萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第43話 花想act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-20 23:55:37 | 陽はまた昇るanother,side story
花に願い、祈り、



第43話 花想act.3―another,side story「陽はまた昇る」

瞳を明けると宵の帳がまだ深い。
ゆるやかに見上げた恋人は、深い眠りに微睡んでいる。
ほのかに明るいオレンジの光に、濃い睫けぶる煌きが綺麗で惹かれてしまう。
抱きよせられて、頬よせる白皙の胸は規則正しい鼓動が温かい。

…生きていて、くれる…

ふっと瞳にうかぶ温もりが、しずかに頬伝って鼓動の胸にしみていく。
やすらかな深い眠りの微笑を見つめて、微睡む唇に静かなキスでふれた。
ふれる吐息は眠りの夢におだやかで、健やかなひとの温もりが幸せになる。
この温もりに夜を籠めて愛された、その記憶が自分の全身に心にあざやいでしまう。

―…安心して、周太?恥ずかしがらせると思うけど、必ず幸せにするから…俺に君を任せて

そう告げて、やさしいキスをしてくれた。
そしてこの体と心の隅々まで、恋人は深い愛撫に浚いこんだ。
おだやかな熱とあまやかな感覚は幸せで、たくさんの羞恥すら幸せに想えてしまった。
そうして深く甘い幸せの夢に沈んで、いま、宵の目覚めに佇んでいる。

「…すぐ、もどってくるね?」

微笑んで、周太はそっと婚約者の腕から脱け出した。
素肌に夜はひんやりと纏わりつく、ベッドから降りて床の白い衣を拾いあげ羽織りこんだ。
露わな肩に木綿がやさしい、ほっとする肌触り微笑んで藤色の兵児帯を手早く結いあげた。
静かに鞄を開いて手帳を広げる、最後の見開きについたポケットの小さなカードを周太は出した。
それを持って、デスクの抽斗から小さな裁縫箱を出すと梯子階段に足を掛けた。

きぃ、きっ…

かすかな木造の軋みが夜に響く。
ゆっくり上がりきると屋根裏部屋のフロアーランプを点けて、ふるい木のトランクを開いた。

「…ん、ちょうど良さそうだよね?」

微笑んで中から小さな赤い袋と組紐を2つずつ取りだすと、元通りにトランクを閉じた。
フロアーランプを近寄せて、床に敷いたクッションに座りこむ。
そうして周太は細かな手仕事を始めた。

静謐の底に灯るランプの明りに、赤い錦の袋が輝いて見える。
この袋は、静養を終えた英二を穂高連峰へ見送ったあと、母に出して貰った古裂で作った。
曾祖母か祖母が使っていたらしい巾着袋をほどいた生地は、絹の手触りがやさしい。
会ったことはないけれど、自分が生まれる繋がりを生んでくれた人の想い伝わるようで、温かい。
この綺麗な赤い錦袋に、手帳から出したカードを入れてみた。

「ん、やっぱりサイズ、合ってた、」

プラスチックカードに作りあげた押花は、袋にきちんと納まってくれる。
このカードには白澄椿の花びらと花芯を綴じこんだ。
片方には雄蕊、片方には雌蕊、それぞれ花びらと一緒に入れてある。
こんなふうに1つの花を2つに分けて、夫婦で御守りに持つと離れてもまた逢える。そう本で読んで、作ってみた。

「…この花なら、願いを叶えてくれるよね?」

ちいさな呟きに祈りを微笑んで、錦袋に藤色の組紐と縫い綴じる。
総角結びにして端を房に作ると、きれいな御守り袋に仕上がった。
これなら上出来かな?小さな守袋に笑いかけて、雄蕊の方の錦袋を手にとった。
此方の方には紺色の組紐を縫い綴じて、より丁寧に造りこんでいく。

