約束の花、今、ひらく

第43話 護花act.2―another,side story「陽はまた昇る」
午後の陽ふる運転席で、ひそやかに響いていた嗚咽が途切れた。
ゆっくり黒髪の頭が上げられて、濡れた睫の瞳がこちらを見てくれる。
透明な涙あふれるままの、きれいな瞳が周太を見つめて、泣笑いに微笑んだ。
「来てくれたんだね、ドリアード?…」
不安と安心と、切ない縋る眼差しが心に届く。
こんなに綺麗な涙を見せてくれるひと、この純粋な初恋相手が自分は好きだ。
おだやかな想い微笑んで、やわらかく周太は応えた。
「ん、来たよ?…駐車場、開けたから入って?」
「うん、ありがとう…、」
涙のままでサイドブレーキをあげて、動かしていく。
速やかに車庫入れを済ませると、エンジンキーを外して光一がふり向いた。
「…っ、ぅ、」
ちいさな嗚咽と一緒に、透明な涙があふれだす。
泣いている無垢の目が周太を見つめてくれる、そして透明なテノールが告白した。
「ドリアード…俺、君の大切なひとを、本気で…、っ…すきに、な、た…、」
ほとり、涙が白いカットソーに零れおちる。
きらきら光る軌跡を頬たどらせながら、光一は言葉を続けた。
「きのう、剣岳で…雪の原っぱ、あって…天空の雪原、きれいでね…エデンみたいだった。それで、俺…キスしたくなって。
いつもみたいに抱きついて、半分ふざけてキスして…エデンの、大人のキスを…そしたら、やさしくて温かくて…俺、うれしかった、」
ふたつの瞳から、涙が煌きこぼれていく。
ウィンドーからふる午後の陽ざしのなか、輝く涙ぬれる白い貌が微笑んだ。
「でも夜、言われたんだ。いちばんの恋人は周太だ、なのに国村がキスして恋人になったら、国村は二番以下になってしまう、って
これって、絶対に一番の恋人にはなれない、ってコト…でも、仕方ないって解ってる…だって、あいつが愛したのは君だから…
だって、山桜のドリアード…俺だって君が大切で、山と同じに愛してる。だから…山ヤのあいつが、君を一番にするのは当然なんだ、」
透明なテノールが美しく響いていく。
いつもどおり透けるよう明るい、けれど切ない声は、幸せに笑って言った。
「でも、言ってくれた。国村は一番の唯ひとりの親友でいてほしい、二番以下になってほしくない、って…
いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、って言ってくれて…うれしかった、だって、いちばんって…
あいつの一番でいたいから、うれしかった。恋人じゃない、でも、親友でザイルパートナで一番になれた、嬉しかったんだ…いちばん、が、」
ほとり、涙が零れおちていく。
きらめく涙のなか微笑んで、ひとつ息吐くと光一は口を開いてくれた。
「それで、俺、ねだったんだ…エデンのキスしたい、って。親友のままでいいから、したい、って…キスだけでも、ふれたかった。
心ごと、体を繋げてみたくて…親友って想いなら、お互いに同じだから、心重ねて繋げられるから、だから…キスしたかったんだ、」
親友のままでいいから。
そう言った光一の想いが心ふれて、周太の瞳から涙がこぼれた。
だって、この想いは自分も知っている。あの警察学校時代に自分は、何度そう思っていただろう?
卒業したら離ればなれ、そう覚悟して、ときおり電話だけでも良いから声を聴きたい、そう願っていた。
あの想いは幸せでも辛い、けれど光一は一生ずっと英二の隣でならして良いと言っている。
その覚悟が切なくて哀しくて、綺麗で。心あふれる涙と見つめる先で、光一は微笑んだ。
「キスでふれあって、国村が幸せになれるんだったらしてもいい、そう言って、笑ってくれた。
それで俺、今だけは名前で呼んで、ってねだったんだ…そしたら、言ってくれたよ?『光一?キス、しようか、』って…それで、」
秀麗な貌は幸せに微笑んで、そして泣いた。
「幸せだった、」
ひとことが、心に響いてしまう。
透っていく綺麗なテノールは泣きながら、想い言葉に変えて微笑んだ。
「想い合ってキスする、幸せで、離れたくなか、った…温かくて、やさしくて、熱くて、あまくて…幸せで。
すこしでも多くふれあいたくて、あいつに抱きついていた…そしたら、抱きしめてくれ、て…なぜ抱きしめてくれるか、不思議で、
なぜ?って目で訊いたら…俺の頭を、掌で抱いてくれた。それが嬉しくて、涙、でて…これで良い、って想えて、離れた…そしたら、」
透明な無垢な瞳が、涙こぼして周太を見つめてくれる。
そして透明なテノールが言ってくれた。
「初めて、キスしてくれた…頭抱きよせて、唇にキスしてくれた、あいつから初めて…それで、それで俺、恋したんだ…!」
涙が、おおきく煌いて無垢の瞳をすべりおちる。
あふれる想いを言葉に変えて、テノールの声は心透り泣き出した。
「俺、恋した…!本気で、愛してる、今…あのとき、髪を抱かれた、唇にキスしてくれた、瞬間に、恋した…!涙まで、キスで…、
ごめん、ドリアード…俺、あいつのこと好きだったよ、最初から。でも、こんなになるなんて、想わなかったんだ…っあ、ぅっ、…
こんなに、こんなに誰かのこと、人間のこと、大切になるなんて想わなかった…ぅっ、あ…愛してる、あいつのこと、もう、はなれられな…い、」
涙ながれる美しい貌に、午後の陽が窓ごしふれていく。
きらきら光る頬の涙を、周太はそっと掌で拭って微笑んだ。
「ん、そうだね?…光一は、英二のこと、ほんとうに大好きで…誰より、愛してるね?」
「…し、ってたの?…ドリアードは、俺の気持ち…わかってた?」
純粋無垢な瞳が真直ぐに見つめてくれる。
子供のままに無垢できれいな瞳、この瞳に出会った時から自分は大切に想っている。
この想いのまま周太は、おだやかに笑いかけた。
「ん、愛するだろうな、って思ってたよ?英二は本当に綺麗で、かっこいいからね…隣にいたら、好きになるの当たり前、」
「うん、…ほんとうに、そうだ、った、」
無邪気なままの貌が、すこし笑ってくれる。
それでも涙は尽きないままに、光一は聲をあげた。
「ドリアード…俺、今も雅樹さん大好きなんだ、愛してる…でも、それ以上に、あいつのこと想ってる…おかしいくらい。
こんなに考えるなんて、こんなに一緒にいたいなんて…『山』以外は無かったのに…人間のこと、こんなに求めるなんて…ぅ、っ…
その相手が、君の大切なひとだなんて…ごめんね、山桜のドリアード…でも、自分でも、どうしようもなくて…お願い、赦して…よ…」
ずっと「山」が一番だった山っ子の光一。その山っ子が今、初めて「人間」に恋して苦しんでいる。
それを「山の秘密」の相手「山桜の精」に光一は告白してくれる。
こんなふうに光一は周太を敬愛する「山」の一部と信じて愛して、だからこそ光一は苦しんでいる。
大切な「山」を裏切ったと泣いて、赦しを願っている。この純粋で不思議な涙を、周太は心の木蔭に受けとめて微笑んだ。
「光一?好きになって良いんだよ、英二のこと…愛してあげて?」
周太の言葉に、無垢の瞳がゆっくり瞬いて涙こぼれる。
零れる涙を掌で拭って、泣いている瞳に周太は笑いかけた。
「誰かを大切に想うことは、悪いことじゃない。恋愛ってね、宝物かもしれない…だから、謝る必要なんてない。
謝ってくれるのだったら、その分だけ英二を守って?…英二の笑顔を守ってほしい。英二の笑顔は、俺の宝物だから、守って?光一、」
英二の笑顔を護ること。それはきっと、光一の笑顔を護ることにもなる。
この2つの願いに微笑んだ周太に、無垢な瞳はすがるよう見つめてくれた。
