goo blog サービス終了のお知らせ 

萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第43話 花想act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-19 23:59:00 | 陽はまた昇るanother,side story
名づく夢、花翳の祈り



第43話 花想act.2―another,side story「陽はまた昇る」

桜ふるなか墓碑は鎮まっている。
白皙の掌に磨かれた御影石は、きらめく陽光に花翳うつしていく。
こんなふうに英二の実直さは父達も大切にしてくれる、嬉しくて周太は微笑んだ。

「きれいになったね?英二、ありがとう、」

声に端正な笑顔がふり向いてくれる。
隣から母も嬉しそうに笑った。

「ほんとね、いつも丁寧にしてくれて。英二くんだと高い所も楽に手が届くね、ありがとう、」
「喜んでもらえるなら、うれしいです、」

きれいな笑顔が楽しげに咲いている。
この笑顔が自分は大好き、想い素直に見つめた先で綺麗な低い声が母に尋ねた。

「ね、お母さん?皆さん、お名前は一文字なんですね、」

墓碑銘に記された俗名を白皙の手が示す。
たしかに言う通り、曾祖父から父まで3人とも名前は一文字となっている。
示された碑銘を見ながら母は笑って教えてくれた。

「代々ね、一文字らしいの。だからね?ほんとうは周も、最初は一文字で『あまね』だったのよ、」
「え、そうなの?」

知らなかった。
驚いた周太に、母がすこし意外だったよう微笑んだ。

「そうなのよ、周。話したこと、無かった?」
「ん、初めて聞いたよ?…あまね、だったの、俺の名前、」

確かに自分だけ「太」がついて2文字だなとは思っていた。
けれど本当は違う名前だったとは、考えたことが無い。
でもなんで「太」がついたのだろう?首傾げこんでいると英二が母に訊いてくれた。

「なぜ、『しゅうた』にしたんですか?」
「出生届を出す直前になって、あのひとが『太』を付けたい、って言いだしたのよ、」

そんなに急に名前を変えたんだ?
なんだか真面目な父らしくない急な行動が意外だな?
意外な父の姿を不思議に思っていると、母は楽しそうに口を開いた。

「心の器が大きい人になるように。そんな意味を籠めてね、あのひとは『太』を付けてくれたの、」

―…周太、君の名前はね?
  「あまねく」広くたくさん、っていう意味と「大きい」って意味なんだ。
  たくさんのことを正しく勉強して、沢山の人に役立つ学問をする、そういう大きな学者になるように。
  君を育むすべてに感謝して、謙虚に学問を生かし、沢山の笑顔を手助けする。
  そんなふうに生きて、君の心が大きく豊かになるように。
  あまねく全てを歓びの基にして、心豊かな大きなひとに成る。そういう名前なんだ…

幼い日に父が教えてくれた、ひとつずつの言葉が蘇える。
この言葉通りに生きようと、幼い日に自分は誇らしく想っていた。
けれど14年前の春に「名の誇り」は見失ったまま、父の軌跡を追うことだけ考え生きてきた。
そんな盲目のまま苦しんだ果に英二と出逢い、幼い傷痕まで吉村医師が受けとめてくれた。

―…君は多くの痛みを知っているだけ、多くの人の想いを理解して受けとめられる
  そうして多くの視点を持っていけば、必ず大きな心の人に成れます

この言葉を吉村医師に言ってもらった時、自分は嬉しかった。
体が小さいことがコンプレックスでいた自分にも、大きな人になれる道を思い出させてくれた。
そして、青木樹医と出会うことが出来た。

 “大切なことは道に立つ勇気です
  成ろうと成るまいと、信じて夢に向かい努力を続けていく
  その勇気こそが学問を志す者の資質であり、心大きな人の道です”

