映りこんでいる。
あの時間に山で、また逢うのだろうか?
雪洞で見つめた時を想いながら、英二は剱岳を振り返った。
遥かな山頂へ昇っていく早月尾根は、もう雪煙に染まりだしている。
さっきまで晴天だった剱岳は、今、吹雪を纏いだした。
「お、やっぱり吹雪になったね?さっさと下山して、正解だったな、」
隣を歩きながら、透明なテノールが元気に笑っている。
そんな様子を嬉しいと感じながら、英二は相槌に微笑んだ。
「そうだな。本当に、天候が不安定なんだな、」
「そ、だから晴天の登頂なんてね、ほんとラッキーだったんだよ、」
底抜けに明るい目も、早月尾根を見あげている。
あの吹雪まとう場所に自分たちは2時間前までいた。そして昨夜、あの場所で幻を見つめ合った。
この隣は今、あの尾根に何を見つめているだろう?
あの尾根に見た幻と、山の秘密は眠りにつく。
きっと山にはこんなふうに、たくさんの秘密が眠っている。
青と白の世界にめぐらす生と死を抱いて、想いと秘密を眠らせて、風雪が山を巻いていく。
純白の帳おろし人の視線を塞いでいく、氷雪に「秘密」護るよう天の剱が消えていく。
おだやかに見あげる想いの先、剱岳はブリザードの彼方に消えた。
消えた剱を慕うよう尾根奔る、白銀の竜が切なく、そして愛おしい。
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第43話 護標act.4―side story「陽はまた昇る」
雪洞を照らす蝋燭の灯りの、オレンジ色がやわらかい。
おだやかな空気のなかで、英二は10年間の秘密に口を開いた。
「俺ね、モデル、やっていたんだ」
細い目がちょっと大きくなって首傾げこんだ。
ひとつ瞬いて、テノールの声が笑って訊いてきた。
「ヌードモデル?」
どうしてそうなるんだろう?
いつもながらのエロオヤジ発想に、呆れながらも笑ってしまった。
「ちがうよ、服を着ている方のモデルだよ、」
「へえ?意外だね、」
なんで意外なんだろう?
たぶん国村なりの推理があるのだろう、英二は訊いてみた。
「どうして意外?」
「だってさ、ヌードモデルならソンナに顔が出ないだろ?だから秘密にしやすいよね、」
「あ、なるほど、」
それは気がつかなかったな?感心して英二は素直に笑った。
そんな英二の顔を見ながら酒を啜りこんで、国村はまた首傾げこんだ。
「でも、服着ている方のモデルだと、雑誌とかに載るってことだよね?でも秘密だった、ってさ?よくバレなかったな、おまえ、」
普通はそう考えるだろうな?
秘密を通せている理由に少し困りながら、部分的に事実を言った。
「かなりメイクするし、プロフィールも全部伏せてあったから、」
「よく伏せられたよね?それに、メイクしたって普通は解かるんじゃない?なによりさ、おまえの性格でよくモデルやったよな、」
なんか事情があるんだろ?そんなふうに細い目が温かに笑みながら訊いてくる。
やっぱり国村は理詰めで考えてくる、もう最初から話した方が良いだろう。
でも恥ずかしいなと思いながら、英二は微笑んだ。
「最初はね、頼まれたんだ」
「頼まれて、か。おまえらしいね?」
英二のコップに酒を注いで、細い目が温かに笑んでくれる。
自分の性格をよく理解してくれている、そんな安心感に自然と口は開かれた。
「家から少し行った所に、桜で有名な公園があるんだよ。花の時期は混むんだけど、静かな所にベンチがあってさ。
そこで俺、本を読むの好きだったんだ。その日も本読んでいて、声かけられて。困っているから、助けてくれって言われたんだ」
静かな桜の下のベンチは自分の特等席だった。けれど実家に帰らなくなってからは、一度も行っていない。
あのベンチは今でもあるのかな?懐かしい想いに微笑んだ英二に、テノールの声が訊いてくれた。
「助けてくれ、って何があったワケ?」
「モデルさんが急に来られなくなったんだ、車が渋滞に巻き込まれたらしい。それで俺にモデルをしてほしいって。でも俺、断ったんだ、」
「うん、おまえなら当然、断るだろね、」
そりゃそうだろう?そんな顔で頷いてくれる。
こんな理解が嬉しくて、英二も素直に頷いた。
「うん、嫌だったんだ、そういうの。でも偉いカメラマンを待たせていて、撮影の時間も限られているから、って言うんだ。
どうしても今すぐ撮影しないといけない、代わりのモデルがどうしても必要なんだ、って…その人、俺に一生懸命に頼んでくれて。
きちんとした仕立てのスーツ着た、30歳くらいの女の人がさ?泣きそうな顔で一生懸命に頭下げてくれて、放っておけなくなったんだ、」
「ソンナに頼まれたら、おまえなら断れないだろうな?で、引受けたんだ、」
「うん、」
