白銀の陵、愛しきひとに

雪陵act.2―side story「陽はまた昇る」
槍の鉾先をナイフリッジの風が吹き上げる。
青く輝いた中天を突く白銀の点で、2人の山ヤは真直ぐ向き合っていた。
「国村、北鎌尾根を往復縦走しよう。俺たち2人なら、今からの時間で行けるよな?」
さあ一緒に行こう?目で告げながら英二は微笑んだ。
こっちの道を行こうと惹くように、青いウェアの腕を掴む掌に軽く力を入れる。
けれど掴んだ青いウェアの下は、掌を跳ね返すよう強靭な筋肉に力が奔った。
「嫌だね、」
透明なテノールが一言、拒絶した。
拒絶する言葉のとおり細い目は「嫌だね」と告げてくる。
それでも英二はザイルパートナーの目に真直ぐ微笑んだまま、言葉を重ねた。
「北鎌尾根を歩こう、国村。俺と一緒に、独標を見に行こうよ」
「嫌だね、行かないよ、」
明確な拒絶にちいさく笑って、国村は腕を掴まれたまま踵を返した。
それでも英二は掴んだ腕を離さなかった。
「行こうよ、国村。俺は北鎌尾根を歩いてみたいよ?」
告げた言葉にザックを背負う肩が一瞬、揺れた。
けれど振り向かない肩の向うから、透明なテノールは明るい調子で笑った。
「嫌だよ。昨日は俺、勤務だったからね?さっさと雪洞掘って、酒を呑みたいんだ…ほら、行くよ、」
からり笑った声がどこか揺れている。
この揺れが痛々しい、けれど今は一歩も退くわけにいかない。
しっかり青い腕を掴んだまま、国村の正面に英二は回りこんだ。
回りこみ向き合った秀麗な顔はすこし笑って、けれど奥歯を噛みしめている。
行かないよ、嫌だよ
細い目は頑なに告げてくる、噛みしめた口許が断固動かないと無言の雄弁を奮っている。
自分の誘いは、難しいだろうか?そんな疑問と不安が起きかけて、かるく英二は首を振った。
絶対に自分は今、退いてはいけない。なんども見つめた覚悟と一緒に英二は、大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「行こう、国村。雅樹さんの歩いた道を、俺も見てみたい、」
底抜けに明るい目に一閃、大きく感情が閃いた。
「嫌だって言ってるだろ!」
「いいかげんにしろ、国村!」
透明なテノールの叫びに重ねるよう、英二は低い声を鋭鋒に響かせた。
「俺は雅樹さんじゃないんだ!俺は遭難では死なない!」
怒鳴りつけた向う、国村の細い目が大きくなった。
きっと自分は、この友人を心から驚かせただろう。
卒配以来ずっと真面目で冷静と英二は言われてきた、温厚で優しいと誰もが言う。
だから驚かせて当然だろうな?ちょっと可笑しく思いながら英二は、いつもの笑顔になって笑いかけた。
「国村。俺は、宮田英二だよ」
怒鳴られた呆然に細い目が英二を見つめている。
その視線を逸らさずに英二は、おだやかに言葉を続けた。
「たしかに俺は、雅樹さんと似ているな?でも、俺は俺だ。雅樹さんとは違うんだ。
おまえと同じ年で、同じ警察官で後輩で、おまえの友達だ。おまえの恋敵だよ?そして俺は、簡単には死なない。大丈夫だよ、」
大丈夫だよ、そう目で笑いかけた。
けれど大きくなった透明な目は哀しげに瞠って、テノールの声が叫んだ。
「そんなこと解ってるよっ!」
叫んだ声が雪稜の風に薙がれた。
哀しい透明な目は真直ぐに英二を見つめて、哀しいテノールが押し出された。
「おまえは雅樹さんに似てる、でも別人で、俺と同じように登れる、だから大丈夫だって、俺だって思ってたんだよ!
俺のこと冬富士でも救助出来た、おまえなら俺とザイルパートナー組んでも死なない、そう思った…でも、死にかけたじゃないか!」
俺とザイルパートナー組んでも死なない。
この言葉が傷の根源だろうか?穏かに微笑んだまま英二は尋ねた。
「国村とザイルパートナーを組んでも死なない?どういう意味だ、国村」
「言った通りだよ、」
雪風が吹きつけて黒髪を乱す。
ながれる髪のはざまから透明な目が英二を見つめて、叫んだ。
「俺が自分からザイルパートナー組んだ相手はね、みんな死んだんだ!」
叫んだ声が雪風に浚われる。
浚われた声を追うようテノールの声に心が叫びだした。
「マナスルでオヤジとおふくろは死んだ、御岳で田中のじいさんは死んだ。俺が大好きな相手は、皆、山で死んだんだ!
だから!仮のパートナーだけどさあ?後藤のおじさん50歳になって、パートナー解消した時。ほんとは俺、安心したんだよ!
これで、おじさんは死ななくてもイイってさ?4人と比べたら、おじさんには俺、そこまで想っていない。でも不安だっ…
だってさあ?田中のじいさんは、俺とパートナー解消して8年も経ってた、なのに、山で死んじまったんだ!しかも御岳でだっ!
なんであの山で死ぬんだよ!おかしいだろ?!なんで皆、死ぬんだよ?!なんで俺のパートナーは全員、山で死ぬんだよっ!」
ひとつ大きく国村は息を呑んだ。
そしてすぐまた開かれた唇から痛切な叫びがあがった。
「俺とザイルを繋いだ相手は、みんな死んじまったんだよ!その最初が雅樹さんだった!皆、俺の所為かもしれないんだよ!
だから!おまえが遭難したのは、俺の所為だって思っちゃったんだよっ!俺が、おまえとザイルを組んだからだってね!だから嫌だ!」
晴天に風花がどこからか吹きつけだす。
氷の花の舞うなか透明な目から涙あふれて、雫ながす風に声が響いた。
「俺とザイルパートナー組んでいたら、おまえも山で死ぬ?そう思って怖かったんだ、でも、おまえと離れたくないんだよっ…
一緒に山に登っていたいんだ、おまえと最高峰行きたいんだ、だからパートナー解消しない。絶対に一緒にいたい、だから!
