萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第42話 雪寮act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-11 23:59:02 | 陽はまた昇るanother,side story
学府の扉、ふる雪に開いて



第42話 雪寮act.1―another,side story「陽はまた昇る」

木曜夜の新宿は喧騒賑やかだった。
年度末にかかり送別会も多い街は、アルコールの香が華やいでいる。
繁華な夜22:38、夕方から続く雨が雪に変わった。

「雪だ、」

華美なネオンに真白な粉雪がふりそそぐ。
白く優しい冷たさに、酔った顔が喜び見上げだした。

「うわ、早く帰らないと、電車ヤバいって、」
「もうオールにしようよ?」
「いまから店、入れるかな、」

立哨する交番入口で、様々な声が聞こえてくる。
雪にはしゃぐ人波を見つめながら、周太は雪空の彼方そびえる山稜を想った。

…きっと、奥多摩は雪…英二、すこしは今日は、休めたのかな?

昨日まで英二は穂高連峰で、雪壁の登攀訓練をしていた。
そして青梅署に帰ってきてすぐ召集が掛かり、2日掛かりの遭難救助に今日まで入っている。
きっと登攀訓練もハードだったろう、そのまま救助に入るのでは疲れて不思議はない。

…英二、疲れていないかな?大丈夫かな…

訓練と夜間の救助活動が続いたから、もう4日ほど声を聴いていない。
それでもメールで元気な様子は送ってくれている、けれどやっぱり心配にもなる。
もう雪崩で負った英二の怪我はすっかり癒えていた、でも心配はしてしまう。

…ちょっと、心配性になり過ぎ、かな?

こんな自分は、すこし恥ずかしい。
熱くなってくる首筋をさり気なく撫でていると、交番のガラス扉が開いた。

「おつかれさま、湯原。交替だよ、少し早いけど上がって?」

先輩の柏木が笑顔で声を掛けてくれる。
左手のクライマーウォッチを見ると22:50になっていた、いつの間に時間が経ったのだろう?
すこし驚いて、けれど素直に笑顔で周太は頭を下げた。

「すみません、ありがとうございます」
「このまま、2時間くらい仮眠しておいで?雪も降りだしたから、街も落ち着くし。ゆっくりしてくれて良いよ、」

優しく笑って2階へと柏木は送りだしてくれた。
いつもながら穏やかな先輩の親切な言葉に、素直に感謝して周太は2階へ上がった。
休憩室の扉を閉め、上着と制帽を脱ぎハンガーに掛けて、ネクタイを緩める。
それから仮眠用の布団を敷いてスタンドを点け、目覚ましをセットした。

「ん、これでいいな?」

これで準備はいい、微笑んで周太は携帯をひらいた。
見ると受信メールが入っている。

「英二と、美代さん、かな?」

嬉しくなって受信ボックスを開くと、3件入ってる。
時間が早い順に周太は開封してみた。

From:小嶌美代
subject:明日だね
本 文:こんばんは、当番おつかれさまです。
  いよいよ明日だね、楽しみで今夜眠れるか心配です(><)
  忙しいだろうから、レスはしなくていいからね?それより少しでも仮眠してください。
  明日の講義、もしも寝ちゃったら一生後悔しそうだから。でも湯原君でそれは無いね?(^^)
  では明日12時半にね、午後半休も定時であがります。
  雪でも絶対に行きます!