「…それで、赦してくれるの?ドリアード…俺は、あいつのこと好きでいても、いいの?」
「ん、好きでいて?…たまに俺、拗ねたりすると思うけど、でもね…光一が英二の傍にいると、英二、笑えるでしょ?」
「うん、…笑ってくれる、」
素直に頷いた瞳から、涙が降りこぼれてしまう。
子供のよう、けれど美しい泣き顔に笑いかけて、周太は涙を掌で拭ってあげた。
「じゃあ、いいよ?英二がたくさん笑ってくれるなら、それでいいんだ…英二と一緒にいてあげて?最高峰に連れて行ってあげて?」
これは本当の願いごと。
この願いに籠めた想いは言えない、けれど「ふたりが一緒にいてくれる」ことを自分が望むと伝わればそれでいい。
この先への想い隠したまま微笑んだ周太に、すこし笑って光一は頷いてくれた。
「うん、連れて行くよ?ドリアード…君の願いなら、俺は何でも叶えるよ?君から離れろと…あいつと離れろ、以外はなんでも聴く」
「ん、言うこと聴いてね?」
これで良い。
嬉しい想いで頷いた周太に、透明なテノールが問いかけをした。
「山桜のドリアード、教えてよ?…人間の恋愛は、どうしてこんなに苦しい?切ない?どうして…小さなことが、幸せなんだろう…」
傷みと想いが薄紅いろの唇からこぼれだす。
この問いかけに光一の途惑いと哀切が響いていく、玉響す想い見つめながら周太は応えた。
「きっとね…人は、限りがあるからだと、想うよ?」
これは難しい問いかけ。
けれど自分が想うことを正直に応えればいい、想う通りに周太は言葉を続けた。
「あのね…人の時間って、限られてるでしょ?だからこそ、この『今』を大切にできるな、って俺は思うんだ。
それでね、大切にしたいから、苦しくて切ないんだと思うよ?どうでもよかったら苦しくないよね、きっと、真剣な分だけ苦しい。
真剣に苦しんだ分だけ、一生懸命なだけね、幸せは嬉しいでしょ?…だから、小さなことにも幸せだな、って気づけるんだと思う」
父の姿に、雅樹に、自分は人の時の有限を知った。
だからこそ「今」を真直ぐ見つめることが出来る、本気で大切にしようと覚悟できる。
そして今もこうして、光一と目を逸らさずに向き合うことが出来てしまう。こんなふうに時の有限は、勇気にも変わってくれる。
この人間らしい勇気が愛しい、きれいに笑って周太は光一に言った。
「だからね、光一?…苦しい分だけ、幸せは見つけやすいかな、って俺は思うよ。苦しんで一生懸命な分だけ、幸せを見逃さない」
きっとそうだと、自分は思う。だって英二との時間がそうだったから。
警察学校での日々、それからの時間、いつも自分は苦しみと歓びを同時に見つめてきた。
いつか離れていく予兆の苦しみは、痛くて。けれど痛みの分だけ与えられた「今」共にある時が大切で、大切な分だけ幸せだった。
だから今もこの瞬間が愛しいと素直に思える。そんな想いに佇んでいる周太に、光一が微笑んだ。
「じゃあ俺、すごく一生懸命になれている、ってことかな?…一生懸命、好きなら…幸せに、なれるのかな、」
光一の恋する相手は自分の婚約者。
そして婚約者は周太以外を伴侶にはしないと、はっきり光一にも告げてしまった。
それでも、伴侶になれなくても光一は、この恋に生きようともう決めている。
たとえ人間的に見て不幸だとしても、山っ子にはそれが幸せなら、もう引き返さない。
山っ子は「山」の姿そのまま簡単には心動かさない、それでも「人間」の恋愛に墜ちたなら永遠の恋愛になるだけ。
この終わらない想いへと、今、懸けるべき言葉は?ゆっくり1つ瞬いて、周太は口を開いた。
「きっと、光一だけの幸せが見つかるよ?」
心定まってしまったなら、言祝ぎだけがあればいい。
そして言祝いだ想いを自分も、大切に見つめて支えて行けば良い。この想いと笑いかけた周太に光一も笑ってくれた。
「ありがとう、ドリアード。俺、幸せになるね?いっぱい嫉妬させるかもしれないけど、赦してね?君のこと、ずっと守るから」
真直ぐな想い告げながら、やっと底抜けに明るい目が笑ってくれる。
これならもう大丈夫。よかった、ほっと心に吐息ついて周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう。遠慮なく嫉妬するね…そろそろ、家に入ろうか?」
「うん、ありがと、周太…でも、」
頷いて、けれど気恥ずかしげに光一が笑った。
「俺、すごい顔だろ?かなり泣いちゃったからさ。こんな顔、あいつに見せらんないね、」
涙の痕が残る笑顔はきれいで、けれど少しだけ目が赤くなっている。
治まるのに30分位はかかるかな?考えながら周太は、携帯電話を取出した。
ひらいて、着信履歴から発信すると1コールで通話が繋がってくれる。微笑んで周太は電話の向こうに話しかけた。
「英二?…あのね、買物、思い出しちゃったんだ…このまま光一と行ってくるから、留守番お願いしていい?…ん、ありがとう、」
短い通話にすぐ切って、周太は運転席をふり向いた。
気恥ずかしそうに底抜けに明るい目が笑ってくれる、そして透明なテノールが微笑んだ。
「ありがと、周太。ねえ、やっぱり君は、山桜のドリアードだね?…こんなに純粋で、やさしくて、賢くて強い、」
想い告げながら、エンジンを掛け始めてくれる。
こんなふうに言われると気恥ずかしい、けれど周太は頷いて大らかに笑った。
「ん、俺はね、光一の山桜の精だよ?…だから、光一のことも守るよ、」
「うん、ありがとう、ドリアード、」
しあわせな笑顔が、雪白の貌に咲いてくれる。
底抜けに明るい目は笑んで、透明なテノールが謳うよう笑った。
「さて、今から買物デートだけどね、行きたいとこ、教えてよ?」
いつものよう楽しげに笑ってくれる。
こんな「いつもの」が嬉しいな?素直に微笑んで周太は応えた。
「ん、スーパーと本屋かな?…大学のサブテキストを、ちょっと見たいから、」
「うん、本屋か?…いいね、俺も本屋は行きたいんだ、」
思いついた何かに、無垢の瞳は悪戯っ子に笑っている。
いったい何をたくらんでいるかな?不思議に思いながら周太は、きれいな涙の痕に微笑んだ。

買物から帰ってくると、玄関ホールに英二が出迎えてくれた。
きれいな笑顔を咲かせながら、おだやかな低い声が微笑んだ。
「お帰り。ココア、作ってみたんだけど。どこで飲む?」
ココアは自分の好きな飲み物。
うれしい想いに微笑んで周太は応えた、
「ありがとう、英二…屋根裏部屋で、どうかな?」
「うん、いいな。ふたりで先に行っていて?持って行くから、」
言いながら買い物袋を受けとって、台所へと持って行ってくれる。
この家にすっかり馴染んでいる、そんな背中をダイニングへの扉に見送りながら、透明なテノールが笑ってくれた。
「あいつ、この家で幸せなんだね?イイ顔してる。あいつホント、君の婚約者になれて、よかったんだね、」
心からの祝福の言葉を言ってくれる。
この言葉の想いが切ない、けれど泣いてはいけない。
そんな想い見つめる周太の瞳を、底抜けに明るい目が覗きこんで微笑んだ。
「周太?あいつが君に出逢って恋をした、それで今のあいつになって、俺は恋したよ?君のお蔭で俺は、人間の恋愛が出来るね、」
光一は「周太込の英二を好きだ」と周太を包んでくれる。
こんなふうに言われて嬉しいな?素直に周太は微笑んだ、
「ん、ありがとう…俺もね、初めて会ったとき光一が、俺のこと好きって言ってくれたから、色んな人と話せるようになったんだよ?」
「そんなこと言われると、うれしいね、」