頷いて酒をひとくち飲むと、ほっと息を吐いた。
あのときの困ったことを思い出しながら、英二は続けた。
「でも俺、中学生だったんだよ、」
「あ、それはマズいね?おまえ、私立だったろ?」
すぐに気づいて相槌を打ってくれる。
その通りに、ほんとうは「まずい」ことだった。
「そう、所謂お坊ちゃま学校でさ、バイトとか絶対禁止。それ以上に、両親に知られたら大変だったと思う。
だから俺、条件を出したんだ。俺がどこの誰なのか探らないこと、写真も俺だって解らないように出来るなら良いです、って。
そうしたら、絶対にプライバシーは守ると約束しますって言われてね。その場で一筆書いてもらって、受けとってからOKしたんだ」
あのときは驚いたけれど、それなりに冷静だった。
当時の自分にすこし感心した英二に、国村も感心気に笑いかけてくれた。
「一筆書いてもらうなんてさ、周到なオマエらしいね。それで、プロフィールは一切伏せられたんだ?」
「うん。もし俺の身元とかを調べれば、そちらにご迷惑がかかります。そういうふうに警告もしたんだ、ほんとのことだから、」
「だね。嫌がる中学生を、無理にモデルにした、なんてね?オヤジさんが知ったら、怖いことになるだろね、」
言わなくても国村は解かるんだな?
相変わらずの察しよい怜悧さが嬉しい、笑って英二は頷いた、」
「そう。きっと訴訟とかするよ?だから俺、事務所の人にも自分のこと、全部黙秘したんだ。それなら、知らなかった、で済むだろ?」
もし父が知ったなら、きっとモデル事務所を訴えるだろう。
父は弁護士資格を持って大企業の法務室を担う、ビジネス法務のプロフェッショナルでいる。
しかも外資系企業だから国際的に知人が多い、こうした情報網もバックボーンに訴訟すれば事務所を潰すくらい容易い。
それが一番怖いと自分でも思ったから、だから最初にはっきり言わせて貰った。
「黙秘することで、自分が責任を負ったんだ?おまえらしいね、中学の時から真面目堅物くんは変わらないんだな、」
「堅物で真面目は、根本的な性格だからね?」
笑って頷いて英二はコップに口付けた。
あまい香が喉を下りていく、ふわり抜ける芳香に微笑んで話しを続けた。
「それで俺は、撮影の待機場所になるテントに連れて行かれたんだ。そこでメイクと衣装をしてくれてさ?
名前とか、誰も訊かないでくれた。そして出来上がった俺はね、黒い振袖に赤い帯を締めた、長い黒髪の女の子になっていたんだよ、」
あのとき鏡を見た自分は、困ったけれど安心もした。
そんな記憶に笑った英二を、大きくなった細い目が見つめた。
「美少女モデルだった、ってことか?」
「うん、性別から違かったし、お蔭でね?俺が誰なのか、全く解からなくなってた、」
「そりゃ、誰だか解からなくなるね?さぞ美少女だったろな、いいね。で、どんな写真とカメラマンだったワケ?」
愉しそうに笑って底抜けに明るい目が見つめてくれる。
その目が前と少し違う雰囲気があるのは、きっと「恋人」のキスの所為だろう。
いつもどおり、けれど少しの変化を見つめながら英二は、記憶を話しだした。
「桜の下で女の子が佇んでいる、そんな写真だよ。カメラマンはイギリス人だった、40代くらいの男の人で。
帰国スケジュールがあるから、その時間しか撮影できなかったんだ。どうしても大和撫子を撮影したい、って希望だったらしい」
「なるほどね。それじゃ、どうしてもピンチヒッター欲しいよな。ポラとか貰ったんだろ?」
「うん、」
彼はポラロイドの試写を記念にプレゼントしてくれた。
自分だと思えない姿に驚きながらも、いい記念かなと思って素直に貰ってきてある。
あの写真を見たら、国村と周太はなんて言うんだろう?思いながら微笑んだ英二にテノールが笑った。
「でも、大和撫子の正体は、サムライだったんだ?で、彼は全く気づかなかったんだ?」
「気づかなかったよ。可笑しいよな、男が大和撫子だなんて。きっと今の俺を見たら、驚くんじゃないかな?」
大和撫子、このフレーズが当時も本音は困った。
今話を聴く友人も可笑しそうに笑いながら、けれど褒めてくれた。
「でも、宮田ならね?そりゃあ美少女で満足したんじゃないの、彼?」
「うん、だから困ったんだよ、」
そこから始まる困った話に、英二は口を開いた。
「そのカメラマンの人、世界で有名な人だったんだ。それで俺の写真で、なんか大きい賞を取っちゃったんだよ。
それもあって、俺を気に入ってくれてね?また撮影をしたい、って事務所にオファーを掛けてきたんだ。それで事務所の人は困って。
桜の時は、その場でバイト代もらって別れたし、もちろん連絡先教えなかったから。そしたら俺、またベンチのところで捕まったんだ、」
あのときは驚いたな?
