萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第42話 雪陵act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-05-04 23:15:04 | 陽はまた昇るside story
銀陵の向こう、蒼穹の点



第42話 雪陵act.3―side story「陽はまた昇る」

北鎌尾根独標からは、尖鋭な鉾の天突く山容があざやかに見える。
この山容から称えられる言葉を、英二は雅樹と一緒に口にした。

「槍のこと、日本のマッターホルン、って言うけど。本当に似ているよね?光一も登ってきたんだろ、」
「うん、」

訊かれて国村は嬉しそうに笑ってくれる。
アーモンドチョコレートをごりごり噛んで飲みこむと、透明なテノールが愉しげに答えた。

「高1の夏休みにさ、後藤のおじさんと登ってきたよ。雅樹さんも、高校の時だよね?」

訊かれた質問に雅樹の父、吉村医師の物語が蘇える。
この物語に英二は雅樹の想いを抱いて、綺麗に笑った。

「そうだよ、父と登ってきた。俺の夏休みに合わせてね、父が休暇を取ってくれたんだ。楽しかったな、」
「うん、マッターホルン、イイよね。でさ、雅樹さん、」

底抜けに明るい目が素直に笑いかけてくれる。
いま雅樹に話したい、そんな想いのせてテノールの声が心を紡いだ。

「今度の夏はね、俺、友達とマッターホルンに登るんだ。俺の生涯のアンザイレンパートナーで、一番の友達だよ。
そいつさ?俺の初恋のひとの恋人で、婚約者なんだ。でも憎めないよ、羨ましいけど、許せちゃうんだ。それくらい大好きなんだ、」

こんなふうに自分を雅樹に話してくれるんだな?
この想いが嬉しい、そして雅樹なら今は何て答えるだろう?
口の中の飴を噛み砕きながら、すこし考えて英二は雅樹と一緒に微笑んだ。

「きっとね、その友達も光一のこと、一番の友達で、大好きだよ。マッターホルン、気をつけて行ってこいな?」
「うん、ありがとう、雅樹さん。ちゃんと無事にそいつと、一緒に登って帰ってくるね、」

楽しそうに笑って頷いてくれる、その笑顔は無垢の喜びに眩しかった。
けれど、笑顔がすこしだけ寂しげになって、左手首に視線を落としていく。
その仕草が何を意味するか解ってしまう、そっと英二もクライマーウォッチの時刻を確認して、微笑んだ。

「もう正午になるね?そろそろ、槍の穂先に向かおう。目標タイムは2時間で良いかな?」

言葉に、底抜けに明るい目が哀しげになっていく。
それでも国村は笑って、明るいトーンで頷いた。

「うん、2時間で行こう。雅樹さんなら、それくらいで行けるよね?」
「大丈夫だよ、光一と一緒ならね。さあ、行こうか?」

きれいに笑いかけると国村は、ゆっくり1つ瞬いた。
瞬きに1つ涙こぼれて、けれど底抜けに明るい目は愉しげに笑ってくれた。

「うん、いよいよ槍の穂先だね?天を刺す鉾の先に、立ちに行こう、雅樹さん、」

笑って、国村は槍ヶ岳山頂へ続くルートを歩き出した。
英二も一緒にアイゼンの足を踏み出すと、どこか心が軋んだ。
この痛みは、誰の心の聲だろう?

さくりさくり、
小気味よくアイゼン雪ふむ音が2つ、連れだって進んでいく。
ゆるやかな斜面を下り、懸垂下降、際どい岩場のトラバース、雪陵歩き。
通っていく道をアンザイレンザイルに繋がれて、ふたり槍ヶ岳山頂を目指して雪氷を踏んで行く。

道のりは、どこか哀しい。
もうじき雅樹と国村の時間が終わる、この哀しみが英二の心を軋ませる。
だから想ってしまう、きっと本当に雅樹の心は今、英二の心に入っている。

―そうじゃなかったら、こんなに哀しいなんて、無いよな?