「ん、ほんと、楽しみだね?」

ほんとうに楽しみにしている様子の友達が嬉しい。
自分が好きな事を一緒に楽しめる、そういう友達は本当に良い。
大好きな友達の文面に微笑んで、周太は短く返信を作った。

T o:小嶌美代
subject:明日
本 文:こんばんは、メールありがとう。
  明日、俺もすごく楽しみ。雪だったら気をつけて来てね?
  では明日12時半に。仕事、がんばって終わらせてください。

送信を押して、次のメールを開封してみる。
その送信人名に、つきんと周太の心は小さく痛んだ。

From:国村光一
subject:無題
本 文:今日も救助があったけど、ほんとは宮田に救助されたのは、俺だった。大好きだね、

文面に微笑んで、周太はそっと呟いた。

「…そんなの、わかってるよ?光一…」

もう最初から、ずっと解かっている。
そうじゃなかったら光一に、あんなにも自分は嫉妬しなかったろう。

「だって、ずっと見てるんだ、俺は…英二のことだけを、」

この1年前に出逢って、ひとめ見た瞬間から心に刻まれた。
美しい冷酷な微笑の底から見つめてくれた、真直ぐな視線が心を浚いこんだ。
あの視線のむこう側にある、素顔のこの人に逢いたい。
そんな想いで迎えた入校式は、同じ教場で同じ班で、隣の部屋で嬉しかった。
あれから、ずっと英二のことを見つめている。

だから解かってしまう。
誰が英二を見つめているのか、どんな想いで英二を見つめているのか?

―…大好きなんだ、雅樹さんのコト。だから本当は俺、雅樹さんをアンザイレンパートナーにしようって思ってた

そんなふうに、光一が話してくれた時にもう、自分は悟っている。
光一にとって英二がどんな存在になっていくのか?

「光一?ほんとうは…雅樹さんの分も、英二のこと、すごく好きだよね?…わかってるよ、」

雅樹が亡くなったのは、周太と光一が出逢う1年ほど前だった。
きっと光一の心の傷は生々しかった頃だろう、そんな時に光一が愛する山桜の下で周太は遊んでいた。
あのとき周太を見て光一が「山桜の精ドリアード」と信じたのは、縋る想いもあったかもしれない。

「俺のこと、好きになってくれたのも…花や木が好きだった、雅樹さんの事もあったから、でしょう?」

もしあのとき、山桜の下に居たのが英二だったら。
それこそ光一にとって唯一の、最愛の恋愛相手との出逢いだったかもしれない。
こんなふうに運命は、どこか小さな擦違いに不思議な足跡を残していく。

「…どんな意味が、あるんだろう?」

ほっと呟いて周太は返信を書くと、送信を押した。

T o :国村光一
subject:おつかれさま
本文:救助おつかれさまでした。俺もね、いつも英二に救助されてる、大好きなんだ。

2つのメールが終わって、3つめのメールを開く。
開封メールを見た瞬間に、周太に笑顔が咲いた。

From :宮田英二
subject:逢いたいな
本 文:おつかれさま、周太。ずっと電話できなくて、ごめんな。
    今日の午後は、すこし昼寝してから吉村先生のお手伝いをさせて貰ってきた。
    今はもう部屋に居るよ、何時でも良いから電話してほしい。声を聴きたい。
    逢いたいよ、あと10日が長いな。

「ん、…俺もね、逢いたい、」

同じように想ってもらえて嬉しい。
嬉しいままに着信履歴から周太は、電話を架けた。
すぐ1コールで繋がって、電話のむこうに周太は微笑んだ。

「おつかれさま、英二?…昨日と今日は救助、大変だったね、」
「周太こそ、おつかれさま。ずっと電話できなくて、ごめんな、」

きれいな低い声が謝ってくれる。
4日ぶりに聴けた声が嬉しい、そっと熱くなる頬を撫でた。

「ん…仕事も山も、英二は一生懸命だから、…そっちは雪、ふってる?」
「うん、夕方から雪が降りだした。新宿はどう?」
「さっき雪に変わったよ?…でも、すこしだけ…あ、」

雪、で思い出したことに周太は笑った。
この4日間に送ってくれた写メールのお礼を言いたい、周太は口を開いた。

「穂高と槍ヶ岳の写メール、ありがとう。雪山きれいだった」
「気に入ってもらえたなら良かったよ?そっか、新宿も雪なんだ、」
「ん、夕方は雨だったけど、…そっちは積もってるよね?気をつけてね、」
「うん、気をつける。周太、明日は美代さんと公開講座だよね?雪積ると、電車とか遅れるからさ。気をつけて行ってこいな、」