「ん、きれい、」

出来上がった御守りをランプの下に見て、周太は微笑んだ。
この御守りにした白澄椿は、英二が雪崩に遭った時ちょうど、庭で周太が受けとめた花だった。
そのときは綺麗な花が無事に受けとめられて嬉しくて、水盤に活けこんで可愛がった。
そして、英二の事故状況と受傷状態を聴かされて、この花が符号のよう想えてきた。
この白澄椿は大輪の千重咲きで、高潔に優雅な華やぎが英二と似ている。だからこそ殊更に縁を感じた。

この花は不思議な花。
そんな想いから御守りにしようと思いついた。

明日の夜、英二はまた雪山訓練にと発っていく。
明日の午後には光一が英二を迎えに来る、そして常人に踏みこめない氷雪の高峰へふたりは行ってしまう。
そこに周太は付いていけない、けれど想いを守袋に籠めることなら出来る。
今冬のクリスマスには、自分を忘れずに無事帰ってほしくてクライマーウォッチを贈った。
そして英二は雪崩からも無事に帰ってきてくれた。それでも尚更の無事を祈りたくて、御守りを思いついた。

「…どうか、英二を守ってください、白澄椿…」

掌にのせた花の御守りに、静かな祈りを周太は籠めた。
そしてロッキングチェアーの主に、赤い2つの守袋を見せて微笑んだ。

「ね、小十郎も、お願いしていい?…英二を、守ってほしいんだ。すごく、大切なひとなの…」

テディベアの黒い瞳が見つめてくれる。
父の身代わりとして自分の下に来てくれた、不思議なクマのぬいぐるみ。
このテディベアなら願いも叶えてくれる。そんな気持ちになるのは、父の願い籠められたクマだからかもしれない。
この宝物に今夜は謝ることがある、黒い瞳見つめて周太は口を開いた。

「小十郎、14年前はごめんなさい…ほんとうに、ごめんね、」

14年前の今夜、父が亡くなった知らせを聴いた瞬間に周太は「小十郎」を忘れた。
そのとき父に纏わる記憶は次々と欠け落ちて、自分の名前に父が籠めた言葉すら心から消えた。
そうして、大切な初恋の相手との約束すらも、記憶の底に眠りこませてしまった。
もし初恋と光一を忘れていなかったら、自分は英二を今の様に愛しただろうか?

「ね、小十郎?もし、光一を忘れなかったら、英二のこと…」

初めて逢った瞬間に見つめた、冷酷な笑顔に隠された真直ぐな想い。
ずっと生きる誇りを探している、そう問いかける実直な眼差しに自分は恋をした。
あの想いに出逢っても自分は、恋に墜ちずにいられるだろうか?
そんな考えめぐる夜の衣から、ふっと深い森の香が昇った。

この香が慕わしい。
この残り香を自分に沁みこませた人の心も体も無しには、いま自分は生きられない。
こんな自分が、恋に墜ちずにいられただろうか?

「…きっと、すきになったね?…きっと、今と同じ、ふたりが大切で…ずるい自分でも、正直にいるしかないって想いながら…」

こんな自分は、ずるい。
こんなにも英二を愛している、けれど光一を無視することも出来ない。
どうしても英二を守りたい、この盲目な想いのなか自分は奥多摩山中に発砲の罪を犯した。
あの罪を肩代わりしてしまった初恋相手は、この自分を愛し続けていくと断言する。
そしてきっと彼は、英二のことも愛し始めている。

「きっと、光一はね…また違う気持ちで英二のこと、愛してる…きっと、俺に対するより強い想い…」

純粋無垢で怜悧な光一は、その分だけ気難しい。
よく人の心まで見抜く真直ぐに無垢な瞳は、そう簡単には誰かを愛せない。
そんな光一が周太を愛するのは、周太を山桜の精霊と信じ「山の秘密」に守る出逢いだからだろう。
だから大切な「山」のパートナーである英二を、光一が愛さないわけはない。
光一が大切にする山の世界を共に生き、様々な「山の秘密」を共有していく相手を愛さないはずがない。