楽しげに笑って光一は、周太の耳元にキスしてくれた。
いつもながらの早業に気恥ずかしくさせられながら、周太は光一と階段を上がっていった。
書斎の前を通りかかると、ふっと甘い香が頬撫でてくれる。
…英二、お父さんにもココア、あげてくれたんだね、
自分のココア好きは、父の遺伝。
この香くゆらす心遣いが嬉しい、幸せに微笑んで周太は自室の扉を開いた。
「うん、いつもながら、良い部屋だね?」
感心しながら光一は部屋を見渡して、バルコニーの窓に佇んだ。
買ってきたテキストを机に置くと、周太もバルコニーから外を眺めた。
「山桜が、咲いているね?」
白い花に目を留めて、嬉しそうに透明なテノールが笑っている。
この花への光一の想いは自分も愛しい、笑って周太はねだった。
「光一?あの山桜が咲いたら、見せてくれる?」
「うん、もちろんだね、」
雪白の貌に幸せな笑顔が花ひらいてくれる。
「来週くらいには咲くね。おふくろさんと奥多摩に来るのも、来週だよね?」
「ん、その予定だよ?…母は、そのまま温泉に行くらしいけど、俺は河辺に泊まるつもり、」
「そうだってね?あいつ、楽しそうに話してたよ、」
話しながら梯子階段を上がっていく。
屋根裏部屋は天井ふる光に明るく温かい、陽だまりに周太はいつものマットレスとクッションを敷いた。
その間にロッキングチェアーの「小十郎」を撫でて、それから光一はクッションに座りこんだ。
「さて、お待ちかねのコレ、開けてみよっかね?」
愉しげに笑って本屋の袋を開いてくれる。
きれいなハードカバーの洋書を取出して、白い手は器用にビニールカバーを剥がしていく。
モノクロ写真が飾る表紙は花と人のコラボレーションが美しい、ため息に周太は微笑んだ。
「ほんとに、きれいな表紙だね?」
「だろ?中は、もっと綺麗だと思うよ、」
底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
B4くらいの洋書はシックだけれど贅沢な表装で、アルファベット綴りの題字もきれいだった。
なんて書いてあるのかな?題字を読もうとしたとき梯子階段の足音が聞えた。
「お待たせ、あれ?国村、本買って来たんだ、」
「そ、欲しかったんだよね、コレ、」
「へえ、どんな本?」
ココアのトレイをサイドテーブルに置くと、周太の隣に英二も座ってくれる。
そして覗きこんだ表紙に、切長い目が大きくなった。
「…国村?これ、どうやって探した?」
「洋書の写真集コーナーで、すぐ見つかったよ?ね、周太、」
テノールが可笑しそうに笑って訊いてくれる。
話を振られて周太は、素直に頷いた。
「ん、平積みされていたね?…人気があるみたいだったよ、すごく、きれいな表紙だし、」
「だよね?さ、周太、なか開いて見よう?」
白い指がページを開いてくれる。
そこには振り袖姿の美少女が、桜の花咲く下に佇んでいた。
豊麗な桜の花翳に、黒い振袖姿が浮かび上がる。
黒髪を花の風に遊ばせて、ひるがえる黒い袂は襦袢の紅がこぼれだす。
白皙の横顔は端麗で、真直ぐな瞳の強靭は高潔なまでに輝きまばゆい。
どこか神秘的な雰囲気の少女は、薄紅ふる世界で美と凛冽のはざまに佇んでいた。
「へえ…マジ、美少女だね。凛として、華やかで、さ…大和撫子だね、」
透明なテノールがため息まじりに見惚れている。
周太も一緒になって見惚れながら、頷いた。
「きれいなひとだね…日本で撮影したのかな?」
「そうじゃない?なかなかイイ桜だね、でも美少女が最高、イイね、」
愛しげに眺めながら、白い指がページを繰っていく。
顕わされていくページには、モノクロにフルカラーに、あざやかな花と美少女が描き出されていた。
艶めく花を翳した微笑は謎めいて、高雅な眼差しに惹きこまれてしまう。
ふる花に振袖ひるがえす佇まいは切ないほど美しくて、花を抱いて黒髪なびかす様子は初々しい。
長い黒髪と花々まとう姿は神々しいほど眩くて、秘密ふくんだような微笑みせる凛冽な妖艶に魅惑される。
艶麗こぼれる振袖姿と花の写真は、どれも嫋々と神秘的に美しい。その舞台になる光景も雪月花を鮮やかに心残す。
謎と美の微笑みが花に風に抱かれて、月と太陽が照らしだす大らかな翳と光の世界を響かせる。
白い指が大切に繰っていくページは、花の微笑が導く夢幻の世界を描き続けていく。
ただ美しい夢幻に惹きこまれ見つめて、そして最後のページを残すだけになった。
「…あ、次で、もう最後のページ?」
時計を見ると、もう1時間ほど経っている。
何時の間に時間が過ぎたのだろう?首傾げた周太に光一も笑いながら最後のページに指を伸ばした。
「うん、こんなに分厚いのに、もう、って思っちゃうね?良い写真だ、ってコトだ、」
開かれた最後のページから、黒椿を抱いた美少女が微笑んだ。
白銀の振袖に藤紅の襦袢ひるがえし、黒紅いろの花舞う風は黒髪の艶と靡いていく。
高雅な笑顔は慈愛やさしげで、けれど黒い瞳の輝きは女神の神秘に充ちている。
まばゆい純白の衣姿は花嫁のようで、この姿写し撮る想いが切なく温かい。
「…きれい、」
ほっと溜息ついて、周太は微笑んだ。
「俺、こういう写真集って初めて見たよ?…すごく素敵だね、俺も買おうかな、」
「写真集も楽しいだろ?でも、これはイイね。買って良かったよ、マジ眼福…きれいだ、」
満足げに笑んだ細い目は、最後のページを愛しげに見つめている。
名残惜しい想いに一緒に眺めながら、ふと思ったことを周太は口にした。
「すごく、きれいなモデルさんだね?振袖と長い髪が良く似合ってて…背が高いけど、日本人かな?」
「うん、日本人だと思うね?だって、題名がコレだろ、」
白い指が、表紙の題名を指さした。
『CHLORIS―Chronicle of Princesse Nadeshiko』
「クロリス、ローマ神話の花の女神、だね?…ん、この女の人、ほんとにそんな雰囲気、」
「だね?で、Nadeshiko、大和撫子のことだよね。このカメラマン、日本が好きで有名なんだよ、」
「あ…光一、お父さんカメラマンだから、詳しいんだ?」
なにげなく訊いて笑いかけた先、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
そして唇の端を上げて、一言に笑った。
「まあね?」
笑って腕を伸ばすと光一は、白い指で英二の額を小突いた。
小突かれた英二は困った顔で微笑んで、額をさすっている。
そういえば、ずっと英二は黙りこんでいるけれど、どうしたのだろう?周太は婚約者に笑いかけた。
「ね、英二?すごく綺麗な写真集だよね?」
「…あ、…そう?」
すこし困ったように切長い目が笑ってくれる。
なんで困っているのかな?不思議に思いながら周太は、英文綴りの解説ページに微笑んだ。
「どの撮影場所も、花がきれいで…都心が多いみたいだね、行ってみたいな?ね、英二の知っている場所、ある?」
どこも美しい花の場所ばかり、行ってみたいと想わせられる。
英二とデート出来たら良いな?そんな想像に熱くなりかけた首筋を撫でていると、英二が答えてくれた。
「うん、知ってるよ?どこも、全部、行ったことあるから、」
「全部、すごね…今度、連れて行ってほしいな?いつ英二は、行ってきたの?」
おねだりに微笑んだ周太に、切長い目が笑ってくれる。
そして英二は、きれいな低い声で告白してくれた。
「うん、連れて行ってあげる。俺はね、この写真撮るときに、行ってきたよ、」
この写真、撮るときに。
この言葉が示してくれる、その意味するものは?