自分が楽しみにしている予定を、きちんと覚えてくれている。
きちんと記憶して心配してくれる心遣いが嬉しい、嬉しくて周太は微笑んだ。

「ありがとう、すごく楽しみなんだ、明日は…雪でも絶対行こうね、って美代さんと約束したんだ、」
「楽しそうで、なんか俺も嬉しいよ?」

優しい綺麗な声が笑ってくれる。
きっと今、自分が大好きな笑顔がむこうで咲いている。
その笑顔を心に見つめていると、大好きな声が訊いてくれた。

「ね、周太。4日ぶりの電話だね、寂しいなとか思ってくれた?」

そんなこと決まっているのに。
気恥ずかしく想いながらも周太は正直に言った。

「それは、さびしいよ?…暫く一緒だったから、余計に、ね?」

一週間ほど前まで、英二は静養のため川崎の実家で1週間を過ごした。
あのとき周太もシフト交替のお蔭で休めて、2度の当番勤務以外は実家に帰っていられた。
あの数日間は一緒の時間が幸せで。ずっと一緒に居れたらいいのに?そんな想いが最後の日は哀しかった。

「うれしいな、俺、周太のこと、いっぱい考えてたよ?」

ずっと聴いていたい声が想いを告げてくれる。
うれしくて素直に周太は訊いてみた。

「そうなの?…いつも?」
「うん、いつも。俺ね、ワイン持っていったんだ、だから夜も周太のこと、想いだして話してさ。あの夜が懐かしくて、逢いたかった」

ワイン、あの夜。
この2つの単語が示す意味が、面映ゆい。
恥ずかしいけれど幸せで、あまやかで熱い幸福な記憶が蘇ってしまう。
きっといま顔は赤いんだろうな?気恥ずかしいけれど周太は微笑んだ。

「ん、…恥ずかしいね…でも、うれしいな?…ね、俺のこと、光一と、どんな話をしたの?」

空気が、いったん止まった。
どうしたのかな?首傾げて電話のむこう窺うと、頭を下げる気配がして、申し訳なさそうな声が言ってくれた。

「ごめん、周太。周太を大人にしたこと、自白しました、ごめんなさい!」
「…っ、」

あの夜の話を光一にしちゃったの?

これはすごく恥ずかしい、これから光一にどんな顔すればいいだろう?
けれど光一のメールには、なにも触れていなかった。

―…花の美しさを君に贈ったよ、俺は…周太、俺にはなにか、貰えないの?
  ずっと手つかずだったらね、いつか俺、お初の誘惑に負けちゃうかもしれない…そしたら、ごめんね?

英二の精密検査を待つ梅林で、雪のなか告げられた言葉たち。
光一の想いに自分は応えられない、それが残酷と知りながらも正直な想いを自分は告げた。
また家に遊びに来てくれたら、茶を点て、育てた花をお土産にあげる。そう告げた。
そして告げた通りに自分は、静養を終えた英二を迎えに来てくれた光一に花束を贈った。
あれからも光一はメールや電話をくれる。

そして英二が「自白」した後も光一は今までと変わらず接してきた。
それが何故なのかも本当は解かってしまう。

『大人にしてほしい、』

この望みを周太が英二に言えたのは、光一が自身の望みを告げながら周太の背中を押してくれたからだった。
あのとき光一はもう、周太が英二に望みを告げることも覚悟していた。だから今回も英二に確認したくて聴いたのだろう。
きっと光一なりに答を持って英二に祝福してくれたはず、この潔い初恋相手の面影に微笑んで周太は英二に尋ねた。