もう10年前になる記憶に困って笑った英二に、テノールが可笑しそうに訊いてきた。
「事務所の人、ずっと待ち伏せしていた、ってコト?」
「うん、オファーが来てから毎日、誰かしら見に来ていたみたいでさ。いつもどおりベンチに座って本開いたら、捕まった、」
「で、また美少女に化けて、例のカメラマンに写真撮られたんだ?」
それだけで終わらなかった。
10年前のまま困った顔になって、英二は微笑んだ。
「写真撮って、カメラマン本人から契約書を差し出されたよ。彼の専属モデルをやる、っていうね、」
「ふっ、」
感心と呆れがハーフになった顔が、おかしそうに噴出した。
ほら、やっぱり笑われた。仕方ないと思いながら英二は、肚を括って話しだした。
「そこの事務所の人達がね、自分のところのモデルだ、って苦し紛れで、彼に嘘をついていたんだ。
それで必死に俺のこと、探していたらしい。そのときも俺、また1度きりだと思って行ったから、もちろん専属のことは断った。
そうしたらね?このカメラマンの機嫌を損ねたら、事務所の存続にかかわります、路頭に迷います、お願いしますって、頭下げられて。
もう必死で、皆さんに一生懸命お願いされて。だから俺は条件だしたんだ。この間も言ったように、全て秘密で通してくれるなら、って。
だから契約書は芸名でのサインだけ、あとは連絡とれるように事務所名義の携帯を預った。で、俺は彼の専属モデルになったんだよ、」
ひと息に話して、英二はコップに口をつけた。
馥郁と甘い香にほっと息をついて落着くと、10年間の秘密を話したことが不思議に思えてくる。
まだ中学生から始めて、モデルのような派手な仕事、それも女装だった。
こんなことは、とても自分には人に言えない。
まして父が知ってしまったら訴訟騒ぎになるだろうし、息子を愛玩していた母の反応は想像するのも怖い。
もう一生内緒にしようと思っていた、それを話せる相手がいることは幸運かもしれない。
そんな相手は同じようにコップの酒を呑みこんで、英二に尋ねてきた。
「世界の巨匠の専属か、なるほどね。ソレじゃあ高額ギャラで、貯金も出来るワケだ。で?おまえの芸名ってなんだったの?」
これは本当に言いたくないんだけど。
そう思いながらも、もう全部ぶちまけたくなって、英二は口を開いた。
「『媛』、」
ひとつ瞬く間があって、テノールの声が尋ねた。
「princesse、の姫?」
「そうだよ。カメラマンが俺を、そう呼んだから」
最初の撮影の時から彼は「ヒメ、」「princess、」と英二を呼んできた。
まだ声変わりの前だったし、きっと彼は本気で女性だと思っていたのだろう。
今までの人生で「困った事ベスト3」に入る記憶に、友人は容赦なく質問をした。
「カメラマンが、宮田を、姫って呼んだから、それが芸名になった、ってこと?」
「そうだよ、救援の援と旁が同じ方の、『媛』だけどね、」
応えた英二を、底抜けに明るい目が見つめてくる。
その目を愉快に笑ませると、テノールは笑い声をあげた。
「あはははっ!『媛』、」
透明な笑い声が、蝋燭照らす雪洞に響いた。
「なるほどね、媛、か?あはははっ。世界の巨匠の専属美少女、大和撫子モデルには、ピッタリだね?へえ、彼もねえ?