静かな黄昏の屋根裏部屋で、周太は目を覚ました。
ゆるやかに顔を上げると、白皙の貌は午睡に微睡んだまま微笑んでいる。
きれいな寝顔の肩には、無邪気な寝顔が白皙の頬に頬くっつけて眠りこむ。
ふたりの穏かな寝顔に微笑んで、そっと周太は英二の腕を抜け出した。
「…よく、ねむってるね?疲れたよね、ふたりとも、」
剱岳のある立山連峰から、7時間。
下山して温泉で寛いだ後、真直ぐここまで帰ってきてくれた。
そして今夜ここを発って、また明日から2人は奥多摩での勤務に戻る。
こんなふうに訓練と勤務とに山を駆けていく、そんな2人の夢と誇りに生きる姿が好きだ。
すこしでも今、ゆっくり眠ってほしいな?そっと周太はブランケットを2人に掛けなおした。
音をたてないよう写真集を手にとると、豪華な装丁らしい持ち重りがする。
静かに床を踏んで黄昏の明るい場所を選ぶ、そこへクッションを敷いて座りこんだ。
ひそやかに大切にページを繰っていく、そこに顕れる英二の姿はどれも美しくて、謎と光が充ちている。
ほんとうに綺麗だな?ため息まじりの想いに周太はすこし困った。
…こんなにきれいな人が、俺の婚約者、だなんて…
気恥ずかしい、そして嬉しい。
ひとり赤くなりながらページを繰って、知らなかった婚約者の姿を見つめていく。
黒髪ひるがえす白皙の、耀く艶麗は中性の神秘まとうまま女神の姿を描きだす。
生来の美貌が艶やかな肌を透し内から光あふれさす、そんなふうに内面から英二を写していく。
そして瞳の眼差しは、英二の心があざやかに映しだされていた。
秘密を隠すよう微笑を湛えた切長い目、その瞳は真直ぐ見つめる想いがまばゆくて。
いつも光一が見つめて撮る山の英二と同じ、峻厳に向きあう正中の想いがここにも写されている。
だから解かってしまう、このカメラマンも光一と同じなのだろう、と。
…どちらも、きれい…映されるひとも、写す想いも
想い見惚れるまま、大切にページを繰っていく。
そうして見つめていく想いの真中に、最後の写真が開かれる。
「…これが、最後の、なんだ…」
最後のページを飾る、黒椿を袖に零した純白の振袖姿。
この写真はモデル最後に撮ったものだと、英二が教えてくれた。
花嫁のような衣姿、黒髪なびかせる微笑は優美だけれど謎めいて、永遠の秘密を想わせる。
この「永遠」にこめた、カメラマンの想いが切ない。
偶然に出会った大和撫子を「Princess」と呼びかけて、自分の専属モデルに指名して。
ファインダー越しに見つめ合い続け、記憶と想いを写真に描き続けて。
そして「彼女」から告げられた別離への想いを、純白の衣姿で写真に綴じこめた。
そうして別れて、けれど写真集に記憶の欠片まとめて、表題に想いを永遠にした。
『CHLORIS―Chronicle of Princess Nadesiko』
花の女神、大和撫子の姫君の年代記。
この表題から、この写真家の想いが伝わってしまう。
きっと彼は、恋をしていた。
けれど、彼の大和撫子は実在するけれど「彼女」は一時の幻。
どんなに自分のもとへ留めたくても「彼女」は自らを語らぬまま、微笑だけが遺された。
そんな掴めない夢への届かぬ想いが、尽きせぬ憧れと恋慕と愛惜が、永遠の秘密となって輝いている。
―…人間の恋愛は、どうしてこんなに苦しい?切ない?どうして…小さなことが、幸せなんだろう…
山っ子の問いかけが、改めて心に響く。
幾星霜の「山」を愛する山っ子には、百年もない人間の時は一瞬のことだろう。
山っ子が見つめるのは悠久の時と遍くめぐる生命の世界、けれど今、その「一瞬」に恋をしている。
ほんのひと時だけ生きる人間、それを愛した想いはきっと、幻を見つめるような想いかもしれない。
ひととき一瞬、けれど永遠に美しい幻。
色褪せることなく想いは募り、求め得られぬ恋愛の翳は去らない。
去ることのない翳を永遠に遺したくてレンズ向け、ファインダー越し見つめて艶麗な翳を写しとる。
この美しい幻を現実のものに抱きたくて、過去と今の写真を映す2人はそれぞれ掌を伸ばす。
カメラマンは名声と地位により、専属モデルとして手許に納めようとした。
光一は「山」と警察官、ふたつの夢と誇りをもってザイルパートナーに繋がり留めている。
けれど英二の恋愛は、どちらの手にも入らない。ひと時の幸福を微笑に与えても恋愛は与えずに、美しい幻として佇んでいる。
これは自分だって同じかもしれない。
もうじき、父の軌跡の核心に自分は立ちに行く。
遠い黙秘のむこうに独り立ち、父の想いを探す日々が始まる。そのときにはもう今ある幸せは遠くなる。
いまここで眠る2人とも離れなくてはいけない、ときおり逢うことは出来ても、多くの秘密を背負う分だけ遠くなる。
だから今、こうして恋愛の幸せにくるまれていても。訪れる孤独の時には「今」は美しい幻のよう感じられるだろう。
この幻のよう美しい記憶を時おり見つめて、心温めて。そして希望を見出し、自分が立つ苦悩の現場にも笑顔を探し出す。
いま手許にある幸せは、幻なのか現実なのか?途惑いと、それでも手にある喜びに人の心は玉響す。
そして想う、この幻のような一瞬が、今が、自分は愛おしい。
だから願う、この美しい記憶と想いの人を、護りたい。

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第43話 護花act.2―another,side story「陽はまた昇る」
午後の陽ふる運転席で、ひそやかに響いていた嗚咽が途切れた。
ゆっくり黒髪の頭が上げられて、濡れた睫の瞳がこちらを見てくれる。
透明な涙あふれるままの、きれいな瞳が周太を見つめて、泣笑いに微笑んだ。
「来てくれたんだね、ドリアード?…」
不安と安心と、切ない縋る眼差しが心に届く。
こんなに綺麗な涙を見せてくれるひと、この純粋な初恋相手が自分は好きだ。
おだやかな想い微笑んで、やわらかく周太は応えた。
「ん、来たよ?…駐車場、開けたから入って?」
「うん、ありがとう…、」
涙のままでサイドブレーキをあげて、動かしていく。
速やかに車庫入れを済ませると、エンジンキーを外して光一がふり向いた。
「…っ、ぅ、」
ちいさな嗚咽と一緒に、透明な涙があふれだす。
泣いている無垢の目が周太を見つめてくれる、そして透明なテノールが告白した。
「ドリアード…俺、君の大切なひとを、本気で…、っ…すきに、な、た…、」
ほとり、涙が白いカットソーに零れおちる。
きらきら光る軌跡を頬たどらせながら、光一は言葉を続けた。
「きのう、剣岳で…雪の原っぱ、あって…天空の雪原、きれいでね…エデンみたいだった。それで、俺…キスしたくなって。
いつもみたいに抱きついて、半分ふざけてキスして…エデンの、大人のキスを…そしたら、やさしくて温かくて…俺、うれしかった、」
ふたつの瞳から、涙が煌きこぼれていく。
ウィンドーからふる午後の陽ざしのなか、輝く涙ぬれる白い貌が微笑んだ。