おまえが目を覚ました時、ずっと一緒にいろ死ぬなって言った!でも不安なんだよ、だって宮田は、雅樹さんと同じなんだよっ…」
涙に声が呑まれて、言葉が途切れる。
哀しい透明な目を見つめて、おだやかに英二は言った。
「俺は、雅樹さんと同じじゃないよ、」
「同じなんだよっ!」
痛切なテノールが遮って、心沈めた想いを吐き出した。
「俺は、雅樹さんを、生涯のアンザイレンパートナーにしたかったんだ!」
いつも底抜けに明るい目は今、涙に沈みこんでいる。
透明な声は悲痛なままに、声の主から言葉を紡いだ。
「俺の夢だったんだ、大好きなひとと山に、ずっと登りたかったんだ。あのひとを俺は大好きで、憧れて、愛してた。
だから俺は言ったんだよ?まだ8歳のガキだった、でも言った、生涯のアンザイレンパートナーになろう、最高峰行こうって!
そしたら言ってくれたんだ、俺が大人になったら、生涯のパートナー組もうって…ガキの俺と本気で、約束してくれたんだよっ!」
約束、その重みを英二は知っている。自分も愛するひとと多くの約束を結んでいるから。
だから国村の「本気での約束」が破られた痛切が予想できてしまう。
その予想の哀しみに見つめた先で、秀麗な顔が涙に叫んだ。
「でも死んだんだ!俺と約束をしてすぐ、ここに登って、ここで死んじまったんだよっ!俺との約束ごと、雅樹さんは死んだんだ!」
細い目から涙が想いと一緒に溢れていく。
その涙と想いを見つめている英二に、テノールの声は真直ぐに泣いた。
「最初の俺のアンザイレンパートナーは雅樹さんだ!ガキの俺と、本気で最高峰に行く約束をしてくれた、大好きなんだ!
今も大好きなんだ、会いたいんだ!だから俺は、ここにも何度も来たんだよ!俺は、怖いんだよ、悔しいんだよ、寂しいんだよっ!
ここでだ!ここで俺の大好きなアンザイレンパートナーは死んだんだ、だから!だから、おまえをここに登らせたくないんだよっ!」
泣き叫ぶ声が風花に舞い散っていく。
泣きながら国村は掴まれていない右腕を広げて、北鎌尾根への入口を英二から遮った。
「もう、嫌なんだよ!俺のザイルパートナーが死ぬのは、嫌なんだ!ザイル繋いだ4人とも皆、俺を置いて山で死んだんだ!
でも宮田だけは死なせない、絶対に離さない、だから嫌だ!ここは嫌だ!雅樹さんが死んだここは絶対に嫌だ!ここは登らせない!」
広げた右腕の掌が握りしめたピッケルのブレードが陽に光る。
ブレードの先端をかすかに震わせながら、国村は叫んだ。
「ほんとうに、おまえだけなんだよ!俺にはさあ、おまえしかいないんだっ、俺とアンザイレン出来るのは、宮田だけだ!
だから死なせたくない、嫌だ!絶対に離れたくない、死なせたくない、おまえだけは離さない絶対に守って死なせない!ここは嫌だ!」
透明な純粋無垢の瞳が泣いている。
行かせない嫌だと英二に訴えかけて泣いてくれる。
この寄せられる想いが嬉しい、嬉しいまま素直に微笑んで、英二はアンザイレンパートナーに歩み寄った。
「俺のアンザイレンパートナーも、国村だけだよ?友達で、同僚で、大好きで大切だよ、」
「…っ、ぅ」
掛けた言葉に、涙呑む吐息で国村は頷いてくれる。
この大切な友人の想いも哀しみも全て受けとめたい、そして超えさせたい。
この想いに微笑んで、長い腕を伸ばすと国村を抱きしめた。
「雅樹さんは遭難して帰ってこなかった。でも俺は遭難しても帰って来ただろ?大丈夫だよ、国村。俺は死なないよ、だから、」
涙温かな雪白の顔に、そっと英二は頬寄せて微笑んだ。
そして見つめてきた覚悟を言葉へと変えて、おだやかなトーンに告げた。
「俺、北鎌尾根を歩いてくるよ。独標からここまで往復してくる、俺一人でも行きたいんだ」
告げた言葉に、雪白の貌が息を呑んだ。
「…なに、言ってるんだよ?」
驚かれても当然だな?
息呑む驚きと哀しみごと友人を抱きしめて、静かに英二は笑った。
「単独行で行く、そう言っているんだよ?」
このルートを自分だけで無事に往復できるのか?そんな自信は100%あるなんて言えない。
まず北鎌尾根には登山道が無い、そのためルートファインディング能力が必要になる。
そして痩せた尾根は急峻でトラバースルートも際どく、岩登りの装備と技術が要求される。
熟練者にのみ許された完全なバリエーションルート、それが北鎌尾根だった。
まだ自分にとって単独行では難易度が高い、それでも退くわけにいかない。ずっと見つめてきた覚悟に英二は微笑んだ。
「俺もね、雅樹さんが好きなんだ。会ったこと無いけれど、俺と同じ気持ちの人だった、って解るんだよ。
だから、雅樹さんが最後に歩いたところを、俺も歩いてみたいんだ。雅樹さんの想いを、俺はトレースしたい。そして受け留めたいよ」
「…いやだ、」
テノールの声が抵抗を呟いてくれる。
それでも英二は静かに腕を緩めると、そっと青いウェアの長身から離れた。
「俺はね、おまえのアンザイレンパートナーとして警視庁からも認められた男だよ?あの雪崩からも帰ってきた男だ、俺は。
それに俺、周太といっぱい約束があるんだ、そして国村とも約束している。それを全部叶えるまで死ねないんだ、だから大丈夫だよ」
ずっと考えてきた想いを言葉に変えながら、英二は国村の横を通りぬけた。
そして北鎌尾根への入口に佇んで、真直ぐアンザイレンパートナーを見つめて綺麗に笑った。
「約束する、俺は絶対に帰ってくるよ?独標まで行って戻ってくる、そしたら北穂に追いかけるよ。目標は17時だ、」
「無理だ!ダメだ、行くなよ嫌だ!」
青いウェアの腕が伸ばされて、強い掌が深紅のウェアの腕を掴んでくれる。
けれど英二は綺麗に笑って、そっと手頸の関節を押すと軽く掌を外した。
「俺も山ヤだよ、国村?山ヤは自由に山を登るために、努力をする。俺もその努力はしてきたつもりだよ?