いま少し前を歩いていく青いウェア姿、その腰と胸は赤いザイルで英二と繋がれている。
この赤いザイルの絆は今、英二ではなく雅樹と繋いだものだと、ごく自然に想ってしまう。
そんな想いを抱きながら、間ノ沢の風花が降った場所に戻った。

15年前の晩秋、水俣乗越から北鎌沢右俣を登って雅樹は北鎌尾根に入った。
右俣の雪壁を登攀し北鎌のコルへ、直登して独標を踏んで幾多の小ピークが重なっていく。
この岩峰連なる途次の小さい平なポイント、ここで突風に雅樹は浚われた。

「雅樹さん?ここで、…寂しくない?」

透明なテノールが訊いてくれる。
この問いに雅樹なら何て答えるだろう?問いかけた心の応えに英二は微笑んだ。

「寂しくないな、ここは俺が好きな山だから。父との思い出もあるし、今も光一と一緒に歩いて楽しいよ?」
「ほんと?俺と一緒で楽しい?」

訊きかえしてくれる笑顔は、すっかり子供の顔に戻っている。
こんなにも慕っている少年を置いて逝った、その哀しみは雅樹にも深かっただろう。
この15年前から尽きない哀切たちに英二は微笑んだ。

「うん、光一と一緒だと楽しいよ?」
「俺もね、雅樹さんと一緒だと、うれしいんだ、」

底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そして槍の穂先を指さすと、透明なテノールが謳うよう笑った。

「行こう、雅樹さん。一緒に天辺に行って、三角点タッチしようよ?」

三角点に手形を遺す。
これがラストシーンだと、底抜けに明るい目が笑って告げてくれる。
この覚悟が愛しいと想えてしまうのは、きっと雅樹の心だろう。この雅樹の心のままで英二は微笑んだ。

「うん、三角点タッチしよう?光一が1番手で、俺が2番だね?」
「そうだよ、いつもそうだったよね?…っぅ…ね、まさきさ…っ」

透明な目から涙こぼれて雪陵に融けこんでいく。
それでも国村は無邪気に笑って、英二の左掌をとると手を繋いでくれた。

「行こう、まさきさん…っ」

ここは雅樹が滑落し亡くなったポイント。
ここから頂上までが雅樹の途絶えたトレースを繋ぐ道になる。
ここから手を繋いだ国村の想いは、哀切にも逞しい。

ここが、トレースを繋ぐスタート地点。

「行こうよ、雅樹さん…槍の穂先を、俺と超えてね、俺と一緒に…っ、…ぅ…て、ね、」

繋いだ掌を握りしめて、透明な明るい目が笑って、涙こぼれた掌を曳いてくれる。
泣笑いの瞳見つめて、綺麗に笑いかけて、英二と雅樹は一緒に頷いた。

「うん、一緒に超えよう?さあ、行こう、光一、」
「…うん、行くよ…っ、」

哀切の涙から、きれいな明るい笑顔が無垢な貌いっぱいに花ひらいた。
ゆっくり掌を曳きながら握った掌を離していく。
そして、前に立って国村は歩き始めた。

「さあ、北鎌平を抜けたら、雪壁だね?俺、壁登るの、すごい速くなったよ?」

透明なテノールが明るく謳うよう雪稜を透りぬく。
この声ならきっと大丈夫、やさしい安堵に微笑んで声に応えた。

「すごいな、いっぱい練習したんだ。光一は天才だけど、努力家だな?」

天才だけど努力家。
すらり出た言葉に英二は驚いた、これは雅樹の言葉だろう。
だって自分は国村を、山のことでは雲上の存在だと想っている。だからこんなふうには言えない。