青木樹医が美代の本によせた詞書は、周太にも温かかった。
結果よりも自分を信じた努力が尊いと、この言葉が努力だけに生きた13年間を肯定してくれた。

それなりに勉強も運動も出来はする。
けれど本当の才能は無くて、ただ必死の努力だけだと自分が一番知っている。
その全てが父を喪った苦痛を超える手段、この義務と責任だけに重ねた努力だった。
そんな努力だけの自分は本当の1番も、夢すらも、何も掴めない。
そんな想いが虚しくて、本当は苦しかった。

けれど青木樹医は「無駄な努力は1つも無い」と詞書に記してくれた。
信じて夢に向かい続ける努力こそが、心大きくするのだと示してくれた。
この意義が嬉しかった。
その喜びが、自分だけの夢を探しに行く勇気になった。

人間の医師である吉村と、樹木の医師である青木。
この2人の医師が贈ってくれた言葉たちと、父が名前に籠めてくれた想いが響き合う。
この自分の名前への言祝ぎは「心こそ大きくあれ」と問いかけ微笑んでくれる。

…ね、お父さん?俺が青木先生のところで勉強すると、喜んでくれる?

花翳の墓碑を見あげ、問いかける。
桜の天蓋に護られるなか、やわらかな風が頬撫でていく。
この風が父の掌に重なるようで、ふる花は励ましだと静かに想えてくる。

…応援してくれるね、お父さん、

どんなに忙しくても、青木樹医の講義を一年間きちんと貫こう。
この努力に向かっていく覚悟を、花翳やさしい墓碑に見つめ微笑んだ。
微笑んで花束を手にとると2つに分けはじめる、その傍で婚約者と母は楽しげに笑いあっていた。

「『周太』って、いい名前ですよね。でも、『あまね』も可愛くて良かったな、って思います」
「でしょう?私もね、『あまね』って可愛いなって思ったの。でも『しゅう』も呼びやすいし、ね、」

代々の名づけに因んだ「あまね」
その伝統に父が想い加えた「しゅうた」
どちらも父が自分のためを考え、与えてくれた、大切な名前。
この名前たちに相応しいよう、心豊かに大きな人になれたなら。

…お父さん、必ず、大きいひとになるね?見守っていてね…

やさしい父の面影抱きながら、周太は花束を墓碑に捧げた。
活けた白い芍薬に、翳す桜から薄紅がうつりこんだ。



実家の門には枝垂桜の花房がゆれていた。
華やぐ紅色やさしい細やかな枝に、ふっさり咲く花が愛しい。
ゆっくり開いていく門の軋みも懐かしい、家族みんなで帰って来た幸せに周太は微笑んだ。

「ん、…3人一緒に帰ってこれるって、嬉しいね、」

大切な婚約者と母と、一緒に門を潜る。この幸せがずっと続けていけますように。
そんな祈りに見た先で、桜餅の包みを携えた母が綺麗に笑ってくれた。

「そうね、お母さんも嬉しいな、」

穏かな黒目がちの瞳が楽しそうに笑ってくれる。
楽しげな笑顔の衿元ひるがえる、青色やわらかなブラウスのリボンも、どこか自由に明るい。
そんな母の笑顔は1年前よりずっと明るくて、快活な温もりが昔のまま戻りだした。

…ほんとうに、英二が来てから変わった、うちは…

華やかに明るい綺麗な笑顔、実直なまま優しい心。
こんな英二の存在が、自分たち親子をどれだけ明るくしているだろう?
この頼もしい婚約者を見あげた周太に、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「花盛りだな、庭も。この桜は、染井吉野だっけ?」
「ん、染井吉野…きれいだね、」

頷いて見上げる梢は、あわく青い空に交わす花枝がまばゆい。
白に薄紅に咲いている花々の彩に、訪れた「今日」の時がどこか明るんで温かい。

…去年までの桜と、こんなに違う…今年の桜は、

薄墨を刷いたよう見えていた、去年までは。
黒い幹透かす花びらは喪の色に見えて、この庭を愛した主を悼むよう沈んでいた。
梢わたす風の音もレクイエム奏でていく、そんなふうに桜は弔いに染まったままだった。
そんな哀切は寂しすぎて、ただ母と互いに涙まで隠していた。
それが去年までの「今日」だった。