この俺の努力を一番よく認めてくれているのは、国村だろ?だったら行かせて欲しい、俺は雅樹さんが見た世界に、立ちたいんだ」
透明に無垢な目が縋るように見つめてくれる。
その目を真直ぐ見つめて、英二は掌を自分のアンザイレンパートナーに伸ばした。
「もう一度だけ、言うよ?俺と一緒に行こう、国村。俺と一緒に雅樹さんのトレースを見に行こう。
そして、雅樹さんと一緒に北鎌尾根から槍の天辺に登ろう?15年前に雅樹さんが途中になったルートの、最後を終わらせよう?」
細い目がゆっくり瞑られて、ひとつ大きく呼吸をする。
そして長い睫が上げられて、涙の中から底抜けに明るい目が真直ぐ英二に笑った。
「うん、一緒に行くよ?俺だけが宮田のアンザイレンパートナだ、一緒の道を登るのは当然だね、」
ひとつ涙こぼして国村は、肩に斜め掛けしたザイルを外した。
その片端を英二が差し出した掌に渡すと、唇の端を挙げて悪戯っ子に微笑んだ。
「ほら、俺の可愛いアンザイレンパートナー?この赤いザイルで俺たち、シッカリ愛を繋ぎ合おうね?」
泣き顔のまま国村は、明るく笑ってくれる。
ひとつめのハードルを超えた自分のパートナーに英二は心から笑った。
「おう、アンザイレンして行こうな?でも、愛は周太だけだよ、」
「無理するなよ、み・や・た。俺のこと、本当は可愛いって思っている癖に、」
「それは大きな誤解か妄想だよ?」
お互い笑いながら手早くシットハーネスと胸部をアンザイレンしていく。
ザイルの調整をして互いに確認し合うと、国村のピッケルが北鎌尾根を指し示した。
「独標まで、一般的なタイムはこの時期、片道6時間ってトコだ。だから俺たちは目標2時間だ。山岳救助隊員なら当たり前だろ?」
「うん、当然だな。俺は、国村のペースに付いていくよ、」
いつもの調子を見せ始めた友人に、素直に英二は微笑んだ。
そんな英二に満足げに目を細めて、愉しげに国村は笑った。
「よし。じゃあ、北鎌尾根をヤリに行こうかね?まず、直下の雪壁下降からだ、」
午前10:18、国村リードで北鎌尾根縦走をスタートした。

数メートルの雪壁を慎重に降り、急峻な斜面が混じる雪稜を下っていく。
先行してくれる青いウェア姿を追いながら、慎重にアイゼンとピッケルを使っていく。
急斜面をザイル確保で降り雪陵を辿っていく、北鎌平を通り細かなアップダウンを越える尾根は痩せていた。
まさに竜の背の鬣を歩いていく、そんな急峻な氷河地形の稜線をアイゼンで踏んで行く。
「ここはさ、夏はザレて浮石も危ないんだ。今の時期だと、その心配はないけどね、」
「冬は寒いけど、落石の怖さは無いよな?」
会話を交わしながら慎重に進んでいく。
稜線に絡むトラバースルートも幅が細い、このルートファインディングは難しい。
けれど国村は迷わずにルートをとって独標を目指していく。
もし単独行だったら、こんなふうに歩けたか解からない。
―早く自分も、こうなりたいな
この前を行く友人でアンザイレンパートナーの、長身のびやかな背には学ぶものが多い。
そんな実感をしながら辿っていく白銀のトレースに、ふっと国村が立ち止った。
止まった背中の雰囲気には、この場所の意味悟るものを感じてしまう。
アンザイレンザイルを手繰り調整して英二は、国村の隣に並んだ。
「国村、」
名前を呼んでも友人の視線は無言のまま、間ノ沢方向を凝視して動かない。
なにも言わず、ただ奈落の哀しみが一点を見つめている。
無言で佇む青いウェア姿を英二は隣から抱きかかえた。
「国村、座ろう?」
白銀に眠る雪の稜線に、英二は抱えた友人ごと座りこんだ。
座りこんでも細い目は真直ぐ一点を見つめている、その雪白の顔を肩に凭れさせて英二は微笑んだ。
「泣けよ、国村。大丈夫だ、俺が抱えているよ?」
「…ん、」
微かな頷きが秀麗な唇から零れた。
頷きに栓切るよう嗚咽が、ネックゲイターの奥から白い喉を震わせ始めた。
「…っ、…ぅ、…ふっ、……っ、う、う…うっ」
嗚咽の響きが徐々に高くなっていく、細い目は涙あふれていく。
そして心からの慟哭が北鎌尾根に謳いあげられた。
「っ、うわああああっ…あっ、あ…ああ!まさきさんっ…!雅樹さん!」
透明なテノールが英二の肩から大きく泣いていく。
そして白銀の竜の背に、山っ子の悲痛な叫びがあがった。
「見てよっ、俺、大人になったんだよ!俺と約束してくれた、あのときの雅樹さんと、同じ年になったんだよ!
雅樹さん!俺、山ヤの警察官になったんだよ…救助隊になったっ…雅樹さんと同じように、山で、レスキューしてんだよっ!」
雪蒼い断崖の底、眠りについた美しい山ヤの医学生へと、山っ子の涙が山風に乗って降り注ぐ。
ここに眠る1人の山ヤへと最高の山ヤの魂が叫び、呼びかけ始めた。
「俺、警視庁でさ…っ、山岳会のエースって、言われてんだ…っ、う、…最高のクライマーになれるって、言われてるんだっ!
見てよ、雅樹さんっ…見てよ!大人になった俺を…雅樹さんのアンザイレンパートナーは、今、最高の山ヤって、言われてるよ!