「でも夜、言われたんだ。いちばんの恋人は周太だ、なのに国村がキスして恋人になったら、国村は二番以下になってしまう、って
これって、絶対に一番の恋人にはなれない、ってコト…でも、仕方ないって解ってる…だって、あいつが愛したのは君だから…
だって、山桜のドリアード…俺だって君が大切で、山と同じに愛してる。だから…山ヤのあいつが、君を一番にするのは当然なんだ、」
透明なテノールが美しく響いていく。
いつもどおり透けるよう明るい、けれど切ない声は、幸せに笑って言った。
「でも、言ってくれた。国村は一番の唯ひとりの親友でいてほしい、二番以下になってほしくない、って…
いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、って言ってくれて…うれしかった、だって、いちばんって…
あいつの一番でいたいから、うれしかった。恋人じゃない、でも、親友でザイルパートナで一番になれた、嬉しかったんだ…いちばん、が、」
ほとり、涙が零れおちていく。
きらめく涙のなか微笑んで、ひとつ息吐くと光一は口を開いてくれた。
「それで、俺、ねだったんだ…エデンのキスしたい、って。親友のままでいいから、したい、って…キスだけでも、ふれたかった。
心ごと、体を繋げてみたくて…親友って想いなら、お互いに同じだから、心重ねて繋げられるから、だから…キスしたかったんだ、」
親友のままでいいから。
そう言った光一の想いが心ふれて、周太の瞳から涙がこぼれた。
だって、この想いは自分も知っている。あの警察学校時代に自分は、何度そう思っていただろう?
卒業したら離ればなれ、そう覚悟して、ときおり電話だけでも良いから声を聴きたい、そう願っていた。
あの想いは幸せでも辛い、けれど光一は一生ずっと英二の隣でならして良いと言っている。
その覚悟が切なくて哀しくて、綺麗で。心あふれる涙と見つめる先で、光一は微笑んだ。
「キスでふれあって、国村が幸せになれるんだったらしてもいい、そう言って、笑ってくれた。
それで俺、今だけは名前で呼んで、ってねだったんだ…そしたら、言ってくれたよ?『光一?キス、しようか、』って…それで、」
秀麗な貌は幸せに微笑んで、そして泣いた。
「幸せだった、」
ひとことが、心に響いてしまう。
透っていく綺麗なテノールは泣きながら、想い言葉に変えて微笑んだ。
「想い合ってキスする、幸せで、離れたくなか、った…温かくて、やさしくて、熱くて、あまくて…幸せで。
すこしでも多くふれあいたくて、あいつに抱きついていた…そしたら、抱きしめてくれ、て…なぜ抱きしめてくれるか、不思議で、
なぜ?って目で訊いたら…俺の頭を、掌で抱いてくれた。それが嬉しくて、涙、でて…これで良い、って想えて、離れた…そしたら、」
透明な無垢な瞳が、涙こぼして周太を見つめてくれる。
そして透明なテノールが言ってくれた。
「初めて、キスしてくれた…頭抱きよせて、唇にキスしてくれた、あいつから初めて…それで、それで俺、恋したんだ…!」
涙が、おおきく煌いて無垢の瞳をすべりおちる。
あふれる想いを言葉に変えて、テノールの声は心透り泣き出した。
「俺、恋した…!本気で、愛してる、今…あのとき、髪を抱かれた、唇にキスしてくれた、瞬間に、恋した…!涙まで、キスで…、
ごめん、ドリアード…俺、あいつのこと好きだったよ、最初から。でも、こんなになるなんて、想わなかったんだ…っあ、ぅっ、…
こんなに、こんなに誰かのこと、人間のこと、大切になるなんて想わなかった…ぅっ、あ…愛してる、あいつのこと、もう、はなれられな…い、」
涙ながれる美しい貌に、午後の陽が窓ごしふれていく。
きらきら光る頬の涙を、周太はそっと掌で拭って微笑んだ。
「ん、そうだね?…光一は、英二のこと、ほんとうに大好きで…誰より、愛してるね?」
「…し、ってたの?…ドリアードは、俺の気持ち…わかってた?」
純粋無垢な瞳が真直ぐに見つめてくれる。
子供のままに無垢できれいな瞳、この瞳に出会った時から自分は大切に想っている。
この想いのまま周太は、おだやかに笑いかけた。
「ん、愛するだろうな、って思ってたよ?英二は本当に綺麗で、かっこいいからね…隣にいたら、好きになるの当たり前、」
「うん、…ほんとうに、そうだ、った、」
無邪気なままの貌が、すこし笑ってくれる。
それでも涙は尽きないままに、光一は聲をあげた。
「ドリアード…俺、今も雅樹さん大好きなんだ、愛してる…でも、それ以上に、あいつのこと想ってる…おかしいくらい。
こんなに考えるなんて、こんなに一緒にいたいなんて…『山』以外は無かったのに…人間のこと、こんなに求めるなんて…ぅ、っ…
その相手が、君の大切なひとだなんて…ごめんね、山桜のドリアード…でも、自分でも、どうしようもなくて…お願い、赦して…よ…」
ずっと「山」が一番だった山っ子の光一。その山っ子が今、初めて「人間」に恋して苦しんでいる。
それを「山の秘密」の相手「山桜の精」に光一は告白してくれる。
こんなふうに光一は周太を敬愛する「山」の一部と信じて愛して、だからこそ光一は苦しんでいる。
大切な「山」を裏切ったと泣いて、赦しを願っている。この純粋で不思議な涙を、周太は心の木蔭に受けとめて微笑んだ。
「光一?好きになって良いんだよ、英二のこと…愛してあげて?」
周太の言葉に、無垢の瞳がゆっくり瞬いて涙こぼれる。
零れる涙を掌で拭って、泣いている瞳に周太は笑いかけた。
「誰かを大切に想うことは、悪いことじゃない。恋愛ってね、宝物かもしれない…だから、謝る必要なんてない。
謝ってくれるのだったら、その分だけ英二を守って?…英二の笑顔を守ってほしい。英二の笑顔は、俺の宝物だから、守って?光一、」
英二の笑顔を護ること。それはきっと、光一の笑顔を護ることにもなる。
この2つの願いに微笑んだ周太に、無垢な瞳はすがるよう見つめてくれた。
「…それで、赦してくれるの?ドリアード…俺は、あいつのこと好きでいても、いいの?」
「ん、好きでいて?…たまに俺、拗ねたりすると思うけど、でもね…光一が英二の傍にいると、英二、笑えるでしょ?」
「うん、…笑ってくれる、」
素直に頷いた瞳から、涙が降りこぼれてしまう。
子供のよう、けれど美しい泣き顔に笑いかけて、周太は涙を掌で拭ってあげた。
「じゃあ、いいよ?英二がたくさん笑ってくれるなら、それでいいんだ…英二と一緒にいてあげて?最高峰に連れて行ってあげて?」
これは本当の願いごと。
この願いに籠めた想いは言えない、けれど「ふたりが一緒にいてくれる」ことを自分が望むと伝わればそれでいい。
この先への想い隠したまま微笑んだ周太に、すこし笑って光一は頷いてくれた。
「うん、連れて行くよ?ドリアード…君の願いなら、俺は何でも叶えるよ?君から離れろと…あいつと離れろ、以外はなんでも聴く」
「ん、言うこと聴いてね?」
これで良い。
嬉しい想いで頷いた周太に、透明なテノールが問いかけをした。
