萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第44話 峰桜act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-05-28 23:48:56 | 陽はまた昇るside story
想い、この記憶に祝福を、



第44話 峰桜act.1―side story「陽はまた昇る」

花霞かかる渓谷は、雪解けの水豊かに流れていく。
滔々と碧なす雪代を視界の端に見ながら、英二は白い自転車を走らせた。
きつめの坂登らすペダルも軽くなった、こんなところからも月日の積み重ねが感じられる。
卒業配置された最初の頃は本音大変だった、けれどこれもトレーニングになると思うと楽しめた。
そうして積んだ日々のお蔭で今は、容易く急坂も登っていける。

卒配の秋から七か月、今は春。いま走り抜ける頭上を時折、薄紅色の翳がさす。
この奥多摩にも桜花さく季節がやってきた、そして今日は大切なひとが奥多摩に会いに来てくれる。
きっと、もう着いているだろうな?
そんな予想と一緒に滝本駅に着くと、淡いブルーのウェア姿がふり向いてくれた。

「英二、」

大好きな笑顔が名前を呼んでくれる。
嬉しい想いに手を挙げた先には、もうひとりの大切なひとが微笑んだ。

「おはよう、英二くん、」

穏かで快活な黒目がちの瞳が笑ってくれる。
この笑顔に、この場所で会えたことが嬉しい。想い素直に英二はきれいに笑った。

「おはようございます、お母さん、周太。遅れてすみません、」

いつもの場所に自転車を停めると、英二は頭を下げた。
そんな英二の姿を見、うれしそうに周太の母が笑ってくれた。

「こっちこそ、お仕事の合間に御免なさいね?」
「すみません、今日明日とも仕事だなんて、」

いま御岳駐在所長の岩崎が雪山訓練で谷川岳に入っている。
そのため英二と国村は連続勤務の期間となり、これが終わる明日夜からはまた自分たちが訓練に入る。
こんまふうに、特に山のキャリアが浅い英二は、今シーズンは集中して訓練するため休暇が難しい。

―でも、お母さんの案内は、俺が全部したかったな?

仕方ないと思いながらも、残念になってしまう。
せっかくの彼女の14年ぶりの登山だから、本当は自分が全てつきあいたい。
それでも巡回コースだけでも一緒に歩けるのは良かったかな、考えながら英二は今日の説明をした。

「電話でも話した通りです、大岳山の山頂までは俺がご一緒しますね。そこからは、後藤副隊長が案内してくれます。
副隊長は最高の名ガイドですし、ご自身も楽しみにしていて。でも、俺がお誘いしたのに、途中までだなんて。本当にすみません」

後藤副隊長は皇族などVIPが登山に訪れる時は、必ず指名される名ガイド兼護衛官でいる。
だから誰に任せるより安心で、なにより副隊長自身が旧友の家族を案内したいと願い出てくれた。
きっと一番いい方法になっていると思う、それでも自分が言い出したことを最後まで出来ないのは悔しい。
そんな想いに複雑でいる英二に、彼女は愉しげに笑ってくれた。

「後藤さんのガイド楽しみよ?英二くんと一緒できないのは残念だけど、救助隊英二くんが見られて良かったわ、かっこいいね?」

こんなふうに彼女は「これで良かったな」と笑ってくれる。
こういう明るい考え方が、親戚もなく一人きりでも息子と家を守り抜いた強さになったのだろう。
こんな彼女だからこそ、心から尊敬し愛してしまう。嬉しい想い素直に英二は微笑んだ。

「ありがとうございます、なんか恥ずかしいですね?」

スカイブルーの冬隊服で笑いながら、英二はザックからアイゼンを出した。
登山道の入口から既に雪が見えている、ここから履いて貰った方が危険が無くて良いだろう。
自分の分と、ふたりの分を取りだすと周太が笑いかけてくれた。

「英二、俺、自分で履いてみるね?あとでチェックしてくれる?」
「うん、いいよ。お母さん、お手伝いしますね、」

周太にアイゼンを渡しながら英二は彼女をふり向いた。
けれど青紫色のウェア姿の彼女は、愉しげに言ってくれた。

「私も自分で履いてみるね?久しぶりに、おさらいしてみたいの、」

すこしだけ自信が香る彼女を見ると、きちんとゲイターも履いて装備が整っている。
そういえばそうだったな?英二はこの山の先輩にアイゼンを渡して謝った。

「お母さんの方が、俺よりずっと山のキャリア、長いんですよね?すみません、俺、」
「年数だけね?ブランクあるし、標高2,000mを越えたことも無いわ。英二くんみたいなプロからしたら、私は小僧よ?」