雅樹さんのこと尊敬してる愛してるよっ…同じレスキューもやってる!だから会いに来てよっ…会いたいんだ、大好きなんだよっ、」
透明な呼び声の哀切は、心に響く。
深紅のウェアの肩を温めていく涙と一緒に、英二の目から涙が零れだす。
ただ静かに頬伝う涙に佇む、この隣に抱えこんだ最高の山ヤは15年の願いを叫んだ。
「約束どおり、ちゃんと大人の山ヤになったよ!だから会いに来てよっ、約束を果たしてよ、俺と山を登ってよ!まさきさん…っ、
会いに来てよ!一度きりで良いから、大人の俺とアンザイレン組んでよ!俺との約束を果たしてよぉ…っ、雅樹さん!まさき、さ…っ」
尽きることの無い涙は、ナイフリッジの風に払われ雪壁に散っていく。
無垢な目は涙の底から真直ぐ雪壁の底一点を見つめて、そして尖峰へと視点を飛ばし叫んだ。
「槍ヶ岳っ、雅樹さんを、返せよっ!…なんで突風なんか吹かせたんだよ!」
透明な目は真直ぐに、槍の鉾先を見据えて泣いている。
そして透明なテノールが大きな慟哭に、山に向かって罵声を飛ばした。
「槍ヶ岳!雅樹さんはミスなんかしていない!おまえが変な風で、無理矢理に浚ったんだっ…返せよぉっ、俺のパートナーを返せ!
槍ヶ岳ぇっ!俺の大好きな人を返せ!愛しているんだ、尊敬してるんだ、大切なひとなんだよぉっ…雅樹さんを返せよっ!…かえせ!」
山を敬愛する国村が、山を罵倒していく。
山っ子と呼ばれ、最高の山ヤの魂を持つと言われる、その国村が山を罵倒していく。
こんなふうに山を怒鳴りつける国村を、英二は初めて見た。
愛する山を罵倒する。
それほどまでに国村にとって、雅樹の存在は大きい。
この存在の大きさの分だけ、愛情が深い分だけ、国村の傷は大きく深く穿たれている。
この傷の哀しみを、どうしたら受けとめられる?
この今共に涙こぼれていく英二の隣から、悲痛な慟哭が雪稜をふるわせ叫びあげた。
「槍ヶ岳ぇっ、雅樹さんを返せ!約束を果たしてよ、雅樹さん!大人になった俺と、山に登ってよ!会いに来てよぉっ、まさきさん!」
透明なテノールの鬼哭が、北鎌尾根を奔りぬけて槍の鉾先を射した。
その瞬間ふっと東風の一陣が吹きこんだ。
そのまま東風は吹き抜けて、北鎌の稜線彼方へ奔っていく。
そして間ノ沢からナイフリッジ昇って、大らかな風と白銀のかけらが雪稜を包んだ。
「…雪?」
白く冷たい花びらが、晴れた空から降ってくる。
ナイフリッジの上昇風に、雪壁の底から雪は空へ舞い昇り、花となって蒼穹高くから降り注ぐ。
大らかな風奔る、真青な空満つに白銀の花びらは輝いた。
「風花、…谷底から…」
透明なテノールの声が呟きこぼして、涙の目が雪の花を見つめている。
白銀の花ふるなか並んで吹かれる風に、ふっと英二は微笑んだ。
「雅樹さんの風だな、」
ゆっくり振向いて、涙の目が英二を見つめてくれる。
すぐ隣の目を見かえして、英二は綺麗に微笑んだ。
「周太に前、教えて貰ったんだ。雪の花って名前の花があるんだけどさ、花言葉が希望と慰めなんだ。
エデンを追われたアダムとイヴを励ますために、天使が雪を変えた花らしい。だからきっとさ、この風花は雅樹さんの励ましだよ」
優しかった雅樹なら、こんなふうに友人を励ますかもしれない。
いまこの谷に眠るひとを想いながら口にした言葉に、透明なテノールが呟くよう言った。
「励まし、希望、か…でも俺、約束を、さ…」
ぽつん、涙がひとつ尾根の雪に融けた。
叶わない約束への諦められない想いと終わらない哀しみが、尽きせぬ涙になっている。
この涙を拭うことは、すべて泣かせて笑顔に変えることは、出来るだろうか?
この願いに英二は右の掌を、白銀ふる青空へと向けた。
―雅樹さん、俺の考えが正しかったら、ここに雪の花をくれますか?
そっと英二は谷に眠るひとへ心裡呼びかけた。
心に祈った想い応えるように風花は、ひとひら英二の掌に舞いおりた。
この雪の花に微笑んで、英二は隣のアンザイレンパートナーに告げた。
「国村、この風花はね、雅樹さんの涙だ。涙は心から生まれる、だからこれは雅樹さんの心だよ、」
「…雅樹さんの、心…」
登山グローブの掌を見つめて、透明なテノールが復唱する。
掌の風花を見つめる泣きはらした目に、英二は笑いかけると掌を口に当てた。
ふっ、と冷たい感触が唇にふれる。
ふれた途端にとけて生まれた水を飲みこんで、綺麗に英二は微笑んだ。
「さあ、行こうか、光一、」
名前を呼ばれた細い目が大きくなる。
「今、なんて呼んだ?」
「光一、って呼んだよ?君の名前だろ?」
さらり笑って英二は、雪白の額を登山グローブの指で小突いた。
抱えた体を起こしながら一緒に立ち上がると、英二は無垢な目に笑いかけた。
「独標に行く、そして槍の頂上に戻る。この間の俺は、雅樹さんだ。いま俺は雅樹さんの心を呑んだ、だから俺の中に雅樹さんがいる」
こんなの子供騙しかもしれない、それでも少しでも傷が癒えたらいい。
この願いを抱いて英二は、アンザイレンパートナーに大らかに笑いかけた。
「俺の中で雅樹さんは、一緒にこのルートを歩くんだ。そして途中になった道を終わらせる、国村と一緒にね。
今から雅樹さんは、国村との約束を叶えるんだよ。おまえのパートナーである俺を使って、雅樹さんが国村とアンザイレンを組むんだ」
立ち上がった同じ目の高さから、細い透明な目が瞳見つめてくれる。
見つめながら透明なテノールが、呟くよう訊いてくれた。
「…いいのかよ?だって、おまえ、俺は雅樹さんじゃない、って…」
「今は良いんだ、雅樹さんの涙を心ごとを呑んだからね、」
きれいに笑って軽く英二は頷いた。