「うん、練習したよ、雅樹さん?ちゃんと家の畑も手伝って、それから山で遊んでるよ?」
「お手伝い、いつも偉いな、光一は。今年の梅はどう?」
「見事だよ?雪がなんどか降ったのに、ちゃんと花咲いてくれる。でね、初恋の子に今年は見せてあげれたよ?」
「光一、すごく嬉しかったんだね。雪のお花見は、幸せだったんだ?」
「うん、うれしかったよ。約束だったんだ、ずっと、」
「その子もきっと、うれしかったよ?光一、」

自然と会話が英二の口からこぼれてくる。
この会話の内容は英二だったら出てこない、どこか慈愛のような温もりがあふれていく。
ずっと見守りたい慈しむ想い、これは雅樹が山ヤの少年に抱いている温もりではないだろうか?
やさしい温もりに微笑んで、ふたり北鎌尾根の稜線を登っていく。

―もうじき、終わってしまう、

近づいてくるラストシーンへと心が揺らめいている。
この心には本当に雅樹が入っている、こんなに心が悲鳴をあげそうに痛い。
だから解かってしまう。きっと今、国村の心を慟哭が切り裂いている。

どうしたら、この慟哭を止めてやれる?

この願いの答えがほしい、どうかヒントだけでも与えてほしい。
そんな願いと雪稜を歩くうちに、白銀の傾斜は急になっていく。
この急峻な雪稜を登った後、正面の岩場を天井沢側の左から巻いて進むと、正面が数m程の雪壁となる。
この雪壁を見あげて、英二は微笑んだ。

「光一、ここを登ったら、頂上だね?」
「うん、そうだよ、雅樹さん。槍の穂先に出られるね、…」

透明なテノールはいつもより弾みが無い。
この声に国村の哀しみが解かってしまう、尽きない慟哭が聴こえてくる。
この慟哭を止めたい、雪壁を前に英二は隣のアンザイレンパートナーに綺麗に笑った。

「ごめんね、光一?約束を守れなくて。でも信じてほしいよ、俺はね、一生懸命、帰ろうとしたんだ。光一との約束を守りたかった、」

底抜けに明るい目が瞠られる。
明るい目の奥から「ほんとうに?」と問いかけが響いてくる。
この問いかけに英二は、雅樹の心から微笑んで頷いた。

「光一の約束の為に俺は、帰りたかったんだ。救急用具は忘れてきたけどね、這ってでも帰ろうとしたんだよ」

滑落した雅樹は左足と左腕が骨折し、動かせない状態だった。
それでも右腕と右足だけで、滑落現場より数百メートル先まで移動した跡が遺されている。
おそらく尾根の北西から吹き上げた突風に巻かれ、雅樹は東方向の間ノ沢へと滑落した。
そのため左側の腕と足を負傷、他は頭部打撲も無く右半身は無事だった。

だが救急用具をこの日に限って雅樹は忘れた、積雪で添木も見つけられない。
それでも雅樹はダブルピッケルの1本を左足の添木に使い、ザイルで固定した。
左腕にはザックの底板をサムスプリント代わりに使い、裂いたTシャツで縛りつける。
そして雅樹はもう1本のピッケルを右掌に握りしめ、間ノ沢から水俣乗越をめざし歩き始めた。

けれど10月下旬、槍ヶ岳の夜は零下を遥かに超える。
急激に低下する気温の底で、激痛と負傷による発熱で体は進まない。
積雪が無いならビバークも手段だった、けれど、あの日の間ノ沢は積雪が多すぎた。
生き残る可能性に懸けるなら、すこしでも雪崩の多発帯から遠く逃れるしかない。
高熱と痛みが体力を奪っていく、力尽き倒れて、それでも這って移動する。
雪に凍る地面が体を沈めこむ、それでも雅樹は決して諦めずに前へ進み続けた。
けれど山の冷厳は、この美しい若き山ヤを抱きこんだ。

