最愛、雪陵に蒼穹の点を超えて
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第42話 雪陵act.5―side story「陽はまた昇る」
雪洞の夜にやさしい静謐がおりてくる。
温かなシュラフに潜りこんで向き合うアンザイレンパートナーから、やさしい記憶たちは紡がれ出した。
「俺が生まれたとき、ちょうど吉村先生と雅樹さん、奥多摩に居たんだよ。先生の実家に遊びに来ていたんだ。
それでさ、おふくろの山頂出産に驚いちゃった後藤のおじさんが、吉村先生を呼び出してね。雅樹さんも一緒に天辺に来てくれた」
国村は、東京最高峰で奥多摩の第1峰になる雲取山頂で生まれた。
この話を英二は、吉村医師と後藤副隊長から聴き、国村自身からも少し聴いている。
雅樹がいたことは初めて聞くけれど、吉村医師が奥多摩に帰るなら山好きの雅樹も一緒な方が自然だ。納得しながら英二は微笑んだ。
「お母さん、富士山見て伸びして、それで産気づいたんだよな?」
「そ。秋にちょっと話したよな?で、雅樹さん達が来た時は、もう出産が始まっていたんだ。
すぐに吉村先生は、おふくろを診てくれた。で、俺の産湯をね、奥多摩小屋まで取り行ってくれたの、雅樹さんなんだよ」
後藤副隊長も奥多摩小屋から産湯を運んだと話してくれた、それを運んだのが雅樹だった。
この運命の交錯、山ヤの赤ん坊と少年の出逢いは温かい。語ってくれる元赤ん坊の細い目も温かに笑んで続けた。
「居合わせた産婆さんと、吉村先生が俺を取り上げてくれた。そのまま先生、おふくろの処置してくれてさ。
それで産婆さんを手伝って雅樹さんが、俺に産湯を浸からせてくれたんだ。で、生まれてすぐの俺を、抱っこしてくれた。
あの瞬間から俺、雅樹さんが大好きになったよ、きっと。それからずっと、あのひとの事が俺は大好きなんだ。ほんと愛してる、」
語る底抜けに明るい目は、産湯を浸からせてくれた人への想いに輝いて優しい。
いつもより優しいテノールは、嬉しそうに語っていく。
「中学生だったんだ、雅樹さん。俺が生まれて間もなくかな?15歳になってすぐ雅樹さん、救急法の試験に満点合格してさ。
それで吉村先生が救急用具をプレゼントしたらしいね?だから雅樹さん、俺が物心ついたときには、いつも救急用具を持ってた。
山で困った人を助けてね、きれいな笑顔で元気づけてた。美人で頭良くって、優しくってさ。山を心から愛する立派な山ヤだったよ」
山を心から愛する立派な山ヤ。
この国村が誰かをそんなふうに褒めることは、滅多に無い。
どれだけ国村が雅樹を、深く敬愛していたのかが解かってしまう。その痛みの深さを想いながら、英二は語ってくれる目を見つめた。
「初めて一緒に登ったのは、俺が4歳だな。ウチの梅林に案内したんだよね、雅樹さんが大学の春休みで奥多摩に来たんだ。
あの日はさ、オヤジは仕事で写真撮りに行っちゃって、おふくろはピアノ教室だったんだ。で、俺が1人で案内することになったね」
なにげない会話の中に初耳があった。
けれど納得できるな?思いながら英二は聴いてみた。
「お母さん、ピアノの先生だったんだ?」
「あ、…うん、まあね、」
訊かれて、珍しく国村は言葉を濁した。
なにか訊かれたくない理由があるのだろうか?本当はピアノのことは訊いてみたいと思ったけれど、英二は止めた。
以前、巡回中偶然に国村のピアノと歌声を聴いた事がある。
それは玄人に巧くて、けれど国村はこのことは内緒にしたい風でいる。
だから訊かない方が良いかなと英二は、ずっと黙っている。今日も黙ったまま微笑んで、英二は促した。
「あの梅林、きれいだな?雅樹さんも喜んだだろ?」
「うん、すごく喜んでくれたよ?雅樹さんはね、花や木も好きだったんだ。名前のとおりだよね、」
嬉しそうにテノールの声が微笑んだ。
花木が好きだなんて、誰かさんに似ているな?英二は相槌を打った。
「雅樹さんの名前、奥多摩の樹木の意味だって吉村先生も言ってた。花や木が好きなんて、周太と似てるな?」
「そうなんだよね、だから俺、周太と逢った時は嬉しかったんだ」
英二の言葉に素直に頷いてくれる。
そして大切な初恋の思い出を少し話してくれた。
「雅樹さんが亡くなって最初の冬が来て。その次の冬に周太と逢ったんだ。でさ、雅樹さんが亡くなってから、初めてだった。
あんなふうに見惚れて、大好きだな、って話せたのは。でも、周太はプラスアルファの感情があったから、完全に恋だって自覚した」
最愛のアンザイレンパートナーを亡くした山ヤの少年。
その傷に周太の優しい純粋な心は、おだやかに癒しを与えただろう。
なぜ国村が周太を恋し、ずっと14年間を待ち続けたのか。その理由がまた解かったように想える。
そして自分と周太の繋がりが国村を傷つけているのではないかと、また哀しみが起きかけてしまう。
―でも、もう、決めたんだ…ごめん、国村
ずっと俺だけのものでいて。
そう周太に告げてしまった、そして体の繋がりを二重に持ち、約束を重ねている。
あの愛しい存在を幸せにする、それ以上の願いは自分には無い。だからあの夜を後悔はしていない。
それでも、この純粋無垢な子供の瞳を持ったアンザイレンパートナーの深い哀切と愛慕を今日、目の当たりにしてしまった。
そして雅樹の想い遺された自分の心は、このパートナーの幸せを心から祈りたい願いがある。
どうしたら、幸せに出来るだろう?
そんな祈りを見つめるむこう、底抜けに明るい無垢な目は微笑んだ。
「でね、雅樹さんとは奥多摩の山は、ほとんど登ったんだ。休みで奥多摩に来るたび、誘ってくれてさ。嬉しかったね。
小学生になってからはね、ふたりで他の山にも登りに行った。夏の富士に北岳、谷川岳、どれも一般登山道だけど楽しかった。
それで小2の夏、ここに一緒に登ったんだよ。小屋とテントに泊まって縦走、で…楽しかった、だから、余計に哀しかった…ん、だ」
ぽとん。
隣に寝転んでいる無垢な目から、涙がこぼれた。
「今回の、前穂高から槍の縦走ルートはね?そのときの…俺と雅樹さんの、ルートなんだ…だから、槍で雅樹さんが…っ、さ…」
透明な目から涙が頬伝ってシュラフにこぼれていく。
涙こぼしながら、ひとつ息を吐いて透明なテノールは想いを言った。
「槍で、雅樹さん…っ、な、亡くなって…ほんとは、約束だった、っ…北鎌尾根、いつか…俺が、大きくなったら一緒に…っ、」
涙流しながら秀麗な貌は笑っている。
この顔を見つめている、この心が軋みあげてくる、この痛みは誰のものだろう?
この痛みの目の前、泣笑いの頬を涙ぬらしながら国村は約束のトレースに微笑んだ。
「槍の穂先から、き…北鎌尾根、いっしょに眺めたんだ…っ、ぅ…いつか、いっしょに、のぼろう、ね、て…
だから余計に、怖かったんだ、さびしくて哀しくて…あの場所は、登れなかったんだ…っ、ルートは頭に入ってる、でもむりだった…
今日、一緒に、きたかまおね、っ…あんざいれんして、うれしかった、やくそくのルート、だったんだ…でも、あそこで、まさきさん…っ」
あふれていく涙が、ろうそく揺れる雪洞の灯に煌いていく。
この涙と告げてくれる「約束」に、なぜ国村が15年間を慰霊登山できなかったのか理由が解かる。
幸せな約束の場所が哀しみ墓標になった、この痛みに竦んでしまう心を誰に責められるだろう?
