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萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第44話 峰桜act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-29 23:54:02 | 陽はまた昇るside story
想い、水うつる月と花と



第44話 峰桜act.2―side story「陽はまた昇る」

業務が終わり国村の四駆で青梅署に戻ると、ふたり診察室へと向かった。
活動服姿のまま扉をノックして開いた室内は、コーヒーの香と笑い声が愉しげに待っていてくれた。

「失礼します。吉村先生、こんばんは、」
「こんばんは。お二人とも、おつかれさまでした。こちらのお二人も、お待ちかねですよ?」

おだやかで楽しげな吉村医師の声が温かい。
医師の声に周太と美代が、マグカップを抱えたまま揃って振り返ってくれる。
そして英二の大好きな笑顔が、いつものトーンで声を掛けてくれた。

「お帰りなさい、ふたりとも…さっきは駐在所で、ありがとう。母も喜んでたよ?」
「よかった、でも大したこと出来なくて、ごめんな?」

ほんとうに一日、案内してあげたかったな?
そんな想いに困りながら笑いかけた英二に、周太は優しく笑いかけてくれた。

「ううん、活動服姿の2人が見れて、楽しかったって…喜んでたよ?」
「俺も、おふくろさんに貢献できたんだね?よかったよ、」

愉しそうに答えると、底抜けに明るい目が温かに微笑んだ。
やわらかな笑顔に頷きながら周太は、マグカップを置いて立ち上がってくれた。

「ん、光一のこともね、かっこいいね、って言ってたよ?…コーヒー淹れるね、」
「ありがと、よろしくね、」

折りたたみ椅子を2脚出しながら、うれしそうに国村は笑っている。
こんなふうに国村と周太は仲が良い、そんな様子に嬉しさと不思議な想いでいると、美代が笑いかけてくれた。

「おつかれさまです。あのね、宮田くんには悪いけど、お先に湯原くんの隣をゲットしちゃいました。いいかな?」

きれいな明るい瞳が楽しそうに英二と国村に微笑んだ。
ほんとうに美代は周太が好きなんだな?微笑ましい想いに英二は笑いかけた。

「おつかれさま。美代さんなら、良いよ?」
「よかった、ありがとう。私もコーヒー、お手伝いして来るね、」

素直に喜んで美代も席を立ってくれる。
そして周太と2人並んで、コーヒーを淹れ始めた。

「湯原くん、お湯を注ぐのって、これ位の速さで良い?」
「ん、いいよ?…ちょっと空気を入れる感じでね、こう、」
「そうか、空気ふくませると、香が空気に入るのね、」

楽しそうに2人並んでいる姿は仲良しで、なんだか双子みたいに睦まじい。
ちょっと妬けるかな?思いながら椅子を出して座ると、国村が悪戯っ子に笑った。

「いま美代に、嫉妬しただろ?」
「うん、ちょっとだけね、」

一瞬だけ、なんて答えようか本当は迷った。
けれど正直ありのまま答えた方が良い。そんな想いと笑った英二に透明な目が温かに笑んだ。

「おまえの正直なトコ、好きだよ。だから今、うれしいね、」

変な気を遣わないでよ?
そんなふうに国村の目が真直ぐ笑ってくれる。
こういう方が自分も好きだ、素直に頷いて英二は微笑んだ。

「うん。俺、おまえには全部、正直に言いたいよ?だって、生涯のアンザイレンパートナーは、何でも言い合うんだろ?」

生涯ザイルパートナーであることは変わらない、今、お互いの想いは少し違うけれど「親友」の想いは重なっている。
それでも違う想いがあって、だからこそ正直に言い合っていきたい。ずっと一緒にいたいなら「違い」こそ受け留めあう必要があるから。
この正直な想いが時に傷つけるかもしれない、けれど本音なら仕方ない。もし傷つけたら、その傷も自分が受けとめていけばいい。
そんな想いに微笑んだ先で、きれいな笑顔が咲いてくれた。