「ん、…どんなふうに話したの?」
「うん、誘導尋問っていうか…ね、周太?正直に全部、言っても良い?」
「ん、いいよ?」

正直に全部話して貰えたら、うれしいな?
そう素直に笑いかけた電話のむこうから、覚悟するよう呼吸ひとつ零れて、正直な告白が始まった。

「まずね、『宮田の処女喪失に乾杯』って言われたんだ、『バック貫通したんだろ』ても言われてさ。
それで、セクハラですかって切り替えして。そのあとは暫く別の話題だった、でも周太とワインを飲んだ話になって言われたんだ。
『ワインで眠らせた隙にでも、お初頂戴したんだろ?泥酔に童貞強姦だなんて鬼畜フルコースだね、このケダモノ』
俺、思わず弁解しちゃって。酔っていたけど周太は起きてた、大人にしてって言ってくれたの朝も覚えていたって。その後は済崩しで…」

しょじょそうしつばっくかんつうどうていごうかんってなに?
正直に告げられる単語の洪水に、周太の頭は押し流されて真っ白になった。



翌朝の新宿は白銀の街だった。
交番前の雪かきをして、それから周太は新宿署独身寮に戻った。
勤務明けの風呂を済ませて食堂に行くと、ちょうど同期の深堀がテーブルに座るところに会えた。

「雪、すごいな?今朝起きてさ、俺、びっくりしちゃったよ、」

深堀が人の良い顔で笑っている。
朝食の煮物を茶碗に運びながら、周太も頷いた。

「ん、もう3月も終わりなのに、驚いたな?…駅前も、真白だったんだ、」
「駅前でだと、公園とか奥の方はすごいだろね?あ、雪って言えばさ、宮田、今度は滝谷っていう雪の壁を制覇したんだってね、」
「あ、…百人町の所長に聴いたんだ?」

深堀の所属する百人町交番の所長は警視庁山岳会に所属している。
それで英二の噂を同期だからと深堀は聴かされているらしい。
今度はどんなふうに英二は言われているのかな?すこし首傾げた周太に深堀は気さくに教えてくれた。

「うん、警視庁山岳会で話題みたいだね、宮田とパートナーの先輩、」
「話題なんだ、英二?」
「そうだね、滝沢の三スラっていう難しい所も登っているし、これは本物だな、って言ってたよ」

やっぱり注目を浴びている。
こんな現実を聴かされると、光一が英二の遭難事故を隠匿した理由がよく解る。

…やっぱり、あの判断は的確だったんだ

こんなにも英二は、注目されている。
この注目には「才能あふれる新人」という期待と「エースと組めて幸運なだけ」という嫉視が混じるだろう。
そういう英二の立場を思うと慎重になるべきことも多くなっていく。
今後を考えながら玉子焼きに箸つけていると、深堀が続けてくれた。

「しかも宮田ってさ、遭難者の方への接し方が優しくて、ご遺体の扱いもすごく丁寧なんだってね?
でも、遭難事故で亡くなった方や、自殺されたご遺体って酷いだろ?だから所長も感心していたよ、最初から出来るのは難しい、って」

そのことは周太も、吉村医師や後藤副隊長からも聴いている。
同期の藤岡にも聴いているし、光一も褒めてくれていた。
そういう英二の優しい懐を認めてもらえるのは、うれしい。

「ん、英二ってね、そういうところ本当に、すごいな、って俺も思うよ…藤岡も褒めてた、」
「藤岡も山岳救助隊だもんね、あいつも良いヤツだよな。ずっと会っていないけど、元気?」
「ん、元気だよ?鳩ノ巣駐在ってところにいるんだけど、柔道の指導もしている、」
「へえ、すごいな。藤岡って、柔道強かったもんな?懐かしいな、」

こんな他愛ない同期との話が楽しい。
ほんとうは英二と離れているのは寂しい、けれど、こうした時間があるから英二への第三者の評価も聴かせてもらえる。
きちんと聴けるのは嬉しいし、英二のことを客観的に見る機会にもなって良い。