「あ、あのとき、っ、…まさきさん、奥多摩で、い、一泊してから、上高地、入って…っ、だから俺、直前にあった、んだっ、…
なんか、いつもと違うって、おもった、っ、…でも、わからなくて、でも、約束して…くれたから!俺のパートナー、なるって約束…っ、
雅樹さん、ぜったい約束まもる、だから、だいじょうぶ、っておも、った…でも、かえってこなかったんだっ…やくそくのルート、で…さ、
俺との、約束の、ルートで、やくそくごと消え、た…っ、…だから今日、うれしかったんだ、約束まもって、くれた、うれしかった、…っ、」
凍りついた哀しみを、今日、国村は泣きながらでも超えた。
この強靭な純粋無垢を今は、心ゆくまで思い切り泣かせてやりたい。
そっと長い腕を伸ばすと英二は、大切なアンザイレンパートナーを抱きしめた。
「うん、雅樹さんも今日、嬉しかったな。約束のルートで、約束のアンザイレンが出来た。きっと、本当に、嬉しかったよ?」
抱きしめて寄せた頬に、涙が温かい。
肩に額つけて国村は泣笑いに微笑んだ。
「…そ、うだよね?…っぅ…雅樹さん、も、うれしいよね?…っ、あ、…うっ、…っ、」
青いウェアの腕がそっと英二を抱きしめてくれる。
どこか涙こらえている気配に、英二は綺麗に笑いかけた。
「泣けよ、国村?今夜はさ、存分に泣けよ。もう雅樹さんは、ずっと一緒にいてくれるよ?だから大丈夫だ、泣けよ、」
「…うん、っ…泣くよ?…お、れ、…まさきさ、っ…」
回してくれる白い手が背中を掴んで、そして透明なテノールは泣いた。
「あっ、あああああ…っま、まさきさん…やくそ、く…ありがと…ぅ、っ、…ああっ、あ、…なんでっ、」
温かい涙が嗚咽と一緒に、そっと英二の心へと静かに沁みこんでいく。
抱きしめて、遠慮なく泣いてくれる。そんな姿にどこか喜びがふれるのは、心に残った雅樹の想いからだろうか?
ただ何も言わず英二は、友人でアンザイレンパートナーの涙と慟哭を抱きしめた。
「なんで?…なんで死んじゃうんだよぉっ…生きて!…ぅ、っ…帰ってきてほしかった、ぁ、ああっ…救けたかった、
いっしょに…っ、もし、一緒ならぁっ…救けられた、のに…なんでだよぉ…っ、…もっと…あ、あああっ、ま、さきさんっ…
ごめん、なさ、い、まさきさん…っ、もっとおれ、はやく、おとなにっ…たすけたかったよぉっ…ぅ、うあああああっあ、ああっ、ごめ、ね…」
悔恨と、哀惜と、どうにもならない望み。
すべて言っても詮無いことと解かっている、それでも吐き出せば楽になる。
すこしでも多く吐き出して、楽になってほしい。そんな想いと抱きしめている英二の頬を、涙がこぼれた。
「たすけたかった!…生きて、いっしょにいた、のに…っ、嫌だ、いやだよぉっ…ふれられない、のは…さびしいよぉっ…!
いっしょに心いて、くれる…うれしいけどっ!でも、…ふれたい、よぉ、まさきさん!あ、あ、っあああああああっ…うあああっ!」
慟哭が、この心に刺さる。
憧れて、兄のよう、愛して、尊敬して、大好きだった。
この15年間ずっと雅樹を求めて、死を受け止めきれず慰霊登山も出来なくて。そして受けとめた今、泣き叫んでいる。
いま泣き叫ぶ透明なテノールが前に言った、あの言葉が心に哀しく聞こえてしまう。
―…心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ
心を繋いだ相手と体ふれ合いたい、それはシンプルで誰もが願う幸せの1つだろう。
けれど国村が求める周太は英二しか求めようとしない、そして最愛の雅樹とはもう生きては触れあえない。
「ま、さきさんっ、…ぅ、だきしめて、ほしいよぉっ、むかしみ、たいに、…ぅっ、すごいな、って…笑って、ほし…っ、
さびしいよぉ、…いっしょに山に生きたか、っ…たすけた、かったのに…っ、ごめ、なさいっ…もっと、はやくおとなだったら、ああっ、」
心を繋いだ相手と体ごとふれ合いたい
もう、国村の願いは叶わないかもしれない。
そんな想いが今、尚更に痛い。そんな痛みに言葉の続きが響いてしまう。
―…だから俺はね、おまえ見るといつも、じゃれつくんだよ。宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ
宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ
射撃大会の夜に透明なテノールが、言ってくれた想いが心に響く。
もう自分の全ては周太に捧げた、けれど、この慟哭を抱きしめている今が哀しくて愛しい。
この心突き刺す哀しみを止めてやりたい。
「雅樹さ、んっ…ま、さきさんっ、ごめんなさいっ…あのときおれがおとなだったら!っあ、たすけられた…っう、ああっああ、
ごめん、なさ…っ、もっとはやく、うまれてっ…ぅっ、た、たすけたかったっ、さびし、よっ…ごめ、なさ、っ…うあああっあああ…」
身代わりでも受けとめて安らがせてやりたい。
この想いが、雅樹の願いと重なり合って温もりが心を充たしてくる。
その温もりが涙になって、そっと英二の頬を伝って雪白の頬へとこぼれた。
「大丈夫だよ、国村?…雅樹さんのね、心はもう、国村が救けたよ?」
涙を重ねながら、そっと英二は想いを告げた。
透明な嗚咽が肩で息吐きながら、すこし顔ずらして無垢の目が英二を見つめた。
「っ、…そ、うかな?…ほんと?…おれ、たすけられたかな…?」
赤いアンザイレンザイルに雅樹の想いを繋いで、国村は北鎌尾根から槍ヶ岳の点を超えた。
そして途切れたトレースを終わらせて、繋げて、明日へ続くトレースと一本にして国村に繋がっている。
だからきっとそう、静かな確信に英二はきれいに笑って頷いた。
「うん、おまえが雅樹さんを救けたんだ。大丈夫だ、おまえが救けてくれたこと、すごく喜んでるよ?ほんとだよ、」
微笑んで答えながら、そっと掌で涙拭ってやる。
拭う掌を涙の瞳が見つめて、そして英二の目を見て笑ってくれた。
「こういうとこがさ…なんか、似てるんだよ、ね…みやたと、雅樹さん…っ、ぅ…俺さ、正直に言うけど、さ…」
「うん、」
たぶんそうかな?
いつも背中から抱きついてくれる雰囲気に感じること、これが答えかな?
そんな想いと見つめた先で、底抜けに明るい目が泣笑いに微笑んだ。
「俺、最初に宮田とあったとき、雅樹さんだ、って想ったんだ…っ、ぅ…別人って解ってたよ?でも、同じだった。
背が高くて、色白でさ…おだやかで、静かで温かい気配がね…同じだった、ちょっと悩んでいる雰囲気とか、真面目で色っぽいとことか。
初めて逢った瞬間に、俺、逢えたね、って…もう生きて逢えないと想ってた、俺のアンザイレンパートナーに逢えた、って…最初に想ってた」
ゆっくり瞬いて、無垢な笑顔に笑ってくれる。
笑って、透明なテノールは言葉を続けた。
「一生懸命、レスキューの勉強してさ…吉村先生と、いつも一緒で…山、初心者なのに、俺に付いてくる…話していて、楽しい。
雅樹さんと似てるけど、それだけじゃない。今度こそ、生涯のアンザイレンパートナーになる相手…そう思って俺、うれしかったんだ」
ほんとうに嬉しかったよ?
透明な目が温かに笑んで想い伝えてくれる、そんな想いが嬉しくて英二は微笑んだ。
「うん、俺も、うれしかったよ?国村に生涯のパートナーだって言ってもらえて、うれしかった、」
「うん、…っ、ぅ、…ありがと、…ほんと、おれ、宮田だけ、でさ…っぅ、」
笑った顔がまた、涙に濡れていく。
泣いて、しがみついて国村は、英二の目を真直ぐ見つめて泣き出した。
「だから俺っ…の、鋸尾根の雪崩のとき、おまえを救けられて、うれしかったんだっ…ほんとにうれしいんだ、おれ…っぅ、
おれ、っ…雅樹さんはたすけられなくて、でも、おまえはたすけられたっ…っぅ、うれしいんだよぉ…っ、俺、おまえだけなんだ、」
背中を掴んでくれる掌が、ぎゅっとウェアを握りしめてくれる。
首元に額付けて涙こぼして、透明なテノールが泣き笑う声で想いを紡いだ。
「俺もう解ってるんだ…ほんとは、わかってるんだ、周太はもう、俺にはふりむかないよ?それでも諦められないだけ、で…っ、
周太の幸せはさ、おまえのとなりだから…それでいいよ、あのひと幸せに生きていたら、それでいいんだ、…っ、ぅ、でも寂しい、
おれは…おまえしか傍にいないんだよ…、誰もいないんだ、他に、もういない…まさきさん、ふれられないから…抱きしめられ、ない」
抱きしめられない、寂しい。
この気持ちは英二には痛切に解かってしまう、自分も同じ寂しさを抱いてきたから。
けれど自分は周太に出逢った、そして幸せを抱きしめられている。けれど国村にはそうした存在は居なかった。
けれど国村は今、すこし英二に求めようとしている。そんな国村の痛切な寂しさごと英二は抱きしめながら、声に心傾けた。
「だから、おまえが、俺の、アンザイレンパートナーにさ、認められたの、うれしくて…おまえのクライマー任官、嬉しくって、さ…
これでもう、警視庁でも俺と一緒にいるのは、決まりだ、って…ずっと一緒にいてくれる、それが、うれしいんだよ?ほんとに、さ、
最高峰も、山岳レスキューも、これで一生傍にいられる、って、っ…俺、孤独じゃない…大好きな、おまえが傍にいれば…いい、んだ、
だから今日も、北鎌尾根、怖かったんだ…っ、…雅樹さんと同じになったら、って…だから今が、うれしいんだよ…無事が、うれしい、よ」
英二の肩に温かな涙が融けていく。
ただ抱きしめて、頬ふれ合って、互いの涙の温度を融かしあっている。
―こんなふうに大切な相手がある
友人で、それだけではない相手。
恋人や伴侶とは違う、けれど深く響き合うものがある。
ザイルに生命と運命を繋ぎ合う、生涯のアンザイレンパートナー。その意味が今初めて解かり始めたかもしれない。
この温かい想い抱きながら英二は、大切なザイルパートナーに話しかけた。
「うん、俺もうれしいよ。国村と、ずっと一緒に山を登って、一緒に笑える。それが幸せだって思うよ?