「英二は、雅樹さんに似ているの…光一の、いちばん大事な人と似てる、そして、英二はそれだけじゃないから。きっと…ね、」

やさしいテディベアは話に微笑んで見える。
きっと父も笑って聴いてくれている、周太も微笑んで静かに言った。

「お願い、小十郎、ふたりを守ってね…俺のことはいいから、ね?」

父の優しい祈り籠るクマを撫でて、周太は立ち上がった。
フロアーランプを消して音をたてないよう、ゆっくり梯子階段を降りていく。
そのままデスクの抽斗に裁縫箱をしまって、2つの御守袋を鞄に納めた。
今夜にしたかったことが、これで全部終えられた。

…お父さん、今夜を俺も、踏み出せたよね?…お母さんと一緒に、

うれしい想いに静かに微笑むと、周太はベッドの傍らに佇んだ。
そっと白いリネンを見ると、安らかな寝息が静謐にながれている。
この安らいだ夢に横たわるひとは、腕をまだ抱きしめるようにしたまま眠っていた。

…俺のこと、抱きしめてくれてるの?…夢の中でも、ずっと

ずっと一緒にいよう、離さない。
そう言ってくれた通り、ずっと腕のなかに自分を抱いてくれている。
愛していると、眠る白皙の腕から想いが伝えられてしまう。
愛されている、その幸せが温かい。

「…ずっと、腕のなかにいるね?」

幸せに微笑んで、藤色の帯を解いた。
さらり床に散る藤色へと、白い浴衣も肩からすべらせおとす。
そうして宵の目覚めと同じ姿に戻って、愛する腕のなかに周太は戻った。



7時半すぎの庭は、まだ霞が残っていた。
やわらかに瑞々しい空気のなか、家庭菜園も朝露にきらめいている。
ひとつずつ手籠に使いたい野菜を摘んでいく、その手が露にみちていく。
春になって青物がよく育つ、美代からもらった種の野菜たちも彩が瑞々しい。

…おいしく食べさせてもらうね、ありがとう、

心の裡に礼を言いながら、ひとつずつ摘んでいく。
その向かいから、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「周太、玉ねぎは幾つ掘る?」
「ん、…4つ、玉ねぎは夜の分も掘って?」
「なに作ってくれるの?」

楽しそうに手を動かしながら訊いてくれる。
軍手をはめた腕は山岳訓練に鍛えられているけれど、白皙の肌は艶やかに美しい。
ダークブラウンの綺麗な髪のした、端正な笑顔は華やかで育ちの良さが香っている。

…きれい、

心に思わずつぶやいて見惚れてしまう。
警察学校の頃よりも今の英二は髪が伸びて、優雅な雰囲気があざやかになった。
ゆるやかな朝陽にきらめく髪が、温かな霞の風にゆれていく。ゆれる髪と白皙の貌に惹かれながら、周太は問いに答えた。

「朝はね、お味噌汁に使うの…夜は、付合わせの焼野菜とサラダ、」

答えながらも不思議で、自分の婚約者の姿を見てしまう。
だって不思議で仕方ない、周太は挿絵の記憶と一緒に英二を見つめた。

…やっぱり英二って、王子さまみたい、だな?

幼い日に読んでもらった、外国の絵本や詩の美しい挿絵たち。
そこに描かれた「王子」は、白皙の肌と華麗な容貌が美しい青年だった。
あの挿絵に似た、こんな綺麗なひとが家庭菜園の土を掘っている姿は、不思議な感じがする。
けれど一緒に仕事してくれる事は、やっぱり嬉しい。

「味噌汁いいね、楽しみだな。はい、掘れたよ、」

綺麗な低い声が笑いかけてくれる。
この婚約者は姿どころか声も綺麗だな?そんなことを想いながら周太は微笑んだ。

「ありがとう、…じゃあ、水道で洗うね?」
「うん、一緒にやらせて、」

軍手を払いながら笑いかけてくれる笑顔がやさしい。
この笑顔をずっと、見つめていけたら良いな。そんな想いに微笑んで水場へと立った。
野菜を洗う水は朝の冷たさが気持ちいい、ふたり並んで洗い終えると英二が笑いかけてくれた。