…やっぱり妻になるんなら、夫のことはね、ちゃんと理解できていないと…あ、

また妻とか夫とか考え始めちゃったどうしよう?
こんなこと考えると昨夜の電話でも話題になったばかりの、あのよるのこととかおもいだしてしまうのに?
あの夜も、それから他の夜も朝も幸せだったから、ひとりの時は思い出して幸福に浸る時もある。
だから今も油断すると、英二の台詞と姿が出てきそうで困ってしまう。

…だめ。英二のせりふとか思い出しちゃダメ、ぜったいいまはだめ、

 『可愛いな、幼妻みたいだ。こんな周太も大好きだよ?』

…それだめっ、このさきはぜったいにおもいだしちゃだめ、えいじ今はでてきちゃダメっ、いまはあさですっ

あの幸せな時間の台詞と美しい姿が、つい思い出されてしまう。
けれど、こんなの今は絶対に恥ずかしい、こんな場所では気恥ずかしい。
食事の箸を運びながらも首筋が熱くなっていく、もう頬まで赤いかもしれない。
なんだか困りながら周太は、深堀の話に頷きながら少しだけ急いで箸を運んだ。


美代と無事に待合わせが出来て、私鉄から地下鉄を乗り継ぎ、本郷に着いた。
白銀にそまる弥生キャンパスの門を潜ると13時だった。

「講義まで1時間くらいあるな。ね、湯原くんは、お昼って食べた?」

明るい笑顔で美代が訊いてくれる。
午前中いっぱい仕事して、そのまま来た美代は食事していないだろうな?
自分も軽くパンを食べただけだし、周太は提案してみた。

「ちゃんと食べてないんだ、俺。学食とか、行ってみる?」
「うれしい、大学の学食って行ってみたかったの。それに実は、お腹空いちゃってて、」

楽しげに笑って美代は賛成してくれる。
美代は農業高校を卒業して、そのままJAに勤務しているから大学を知らない。

…もしかして美代さん、大学に憧れているのかな?

そんなことを考えながら周太は、学食の食券売り場で美代と一緒にメニューを選んだ。
それぞれトレーを持って席に着くと、楽しげに美代は辺りを見ながら箸をとった。

「大学の学食って、こんな感じなのね?ごはんも丼だし、量も多いのね、」
「ん、ここは農学部だから、体動かすから、特にかも?」
「湯原くんの大学はどうだったの?」
「俺は工学部だったけど、男子ばっかりで…だから、量も多かったかな、」

大学の話をしながら、お互いに丼を抱え込んでいる。
なんだか美代が丼を持っている姿は、ある意味様になって可愛らしい。
意外な組み合わせが似合うってあるな?思いながら周太は、さっき思ったことを美代に訊いてみた。

「美代さんは、大学に行こう、って思わなかったの?」

唐揚げに箸を運びながら美代がこちらを見てくれる。
きれいな明るい目は笑って、そして教えてくれた。

「うん、本当はね、大学は行きたかったの。でも、私の周りで大学行く人、あんまりいないの。
しかもね、光ちゃんも高卒でしょ?光ちゃんが大学受けないんじゃ、私は絶対に大学なんて受からないかも、って思っちゃって」
「美代さん、頭良いのに?…どうして、光一と比べて、諦めちゃうの?」

なぜだろう?
不思議で訊いた周太に、美代は教えてくれた。

「光ちゃんってね、すごく頭良いの。小学校から中学まで、ずっとオール5だし、高校もオール10でね。
中学と高校の時は入学式でも卒業式でも代表やってるの、首席だったから。だからね、私レベルだと言いだし難くって、」

光一の頭の良さは周太も納得が出来てしまう。
でも、それと光一が大学に行かなかったことは、観点が違うだろうに?
思ったことを周太は言ってみた。

「光一が大学に行かなかったのは、早く山岳救助隊になって、毎日ずっと山を登って、世界の高い山に行くためだよね?
 大学に行くことが難しいから、じゃなかったと思うけど…だから、美代さんは遠慮すること、無かったんじゃないのかな?」