俺は周太を伴侶にしている、けれどザイルパートナーは国村だ。ふたりとも、比べられない程に大切な相手だよ?」
「…っ、ほんと?…っ、ぅ…おれのこと、周太くらい、大切なのか…?」
涙のんで透明な目が見つめてくれる。
ほんとだよ?優しく笑んで頷きながら英二は、率直な想いを告げた。
「うん、大切だよ?だから俺は今日、命を懸けても北鎌尾根に登ろうって思ってたんだ。国村の山ヤの誇りを、守りたかったから」
「俺の、誇り…?」
透明なテノールの短い呟きに、英二は頷いた。
そして今日の自分の想いを、おだやかな笑顔で口にした。
「最高の山ヤとして、最高のザイルパートナーとして、国村に雅樹さんの慰霊登山をさせたかった。そうして壁を越えてほしかった。
哀しいのも辛いのも当然だ、けれど山ヤなら、仲間の慰霊登山が出来ないといけない。だから今日、一緒に北鎌尾根に登りたかったよ」
最高のクライマーを嘱望される国村、その唯一のザイルパートナーに自分は選ばれた。
それが嬉しい、山ヤとして最高の幸せだと心から嬉しく想っている。
だからこそ、パートナーとして国村の誇りを守りたい。
そんな想いに微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「ほら?…こんなに、俺のこと、…愛しちゃってるね?おまえってさ、」
「うん、そうだな?…これも愛だな、周太のとは違うけど、愛してるな?」
確かにこれも愛情だ。
素直に認めて頷いた英二に、うれしそうに無邪気な笑顔が咲いて、思い切り抱きついてくれた。
「ほらっ、愛だよな?俺のこと、愛しちゃってるね、宮田っ!ずっと一緒だねっ、」
幸せに笑って頬寄せて、素直に喜んでくれる。
この笑顔が嬉しくて愛しいと思うのは、雅樹の心と自分と、2人分の想いを抱いた所為かもしれない?
こんな自分は懐が少し広く出来ただろうか?そんな想いも嬉しくて、笑いながら英二は応えた。
「一緒だよ。俺は生涯ずっと、おまえのアンザイレンパートナーだよ?もう、寂しくないだろ?」
「うん、寂しくない、」
楽しげに頬寄せて底抜けに明るい目が笑ってくれる。
その目がすこし悪戯っ子になって、無邪気に笑いながら言った。
「そういえば、おまえ言ったよな?雪の花は天使からのアダムとイヴへの励ましだって、」
「うん、周太から聴いた話だろ?」
北鎌尾根での会話を思い出して英二は頷いた。
ふたり北鎌尾根で雅樹の最期の場所を見つめたとき、雪のかけら風花がナイフリッジの風に舞い降った。
そのとき英二は泣いている国村を笑顔にしたくて、周太に教わった雪の花の伝説を話している。
頷いた英二を可笑しそうに見て、透明なテノールが笑いだした。
「じゃあ、2人一緒に雪の花から励まされた俺たちってさ、アダムとイヴだね、み・や・た、」
「励ましは嬉しいけど、なんか違うと想うな?」
アダムとイヴなんて恋人同士だ、ちょっと自分達とは違うだろう?
可笑しくて笑った英二に、雪白の顔も可笑しげに笑った。
「俺たち、山って名前のエデンでふたりきり、だろ?こんなの、アダムとイヴまんまだね。さ、仲よくしよ?」
「もう充分仲良しだよ?それにさ、アダムとイヴは男と女だろ?俺たちだと男同士で違うよ、」
シュラフの中で抱きつかれながら、英二は可笑しくて笑った、
けれど国村は飄々と笑って答えた。
「性別とか、関係ないね?ま、俺がイヴやってあげてもいいよ、俺のが可愛いしさ。ほら、愛してるわ、ア・ダ・ム、」
白い指が顎に掛けられて、秀麗な貌は涙の頬で無邪気に微笑んだ。
その笑顔が近づいて、笑いながら英二は素早く顔を逸らした。
「いま人工呼吸は要らないからさ、って、なに頬っぺたにキスしてんのキス要らないから!」
やわらかな感触ふれた頬に驚いて、けれど可笑しくて英二は笑った。
素直に唇を離して英二の目を覗きこむと、楽しげに国村は笑ってキスの痕を小突いた。
「おまえ、この頬の傷、やっぱり消えないね?」
「あ、冬富士の氷の?…」
そっと自分でも指ふれて、けれど触れても傷痕は解からない。
細く浅い小さな傷、けれど富士の雪崩に跳んだ氷の裂傷は消えない。普段は気にならないけれど、ふと浮かび上がる。
これも「山の秘密」の不思議かな?すこし考え込んだ英二に、無垢の山っ子は言祝いだ。
「これは、最高峰の竜の爪痕だよ。ここに山っ子がキスをした、これで最強の護符になったね。もう、おまえは遭難には掴まらない、」
透明なテノールの聲が謳いあげる、祈りの言葉が雪洞に響いた。
この祈りに籠る想いが切ない、そして温かい。心からの感謝と哀惜に英二は微笑んだ。
「うん、そうだよ?俺は遭難死はしない、簡単には死なないよ。いつかは死ぬけれど、それは約束を全て叶えてからだ、」
見つめてくれる透明な瞳に、真直ぐ英二は笑いかけた。
この瞳が15年前に美しい山ヤと結んだ約束も全て、どうか叶えてトレースを繋ぎたい。
そんな祈りを心に見つめて笑いかけた透明な瞳の山っ子は、幸せに笑ってくれた。
「その約束は、この愛するアンザイレンパートナーとの約束も入ってるね?」
‘Yes’って応えてよ?
幸せな笑顔のなか底抜けに明るい目が、切ない祈りに訊いてくれる。
この祈りの為に今日、自分は北鎌尾根を踏んで永訣に立会った。その想い率直に頷いて英二はきれいに笑った。
「もちろんだ。最高峰もビッグウォールも、俺が国村と一緒に登るよ?約束だ、」
「よしっ、約束だね、」
切ない祈りは、大らかに歓び輝いた。
歓びに明るい目が幸せに笑ってくれる、この笑顔と自分はずっと山に登っていけたらいい。
「俺のアンザイレンパートナー、ずっと一緒だね?」
「ずっと一緒だ、俺が傍にいるよ。だからもう、寂しくないな?」
「うん、寂しくない。愛してるよ、俺のアンザイレンパートナー、」
無垢な笑顔が底抜けに明るい目で、幸せに笑ってくれる。
どうかこの無垢な笑顔を無垢のまま、アンザイレンに懸けて守っていけますように。
そんな祈りに笑いかけた幸せな笑顔は、愉しげに英二を見つめて、おねだりを始めた。
「じゃ、愛と約束を確かめ合うために、オサワリ解禁してくれる?ね、ア・ダ・ム、おねだり聴いて?」
「確かめなくて大丈夫だよ、絶対に俺は約束守るから。寒いし、そんな必要ないよ?」
きれいに笑って英二は断った。
けれど無垢な目は悪戯っ子に笑って、遠慮なく英二のTシャツをウェアごと捲りあげた。
「なに捲ってんの、ダメ!」
驚いて裾を戻そうとするけれど、白い手はしっかり捲って離さない。
可笑しそうに細い目を笑ませて透明なテノールが楽しげに笑った。
「やっぱり綺麗だね、おまえの肌ってさ。ソソられちゃうな。さ、アダム?愛するイヴの為に、このまま裸になって?」
「こんなに力強いイヴはいないよ?…って、こら!」
服を肩から抜かれかけて英二は急いで戻した。
けれど国村は愉快に笑って容赦なくまた捲りあげてくる。
「ここはエデンだからね?裸が基本でしょ、ね、アダムも男なら、すっぱり、脱・い・で?」
「やめろってば、寒い、風邪ひく、低体温症で遭難する、無理、」
「大丈夫、すぐに素肌で温め合うから。ね、俺の、ア・ダ・ム。愛しいイヴを、温めて?…、」
「わっ、どこキスしてんのキス要らないから!愛してるなら、おとなしく寝させてってば、いやだって!」
さっきまで号泣していたくせに、この変わり身の早さは何だろう?