「山桜のドリアード、教えてよ?…人間の恋愛は、どうしてこんなに苦しい?切ない?どうして…小さなことが、幸せなんだろう…」
傷みと想いが薄紅いろの唇からこぼれだす。
この問いかけに光一の途惑いと哀切が響いていく、玉響す想い見つめながら周太は応えた。
「きっとね…人は、限りがあるからだと、想うよ?」
これは難しい問いかけ。
けれど自分が想うことを正直に応えればいい、想う通りに周太は言葉を続けた。
「あのね…人の時間って、限られてるでしょ?だからこそ、この『今』を大切にできるな、って俺は思うんだ。
それでね、大切にしたいから、苦しくて切ないんだと思うよ?どうでもよかったら苦しくないよね、きっと、真剣な分だけ苦しい。
真剣に苦しんだ分だけ、一生懸命なだけね、幸せは嬉しいでしょ?…だから、小さなことにも幸せだな、って気づけるんだと思う」
父の姿に、雅樹に、自分は人の時の有限を知った。
だからこそ「今」を真直ぐ見つめることが出来る、本気で大切にしようと覚悟できる。
そして今もこうして、光一と目を逸らさずに向き合うことが出来てしまう。こんなふうに時の有限は、勇気にも変わってくれる。
この人間らしい勇気が愛しい、きれいに笑って周太は光一に言った。
「だからね、光一?…苦しい分だけ、幸せは見つけやすいかな、って俺は思うよ。苦しんで一生懸命な分だけ、幸せを見逃さない」
きっとそうだと、自分は思う。だって英二との時間がそうだったから。
警察学校での日々、それからの時間、いつも自分は苦しみと歓びを同時に見つめてきた。
いつか離れていく予兆の苦しみは、痛くて。けれど痛みの分だけ与えられた「今」共にある時が大切で、大切な分だけ幸せだった。
だから今もこの瞬間が愛しいと素直に思える。そんな想いに佇んでいる周太に、光一が微笑んだ。
「じゃあ俺、すごく一生懸命になれている、ってことかな?…一生懸命、好きなら…幸せに、なれるのかな、」
光一の恋する相手は自分の婚約者。
そして婚約者は周太以外を伴侶にはしないと、はっきり光一にも告げてしまった。
それでも、伴侶になれなくても光一は、この恋に生きようともう決めている。
たとえ人間的に見て不幸だとしても、山っ子にはそれが幸せなら、もう引き返さない。
山っ子は「山」の姿そのまま簡単には心動かさない、それでも「人間」の恋愛に墜ちたなら永遠の恋愛になるだけ。
この終わらない想いへと、今、懸けるべき言葉は?ゆっくり1つ瞬いて、周太は口を開いた。
「きっと、光一だけの幸せが見つかるよ?」
心定まってしまったなら、言祝ぎだけがあればいい。
そして言祝いだ想いを自分も、大切に見つめて支えて行けば良い。この想いと笑いかけた周太に光一も笑ってくれた。
「ありがとう、ドリアード。俺、幸せになるね?いっぱい嫉妬させるかもしれないけど、赦してね?君のこと、ずっと守るから」
真直ぐな想い告げながら、やっと底抜けに明るい目が笑ってくれる。
これならもう大丈夫。よかった、ほっと心に吐息ついて周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう。遠慮なく嫉妬するね…そろそろ、家に入ろうか?」
「うん、ありがと、周太…でも、」
頷いて、けれど気恥ずかしげに光一が笑った。
「俺、すごい顔だろ?かなり泣いちゃったからさ。こんな顔、あいつに見せらんないね、」
涙の痕が残る笑顔はきれいで、けれど少しだけ目が赤くなっている。
治まるのに30分位はかかるかな?考えながら周太は、携帯電話を取出した。
ひらいて、着信履歴から発信すると1コールで通話が繋がってくれる。微笑んで周太は電話の向こうに話しかけた。
「英二?…あのね、買物、思い出しちゃったんだ…このまま光一と行ってくるから、留守番お願いしていい?…ん、ありがとう、」
短い通話にすぐ切って、周太は運転席をふり向いた。
気恥ずかしそうに底抜けに明るい目が笑ってくれる、そして透明なテノールが微笑んだ。
「ありがと、周太。ねえ、やっぱり君は、山桜のドリアードだね?…こんなに純粋で、やさしくて、賢くて強い、」
想い告げながら、エンジンを掛け始めてくれる。
こんなふうに言われると気恥ずかしい、けれど周太は頷いて大らかに笑った。
「ん、俺はね、光一の山桜の精だよ?…だから、光一のことも守るよ、」
「うん、ありがとう、ドリアード、」
しあわせな笑顔が、雪白の貌に咲いてくれる。
底抜けに明るい目は笑んで、透明なテノールが謳うよう笑った。
「さて、今から買物デートだけどね、行きたいとこ、教えてよ?」
いつものよう楽しげに笑ってくれる。
こんな「いつもの」が嬉しいな?素直に微笑んで周太は応えた。
「ん、スーパーと本屋かな?…大学のサブテキストを、ちょっと見たいから、」
「うん、本屋か?…いいね、俺も本屋は行きたいんだ、」
思いついた何かに、無垢の瞳は悪戯っ子に笑っている。
いったい何をたくらんでいるかな?不思議に思いながら周太は、きれいな涙の痕に微笑んだ。

買物から帰ってくると、玄関ホールに英二が出迎えてくれた。
きれいな笑顔を咲かせながら、おだやかな低い声が微笑んだ。
「お帰り。ココア、作ってみたんだけど。どこで飲む?」
ココアは自分の好きな飲み物。
うれしい想いに微笑んで周太は応えた、
「ありがとう、英二…屋根裏部屋で、どうかな?」
「うん、いいな。ふたりで先に行っていて?持って行くから、」
言いながら買い物袋を受けとって、台所へと持って行ってくれる。
この家にすっかり馴染んでいる、そんな背中をダイニングへの扉に見送りながら、透明なテノールが笑ってくれた。
「あいつ、この家で幸せなんだね?イイ顔してる。あいつホント、君の婚約者になれて、よかったんだね、」
心からの祝福の言葉を言ってくれる。
この言葉の想いが切ない、けれど泣いてはいけない。
そんな想い見つめる周太の瞳を、底抜けに明るい目が覗きこんで微笑んだ。
「周太?あいつが君に出逢って恋をした、それで今のあいつになって、俺は恋したよ?君のお蔭で俺は、人間の恋愛が出来るね、」
光一は「周太込の英二を好きだ」と周太を包んでくれる。
こんなふうに言われて嬉しいな?素直に周太は微笑んだ、
「ん、ありがとう…俺もね、初めて会ったとき光一が、俺のこと好きって言ってくれたから、色んな人と話せるようになったんだよ?」
「そんなこと言われると、うれしいね、」
楽しげに笑って光一は、周太の耳元にキスしてくれた。
いつもながらの早業に気恥ずかしくさせられながら、周太は光一と階段を上がっていった。
書斎の前を通りかかると、ふっと甘い香が頬撫でてくれる。
…英二、お父さんにもココア、あげてくれたんだね、
自分のココア好きは、父の遺伝。
この香くゆらす心遣いが嬉しい、幸せに微笑んで周太は自室の扉を開いた。
「うん、いつもながら、良い部屋だね?」
感心しながら光一は部屋を見渡して、バルコニーの窓に佇んだ。