この検死結果を判定したのは、雅樹の父親である吉村医師だった。
長野県警からの連絡で検案所に駆けつけ、吉村は自ら検死と鑑定を申し出ている。
如何に医師といえども感情がある、冷静な判断が困難になるため普通は近親者を診ることはない。
けれど吉村医師は自身の掌で、愛する息子の現実を全て受けとめた。

―…雅樹の右腕も足も、筋肉の動いた形跡が残っていました。
 きっと最期の瞬間まで、前へ進もうとしたのでしょう。帰ろうと、してくれたんです、雅樹は…

検死結果と想いを吉村は、この縦走に発つ直前の朝、昨日の朝に話してくれた。
この医師として親として強い心に深い敬意を英二は抱いた、そして雅樹の想いを心に刻んだ。
その全てを今ここで伝えたい、英二は雅樹の想いを声に乗せた。

「あの夜の地面は雪で凍ってね。それでも、凍傷になっても良いから帰ろうとしたんだ。
でもね、気づいたらもう、眠っていたんだよ。信じてほしいよ、俺は帰ろうとしたんだ。光一と一緒に、最高峰に登りたかったから」

この雅樹の最後まで諦めなかった心には、きっと山ヤの少年との約束が温かかった。
そんな確信に微笑んだ英二に、透明に無垢な目は微笑んだ。

「うん、信じるよ?雅樹さんは、帰ろうとしてくれたね、」
「そうだよ?だから俺はね、体は無くなったけど帰ったんだ、」

真直ぐに子供のままの目が見つめてくれる。
その目に優しく微笑んで、英二は雅樹が遺していくトレースを言葉に変えた。

「いつも俺は見ていたよ?光一が山に登っているとき、一緒に登っていたんだ。冬富士も、マッターホルンもね。K2も一緒だ。
ご両親が亡くなった時も俺は、光一と一緒にマナスルにいたよ?田中さんが亡くなった時も御岳にいた。ずっといたよ、だから光一、」

ひとつ言葉を切って英二は微笑んだ。
真直ぐ目を見つめたまま、登山グローブの両掌をパートナーと繋ぎ合せる。
固く繋いだ掌を握りしめながら、輝く高峰を心に見つめ大らかな想い微笑んだ。

「これから光一は世界中の山に登るだろ?そのとき俺はね、光一と一緒に登っているから。
光一の目には見えないけれど、ちゃんと俺は光一とアンザイレンしているから。そうやって光一の、山に登る自由を守るよ。約束だ、」

約束、この言葉が自然とあふれた。
だから確信してしまう。今、きっと本当に雅樹が一緒にいてくれる。
こんな感覚は不思議だ。けれどここは山、山は不思議なことが起きる。
そして、この山は雅樹が眠りについた山、雅樹の最期のトレースが刻まれている。
だから自然と受容れらてしまう、この想いと率直に笑いかけた先で無垢な目の少年が頷いた。

「約束だね、雅樹さん?」
「うん、約束だよ?」

約束したい、そんな響きかけに素直に英二も微笑んだ。
そして真直ぐ瞳見つめて、雅樹のトレース最期の想いをザイルパートナーに告げた。

「覚えていて、光一?俺はね、光一のアンザイレンパートナーだ。見えなくても、ずっと光一とアンザイレンしてる。俺は隣にいるよ」
「うん、…アンザイレンしてるよ?雅樹さん…ありがと、…っ、」

底抜けに明るい目から涙が零れて、穂先の基部に吸い込まれていく。
きっとこの温かい涙は間ノ沢まで沁みこんで、沢の陵にねむる山ヤを温めてくれる。
この確信に心から感謝して、英二は綺麗に笑いかけた。

「よし、じゃあ光一?山頂に出よう、そうしたら思いっきり笑えよ?俺はね、光一の明るい笑顔が好きだから、笑顔で送ってほしい」

この半分は英二の本音、そして、もう半分はきっと雅樹の想い。
この想いに笑う英二に、底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれた。

「うん、笑うよ?俺もね、雅樹さんの笑顔が最高に好きだ、だから最後は笑ってよね?俺、一生、覚えているから、」
「そうだね。じゃあ、一緒に笑おう、光一」

―そしたら、さよならだ

そう心に告げた言葉は誰のものだったろう?