いつもながら、アンザイレンパートナーの明るく素早い心の建替えには感心してしまう。
感心しながらも抵抗して、こんな今の状況が可笑しくて英二は笑った。
「こら、国村ってば!さっきまで泣いてたくせに、もうエロオヤジなわけ?」
「そうだよ?泣いて哀しんだ分だけね、エロで癒して元気になるんだよ。さ、俺の癒しに協力して?愛してるなら、ね?」
「愛していても、この協力は無理!」
受容れと断りを明確に告げて、英二は笑った。
そんな英二に国村も、心底から愉快に笑い転げてくれる。
「無理って決めつけたらダメ、ほら、癒してよ?こんなに可愛い俺が、こんなに泣いちゃったんだから、」
「癒したいけど、裸はダメ。ほんと風邪ひいたら困るから、」
「平気だね、裸で温め合うのが一番だよ。さ、アダム?お願い、脱・い・で、」
「だめだって寒い!セクハラだよ、止めてろってば、わっ?!なにやってんのっ、」
こんな調子が既に癒しなんだろうな?
こんないつものエロトークに笑ってくれる様子は楽しげで、困りながらも英二は嬉しかった。
どこか無邪気で明るい悪ふざけが楽しくて可笑しい、なによりも今日の涙を想うと笑顔がうれしい。
明るい笑顔の今が幸せで、静かな夜の雪洞で文字通り笑い転げた。
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陽光の気配に目を開くと、雪洞の入口があわい光に白く見える。
きっと夜明け時だろう、クライマーウォッチを見ると5時半を少し過ぎていた。
ちょうど日出の時間になる、英二は懐にしがみついている大きな子どもの背中を軽く叩いてやった。
「ほら、起きろよ?朝日の槍ヶ岳、撮るんだろ?」
「ん、…」
肩に埋められた黒髪の頭がゆれて、雪白の顔があげられる。
眠たげに細い目が開いて、さらり揺れた前髪から幸せに微笑んだ。
「おはよ、まさきさん、…けさも美人だね?」
どうやら寝惚けているらしい。
けれど、切ない寝惚け方に英二は困ってしまった。
ここは雅樹が山の眠りにつく連峰、しかも昨日は慰霊登山を行っている。
そして幼い日に雅樹と共に歩いたルートだと言っていた、だから夢で雅樹に逢っても当然かもしれない。
きっと良い夢を見てきた、それを壊してしまうのも可哀そうで英二は優しく微笑んだ。
「おはよう、光一。今朝も生意気に可愛いね、」
「ふ、…おれ、かわいいでしょ?ね、だいすき、…まさきさ、ん……」
無邪気な笑顔残して、また眠りこんでしまった。
「…雅樹さんには、ホント素直で可愛いんだな?」
友人の初めて見る顔を昨日から幾つも目にしている。
どれもが無邪気で無垢な少年の姿だった、大好きな人への素直な想いあふれる姿が愛しかった。
こんな姿を青梅署の面々が見たら、ちょっと驚くだろうな?そんな考え事に3分待って、英二はまた起こしてみた。
「国村、写真撮るんだろ?起きろよ、」
「う、…」
雪白の顔で長い睫が披くと、底抜けに明るい目が見つめてくれる。
そしていつもの調子で透明なテノールが笑った。
「おはよ、みやた。うん、写真、だねっ」
愉しげに起きだして、登山靴とゲイターを履いてアイゼンを着けていく。
装備を整えるとカメラを持って、国村は外へ出た。
英二も一緒に出てみると、まばゆい白銀の暁が大らかに広がった。
あわい赤が稜線の底から太陽を呼んでくる。
遠い地平線から蘇える朝が天上のブルーを呼んで、夜の深い色が眠りについていく。
はるか雪稜は陽光に照るやさしい黄金にそめあがり、白銀へと姿を変えて煌いた。
ナイフリッジの風が光かがやく雪稜を駆けていく。
風は、夜の静寂から朝のおだやかな静謐を運び、空の彼方へ融けていく。
この風に昨日、山頂を廻り去った東風と青い肩に舞いおりた、ひとひらの雪の花を想って英二は微笑んだ。
―雅樹さん、あなたのアンザイレンパートナーは、今朝も元気ですよ?
いま底抜けに明るい目は愉しげに笑んで、ファインダー覗きこんでシャッターを切っていく。
どこまでも自由で楽しい空気はあざやかで、山の歓び弾んでいく無邪気は今日まばゆい。
そんなアンザイレンパートナーがふり向いて、幸せな快活が英二に笑いかけた。
「今日はさ、滝谷のクラック尾根とか行こうね?で、ジャンダルムも行きたいな、」
今日の予定に笑う顔は、すっかり明るく愉快に輝いている。
昨日の国村は涙を幾度も流している、あの涙で心の滓が流されたのかもしれない。
何もしてあげられなかったけれど、少しは自分も役に立てたかな?そんな想いと微笑んで英二は頷いた。
「うん、いいな。今日もよろしく、俺のアンザイレンパートナー、」
「こっちこそ、よろしくね。今日もイイ天気だ、寒いし、雪山日和だよ?ほら、槍の『点』が輝いている、」
楽しげに笑いながら答えて、国村はシャッターを押している。
大らかな朝陽ふる稜線に立つザイルパートナーに微笑んで、英二は白銀の鋭鋒を見つめた。
無垢の雪まばゆい鋭鋒は、底抜けに輝く青の一点を指さし、太陽を映す。
どこまでも眩い光に充ちる、空満つ青を一点に集めて、繋がれたトレースの起点は輝いていた。
雅樹さん、
あなたのトレースは、あなたの山っ子が繋ぎましたよ?
そして俺も、あなたの繋がるトレースに、ずっと添って輝かせたい。
こんな祈りが湧きあがるのは、もうひとりのザイルパートナーが心深くに繋がれた証かもしれない?
いま見つめる、まばゆき輝く蒼穹の点に、微笑み眠るひとを想う。
この想いに、山に生き始めて幾度も見つめた一節が、また雪陵に浮びだす。
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
沈みゆく陽の雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の真心への感謝 やさしい温もり、歓び、そして畏怖への感謝
慎ましく開く花すらも私には、涙より深く心響かせる。
英国の詩人ウィリアム・ワーズワースの詩の一節。
この一節に描かれる姿は周太だと想った、自分たち山岳救助隊員の姿だとも思う。
いま朝陽と蒼穹の点をレンズに捕える、自分のアンザイレンパートナーにも姿が重なっていく。
「…That hath kept watch o’er man’s mortality、」
“人の死すべき運命を見つめた瞳”
この「死すべき運命」は途絶え、また繋がれていくトレース。
昨日、国村はザイルパートナーの慰霊登山を行い、愛する山ヤのトレースを繋いだ。
それと同じように愛するひとは、亡父のトレースを繋ぐために警察組織の暗部へ立ちに行く。
この危険にもどうか、無事に帰ってきてほしい。そのために自分は尽くして守り抜きたい。
いま見つめる雪陵の頂、蒼穹の点を国村は涙と笑顔で超えた。
同じように、どうか周太も無事に超えることを祈りたい、叶えたい守りたい。
この祈りに登山グローブの指でウェア越し、胸元にしまいこむ合鍵にふれた。
―…涸沢っていうところのね、小屋まで登ったんだ。父とココアを飲んだよ?
この合鍵の元の持主は、今立つ雪稜の麓に息子と訪れている。
きっと幸せな時間を父子は過ごしたのだろう、こんなふうに朝陽を見つめて山の時を笑いあって。
そんな幸せな父子を冷たい孤独に押しやった、残酷に絡みつく哀しみの連鎖を自分は解きたい。
“Another race hath been,and other palms are won.”
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
周太の本配属まで、あと3ヶ月。運命の分岐は夏に姿を変えて来る。
そして、もうひとつの掌に勝ちとるものは?
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【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワース詩集』‘Ode:Intimations og Immortlity from Recollection of Early Childhood】
(to be continued)
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第42話 雪陵act.5―side story「陽はまた昇る」
雪洞の夜にやさしい静謐がおりてくる。
温かなシュラフに潜りこんで向き合うアンザイレンパートナーから、やさしい記憶たちは紡がれ出した。
「俺が生まれたとき、ちょうど吉村先生と雅樹さん、奥多摩に居たんだよ。先生の実家に遊びに来ていたんだ。
それでさ、おふくろの山頂出産に驚いちゃった後藤のおじさんが、吉村先生を呼び出してね。雅樹さんも一緒に天辺に来てくれた」
国村は、東京最高峰で奥多摩の第1峰になる雲取山頂で生まれた。
この話を英二は、吉村医師と後藤副隊長から聴き、国村自身からも少し聴いている。
雅樹がいたことは初めて聞くけれど、吉村医師が奥多摩に帰るなら山好きの雅樹も一緒な方が自然だ。納得しながら英二は微笑んだ。
「お母さん、富士山見て伸びして、それで産気づいたんだよな?」
「そ。秋にちょっと話したよな?で、雅樹さん達が来た時は、もう出産が始まっていたんだ。
すぐに吉村先生は、おふくろを診てくれた。で、俺の産湯をね、奥多摩小屋まで取り行ってくれたの、雅樹さんなんだよ」
後藤副隊長も奥多摩小屋から産湯を運んだと話してくれた、それを運んだのが雅樹だった。
この運命の交錯、山ヤの赤ん坊と少年の出逢いは温かい。語ってくれる元赤ん坊の細い目も温かに笑んで続けた。
「居合わせた産婆さんと、吉村先生が俺を取り上げてくれた。そのまま先生、おふくろの処置してくれてさ。
それで産婆さんを手伝って雅樹さんが、俺に産湯を浸からせてくれたんだ。で、生まれてすぐの俺を、抱っこしてくれた。
あの瞬間から俺、雅樹さんが大好きになったよ、きっと。それからずっと、あのひとの事が俺は大好きなんだ。ほんと愛してる、」
語る底抜けに明るい目は、産湯を浸からせてくれた人への想いに輝いて優しい。
いつもより優しいテノールは、嬉しそうに語っていく。
「中学生だったんだ、雅樹さん。俺が生まれて間もなくかな?15歳になってすぐ雅樹さん、救急法の試験に満点合格してさ。
それで吉村先生が救急用具をプレゼントしたらしいね?だから雅樹さん、俺が物心ついたときには、いつも救急用具を持ってた。
山で困った人を助けてね、きれいな笑顔で元気づけてた。美人で頭良くって、優しくってさ。山を心から愛する立派な山ヤだったよ」
山を心から愛する立派な山ヤ。
この国村が誰かをそんなふうに褒めることは、滅多に無い。
どれだけ国村が雅樹を、深く敬愛していたのかが解かってしまう。その痛みの深さを想いながら、英二は語ってくれる目を見つめた。
「初めて一緒に登ったのは、俺が4歳だな。ウチの梅林に案内したんだよね、雅樹さんが大学の春休みで奥多摩に来たんだ。
あの日はさ、オヤジは仕事で写真撮りに行っちゃって、おふくろはピアノ教室だったんだ。で、俺が1人で案内することになったね」
なにげない会話の中に初耳があった。
けれど納得できるな?思いながら英二は聴いてみた。
「お母さん、ピアノの先生だったんだ?」
「あ、…うん、まあね、」
訊かれて、珍しく国村は言葉を濁した。
なにか訊かれたくない理由があるのだろうか?本当はピアノのことは訊いてみたいと思ったけれど、英二は止めた。
以前、巡回中偶然に国村のピアノと歌声を聴いた事がある。
それは玄人に巧くて、けれど国村はこのことは内緒にしたい風でいる。
だから訊かない方が良いかなと英二は、ずっと黙っている。今日も黙ったまま微笑んで、英二は促した。
「あの梅林、きれいだな?雅樹さんも喜んだだろ?」
「うん、すごく喜んでくれたよ?雅樹さんはね、花や木も好きだったんだ。名前のとおりだよね、」
嬉しそうにテノールの声が微笑んだ。
花木が好きだなんて、誰かさんに似ているな?英二は相槌を打った。
「雅樹さんの名前、奥多摩の樹木の意味だって吉村先生も言ってた。花や木が好きなんて、周太と似てるな?」
「そうなんだよね、だから俺、周太と逢った時は嬉しかったんだ」
英二の言葉に素直に頷いてくれる。
そして大切な初恋の思い出を少し話してくれた。
「雅樹さんが亡くなって最初の冬が来て。その次の冬に周太と逢ったんだ。でさ、雅樹さんが亡くなってから、初めてだった。
あんなふうに見惚れて、大好きだな、って話せたのは。でも、周太はプラスアルファの感情があったから、完全に恋だって自覚した」
最愛のアンザイレンパートナーを亡くした山ヤの少年。
その傷に周太の優しい純粋な心は、おだやかに癒しを与えただろう。
なぜ国村が周太を恋し、ずっと14年間を待ち続けたのか。その理由がまた解かったように想える。
そして自分と周太の繋がりが国村を傷つけているのではないかと、また哀しみが起きかけてしまう。
―でも、もう、決めたんだ…ごめん、国村
ずっと俺だけのものでいて。
そう周太に告げてしまった、そして体の繋がりを二重に持ち、約束を重ねている。
あの愛しい存在を幸せにする、それ以上の願いは自分には無い。だからあの夜を後悔はしていない。
それでも、この純粋無垢な子供の瞳を持ったアンザイレンパートナーの深い哀切と愛慕を今日、目の当たりにしてしまった。
そして雅樹の想い遺された自分の心は、このパートナーの幸せを心から祈りたい願いがある。
どうしたら、幸せに出来るだろう?
そんな祈りを見つめるむこう、底抜けに明るい無垢な目は微笑んだ。
「でね、雅樹さんとは奥多摩の山は、ほとんど登ったんだ。休みで奥多摩に来るたび、誘ってくれてさ。嬉しかったね。
小学生になってからはね、ふたりで他の山にも登りに行った。夏の富士に北岳、谷川岳、どれも一般登山道だけど楽しかった。
それで小2の夏、ここに一緒に登ったんだよ。小屋とテントに泊まって縦走、で…楽しかった、だから、余計に哀しかった…ん、だ」
ぽとん。
隣に寝転んでいる無垢な目から、涙がこぼれた。
「今回の、前穂高から槍の縦走ルートはね?そのときの…俺と雅樹さんの、ルートなんだ…だから、槍で雅樹さんが…っ、さ…」
透明な目から涙が頬伝ってシュラフにこぼれていく。
涙こぼしながら、ひとつ息を吐いて透明なテノールは想いを言った。
「槍で、雅樹さん…っ、な、亡くなって…ほんとは、約束だった、っ…北鎌尾根、いつか…俺が、大きくなったら一緒に…っ、」
涙流しながら秀麗な貌は笑っている。
この顔を見つめている、この心が軋みあげてくる、この痛みは誰のものだろう?
この痛みの目の前、泣笑いの頬を涙ぬらしながら国村は約束のトレースに微笑んだ。
「槍の穂先から、き…北鎌尾根、いっしょに眺めたんだ…っ、ぅ…いつか、いっしょに、のぼろう、ね、て…
だから余計に、怖かったんだ、さびしくて哀しくて…あの場所は、登れなかったんだ…っ、ルートは頭に入ってる、でもむりだった…
今日、一緒に、きたかまおね、っ…あんざいれんして、うれしかった、やくそくのルート、だったんだ…でも、あそこで、まさきさん…っ」
あふれていく涙が、ろうそく揺れる雪洞の灯に煌いていく。
この涙と告げてくれる「約束」に、なぜ国村が15年間を慰霊登山できなかったのか理由が解かる。
幸せな約束の場所が哀しみ墓標になった、この痛みに竦んでしまう心を誰に責められるだろう?
「あ、あのとき、っ、…まさきさん、奥多摩で、い、一泊してから、上高地、入って…っ、だから俺、直前にあった、んだっ、…
なんか、いつもと違うって、おもった、っ、…でも、わからなくて、でも、約束して…くれたから!俺のパートナー、なるって約束…っ、
雅樹さん、ぜったい約束まもる、だから、だいじょうぶ、っておも、った…でも、かえってこなかったんだっ…やくそくのルート、で…さ、
俺との、約束の、ルートで、やくそくごと消え、た…っ、…だから今日、うれしかったんだ、約束まもって、くれた、うれしかった、…っ、」
凍りついた哀しみを、今日、国村は泣きながらでも超えた。
この強靭な純粋無垢を今は、心ゆくまで思い切り泣かせてやりたい。
そっと長い腕を伸ばすと英二は、大切なアンザイレンパートナーを抱きしめた。
「うん、雅樹さんも今日、嬉しかったな。約束のルートで、約束のアンザイレンが出来た。きっと、本当に、嬉しかったよ?」
抱きしめて寄せた頬に、涙が温かい。
肩に額つけて国村は泣笑いに微笑んだ。
「…そ、うだよね?…っぅ…雅樹さん、も、うれしいよね?…っ、あ、…うっ、…っ、」
青いウェアの腕がそっと英二を抱きしめてくれる。
どこか涙こらえている気配に、英二は綺麗に笑いかけた。
「泣けよ、国村?今夜はさ、存分に泣けよ。もう雅樹さんは、ずっと一緒にいてくれるよ?だから大丈夫だ、泣けよ、」
「…うん、っ…泣くよ?…お、れ、…まさきさ、っ…」
回してくれる白い手が背中を掴んで、そして透明なテノールは泣いた。
「あっ、あああああ…っま、まさきさん…やくそ、く…ありがと…ぅ、っ、…ああっ、あ、…なんでっ、」
温かい涙が嗚咽と一緒に、そっと英二の心へと静かに沁みこんでいく。
抱きしめて、遠慮なく泣いてくれる。そんな姿にどこか喜びがふれるのは、心に残った雅樹の想いからだろうか?
ただ何も言わず英二は、友人でアンザイレンパートナーの涙と慟哭を抱きしめた。
「なんで?…なんで死んじゃうんだよぉっ…生きて!…ぅ、っ…帰ってきてほしかった、ぁ、ああっ…救けたかった、
いっしょに…っ、もし、一緒ならぁっ…救けられた、のに…なんでだよぉ…っ、…もっと…あ、あああっ、ま、さきさんっ…
ごめん、なさ、い、まさきさん…っ、もっとおれ、はやく、おとなにっ…たすけたかったよぉっ…ぅ、うあああああっあ、ああっ、ごめ、ね…」
悔恨と、哀惜と、どうにもならない望み。
すべて言っても詮無いことと解かっている、それでも吐き出せば楽になる。
すこしでも多く吐き出して、楽になってほしい。そんな想いと抱きしめている英二の頬を、涙がこぼれた。
「たすけたかった!…生きて、いっしょにいた、のに…っ、嫌だ、いやだよぉっ…ふれられない、のは…さびしいよぉっ…!
いっしょに心いて、くれる…うれしいけどっ!でも、…ふれたい、よぉ、まさきさん!あ、あ、っあああああああっ…うあああっ!」
慟哭が、この心に刺さる。
憧れて、兄のよう、愛して、尊敬して、大好きだった。
この15年間ずっと雅樹を求めて、死を受け止めきれず慰霊登山も出来なくて。そして受けとめた今、泣き叫んでいる。
いま泣き叫ぶ透明なテノールが前に言った、あの言葉が心に哀しく聞こえてしまう。
―…心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ
心を繋いだ相手と体ふれ合いたい、それはシンプルで誰もが願う幸せの1つだろう。
けれど国村が求める周太は英二しか求めようとしない、そして最愛の雅樹とはもう生きては触れあえない。
「ま、さきさんっ、…ぅ、だきしめて、ほしいよぉっ、むかしみ、たいに、…ぅっ、すごいな、って…笑って、ほし…っ、
さびしいよぉ、…いっしょに山に生きたか、っ…たすけた、かったのに…っ、ごめ、なさいっ…もっと、はやくおとなだったら、ああっ、」
心を繋いだ相手と体ごとふれ合いたい
もう、国村の願いは叶わないかもしれない。
そんな想いが今、尚更に痛い。そんな痛みに言葉の続きが響いてしまう。
―…だから俺はね、おまえ見るといつも、じゃれつくんだよ。宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ
宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ
射撃大会の夜に透明なテノールが、言ってくれた想いが心に響く。
もう自分の全ては周太に捧げた、けれど、この慟哭を抱きしめている今が哀しくて愛しい。
この心突き刺す哀しみを止めてやりたい。
「雅樹さ、んっ…ま、さきさんっ、ごめんなさいっ…あのときおれがおとなだったら!っあ、たすけられた…っう、ああっああ、
ごめん、なさ…っ、もっとはやく、うまれてっ…ぅっ、た、たすけたかったっ、さびし、よっ…ごめ、なさ、っ…うあああっあああ…」
身代わりでも受けとめて安らがせてやりたい。
この想いが、雅樹の願いと重なり合って温もりが心を充たしてくる。
その温もりが涙になって、そっと英二の頬を伝って雪白の頬へとこぼれた。
「大丈夫だよ、国村?…雅樹さんのね、心はもう、国村が救けたよ?」
涙を重ねながら、そっと英二は想いを告げた。
透明な嗚咽が肩で息吐きながら、すこし顔ずらして無垢の目が英二を見つめた。
「っ、…そ、うかな?…ほんと?…おれ、たすけられたかな…?」
赤いアンザイレンザイルに雅樹の想いを繋いで、国村は北鎌尾根から槍ヶ岳の点を超えた。
そして途切れたトレースを終わらせて、繋げて、明日へ続くトレースと一本にして国村に繋がっている。
だからきっとそう、静かな確信に英二はきれいに笑って頷いた。
「うん、おまえが雅樹さんを救けたんだ。大丈夫だ、おまえが救けてくれたこと、すごく喜んでるよ?ほんとだよ、」
微笑んで答えながら、そっと掌で涙拭ってやる。
拭う掌を涙の瞳が見つめて、そして英二の目を見て笑ってくれた。
「こういうとこがさ…なんか、似てるんだよ、ね…みやたと、雅樹さん…っ、ぅ…俺さ、正直に言うけど、さ…」
「うん、」
たぶんそうかな?
いつも背中から抱きついてくれる雰囲気に感じること、これが答えかな?
そんな想いと見つめた先で、底抜けに明るい目が泣笑いに微笑んだ。
「俺、最初に宮田とあったとき、雅樹さんだ、って想ったんだ…っ、ぅ…別人って解ってたよ?でも、同じだった。
背が高くて、色白でさ…おだやかで、静かで温かい気配がね…同じだった、ちょっと悩んでいる雰囲気とか、真面目で色っぽいとことか。
初めて逢った瞬間に、俺、逢えたね、って…もう生きて逢えないと想ってた、俺のアンザイレンパートナーに逢えた、って…最初に想ってた」
ゆっくり瞬いて、無垢な笑顔に笑ってくれる。
笑って、透明なテノールは言葉を続けた。
「一生懸命、レスキューの勉強してさ…吉村先生と、いつも一緒で…山、初心者なのに、俺に付いてくる…話していて、楽しい。
雅樹さんと似てるけど、それだけじゃない。今度こそ、生涯のアンザイレンパートナーになる相手…そう思って俺、うれしかったんだ」
ほんとうに嬉しかったよ?
透明な目が温かに笑んで想い伝えてくれる、そんな想いが嬉しくて英二は微笑んだ。
「うん、俺も、うれしかったよ?国村に生涯のパートナーだって言ってもらえて、うれしかった、」
「うん、…っ、ぅ、…ありがと、…ほんと、おれ、宮田だけ、でさ…っぅ、」
笑った顔がまた、涙に濡れていく。
泣いて、しがみついて国村は、英二の目を真直ぐ見つめて泣き出した。
「だから俺っ…の、鋸尾根の雪崩のとき、おまえを救けられて、うれしかったんだっ…ほんとにうれしいんだ、おれ…っぅ、
おれ、っ…雅樹さんはたすけられなくて、でも、おまえはたすけられたっ…っぅ、うれしいんだよぉ…っ、俺、おまえだけなんだ、」
背中を掴んでくれる掌が、ぎゅっとウェアを握りしめてくれる。
首元に額付けて涙こぼして、透明なテノールが泣き笑う声で想いを紡いだ。
「俺もう解ってるんだ…ほんとは、わかってるんだ、周太はもう、俺にはふりむかないよ?それでも諦められないだけ、で…っ、
周太の幸せはさ、おまえのとなりだから…それでいいよ、あのひと幸せに生きていたら、それでいいんだ、…っ、ぅ、でも寂しい、
おれは…おまえしか傍にいないんだよ…、誰もいないんだ、他に、もういない…まさきさん、ふれられないから…抱きしめられ、ない」
抱きしめられない、寂しい。
この気持ちは英二には痛切に解かってしまう、自分も同じ寂しさを抱いてきたから。
けれど自分は周太に出逢った、そして幸せを抱きしめられている。けれど国村にはそうした存在は居なかった。
けれど国村は今、すこし英二に求めようとしている。そんな国村の痛切な寂しさごと英二は抱きしめながら、声に心傾けた。
「だから、おまえが、俺の、アンザイレンパートナーにさ、認められたの、うれしくて…おまえのクライマー任官、嬉しくって、さ…
これでもう、警視庁でも俺と一緒にいるのは、決まりだ、って…ずっと一緒にいてくれる、それが、うれしいんだよ?ほんとに、さ、
最高峰も、山岳レスキューも、これで一生傍にいられる、って、っ…俺、孤独じゃない…大好きな、おまえが傍にいれば…いい、んだ、
だから今日も、北鎌尾根、怖かったんだ…っ、…雅樹さんと同じになったら、って…だから今が、うれしいんだよ…無事が、うれしい、よ」
英二の肩に温かな涙が融けていく。
ただ抱きしめて、頬ふれ合って、互いの涙の温度を融かしあっている。
―こんなふうに大切な相手がある
友人で、それだけではない相手。
恋人や伴侶とは違う、けれど深く響き合うものがある。
ザイルに生命と運命を繋ぎ合う、生涯のアンザイレンパートナー。その意味が今初めて解かり始めたかもしれない。
この温かい想い抱きながら英二は、大切なザイルパートナーに話しかけた。
「うん、俺もうれしいよ。国村と、ずっと一緒に山を登って、一緒に笑える。それが幸せだって思うよ?
俺は周太を伴侶にしている、けれどザイルパートナーは国村だ。ふたりとも、比べられない程に大切な相手だよ?」
「…っ、ほんと?…っ、ぅ…おれのこと、周太くらい、大切なのか…?」
涙のんで透明な目が見つめてくれる。
ほんとだよ?優しく笑んで頷きながら英二は、率直な想いを告げた。
「うん、大切だよ?だから俺は今日、命を懸けても北鎌尾根に登ろうって思ってたんだ。国村の山ヤの誇りを、守りたかったから」
「俺の、誇り…?」
透明なテノールの短い呟きに、英二は頷いた。
そして今日の自分の想いを、おだやかな笑顔で口にした。
「最高の山ヤとして、最高のザイルパートナーとして、国村に雅樹さんの慰霊登山をさせたかった。そうして壁を越えてほしかった。
哀しいのも辛いのも当然だ、けれど山ヤなら、仲間の慰霊登山が出来ないといけない。だから今日、一緒に北鎌尾根に登りたかったよ」
最高のクライマーを嘱望される国村、その唯一のザイルパートナーに自分は選ばれた。
それが嬉しい、山ヤとして最高の幸せだと心から嬉しく想っている。
だからこそ、パートナーとして国村の誇りを守りたい。
そんな想いに微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「ほら?…こんなに、俺のこと、…愛しちゃってるね?おまえってさ、」
「うん、そうだな?…これも愛だな、周太のとは違うけど、愛してるな?」
確かにこれも愛情だ。
素直に認めて頷いた英二に、うれしそうに無邪気な笑顔が咲いて、思い切り抱きついてくれた。
「ほらっ、愛だよな?俺のこと、愛しちゃってるね、宮田っ!ずっと一緒だねっ、」
幸せに笑って頬寄せて、素直に喜んでくれる。
この笑顔が嬉しくて愛しいと思うのは、雅樹の心と自分と、2人分の想いを抱いた所為かもしれない?
こんな自分は懐が少し広く出来ただろうか?そんな想いも嬉しくて、笑いながら英二は応えた。
「一緒だよ。俺は生涯ずっと、おまえのアンザイレンパートナーだよ?もう、寂しくないだろ?」
「うん、寂しくない、」
楽しげに頬寄せて底抜けに明るい目が笑ってくれる。
その目がすこし悪戯っ子になって、無邪気に笑いながら言った。
「そういえば、おまえ言ったよな?雪の花は天使からのアダムとイヴへの励ましだって、」
「うん、周太から聴いた話だろ?」
北鎌尾根での会話を思い出して英二は頷いた。
ふたり北鎌尾根で雅樹の最期の場所を見つめたとき、雪のかけら風花がナイフリッジの風に舞い降った。
そのとき英二は泣いている国村を笑顔にしたくて、周太に教わった雪の花の伝説を話している。
頷いた英二を可笑しそうに見て、透明なテノールが笑いだした。
「じゃあ、2人一緒に雪の花から励まされた俺たちってさ、アダムとイヴだね、み・や・た、」
「励ましは嬉しいけど、なんか違うと想うな?」
アダムとイヴなんて恋人同士だ、ちょっと自分達とは違うだろう?
可笑しくて笑った英二に、雪白の顔も可笑しげに笑った。
「俺たち、山って名前のエデンでふたりきり、だろ?こんなの、アダムとイヴまんまだね。さ、仲よくしよ?」
「もう充分仲良しだよ?それにさ、アダムとイヴは男と女だろ?俺たちだと男同士で違うよ、」
シュラフの中で抱きつかれながら、英二は可笑しくて笑った、
けれど国村は飄々と笑って答えた。
「性別とか、関係ないね?ま、俺がイヴやってあげてもいいよ、俺のが可愛いしさ。ほら、愛してるわ、ア・ダ・ム、」
白い指が顎に掛けられて、秀麗な貌は涙の頬で無邪気に微笑んだ。
その笑顔が近づいて、笑いながら英二は素早く顔を逸らした。
「いま人工呼吸は要らないからさ、って、なに頬っぺたにキスしてんのキス要らないから!」
やわらかな感触ふれた頬に驚いて、けれど可笑しくて英二は笑った。
素直に唇を離して英二の目を覗きこむと、楽しげに国村は笑ってキスの痕を小突いた。
「おまえ、この頬の傷、やっぱり消えないね?」
「あ、冬富士の氷の?…」
そっと自分でも指ふれて、けれど触れても傷痕は解からない。
細く浅い小さな傷、けれど富士の雪崩に跳んだ氷の裂傷は消えない。普段は気にならないけれど、ふと浮かび上がる。
これも「山の秘密」の不思議かな?すこし考え込んだ英二に、無垢の山っ子は言祝いだ。
「これは、最高峰の竜の爪痕だよ。ここに山っ子がキスをした、これで最強の護符になったね。もう、おまえは遭難には掴まらない、」
透明なテノールの聲が謳いあげる、祈りの言葉が雪洞に響いた。
この祈りに籠る想いが切ない、そして温かい。心からの感謝と哀惜に英二は微笑んだ。
「うん、そうだよ?俺は遭難死はしない、簡単には死なないよ。いつかは死ぬけれど、それは約束を全て叶えてからだ、」
見つめてくれる透明な瞳に、真直ぐ英二は笑いかけた。
この瞳が15年前に美しい山ヤと結んだ約束も全て、どうか叶えてトレースを繋ぎたい。
そんな祈りを心に見つめて笑いかけた透明な瞳の山っ子は、幸せに笑ってくれた。
「その約束は、この愛するアンザイレンパートナーとの約束も入ってるね?」
‘Yes’って応えてよ?
幸せな笑顔のなか底抜けに明るい目が、切ない祈りに訊いてくれる。
この祈りの為に今日、自分は北鎌尾根を踏んで永訣に立会った。その想い率直に頷いて英二はきれいに笑った。
「もちろんだ。最高峰もビッグウォールも、俺が国村と一緒に登るよ?約束だ、」
「よしっ、約束だね、」
切ない祈りは、大らかに歓び輝いた。
歓びに明るい目が幸せに笑ってくれる、この笑顔と自分はずっと山に登っていけたらいい。
「俺のアンザイレンパートナー、ずっと一緒だね?」
「ずっと一緒だ、俺が傍にいるよ。だからもう、寂しくないな?」
「うん、寂しくない。愛してるよ、俺のアンザイレンパートナー、」
無垢な笑顔が底抜けに明るい目で、幸せに笑ってくれる。
どうかこの無垢な笑顔を無垢のまま、アンザイレンに懸けて守っていけますように。
そんな祈りに笑いかけた幸せな笑顔は、愉しげに英二を見つめて、おねだりを始めた。
「じゃ、愛と約束を確かめ合うために、オサワリ解禁してくれる?ね、ア・ダ・ム、おねだり聴いて?」
「確かめなくて大丈夫だよ、絶対に俺は約束守るから。寒いし、そんな必要ないよ?」
きれいに笑って英二は断った。
けれど無垢な目は悪戯っ子に笑って、遠慮なく英二のTシャツをウェアごと捲りあげた。
「なに捲ってんの、ダメ!」
驚いて裾を戻そうとするけれど、白い手はしっかり捲って離さない。
可笑しそうに細い目を笑ませて透明なテノールが楽しげに笑った。
「やっぱり綺麗だね、おまえの肌ってさ。ソソられちゃうな。さ、アダム?愛するイヴの為に、このまま裸になって?」
「こんなに力強いイヴはいないよ?…って、こら!」
服を肩から抜かれかけて英二は急いで戻した。
けれど国村は愉快に笑って容赦なくまた捲りあげてくる。
「ここはエデンだからね?裸が基本でしょ、ね、アダムも男なら、すっぱり、脱・い・で?」
「やめろってば、寒い、風邪ひく、低体温症で遭難する、無理、」
「大丈夫、すぐに素肌で温め合うから。ね、俺の、ア・ダ・ム。愛しいイヴを、温めて?…、」
「わっ、どこキスしてんのキス要らないから!愛してるなら、おとなしく寝させてってば、いやだって!」
さっきまで号泣していたくせに、この変わり身の早さは何だろう?
いつもながら、アンザイレンパートナーの明るく素早い心の建替えには感心してしまう。
感心しながらも抵抗して、こんな今の状況が可笑しくて英二は笑った。
「こら、国村ってば!さっきまで泣いてたくせに、もうエロオヤジなわけ?」
「そうだよ?泣いて哀しんだ分だけね、エロで癒して元気になるんだよ。さ、俺の癒しに協力して?愛してるなら、ね?」
「愛していても、この協力は無理!」
受容れと断りを明確に告げて、英二は笑った。
そんな英二に国村も、心底から愉快に笑い転げてくれる。
「無理って決めつけたらダメ、ほら、癒してよ?こんなに可愛い俺が、こんなに泣いちゃったんだから、」
「癒したいけど、裸はダメ。ほんと風邪ひいたら困るから、」
「平気だね、裸で温め合うのが一番だよ。さ、アダム?お願い、脱・い・で、」
「だめだって寒い!セクハラだよ、止めてろってば、わっ?!なにやってんのっ、」
こんな調子が既に癒しなんだろうな?
こんないつものエロトークに笑ってくれる様子は楽しげで、困りながらも英二は嬉しかった。
どこか無邪気で明るい悪ふざけが楽しくて可笑しい、なによりも今日の涙を想うと笑顔がうれしい。
明るい笑顔の今が幸せで、静かな夜の雪洞で文字通り笑い転げた。
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陽光の気配に目を開くと、雪洞の入口があわい光に白く見える。
きっと夜明け時だろう、クライマーウォッチを見ると5時半を少し過ぎていた。
ちょうど日出の時間になる、英二は懐にしがみついている大きな子どもの背中を軽く叩いてやった。
「ほら、起きろよ?朝日の槍ヶ岳、撮るんだろ?」
「ん、…」
肩に埋められた黒髪の頭がゆれて、雪白の顔があげられる。
眠たげに細い目が開いて、さらり揺れた前髪から幸せに微笑んだ。
「おはよ、まさきさん、…けさも美人だね?」
どうやら寝惚けているらしい。
けれど、切ない寝惚け方に英二は困ってしまった。
ここは雅樹が山の眠りにつく連峰、しかも昨日は慰霊登山を行っている。
そして幼い日に雅樹と共に歩いたルートだと言っていた、だから夢で雅樹に逢っても当然かもしれない。
きっと良い夢を見てきた、それを壊してしまうのも可哀そうで英二は優しく微笑んだ。
「おはよう、光一。今朝も生意気に可愛いね、」
「ふ、…おれ、かわいいでしょ?ね、だいすき、…まさきさ、ん……」
無邪気な笑顔残して、また眠りこんでしまった。
「…雅樹さんには、ホント素直で可愛いんだな?」
友人の初めて見る顔を昨日から幾つも目にしている。
どれもが無邪気で無垢な少年の姿だった、大好きな人への素直な想いあふれる姿が愛しかった。
こんな姿を青梅署の面々が見たら、ちょっと驚くだろうな?そんな考え事に3分待って、英二はまた起こしてみた。
「国村、写真撮るんだろ?起きろよ、」
「う、…」
雪白の顔で長い睫が披くと、底抜けに明るい目が見つめてくれる。
そしていつもの調子で透明なテノールが笑った。
「おはよ、みやた。うん、写真、だねっ」
愉しげに起きだして、登山靴とゲイターを履いてアイゼンを着けていく。
装備を整えるとカメラを持って、国村は外へ出た。
英二も一緒に出てみると、まばゆい白銀の暁が大らかに広がった。
あわい赤が稜線の底から太陽を呼んでくる。
遠い地平線から蘇える朝が天上のブルーを呼んで、夜の深い色が眠りについていく。
はるか雪稜は陽光に照るやさしい黄金にそめあがり、白銀へと姿を変えて煌いた。
ナイフリッジの風が光かがやく雪稜を駆けていく。
風は、夜の静寂から朝のおだやかな静謐を運び、空の彼方へ融けていく。
この風に昨日、山頂を廻り去った東風と青い肩に舞いおりた、ひとひらの雪の花を想って英二は微笑んだ。
―雅樹さん、あなたのアンザイレンパートナーは、今朝も元気ですよ?
いま底抜けに明るい目は愉しげに笑んで、ファインダー覗きこんでシャッターを切っていく。
どこまでも自由で楽しい空気はあざやかで、山の歓び弾んでいく無邪気は今日まばゆい。
そんなアンザイレンパートナーがふり向いて、幸せな快活が英二に笑いかけた。
「今日はさ、滝谷のクラック尾根とか行こうね?で、ジャンダルムも行きたいな、」
今日の予定に笑う顔は、すっかり明るく愉快に輝いている。
昨日の国村は涙を幾度も流している、あの涙で心の滓が流されたのかもしれない。
何もしてあげられなかったけれど、少しは自分も役に立てたかな?そんな想いと微笑んで英二は頷いた。
「うん、いいな。今日もよろしく、俺のアンザイレンパートナー、」
「こっちこそ、よろしくね。今日もイイ天気だ、寒いし、雪山日和だよ?ほら、槍の『点』が輝いている、」
楽しげに笑いながら答えて、国村はシャッターを押している。
大らかな朝陽ふる稜線に立つザイルパートナーに微笑んで、英二は白銀の鋭鋒を見つめた。
無垢の雪まばゆい鋭鋒は、底抜けに輝く青の一点を指さし、太陽を映す。
どこまでも眩い光に充ちる、空満つ青を一点に集めて、繋がれたトレースの起点は輝いていた。
雅樹さん、
あなたのトレースは、あなたの山っ子が繋ぎましたよ?
そして俺も、あなたの繋がるトレースに、ずっと添って輝かせたい。
こんな祈りが湧きあがるのは、もうひとりのザイルパートナーが心深くに繋がれた証かもしれない?
いま見つめる、まばゆき輝く蒼穹の点に、微笑み眠るひとを想う。
この想いに、山に生き始めて幾度も見つめた一節が、また雪陵に浮びだす。
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
沈みゆく陽の雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の真心への感謝 やさしい温もり、歓び、そして畏怖への感謝
慎ましく開く花すらも私には、涙より深く心響かせる。
英国の詩人ウィリアム・ワーズワースの詩の一節。
この一節に描かれる姿は周太だと想った、自分たち山岳救助隊員の姿だとも思う。
いま朝陽と蒼穹の点をレンズに捕える、自分のアンザイレンパートナーにも姿が重なっていく。
「…That hath kept watch o’er man’s mortality、」
“人の死すべき運命を見つめた瞳”
この「死すべき運命」は途絶え、また繋がれていくトレース。
昨日、国村はザイルパートナーの慰霊登山を行い、愛する山ヤのトレースを繋いだ。
それと同じように愛するひとは、亡父のトレースを繋ぐために警察組織の暗部へ立ちに行く。
この危険にもどうか、無事に帰ってきてほしい。そのために自分は尽くして守り抜きたい。
いま見つめる雪陵の頂、蒼穹の点を国村は涙と笑顔で超えた。
同じように、どうか周太も無事に超えることを祈りたい、叶えたい守りたい。
この祈りに登山グローブの指でウェア越し、胸元にしまいこむ合鍵にふれた。
―…涸沢っていうところのね、小屋まで登ったんだ。父とココアを飲んだよ?
この合鍵の元の持主は、今立つ雪稜の麓に息子と訪れている。
きっと幸せな時間を父子は過ごしたのだろう、こんなふうに朝陽を見つめて山の時を笑いあって。
そんな幸せな父子を冷たい孤独に押しやった、残酷に絡みつく哀しみの連鎖を自分は解きたい。
“Another race hath been,and other palms are won.”
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
周太の本配属まで、あと3ヶ月。運命の分岐は夏に姿を変えて来る。
そして、もうひとつの掌に勝ちとるものは?
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【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワース詩集』‘Ode:Intimations og Immortlity from Recollection of Early Childhood】
(to be continued)
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