萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第43話 護標act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-05-25 23:59:59 | 陽はまた昇るside story
繋がる一本の線 護り、眠れるもの 



第43話 護標act.4―side story「陽はまた昇る」

雪洞を照らす蝋燭の灯りの、オレンジ色がやわらかい。
おだやかな空気のなかで、英二は10年間の秘密に口を開いた。

「俺ね、モデル、やっていたんだ」

細い目がちょっと大きくなって首傾げこんだ。
ひとつ瞬いて、テノールの声が笑って訊いてきた。

「ヌードモデル?」

どうしてそうなるんだろう?
いつもながらのエロオヤジ発想に、呆れながらも笑ってしまった。

「ちがうよ、服を着ている方のモデルだよ、」
「へえ?意外だね、」

なんで意外なんだろう?
たぶん国村なりの推理があるのだろう、英二は訊いてみた。

「どうして意外?」
「だってさ、ヌードモデルならソンナに顔が出ないだろ?だから秘密にしやすいよね、」
「あ、なるほど、」

それは気がつかなかったな?感心して英二は素直に笑った。
そんな英二の顔を見ながら酒を啜りこんで、国村はまた首傾げこんだ。

「でも、服着ている方のモデルだと、雑誌とかに載るってことだよね?でも秘密だった、ってさ?よくバレなかったな、おまえ、」

普通はそう考えるだろうな?
秘密を通せている理由に少し困りながら、部分的に事実を言った。

「かなりメイクするし、プロフィールも全部伏せてあったから、」
「よく伏せられたよね?それに、メイクしたって普通は解かるんじゃない?なによりさ、おまえの性格でよくモデルやったよな、」

なんか事情があるんだろ?そんなふうに細い目が温かに笑みながら訊いてくる。
やっぱり国村は理詰めで考えてくる、もう最初から話した方が良いだろう。
でも恥ずかしいなと思いながら、英二は微笑んだ。

「最初はね、頼まれたんだ」
「頼まれて、か。おまえらしいね?」

英二のコップに酒を注いで、細い目が温かに笑んでくれる。
自分の性格をよく理解してくれている、そんな安心感に自然と口は開かれた。

「家から少し行った所に、桜で有名な公園があるんだよ。花の時期は混むんだけど、静かな所にベンチがあってさ。
そこで俺、本を読むの好きだったんだ。その日も本読んでいて、声かけられて。困っているから、助けてくれって言われたんだ」

静かな桜の下のベンチは自分の特等席だった。けれど実家に帰らなくなってからは、一度も行っていない。
あのベンチは今でもあるのかな?懐かしい想いに微笑んだ英二に、テノールの声が訊いてくれた。

「助けてくれ、って何があったワケ?」
「モデルさんが急に来られなくなったんだ、車が渋滞に巻き込まれたらしい。それで俺にモデルをしてほしいって。でも俺、断ったんだ、」
「うん、おまえなら当然、断るだろね、」

そりゃそうだろう?そんな顔で頷いてくれる。
こんな理解が嬉しくて、英二も素直に頷いた。

「うん、嫌だったんだ、そういうの。でも偉いカメラマンを待たせていて、撮影の時間も限られているから、って言うんだ。
どうしても今すぐ撮影しないといけない、代わりのモデルがどうしても必要なんだ、って…その人、俺に一生懸命に頼んでくれて。
きちんとした仕立てのスーツ着た、30歳くらいの女の人がさ?泣きそうな顔で一生懸命に頭下げてくれて、放っておけなくなったんだ、」

「ソンナに頼まれたら、おまえなら断れないだろうな?で、引受けたんだ、」
「うん、」

頷いて酒をひとくち飲むと、ほっと息を吐いた。
あのときの困ったことを思い出しながら、英二は続けた。

「でも俺、中学生だったんだよ、」
「あ、それはマズいね?おまえ、私立だったろ?」

すぐに気づいて相槌を打ってくれる。
その通りに、ほんとうは「まずい」ことだった。

「そう、所謂お坊ちゃま学校でさ、バイトとか絶対禁止。それ以上に、両親に知られたら大変だったと思う。
だから俺、条件を出したんだ。俺がどこの誰なのか探らないこと、写真も俺だって解らないように出来るなら良いです、って。
そうしたら、絶対にプライバシーは守ると約束しますって言われてね。その場で一筆書いてもらって、受けとってからOKしたんだ」