ははっ、彼、『媛』って呼んじゃうくらい、おまえの美貌に跪いちゃたんだ?この俺と好みが同じだなんて、お目が高いね?あははっ」
やっぱり笑われた。
だから尚更に秘密にしたかったのにな?困りながら英二は友人に微笑んだ。
「そんなに笑うなよ。ほんと恥ずかしいんだから、俺、」
「恥ずかしがるなよ?世界に誇れる大和撫子の代表なんだからさ、おまえはね?はははっ、俺のパートナーは撫子媛だったんだね、」
ご機嫌なテノールが雪洞に響きわたっていく。
誰もいないところで話してよかったな、その点では安堵しながら英二は諦め半分で言った。
「そんなに笑ってもらえて、光栄だよ?」
「ふっ、大いに光栄がれよ?こんなに俺が、大笑いするのも珍しいんだからね、あはははははっ、」
底抜けに明るい目が愉快で堪らないと言っている。
きっと今は何を言っても無駄だろうな?英二は困りながら鍋の具合を見、椀によそった。
熱い椀を大笑いしている前に置いて、自分の分もよそうと英二は黙々食べだした。
「うん、旨いな、」
熱い味噌味のスープが、寒い空気に1日いた体に沁みていく。
雪山では温度だけでも充分ご馳走になる、そのうえ国村は味付けのセンスが良い。
味噌仕立ての鳥鍋を楽しみながら酒を呑んでいると、ようやく笑いを納めたテノールが訊いてきた。
「でも大和撫子なんてね、そりゃあ欧米人のハートを掴んだろ?おまえ、大人気だったんじゃないの?」
ほら、気づかれた。
この洞察力と論理力の鋭い同僚に、半分自棄で英二は自白した。
「そうだよ。俺の写真は、アメリカとかヨーロッパの雑誌を飾ってるよ、」
「だから日本では、あまり知られないで済んだ、ってワケか。でも、逆輸入もあっただろ?」
「みたいだな。でも俺、自分の写真がどこに載ったとか、よく知らない。興味なかったし、」
「おまえらしいね?で、いつまでモデルやって、どうやって辞めた?」
「大学2年まで。もう勉強と就職に専念したかったし、20歳になって男っぽくなってきたから、って言った、」
あの頃までは中性的な雰囲気が強かったと、自分でも思う。
懐かしい困った記憶に微笑んだ英二に、国村が笑いかけた。
「よく20歳まで、男だってばれなかったな。カメラマンは、ずっと宮田は女の子だって思ってたんだろ?おまえ、声と身長はどうだった?」
「うん。もちろん声は途中から低くなったけど、ハスキーヴォイスだと思われていたんだ。咽仏も20歳まではあまり無かったし。
身長は日本人では高いけれど、海外の女性モデルは同じくらいあるだろ?それで、イギリス人から見ると不自然はなかったらしい、」
「そっか。外人だから、海外規格で見て来るもんな?で、この経験のお蔭で宮田、キングスイングリッシュが得意なんだ、」
なぜ国村が知っているのだろう?
青梅署で英語を使ったことは今のところ殆どない、不思議に思って英二は訊いてみた。
「なぜ国村、俺の英語のこと知ってるんだ?」
「周太が言っていたんだよね。ワーズワスを綺麗なキングスイングリッシュで読んでもらって、楽しかった。って、」
馨の命日の夜のことだ。
おだやかな幸せの記憶に英二は微笑んだ。
「あのとき周太が教えてくれたんだ。お父さんは、ワーズワスを使って周太に英語を教えていたらしい。
だから周太、キングスイングリッシュの発音を良く知っているんだ。お父さんが自分で、周太に英語を教えていたから、」
周太の父、馨は英文学者になる夢を持っていた。
けれど「ある事情」から警視庁の警察官になっている。この謎のすべてはまだ解けてはいない。
きっと馨は、本当は英文学を諦めたくなかった。それでも諦めざるを得ない状況に追い込まれている。
この哀しみは、息子にだけでも英語を教えることで少しは癒されただろうか?そんな想い佇んだ英二に国村が言ってくれた。
「おやじさん、息子に英語を教えられて、幸せだったろうね?きっとワーズワスも、好きだったんだろうな、」
同じように国村も感じている。
あの紺青色の日記帳を思い出しながら、英二は頷いた。
「うん、好きだったと思う。たぶん、オックスフォードにいた頃に読んでいた本なんだ、お父さんが子供時代に、」
…子供時代を過ごしたオックスフォード、あの時ふれた美しい豊かな文章たち。
その思い出と記憶が私を支え援けてくれた…私は日本人でも私の心を育てたのは英文学、だから知っている。
文章と想いには国境は無い、このことを私はオックスフォードの日々に教えられた…
あの美しい文章から自分が得たように、生きるにおける喜びと美しさを次の人々へ贈らせてほしい…
あのときは母を失った想いが辛く、日本に置いてきた祖母との別れも哀しかった。
けれどオックスフォードで出逢った文章たちが私を勇気づけ励まし、哀しみも受とめ豊かな心を贈ってくれた。母のように。
だからこうも想う、私にとっての「母」は英国の美しい文章たちだったのだと。
英国の文章を母にし、フランス文学者の父に愛されて、私の子供時代はオックスフォードに豊かな文学の時を過ごせた。
馨が遺した日記帳、最初のページに記された想いたち。
きっと、あの想いの最初が「William Wordsworth」だったのだろう。
だから馨は 『Wordsworth詩集』を捨てられなかった、そして幼い息子に伝えた。
他の英文学書すべてを捨て、英文学への夢を捨て去ってしまった後でも、最初の一冊は捨てられなかった。
その想いが切ない、想いのまま英二は切なさに微笑んだ。
「俺、周太を救いたいよ、国村?…周太のお父さんの夢を、すこしでも叶えたいんだ。周太を援けることで、」
輝くよう幸福な夢と才能にあふれていた、あの日記帳の最初のページ。
あの書き手の想いを少しでもかなえたい、この想い見つめる向うから透明なテノールが笑ってくれた。
「うん、きっと叶えられるよ?おまえならね、大丈夫、」
「ありがとう、」
誰かに大丈夫と言ってもらえるのは、温かい。
嬉しいなと笑った英二に、底抜けに明るい目が微笑んで言った。
「おまえの初モデル写真、こんど見せてね?モチロン嫌だ、なんて言わないよね。大和撫子の、媛・サ・マ?」
やっぱり格好の餌食を与えたらしい。
きっと「嫌だ」といったら、自分の過去は強請の種になるのだろうな?