光一と雅樹。
このアンザイレンパートナー達の永訣が、雪陵の頂に待っている。
この永訣は「別離と連理」相反する2つの意味が無くてはいけない。
この2つの意味を抱くことで国村は、きっと心の氷壁を超えられる。

山の永遠の眠りにしずむ。
これは山ヤなら誰もに可能性がある終焉の姿。
親しい山ヤを山に見送ることは、避けられない氷壁になって山ヤの道に聳え立つ。
この哀しみ凍れる壁を真正面から山ヤは超える、このために仲間が眠る場所へ慰霊登山を行い魂を貴ぶ。
そうして仲間の途絶えたトレースを自分に繋いで、生死を超えて共に山登る自由を言祝ぐ。
これが出来なければ、山ヤとして生きることは出来ない。

けれど国村は、雅樹の慰霊登山が出来なかった。
いつも北鎌尾根だけは登ってこなかった、槍ヶ岳山頂の入口から眺めては引き返していた。
最愛の山ヤの死に、純粋無垢な山ヤの魂は傷つきすぎ、超えられなかった。

それでも英二は、この壁を何としても超えさせたかった。
最高の山ヤの魂に相応しい、最高のザイルパートナーとしての慰霊登山を手向けさせてやりたかった。
この道を通り真直ぐ壁を超えられなかったら、この先ずっと雅樹の死に国村は傷つき続けていく。
それは最高の山ヤに相応しい生き方じゃない、だから超えさせたかった。

そして今、超える。

「じゃあ、俺のリードに付いて来てね?行くよ、」

赤いザイルを掴んで底抜けに明るい目が笑う。
そして雪壁にとりついて軽やかな登攀が始まった。

雪陵の頂へ聳える氷壁を、青いウェアが登って行く。
この氷壁を超えた向こうには、明るい白銀の世界が待っている。
この壁を超えさせる覚悟に微笑んで、英二はザイルを掴み登攀を始めた。

「ここ、ちょっと脆いから!気をつけてね、雅樹さんっ」
「ありがとう!気をつけるよ!」

リードして登攀していく青いウェア姿を見つめている。
この心が切なくて哀しくて、心配で愛しくて抱きしめていてやりたい想いあふれていく。
きっと今、雅樹は英二と一緒に登攀している。そして愛する山ヤの少年へ、哀切と愛情ふたつながらの想いに見守っている。
この自分をアンザイレンパートナーにと、心から望んでくれた誇り高き山ヤへの、深い想いが温かい。
この望まれた歓びは英二と重なる、この想いの交錯が導くトレースが温かい。

自分と似ていて、けれど違う人生を歩んだ1人の山ヤ。
美しい山ヤの医学生だったと、佳い男だったと、誰もが彼を慕い惜しむ。
この彼が志した「生命の尊厳を守る」道は、山ヤの医者としてだった。
この自分は山ヤの警察官として同じ道を志し今、彼のアンザイレンパートナーと共に生きている。

一度も会ったことのない山ヤ。
けれどこんなにも自分は雅樹の想いが沁みてくる、どこか深い縁を感じてしまう。
だからこそ、彼の最後のトレースを自分も歩き見つめてみたかった、途絶えたトレースの続きを繋ぎたかった。
彼の最も心残りだったろう「山ヤの約束」大切なザイルパートナーとの約束を身代わりにでも果たしたかった。
だから今日は、必ずアンザイレンパートナーと一緒に、雅樹のトレースを踏みたかった。