あのときは驚いたけれど、それなりに冷静だった。
当時の自分にすこし感心した英二に、国村も感心気に笑いかけてくれた。

「一筆書いてもらうなんてさ、周到なオマエらしいね。それで、プロフィールは一切伏せられたんだ?」
「うん。もし俺の身元とかを調べれば、そちらにご迷惑がかかります。そういうふうに警告もしたんだ、ほんとのことだから、」
「だね。嫌がる中学生を、無理にモデルにした、なんてね?オヤジさんが知ったら、怖いことになるだろね、」

言わなくても国村は解かるんだな?
相変わらずの察しよい怜悧さが嬉しい、笑って英二は頷いた、」

「そう。きっと訴訟とかするよ?だから俺、事務所の人にも自分のこと、全部黙秘したんだ。それなら、知らなかった、で済むだろ?」

もし父が知ったなら、きっとモデル事務所を訴えるだろう。
父は弁護士資格を持って大企業の法務室を担う、ビジネス法務のプロフェッショナルでいる。
しかも外資系企業だから国際的に知人が多い、こうした情報網もバックボーンに訴訟すれば事務所を潰すくらい容易い。
それが一番怖いと自分でも思ったから、だから最初にはっきり言わせて貰った。

「黙秘することで、自分が責任を負ったんだ?おまえらしいね、中学の時から真面目堅物くんは変わらないんだな、」
「堅物で真面目は、根本的な性格だからね?」

笑って頷いて英二はコップに口付けた。
あまい香が喉を下りていく、ふわり抜ける芳香に微笑んで話しを続けた。

「それで俺は、撮影の待機場所になるテントに連れて行かれたんだ。そこでメイクと衣装をしてくれてさ?
名前とか、誰も訊かないでくれた。そして出来上がった俺はね、黒い振袖に赤い帯を締めた、長い黒髪の女の子になっていたんだよ、」

あのとき鏡を見た自分は、困ったけれど安心もした。
そんな記憶に笑った英二を、大きくなった細い目が見つめた。

「美少女モデルだった、ってことか?」
「うん、性別から違かったし、お蔭でね?俺が誰なのか、全く解からなくなってた、」
「そりゃ、誰だか解からなくなるね?さぞ美少女だったろな、いいね。で、どんな写真とカメラマンだったワケ?」

愉しそうに笑って底抜けに明るい目が見つめてくれる。
その目が前と少し違う雰囲気があるのは、きっと「恋人」のキスの所為だろう。
いつもどおり、けれど少しの変化を見つめながら英二は、記憶を話しだした。

「桜の下で女の子が佇んでいる、そんな写真だよ。カメラマンはイギリス人だった、40代くらいの男の人で。
帰国スケジュールがあるから、その時間しか撮影できなかったんだ。どうしても大和撫子を撮影したい、って希望だったらしい」

「なるほどね。それじゃ、どうしてもピンチヒッター欲しいよな。ポラとか貰ったんだろ?」
「うん、」

彼はポラロイドの試写を記念にプレゼントしてくれた。
自分だと思えない姿に驚きながらも、いい記念かなと思って素直に貰ってきてある。
あの写真を見たら、国村と周太はなんて言うんだろう?思いながら微笑んだ英二にテノールが笑った。

「でも、大和撫子の正体は、サムライだったんだ?で、彼は全く気づかなかったんだ?」
「気づかなかったよ。可笑しいよな、男が大和撫子だなんて。きっと今の俺を見たら、驚くんじゃないかな?」

大和撫子、このフレーズが当時も本音は困った。
今話を聴く友人も可笑しそうに笑いながら、けれど褒めてくれた。

「でも、宮田ならね?そりゃあ美少女で満足したんじゃないの、彼?」
「うん、だから困ったんだよ、」

そこから始まる困った話に、英二は口を開いた。

「そのカメラマンの人、世界で有名な人だったんだ。それで俺の写真で、なんか大きい賞を取っちゃったんだよ。
それもあって、俺を気に入ってくれてね?また撮影をしたい、って事務所にオファーを掛けてきたんだ。それで事務所の人は困って。
桜の時は、その場でバイト代もらって別れたし、もちろん連絡先教えなかったから。そしたら俺、またベンチのところで捕まったんだ、」

あのときは驚いたな?
もう10年前になる記憶に困って笑った英二に、テノールが可笑しそうに訊いてきた。

「事務所の人、ずっと待ち伏せしていた、ってコト?」
「うん、オファーが来てから毎日、誰かしら見に来ていたみたいでさ。いつもどおりベンチに座って本開いたら、捕まった、」
「で、また美少女に化けて、例のカメラマンに写真撮られたんだ?」