「周太、すこし庭の散歩しよう?朝のデートだよ、」

朝のデート。
そんなふうに言われると面映ゆいな?羞みながらも周太は微笑んだ。

「ん、…はい、」
「素直で可愛いね、周太、」

きれいに笑って、額にキスしてくれる。
まだ濡れている前髪が額にふれて、髪が濡れている理由が気恥ずかしくなってしまう。
長い指ふれられる前髪の感触に羞んでいると、綺麗な低い声が微笑んだ。

「髪、まだ濡れているね、周太。俺、もう少し拭けばよかったな?ごめんね、」

いま前髪に絡められる長い指は30分ほど前、この髪も体も洗ってくれた。
その前には目覚めたばかりの周太をほどいて、恋人の時に体ごと抱き籠めてくれた。
この愛される時の記憶たちに、面映ゆく周太は微笑んだ。

「大丈夫、すぐ乾くから…、」

すこし首筋が熱くなるのを感じながら、ゆっくり庭を歩みだした。
菜園から東庭にまわると紅けぶる海棠が揺れ、足元には苧環が咲きはじめている。
北庭にさしかかると一叢に咲く藤紅の花が愛らしい。可憐で素朴な花姿に足を止めて英二が微笑んだ。

「周太、この花は、なんて言う名前?」
「蓮華草、だよ。田んぼによく咲いているんだ…おかあさん、この花が好きでね。俺も好きな花なんだ、」
「周太、好きなんだ?ひとつ、摘んでも良いかな、」

切長い目の微笑に、笑いかけて周太は頷いた。
うなずく周太に綺麗な笑顔むけて、長い指が1輪摘んでくれる。そして周太の手に持たせてくれた。

「かわいい花だね、可憐で、周太と似合うな」
「ありがとう…ちょっと恥ずかしいけど、うれしいな?」

好きな花と似合うのは嬉しいな?
素直に微笑んだ周太の頬にキスすると、英二は幸せに笑ってくれた。

「奥多摩でも、咲きそうな花だな、」
「ん、たぶん咲くと思う…おじいさんが植えたらしいから、」

やさしい朝霞の庭はどこか幻想的で、ゆらめく花たちが嫋やいでいく。
北庭の牡丹とバラたちも、霞のベールにやわらかく咲き零れている。
華やかな容姿の花もやさしい朝の風情に、英二が笑いかけてくれた。

「きれいだな、周太が手入れしているんだろ?」
「ほんのすこし、花を手伝うだけだよ。花が自分で、きれいに咲いてくれるんだ…警察学校に入ってからは、ほんとに少しだし」
「でも、すごいな。これだけ広い庭を、きれいに出来るなんてさ。きっと周太は、緑の指を持っているんだな、」

綺麗な笑顔が言ってくれた言葉がうれしい。
あの本を英二も読んでいる?嬉しくなって周太は訊いてみた。

「チトのゆび?」
「やっぱり、周太もあの本、読んでいたんだ、」

ほら、やっぱり英二も読んでいた。
同じ本を読んでいた。こういう一緒も嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、書斎の本棚にあるよ、」
「やっぱりあるんだな?じゃあ周太、原書で読んだんだ?」

微笑んだ周太に英二は、うれしそうに笑ってくれる。
なんだか気恥ずかしくなりながら、周太は頷いて答えた。

「ちいさい頃は、お父さんが日本語に訳して読んでくれて…自分で読んだのは、中学1年生、かな?」
「中1でフランス語が読めたんだ、周太、すごいな?」
「ううん、すごくない…何度も読んでもらっていた本だから、読みやすかったんだ…英二は、いつ読んだの?」
「俺は小学校の時かな?姉ちゃんが貸してくれたんだ、岩波のだったよ」

『みどりのゆび』は、どこでも草花を咲かせる不思議な指をもった、少年の物語。
初めて父が読んでくれた時から好きで、何度も読んでもらって。
あの不思議な「緑の指」が素敵に想えて、主人公のチトに憧れていた。

―…周は、チトとすこし似ているね?
  ほんと?おとうさん、そうおもう?
  ん、想うよ…穏かなところとか、植物が大好きなところとか。あと、すぐ眠っちゃうところ。
  たしかにすぐ、ねちゃうけど、でも…ぼくは、授業中は起きてるよ?