「雅樹さんの涙は、この尾根の谷が生んだ風花で出来ている。だから、この尾根に居る間は、効果があるんだ。
この尾根を歩く間の俺は、雅樹さんの心が入っている。槍の頂上を抜けたら、効果は消えるから俺は俺に戻る。いいな、国村?」
これは山っ子が山を罵って創りだした魔法、きっと山の不思議だろう。
そんな不思議が温かで微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「期間限定の魔法なんてさ?シンデレラみたいだね、雅樹さん、」
透明なテノールが、すこしだけ甘えたトーンになって笑ってくれる。
うれしそうな細い目が悪戯っ子に笑って、そして言ってくれた。
「だから俺が王子になってさ、雅樹さんを独標から槍の天辺まで、エスコートするよ?俺の大好きな、アンザイレンパートナーさん」
「うん、よろしくな、光一、」
さらり笑って英二はテノールの声に答えた。
そんな英二に嬉しそうに笑いかけて、国村は英二の左掌をとると右掌と繋いだ。
「行こう、雅樹さん。もう独標まですぐだよ、」
「ああ、すぐだな。この先はね、ちょっとザイル使うよ?気をつけろよ、光一」
笑って答えながら、繋がれた掌の想いが切なかった。
きっと幼い日の国村は雅樹と山に登るとき、よく手を繋いでいたのだろう。
大好きな頼もしい存在と共に山を登っていた、そんな幸せの記憶が今、国村に甦っている。
「雅樹さん、この尾根ってさ?ほんと冬は人がいないね、竜の背中みたいで面白いのにね、」
「うん、バリエーションルートだから、ちょっと難しいんだ。特に冬は気温が低いだろ?」
「冬だから良いのにさ。雪の北鎌は、ほんとうに白銀の竜だよね。雅樹さん、俺たち今、竜の背に乗ってるね、」
尊敬している、兄のよう、心から愛している、大好きだ。
この想いたちが、話すトーンから視線から率直にあふれている。
こんなにもストレートに国村は雅樹を想っている、この存在の喪失は8歳の子供にはどれだけ苦しかったろう?
この切なさを心の底で見つめて英二は、きれいな笑顔で雅樹と笑いながらアイゼンで雪稜を踏みしめた。

(to be continued)
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槍の鉾先をナイフリッジの風が吹き上げる。
青く輝いた中天を突く白銀の点で、2人の山ヤは真直ぐ向き合っていた。
「国村、北鎌尾根を往復縦走しよう。俺たち2人なら、今からの時間で行けるよな?」
さあ一緒に行こう?目で告げながら英二は微笑んだ。
こっちの道を行こうと惹くように、青いウェアの腕を掴む掌に軽く力を入れる。
けれど掴んだ青いウェアの下は、掌を跳ね返すよう強靭な筋肉に力が奔った。
「嫌だね、」
透明なテノールが一言、拒絶した。
拒絶する言葉のとおり細い目は「嫌だね」と告げてくる。
それでも英二はザイルパートナーの目に真直ぐ微笑んだまま、言葉を重ねた。
「北鎌尾根を歩こう、国村。俺と一緒に、独標を見に行こうよ」
「嫌だね、行かないよ、」
明確な拒絶にちいさく笑って、国村は腕を掴まれたまま踵を返した。
それでも英二は掴んだ腕を離さなかった。
「行こうよ、国村。俺は北鎌尾根を歩いてみたいよ?」
告げた言葉にザックを背負う肩が一瞬、揺れた。
けれど振り向かない肩の向うから、透明なテノールは明るい調子で笑った。
「嫌だよ。昨日は俺、勤務だったからね?さっさと雪洞掘って、酒を呑みたいんだ…ほら、行くよ、」
からり笑った声がどこか揺れている。
この揺れが痛々しい、けれど今は一歩も退くわけにいかない。
しっかり青い腕を掴んだまま、国村の正面に英二は回りこんだ。
回りこみ向き合った秀麗な顔はすこし笑って、けれど奥歯を噛みしめている。
行かないよ、嫌だよ
細い目は頑なに告げてくる、噛みしめた口許が断固動かないと無言の雄弁を奮っている。
自分の誘いは、難しいだろうか?そんな疑問と不安が起きかけて、かるく英二は首を振った。
絶対に自分は今、退いてはいけない。なんども見つめた覚悟と一緒に英二は、大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「行こう、国村。雅樹さんの歩いた道を、俺も見てみたい、」
底抜けに明るい目に一閃、大きく感情が閃いた。
「嫌だって言ってるだろ!」
「いいかげんにしろ、国村!」
透明なテノールの叫びに重ねるよう、英二は低い声を鋭鋒に響かせた。
「俺は雅樹さんじゃないんだ!俺は遭難では死なない!」
怒鳴りつけた向う、国村の細い目が大きくなった。
きっと自分は、この友人を心から驚かせただろう。
卒配以来ずっと真面目で冷静と英二は言われてきた、温厚で優しいと誰もが言う。
だから驚かせて当然だろうな?ちょっと可笑しく思いながら英二は、いつもの笑顔になって笑いかけた。
「国村。俺は、宮田英二だよ」
怒鳴られた呆然に細い目が英二を見つめている。
その視線を逸らさずに英二は、おだやかに言葉を続けた。
「たしかに俺は、雅樹さんと似ているな?でも、俺は俺だ。雅樹さんとは違うんだ。
おまえと同じ年で、同じ警察官で後輩で、おまえの友達だ。おまえの恋敵だよ?そして俺は、簡単には死なない。大丈夫だよ、」
大丈夫だよ、そう目で笑いかけた。
けれど大きくなった透明な目は哀しげに瞠って、テノールの声が叫んだ。
「そんなこと解ってるよっ!」
叫んだ声が雪稜の風に薙がれた。
哀しい透明な目は真直ぐに英二を見つめて、哀しいテノールが押し出された。
「おまえは雅樹さんに似てる、でも別人で、俺と同じように登れる、だから大丈夫だって、俺だって思ってたんだよ!