可笑しそうに笑いながら、馴れた手つきでアイゼンを装着していく。
きっと馨と雪山にも来たのだろうな?そんな想いに見つめている先で、きちんと履いて見せてくれた。

「どうかな?ちゃんと履けているかな?」
「はい、大丈夫です。雪山も何度かいらしたんですか?」
「ええ、丹沢と奥多摩くらいだけどね。最後に行ったのは、丹沢の塔ノ岳だったかな、」

懐かしそうにアイゼンを見ながら答えてくれる。
その隣で周太もアイゼンを履き終えて、母の言葉に微笑んだ。

「俺が、2度目にアイゼン履いたとき…だよね?」
「そうよ、周。奥多摩で最初に履いて、次が丹沢だったね。それまで周は、雪山は登ったこと無かったのよね、」
「ん、そう…光一に初めて逢った時が、最初の雪山だったね、」

愉しそうに母子が雪山の想い出を話している。
明るい声に心傾けながら英二は周太のアイゼンを確認した。
周太も今シーズン何度目かのアイゼンになる、もう馴れたらしく上手に履けている。良かったと微笑んで英二は立ち上がった。

「お待たせしました、じゃあ行きましょう、」

英二の言葉に、黒目がちの瞳が明るく笑ってくれる。
そして母子は一緒に雪道を歩き始めた。

「まだ朝で、ちょっと凍っているところもあります。気をつけて下さいね、」
「ええ、ありがとう、」

明るい返事をしながら、彼女は一歩ずつ確実なアイゼンワークで進んでいく。
さくり、ざくり、固い締雪を踏みしめる音が芽吹きの森に、どこか優しい。
今シーズン最後になるだろう雪を踏みしめながら、彼女は微笑んだ。

「雪を踏む感じ、アイゼンの音、懐かしいわ、」

懐かしげに嬉しそうに足元見ながら笑ってくれる。
思ったより速い足並みで着実に歩きながら、彼女は教えてくれた。

「この季節にも私、あの人と登ったことがあるの。桜と雪を見ませんか、って誘ってくれて。それが最初の雪山だったな、」

母の言葉に周太がすこし首を傾げこんだ。
そしてすぐに質問で笑いかけた。

「お父さんと、結婚する前…?」
「ええ、そうよ。お付きあいを始めてね、最初のデートがそれだったの、」

息子の質問に幸せな笑顔が花ひらく。
桜と雪の山が最初のデート、なんだか馨らしくて英二は嬉しくなった。

「どちらの山に行かれたんですか?」
「丹沢の権現坂、っていう所。その年はね、ちょうど4月の雪があったの。それで雪と桜の山になって、」
「雪と桜…きれいだね、」

見たことのない光景に周太が微笑んでいる。
このあと喜んでくれるといいな?そんな想いと英二は登っていった。
やわらかな春の陽ふる朝の御岳山は静かで、けれど時おりハイカーを見かける。
その度ごと目視点検をしながら、いつものように挨拶の声をかけた。

「おはようございます、良いお天気ですね、」
「おはようございます、巡回ですか?」
「はい、そうです。どちらまで行かれる、ご予定ですか?」
「大岳山から、奥多摩駅の方へ抜ける予定です、」
「鋸尾根のルートですね?まだ日陰は雪が凍っています、最後の階段も急斜ですので、膝に気をつけて下さいね、」

話しながらも、ハイカーのレベルと装備を確認していく。
もしも予定ルートや所要時間がレベルと合わないようなら、ルート変更も促す必要がある。
こんなふうに登山道巡回では注意を払いながら、奥多摩の警察官たちは遭難防止に努めていく。
また擦違うハイカーからは情報をもらう事もある。

「この先にすこし、崩れているところがありましたよ、」
「ありがとうございます、規模はどのくらいですか?」
「崖側に20cmくらいかな?人は充分に通れますけど、」
「解かりました、確認しておきます。ありがとうございました、」

教えてくれる事を手帳にメモして、また歩き出す。
そのポイントを通る時には、崩れた原因の確認をしていく。
もし人が滑落した形跡があれば、遭難事故の可能性も考えなくてはいけない。
いま聴いた情報を頭で整理しながら歩き出すと、周太の母が笑いかけてくれた。

「こんなふうに山岳救助隊の方は、山を守っているのね?英二くん、警察官の貌になってたわ、」
「あ、なんか恥ずかしいですね?」

このひとに見られると何だか気恥ずかしいな?
そんな想いになんだか、子供のころの父兄参観を思い出させられてしまう。
いつも母より父に来てほしくて、いつも参観日が来ると父にねだっていた。
懐かしくて、すこし痛みも残る記憶に微笑んだ英二に、周太が笑いかけてくれた。

「救助隊の英二、久しぶりに見るけど…やっぱり、かっこいいね?」

そんなこと言われたら、うれしいです。
うれしくて抱きしめてキスしたいです。

―でも、今はダメだろ?