けれど、今年の「今日」は薄紅に咲き誇る。

「春は、こんなに明るかったのね?」

穏かな声が微笑んで、白い手にやわらかな髪押え花を見あげる。
桜見あげる母の横顔は14年前の昼間のまま、幸せに笑ってくれていた。
いまと同じように桜餅の包みを携えて、母子ふたり手を繋いで花を見た、あの幸せな午後のように。

―…周、きれいね?夜はね、もっときれいよ。お父さんと一緒だから、もっと楽しいのよ、

そんなふうに笑って花を見あげていた母は、心から幸せに輝いていた。
あのときの笑顔を今日、また見ることが出来た。

…ね、お母さん?笑っていてね、ずっと

あふれる喜びが温かい。
歓びの温もりが瞳から頬こぼれて、幸せに周太は微笑んだ。

「ん、…春は明るくて、きれいだね?」

ほんとうに今年の春は、美しい。
万朶に花咲く庭は、染井吉野に遅咲きの枝垂桜、山桜。
牡丹と芍薬も早い花がほころびだす、山吹の黄金も丸い蕾が可愛らしい。
あふれる草木の花々彩る庭の森は、おだやかな春の陽に輝いていく。
この春のきらめきに、父が教えてくれた詩の一節が映りだす。

“The spirit of pleasure and youth’s golden gleam”

詩を映すような黄金の陽光が、「今日」の庭にふりそそぐ。
14年を喪に染めていた春は今、明るい輝きに充たされ笑顔が花の香と響いていく。
この「今日」が、明るい日の輝きに還っていく。

…ね、お父さん?春が、うちに還って来たね…

暖かな陽のふる花はもう、喪の色には見えない。
もう母の笑顔にも、哀しみの翳より喜びの光が濃く甦った。

いま蘇える耀きの春、この光はこんでくれた人は隣で笑ってくれる。
この愛するひとへの想いは枯れない花だと、また想いは募ってしまう。
そんな心を抱いて歩く春は、のどやかに周太の足元を照らしてくれる。
この春のどけき光のなかを、3人笑いながら飛石踏んで玄関ポーチに上がった。

「周太、玄関の鍵を開けるよ?」

きれいな低い声の提案に、周太は笑って頷いた。
そうして白皙の長い指は、父の合鍵で家の扉を開いた。

…お父さん、帰って来たね?

父の合鍵が開錠する音に、どこか懐かしい温もりが心ふれてくる。
自然と昇る笑顔に見上げた黒いスーツ姿は、革靴に三和土を踏んで玄関に入っていく。
そして振向いて、周太と母に向き合った優しい笑顔は、きれいな低い声で言ってくれた。

「お帰りなさい、お母さん、周太、」

きれいな笑顔咲いて、母と自分を迎えてくれる。
この「今日」に、自分たち母子を迎えてくれる笑顔がいてくれた。
こうして迎えてもらうことは、自分たち母子には心に響いてしまう。

…英二、どうして、いつも解かるの?

14年間ずっと、母子2人きり過ごした「今日」は寂しかった。
いつも2人きり墓参して、誰もいない玄関の鍵を開ける母子2人の寂寥感。
親戚すら無くて、この2人きり他に誰もいないと思い知らされる寂しさは、辛くて。
けれど母子互いに辛さも哀しさも、言葉にすら出来なかった。もし言葉にしたら、想いが音になった分だけ辛いから。
そうして互いに口噤んで、孤独をふたつ並べて「今日」を見つめていた。

この孤独な寂寥を、まだ英二にも言っていない。
けれど英二は何も言わなくても解かっている、だから自分たち母子を今、玄関で迎えてくれた。
この迎えてくれた笑顔に、快活な黒目がちの瞳は幸せに笑いかけた。