それだけで終わらなかった。
10年前のまま困った顔になって、英二は微笑んだ。

「写真撮って、カメラマン本人から契約書を差し出されたよ。彼の専属モデルをやる、っていうね、」
「ふっ、」

感心と呆れがハーフになった顔が、おかしそうに噴出した。
ほら、やっぱり笑われた。仕方ないと思いながら英二は、肚を括って話しだした。

「そこの事務所の人達がね、自分のところのモデルだ、って苦し紛れで、彼に嘘をついていたんだ。
それで必死に俺のこと、探していたらしい。そのときも俺、また1度きりだと思って行ったから、もちろん専属のことは断った。
そうしたらね?このカメラマンの機嫌を損ねたら、事務所の存続にかかわります、路頭に迷います、お願いしますって、頭下げられて。
もう必死で、皆さんに一生懸命お願いされて。だから俺は条件だしたんだ。この間も言ったように、全て秘密で通してくれるなら、って。
だから契約書は芸名でのサインだけ、あとは連絡とれるように事務所名義の携帯を預った。で、俺は彼の専属モデルになったんだよ、」

ひと息に話して、英二はコップに口をつけた。
馥郁と甘い香にほっと息をついて落着くと、10年間の秘密を話したことが不思議に思えてくる。
まだ中学生から始めて、モデルのような派手な仕事、それも女装だった。
こんなことは、とても自分には人に言えない。
まして父が知ってしまったら訴訟騒ぎになるだろうし、息子を愛玩していた母の反応は想像するのも怖い。
もう一生内緒にしようと思っていた、それを話せる相手がいることは幸運かもしれない。
そんな相手は同じようにコップの酒を呑みこんで、英二に尋ねてきた。

「世界の巨匠の専属か、なるほどね。ソレじゃあ高額ギャラで、貯金も出来るワケだ。で?おまえの芸名ってなんだったの?」

これは本当に言いたくないんだけど。
そう思いながらも、もう全部ぶちまけたくなって、英二は口を開いた。

「『媛』、」

ひとつ瞬く間があって、テノールの声が尋ねた。

「princesse、の姫?」
「そうだよ。カメラマンが俺を、そう呼んだから」

最初の撮影の時から彼は「ヒメ、」「princess、」と英二を呼んできた。
まだ声変わりの前だったし、きっと彼は本気で女性だと思っていたのだろう。
今までの人生で「困った事ベスト3」に入る記憶に、友人は容赦なく質問をした。

「カメラマンが、宮田を、姫って呼んだから、それが芸名になった、ってこと?」
「そうだよ、救援の援と旁が同じ方の、『媛』だけどね、」

応えた英二を、底抜けに明るい目が見つめてくる。
その目を愉快に笑ませると、テノールは笑い声をあげた。

「あはははっ!『媛』、」

透明な笑い声が、蝋燭照らす雪洞に響いた。

「なるほどね、媛、か?あはははっ。世界の巨匠の専属美少女、大和撫子モデルには、ピッタリだね?へえ、彼もねえ?
ははっ、彼、『媛』って呼んじゃうくらい、おまえの美貌に跪いちゃたんだ?この俺と好みが同じだなんて、お目が高いね?あははっ」

やっぱり笑われた。
だから尚更に秘密にしたかったのにな?困りながら英二は友人に微笑んだ。

「そんなに笑うなよ。ほんと恥ずかしいんだから、俺、」
「恥ずかしがるなよ?世界に誇れる大和撫子の代表なんだからさ、おまえはね?はははっ、俺のパートナーは撫子媛だったんだね、」

ご機嫌なテノールが雪洞に響きわたっていく。
誰もいないところで話してよかったな、その点では安堵しながら英二は諦め半分で言った。

「そんなに笑ってもらえて、光栄だよ?」
「ふっ、大いに光栄がれよ?こんなに俺が、大笑いするのも珍しいんだからね、あはははははっ、」

底抜けに明るい目が愉快で堪らないと言っている。
きっと今は何を言っても無駄だろうな?英二は困りながら鍋の具合を見、椀によそった。
熱い椀を大笑いしている前に置いて、自分の分もよそうと英二は黙々食べだした。

「うん、旨いな、」

熱い味噌味のスープが、寒い空気に1日いた体に沁みていく。
雪山では温度だけでも充分ご馳走になる、そのうえ国村は味付けのセンスが良い。
味噌仕立ての鳥鍋を楽しみながら酒を呑んでいると、ようやく笑いを納めたテノールが訊いてきた。