読んでもらうたびに父と交した会話が、ゆっくりと蘇ってくる。
懐かしい幸福なひと時が心に優しい、こんなふうに思い出しても、もう哀しいだけにはならない。

…それはね、今が幸せだから

この今を受留め愛してくれる隣がいる、この幸せが過去の哀しみも和らげ包んでくれる。
いま隣に佇んでくれる綺麗な笑顔がいてくれるから、もう哀しみより歓びの記憶だと微笑める。
この幸せに微笑んだ周太を、切長い目がのぞきこんだ。

「あの主人公と周太、ちょっと似てるな?」

父と同じことを婚約者が口にする。
どうして英二はこうなのだろう?不思議で、なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。

「ほんと?英二、」
「うん。おだやかな雰囲気とか、花が好きなところ。あと、ことんって寝ちゃう感じかな?」

ほら、やっぱり同じことを言ってくれる。
この話はいちども英二にしたことはない、それでも英二は記憶の軌跡をなぞってしまう。
こんな不思議な恋人を持っている自分は、きっとチトよりも幸せだな?この幸せに微笑んで周太は口を開いた。

「ん、でも俺、授業中は寝てないよ?」
「そうだな、でも周太の掌も、緑の指だよ、」

きれいに笑顔が咲いてくれる。
霞やさしい春の庭に咲く幸せな笑顔、この笑顔があるから昨日も今日も幸福な時間になっている。

…もう、春は哀しいだけじゃない、幸せな時だ

この季節が、愛しい。
そんな素直な想いを抱いて、他愛ない話と西の庭を歩いていく。
花梨の薄紅、花水木の白と紅、ひなげし揺れる花壇に山吹の黄色、春の花が道を辿らせる。
そして戻った南の庭は桜の下に薄紫の花叢がやさしい、その花姿に周太は微笑んだ。

「すみれ、ここから摘んできてくれた?」
「うん、」

見あげた先で優しい笑顔が頷いてくれる。
暁時に目が覚めた時、ベッドサイドに菫が一輪きれいな葉と一緒に活けられていた。
こうした気遣いが英二は細やかで、いつも周太と母を笑顔にしてくれる。

…英二は「笑顔のゆび」を持っている、な?

あの緑の指も素敵だと思う、けれど英二の「笑顔のゆび」はもっと素敵だろう。
今朝も目覚めの花を摘んで、朝の瞬間から笑顔を贈ってくれた。ついさっきも蓮華草で笑顔にしてくれている。
この1年前の自分は母以外の前で笑うことを忘れ果てていた、けれど英二が笑顔を取り戻してくれた。
この1年前の春に出逢ってから幾度も笑わせてくれた、そして笑顔で誰とも話せるようになっている。

…ほんとうに英二は、俺には魔法をかけてくれた…いつも、ずっと

この今朝だって目覚めてからもう、幾度、笑っているだろう?
いつも笑顔をくれる大切なひとに、きれいに周太は笑いかけた。

「すみれ、うれしかったよ?…ありがとう、英二」

すこし背伸びして、やさしい白皙の頬にキスをする。
キスした頬のむこうには、豊麗な枝垂桜の天蓋が花霞に美しい。
この美しい花の滝に似合う、この綺麗なひとは自分の大切な婚約者。
心から大切な想いのまま周太は、頬から唇にもキスでふれた。

薄紅の花の滝が霞の風に揺らめく。
そっと閉じた瞳のむこうに、薄紅色の光の明滅がうつろっていく。
花の光やわらかな口づけ交わして離れて、見上げた端正な貌に花翳がやさしく映る。
ほのかな桜色にそまる貌は、幸せな笑顔が華やかにほころんでくれた。

「こういうの、ほんと嬉しいんだけど。周太、」

白皙の掌が周太の頬ふれて、唇にキスふれてくれる。
ふれるだけで、心から温まっていく幸せなキス。
やさしい温もりと穏かな感触に、ふっと森の香が昇ってくれる。
この香は愛するひとの肌の温度、大切なひとが生きている証の温もり。