そして途絶えたトレースが、今、完登され繋がれる。
この先もずっと、彼が愛した山っ子が明日へ繋いでいく。

「雅樹さん、頂上だよ?ほら、360度が、雪山だね、」

底抜けに明るい目が笑って、雅樹の想いを頂上で迎えた。
赤いザイルでアンザイレン結びあう、自分のパートナーが泣きそうな笑顔で見つめてくれる。
ここで全て泣かせて心のゲートを1つ通らせてやりたい、この願いに微笑んだ。

「うん、すごいな?白銀と蒼の世界だ、綺麗だね、光一」

誰もいない山頂を、ナイフリッジの風が抜けて行く。
風が奔りさる白銀かがやく雪陵に、透明なテノールが泣笑いに答えた。

「だね、すごいよね、…山は、…いいよね…まさきさん、」

底抜けに明るい目が笑って、涙が頬伝っていく。
この明るい泣顔の頬を、登山グローブ外した右掌で拭ってやった。

「泣き虫だね、光一は?ちょっと水分不足が心配だな、水筒は持って来たよね?」
「当たり前、だね、…っ、…飲むよ、」

すこし甘えたトーンで話しながら、涙呑みこんで笑ってくれる。
素直に座りこんでザックからテルモスを出すと、ひとくち飲んでからこちらに差し出した。

「ほら、雅樹さんも飲んでよね?雅樹さんだって、水分不足だよ?」

甘えたような生意気な口調が笑っている。
笑う頬伝う涙を見つめて笑いかけて、素直にテルモスを受けとった。

「相変わらず生意気だね、光一は?」
「そうだよ、…っ、俺はね、一生ガキだよ?でも、山ヤとしては俺、大人になれてただろ…っ、…」
「うん、大人になったね、」
「だろ?…っ、」

笑っている明るい目から涙こぼれていく。
この泣顔はずっと忘れられないだろうな?そんな想いと一緒にテルモスの茶を飲みこんだ。
温かい茶が喉を降りるのに微笑んで、テルモスを返しながら笑いかけた。

「大人になったね、光一。すごく立派な山ヤだ、アンザイレンパートナーとして誇らしいよ?」
「だろ?…俺、雅樹さんのパートナーだよね?…っ、…まさきさん、…っ…今日、一緒に登れて…うれし、かった、」

透明なテノールが涙に詰まっていく。
受けとったテルモスを握りしめたまま、底抜けに明るい目が泣笑いしている。
溢れていく涙に微笑んで、長い腕を伸ばすと泣いている青いウェアの肩を抱きしめた。

「僕もうれしいよ。ありがとう、光一。会いに来てくれて嬉しかった。もう、ずっと一緒にいるよ、約束だ、」
「…っ、ぅ、約束、だよ?…絶対、約束だよ?…ずっと俺と、一緒に、山、…登ってよね?」
「うん、絶対の約束だ。ずっと一緒に山に登ろう、」

抱きしめた背中をあやすよう軽く叩いてやる、その背中がのびやかに広い。
中学生だった時に生まれた赤ん坊は、こんなに大きな男になって山ヤになった。
大きな夢と誇りに笑う泣顔に笑いかけて、素手の右掌で涙の顔を拭ってやる。
素直に涙拭われる顔は、子供の頃のまま嬉しげに笑って見つめてくれる。
この無邪気な顔がずっと幸せでありますように、この祈りと一緒に微笑んだ。

「さあ、光一?三角点タッチ、するんだろ?光一からしないと、僕が出来ないよ?」

底抜けに明るい目が哀切に泣いて、唇を噛みしめる。
けれどすぐに1つ瞬いて、ひとつ呼吸すると大らかに誇らかな笑顔が咲いた。

「うん、するよ?…ちょっと待ってね、『点』を探すから…、っぅ、」

泣きながら笑いながら、国村は雪を掘り出していく。
この槍ヶ岳山頂には、正確に言えば三角点は無く「点」だけがある。
元は2等三角点が設置されていた、けれど現在は標石が地面に埋設固定されていない。
そのため国土地理院の点の記で成果使用不能扱いとなり、地形図でも槍ヶ岳山頂は単なる標高点扱いとなっている。
けれど「点」であることには変わらない、この「点」を青いウェアの腕は雪の中から掘り出した。