「でも大和撫子なんてね、そりゃあ欧米人のハートを掴んだろ?おまえ、大人気だったんじゃないの?」

ほら、気づかれた。
この洞察力と論理力の鋭い同僚に、半分自棄で英二は自白した。

「そうだよ。俺の写真は、アメリカとかヨーロッパの雑誌を飾ってるよ、」
「だから日本では、あまり知られないで済んだ、ってワケか。でも、逆輸入もあっただろ?」
「みたいだな。でも俺、自分の写真がどこに載ったとか、よく知らない。興味なかったし、」
「おまえらしいね?で、いつまでモデルやって、どうやって辞めた?」
「大学2年まで。もう勉強と就職に専念したかったし、20歳になって男っぽくなってきたから、って言った、」

あの頃までは中性的な雰囲気が強かったと、自分でも思う。
懐かしい困った記憶に微笑んだ英二に、国村が笑いかけた。

「よく20歳まで、男だってばれなかったな。カメラマンは、ずっと宮田は女の子だって思ってたんだろ?おまえ、声と身長はどうだった?」

「うん。もちろん声は途中から低くなったけど、ハスキーヴォイスだと思われていたんだ。咽仏も20歳まではあまり無かったし。
身長は日本人では高いけれど、海外の女性モデルは同じくらいあるだろ?それで、イギリス人から見ると不自然はなかったらしい、」

「そっか。外人だから、海外規格で見て来るもんな?で、この経験のお蔭で宮田、キングスイングリッシュが得意なんだ、」

なぜ国村が知っているのだろう?
青梅署で英語を使ったことは今のところ殆どない、不思議に思って英二は訊いてみた。

「なぜ国村、俺の英語のこと知ってるんだ?」
「周太が言っていたんだよね。ワーズワスを綺麗なキングスイングリッシュで読んでもらって、楽しかった。って、」

馨の命日の夜のことだ。
おだやかな幸せの記憶に英二は微笑んだ。

「あのとき周太が教えてくれたんだ。お父さんは、ワーズワスを使って周太に英語を教えていたらしい。
だから周太、キングスイングリッシュの発音を良く知っているんだ。お父さんが自分で、周太に英語を教えていたから、」

周太の父、馨は英文学者になる夢を持っていた。
けれど「ある事情」から警視庁の警察官になっている。この謎のすべてはまだ解けてはいない。
きっと馨は、本当は英文学を諦めたくなかった。それでも諦めざるを得ない状況に追い込まれている。
この哀しみは、息子にだけでも英語を教えることで少しは癒されただろうか?そんな想い佇んだ英二に国村が言ってくれた。

「おやじさん、息子に英語を教えられて、幸せだったろうね?きっとワーズワスも、好きだったんだろうな、」

同じように国村も感じている。
あの紺青色の日記帳を思い出しながら、英二は頷いた。

「うん、好きだったと思う。たぶん、オックスフォードにいた頃に読んでいた本なんだ、お父さんが子供時代に、」

…子供時代を過ごしたオックスフォード、あの時ふれた美しい豊かな文章たち。
 その思い出と記憶が私を支え援けてくれた…私は日本人でも私の心を育てたのは英文学、だから知っている。
 文章と想いには国境は無い、このことを私はオックスフォードの日々に教えられた…
 あの美しい文章から自分が得たように、生きるにおける喜びと美しさを次の人々へ贈らせてほしい…
 あのときは母を失った想いが辛く、日本に置いてきた祖母との別れも哀しかった。
 けれどオックスフォードで出逢った文章たちが私を勇気づけ励まし、哀しみも受とめ豊かな心を贈ってくれた。母のように。
 だからこうも想う、私にとっての「母」は英国の美しい文章たちだったのだと。
 英国の文章を母にし、フランス文学者の父に愛されて、私の子供時代はオックスフォードに豊かな文学の時を過ごせた。

馨が遺した日記帳、最初のページに記された想いたち。
きっと、あの想いの最初が「William Wordsworth」だったのだろう。
だから馨は 『Wordsworth詩集』を捨てられなかった、そして幼い息子に伝えた。
他の英文学書すべてを捨て、英文学への夢を捨て去ってしまった後でも、最初の一冊は捨てられなかった。
その想いが切ない、想いのまま英二は切なさに微笑んだ。