「だね?」

短く透明なテノールが答えて、笑ってくれる。
この笑顔も前より率直で、北鎌尾根で見た時以上に想いが深い。
これから自分たちはどうなるのだろう?そんな想い見つめた英二に、周太が熱いカップを持ってきてくれた。

「はい、英二…熱いから、気をつけてね?」
「ありがとう、周太、」

いつもどおりの芳香がうれしい、なにより淹れてくれた人の笑顔が温かい。
この笑顔がいま救いになってくれる、幸せな想いで英二はマグカップに口をつけた。
やさしい熱と香を楽しみ始めると、美代と周太が楽しげに吉村医師へ話し始めた。

「さっきの続きです、先生。青木先生は、私の本にもサインとメッセージをくれたんですよ、」
「それは嬉しかったですね、どんなメッセージですか?」
「扉の前に立つ君へ、っていう書出しなんです。成ろうと成るまいと、努力する勇気が大切です、って…ね、湯原くん、」
「ん、そうです…信じて夢に向かい努力を続けていく、その勇気こそが学問を志す者の資質であり、心大きな人の道です…かな?」
「それは素晴らしい言葉を頂きましたね。がんばって勉強しよう、って思えたでしょう?」

どうやらさっきまで、2人で東大の公開講座に行った話をしていたらしい。
周太は勿論、美代も年度末で忙しかったから、ふたりとも吉村医師に会うのは今日が久しぶりになる。
きっと自分たちが来るまで色んな話をしていたのだろうな?3人の楽しげな様子に微笑んだ英二に、隣から国村が話しかけた。

「あのふたり、マジで植物学が大好きだよね?俺も農家だから好きだけど、ちょっとレベル違う。すごいね、」
「あ、やっぱりハイレベルなんだ?あの2人は、」
「うん。だから俺、美代があそこまで楽しそうなのって、初めて見るんだ。周太とならレベルが合うんだね、」

頷いた底抜けに明るい目が温かに笑んでいる。
国村にとって美代は大切な姉代わりの幼馴染になる、そんな相手が楽しそうな様子は嬉しいのだろう。
国村が言うように美代にとっては周太は大切な話相手で、それは周太にとっても同じでいる。
あの2人が出会えて良かったな、うれしくて微笑んだ英二に国村は悪戯っ子に笑いかけた。

「だからさ?余計に美代の家族は、周太を婿に欲しがるってワケ。困ったね、」
「うん、困る…」

ほんとうに困るな?
心から途方に暮れるまま、素直に英二は溜息を吐いた。
そんな英二を覗きこんで、底抜けに明るい目が見つめて微笑んだ。

「ま、いざとなったらね、俺が奥さんやってあげるから。安心してよ、ア・ダ・ム、」
「ありがとな、」

ひと言だけ、けれどこれが一番自分の気持ちを素直に伝えられる。
きっと国村は家族がいない英二を気遣ってくれた、その想いに感謝したいから。

すでに分籍した英二は今、法律上は親族も家族も無い孤独な状態になっている。
もちろん現実には肉親があり、婚約相手の周太もいる。けれど法律上で保障された相互扶養を頼める相手は誰もいない。
そして分籍は、二度と元の戸籍に戻ることも出来ない。それが婚姻による戸籍の独立とは違う点になっている。
だからもし、何かの事情で周太が英二の戸籍に入籍できなければ、ずっと自分は孤独になる可能性が高い。

このことを英二は、周太には話していない。
既に分籍を済ませたことも、分籍によるリスクも、英二は敢えて周太に話してはいない。
もし話せば周太は責任を感じるだろう、そうした責任感で英二との人生を選んでほしくない。
責任や義務と関わりなく自由な想いに恋愛して、その結果として英二との人生を選択してほしいから。

けれど国村には分籍したことを話してある。
山ヤとして警察官としてパートナーを組む相手である以上、最も頼る相手同士だから互いの事情把握は欠かせない。
だからこそ国村は、いまの英二の寂しさも理解して言ってくれた。それが素直に嬉しい。
うれしいよ?そう目で笑った英二に、透明なテノールが嬉しそうに笑ってくれた。