「ただいま、そして…お帰りなさい、」

ひとしずく、母の白い頬に涙つたって三和土に落ちた。
涙おちた頬は明るく微笑んでいる、この笑顔に英二は笑いかけてくれた。

「ただいま、お母さん。ココア、作っていただけますか?」

ことん、心に響く「ただいま」とそれからの言葉たち。

この言葉たちは本当は14年前の夜、ここで響くべき言葉だった。
この玄関を開いて、きれいな笑顔が帰ってきて、そして言ってくれるはずの言葉だった。
この想いはきっと母も同じ、そう見つめた母の顔には幸せな笑顔が花咲いた。

「ええ、作るわ。すぐ仕度するね、」

快活な黒目がちの瞳が笑ってくれる。
笑顔の母は靴を脱ぐと「着替えてくるね」と微笑んで、2階に上がって行った。

…ね、お父さん…?英二は、お父さんの約束を叶えてくれるよ…

14年前の「今日」の朝に父が母宛に書き残したメモ。
そのメモに記された約束の「ただいま」が今、母を出迎えてくれた。
こんなふうに母を出迎えて貰えた、うれしくて周太は大好きな切長い目に微笑んだ。

「お母さん、すごく喜んでる…ありがとう、英二、」
「良かった、」

綺麗な笑顔が笑ってくれる。
そして長い腕を広げて、周太を見つめて幸せが微笑んだ。

「おかえり、周太。おいで?」

自分を、今日、出迎えてくれる頼もしい腕。
この腕をひろげてくれる笑顔に、周太は綺麗に笑いかけた。

「ただいま、英二、」

安堵と、幸福と、慕い愛する想いのまま、周太は抱きついた。
頬ふれるシャツ透かして鼓動が温かい、深い森想わす香に安らいでいく。
瞳からこぼれる熱が抱きよせられる懐に沁みていく、心ほぐれて寂しさは消えてしまう。
いま、幸せが温かい。

「周太、おかえりなさい。ずっと、がんばってきたね?もう、大丈夫だから、」

もう大丈夫

ずっと誰かに、そう言ってほしかった。
ずっと誰かと一緒に生きてほしくて、けれど誰でも良いわけじゃなくて。
そして今はもう、一緒に生きて欲しい人が抱きとめてくれる。この愛するひとに周太は頷いた。

「…ん、大丈夫だね?…ずっと、一緒にいてね、」
「うん、ずっと一緒だよ。ずっと周太を愛して、ずっと傍にいるよ?」

綺麗な低い声の言葉が温かで、嬉しくて笑顔になっていく。
涙の瞳のまま見上げて、周太は愛するひとへ綺麗に笑った。

「うれしい、ありがとう…ずっと一緒だね、」

見あげて背伸びして、大切な婚約者の唇に周太はキスをした。

「お帰りなさい、英二、」

お帰りなさい

この言葉をずっと言いたい、このひとに。
ありふれた言葉、けれど宝物の言葉と自分は知っている。
この言葉の温もりに「今日」の哀しみが今、喜びに変わる涙になって周太の瞳からこぼれた。
そうして温かい涙はゆっくりと、玄関の三和土に染みこんだ。



ジャケットをハンガーに掛けて鞄を置くと、周太はすぐ階下に降りた。
いまから英二が着替えをするから、一緒に部屋に居るのは気恥ずかしい。
すこし足早に階段を降りていく、そしてリビングに入ると外出姿の母が立っていた。
黒いパンツスーツをカジュアルなパンツに履き替えて、けれど青いシフォンブラウスはそのまま着ている。
どう見ても出掛ける雰囲気でいる、不思議で周太は母に尋ねた。

「…お母さん?どうして出掛ける格好なの?」

今日のこの後は家にいる、その予定のはずなのに?
なんでだろうと見つめる周太に、母は穏やかに微笑んだ。

「今夜から、お友達と温泉に行ってくるね?明日の14時には帰ってくるから、」
「…どうして?」

どうして今日、母は泊まりに行ってしまう?
今日は父の命日で、必ず家で過ごして父を偲んでいた。
それどころか母は、英二がこの家に来るまで13年間ずっと、仕事以外の外出すら稀だったのに?