俺のこと冬富士でも救助出来た、おまえなら俺とザイルパートナー組んでも死なない、そう思った…でも、死にかけたじゃないか!」
俺とザイルパートナー組んでも死なない。
この言葉が傷の根源だろうか?穏かに微笑んだまま英二は尋ねた。
「国村とザイルパートナーを組んでも死なない?どういう意味だ、国村」
「言った通りだよ、」
雪風が吹きつけて黒髪を乱す。
ながれる髪のはざまから透明な目が英二を見つめて、叫んだ。
「俺が自分からザイルパートナー組んだ相手はね、みんな死んだんだ!」
叫んだ声が雪風に浚われる。
浚われた声を追うようテノールの声に心が叫びだした。
「マナスルでオヤジとおふくろは死んだ、御岳で田中のじいさんは死んだ。俺が大好きな相手は、皆、山で死んだんだ!
だから!仮のパートナーだけどさあ?後藤のおじさん50歳になって、パートナー解消した時。ほんとは俺、安心したんだよ!
これで、おじさんは死ななくてもイイってさ?4人と比べたら、おじさんには俺、そこまで想っていない。でも不安だっ…
だってさあ?田中のじいさんは、俺とパートナー解消して8年も経ってた、なのに、山で死んじまったんだ!しかも御岳でだっ!
なんであの山で死ぬんだよ!おかしいだろ?!なんで皆、死ぬんだよ?!なんで俺のパートナーは全員、山で死ぬんだよっ!」
ひとつ大きく国村は息を呑んだ。
そしてすぐまた開かれた唇から痛切な叫びがあがった。
「俺とザイルを繋いだ相手は、みんな死んじまったんだよ!その最初が雅樹さんだった!皆、俺の所為かもしれないんだよ!
だから!おまえが遭難したのは、俺の所為だって思っちゃったんだよっ!俺が、おまえとザイルを組んだからだってね!だから嫌だ!」
晴天に風花がどこからか吹きつけだす。
氷の花の舞うなか透明な目から涙あふれて、雫ながす風に声が響いた。
「俺とザイルパートナー組んでいたら、おまえも山で死ぬ?そう思って怖かったんだ、でも、おまえと離れたくないんだよっ…
一緒に山に登っていたいんだ、おまえと最高峰行きたいんだ、だからパートナー解消しない。絶対に一緒にいたい、だから!
おまえが目を覚ました時、ずっと一緒にいろ死ぬなって言った!でも不安なんだよ、だって宮田は、雅樹さんと同じなんだよっ…」
涙に声が呑まれて、言葉が途切れる。
哀しい透明な目を見つめて、おだやかに英二は言った。
「俺は、雅樹さんと同じじゃないよ、」
「同じなんだよっ!」
痛切なテノールが遮って、心沈めた想いを吐き出した。
「俺は、雅樹さんを、生涯のアンザイレンパートナーにしたかったんだ!」
いつも底抜けに明るい目は今、涙に沈みこんでいる。
透明な声は悲痛なままに、声の主から言葉を紡いだ。
「俺の夢だったんだ、大好きなひとと山に、ずっと登りたかったんだ。あのひとを俺は大好きで、憧れて、愛してた。
だから俺は言ったんだよ?まだ8歳のガキだった、でも言った、生涯のアンザイレンパートナーになろう、最高峰行こうって!
そしたら言ってくれたんだ、俺が大人になったら、生涯のパートナー組もうって…ガキの俺と本気で、約束してくれたんだよっ!」
約束、その重みを英二は知っている。自分も愛するひとと多くの約束を結んでいるから。
だから国村の「本気での約束」が破られた痛切が予想できてしまう。
その予想の哀しみに見つめた先で、秀麗な顔が涙に叫んだ。
「でも死んだんだ!俺と約束をしてすぐ、ここに登って、ここで死んじまったんだよっ!俺との約束ごと、雅樹さんは死んだんだ!」
細い目から涙が想いと一緒に溢れていく。
その涙と想いを見つめている英二に、テノールの声は真直ぐに泣いた。
「最初の俺のアンザイレンパートナーは雅樹さんだ!ガキの俺と、本気で最高峰に行く約束をしてくれた、大好きなんだ!
今も大好きなんだ、会いたいんだ!だから俺は、ここにも何度も来たんだよ!俺は、怖いんだよ、悔しいんだよ、寂しいんだよっ!
ここでだ!ここで俺の大好きなアンザイレンパートナーは死んだんだ、だから!だから、おまえをここに登らせたくないんだよっ!」
泣き叫ぶ声が風花に舞い散っていく。
泣きながら国村は掴まれていない右腕を広げて、北鎌尾根への入口を英二から遮った。
「もう、嫌なんだよ!俺のザイルパートナーが死ぬのは、嫌なんだ!ザイル繋いだ4人とも皆、俺を置いて山で死んだんだ!
でも宮田だけは死なせない、絶対に離さない、だから嫌だ!ここは嫌だ!雅樹さんが死んだここは絶対に嫌だ!ここは登らせない!」
広げた右腕の掌が握りしめたピッケルのブレードが陽に光る。
ブレードの先端をかすかに震わせながら、国村は叫んだ。
「ほんとうに、おまえだけなんだよ!俺にはさあ、おまえしかいないんだっ、俺とアンザイレン出来るのは、宮田だけだ!
だから死なせたくない、嫌だ!絶対に離れたくない、死なせたくない、おまえだけは離さない絶対に守って死なせない!ここは嫌だ!」
透明な純粋無垢の瞳が泣いている。
行かせない嫌だと英二に訴えかけて泣いてくれる。
この寄せられる想いが嬉しい、嬉しいまま素直に微笑んで、英二はアンザイレンパートナーに歩み寄った。
「俺のアンザイレンパートナーも、国村だけだよ?友達で、同僚で、大好きで大切だよ、」
「…っ、ぅ」
掛けた言葉に、涙呑む吐息で国村は頷いてくれる。
この大切な友人の想いも哀しみも全て受けとめたい、そして超えさせたい。
この想いに微笑んで、長い腕を伸ばすと国村を抱きしめた。
「雅樹さんは遭難して帰ってこなかった。でも俺は遭難しても帰って来ただろ?大丈夫だよ、国村。俺は死なないよ、だから、」
涙温かな雪白の顔に、そっと英二は頬寄せて微笑んだ。
そして見つめてきた覚悟を言葉へと変えて、おだやかなトーンに告げた。
「俺、北鎌尾根を歩いてくるよ。独標からここまで往復してくる、俺一人でも行きたいんだ」
告げた言葉に、雪白の貌が息を呑んだ。
「…なに、言ってるんだよ?」
驚かれても当然だな?