「うん、安心してね、」

いつもながら飄々と軽やかな口調、けれど無垢の瞳は少しだけ羞んでいる。
この無垢の瞳は含羞にすら、最高の山ヤに相応しい誇らかな自由がまばゆい。
自分はこの瞳が好きで友達になった、そして一緒に最高峰に行こうと誘われたまま頷いて、任官もクライマーの専門枠に切替えた。
この大切な友人に導かれ今がある、この瞳を無垢なままに自分は支え続けたい。
その為には、痛みも見るかもしれないけれど。そんな想いと英二は微笑んだ。

「奥さんじゃなくってもさ、どうせ一緒にいるだろ?だから、安心してるよ、」
「だね、」

幸せそうに明るい目が笑ってくれた。
どうせ一緒にいる、この言葉の意味に国村は喜びを見つめ笑ってくれる。
笑顔のままコーヒーを飲干すと、軽く伸びをして立ち上がり2人に笑いかけた。

「そろそろ腹減っちゃったからさ?俺たち、着替えてくるね?」
「ん、ロビーで待っていればいい?」

テノールの言葉へと素直に周太が頷いてくれる。
こうして傍で見ているだけで、静謐がやさしい恋人に心は和まされていく。
いま大好きな恋人が近くにいてくれる、それが嬉しくて本音すぐ2人きりになりたいと思ってしまう。
こんな自分は、やっぱり婚約者の恋の奴隷だと、改めて自覚も起きてくる。
そして今抱いている想いも受けとめてほしいと、自分の恋の主人に見つめてしまう。

「うん、ロビーのベンチのトコにでも居てよ。すぐ行くからさ、」
「光ちゃん、私の車で行くので良いよね?」
「そ。よろしくね、美代。じゃあ俺、寮に行ってくるから、」

そう言って国村は、さっさとカップを洗うと「また後でね」と行ってしまった。
これから4人で食事に行く、この4人揃っては2月以来で久しぶりになる。
今夜はどんな話になるのだろう?考えながら英二は流しに立つと、自分もカップを洗い始めた。
あの2月と今では3人と英二の想いは変化している、それへの微かな不安と穏かな覚悟とが鬩ぎ合う。

―いま、先生に話、出来たら良いのに

ふっとそんなことを想った自分に、英二はすこし苦笑した。
剱岳から戻って以来、慌ただしくて吉村医師とゆっくり話す時間がとれていない。
朝の手伝いは毎日させて貰っている、けれど春山シーズンの忙しさと馨の日記帳解読を急ぐために、じっくり話す時間が無かった。
本当は自分が抱え込んでいる、国村への想いを話してアドバイスを貰いたい。
けれど、自分だけで向き合おうとも考えて、今日まで独り見つめてきた。
そうして今、覚悟と逡巡を繰り返しながら想いのはざまで揺れている。
そんな状態のままで明日の夜にはもう、雪山訓練へと発つことになってしまう。

―明日の夜から、国村とふたりきり向き合う…雪山の世界で、

剱岳を下山した時、振り返って見た山頂はブリザードに消えて行った。
まるで秘密を隠すよう消えていく姿に、国村と見つめたキスの時間は「山の秘密」が籠めた幻なのだと感じて。
あの時間をまた再び雪山の世界で見つめることになる?そんな予兆と一緒に雪煙に隠されていく鋭鋒を見あげていた。
あの予兆の時が明日にはもう、訪れるのかもしれない。

さああ…ざあっ、

流し台の水音が、カップを洗う掌にふれていく。
この水音を切ったら4人で向き合う時間になるだろう。
国村の想い、美代の想い、そして周太の想い。この3つと自分はどう向き合えば良い?
もう正直でいればいいと決めた、けれど不安も起きあがってしまう。だって、こんなこと自分は慣れていない。
そんな想いに迷子になりかけた時、ふっと隣に温かい気配が立ってくれた。