「今夜はね、家以外のところで過ごしてみたいの。赦してくれるかな?」

おだやかな黒目がちの瞳が笑いかけてくれる。
けれど周太は泣きそうに即答した。

「だめ!」

今にも泣きそう、だって母の気持ちが解らない。
どうして?ただ疑問符が廻るまま周太は口を開いた。

「どうして今夜、行っちゃうの?お父さんが亡くなったの、今夜だったんだよ?…なぜ、今夜なのに行っちゃうの?
なんで?どうして今夜いないの?お父さんと俺のこと、置いて行っちゃうの?…どうして?解からないよ、なんで急にそんなこと?」

「周、」

すこし困った顔で、やさしい母の声が名前呼んでくれる。
けれど周太は頭を振って、涙とじこめながら言葉を続けた。

「おかあさん、どうして行っちゃうなんて言うの?行かないで、お父さん置いてかないで?俺のこと、置いて行かないで…嫌!」

嫌、そう言った途端に涙がひとつ瞳からおちた。
すぐ指で涙拭って、真直ぐに母を見つめる。けれど、行かないでと見つめても母は静かに微笑んだ。

「周には、英二くんがいるわ。もう、大丈夫でしょう?」

離れる練習、そんな単語も頭に浮かぶ。
もう23歳の大人だから離れることも必要と解かっている、けれど今夜だけは嫌。周太は頭を振った。

「お母さんだって、ずっと一緒にいるって、約束したよ?…英二は大切、でも、お母さんだって、すごく大切なんだから…ね、」
「ありがとう、周。お母さんも、周が大切よ、英二くんのことも、」
「だったら、行かないで?ね、今夜は一緒に家にいて?ねえ、お母さん、」

青いシフォンブラウスの白い手を周太はとった。
母の手を握りしめて止めようとするけれど、母は静かに笑っている。

「周、お母さんね、踏み出そうって想うの。ね、行かせて欲しいな?」
「いや…だめ、だめっ、行っちゃだめ、」

こんなの小さい子供と同じ、そう解っていても嫌。
どうしても嫌で母を留めたくて、涙も呑みこんだ向こうでリビングの扉が開いた。

「…えいじ!」

英二なら、母を留めてくれるかもしれない。
縋るような想いで周太は、賢明な婚約者を見あげて訴えた。

「英二?お母さん、夜から温泉に出かけるって言うんだよ?ね、止めて?」

すこし驚いたよう英二は周太を見つめて、母の方を見た。
どうしたんですか?そんなふうに尋ねる切長い目に、母は微笑んだ。

「ワガママ言って、ごめんね?英二くん、」
「いえ、わがまま言って頂くのは、嬉しいんですけど、」

言葉を切って、すこし首傾げて英二は母に笑いかけた。
おだやかに母も微笑んで、そして静かに口を開いてくれた。

「おととしが13回忌だったの、そして今年は14年目だわ。それでも私は、あのひとに恋しているの。
だからこそ、今日に拘ることは止めたいの。あの人が亡くなった夜だからこそ私、この家から離れてみようと想うの。だめかな?」

母が今もずっと父を想いつづけている。
この母の想いを自分は知っている、毎日活け替えられる書斎の花に母の想いは現れている。
生と死に別れても想い結びあう、そんな両親の姿が自分は大好きで誇らしい。
けれど、遺されている母の寂しさは?