…どうか、ずっと笑っていて、生きていて

いま揺らめく枝垂桜の花の滝、この花をずっとふたり見つめられますように。
この大好きなひとの香安らいで、この春の今祈る、この幸せが温かい。



午後になって母が戻り、光一が奥多摩から訪れた。
珍しいジャケット姿の光一がなんとなく眩しい、きっと黒いジャケットは昨日の父の命日に因んでくれた。
こうした気遣いの優しさも眩しく見える理由だろうな?そんな想い抱いて周太は茶の末席に座った。

「ほんとうに見事な桜ですね、手入れもきちんとされている。見事だな、って拝見しましたよ、」
「ありがとう。どれもね、周が丹精してくれているから、」
「なるほどね、周太なら、桜の守りは上手でしょうね、」

母と光一が楽しげに会話している。
透明なテノールが庭を褒めてくれるのを聴きながら、周太は床の花を見つめた。
今日は緋牡丹の蕾を活けてある。紅華やいだ色彩が、英二の着物に似合うと想って選んでみた。
きっと英二が本座に坐ったとき、床の花と英二の仕草は紅の色彩に呼応して綺麗に見える。

本来は、亭主は客をもてなすのだから目立たないよう衣装も地味めにする。
だけれど今日、初めて亭主を務める英二を惹きたてたくて、道具立ても英二の衣に合わせた。
きっと、きれいだろうな?そんな想像をしているうちに、静かに茶道口が開いた。

…きれい、

ほっと心に溜息吐いて、周太は微笑んだ。
優雅な物腰で本座についた英二は、綺麗だった。

白皙の肌に縹の渋い青色と謹厳な勝色がよく映えている。
縹色の袂こぼれる紅色と、勝色の袴のぞく藍と紅の博多帯が華やいで、床の花色と響く。
花活も大ぶりの青磁を選んで、英二の青系にそろえた衣と合わせた。
亭主と床の花が呼応して惹きたつ、この赤と青の意匠が美しい。

…この色合わせ、似合う…御守りも、揃えてみたけれど

昨夜、作り上げた守袋も赤と紺の組み合わせを選んだ。
さっき渡したけれど、喜んでもらえて嬉しかった。
ちょっと女の子みたいで恥ずかしいかな?そう想っていたけれど、大丈夫だった。
この色の組み合わせも、英二の好みに合ったのかもしれない。

他のふたりは、どんな反応だろう?
そっと隣を見ると母が「良い組みあわせね?」と瞳で笑ってくれた。
母のお眼鏡に叶うなら良かった。ほっとして周太は微笑んだ。

…光一は、どうかな?

光一は元から祖母に茶道を仕込まれている。
初めて光一が家に来たときは周太が亭主をした、あのとき光一は主客をきちんと務めていた。
茶を飲む所作も大らかに秀麗で、光一の性格そのままの風格ある雰囲気が老練だった。
そんな光一の評価はどうだろう?そう見た雪白の横顔に周太の呼吸が止められた。

まばゆい、

ただ一言、無垢な瞳は語る。
いつも核心貫く瞳は、一言の想いに真直ぐ英二を見つめていく。

そんなふうに見つめる相手は、どんな相手?
まばゆいのは、誰?

つきん、

周太の心が刺された。



母の言葉で茶の席がお開きになって、光一に誘われ周太は庭に降りた。
花ふる庭は遅い春の午後に明るい、桜も満開で草花も彩り豊かに風に揺れていく。
いま美しい春の庭が愛しい。自分が大好きで大切にしている庭が、こんなに美しいのは嬉しい。
けれど、すこし哀しい想いに周太は花を見あげた。

「うん、ほんとうにきれいだね?桜も好い、陽光もあるね、」

美しい桜の梢に光一は笑っている。
相変わらず底抜けに明るい目は愉しげで、率直に周太の大切な庭を褒めてくれる。
それでも心の深くには、さっき見てしまった横顔が、まだ氷の欠片のよう刺さりこんで、痛い。