「手が止まっているのに、水が出ていますよ?宮田くんらしくないですね、」

おだやかな声が笑いかけて、頼もしい掌は水栓を閉じてくれる。
振向いた先で優しい目が微笑んで「大丈夫だよ」と音のない声で伝えながら言ってくれた。

「うん?すこし熱があるかな?明日から訓練ですし、早めに今、診察した方が良いと思うのですが。いかがでしょう?」

いま時間を作ろうか?そんなふうに吉村医師の目が笑ってくれる。
何も言わないでも気づいてもらえた、その安堵に微笑んで英二は頷いた。

「はい、お願いして良いですか?山で倒れても、困るので、」
「そうだね、念を入れましょう?小嶌さん、湯原くん。少し宮田くんは遅れますけど、ロビーで待っていてあげて下さいね、」

そんなふうに言って吉村医師は2人を促してくれる。
医師の言葉に、黒目がちの瞳が驚いてすぐ隣に来てくれた。

「英二、大丈夫?…ごめんなさい、仕事忙しいのに、今日お願いしたから…疲れさせた?」

優しい瞳が哀しそうに謝ってくれる。
これは勿論、吉村医師の方便だから英二の体は何ともない。
それなのに心配を掛けてしまう罪悪感に傷みながら、英二は笑いかけた。

「大丈夫だよ、周太。念のため、だからさ?心配しないで、すぐ吉村先生が治してくれるから、」
「ん、…そうだね、先生だったら、大丈夫だよね?…」

心配そうなまま微笑んで、周太は吉村医師の顔を見た。
そんな不安げな顔に穏かな笑顔を向けて、吉村医師は頷いてくれた。

「大丈夫です。ごく軽い風邪でしょう、すぐ治りますよ。湯原くんはね、せっかく小嶌さんと久しぶりに会ったんだ。
大学の話とか、今2人で話しておくこともあるでしょう?宮田くんの診察時間も、ちゃんと有効利用して話していて下さいね?」

自分に任せて大丈夫、そう頼もしい笑顔で周太に笑いかけてくれる。
信頼する医師の笑顔に周太は素直に頷いて、笑ってくれた。

「はい、ありがとうございます。先生、英二をよろしくお願いします…英二、ロビーに居るね?」
「うん、待っていて?」

笑いかけると、やっと少し安心したように黒目がちの瞳が微笑んだ。
その隣から美代も、すこし首傾げながら声かけてくれた。

「宮田くん、ごめんね?光ちゃんの訓練、キツイでしょ?その疲れが溜まっちゃったのかも、」
「大丈夫だよ?あいつの訓練、ほんと役立っているから、」

こんな女の子にまで心配させている。
それも仮病な上に心の問題と来ているから、ちょっと情けない。
我ながら未熟だなと思いながら2人を見送って、診察室の扉が閉められると医師に向き合った。

「先生、ご配慮をすみません。ありがとうございます、」
「いいや、こっちこそ、すまないと思っているんです。さあ、まず座りましょうか?」

そう言って、いつもの椅子を勧めてくれる。
ほっと息吐きながら座った英二に、吉村医師は笑いかけてくれた。

「君の風邪の原因は、おしゃぶり光ちゃんのことでしょう?違いますか?」

おしゃぶり光ちゃん。
そんな可愛い綽名で呼んで、穏かな目が笑ってくれた。
なんだか可笑しくなって、つい英二も釣られて笑いだすと吉村医師は微笑んだ。

「よし、笑ってすこし、緩められたかな?宮田くん、この部屋に入って来たときから、ずっと張りつめていたよ?」
「あ、…解かっていらしたんですね、」

やっぱり吉村医師には解るんだな?
そんな理解にほっとした英二に、穏かな笑顔は言ってくれた。

「はい。でも正確には、剱岳から帰って来たときから、かな?」

お見通しでいてくれた、それが今は嬉しい。
もう全部話したいな?英二は医師の目を見つめて口を開いた。

「先生、俺…国村と、キスしたんです、」

英二の言葉に、穏かな目が微笑んでゆっくり頷いてくれる。
なんでも話してご覧?そんな広やかな懐が笑いかけてくれて、想いが声になって出てくれた。

「俺、あいつのこと大切な友達だって、想っています。何でも話せて、信頼できて…いちばんの親友だ、って。
山ヤとしても、警察官としても最高のパートナーです。あいつとなら最高峰にも行ける、夢を一緒に掴むパートナーです。
俺、そういう相手に初めて出会いました。きっと、他には見つからない、そう思います。だから、失いたくないんです、絶対に、」