…終わらない恋人は幸せで、でも…寂しい。だって抱きしめられない、笑顔すら見られない

もし自分が英二に抱きしめて貰えなくなったら?
そんな想像は本当に怖い、だから今日も英二が新宿署に現れることを止めたかった、危険から英二を遠ざけたかった。
どうしても離されたくない、だから鋸山の雪崩のときも、昏睡状態に陥った英二の掌を握りしめ離せなかった。
あの冬富士の雪崩もそう、なんども英二を自分から離そうとしたのは、自分の昏い危険に巻きこみたくなかったから。
英二に生きて笑っていてほしい、幸せな笑顔を見ていたい。だから英二を生きて守りたい。
それでも、もし失ってしまったら?

…きっと、英二を想いだす全てが宝物で、けれど、記憶が辛く哀しくもなって、

きっと母にとって、この家は恋人の記憶の棺。
この家で父と母は恋を重ね愛を深め、そして結婚して自分を産んでくれた。
この家のすべては、母にとっては「終わらない恋」のすべて。きっと家の全てに面影を追っている。
だから恋人が消えた「今夜」を、恋人との記憶が多すぎるこの家から離れてみたい。
この意志にこもる悲哀と愛惜と、それでも前に踏み出そうとする勇気を、止められる?

…止めたら、いけない、きっと…でも、置いて行かれるのは、寂しい

「いいえ、だめじゃありません、」

綺麗な低い声に周太は隣を見あげた。
止めたらいけない、けれど母に置いて行かれたくない。こんな縋る想いが心に廻ってしまう。
途惑うまま見つめた周太に、切長い目が笑いかけてくれた。

―どうか俺を信じていてね?

そんな想い述べてくれる眼差しは優しい。
優しい目に心安らいでいく、ほっと溜息吐く想いの隣できれいな低い声が母に答えた。

「俺が、この家にいます。だから、お母さんは離れてみてください。心配は要りません、」
「よかった、」

きれいに笑った母の瞳は、明るい決意に笑ってくれる。
この瞳に解かってしまう、今日から母は新しく踏み出していく。
もう「今日」の過去に横たわる哀しみだけ見つめることは、終わらせていく。
その覚悟は本当は、自分にだって解っている。だって墓参に祈ったことは自分の「明日の先」だったから。
だから、母と自分は同じことだろう。

「でも、お母さん?桜餅とココアは、桜を見ながら召し上がっていってくださいね?これは約束ですから、」
「はい、見て、食べていきます。今からココア、作るわね?」

楽しげに英二と母が話している。
こんなふうに前向きになっていく母は綺麗だと思う、けれど寂しい想いも誤魔化せない。
持てあます寂しさに溜息吐きかけた時、隣はふり向いて綺麗に笑いかけてくれた。

「周太?甘い冷たい吸い物、作るんだよな?それも一緒に、3人で食べよう。蓬を摘んでくればいい?」

綺麗な低い声に周太は真直ぐ見あげた。
どうか笑ってほしいな?そう大好きな目は笑ってくれる。
この大好きな目はきっと、自分がずっと拗ねていたら哀しい目になってしまう。
それは嫌で、だから周太は心頷いて微笑んだ。

「ん、皆で、食べようね?…英二、一緒に蓬、摘んでくれる?お母さんも、」
「ええ、周。もちろん、一緒に摘むわ、」

おだやかに母が笑いかけてくれる。
その笑顔に母も本当は「寂しい」ことが垣間見えて、周太は気づかされた。
母だって周太と離れることは寂しい、けれど「明日の先」を母も見つめ決意してくれている。

…それなのに、男の自分がいつまでも寂しがって、泣いていたらダメ、

こんな泣き虫で甘えん坊のままは、恥ずかしい。
すこし恥ずかしい想いと母を明るく送りだしたい想いに、周太は母に笑いかけた。

「お母さん、今夜はね、楽しんできてね?…明日は、帰ってきてね、」
「はい、もちろん帰ってくるわ、お客さんがあるし、」
「約束だよ?」

うれしそうな母の微笑が、明日の約束に頷いてくれる。
ほら、こんなふうに母はいつも息子の為に、真剣に考えてくれているのに?
こんな気丈で優しく強い母が本当に自分は大好きで、ずっと大切にしたい。
すこしでも明日を楽しみにして笑ってほしい、そんな想いと周太は微笑んだ。