「俺、周太を救いたいよ、国村?…周太のお父さんの夢を、すこしでも叶えたいんだ。周太を援けることで、」

輝くよう幸福な夢と才能にあふれていた、あの日記帳の最初のページ。
あの書き手の想いを少しでもかなえたい、この想い見つめる向うから透明なテノールが笑ってくれた。

「うん、きっと叶えられるよ?おまえならね、大丈夫、」
「ありがとう、」

誰かに大丈夫と言ってもらえるのは、温かい。
嬉しいなと笑った英二に、底抜けに明るい目が微笑んで言った。

「おまえの初モデル写真、こんど見せてね?モチロン嫌だ、なんて言わないよね。大和撫子の、媛・サ・マ?」

やっぱり格好の餌食を与えたらしい。
きっと「嫌だ」といったら、自分の過去は強請の種になるのだろうな?
困ったまま英二は、自分のアンザイレンパートナーに微笑んだ。



21時になると馬場島派出所との定時交信を国村は始めた。
雪洞の入口から気象状態を報告し、互いに情報交換をしていく。
その内容を聴きながら英二は、空になった鍋を片づけた。ちょうど終わったとき無線を終えた国村が笑った。

「飯も食ったし、定時交信も終わったし、広げよっかね、」

機嫌良く言いながら国村はザックを開けている。
何を広げるのかなと見ている先で、見覚えのある大きい袋が取りだされた。
やっぱりこれを持って来たんだ?ちょっと笑った英二の前に、2Lサイズのシュラフが広がった。

―ちょっと、途惑う、かな?

こころ独り言つぶやきながら、すこしだけ首傾げこんでしまう。
あの雪原でのキスが、今夜この友人と一緒に寝ることを緊張させていく。
意識し過ぎなだけかなとも思うけれど、いま隠す途惑いも心にまでは隠せない。
どうしたらいいのかな?ぼんやり眺めていると、青いウェアの腕が英二を引っ張り込んでシュラフに座らせた。

「さあ、媛。今宵のお褥が出来ましたよ?」
「その名前、絶対に人前で呼ぶなよ?」

きっぱりと英二は断言した。
この名前を業界では覚えている人間が居るかもしれない、その可能性が怖い。
こんな懸念に向けた目線を、底抜けに明るい目が笑って受けとめた。

「当たり前だね、山の秘密に懸けて内緒の約束だ。それにさ、こんな可愛い呼び名、そう簡単に教えられないね、」
「そういうもんか?」

なんだか可笑しくて英二は笑ってしまった。
愉しげに一緒に笑いだしながら、国村は約束してくれた。

「そういうもんだね、山限定の呼び名にするよ。さ、媛サマ?お支度をいたしましょうね、」

可笑しそうに笑った国村は、がばり英二を組み伏せてシュラフに押倒した。
ひっくり返されて驚いていると、勝手に登山靴が脱がされていく。

「ちょっと、国村?それくらい自分でやるってば、」
「ご遠慮なく。媛の手を煩わせることはございませんよ、」

底抜けに明るい目が愉快に笑っている。
どうやら新しい悪ふざけとして「媛」が餌食になったらしい。
困りながら見ているうちに、脱がされた登山靴はきちんと袋に納められ、シュラフの中に入れられた。
もし靴が凍りつけば凍傷を招き、遭難にも繋がりかねない。その予防として靴が万が一にも凍らないようにしておく。
同じように自分の靴も仕舞いこむと国村は、さっさと英二の背中に抱きついてシュラフに潜りこんだ。

「さ、媛?私が添い寝いたしますから、安心してお休みくださいね、」

やっぱりこうなるんだな?
困りながらも可笑しくて英二は笑ってしまった。

「なあ?今夜はずっと、俺って『媛』なわけ?」
「俺が飽きるまでね、」

テノールの声が楽しげに答えて、英二の肩に白い顎が乗せられる。
雪白の頬を英二の頬にくっつけながら、国村は愉快に笑った。

「媛?今宵は私が、シッカリ温めて差上げますからね。熱い夜を、お過ごしくださいませ、」
「もう熱いから、遠慮するよ?」

笑って答えた英二を、愉しげな笑顔が覗きこんだ。
そして可笑しそうに笑いながら、白い指を英二のウェアの衿元に掛けた。

「あれ、熱いんだ?じゃ、遠慮なく、」

言いながら白い指が、ウェアのファスナーを引きおろした。

「ちょっ、国村?」

驚いた英二を悪戯っ子に細い目が笑う。
そして衿に手を掛けると、一挙に肩からウェアが脱がされた。
どういうつもりだろう?驚いているうちに国村は自身もウェアを脱いで、英二のものと纏めてシュラフに入れた。