…光一、ほんきなんだね

どこか予感し解かっていたこと。
元々、光一は英二のことが大好きで、いつもくっついている。
それは3人一緒の時も同じ態度で、いつも英二の取りっこになって周太を拗ねさせる。
けれどさっきの表情は、今までと違っていた。

…きっと、穂高連峰のこと、だね…

今朝の食卓で英二は、慰霊登山のことを話してくれた。
吉村医師の次男、雅樹が亡くなった場所をふたりで登り、光一が15年の涙を流したこと。
ふたり歩いた雅樹最期の軌跡の道で、英二は不思議な感覚を見つめていたこと。
そんな光一と英二の時間は「山の秘密」に深い。

山の秘密を見つめた相手を、山っ子は恋い慕う。

そのことを自分を通して周太は知っている。
だから光一が英二を深く慕い始めても、不思議はないと思ってしまう。
けれど、

「周太、庭を一周しようよ?北庭に牡丹園があったよね、見ごろじゃないの?」

透明なテノールに笑いかけられて、周太は意識を戻された。
見あげた細い目は、愉しげに春の陽射しと笑っている。

「ほら、行こう?」

楽しげに笑って白い手が周太の右掌を繋いでくれる。
そして東庭から北庭へと、花ふるなか歩き始めた。
海棠のなまめかしい薄紅をくぐり、蓮華草の藤紅をよけながら歩いていく。
今日まとう白い袷に紅色がふりかかる、卯の花がさねの袂に春の陽がやさしい。

「爛漫の春、だね?」

透明なテノールが楽しげに花に笑う。
いつもどおり明るい透明な、無邪気な笑顔は春の庭に咲き誇る。
こんなに美しい笑顔の初恋相手、けれど小さな胸の痛みと見てしまう。
けれど、この痛み以上に自分は望んでしまった「今」がある、だから後悔も出来ない。

…ごめんなさい、光一。でも、謝らないから、

無邪気な笑顔に心で謝りながら、濃二藍の袴をさばき微笑に歩いた。
あわい赤のトーンが多い花々を通りぬけていく。そして明るい陽光ふる牡丹の花園が現われた。

「やっぱり、見事だね、」

底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
褒めて貰えるのは素直に嬉しくて、周太も微笑んだ。

「ん、今年はとくに、きれいなんだ…大したこと、してあげられないのに、」
「うん?そんなことないだろ、見ればわかるよ。みんな、可愛がられているね、」

楽しげに花を眺めて、そっと白い手が花にふれて微笑む。
白、黄、うす桃、赤、そして深紅。百花繚乱という字の如くに咲きだした牡丹たち。
この豊かな色彩のなかで、雪白の肌と黒いジャケット姿が色彩を統べるよう佇んでいる。
極彩色に佇むモノトーンの美丈夫は、透明なテノールで花たちへ笑いかけた。

「よしよし、良い子だね?花びらも、たっぷりついたんだ…うん、愛されているな?」

美しい笑顔は牡丹とも、大らかに対話を楽しんでいく。
花をあやすような仕草と眼差しは、昔話に読んだ花の王を想わせる。
いつも光一はどこか不思議で、大らかな優しさは懐広やかに温かい。
このひとを自分は大好きだと素直に想う、けれどそれだけではない。