「白ワイン、買っておいてあげるから、帰ってきてね、」
「ありがとう、周。お母さん、明日の夜は、浅蜊のワイン蒸とか食べたいな?」
「ん、いいよ?…明日は、ワインは夕食とは別に飲むよね?…それなら、おつまみいる?」
「うん、そうしてほしいな。周、お相手してね?」

楽しげな母のおねだりが嬉しい。
こんなふうに少しでも甘えて貰えるように、もっと自分も大人なりたいな?
そんな想い抱きながら母に頷いて、周太はエプロンをかけた。



やさしい月明かりに桜は、万朶の花を風に揺らしている。
テラスの窓いっぱい華やぐ姿は美しくて、夜闇を透かす花は紫にあわい。
ほんとうは今夜、ここで母も一緒に過ごすつもりだった。けれど母は「今日」から旅立っていった。
そして今、こうして婚約者とふたり籐の安楽椅子に寛いで花を眺めている。

「月が明るいね、今夜は。おかげで桜が良く見える、」

浴衣姿の英二が本を片手に笑いかけてくれる。
きれいな笑顔が間近く見れて嬉しい、けれど面映ゆさと緊張に首筋がすこし熱い。
いつもより明りも落とした陰翳の美しい空間で、どこか気恥ずかしく周太は微笑んだ。

「ん、…きれいだね、」

夕食と風呂を済ませた寝間の浴衣姿で、冷たいワインと本で夜桜を楽しむ。
夜のときを想わす姿にアルコールの香、そんな大人びた花見にすこし緊張してしまう。
けれどこの緊張はどこか甘くて、この不思議な甘さに安らいでいる自分がいる。
こんなふうに母も父と同じ窓辺で、ふたりきり恋人同士の時間を過ごしたかもしれない。
そんな想いに見上げる夜桜は優しくて、すこし開いた窓から香る桜と夜の風がここちいい。
ここちよくて、花の姿も香りも嬉しくて微笑んだ周太に、綺麗な低い声が笑いかけた。

「周太、今夜は、すごく美人だね?…夕飯の時も言ったけど、なんだろう、大人びたね?」

そんなふうに言われると、嬉しいけれど気恥ずかしい。
なにより今がほんとうは少し気恥ずかしいのに?すこしだけ困りながら周太は口を開いた。

「ありがとう、でも…こんなお膝されながら大人びた、ってへんじゃないかな…」

本を読んでくれる前に、英二は周太を膝に乗せてくれた。
そのまま膝に抱かれて周太は、婚約者が朗読してくれる英文詩とワインを楽しんでいる。

…しかも、お父さんが亡くなった夜を思い出して、泣いたりもしたのに…

父を恋い慕って泣いて、膝に抱きかかえられて。
こんなの子供っぽいんじゃないのかな?こんな自分に首筋熱くなりながら周太はすこし俯いた。
けれど綺麗な低い声で笑って英二は教えてくれた。

「変じゃないよ?周太、お膝はね、恋人同士でもするから、」
「ん、そうなの?」
「そうだよ、」

可笑しそうに笑って長い腕を伸ばすと、白皙の指にワイングラスを絡めとる。
きれいな持ち方のグラスに口付けてから、端正な恋人は微笑んでくれた。

「だからさ、俺の膝は周太の特等席だよ?恋人で、婚約者だからね、」

そんなふうに言われると、うれしいけれど気恥ずかしいな?
熱くなる頬に掌を当てながら、周太は困ってしまった。

「恥ずかしい、でも…とくとうせきはうれしいな?ありがとう、」
「こっちこそだよ、俺は周太専用になりたいんだ。周太、次は、どの詩を読もうか?」

専用、この言葉は面映ゆい。
けれど独占できていると言うことが嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ん、…『序曲』の5、あたりかな?」