失いたくない、唯一の親友を。
これは心の底からの本音、だって男なら人なら、親友の存在はどれだけ人生を豊かにするだろう?
その得難さも自分は解かっている、だから今、悩んで逡巡してしまう。この想いそのままに英二は言葉を続けた。

「先生、俺…前にも話した通り、周太に逢うまでは色んな相手と寝ていました、求められて気に入った相手なら…だから、
だから俺、セックスのこと、なんとも思っていなかったんです。少し楽しめそうな相手なら、求められるままOKしていました。
そうやって寂しい自分のこと誤魔化してきました…でも、周太と出逢って…今は簡単に出来ません、体で傷つくことを知ったから、」

こんな赤裸々なことを、大人に話している自分がいる。
そんな今が不思議で、けれど安らかで、緩められた想いのまま瞳から涙がこぼれた。

「先生、国村は、俺と、したいんです…俺のこと、あいつ、本気で恋愛してくれてるんです。それで、キスしたんです。
剱岳で本気のキスされて、俺、途惑いました…でも、あいつのこと、俺、笑わせたかったんです。大切だから、笑顔見たくて。
だから言いました、恋人の一番は周太だけど、一番の親友はおまえだよ、って。それでよかったら、キスしよう、って言いました、
あいつ、心と体と、両方で繋がったことなくて。それが寂しいこと俺には解るから…親友って想いなら同じだから繋がれる、そう言ったんです」

頬伝っていく軌跡が、ゆるやかに膝へと落ちていく。
涙の軌跡を感触に見つめながら、英二は言った。

「親友のままでいいから、そう国村は言ってくれて。それで、あいつのキスを受け留めたんです。あいつ、抱きついてくれて。
愛しい、って、心から想いました…だから俺、自分から抱きしめたんです。そうしたら、あいつ、涙こぼして静かに離れました。
もうこれで良い、そんなふうに。でも俺、抱き寄せたんです、あいつのこと…抱きよせて、初めて自分からキスしました、それが、」

ひとつ呼吸して、英二は唇をいったん閉じた。
話しながら見つめる先、ずっと吉村医師は穏かに見つめ返してくれている。
いまも「いいんだよ」と微笑んでくれる目に英二は、すこし笑って告白した。

「俺が、あいつに自分からキスした、あの瞬間がたぶん、あいつが本気で俺を、好きになった瞬間です。だから…
俺が、あいつのこと、自分で惹きこんだんです。俺が、自分で種を蒔いたことです…だから責任は、俺にあるんです、
それなのに俺は、応えることも出来なくて…あいつを幸せにしたくて、キスして…それが逆に、あいつ苦しめることになって、」

またひとつ涙がこぼれて落ちていく。
ずっと自分が蔑ろにしていた事が、いま自分に跳ね返って平手打ちした。そんな想いのままを英二は言葉に変えた。

「ずっと求められるまま体を与えてきた、それなのに、大切な親友には躊躇ってしまう。なぜなんでしょう?
もし、この体を与えて喜んでもらえるなら。そんなふうにも思います、でも怖いんです…キスと同じことになったら、怖い。
俺があいつにキスして、親友と恋人とに想いが離れました。だから、あいつの願いを叶えた瞬間もっと離れてしまうかもしれない、」

剱岳からずっと見つめ続けた、自分の罪と罰。
それをこの医師には聴いてほしい、この願いに涙がまた1つこぼれおちた。

「先生?俺…ずっと体のこと、蔑ろにしてきました。だから体の感覚が狂っているんでしょうか?
だから、親友でもキス出来たんでしょうか?…あいつは恋愛に墜ちても、俺は親友のままなんでしょうか?
先生、親友のままでも、あいつを幸せに、出来ると思いますか?どうしたら、あいつを失わないでいられるんでしょうか…?」