…きっと光一は、緋牡丹に立ち止まる

そんな想いと見つめた先、白い手は深紅の牡丹にふれた。

「きれいだね、君が最高の別嬪だな、」

細い目が慈しむよう愛しむよう微笑んで、周太を振り返る。
白い手を花に当てたままで、愉しげに光一は笑った。

「茶花は、この花だろ?あいつとよく似あっていた、イイ組み合わせだったね、」
「ん、ありがとう…きれいだと、思ったんだ、」

素直に微笑んだ周太に光一が笑いかけてくれる。
そして透明なテノールが周太に告げた。

「ドリアード。俺は、あいつのこと愛してるよ?君とはまた、すこし違うかたちでね、」
「ん、…」

静かに微笑んで、周太は頷いた。
もう解っていたこと、さっき氷の欠片のよう心つき刺した現実が言葉になっただけ。
あの氷の欠片の意味を、そっと周太は口にした。

「光一、俺はね、英二とずっと離れない…ずっと英二が望んでくれるから。英二の一番は俺、だよ?…それでも?」
「うん、構わないね、」

さらり応えてテノールの声が笑う。

「俺は俺のやり方で、あいつを愛してるよ。君を愛するようにね?そして、あいつなりに俺を愛している、だから構わない、」

氷の欠片が心をすべり落ちていく。
この無垢な瞳の初恋相手は、なにを求め生きているのか?それが愛しくて切なくなる。
この無垢な瞳が周太に求めることには応えられない、それが切ない。
もう自分の身は英二にだけ愛されたい、だから応えることが出来ない。

…夜も朝も、昼も、英二だけ…他は、出来ない

この数時間前も、真昼のベッドで英二は愛してくれた。
ほんとうは恥ずかしかった、けれど英二の想いが嬉しくて身を委ねて、そして幸せだった。
そんな自分が光一に出来ることは何もない、けれど偽らない事だけは出来る。
ずっと見つめてきた覚悟に周太は綺麗に笑った。

「ん、そうだね?英二なりに、光一のこと愛しているね…でも、英二が結婚したいのは、俺だけだよ?」

いつも英二が告げてくれる想いを、素直に言葉にする。
英二が結婚したい相手は自分、この想い受けとめていると誇示したくて今日、白い袷を選んで纏った。
この「白」の意味が光一なら解る、そう見つめた先で初恋相手は温かに微笑んだ。

「ふうん?言うようになったね、君もさ…白、ね?」

底抜けに明るい目が、温かい愉快に笑った。
やっぱり白い衣の意味をわかってくれる、こういう光一の繊細な感性が好きだと思う。
このひとは初恋相手で罪すら共に負ってくれる恩人、それでも生涯を望む恋だから遠慮できない。
この想いに微笑んで、真直ぐ光一の目を見つめて、周太は心のままを口にした。

「本当のことだから。英二が帰りたい場所は、俺の隣…ずっと一緒に眠りたいのも、俺なの。難しい山にいても、心は俺の隣だよ、」

どんなに光一が英二を想っても、英二が光一を愛しても。
いくど2人きりで高峰の頂に登ろうとも、そこへ周太は踏みこめなくても。
心から望み英二が帰る場所は、この自分。この自分こそ伴侶にと英二が望んでいるのだから。
この誇りと意志を初恋相手に示したい「白」の衣。

「ま、ね?たしかに、そうだね、」

秀麗な貌が微笑んで周太を見つめてくれる。
見つめ返す先の瞳は透明で、真直ぐ無垢な意志と想いが美しい。
このひとは綺麗、けれど英二が求めている安らぎは自分があげられると知っている。

…だから、嫉妬しない

ずっと見つめた覚悟と深い想いが心支えてくれる。
だから今日も英二と光一を山に送りだしていく、胸に抱く想いに周太は微笑んだ。

「英二は俺だけの、恋の奴隷なの。でもね…最高峰の世界では、俺は祈って待つしかない。光一しか、英二の傍にいられない、
だから英二のこと守って?必ず英二は光一を守るから…そして、2人とも必ず無事に帰ってきて、ふたりとも元気で…待ってる、」

「俺の無事も、祈ってくれるんだね、ドリアード?」

細い目が笑んで訊いてくれる。
その問いに周太は素直に頷いた。

「ん、光一のことも、祈ってる…英二みたいには愛せないけど、でも大切なひとだよ?だから、祈ってる、」
「ありがとう、」

底抜けに明るい目が笑って、そっとかがみ込むと周太の耳元にキスをした。
このキスの想いが切なく、けれど温かい。

「これは、約束のキスだからね。俺が必ず、あいつを連れて帰ってくる、ってね。だからさ、これくらい赦してよ?」

すこし悪戯っ子に微笑んで、深紅の花に雪白の顔を近づける。
そして山っ子は紅華やぐ大輪の花に、やさしい口づけをした。




(to be continued)

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