途端に恋の奴隷モードになった心に、英二は自分で突込みを入れた。
いま周太の母もいて且つ勤務中なのに、我ながら不謹慎で困ってしまう。
つい無垢の誘惑を見る心を謹直に建替えて、英二は婚約者に微笑んだ。

「ありがとう、周太に言われると嬉しいよ?」
「ん、…そういわれるとはずかしいよ?」

言いながら首筋赤くして、アイゼンの足元に目を落してしまう。
相変わらず初々しい恋人の様子が愛しい。今、幸せだな?そう心で呟いた英二に、周太の母がそっと笑いかけた。

「いま、周にキスしたかったでしょ?」
「…っ、おかあさん?」

驚いて見た黒目がちの瞳が悪戯っ子に笑った。
いつもより快活で愉しげな笑顔が「解かるのよ?」と目だけで告げてくれる。
ほんとに敵わないな?素直に観念して英二は微笑んだ。

「その通りです、」

やっぱりね?そんなふうに快活な瞳が笑ってくれる。
こんな明るい貌が見られて嬉しい、嬉しい想いと笑い返した英二に周太が首傾げながら微笑んだ。

「ん?…なにがその通り?」

ちょっと君には、今は言えないよ?
こんな心の声に笑って、英二は婚約者に答えた。

「周太のことがね、大好き、ってことだよ?」
「…そういうことふたりではなしあわれても…はずかしいから、ね…」

また赤くなって俯くと周太はアイゼン見つめてしまった。
そんな息子を楽しげに見ていた彼女の目が、ふと空を仰いで微笑んだ。

「桜、ね?」

薄紅の雲が、花の梢いっぱいに空翳していた。
あかるい曇り空のした、桜は光るよう咲き誇っている。
雪道から見あげる花翳は、あわい紅色の光透かして彼女の頬に映りこんだ。

「…きれい、」

かすかに呟いた色白の貌が花を見あげている。
その隣で彼女の息子は、明るく花へと微笑んだ。

「ん…雪と桜、だね?きれいだね、」

黒目がちの瞳は花映して、嬉しげに笑っている。
息子の声に頷いて、彼女もやわらかに微笑んだ。

「うん、きれいね、…ほんとに、きれい、」

ふる花を映えさせる花曇の空の下、しあわせな笑顔が咲き初める。
幸せ見あげる彼女の白い頬に、涙ひとつこぼれおちた。

「雪と桜…お父さんと見たのと、同じに、きれいよ?」

桜の下で生まれた恋の、幸せな記憶に咲く雪の桜。
彼女の初恋が見つめていた初めてのデートの幸福が、奥多摩の桜に甦っていく。
幸せの春へ黒目がちの瞳は微笑んで、静かな声は花に笑いかけた。

「やっと、還ってこられたかな?私も…ね、馨さん、」

呼びかけた最愛の名前に、ふっと穏やかな風が梢を揺らした。
そして薄紅の花びらが、問いかけ応えるよう彼女にふりそそいだ。

「…かおるさん?」

微かな声は風に融けこみ梢ゆらし、桜の花が空へと舞いあがる。
薄紅の花は春の朝陽にきらめいて、やわらかな髪へと純白の光をふり零す。
ふりそそぐ純白の光の花に、英二はエデンの雪を見た。

―アダムとイヴにふる、祝福の雪の花だ

白い花びらは今、彼女を照らすよう風に輝いていく。
髪をゆらし頬を撫で、やさしく唇ふれながら懐くよう、白い花の風は彼女を包んで峰に吹きぬける。
祝福するような花の風のなか、彼女はきれいに笑った。