「はい、これで熱くないよね?ちゃんとシュラフに仕舞ったから、朝は温いの着られるからね、」

無邪気に笑って、フリースの背中に抱きついてくる。
ほんとうに英二が熱いと思っただけらしい、すこし緊張ほどいた英二にテノールの声が笑った。

「アレ?いま、ほっとしただろ?おまえ、俺に襲われちゃうとでも思ったワケ?」

なんて答えたら良いのかな?
いつもなら簡単に答えを返せるのに、心に一瞬詰まってしまう。
ちょっと途方にくれそうな心に、ふっと周太からのメールが映りこんだ。

 …想いのまま素直に山の時間を過ごしてください。
  英二のすべてを信じているから、英二の応えかたは正しいと信じます。
    
身構えることなんか、必要ない。
メールがくれた想いとコンパスに心定めると、自然と微笑が零れてくれる。
ゆるやかな心のまま微笑んで、くるり寝返り打つと英二は国村に向かい合った。

「うん、ちょっと思ったよ?だって国村、昼間だって、いきなりキスしただろ?俺、驚いたんだからな、」

真直ぐに目を見て英二は笑いかけた。
見つめた細い目が微かに途惑って、けれど透明なテノールは応えてくれた。

「あそこでは俺、キスしたかったんだよね。…嫌、だった?」

No、そう言ってほしい。
そんな想いが細い目に切なく浮かび上がる。この眼差しに英二は3か月ほど前の記憶を見つめた。

― 御岳小橋のときの目だ

御岳小橋で発見された投身自殺。その遺体を英二だと思った国村は、心と言葉を喪うほどに衝撃を受けた。
あのとき国村は英二を失った悲嘆と、自分の初恋が英二を死に追い込んだと自責した。
そして純粋無垢な魂のままに、自分の心を壊してしまった。
国村は無言のまま岩崎の呼びかけにも反応しなくなった、瞳はただ真黒に一点を見つめ、蒼白の顔は人形のように固まっていた。
けれど英二の呼びかけに国村は戻った。底抜けに明るい瞳は笑い、透明なテノールの声で名前を呼んで、泣いてくれた。

―…ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺
  なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ。おまえを失って絶望したんだ、俺は
 
率直に想いを言ってくれた目は、どうか離れないでと訴えてくれた。
ほんとうに、英二を失ったら心を壊すほど大切に想っている、そんな国村の想いが嬉しかった。
あのときの気持ちと今とは変わらない、素直に笑って英二は応えた。

「驚いたけど、嫌じゃなかったな?でも、途惑うよ、」
「途惑う?」

すこし意外そうに訊きかえしてくれる。
いつも心のまま正直に生きる無垢な国村からしたら、英二の途惑いは不思議かもしれない。
これも、そのまま言えばいい。笑って英二は応えた。

「うん、途惑ったよ?だってさ、いちばんの友達がキスしたら、何に変わるんだろう、って思ったんだ。
俺はね、いちばんの恋人は周太だろ?それなのに国村がキスして恋人になったら、国村は2番以下になってしまう。
それが哀しかった、国村にはさ?1番で唯ひとりの親友、って呼べる相手でいてほしいから。だから、2番以下になってほしくないんだ」

見つめる先で、ちいさな呼吸が桜色の唇からこぼれる。
無垢の瞳で英二を見つめてくれながら、透明なテノールが訊いた。

「俺、いまはもう、2番以下になった?それとも…1番の親友、ってポジションにいる?」

不安そうな揺らぎが声にある。
こんな国村は初めて見る、それが不思議な想いのまま英二は微笑んだ。

「いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、」
「よかった、俺、1番なんだね?」

安堵が雪白の貌に花のようほころんだ。
きれいな笑顔だな?思わず見惚れながら笑った英二に、白いフリース姿が抱きついた。

「キスくらいじゃ、俺たちは変わらないよね?そんな脆い関係じゃないよね?俺たち、…ずっと一緒だよね?」

小さな子の様に抱きついて、頬よせてくれる。
フリース越しの鼓動がすこし速くて、けれど温かい。
どこか大らかな想いのままに英二は、そっと背中を叩いてやりながら微笑んだ。

「うん、ずっと一緒だ。キスでも壊れないよ、俺たちは。お互いに、たった1人のザイルパートナー同士だ。他なんていない、」
「そうだよね?…宮田にも、俺しかいないよね?…俺、ほんとうに、おまえのことは、離したくないんだ…離れないでよ、」