「そうなのよね?ほんと、後からそれに気が付いちゃって、私。馬鹿よね、」

明るく笑って美代が頷いてくれる。
そして笑いながら、こっそり美代は教えてくれた。

「だからね?私、実は大学に行こうかな、って今、計画中なの、」
「そうなの?」
「うん、まだ誰にも言っていないんだけどね、」

内緒の話よ?
そう明るい目が笑って、計画を打ち明けてくれた。

「JAに勤めてからね、すこしずつだけどお金を貯めてあるの。それを使って、大学に行こうって考えてて。
でもね、ちょっと仄めかしてみたら両親は反対なの。結婚が遅くなるぞ、って言われてね?だから、もう内緒で受験しようと思って、」

こういう夢の内緒話を、友達から聴かせてもらえるのは嬉しい。
この夢になにか自分も協力出来たら良いな、うれしい想いに周太は頷いた。

「ん、絶対に誰にも話さないよ?…あの、俺で良かったら受験の勉強、すこし教えられるかも、」
「うれしい、ほんと言うとね?そう言ってもらえること、当てにしてたの」

当てにしてもらえるのは嬉しいな?
気恥ずかしく想いながら周太は微笑んだ。

「喜んでもらえるなら、うれしいけど…ちょっと恥ずかしいな?」
「恥ずかしくないよ?だってね、湯原くんは教え方が上手って、秀介ちゃんに聴いたの、」

秀介とは暫く会っていない。
いま聴いた自分と似た名前の少年が懐かしい、周太は微笑んだ。

「秀介が?…うれしいな、」

まだ秀介は小学校1年生だけれど、祖父の遭難死を透して医者の道を志し、もう努力を始めている。
そのために熱心に勉強を進める秀介は、御岳に遊びに来た周太にもドリルを教えてほしいと訊いてくれた。
そういう秀介は年齢はずっと下だけれど、尊敬できる友達だと思う。
久しぶりに会いたいな?懐かしい友人の面影に周太は微笑んだ。

「秀介、元気?」
「うん、相変わらず宮田くんに、勉強を教わりに行ってるみたいよ?秀介ちゃんからもね『周太さん会いたいです』って伝言、」
「ん、俺も会いたいな…4月にね、母も一緒に奥多摩に行くと思うんだ、」
「湯原くんのお母さん、すごく素敵なんだってね?光ちゃんも言ってたの、お会いしてみたいな、」

楽しい会話と食事を進めて、トレイの上はきれいに平らげられていく。
ボリュームの多い昼食を終えると、下膳口にトレイを下げて美代と周太は学食の出口に向かった。

「君、一年生?」

出抜けに声かけられて、美代と周太は同時に声の方を見た。
見た先で、ここの学生らしい男が2人で立っている。

なんだろう?

ふたり揃って疑問形の顔で眺めていると、学生達が美代に話しかけ始めた。

「すごく可愛いな、って思って声かけちゃったんだ。春休みなのに大学来るなんて、偉いね?」
「それとも4月の新入生で、今日は見学とか?」

どうやら美代を気に入って声を掛けたらしい。
周太は初めて見るナンパの現場に、目を大きくして眺めこんだ。

…やっぱり、美代さんってモテるよね?