「ね、周。お父さん、いま一緒に登っているね?」

花に微笑んだ黒目がちの瞳から、涙ひとつこぼれだす。
その涙を彼女の息子は指で拭って、優しい穏かなトーンで笑いかけた。

「ん、一緒だね?…お父さん、お母さんのこと大好きだから、ね」

恋人の面影うつす笑顔が、彼女の隣で幸せに咲いている。
この恋人が遺した宝物に、彼女は幸せな自信で言葉を輝せた。

「そうよ?お父さんはね、私のこと大好きよ。初めての春からずっと、ね?」

常春の記憶のなか佇んで、現実に見上げる花へと幸せな笑顔が花ひらく。
きっといま永遠の恋人は、まばゆい記憶の花から彼女に微笑んでいる。
いま咲き誇る笑顔を見守りながら、英二は心の面影に笑いかけた。

―お父さん?今、一緒に、ご覧になっていますよね、

問いかけ想いながら、そっとウェアの胸元にふれる。
指ふれる合鍵の輪郭は、花と雪の記憶への想い象っていくようで、心映りこむ笑顔に英二はきれいに笑いかけた。



登山計画書のチェックが終わって、英二はひとつ伸びをした。
ガラス戸を透かしてふる陽光が暖かい、駐在所前の田園と森は萌黄色が昨日よりあざやかになっている。
ようやく訪れた春らしい光景に微笑んで、英二はパソコンデスクの前から立ち上がった。

「うん?宮田も、チェック終わった?」

デスクから顔あげて、国村が笑いかけてくれる。
見ると白い指もボールペンを机に置いて、書類をファイルに仕舞い始めていた。

「終わったよ。国村も拾得物の、終わったんだ?」
「おかげさまでね。やっぱり件数が増えてきたよね、落し物もさ。春だね、」

からり笑ってファイルを戻すと立ち上がって、給湯室へと入って行く。
英二も流しの前に立つと、インスタントコーヒーをマグカップに入れた。
その隣で冷蔵庫から包みを出して、機嫌よくテノールが微笑んだ。

「これ、食って良いんだよね?なんだろ、誰から貰ってきた?」

この包みは朝の巡回帰りに英二が貰ってきた。こんなふうに英二は何かしら頂いてしまう事が多い。
いつも申し訳なくて、けれど遠慮なく貰えばいいと駐在所長の岩崎が教えてくれる。それで今日も素直に受け取ってきた。
こういうのは、お返しも出来ないから途惑うな?困りながら微笑んで英二は答えた。

「うん、良いよ。御岳山の、上の方の民宿の奥さんからだよ。手作りシュークリームだ、って言ってたけど」
「お、イイね。カスタード、好きなんだよね、」

話しながら休憩所にあがると、インスタントコーヒーと菓子を前に寛いだ。
自主トレーニングの後で腹もすこし空いている、口に入れたクリームの甘さがおいしい。
甘さをコーヒーで流し込みながら、英二は口を開いた。

「今日、結構忙しいな。やっぱ桜が咲いたからかな、」
「だね、木曜休みの業種も多いしね?おふくろさんたち、そろそろ下山したかな?」

テノールの声が気遣って訊いてくれる。
うれしい気遣いに感謝して、英二は微笑んだ。

「うん、さっきメール入れてくれてあった。副隊長とお茶してから、こっちに顔出してくれるって」
「よかったね。でもさ、巡回しながらの登山じゃ、おふくろさんに悪かったね?」
「喜んでもくれたよ?俺の救助隊姿を見られて、よかったわ、って、」
「そっか、じゃあ、活動服姿も喜んでもらえそうだね?」

楽しげに笑って国村は菓子を口に運んでいる。
そして2つを呑みこむと、箱の中身を目で数えながらテノールの声が言ってくれた。

「これ、3つは残しておく方が良いよな?秀介と、周太と、おふくろさんと、」

こういう配慮が国村は、旧家の長男らしい細やかさに温かい。
相変わらず秀介は英二の勤務日には勉強に来る、特に今日は周太が来ると楽しみにしていたから必ずくるだろう。
そうして3人揃った時に茶菓子があれば、喜んでもらえる。友人の心遣いを嬉しく思いながら英二は礼を言った。

「ありがとう、3人とも喜ぶよ、」
「だといいね?おふくろさんには、旨い弁当の差入もらっちゃったしさ、ちょうど良いお返しが出来るね?」
「うん、ありがとな。たぶんね、どのおかずが一番おいしかった?って訊かれるよ、」

今朝、大岳山頂で別れ際に彼女は、昼食用の弁当を2人分渡してくれた。
その心遣いが温かくて、どの惣菜も美味しくて嬉しかった。だから質問にはすこし迷いそうになる。
けれど無邪気な友人は、からり笑って即答してくれた。