買ってきたテキストを机に置くと、周太もバルコニーから外を眺めた。
「山桜が、咲いているね?」
白い花に目を留めて、嬉しそうに透明なテノールが笑っている。
この花への光一の想いは自分も愛しい、笑って周太はねだった。
「光一?あの山桜が咲いたら、見せてくれる?」
「うん、もちろんだね、」
雪白の貌に幸せな笑顔が花ひらいてくれる。
「来週くらいには咲くね。おふくろさんと奥多摩に来るのも、来週だよね?」
「ん、その予定だよ?…母は、そのまま温泉に行くらしいけど、俺は河辺に泊まるつもり、」
「そうだってね?あいつ、楽しそうに話してたよ、」
話しながら梯子階段を上がっていく。
屋根裏部屋は天井ふる光に明るく温かい、陽だまりに周太はいつものマットレスとクッションを敷いた。
その間にロッキングチェアーの「小十郎」を撫でて、それから光一はクッションに座りこんだ。
「さて、お待ちかねのコレ、開けてみよっかね?」
愉しげに笑って本屋の袋を開いてくれる。
きれいなハードカバーの洋書を取出して、白い手は器用にビニールカバーを剥がしていく。
モノクロ写真が飾る表紙は花と人のコラボレーションが美しい、ため息に周太は微笑んだ。
「ほんとに、きれいな表紙だね?」
「だろ?中は、もっと綺麗だと思うよ、」
底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
B4くらいの洋書はシックだけれど贅沢な表装で、アルファベット綴りの題字もきれいだった。
なんて書いてあるのかな?題字を読もうとしたとき梯子階段の足音が聞えた。
「お待たせ、あれ?国村、本買って来たんだ、」
「そ、欲しかったんだよね、コレ、」
「へえ、どんな本?」
ココアのトレイをサイドテーブルに置くと、周太の隣に英二も座ってくれる。
そして覗きこんだ表紙に、切長い目が大きくなった。
「…国村?これ、どうやって探した?」
「洋書の写真集コーナーで、すぐ見つかったよ?ね、周太、」
テノールが可笑しそうに笑って訊いてくれる。
話を振られて周太は、素直に頷いた。
「ん、平積みされていたね?…人気があるみたいだったよ、すごく、きれいな表紙だし、」
「だよね?さ、周太、なか開いて見よう?」
白い指がページを開いてくれる。
そこには振り袖姿の美少女が、桜の花咲く下に佇んでいた。
豊麗な桜の花翳に、黒い振袖姿が浮かび上がる。
黒髪を花の風に遊ばせて、ひるがえる黒い袂は襦袢の紅がこぼれだす。
白皙の横顔は端麗で、真直ぐな瞳の強靭は高潔なまでに輝きまばゆい。
どこか神秘的な雰囲気の少女は、薄紅ふる世界で美と凛冽のはざまに佇んでいた。
「へえ…マジ、美少女だね。凛として、華やかで、さ…大和撫子だね、」
透明なテノールがため息まじりに見惚れている。
周太も一緒になって見惚れながら、頷いた。
「きれいなひとだね…日本で撮影したのかな?」
「そうじゃない?なかなかイイ桜だね、でも美少女が最高、イイね、」
愛しげに眺めながら、白い指がページを繰っていく。
顕わされていくページには、モノクロにフルカラーに、あざやかな花と美少女が描き出されていた。
艶めく花を翳した微笑は謎めいて、高雅な眼差しに惹きこまれてしまう。
ふる花に振袖ひるがえす佇まいは切ないほど美しくて、花を抱いて黒髪なびかす様子は初々しい。
長い黒髪と花々まとう姿は神々しいほど眩くて、秘密ふくんだような微笑みせる凛冽な妖艶に魅惑される。
艶麗こぼれる振袖姿と花の写真は、どれも嫋々と神秘的に美しい。その舞台になる光景も雪月花を鮮やかに心残す。
謎と美の微笑みが花に風に抱かれて、月と太陽が照らしだす大らかな翳と光の世界を響かせる。
白い指が大切に繰っていくページは、花の微笑が導く夢幻の世界を描き続けていく。
ただ美しい夢幻に惹きこまれ見つめて、そして最後のページを残すだけになった。
「…あ、次で、もう最後のページ?」
時計を見ると、もう1時間ほど経っている。
何時の間に時間が過ぎたのだろう?首傾げた周太に光一も笑いながら最後のページに指を伸ばした。
「うん、こんなに分厚いのに、もう、って思っちゃうね?良い写真だ、ってコトだ、」
開かれた最後のページから、黒椿を抱いた美少女が微笑んだ。
白銀の振袖に藤紅の襦袢ひるがえし、黒紅いろの花舞う風は黒髪の艶と靡いていく。
高雅な笑顔は慈愛やさしげで、けれど黒い瞳の輝きは女神の神秘に充ちている。
まばゆい純白の衣姿は花嫁のようで、この姿写し撮る想いが切なく温かい。
「…きれい、」
ほっと溜息ついて、周太は微笑んだ。
「俺、こういう写真集って初めて見たよ?…すごく素敵だね、俺も買おうかな、」
「写真集も楽しいだろ?でも、これはイイね。買って良かったよ、マジ眼福…きれいだ、」
満足げに笑んだ細い目は、最後のページを愛しげに見つめている。
名残惜しい想いに一緒に眺めながら、ふと思ったことを周太は口にした。
「すごく、きれいなモデルさんだね?振袖と長い髪が良く似合ってて…背が高いけど、日本人かな?」
「うん、日本人だと思うね?だって、題名がコレだろ、」
白い指が、表紙の題名を指さした。
『CHLORIS―Chronicle of Princesse Nadeshiko』
「クロリス、ローマ神話の花の女神、だね?…ん、この女の人、ほんとにそんな雰囲気、」
「だね?で、Nadeshiko、大和撫子のことだよね。このカメラマン、日本が好きで有名なんだよ、」
「あ…光一、お父さんカメラマンだから、詳しいんだ?」
なにげなく訊いて笑いかけた先、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
そして唇の端を上げて、一言に笑った。
「まあね?」
笑って腕を伸ばすと光一は、白い指で英二の額を小突いた。
小突かれた英二は困った顔で微笑んで、額をさすっている。
そういえば、ずっと英二は黙りこんでいるけれど、どうしたのだろう?周太は婚約者に笑いかけた。
「ね、英二?すごく綺麗な写真集だよね?」
「…あ、…そう?」
すこし困ったように切長い目が笑ってくれる。
なんで困っているのかな?不思議に思いながら周太は、英文綴りの解説ページに微笑んだ。
「どの撮影場所も、花がきれいで…都心が多いみたいだね、行ってみたいな?ね、英二の知っている場所、ある?」
どこも美しい花の場所ばかり、行ってみたいと想わせられる。
英二とデート出来たら良いな?そんな想像に熱くなりかけた首筋を撫でていると、英二が答えてくれた。
「うん、知ってるよ?どこも、全部、行ったことあるから、」
「全部、すごね…今度、連れて行ってほしいな?いつ英二は、行ってきたの?」
おねだりに微笑んだ周太に、切長い目が笑ってくれる。
そして英二は、きれいな低い声で告白してくれた。
「うん、連れて行ってあげる。俺はね、この写真撮るときに、行ってきたよ、」
この写真、撮るときに。
この言葉が示してくれる、その意味するものは?