困ったまま英二は、自分のアンザイレンパートナーに微笑んだ。
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21時になると馬場島派出所との定時交信を国村は始めた。
雪洞の入口から気象状態を報告し、互いに情報交換をしていく。
その内容を聴きながら英二は、空になった鍋を片づけた。ちょうど終わったとき無線を終えた国村が笑った。
「飯も食ったし、定時交信も終わったし、広げよっかね、」
機嫌良く言いながら国村はザックを開けている。
何を広げるのかなと見ている先で、見覚えのある大きい袋が取りだされた。
やっぱりこれを持って来たんだ?ちょっと笑った英二の前に、2Lサイズのシュラフが広がった。
―ちょっと、途惑う、かな?
こころ独り言つぶやきながら、すこしだけ首傾げこんでしまう。
あの雪原でのキスが、今夜この友人と一緒に寝ることを緊張させていく。
意識し過ぎなだけかなとも思うけれど、いま隠す途惑いも心にまでは隠せない。
どうしたらいいのかな?ぼんやり眺めていると、青いウェアの腕が英二を引っ張り込んでシュラフに座らせた。
「さあ、媛。今宵のお褥が出来ましたよ?」
「その名前、絶対に人前で呼ぶなよ?」
きっぱりと英二は断言した。
この名前を業界では覚えている人間が居るかもしれない、その可能性が怖い。
こんな懸念に向けた目線を、底抜けに明るい目が笑って受けとめた。
「当たり前だね、山の秘密に懸けて内緒の約束だ。それにさ、こんな可愛い呼び名、そう簡単に教えられないね、」
「そういうもんか?」
なんだか可笑しくて英二は笑ってしまった。
愉しげに一緒に笑いだしながら、国村は約束してくれた。
「そういうもんだね、山限定の呼び名にするよ。さ、媛サマ?お支度をいたしましょうね、」
可笑しそうに笑った国村は、がばり英二を組み伏せてシュラフに押倒した。
ひっくり返されて驚いていると、勝手に登山靴が脱がされていく。
「ちょっと、国村?それくらい自分でやるってば、」
「ご遠慮なく。媛の手を煩わせることはございませんよ、」
底抜けに明るい目が愉快に笑っている。
どうやら新しい悪ふざけとして「媛」が餌食になったらしい。
困りながら見ているうちに、脱がされた登山靴はきちんと袋に納められ、シュラフの中に入れられた。
もし靴が凍りつけば凍傷を招き、遭難にも繋がりかねない。その予防として靴が万が一にも凍らないようにしておく。
同じように自分の靴も仕舞いこむと国村は、さっさと英二の背中に抱きついてシュラフに潜りこんだ。
「さ、媛?私が添い寝いたしますから、安心してお休みくださいね、」
やっぱりこうなるんだな?