「唐揚げと煮玉子。あの煮玉子、半熟なのがイイよね。この間の周太のスコッチエッグも、半熟で旨かったよ、」
「うん。あれ旨かったな、黄身がソースになって、」

弁当のこと、自分はなんて答えようかな?
そう考えながら英二は、機嫌良くコーヒーを啜っている友人に笑いかけた。

「国村、あと1個食べていいよ、」
「うん?おまえ、まだ1個しか食ってないだろ?全部で7個だったからさ、あと1個おまえのだよ、」

ちょっと不思議そうな顔で首傾げこんで、言ってくれる。
けれど、周太の母にまで気遣ってくれたお返しをしたくて、英二は微笑んだ。

「これ、好きなんだろ?食べてくれて良いよ、」

元から国村は甘いもの好きだから、たぶん食べたいだろうな?
そんな想いと見た先で、秀麗な貌が嬉しそうに笑ってくれた。

「うん、ありがと。じゃあ、遠慮なく食うね、」

言いながら白い指は、器用に菓子を半分にしていく。
ちょっと気恥ずかしげに笑って英二を見ると、片方を渡してくれた。

「はい、はんぶんこ、食ってね、」

はんぶんこ、そう言った底抜けに明るい目が微かに羞んでいる。
これを断ったら、いけないだろうな?想い微笑んで素直に英二は受け取った。

「うん、ありがとう、」
「こっちこそ、だね、」

礼を言って菓子を口に入れた英二に、無垢な瞳が幸せそうに笑ってくれる。
こんな貌は無邪気で、子供のままの純心な想いがまばゆい。この笑顔に見える想いが切なくて、本音のところ愛しいと想う。
この感情の種類は複雑、傷みと薫る甘さの意味がよく解らない、ひとつ確かなことは「親友」という想いだけ。
そんな心に途惑う自分がいる、けれど途惑っても心のままにあるしかないと肚は決めてある。

…どんなときも、なにがあっても、俺は英二の居場所だよ?…光一のこと幸せにしてくれたなら、うれしい

…宮田にも俺しかいないよね?俺、ほんとうに、おまえのことは離したくないんだ…離れないでよ
 親友だけど、キスしたい。おまえとは…今は名前で呼んで…光一、って呼んでほしいんだ

剱岳で川崎で、見つめてきた周太の願いと国村の想い。
剱岳から帰路のまま川崎に行った、あのとき周太と国村は暫く話したようだった。
ふたり庭先に停めた車内で話して、そのまま買い物に行って帰って来た。あのときの国村の笑顔が忘れられない。

―国村、ほんとうは泣いたんだ…目が、赤かった、

あの日の朝、雪洞で目覚めて最後にキスを交わして、離れた瞬間から「いつものように」国村は笑っていた。
いつものよう機嫌よく朝食を仕度して、楽しげに雪山を歩き下山して、温泉では普段通り英二にちょっかい出してふざけていた。
けれど本当は、ずっと涙を堪えてくれていた。

本当は国村は泣きたかった、目覚めた瞬間からずっと。
それでも7時間を笑って四駆を走らせて、いつもどおりに底抜けに明るい目は笑ってくれた。
そして川崎で周太と買い物から帰って来たときも、泣きはらした痕隠して国村はいつものよう笑っていた。
そんなふうに、英二に涙を隠そうとする想いが、切ない。

そして国村の涙を受けとめてくれたのは、周太だと解ってしまう。
国村は周太を「特別」だといつも言う、その通りに周太を宝物のよう大切に護ろうとする。
そんな周太の婚約者である英二への想いに、真直ぐ無垢な心は苦しんで泣いて、きっと周太にありのまま告白した。
この苦しい想いを周太は、いつもの穏かで純粋な優しさのままに全てを受けとめ、肯定してくれた。そんな確信が温かい。
だからこそ、国村は気恥ずかしげな顔も素直に見せられるし、菓子ひとつに想いを差しだすことが出来る。
こんなふうに国村と英二とを包んでくれる、大らかな周太の愛情が愛しい。

ふたりは、もう覚悟している。
大切なふたりの想いと願いは、ふたり同じことを英二に求めている。
だから自分も覚悟して、大切な2人の求めに心のまま応えていけば良い。そんなふうに決めた。
途惑いも自責も背負うかもしれない、それでも与えられるなら全部を背負えばいい。
こんな想いと微笑んでコーヒー啜りこむ英二に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に微笑んだ。