この想いの出口が見つからなくて、親友を失いたくなくて。
この想いを周太に話していいのかも解らない、自分の想いの行く先さえ見えてこない。
あのとき剱岳のブリザードに心ごと浚われて、覚悟と逡巡のはざまに迷い込んでいる。

誰かに、救けてほしい。

「宮田くん、まず、私に謝らせて貰えますか?」

おだやかな声が、迷い込んだ心に笑いかけた。

「なぜ、先生が謝るんですか…?」

なぜ、吉村医師が謝ってくれるのだろう?
不思議な想いに見つめた先で、おだやかな笑顔の医師は言ってくれた。

「宮田くんが、雅樹の慰霊登山を国村くんにさせてくれました。あのときが国村くんの、最初の引金でしょう?だからです、」

ほっと息を吐いて、吉村医師が英二に笑いかけてくれる。
そして頭を下げて、想いを告げてくれた。

「私は雅樹の父であり、医者です。それなのに、国村くんを15年間ずっと、雅樹への想いに苦しめたまま、何も出来なかった」

深い眼差しの切長い目が、真直ぐに英二を見つめてくれる。
見つめて、吉村医師は静かに語りかけてくれた。

「そんな私の無力の後始末を、宮田くんがしてくれました。きっと、君にしか出来ない事だったと思います。
けれどもし、もっと早く国村くんが向き合えたなら、今の君の悩みも無かった。もし私が賢明な人間であったならと、思います。
だから私は謝らなくてはいけないんです、雅樹の父として、ひとりの医師として、人生の先達として、力不足を謝りたいんです」

ゆっくり瞬いた深い眼差しが温かに笑んだ。

「君は、私のことを救けてくれました。心からお詫びします、そして、お礼を言わせて欲しい。ありがとう、宮田くん、」

ありがとう、そう言ってくれる?
すこし呆然とする想いに見つめた英二に、優しい眼差しが笑いかけた。

「君はね、自分で想っている以上に、人を救けていますよ?だからまず、自信を持ちましょう、」
「…自信、ですか?」
「はい、そうです、」

頷いて、英二の目を真直ぐ見てくれる。
見つめたまま少しおどけたふうに笑って、英二に言ってくれた。

「まず、結論から言いましょう。国村くんはね、剱岳からずっと、幸せそうですよ?」
「…え、」

驚いて少し目を大きくした英二に、吉村医師が笑ってくれる。
深い眼差しの目を笑ませながら、医師は述べてくれた。

「彼のことだから、一度は泣いたと思います。でも楽しそうですよ、大好きなひとと一緒にいる、そんな笑顔で。
雅樹と一緒にいた頃の笑顔と似ていて、それよりも幸せそうだなと、私は思っています。きっと彼はね、今が本当に満足なんですよ、」

雅樹といた頃よりも、今を。
この言葉の想い見つめながら、英二は訊いた。

「満足、しているんですか?…今に、」
「はい、今が満足なんです、きっとね、」

頷いた医師の笑顔が、すこし切ない。
切ない微笑のままに吉村医師は話してくれた。

「国村くんは、大切なひとを次々失ってきました。だから彼は、大好きなひとが生きて傍にいる、それだけで満足なんです。
まだ8歳の時に雅樹を失って、ご両親まで13歳で…子供のときに次々と失うことを経験したから、子供のままに無欲なんです、
無欲なら、なにも捕われることがないでしょう?だから彼は、あんなに自由なんです。無垢な子供のまま大らかで、優しいんです」

大らかな純粋無垢、子供のままの無邪気。
どれも国村が好かれる部分で、そんな性格が尚更に「山っ子」だなと思わされる。
けれど、それが哀しみから象られた現実が、切ない。

…よかった、俺、1番なんだね…俺、ほんとうに、おまえのことは、離したくないんだ…離れないでよ

剱岳で国村が告げた言葉が、また響く。
大好きなひとが生きて傍にいる、この価値を知っているから国村は言ってくれた。
あの想いに自分はどうこたえるべきだろう?想いの糸口を見つめ始めた英二に、吉村医師が微笑んだ。