困りながらも可笑しくて英二は笑ってしまった。
「なあ?今夜はずっと、俺って『媛』なわけ?」
「俺が飽きるまでね、」
テノールの声が楽しげに答えて、英二の肩に白い顎が乗せられる。
雪白の頬を英二の頬にくっつけながら、国村は愉快に笑った。
「媛?今宵は私が、シッカリ温めて差上げますからね。熱い夜を、お過ごしくださいませ、」
「もう熱いから、遠慮するよ?」
笑って答えた英二を、愉しげな笑顔が覗きこんだ。
そして可笑しそうに笑いながら、白い指を英二のウェアの衿元に掛けた。
「あれ、熱いんだ?じゃ、遠慮なく、」
言いながら白い指が、ウェアのファスナーを引きおろした。
「ちょっ、国村?」
驚いた英二を悪戯っ子に細い目が笑う。
そして衿に手を掛けると、一挙に肩からウェアが脱がされた。
どういうつもりだろう?驚いているうちに国村は自身もウェアを脱いで、英二のものと纏めてシュラフに入れた。
「はい、これで熱くないよね?ちゃんとシュラフに仕舞ったから、朝は温いの着られるからね、」
無邪気に笑って、フリースの背中に抱きついてくる。
ほんとうに英二が熱いと思っただけらしい、すこし緊張ほどいた英二にテノールの声が笑った。
「アレ?いま、ほっとしただろ?おまえ、俺に襲われちゃうとでも思ったワケ?」
なんて答えたら良いのかな?
いつもなら簡単に答えを返せるのに、心に一瞬詰まってしまう。
ちょっと途方にくれそうな心に、ふっと周太からのメールが映りこんだ。
…想いのまま素直に山の時間を過ごしてください。
英二のすべてを信じているから、英二の応えかたは正しいと信じます。
身構えることなんか、必要ない。
メールがくれた想いとコンパスに心定めると、自然と微笑が零れてくれる。
ゆるやかな心のまま微笑んで、くるり寝返り打つと英二は国村に向かい合った。
「うん、ちょっと思ったよ?だって国村、昼間だって、いきなりキスしただろ?俺、驚いたんだからな、」
真直ぐに目を見て英二は笑いかけた。
見つめた細い目が微かに途惑って、けれど透明なテノールは応えてくれた。
「あそこでは俺、キスしたかったんだよね。…嫌、だった?」
No、そう言ってほしい。
そんな想いが細い目に切なく浮かび上がる。この眼差しに英二は3か月ほど前の記憶を見つめた。
― 御岳小橋のときの目だ
御岳小橋で発見された投身自殺。その遺体を英二だと思った国村は、心と言葉を喪うほどに衝撃を受けた。
あのとき国村は英二を失った悲嘆と、自分の初恋が英二を死に追い込んだと自責した。
そして純粋無垢な魂のままに、自分の心を壊してしまった。
国村は無言のまま岩崎の呼びかけにも反応しなくなった、瞳はただ真黒に一点を見つめ、蒼白の顔は人形のように固まっていた。
けれど英二の呼びかけに国村は戻った。底抜けに明るい瞳は笑い、透明なテノールの声で名前を呼んで、泣いてくれた。
―…ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺
なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ。おまえを失って絶望したんだ、俺は
率直に想いを言ってくれた目は、どうか離れないでと訴えてくれた。
ほんとうに、英二を失ったら心を壊すほど大切に想っている、そんな国村の想いが嬉しかった。
あのときの気持ちと今とは変わらない、素直に笑って英二は応えた。
「驚いたけど、嫌じゃなかったな?でも、途惑うよ、」
「途惑う?」
すこし意外そうに訊きかえしてくれる。
いつも心のまま正直に生きる無垢な国村からしたら、英二の途惑いは不思議かもしれない。
これも、そのまま言えばいい。笑って英二は応えた。
「うん、途惑ったよ?だってさ、いちばんの友達がキスしたら、何に変わるんだろう、って思ったんだ。
俺はね、いちばんの恋人は周太だろ?それなのに国村がキスして恋人になったら、国村は2番以下になってしまう。
それが哀しかった、国村にはさ?1番で唯ひとりの親友、って呼べる相手でいてほしいから。だから、2番以下になってほしくないんだ」
見つめる先で、ちいさな呼吸が桜色の唇からこぼれる。
無垢の瞳で英二を見つめてくれながら、透明なテノールが訊いた。
「俺、いまはもう、2番以下になった?それとも…1番の親友、ってポジションにいる?」
不安そうな揺らぎが声にある。
こんな国村は初めて見る、それが不思議な想いのまま英二は微笑んだ。
「いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、」
「よかった、俺、1番なんだね?」
安堵が雪白の貌に花のようほころんだ。
きれいな笑顔だな?思わず見惚れながら笑った英二に、白いフリース姿が抱きついた。