頬を離し、間近くから無垢な瞳が真直ぐ見つめてくれる。
どうか離れないで?その想いが北鎌尾根で見つめた慟哭に重なって、英二の目の奥が熱くなった。

「離れないよ?唯一の親友だから。なにがあっても俺は、国村のザイルパートナーだよ。お前と一緒に、最高峰に登りたいんだ」

これが自分の素直な想い。
唯一無二の存在、親友でザイルパートナー。この大切な存在を離したくはない。
どうか笑っていてほしい、守っていきたい。想い微笑んだ英二を、無垢な瞳は見つめて微笑んだ。

「キス、して…いい?」

すこしだけ困ったよう英二の目が大きくなる。
それでも微笑んだまま見つめる想いの真中で、視線を結んだまま透明なテノールが微笑んだ。

「エデンのキス、したい…親友だけど、キス、したい。おまえとは、」

エデンのキスは「恋人」のキスだった。
それなのに「親友だけど、」と告げる想いが切なくさせられる。
ひとつ心に呼吸して、英二はきれいに笑いかけた。

「うん、いいよ?キスしよ、」

応えた向こう、無垢な瞳が瞠られる。
いま言ったことは本当なの?そんな問いかけを黒い瞳に浮かべながら、桜色の唇が開いた。

「…ほんとに、いい?」
「いいよ?」

笑顔のまま応えて、少し困りながらも穏かな想いは温かい。
いま凪いでいる心のまんま、自分は応えればいい。無垢の瞳と見つめあって英二は言葉を続けた。

「おまえ、言っていたよな?心を繋いだ相手と、体ふれ合ったことが無いって。
でも俺とくっつくと安心する、温かいって想えるって。無条件に許す安心があって信じられる、そう言ってくれたよな。
だからさ?俺とキスでふれあって、国村が幸せになれるんだったら、してもいいな、って思うんだけど。それじゃダメかな?」

率直に想いのままを告げていく。
こんな男同士で友達同士、キスでふれあうなんて変かもしれない。
けれど今はこれが自然に想えて、想いのままに英二は親友に笑いかけた。

「どうする?国村、キスする?」
「…うん、」

うなずいて気恥ずかしげに雪白の貌が笑ってくれる。
英二の肩に腕をまわして、瞳見つめて。そして透明なテノールが願った。

「俺のこと、今はさ、名前で呼んでくれる?…光一、って、呼んでほしいんだ、」

名前で呼ぶこと。
呼び方もすこし近づけて、体のふれあいをしたい。
どこかいつもと違うトーンの声、羞んだような笑顔、真直ぐで切ない瞳、なにもかも少しずつ「いつも」と違う。
これもきっと「山の秘密」なんだろうな?この想いに親友の瞳見つめ、きれいに英二は笑いかけた。

「光一?キス、しようか、」

呼ばれた名前に、幸せな笑顔が咲いてくれる。
そっと雪白の貌が近寄せられて、ゆるやかに長い睫は伏せられていく。
そうして桜色の唇ふれて、薄紅のキスに夜は惹きこまれた。

あまやかで清明な香が頬撫でて、花の馥郁が口移しされていく。
ふれるだけの温もりのキス、口づけのはざま零れこむ香が不思議で、どこか神秘を想わせられる。
やさしい温もりが唇ふれて撫でていく、艶やかな花びらふれるようなキスが重なっていく。
まるで花とキスするようで、けれど瞳開いたままの視界には大切な友人の貌が映っている。
この相手の貌とキスの感触に見惚れながら、惹きこまれている意識のなか自問した。

― どうして、頷けたのだろう?

どうして自分は、キスに頷けたのだろう?
受容れた自分が不思議で、けれど、いちばん自然だった。
いま重ねあう唇もしっくり馴染んで、おだやかな熱に心地よさがふれてくる。
こんなキスを周太以外とするなんて、考えたことがなかった。それでも自然と自分は肯えた。
そして今、唇のはざま吐息と想いがふれるままに自分は受けとめている。

…愛してる、好きだ、離れないでよ?

ふれる唇のむこう、想いがおくられてくる。
この想いに自分自身の想いが重なる部分もある、この重なりに応えたい。
キスのまま英二は微笑んで、光一の背中に掌を回すと穏やかに抱きしめた。

「…っ、」

キスのはざま、透明な吐息がこぼれた。
瞳開いたまま見つめている視界に、長い睫がすこし上げられる。
きれいな睫を透かす無垢の瞳が、英二を見つめて問いかけてくる。

…どうして抱きしめてくれる?