「さあ、雅樹さん?天を突く槍の、先っちょに跡をつけるよ?…」

からり泣顔に明るく笑って、点に積もる雪へと手形が押された。
いつもより深く押し刻まれた手形は、真青な穹天のした白銀に輝いている。
雪光る手形を見つめながら、透明なテノールは涙のむ聲と微笑んだ。

「ほら…俺、やったよ?…見てよ、雅樹さん、…っ…おれ、うまいだろ?…ぅ、っ…」

白銀の手形に嬉しそうに笑った瞳から、涙こぼれて蒼穹の点にふりかかる。
点を見つめる泣笑い顔を覗きこんで、温かな頬に右掌でふれる。
もう一度だけ涙の頬を拭いながら、おだやかな想いと笑いかけた。

「うん、巧いな?光一は、子供の頃からずっと、上手だね、」
「だろ?…っ、…ぅ、」

純粋無垢な目が涙の底から笑ってくれる。
温かな想いと哀切と、尽きない愛情が涙ふれてくる。
拭ってやる掌に温かな涙が沁み込んでくれる、この温かな想いごと掌に登山グローブを嵌めた。
そして白銀の手形を覗きこんで、心からの祈り見つめて綺麗に微笑んだ。

「こうやって手形を押しながら、世界中の山を元気に登っておいで?そして必ず無事に帰るんだ、いいね?」
「ん、…帰るよっ、…絶対に、かえる…っ、どこの、山からも、ね?」

元気に、そして必ず無事に帰る。
このことが結局は一番大切なことだろう。
このアンザイレンパートナーの山に生きる誇りを言祝いで、綺麗に笑った。

「必ず帰るんだよ?笑顔で、元気に、幸せになるんだよ?」
「うん、…なる、…だから、一緒にいてよね?…約束だよ、」

底抜けに明るいまま笑う目から温かい涙が白い頬伝う、白銀の手形にふりそそぐ。
この純粋無垢な目が自分は大好きで、ずっと見守っていたいと願っている。
だから願いのまま正直に寄添いたい、この約束を無垢な目に見つめて綺麗に笑った。

「約束するよ、だから忘れないで?僕はずっと一緒に山に登っているよ。そうやって僕は、光一と一緒に生きている、」

どうか忘れないで?
願いを見つめる綺麗な笑顔を、大切なアンザイレンパートナーに向けた。
その笑顔に応えるように、明るい泣笑い顔が素直に頷いた。

「うん、一緒に生きているね?…約束だよ、そっちこそ忘れないでよ?」
「最後まで生意気だな、光一は、」

綺麗に笑いかけて、愛しい泣笑い顔の額小突いてやる。
その顔が嬉しそうに笑った。
こんな顔で笑ってくれるなら、もう大丈夫だろうな?
こんな幸せな笑顔を見せてくれるなら、きっとトレースを繋いで山に生きていけるね?
この大好きな笑顔を見届けて、ひとつ呼吸して、そして長い指の掌を白銀の手形の上に押し当てた。

「さよなら、光一。でも、ずっと一緒にいるから、大丈夫だよ?」

大らかな想いまばゆく笑って、ゆっくり掌を雪からあげていく。
そうして白銀の点の上に、2つの重なり合う手形が残された。

「さよ、なら…っ、…」

透明なテノールの別離の聲と温かな涙が、点に重なる2つの手形にふりそそいだ。

ふわり、
一陣の谷風が昇って、蒼穹に白銀の花ひとつ顕れた。
ゆるやかに空めぐり雪の花ひとつふる、そっと青いウェアの肩に白銀は舞い降りた。

ナイフリッジを風が昇る、東から間ノ沢から風が吹く。
東風はゆるやかに雪陵の頂をめぐり、遥か西へと透りぬけていく。
黒髪をゆらし、涙を払い、紅潮した頬撫でて、やさしい笑顔遺しながら、最期の風は西へと駆け去った。
そして真青な空の下、白銀の手形は蒼穹の点に残った。