息呑む驚きと哀しみごと友人を抱きしめて、静かに英二は笑った。
「単独行で行く、そう言っているんだよ?」
このルートを自分だけで無事に往復できるのか?そんな自信は100%あるなんて言えない。
まず北鎌尾根には登山道が無い、そのためルートファインディング能力が必要になる。
そして痩せた尾根は急峻でトラバースルートも際どく、岩登りの装備と技術が要求される。
熟練者にのみ許された完全なバリエーションルート、それが北鎌尾根だった。
まだ自分にとって単独行では難易度が高い、それでも退くわけにいかない。ずっと見つめてきた覚悟に英二は微笑んだ。
「俺もね、雅樹さんが好きなんだ。会ったこと無いけれど、俺と同じ気持ちの人だった、って解るんだよ。
だから、雅樹さんが最後に歩いたところを、俺も歩いてみたいんだ。雅樹さんの想いを、俺はトレースしたい。そして受け留めたいよ」
「…いやだ、」
テノールの声が抵抗を呟いてくれる。
それでも英二は静かに腕を緩めると、そっと青いウェアの長身から離れた。
「俺はね、おまえのアンザイレンパートナーとして警視庁からも認められた男だよ?あの雪崩からも帰ってきた男だ、俺は。
それに俺、周太といっぱい約束があるんだ、そして国村とも約束している。それを全部叶えるまで死ねないんだ、だから大丈夫だよ」
ずっと考えてきた想いを言葉に変えながら、英二は国村の横を通りぬけた。
そして北鎌尾根への入口に佇んで、真直ぐアンザイレンパートナーを見つめて綺麗に笑った。
「約束する、俺は絶対に帰ってくるよ?独標まで行って戻ってくる、そしたら北穂に追いかけるよ。目標は17時だ、」
「無理だ!ダメだ、行くなよ嫌だ!」
青いウェアの腕が伸ばされて、強い掌が深紅のウェアの腕を掴んでくれる。
けれど英二は綺麗に笑って、そっと手頸の関節を押すと軽く掌を外した。
「俺も山ヤだよ、国村?山ヤは自由に山を登るために、努力をする。俺もその努力はしてきたつもりだよ?
この俺の努力を一番よく認めてくれているのは、国村だろ?だったら行かせて欲しい、俺は雅樹さんが見た世界に、立ちたいんだ」
透明に無垢な目が縋るように見つめてくれる。
その目を真直ぐ見つめて、英二は掌を自分のアンザイレンパートナーに伸ばした。
「もう一度だけ、言うよ?俺と一緒に行こう、国村。俺と一緒に雅樹さんのトレースを見に行こう。
そして、雅樹さんと一緒に北鎌尾根から槍の天辺に登ろう?15年前に雅樹さんが途中になったルートの、最後を終わらせよう?」
細い目がゆっくり瞑られて、ひとつ大きく呼吸をする。
そして長い睫が上げられて、涙の中から底抜けに明るい目が真直ぐ英二に笑った。
「うん、一緒に行くよ?俺だけが宮田のアンザイレンパートナだ、一緒の道を登るのは当然だね、」
ひとつ涙こぼして国村は、肩に斜め掛けしたザイルを外した。
その片端を英二が差し出した掌に渡すと、唇の端を挙げて悪戯っ子に微笑んだ。
「ほら、俺の可愛いアンザイレンパートナー?この赤いザイルで俺たち、シッカリ愛を繋ぎ合おうね?」
泣き顔のまま国村は、明るく笑ってくれる。
ひとつめのハードルを超えた自分のパートナーに英二は心から笑った。
「おう、アンザイレンして行こうな?でも、愛は周太だけだよ、」
「無理するなよ、み・や・た。俺のこと、本当は可愛いって思っている癖に、」
「それは大きな誤解か妄想だよ?」
お互い笑いながら手早くシットハーネスと胸部をアンザイレンしていく。
ザイルの調整をして互いに確認し合うと、国村のピッケルが北鎌尾根を指し示した。
「独標まで、一般的なタイムはこの時期、片道6時間ってトコだ。だから俺たちは目標2時間だ。山岳救助隊員なら当たり前だろ?」
「うん、当然だな。俺は、国村のペースに付いていくよ、」
いつもの調子を見せ始めた友人に、素直に英二は微笑んだ。
そんな英二に満足げに目を細めて、愉しげに国村は笑った。
「よし。じゃあ、北鎌尾根をヤリに行こうかね?まず、直下の雪壁下降からだ、」
午前10:18、国村リードで北鎌尾根縦走をスタートした。

数メートルの雪壁を慎重に降り、急峻な斜面が混じる雪稜を下っていく。
先行してくれる青いウェア姿を追いながら、慎重にアイゼンとピッケルを使っていく。
急斜面をザイル確保で降り雪陵を辿っていく、北鎌平を通り細かなアップダウンを越える尾根は痩せていた。
まさに竜の背の鬣を歩いていく、そんな急峻な氷河地形の稜線をアイゼンで踏んで行く。
「ここはさ、夏はザレて浮石も危ないんだ。今の時期だと、その心配はないけどね、」
「冬は寒いけど、落石の怖さは無いよな?」
会話を交わしながら慎重に進んでいく。
稜線に絡むトラバースルートも幅が細い、このルートファインディングは難しい。
けれど国村は迷わずにルートをとって独標を目指していく。
もし単独行だったら、こんなふうに歩けたか解からない。
―早く自分も、こうなりたいな
この前を行く友人でアンザイレンパートナーの、長身のびやかな背には学ぶものが多い。
そんな実感をしながら辿っていく白銀のトレースに、ふっと国村が立ち止った。
止まった背中の雰囲気には、この場所の意味悟るものを感じてしまう。
アンザイレンザイルを手繰り調整して英二は、国村の隣に並んだ。
「国村、」
名前を呼んでも友人の視線は無言のまま、間ノ沢方向を凝視して動かない。
なにも言わず、ただ奈落の哀しみが一点を見つめている。
無言で佇む青いウェア姿を英二は隣から抱きかかえた。
「国村、座ろう?」
白銀に眠る雪の稜線に、英二は抱えた友人ごと座りこんだ。
座りこんでも細い目は真直ぐ一点を見つめている、その雪白の顔を肩に凭れさせて英二は微笑んだ。
「泣けよ、国村。大丈夫だ、俺が抱えているよ?」
「…ん、」
微かな頷きが秀麗な唇から零れた。
頷きに栓切るよう嗚咽が、ネックゲイターの奥から白い喉を震わせ始めた。
「…っ、…ぅ、…ふっ、……っ、う、う…うっ」
嗚咽の響きが徐々に高くなっていく、細い目は涙あふれていく。
そして心からの慟哭が北鎌尾根に謳いあげられた。
「っ、うわああああっ…あっ、あ…ああ!まさきさんっ…!雅樹さん!」
透明なテノールが英二の肩から大きく泣いていく。
そして白銀の竜の背に、山っ子の悲痛な叫びがあがった。
「見てよっ、俺、大人になったんだよ!俺と約束してくれた、あのときの雅樹さんと、同じ年になったんだよ!