「今日もバッチリ、お美しいですね、『媛』?」

呼ばれた名前に困らされてしまう。
困ったまま笑って英二は口を開いた。

「その名前、絶対に人前では呼ぶなよ?ほんと、俺だってバレたら大変だから、」
「うん、山の秘密に懸けて言わない、」

愉しげに細い目を笑ませながら友人は、呑気にコーヒーを啜りこんでいる。
ほんとうに大丈夫だとは思うけれど、どきりと心臓打たれた記憶に英二は困り顔で微笑んだ。

「信じているけどさ?でも、写真集を見た時は俺、ほんと驚いたよ?」

あのとき屋根裏部屋で見るまでは、自分の写真が一冊になったことを英二自身が知らなかった。
だから、自分の写真が飾る表紙をふたり揃って眺めていた時は、本当に驚いた。
びっくりしたよ?そう笑いかけた英二に、テノールの声が遠慮がちに訊いてくれた。

「…周太に見せたの、嫌だった?」

マグカップから唇離して、無垢な瞳が心配そうに見つめてくれる。
すこし心細げな目のまま国村は、素直に謝ってくれた。

「嫌だったなら、ごめん…周太、喜んでくれる、って思っちゃって、俺…周太だけは、いいのかな、って、」

こんなふうに素直に心細げな国村は、すこし前まで見たことが無い。
いつも自信にあふれて大らかな自由のまま、誰に何を言われても気にしない。そんな国村が英二のことは気にしている。
こんなギャップに心すこし響かされてしまう。そんな心を素直に認めながら、英二は笑いかけた。

「うん、周太なら構わないよ?いつかは話さないと、って思っていたから。きっかけをくれて、ありがとな、」
「あ、よかった、」

からり明るい笑顔が雪白の貌に咲いていく。
自分の言葉1つで表情を変えてくれながら、透明なテノールが嬉しそうに笑った。

「俺もね、周太だけには、ちょっと内緒とか、嫌だったんだよね。おまえのことは特に、」
「そうだな?周太には内緒に、したくないな、」

本当に自分もそう思う。
素直な本音に笑い返した英二に、底抜けに明るい目が愉快に笑いかけてくれた。

「よかった、同じだね?それにしてもさ、おまえ、マジ美少女だったんだね?世界の巨匠が平伏したのも、納得の眼福だよ、」
「そう言われるの、ちょっと恥ずかしいな?」

あの姿だったのは、ほんの3年前のことなんだな?
そんな時間の経過を想う英二に、機嫌よく透明なテノールが言った。

「恥ずかしがること、ないね?だってさ、あの写真集、欧米では今トップの人気だよ?さすが花の女神、撫子姫だね、」

そんな事態になってるの?
知らない自分のことに驚いて、英二は訊きかえした。

「あの写真集、そんなことになってるのか?」
「うん、そうだよ?ちょっとこいよ、」

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そこに示された事実に、ほっと英二は溜息を吐いた。

「…ほんとだ、」
「ね?で、日本でも花丸急上昇中だよ?洋書なのに、すごいよね、」

あの最初の撮影のときも、その後も、自分は人助けだと思って引受けただけだった。
まさかこんなことになると思わなかった。いま示される過去の自分の事態に、英二は困りながら微笑んだ。

「途惑うな、さすがに…困るよ、」
「大丈夫じゃない?今のおまえ見てね、同一人物だ、ってすぐ気づくヤツはそういないね。性別も違うしさ、」
「うん、…そうだけど、」

確かに今の英二を見ても同一人物だとは、誰も気付かないだろう。
この3、4年で背も少し高くなって男の風貌が強くなっている、なにより山ヤの警察官になって体躯が格段に逞しくなった。
きっと大丈夫だろう、けれど念のための注意はしたほうがいいな?こんな考え巡らす背後で、からりガラス戸の開く音が立った。

「こんにちはー、」

すっかり馴染みの可愛い声が、駐在所に入ってくる。
たぶんそうかな?休憩室から出てみると、小さなお客が英二に笑いかけてくれた。

「こんにちは、宮田のお兄さん。おじゃまして、いい?」
「こんにちは、秀介。もちろんどうぞ?」

英二の言葉に嬉しそうに笑って、ランドセルの背中が休憩所に入って行く。
すぐに奥から愉しげな笑い声が聞こえてくる、国村と秀介は親戚同士でもあり仲が良い。
あんなふうに国村も雅樹と話していたのかな?ふと考えながら英二は茶を淹れ始めた。




(to be continued)

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