「キスくらいじゃ、俺たちは変わらないよね?そんな脆い関係じゃないよね?俺たち、…ずっと一緒だよね?」
小さな子の様に抱きついて、頬よせてくれる。
フリース越しの鼓動がすこし速くて、けれど温かい。
どこか大らかな想いのままに英二は、そっと背中を叩いてやりながら微笑んだ。
「うん、ずっと一緒だ。キスでも壊れないよ、俺たちは。お互いに、たった1人のザイルパートナー同士だ。他なんていない、」
「そうだよね?…宮田にも、俺しかいないよね?…俺、ほんとうに、おまえのことは、離したくないんだ…離れないでよ、」
頬を離し、間近くから無垢な瞳が真直ぐ見つめてくれる。
どうか離れないで?その想いが北鎌尾根で見つめた慟哭に重なって、英二の目の奥が熱くなった。
「離れないよ?唯一の親友だから。なにがあっても俺は、国村のザイルパートナーだよ。お前と一緒に、最高峰に登りたいんだ」
これが自分の素直な想い。
唯一無二の存在、親友でザイルパートナー。この大切な存在を離したくはない。
どうか笑っていてほしい、守っていきたい。想い微笑んだ英二を、無垢な瞳は見つめて微笑んだ。
「キス、して…いい?」
すこしだけ困ったよう英二の目が大きくなる。
それでも微笑んだまま見つめる想いの真中で、視線を結んだまま透明なテノールが微笑んだ。
「エデンのキス、したい…親友だけど、キス、したい。おまえとは、」
エデンのキスは「恋人」のキスだった。
それなのに「親友だけど、」と告げる想いが切なくさせられる。
ひとつ心に呼吸して、英二はきれいに笑いかけた。
「うん、いいよ?キスしよ、」
応えた向こう、無垢な瞳が瞠られる。
いま言ったことは本当なの?そんな問いかけを黒い瞳に浮かべながら、桜色の唇が開いた。
「…ほんとに、いい?」
「いいよ?」
笑顔のまま応えて、少し困りながらも穏かな想いは温かい。
いま凪いでいる心のまんま、自分は応えればいい。無垢の瞳と見つめあって英二は言葉を続けた。
「おまえ、言っていたよな?心を繋いだ相手と、体ふれ合ったことが無いって。
でも俺とくっつくと安心する、温かいって想えるって。無条件に許す安心があって信じられる、そう言ってくれたよな。
だからさ?俺とキスでふれあって、国村が幸せになれるんだったら、してもいいな、って思うんだけど。それじゃダメかな?」
率直に想いのままを告げていく。
こんな男同士で友達同士、キスでふれあうなんて変かもしれない。
けれど今はこれが自然に想えて、想いのままに英二は親友に笑いかけた。
「どうする?国村、キスする?」
「…うん、」
うなずいて気恥ずかしげに雪白の貌が笑ってくれる。
英二の肩に腕をまわして、瞳見つめて。そして透明なテノールが願った。
「俺のこと、今はさ、名前で呼んでくれる?…光一、って、呼んでほしいんだ、」
名前で呼ぶこと。
呼び方もすこし近づけて、体のふれあいをしたい。
どこかいつもと違うトーンの声、羞んだような笑顔、真直ぐで切ない瞳、なにもかも少しずつ「いつも」と違う。
これもきっと「山の秘密」なんだろうな?この想いに親友の瞳見つめ、きれいに英二は笑いかけた。
「光一?キス、しようか、」
呼ばれた名前に、幸せな笑顔が咲いてくれる。
そっと雪白の貌が近寄せられて、ゆるやかに長い睫は伏せられていく。
そうして桜色の唇ふれて、薄紅のキスに夜は惹きこまれた。
あまやかで清明な香が頬撫でて、花の馥郁が口移しされていく。
ふれるだけの温もりのキス、口づけのはざま零れこむ香が不思議で、どこか神秘を想わせられる。
やさしい温もりが唇ふれて撫でていく、艶やかな花びらふれるようなキスが重なっていく。
まるで花とキスするようで、けれど瞳開いたままの視界には大切な友人の貌が映っている。
この相手の貌とキスの感触に見惚れながら、惹きこまれている意識のなか自問した。
― どうして、頷けたのだろう?
どうして自分は、キスに頷けたのだろう?
受容れた自分が不思議で、けれど、いちばん自然だった。
いま重ねあう唇もしっくり馴染んで、おだやかな熱に心地よさがふれてくる。
こんなキスを周太以外とするなんて、考えたことがなかった。それでも自然と自分は肯えた。
そして今、唇のはざま吐息と想いがふれるままに自分は受けとめている。
…愛してる、好きだ、離れないでよ?
ふれる唇のむこう、想いがおくられてくる。
この想いに自分自身の想いが重なる部分もある、この重なりに応えたい。
キスのまま英二は微笑んで、光一の背中に掌を回すと穏やかに抱きしめた。
「…っ、」
キスのはざま、透明な吐息がこぼれた。
瞳開いたまま見つめている視界に、長い睫がすこし上げられる。
きれいな睫を透かす無垢の瞳が、英二を見つめて問いかけてくる。
…どうして抱きしめてくれる?