白皙の掌が持つ本のページを捲っていく。
そして見つけた一篇にすこし顔赤らめて、周太は英二に示した。

「これ、…読んでくれる?」
「うん?『When,in a blessed season』ってとこでいい?」
「ん、それ…325まで、」

周太の指定に優しい笑顔で英二は頷いてくれる。
この詩を一度、英二の声で読んでほしいと想っていた。
その願いが叶うな?嬉しい気持ちで周太は、そっと頼もしい肩に頭を凭せ掛けた。

When,in a blessed season
With those two dear ones ― to my heart so dear ―
When in the blessed time of early love,
Long afterwards I roamed about
In daily presence of this very scene,
Upon the naked pool and dreary crags,
and on the melancholy beacon,fell
The spirit of pleasure and youth’s golden gleam―
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances,and from the power
They left behind?

きれいな低い声が、流暢なキングスイングリッシュで読み上げてくれる。
ほんとうに上手だな、感心して周太は英二に笑いかけた。

「上手だね、英二?…英会話とか、通ってたの?」
「姉ちゃんに教わったんだよ。姉ちゃんはさ、英文科でイギリス文学を専攻していたから、」

英二の姉の英理は、英国に本社がある食品会社で通訳を務めている。
彼女ならきっと良い先生でもあるだろうな?納得しながら周太は微笑んだ。

「お姉さん、いいね…俺はね、父に少しだけ教わったんだ、」

周太の言葉に切長い目が一度、ゆっくり瞬いた。
瞬いて周太の瞳見つめて、英二は訊きながら微笑んだ。

「お父さん、英語を教えてくれたんだ?」
「ん、そう…それでね、この本がテキストだったんだ、」

だからこの本を今夜、英二が選んでくれたのは嬉しい。
父が教えてくれた英語と英文学の時間は、楽しい幸せな記憶になっている。
懐かしい温もりの時に微笑んで、周太は婚約者にねだった。

「ね、英二?翻訳もして、お願い、」
「周太のお願い、なんでも聴くよ?」

きれいな笑顔が優しい眼差しに見つめてくれる。
そして綺麗な低い声が、邦訳をしながら読み上げてくれた。

「祝福された幸せな季節に。
 心から想い愛する人と、ふたり。祝福された若い恋の時間に歩いた所。
 長い年月が過ぎて、同じ場所を毎日のように散歩した時に、
 手つかずの池と荒涼とした岩山と、切ない山頂の道しるべに、
 あふれる喜びの想いと、若き黄金の輝きとが降りそそいだ。
 あの古い記憶、この記憶が残した力から、
 これ以上に神秘的でまばゆい輝きが得られると、考えられるだろうか?」

“The spirit of pleasure and youth’s golden gleam”

この一節に周太は、雲取山の落葉松やブナの林で見た英二を思い出す。
黄金かがやく林のなかで深紅のウェア姿の英二は、どこか神秘的なまで美しかった。
あの日の姿をきっと自分は「祝福の記憶」として忘れない。
そして黄金ふる光には、午後に見つめた春の庭の陽光が重なっていく。

もう春は、哀しみだけの季節じゃない

この今をくるんでくれる愛するひと、この伴侶と共に見つめたなら全ては喜びに変えられる。
そんな想いと見つめたページを白皙の手が閉じて、綺麗な笑顔が笑いかけてくれた。

「こんな感じで、よかったかな?周太、」
「ん、…嬉しかった、ありがとう…、」

やさしい時間への感謝に微笑んで、周太は愛するひとにキスを贈った。



【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「The Prelide(1805)」(5)Spots of Time―When,in a blessed season】

(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする