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萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第42話 雪陵act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-03 23:59:29 | 陽はまた昇るside story
白銀の陵、愛しきひとに



雪陵act.2―side story「陽はまた昇る」

槍の鉾先をナイフリッジの風が吹き上げる。
青く輝いた中天を突く白銀の点で、2人の山ヤは真直ぐ向き合っていた。

「国村、北鎌尾根を往復縦走しよう。俺たち2人なら、今からの時間で行けるよな?」

さあ一緒に行こう?目で告げながら英二は微笑んだ。
こっちの道を行こうと惹くように、青いウェアの腕を掴む掌に軽く力を入れる。
けれど掴んだ青いウェアの下は、掌を跳ね返すよう強靭な筋肉に力が奔った。

「嫌だね、」

透明なテノールが一言、拒絶した。
拒絶する言葉のとおり細い目は「嫌だね」と告げてくる。
それでも英二はザイルパートナーの目に真直ぐ微笑んだまま、言葉を重ねた。

「北鎌尾根を歩こう、国村。俺と一緒に、独標を見に行こうよ」
「嫌だね、行かないよ、」

明確な拒絶にちいさく笑って、国村は腕を掴まれたまま踵を返した。
それでも英二は掴んだ腕を離さなかった。

「行こうよ、国村。俺は北鎌尾根を歩いてみたいよ?」

告げた言葉にザックを背負う肩が一瞬、揺れた。
けれど振り向かない肩の向うから、透明なテノールは明るい調子で笑った。

「嫌だよ。昨日は俺、勤務だったからね?さっさと雪洞掘って、酒を呑みたいんだ…ほら、行くよ、」

からり笑った声がどこか揺れている。
この揺れが痛々しい、けれど今は一歩も退くわけにいかない。
しっかり青い腕を掴んだまま、国村の正面に英二は回りこんだ。
回りこみ向き合った秀麗な顔はすこし笑って、けれど奥歯を噛みしめている。

行かないよ、嫌だよ

細い目は頑なに告げてくる、噛みしめた口許が断固動かないと無言の雄弁を奮っている。
自分の誘いは、難しいだろうか?そんな疑問と不安が起きかけて、かるく英二は首を振った。
絶対に自分は今、退いてはいけない。なんども見つめた覚悟と一緒に英二は、大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「行こう、国村。雅樹さんの歩いた道を、俺も見てみたい、」

底抜けに明るい目に一閃、大きく感情が閃いた。

「嫌だって言ってるだろ!」
「いいかげんにしろ、国村!」

透明なテノールの叫びに重ねるよう、英二は低い声を鋭鋒に響かせた。

「俺は雅樹さんじゃないんだ!俺は遭難では死なない!」

怒鳴りつけた向う、国村の細い目が大きくなった。
きっと自分は、この友人を心から驚かせただろう。
卒配以来ずっと真面目で冷静と英二は言われてきた、温厚で優しいと誰もが言う。
だから驚かせて当然だろうな?ちょっと可笑しく思いながら英二は、いつもの笑顔になって笑いかけた。

「国村。俺は、宮田英二だよ」

怒鳴られた呆然に細い目が英二を見つめている。
その視線を逸らさずに英二は、おだやかに言葉を続けた。

「たしかに俺は、雅樹さんと似ているな?でも、俺は俺だ。雅樹さんとは違うんだ。
おまえと同じ年で、同じ警察官で後輩で、おまえの友達だ。おまえの恋敵だよ?そして俺は、簡単には死なない。大丈夫だよ、」

大丈夫だよ、そう目で笑いかけた。
けれど大きくなった透明な目は哀しげに瞠って、テノールの声が叫んだ。

「そんなこと解ってるよっ!」

叫んだ声が雪稜の風に薙がれた。
哀しい透明な目は真直ぐに英二を見つめて、哀しいテノールが押し出された。

「おまえは雅樹さんに似てる、でも別人で、俺と同じように登れる、だから大丈夫だって、俺だって思ってたんだよ!
俺のこと冬富士でも救助出来た、おまえなら俺とザイルパートナー組んでも死なない、そう思った…でも、死にかけたじゃないか!」

俺とザイルパートナー組んでも死なない。
この言葉が傷の根源だろうか?穏かに微笑んだまま英二は尋ねた。

「国村とザイルパートナーを組んでも死なない?どういう意味だ、国村」
「言った通りだよ、」

雪風が吹きつけて黒髪を乱す。
ながれる髪のはざまから透明な目が英二を見つめて、叫んだ。

「俺が自分からザイルパートナー組んだ相手はね、みんな死んだんだ!」

叫んだ声が雪風に浚われる。
浚われた声を追うようテノールの声に心が叫びだした。

「マナスルでオヤジとおふくろは死んだ、御岳で田中のじいさんは死んだ。俺が大好きな相手は、皆、山で死んだんだ!
だから!仮のパートナーだけどさあ?後藤のおじさん50歳になって、パートナー解消した時。ほんとは俺、安心したんだよ!
これで、おじさんは死ななくてもイイってさ?4人と比べたら、おじさんには俺、そこまで想っていない。でも不安だっ…
だってさあ?田中のじいさんは、俺とパートナー解消して8年も経ってた、なのに、山で死んじまったんだ!しかも御岳でだっ!
なんであの山で死ぬんだよ!おかしいだろ?!なんで皆、死ぬんだよ?!なんで俺のパートナーは全員、山で死ぬんだよっ!」

ひとつ大きく国村は息を呑んだ。
そしてすぐまた開かれた唇から痛切な叫びがあがった。

「俺とザイルを繋いだ相手は、みんな死んじまったんだよ!その最初が雅樹さんだった!皆、俺の所為かもしれないんだよ!
だから!おまえが遭難したのは、俺の所為だって思っちゃったんだよっ!俺が、おまえとザイルを組んだからだってね!だから嫌だ!」

晴天に風花がどこからか吹きつけだす。
氷の花の舞うなか透明な目から涙あふれて、雫ながす風に声が響いた。

「俺とザイルパートナー組んでいたら、おまえも山で死ぬ?そう思って怖かったんだ、でも、おまえと離れたくないんだよっ…
一緒に山に登っていたいんだ、おまえと最高峰行きたいんだ、だからパートナー解消しない。絶対に一緒にいたい、だから!
おまえが目を覚ました時、ずっと一緒にいろ死ぬなって言った!でも不安なんだよ、だって宮田は、雅樹さんと同じなんだよっ…」

涙に声が呑まれて、言葉が途切れる。
哀しい透明な目を見つめて、おだやかに英二は言った。

「俺は、雅樹さんと同じじゃないよ、」
「同じなんだよっ!」

痛切なテノールが遮って、心沈めた想いを吐き出した。

「俺は、雅樹さんを、生涯のアンザイレンパートナーにしたかったんだ!」

いつも底抜けに明るい目は今、涙に沈みこんでいる。
透明な声は悲痛なままに、声の主から言葉を紡いだ。

「俺の夢だったんだ、大好きなひとと山に、ずっと登りたかったんだ。あのひとを俺は大好きで、憧れて、愛してた。
だから俺は言ったんだよ?まだ8歳のガキだった、でも言った、生涯のアンザイレンパートナーになろう、最高峰行こうって!
そしたら言ってくれたんだ、俺が大人になったら、生涯のパートナー組もうって…ガキの俺と本気で、約束してくれたんだよっ!」

約束、その重みを英二は知っている。自分も愛するひとと多くの約束を結んでいるから。
だから国村の「本気での約束」が破られた痛切が予想できてしまう。
その予想の哀しみに見つめた先で、秀麗な顔が涙に叫んだ。

「でも死んだんだ!俺と約束をしてすぐ、ここに登って、ここで死んじまったんだよっ!俺との約束ごと、雅樹さんは死んだんだ!」

細い目から涙が想いと一緒に溢れていく。
その涙と想いを見つめている英二に、テノールの声は真直ぐに泣いた。

「最初の俺のアンザイレンパートナーは雅樹さんだ!ガキの俺と、本気で最高峰に行く約束をしてくれた、大好きなんだ!
今も大好きなんだ、会いたいんだ!だから俺は、ここにも何度も来たんだよ!俺は、怖いんだよ、悔しいんだよ、寂しいんだよっ!
ここでだ!ここで俺の大好きなアンザイレンパートナーは死んだんだ、だから!だから、おまえをここに登らせたくないんだよっ!」

泣き叫ぶ声が風花に舞い散っていく。
泣きながら国村は掴まれていない右腕を広げて、北鎌尾根への入口を英二から遮った。

「もう、嫌なんだよ!俺のザイルパートナーが死ぬのは、嫌なんだ!ザイル繋いだ4人とも皆、俺を置いて山で死んだんだ!
でも宮田だけは死なせない、絶対に離さない、だから嫌だ!ここは嫌だ!雅樹さんが死んだここは絶対に嫌だ!ここは登らせない!」

広げた右腕の掌が握りしめたピッケルのブレードが陽に光る。
ブレードの先端をかすかに震わせながら、国村は叫んだ。

「ほんとうに、おまえだけなんだよ!俺にはさあ、おまえしかいないんだっ、俺とアンザイレン出来るのは、宮田だけだ!
だから死なせたくない、嫌だ!絶対に離れたくない、死なせたくない、おまえだけは離さない絶対に守って死なせない!ここは嫌だ!」

透明な純粋無垢の瞳が泣いている。
行かせない嫌だと英二に訴えかけて泣いてくれる。
この寄せられる想いが嬉しい、嬉しいまま素直に微笑んで、英二はアンザイレンパートナーに歩み寄った。

「俺のアンザイレンパートナーも、国村だけだよ?友達で、同僚で、大好きで大切だよ、」
「…っ、ぅ」

掛けた言葉に、涙呑む吐息で国村は頷いてくれる。
この大切な友人の想いも哀しみも全て受けとめたい、そして超えさせたい。
この想いに微笑んで、長い腕を伸ばすと国村を抱きしめた。

「雅樹さんは遭難して帰ってこなかった。でも俺は遭難しても帰って来ただろ?大丈夫だよ、国村。俺は死なないよ、だから、」

涙温かな雪白の顔に、そっと英二は頬寄せて微笑んだ。
そして見つめてきた覚悟を言葉へと変えて、おだやかなトーンに告げた。

「俺、北鎌尾根を歩いてくるよ。独標からここまで往復してくる、俺一人でも行きたいんだ」

告げた言葉に、雪白の貌が息を呑んだ。

「…なに、言ってるんだよ?」

驚かれても当然だな?
息呑む驚きと哀しみごと友人を抱きしめて、静かに英二は笑った。

「単独行で行く、そう言っているんだよ?」

このルートを自分だけで無事に往復できるのか?そんな自信は100%あるなんて言えない。
まず北鎌尾根には登山道が無い、そのためルートファインディング能力が必要になる。
そして痩せた尾根は急峻でトラバースルートも際どく、岩登りの装備と技術が要求される。
熟練者にのみ許された完全なバリエーションルート、それが北鎌尾根だった。
まだ自分にとって単独行では難易度が高い、それでも退くわけにいかない。ずっと見つめてきた覚悟に英二は微笑んだ。

「俺もね、雅樹さんが好きなんだ。会ったこと無いけれど、俺と同じ気持ちの人だった、って解るんだよ。
だから、雅樹さんが最後に歩いたところを、俺も歩いてみたいんだ。雅樹さんの想いを、俺はトレースしたい。そして受け留めたいよ」

「…いやだ、」

テノールの声が抵抗を呟いてくれる。
それでも英二は静かに腕を緩めると、そっと青いウェアの長身から離れた。

「俺はね、おまえのアンザイレンパートナーとして警視庁からも認められた男だよ?あの雪崩からも帰ってきた男だ、俺は。
それに俺、周太といっぱい約束があるんだ、そして国村とも約束している。それを全部叶えるまで死ねないんだ、だから大丈夫だよ」

ずっと考えてきた想いを言葉に変えながら、英二は国村の横を通りぬけた。
そして北鎌尾根への入口に佇んで、真直ぐアンザイレンパートナーを見つめて綺麗に笑った。

「約束する、俺は絶対に帰ってくるよ?独標まで行って戻ってくる、そしたら北穂に追いかけるよ。目標は17時だ、」
「無理だ!ダメだ、行くなよ嫌だ!」

青いウェアの腕が伸ばされて、強い掌が深紅のウェアの腕を掴んでくれる。
けれど英二は綺麗に笑って、そっと手頸の関節を押すと軽く掌を外した。

「俺も山ヤだよ、国村?山ヤは自由に山を登るために、努力をする。俺もその努力はしてきたつもりだよ?
この俺の努力を一番よく認めてくれているのは、国村だろ?だったら行かせて欲しい、俺は雅樹さんが見た世界に、立ちたいんだ」

透明に無垢な目が縋るように見つめてくれる。
その目を真直ぐ見つめて、英二は掌を自分のアンザイレンパートナーに伸ばした。

「もう一度だけ、言うよ?俺と一緒に行こう、国村。俺と一緒に雅樹さんのトレースを見に行こう。
そして、雅樹さんと一緒に北鎌尾根から槍の天辺に登ろう?15年前に雅樹さんが途中になったルートの、最後を終わらせよう?」

細い目がゆっくり瞑られて、ひとつ大きく呼吸をする。
そして長い睫が上げられて、涙の中から底抜けに明るい目が真直ぐ英二に笑った。

「うん、一緒に行くよ?俺だけが宮田のアンザイレンパートナだ、一緒の道を登るのは当然だね、」

ひとつ涙こぼして国村は、肩に斜め掛けしたザイルを外した。
その片端を英二が差し出した掌に渡すと、唇の端を挙げて悪戯っ子に微笑んだ。

「ほら、俺の可愛いアンザイレンパートナー?この赤いザイルで俺たち、シッカリ愛を繋ぎ合おうね?」

泣き顔のまま国村は、明るく笑ってくれる。
ひとつめのハードルを超えた自分のパートナーに英二は心から笑った。

「おう、アンザイレンして行こうな?でも、愛は周太だけだよ、」
「無理するなよ、み・や・た。俺のこと、本当は可愛いって思っている癖に、」
「それは大きな誤解か妄想だよ?」

お互い笑いながら手早くシットハーネスと胸部をアンザイレンしていく。
ザイルの調整をして互いに確認し合うと、国村のピッケルが北鎌尾根を指し示した。

「独標まで、一般的なタイムはこの時期、片道6時間ってトコだ。だから俺たちは目標2時間だ。山岳救助隊員なら当たり前だろ?」
「うん、当然だな。俺は、国村のペースに付いていくよ、」

いつもの調子を見せ始めた友人に、素直に英二は微笑んだ。
そんな英二に満足げに目を細めて、愉しげに国村は笑った。

「よし。じゃあ、北鎌尾根をヤリに行こうかね?まず、直下の雪壁下降からだ、」

午前10:18、国村リードで北鎌尾根縦走をスタートした。




数メートルの雪壁を慎重に降り、急峻な斜面が混じる雪稜を下っていく。
先行してくれる青いウェア姿を追いながら、慎重にアイゼンとピッケルを使っていく。
急斜面をザイル確保で降り雪陵を辿っていく、北鎌平を通り細かなアップダウンを越える尾根は痩せていた。
まさに竜の背の鬣を歩いていく、そんな急峻な氷河地形の稜線をアイゼンで踏んで行く。

「ここはさ、夏はザレて浮石も危ないんだ。今の時期だと、その心配はないけどね、」
「冬は寒いけど、落石の怖さは無いよな?」

会話を交わしながら慎重に進んでいく。
稜線に絡むトラバースルートも幅が細い、このルートファインディングは難しい。
けれど国村は迷わずにルートをとって独標を目指していく。
もし単独行だったら、こんなふうに歩けたか解からない。

―早く自分も、こうなりたいな

この前を行く友人でアンザイレンパートナーの、長身のびやかな背には学ぶものが多い。
そんな実感をしながら辿っていく白銀のトレースに、ふっと国村が立ち止った。
止まった背中の雰囲気には、この場所の意味悟るものを感じてしまう。
アンザイレンザイルを手繰り調整して英二は、国村の隣に並んだ。

「国村、」

名前を呼んでも友人の視線は無言のまま、間ノ沢方向を凝視して動かない。
なにも言わず、ただ奈落の哀しみが一点を見つめている。
無言で佇む青いウェア姿を英二は隣から抱きかかえた。

「国村、座ろう?」

白銀に眠る雪の稜線に、英二は抱えた友人ごと座りこんだ。
座りこんでも細い目は真直ぐ一点を見つめている、その雪白の顔を肩に凭れさせて英二は微笑んだ。

「泣けよ、国村。大丈夫だ、俺が抱えているよ?」
「…ん、」

微かな頷きが秀麗な唇から零れた。
頷きに栓切るよう嗚咽が、ネックゲイターの奥から白い喉を震わせ始めた。

「…っ、…ぅ、…ふっ、……っ、う、う…うっ」

嗚咽の響きが徐々に高くなっていく、細い目は涙あふれていく。
そして心からの慟哭が北鎌尾根に謳いあげられた。

「っ、うわああああっ…あっ、あ…ああ!まさきさんっ…!雅樹さん!」

透明なテノールが英二の肩から大きく泣いていく。
そして白銀の竜の背に、山っ子の悲痛な叫びがあがった。

「見てよっ、俺、大人になったんだよ!俺と約束してくれた、あのときの雅樹さんと、同じ年になったんだよ!
雅樹さん!俺、山ヤの警察官になったんだよ…救助隊になったっ…雅樹さんと同じように、山で、レスキューしてんだよっ!」

雪蒼い断崖の底、眠りについた美しい山ヤの医学生へと、山っ子の涙が山風に乗って降り注ぐ。
ここに眠る1人の山ヤへと最高の山ヤの魂が叫び、呼びかけ始めた。

「俺、警視庁でさ…っ、山岳会のエースって、言われてんだ…っ、う、…最高のクライマーになれるって、言われてるんだっ!
見てよ、雅樹さんっ…見てよ!大人になった俺を…雅樹さんのアンザイレンパートナーは、今、最高の山ヤって、言われてるよ!
雅樹さんのこと尊敬してる愛してるよっ…同じレスキューもやってる!だから会いに来てよっ…会いたいんだ、大好きなんだよっ、」

透明な呼び声の哀切は、心に響く。
深紅のウェアの肩を温めていく涙と一緒に、英二の目から涙が零れだす。
ただ静かに頬伝う涙に佇む、この隣に抱えこんだ最高の山ヤは15年の願いを叫んだ。

「約束どおり、ちゃんと大人の山ヤになったよ!だから会いに来てよっ、約束を果たしてよ、俺と山を登ってよ!まさきさん…っ、
会いに来てよ!一度きりで良いから、大人の俺とアンザイレン組んでよ!俺との約束を果たしてよぉ…っ、雅樹さん!まさき、さ…っ」

尽きることの無い涙は、ナイフリッジの風に払われ雪壁に散っていく。
無垢な目は涙の底から真直ぐ雪壁の底一点を見つめて、そして尖峰へと視点を飛ばし叫んだ。

「槍ヶ岳っ、雅樹さんを、返せよっ!…なんで突風なんか吹かせたんだよ!」

透明な目は真直ぐに、槍の鉾先を見据えて泣いている。
そして透明なテノールが大きな慟哭に、山に向かって罵声を飛ばした。

「槍ヶ岳!雅樹さんはミスなんかしていない!おまえが変な風で、無理矢理に浚ったんだっ…返せよぉっ、俺のパートナーを返せ!
槍ヶ岳ぇっ!俺の大好きな人を返せ!愛しているんだ、尊敬してるんだ、大切なひとなんだよぉっ…雅樹さんを返せよっ!…かえせ!」

山を敬愛する国村が、山を罵倒していく。
山っ子と呼ばれ、最高の山ヤの魂を持つと言われる、その国村が山を罵倒していく。
こんなふうに山を怒鳴りつける国村を、英二は初めて見た。

愛する山を罵倒する。
それほどまでに国村にとって、雅樹の存在は大きい。
この存在の大きさの分だけ、愛情が深い分だけ、国村の傷は大きく深く穿たれている。
この傷の哀しみを、どうしたら受けとめられる?
この今共に涙こぼれていく英二の隣から、悲痛な慟哭が雪稜をふるわせ叫びあげた。

「槍ヶ岳ぇっ、雅樹さんを返せ!約束を果たしてよ、雅樹さん!大人になった俺と、山に登ってよ!会いに来てよぉっ、まさきさん!」

透明なテノールの鬼哭が、北鎌尾根を奔りぬけて槍の鉾先を射した。

その瞬間ふっと東風の一陣が吹きこんだ。
そのまま東風は吹き抜けて、北鎌の稜線彼方へ奔っていく。
そして間ノ沢からナイフリッジ昇って、大らかな風と白銀のかけらが雪稜を包んだ。

「…雪?」

白く冷たい花びらが、晴れた空から降ってくる。
ナイフリッジの上昇風に、雪壁の底から雪は空へ舞い昇り、花となって蒼穹高くから降り注ぐ。
大らかな風奔る、真青な空満つに白銀の花びらは輝いた。

「風花、…谷底から…」

透明なテノールの声が呟きこぼして、涙の目が雪の花を見つめている。
白銀の花ふるなか並んで吹かれる風に、ふっと英二は微笑んだ。

「雅樹さんの風だな、」

ゆっくり振向いて、涙の目が英二を見つめてくれる。
すぐ隣の目を見かえして、英二は綺麗に微笑んだ。

「周太に前、教えて貰ったんだ。雪の花って名前の花があるんだけどさ、花言葉が希望と慰めなんだ。
エデンを追われたアダムとイヴを励ますために、天使が雪を変えた花らしい。だからきっとさ、この風花は雅樹さんの励ましだよ」

優しかった雅樹なら、こんなふうに友人を励ますかもしれない。
いまこの谷に眠るひとを想いながら口にした言葉に、透明なテノールが呟くよう言った。

「励まし、希望、か…でも俺、約束を、さ…」

ぽつん、涙がひとつ尾根の雪に融けた。
叶わない約束への諦められない想いと終わらない哀しみが、尽きせぬ涙になっている。
この涙を拭うことは、すべて泣かせて笑顔に変えることは、出来るだろうか?
この願いに英二は右の掌を、白銀ふる青空へと向けた。

―雅樹さん、俺の考えが正しかったら、ここに雪の花をくれますか?

そっと英二は谷に眠るひとへ心裡呼びかけた。
心に祈った想い応えるように風花は、ひとひら英二の掌に舞いおりた。
この雪の花に微笑んで、英二は隣のアンザイレンパートナーに告げた。

「国村、この風花はね、雅樹さんの涙だ。涙は心から生まれる、だからこれは雅樹さんの心だよ、」
「…雅樹さんの、心…」

登山グローブの掌を見つめて、透明なテノールが復唱する。
掌の風花を見つめる泣きはらした目に、英二は笑いかけると掌を口に当てた。

ふっ、と冷たい感触が唇にふれる。
ふれた途端にとけて生まれた水を飲みこんで、綺麗に英二は微笑んだ。

「さあ、行こうか、光一、」

名前を呼ばれた細い目が大きくなる。

「今、なんて呼んだ?」
「光一、って呼んだよ?君の名前だろ?」

さらり笑って英二は、雪白の額を登山グローブの指で小突いた。
抱えた体を起こしながら一緒に立ち上がると、英二は無垢な目に笑いかけた。

「独標に行く、そして槍の頂上に戻る。この間の俺は、雅樹さんだ。いま俺は雅樹さんの心を呑んだ、だから俺の中に雅樹さんがいる」

こんなの子供騙しかもしれない、それでも少しでも傷が癒えたらいい。
この願いを抱いて英二は、アンザイレンパートナーに大らかに笑いかけた。

「俺の中で雅樹さんは、一緒にこのルートを歩くんだ。そして途中になった道を終わらせる、国村と一緒にね。
今から雅樹さんは、国村との約束を叶えるんだよ。おまえのパートナーである俺を使って、雅樹さんが国村とアンザイレンを組むんだ」

立ち上がった同じ目の高さから、細い透明な目が瞳見つめてくれる。
見つめながら透明なテノールが、呟くよう訊いてくれた。

「…いいのかよ?だって、おまえ、俺は雅樹さんじゃない、って…」
「今は良いんだ、雅樹さんの涙を心ごとを呑んだからね、」

きれいに笑って軽く英二は頷いた。

「雅樹さんの涙は、この尾根の谷が生んだ風花で出来ている。だから、この尾根に居る間は、効果があるんだ。
この尾根を歩く間の俺は、雅樹さんの心が入っている。槍の頂上を抜けたら、効果は消えるから俺は俺に戻る。いいな、国村?」

これは山っ子が山を罵って創りだした魔法、きっと山の不思議だろう。
そんな不思議が温かで微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「期間限定の魔法なんてさ?シンデレラみたいだね、雅樹さん、」

透明なテノールが、すこしだけ甘えたトーンになって笑ってくれる。
うれしそうな細い目が悪戯っ子に笑って、そして言ってくれた。

「だから俺が王子になってさ、雅樹さんを独標から槍の天辺まで、エスコートするよ?俺の大好きな、アンザイレンパートナーさん」
「うん、よろしくな、光一、」

さらり笑って英二はテノールの声に答えた。
そんな英二に嬉しそうに笑いかけて、国村は英二の左掌をとると右掌と繋いだ。

「行こう、雅樹さん。もう独標まですぐだよ、」
「ああ、すぐだな。この先はね、ちょっとザイル使うよ?気をつけろよ、光一」

笑って答えながら、繋がれた掌の想いが切なかった。
きっと幼い日の国村は雅樹と山に登るとき、よく手を繋いでいたのだろう。
大好きな頼もしい存在と共に山を登っていた、そんな幸せの記憶が今、国村に甦っている。

「雅樹さん、この尾根ってさ?ほんと冬は人がいないね、竜の背中みたいで面白いのにね、」
「うん、バリエーションルートだから、ちょっと難しいんだ。特に冬は気温が低いだろ?」
「冬だから良いのにさ。雪の北鎌は、ほんとうに白銀の竜だよね。雅樹さん、俺たち今、竜の背に乗ってるね、」

尊敬している、兄のよう、心から愛している、大好きだ。
この想いたちが、話すトーンから視線から率直にあふれている。
こんなにもストレートに国村は雅樹を想っている、この存在の喪失は8歳の子供にはどれだけ苦しかったろう?
この切なさを心の底で見つめて英二は、きれいな笑顔で雅樹と笑いながらアイゼンで雪稜を踏みしめた。




(to be continued)

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