そんな問いかけを透明な目が告げる、けれど言葉の応えなんか解らない。
見つめる問いかけの目に微笑んで、そっと黒髪の頭を右掌に抱いた。
そのとき、光一の目から涙がこぼれおちた。
「…あ、」
こぼれる涙に、かすかに唇はなれて声がこぼれる。
こんなふうに泣いてくれる、こんな貌に切ないまま英二は唇を近寄せた。
ふたたび重ねたキスのむこう、微かな驚きと歓びのふるえが伝えられる。
そして躊躇いがちに、唇から熱が偲びこんでキスを甘くした。
…大好きだ、ふれるところで想いを交してよ?融けあいたい、
偲びこむ熱に想い連れられ、心、訪ないにキスで扉開かれる。
甘い熱が蕩かす蜜のようで、ふれる香も唇の感触もどこか花ふれていく。
そうしてキスふれる花の唇が、ふっと微笑みにほころんだ。
『いま、しあわせだ、』
微笑伝えられるキスに、目の前の睫から涙こぼれていく。
あふれ夜露ぬれるよう煌いていく、この幸せの雫を唇で拭い、また花のキスに唇ふれさせる。
花に口づけされるよう、そんなキスに繋がれたまま雪山の夜に微睡んだ。
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翌朝は晴れていた。
スノーシューで雪を踏みわけ下山していく、そのスピードが共に速い。
「宮田、すっかり馴れたね?」
「うん、先生が良いからさ、」
笑って話しながら、どんどん高度が下がっていく。
2時間ほどで馬場島派出所に到着すると、下山報告の挨拶をして山タンを返却した。
この山タンは遭難者の捜索用に携行させられるもので、受信機能しか付いていない。
「ようするにさ、遭難死の場合の、ってコトだもんね、あれ」
派出所を後にして歩きながら、からりテノールの声が笑っている。
こんなふうに、遭難死を想定するほど積雪期の剱岳は険しい。この実感を想いながら英二は微笑んだ。
「うん、本当に厳しい現場だな、」
「だな?条例も勧告もある、それでも遭難者が多いんだよね、ここは」
相槌を打って話す国村は、いつもどおりに明るい。
こんなふうに歩いていると昨夜の時間は、幻だったようにも思えてくる。
切ない甘い、花のようなキスに繋ぎ合った微睡みの時。
どこまでも無垢で真直ぐな想いが、大らかな強さのまま泣いていた。
泣きながら幸せに微笑んで、キスに全身と心の全てを繋いで幸福を見つめていた。
お互いの想いはすこし違くて、その違いが切なくて、けれど重なる想いの幸福だけを友人は見つめていた。
いま与えられる幸せを、心から歓び籠めて受けとろうとする、そんな無垢な想いが愛しかった。
そうしてキス繋いだままに目覚めた朝は、いつもどおりだった。
微睡みから覚めて、最後にキスを交わして、そして離れた瞬間から「いつも」になっていた。
けれど唇には花の香が、今もまだ遺されている。
― あれは「山の秘密」の時間だ、
山の秘密の時は、ありのまま。
ただ本物の想いと心だけが、隠さず見つめてくれる。
だから、どんなに夢のような不思議な時だったとしても、その夢すら真実だろう。
だから、自分があの時に抱いた想いは、きっと本音が映りこんでいる。
あの時間に山で、また逢うのだろうか?
雪洞で見つめた時を想いながら、英二は剱岳を振り返った。
遥かな山頂へ昇っていく早月尾根は、もう雪煙に染まりだしている。
さっきまで晴天だった剱岳は、今、吹雪を纏いだした。
「お、やっぱり吹雪になったね?さっさと下山して、正解だったな、」
隣を歩きながら、透明なテノールが元気に笑っている。
そんな様子を嬉しいと感じながら、英二は相槌に微笑んだ。
「そうだな。本当に、天候が不安定なんだな、」
「そ、だから晴天の登頂なんてね、ほんとラッキーだったんだよ、」
底抜けに明るい目も、早月尾根を見あげている。
あの吹雪まとう場所に自分たちは2時間前までいた。そして昨夜、あの場所で幻を見つめ合った。
この隣は今、あの尾根に何を見つめているだろう?
あの尾根に見た幻と、山の秘密は眠りにつく。
きっと山にはこんなふうに、たくさんの秘密が眠っている。
青と白の世界にめぐらす生と死を抱いて、想いと秘密を眠らせて、風雪が山を巻いていく。
純白の帳おろし人の視線を塞いでいく、氷雪に「秘密」護るよう天の剱が消えていく。
おだやかに見あげる想いの先、剱岳はブリザードの彼方に消えた。
消えた剱を慕うよう尾根奔る、白銀の竜が切なく、そして愛おしい。
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