静かな黄昏の屋根裏部屋で、周太は目を覚ました。
ゆるやかに顔を上げると、白皙の貌は午睡に微睡んだまま微笑んでいる。
きれいな寝顔の肩には、無邪気な寝顔が白皙の頬に頬くっつけて眠りこむ。
ふたりの穏かな寝顔に微笑んで、そっと周太は英二の腕を抜け出した。
「…よく、ねむってるね?疲れたよね、ふたりとも、」
剱岳のある立山連峰から、7時間。
下山して温泉で寛いだ後、真直ぐここまで帰ってきてくれた。
そして今夜ここを発って、また明日から2人は奥多摩での勤務に戻る。
こんなふうに訓練と勤務とに山を駆けていく、そんな2人の夢と誇りに生きる姿が好きだ。
すこしでも今、ゆっくり眠ってほしいな?そっと周太はブランケットを2人に掛けなおした。
音をたてないよう写真集を手にとると、豪華な装丁らしい持ち重りがする。
静かに床を踏んで黄昏の明るい場所を選ぶ、そこへクッションを敷いて座りこんだ。
ひそやかに大切にページを繰っていく、そこに顕れる英二の姿はどれも美しくて、謎と光が充ちている。
ほんとうに綺麗だな?ため息まじりの想いに周太はすこし困った。
…こんなにきれいな人が、俺の婚約者、だなんて…
気恥ずかしい、そして嬉しい。
ひとり赤くなりながらページを繰って、知らなかった婚約者の姿を見つめていく。
黒髪ひるがえす白皙の、耀く艶麗は中性の神秘まとうまま女神の姿を描きだす。
生来の美貌が艶やかな肌を透し内から光あふれさす、そんなふうに内面から英二を写していく。
そして瞳の眼差しは、英二の心があざやかに映しだされていた。
秘密を隠すよう微笑を湛えた切長い目、その瞳は真直ぐ見つめる想いがまばゆくて。
いつも光一が見つめて撮る山の英二と同じ、峻厳に向きあう正中の想いがここにも写されている。
だから解かってしまう、このカメラマンも光一と同じなのだろう、と。
…どちらも、きれい…映されるひとも、写す想いも
想い見惚れるまま、大切にページを繰っていく。
そうして見つめていく想いの真中に、最後の写真が開かれる。
「…これが、最後の、なんだ…」
最後のページを飾る、黒椿を袖に零した純白の振袖姿。
この写真はモデル最後に撮ったものだと、英二が教えてくれた。
花嫁のような衣姿、黒髪なびかせる微笑は優美だけれど謎めいて、永遠の秘密を想わせる。
この「永遠」にこめた、カメラマンの想いが切ない。
偶然に出会った大和撫子を「Princess」と呼びかけて、自分の専属モデルに指名して。
ファインダー越しに見つめ合い続け、記憶と想いを写真に描き続けて。
そして「彼女」から告げられた別離への想いを、純白の衣姿で写真に綴じこめた。
そうして別れて、けれど写真集に記憶の欠片まとめて、表題に想いを永遠にした。
『CHLORIS―Chronicle of Princess Nadesiko』
花の女神、大和撫子の姫君の年代記。
この表題から、この写真家の想いが伝わってしまう。
きっと彼は、恋をしていた。
けれど、彼の大和撫子は実在するけれど「彼女」は一時の幻。
どんなに自分のもとへ留めたくても「彼女」は自らを語らぬまま、微笑だけが遺された。
そんな掴めない夢への届かぬ想いが、尽きせぬ憧れと恋慕と愛惜が、永遠の秘密となって輝いている。
―…人間の恋愛は、どうしてこんなに苦しい?切ない?どうして…小さなことが、幸せなんだろう…
山っ子の問いかけが、改めて心に響く。
幾星霜の「山」を愛する山っ子には、百年もない人間の時は一瞬のことだろう。
山っ子が見つめるのは悠久の時と遍くめぐる生命の世界、けれど今、その「一瞬」に恋をしている。
ほんのひと時だけ生きる人間、それを愛した想いはきっと、幻を見つめるような想いかもしれない。
ひととき一瞬、けれど永遠に美しい幻。
色褪せることなく想いは募り、求め得られぬ恋愛の翳は去らない。
去ることのない翳を永遠に遺したくてレンズ向け、ファインダー越し見つめて艶麗な翳を写しとる。
この美しい幻を現実のものに抱きたくて、過去と今の写真を映す2人はそれぞれ掌を伸ばす。
カメラマンは名声と地位により、専属モデルとして手許に納めようとした。
光一は「山」と警察官、ふたつの夢と誇りをもってザイルパートナーに繋がり留めている。
けれど英二の恋愛は、どちらの手にも入らない。ひと時の幸福を微笑に与えても恋愛は与えずに、美しい幻として佇んでいる。
これは自分だって同じかもしれない。
もうじき、父の軌跡の核心に自分は立ちに行く。
遠い黙秘のむこうに独り立ち、父の想いを探す日々が始まる。そのときにはもう今ある幸せは遠くなる。
いまここで眠る2人とも離れなくてはいけない、ときおり逢うことは出来ても、多くの秘密を背負う分だけ遠くなる。
だから今、こうして恋愛の幸せにくるまれていても。訪れる孤独の時には「今」は美しい幻のよう感じられるだろう。
この幻のよう美しい記憶を時おり見つめて、心温めて。そして希望を見出し、自分が立つ苦悩の現場にも笑顔を探し出す。
いま手許にある幸せは、幻なのか現実なのか?途惑いと、それでも手にある喜びに人の心は玉響す。
そして想う、この幻のような一瞬が、今が、自分は愛おしい。
だから願う、この美しい記憶と想いの人を、護りたい。

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