「無欲で無垢な彼は、今、掌に与えられたものを大切にして、満足することを知っています。
そして失う痛みも、知りすぎている。そんな彼を本当に苦しめることは、大好きな君が離れていくことです。
もし君が彼の笑顔を、本当に大切にしたいなら。ずっと傍で向き合い続けるしかない、悩んでも、痛くても、傍にいることです」

傍にいること、そう自分でも思っていた。
けれど誰かに肯定してほしかった、許されると言ってほしかった。
この肯定が今の自分には優しくて厳しくて、温かい。どこか山懐のように温められるなか、山ヤの医師は問いかけてくれた。

「それにね、君はさっき言いました。キスして抱きつかれて、愛しいと想った、って。だから、気づきませんか?」

剱岳の雪洞で見つめた瞬間のこと。
あのとき自分が感じたことは?心映ったままに英二は口にした。

「…体の繋がりから、心の繋がりが深まることもある、ということでしょうか?」
「はい、」

答えに、吉村医師は温かな笑顔で頷いてくれた。
それは自分も聴いたことがあること、けれど自分には自信が無い。思う通りに英二は言った。

「先生、俺は、心まで求められることに、慣れていないんです…周太に逢うまで、誰もいなかったんです。
だから途惑うんです、今の状況にも、国村に抱きつかれて愛しいと感じた自分にも…だから自信が持てないんです。
先生、もし全身で繋がったら、あいつに今よりも幸せに笑って貰えますか?…俺は、親友のままでも、ずっと傍にいていいですか?」

このまま傍にいることが赦される?
この願いを問いかけた向こうから、穏やかな声が応えてくれた。

「親友のままでも、傍にいていいんだ。生きて笑って、傍にいてあげればいい。君が想う通りに、正直な心のまま隣にいればいい。
体の繋がりを持つことも同じです。親友と恋人と違うとしても、幸せな瞬間を望みたいと想い合えたなら、もう心は重なっているでしょう?
お互いの体温に幸せを見つめたい、そう想い合った瞬間に心は繋がるでしょう?誇りと命をザイルに託し合う、この絆を結んだ君たちなら、」

「肯定」が、いま温かい。



御岳の河原は、岩陰に雪が残っても若草が月に光っていた。
ひさしぶりの場所で焚火に当たりながら見つめる先で、川面の月がゆれていく。
皓々と明るい月下の山嶺は、名残の雪を白銀に照らして稜線を夜に描き出す。
その山翳も月光のまま、雪代ゆたかな渓流に輝いている。

―冬が終わる…雪山の季節も、

この冬は、想いが深かった。
この想い深い季節が今、雪代に溶けだし終わりを迎えていく。
ふる雪の深さも初めて目にする光景で、同じよう心の深みを幾度見つめただろう?
奥多摩の雪に、冬富士に。北岳の高潔な姿へ想いを抱いて、雪山への日々を見つめ始めた。
いつも白銀と蒼の世界に心奪われて、その果てに山の申し子と幻を見つめ合った。

今その申し子は、隣で酒を呑んでいる。
自分と同じように流木に腰掛けて、ぼんやり雪代の流れに微笑んで。
その向こうでは、自分の恋人が大切な友人と楽しげに話している。
もう春が来ている、そんな空気のなか穏かな時がやさしい。

けれど明日の夜から、再び雪山に入る。これが今冬、シーズン最後の雪山になるかもしれない。
想い深い季節の終わりに立つ雪山で、どんな想いを抱くことになるだろう?
この今も心ゆらめく幻の瞬間を、また見つめあう時を過ごすだろうか?
そんな想いめぐらす頭上から、薄紅の花が山風に誘われ降りだした。

「…雪の桜、」

ふっとこぼれおちた言葉に、祝福を英二は見た。
ぼんやりと、水面ゆらめく月と雪稜を見つめながら。


(to be continued)

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