なんだか深く納得しながら周太は、友達の顔と学生たちを見比べた。
美代は聡明さが顔にも明るく表れているけれど、華奢で可愛らしいから若く見えてしまう。
だから学生達も完全に美代を、新入生だと思いこんで話しかけているのだろう。

「見学ならね、俺たちが案内してあげるよ?その友達も一緒でも良いけど、」
「本郷キャンパスの学食の方が、ゆっくりできるからさ?一緒にお茶しようよ、」

ナンパって、いろいろ頑張って喋るんだな?
自分には到底出来そうにないな?
つい感心して周太は眺めていると、美代は可笑しそうに笑って口を開いた。

「ごめんなさい、これから私達、デートなの。ね?」

可愛らしい声で言いながら、美代は周太の掌をとってくれる。
そして手を繋ぐと、愉しげに学生たちに会釈をした。

「じゃあ、失礼します。ね、周くん、早く行きましょ?」
「あ、ん、」

しっかり手を繋いだ美代は、周太を引っ張って歩き出した。
そうして学食を出て、そのまま3号館から雪のなかへ出ると美代は笑いだした。

「あははっ、学生に間違われちゃったね?いまから入学しても大丈夫、ってことかな?」
「ん、充分に大丈夫だと思うけど…やっぱりモテるんだね、美代さん、」

繋がれた手を引っ張られながら、さくさく積もった雪を歩いていく。
白銀にそまったキャンパスは静かで、ほのかな小雪のなか人通りも優しい。
さすがに馴れた足取りで雪を歩く美代は、可笑しくて堪らない顔で笑った。

「ね?意外と私、イケるのね?でも本命はね、誰かさんにぞっこんで、振向かないです」
「…それ言われると、恥ずかしいよ?」
「愛し合っているのは、良いことよ?恥ずかしがらなくていいの、ね?」
「ん、ありがとう…でも、恥ずかしいな?」

美代は英二に恋をしている。
けれど美代は、こんなふうに明るく笑いの種にしてしまう。
そうして周太と一緒に、自分の初恋を楽しもうとしてくれる。
こういう友達が自分に居てくれることが、本当に楽しくて幸せだなと思う。
でも、さっきは急でびっくりしたな?そう思ったままを周太は口にした。

「さっき、いきなり手を繋いで引っ張るから、驚いたよ?…あれって、彼氏のフリする、ってことだった?」
「うん、そうよ?そうしたら、あの人達も諦めてくれるかな、って。あ、ここかな、会場、」

ちょっと面白いデザインの木造建築の前で、並んで立ち止まった。
どこからか現れてくる人々が次々と、この建物の扉を開いて入って行く。
脇にある立派な正門を見ながら、受講証の裏面にある地図と確認した。
どうも位置関係からここらしい、頷いて周太は微笑んだ。

「ん、ここが弥生講堂みたいだね?」

奥多摩の水源林についての、公開講義。
雲取山麓に広がるブナ林の物語を、これから聴かせて貰うことが出来る。
心が喜びあふれるまま微笑んで、周太は抱えてきたブックバンドの本を見た。

『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』

樹木の生命力について、樹木の医師である樹医が記した本。
幼い日に憧れた「植物の魔法使い」が書いた本は、本当に不思議で楽しくて、温かだった。
この本はもう自分の宝物になっている、そんな想いで見つめる隣から、楽しそうに美代が聴いてくれる。

「この青い本でしょ?今日の講師の先生が書いたのって、」
「ん、そう。青木先生が書いたんだ、」

12月、新宿東口交番で青木樹医に初めて出会った。
そして2月に偶然いつものラーメン屋で再会して、この本を周太に贈ってくれた。
そのときに公開講座の案内書と申込書も一緒に渡してくれた、そのお蔭で今、ここに立っている。

「湯原くんの、宝物の本ね?」
「ん、そうだよ?…これはね、俺には宝箱の本なんだ。宝物の知識がね、いっぱい詰まっているよ、」

この青い本には詞書も添えられていた、その詞書は美しく温かい。
この宝箱のような青い本を書いた青木樹医が、今から講義をしてくれる。

…ね、お父さん?これからね、植物の魔法使いの、魔法の話が聴けるよ?

幼い日に父と話していた植物の魔法使い、樹医の話を今から聴く。
幼い日からの夢がひとつ、今日これから叶えられていく。
いま開かれる時間に心が温まるのを感じながら、周太は講堂の扉を開いた。


(to be continued)

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