そんな問いかけを透明な目が告げる、けれど言葉の応えなんか解らない。
見つめる問いかけの目に微笑んで、そっと黒髪の頭を右掌に抱いた。
そのとき、光一の目から涙がこぼれおちた。

「…あ、」

こぼれる涙に、かすかに唇はなれて声がこぼれる。
こんなふうに泣いてくれる、こんな貌に切ないまま英二は唇を近寄せた。
ふたたび重ねたキスのむこう、微かな驚きと歓びのふるえが伝えられる。
そして躊躇いがちに、唇から熱が偲びこんでキスを甘くした。

…大好きだ、ふれるところで想いを交してよ?融けあいたい、

偲びこむ熱に想い連れられ、心、訪ないにキスで扉開かれる。
甘い熱が蕩かす蜜のようで、ふれる香も唇の感触もどこか花ふれていく。
そうしてキスふれる花の唇が、ふっと微笑みにほころんだ。

 『いま、しあわせだ、』

微笑伝えられるキスに、目の前の睫から涙こぼれていく。
あふれ夜露ぬれるよう煌いていく、この幸せの雫を唇で拭い、また花のキスに唇ふれさせる。
花に口づけされるよう、そんなキスに繋がれたまま雪山の夜に微睡んだ。



翌朝は晴れていた。
スノーシューで雪を踏みわけ下山していく、そのスピードが共に速い。

「宮田、すっかり馴れたね?」
「うん、先生が良いからさ、」

笑って話しながら、どんどん高度が下がっていく。
2時間ほどで馬場島派出所に到着すると、下山報告の挨拶をして山タンを返却した。
この山タンは遭難者の捜索用に携行させられるもので、受信機能しか付いていない。

「ようするにさ、遭難死の場合の、ってコトだもんね、あれ」

派出所を後にして歩きながら、からりテノールの声が笑っている。
こんなふうに、遭難死を想定するほど積雪期の剱岳は険しい。この実感を想いながら英二は微笑んだ。

「うん、本当に厳しい現場だな、」
「だな?条例も勧告もある、それでも遭難者が多いんだよね、ここは」

相槌を打って話す国村は、いつもどおりに明るい。
こんなふうに歩いていると昨夜の時間は、幻だったようにも思えてくる。

切ない甘い、花のようなキスに繋ぎ合った微睡みの時。
どこまでも無垢で真直ぐな想いが、大らかな強さのまま泣いていた。
泣きながら幸せに微笑んで、キスに全身と心の全てを繋いで幸福を見つめていた。
お互いの想いはすこし違くて、その違いが切なくて、けれど重なる想いの幸福だけを友人は見つめていた。
いま与えられる幸せを、心から歓び籠めて受けとろうとする、そんな無垢な想いが愛しかった。

そうしてキス繋いだままに目覚めた朝は、いつもどおりだった。
微睡みから覚めて、最後にキスを交わして、そして離れた瞬間から「いつも」になっていた。
けれど唇には花の香が、今もまだ遺されている。

― あれは「山の秘密」の時間だ、

山の秘密の時は、ありのまま。
ただ本物の想いと心だけが、隠さず見つめてくれる。
だから、どんなに夢のような不思議な時だったとしても、その夢すら真実だろう。
だから、自分があの時に抱いた想いは、きっと本音が映りこんでいる。

あの時間に山で、また逢うのだろうか?

雪洞で見つめた時を想いながら、英二は剱岳を振り返った。
遥かな山頂へ昇っていく早月尾根は、もう雪煙に染まりだしている。
さっきまで晴天だった剱岳は、今、吹雪を纏いだした。

「お、やっぱり吹雪になったね?さっさと下山して、正解だったな、」

隣を歩きながら、透明なテノールが元気に笑っている。
そんな様子を嬉しいと感じながら、英二は相槌に微笑んだ。

「そうだな。本当に、天候が不安定なんだな、」
「そ、だから晴天の登頂なんてね、ほんとラッキーだったんだよ、」

底抜けに明るい目も、早月尾根を見あげている。
あの吹雪まとう場所に自分たちは2時間前までいた。そして昨夜、あの場所で幻を見つめ合った。
この隣は今、あの尾根に何を見つめているだろう?

あの尾根に見た幻と、山の秘密は眠りにつく。
きっと山にはこんなふうに、たくさんの秘密が眠っている。
青と白の世界にめぐらす生と死を抱いて、想いと秘密を眠らせて、風雪が山を巻いていく。
純白の帳おろし人の視線を塞いでいく、氷雪に「秘密」護るよう天の剱が消えていく。

おだやかに見あげる想いの先、剱岳はブリザードの彼方に消えた。
消えた剱を慕うよう尾根奔る、白銀の竜が切なく、そして愛おしい。




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