「ま、さきさ…っ、」

ぽとん、手形に涙こぼれていく。
ぽとり、ぽつん、温かな涙は白い頬こぼれて、雪陵の頂を温める。
涙こぼす顔あげて、遥か西の蒼空を見つめて、底抜けに明るい目はきれいに笑った。

「まさきさん、っ、…ぅ、ぁ…ありがと、…っ…」

青いウェアの肩がふるえている。
槍ヶ岳山頂から北鎌尾根独標までの往復、約4時間半。
この間に幾度と青い肩は泣いただろう、そして笑ってくれただろう?

「…ぅ、っ、ありが、と、…っ、」

西の空から視線戻して、遺された手形を見つめて、愛する面影に笑いかける。
雪陵の頂に座りこんで、点の手形に涙こぼれていく、けれど瞳は底抜けに明るく笑っている。
その笑ったまま泣いている瞳を覗きこんで、英二は綺麗に笑いかけた。

「ほら、国村?雪洞、掘るんだろ?さっさと終わらせて、酒を呑もうよ、」

覗きこんだ顔に細い目が涙の底を動いて、こちらを見てくれる。
そして愉しげに笑って、青いウェアの腕が力一杯に英二を抱きしめた。

「おかえりっ!俺の、別嬪アンザイレンパートナー。愛してるよ、み・や・た、」

涙こぼしながら、けれど底抜けに明るい目が思い切り笑っている。
嬉しそうに笑って英二を抱きしめて、そのまま狭い頂上にふたり雪に寝転がった。

「国村、危ないってば!ここ狭いんだから、」

雪にザックごと押し倒されて英二は笑った。
押倒して抱きついたまんま国村も、愉しげに目を細めると飄々と答えた。

「大丈夫だよ、宮田。こうして1つになっているからね、場所とらないよ?」
「1つになってって、なんか嫌だな?他の表現にしてくんない?」
「じゃ、『合体』?」
「もっと嫌だな、」

いつものエロトークが可笑しい、楽しくて英二は笑った。
国村も可笑しげに笑いながら、軽やかに英二を抱き起してくれる。
そして向き合って真直ぐ目を見ると、すこし恥ずかしげに微笑んだ。

「ありがとうな、宮田。本当に俺、うれしかったよ?」

恥ずかしげでも明るい笑顔は幸せに咲いている。
真直ぐに国村は「壁」を超えた、それが嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「うん、俺も、うれしいよ、」

雪を払って一緒に立ちあがりながら、うれしいまま笑いかけた。
その笑顔を見て国村は、うれしそうに笑った。

「この笑顔がイイよね、おまえってさ。ホント、マジ愛してるよ、可愛い俺のアンザイレンパートナー?」

明るい笑顔をまた見られた。
それが嬉しくて微笑ながらも英二は、きっぱり断った。

「褒めてくれるの嬉しいけどさ、愛は要らないよ?」
「遠慮するなって。今夜はね、存分に愛をささやくから。よろしくね、み・や・た」

涙に紅潮した顔のまま、けれど目はもう愉快に笑っている。
そんな様子に安心しながら英二は、釘刺しながら笑った。

「俺はちゃんと寝たいよ?だから、パス」
「パスは無効だね、さて。北穂へ向かうかな?そのまえに、この下の冬期小屋でさ、飯にしたいね。腹減っちゃったよ、俺、」

呑気に言いながら下山へと踏み出していく。
いつもながら明るい国村の笑顔は前よりも、また底が抜けて明るくなっていた。



(to be continued)

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