雅樹さん!俺、山ヤの警察官になったんだよ…救助隊になったっ…雅樹さんと同じように、山で、レスキューしてんだよっ!」
雪蒼い断崖の底、眠りについた美しい山ヤの医学生へと、山っ子の涙が山風に乗って降り注ぐ。
ここに眠る1人の山ヤへと最高の山ヤの魂が叫び、呼びかけ始めた。
「俺、警視庁でさ…っ、山岳会のエースって、言われてんだ…っ、う、…最高のクライマーになれるって、言われてるんだっ!
見てよ、雅樹さんっ…見てよ!大人になった俺を…雅樹さんのアンザイレンパートナーは、今、最高の山ヤって、言われてるよ!
雅樹さんのこと尊敬してる愛してるよっ…同じレスキューもやってる!だから会いに来てよっ…会いたいんだ、大好きなんだよっ、」
透明な呼び声の哀切は、心に響く。
深紅のウェアの肩を温めていく涙と一緒に、英二の目から涙が零れだす。
ただ静かに頬伝う涙に佇む、この隣に抱えこんだ最高の山ヤは15年の願いを叫んだ。
「約束どおり、ちゃんと大人の山ヤになったよ!だから会いに来てよっ、約束を果たしてよ、俺と山を登ってよ!まさきさん…っ、
会いに来てよ!一度きりで良いから、大人の俺とアンザイレン組んでよ!俺との約束を果たしてよぉ…っ、雅樹さん!まさき、さ…っ」
尽きることの無い涙は、ナイフリッジの風に払われ雪壁に散っていく。
無垢な目は涙の底から真直ぐ雪壁の底一点を見つめて、そして尖峰へと視点を飛ばし叫んだ。
「槍ヶ岳っ、雅樹さんを、返せよっ!…なんで突風なんか吹かせたんだよ!」
透明な目は真直ぐに、槍の鉾先を見据えて泣いている。
そして透明なテノールが大きな慟哭に、山に向かって罵声を飛ばした。
「槍ヶ岳!雅樹さんはミスなんかしていない!おまえが変な風で、無理矢理に浚ったんだっ…返せよぉっ、俺のパートナーを返せ!
槍ヶ岳ぇっ!俺の大好きな人を返せ!愛しているんだ、尊敬してるんだ、大切なひとなんだよぉっ…雅樹さんを返せよっ!…かえせ!」
山を敬愛する国村が、山を罵倒していく。
山っ子と呼ばれ、最高の山ヤの魂を持つと言われる、その国村が山を罵倒していく。
こんなふうに山を怒鳴りつける国村を、英二は初めて見た。
愛する山を罵倒する。
それほどまでに国村にとって、雅樹の存在は大きい。
この存在の大きさの分だけ、愛情が深い分だけ、国村の傷は大きく深く穿たれている。
この傷の哀しみを、どうしたら受けとめられる?
この今共に涙こぼれていく英二の隣から、悲痛な慟哭が雪稜をふるわせ叫びあげた。
「槍ヶ岳ぇっ、雅樹さんを返せ!約束を果たしてよ、雅樹さん!大人になった俺と、山に登ってよ!会いに来てよぉっ、まさきさん!」
透明なテノールの鬼哭が、北鎌尾根を奔りぬけて槍の鉾先を射した。
その瞬間ふっと東風の一陣が吹きこんだ。
そのまま東風は吹き抜けて、北鎌の稜線彼方へ奔っていく。
そして間ノ沢からナイフリッジ昇って、大らかな風と白銀のかけらが雪稜を包んだ。
「…雪?」
白く冷たい花びらが、晴れた空から降ってくる。
ナイフリッジの上昇風に、雪壁の底から雪は空へ舞い昇り、花となって蒼穹高くから降り注ぐ。
大らかな風奔る、真青な空満つに白銀の花びらは輝いた。
「風花、…谷底から…」
透明なテノールの声が呟きこぼして、涙の目が雪の花を見つめている。
白銀の花ふるなか並んで吹かれる風に、ふっと英二は微笑んだ。
「雅樹さんの風だな、」
ゆっくり振向いて、涙の目が英二を見つめてくれる。
すぐ隣の目を見かえして、英二は綺麗に微笑んだ。
「周太に前、教えて貰ったんだ。雪の花って名前の花があるんだけどさ、花言葉が希望と慰めなんだ。
エデンを追われたアダムとイヴを励ますために、天使が雪を変えた花らしい。だからきっとさ、この風花は雅樹さんの励ましだよ」
優しかった雅樹なら、こんなふうに友人を励ますかもしれない。
いまこの谷に眠るひとを想いながら口にした言葉に、透明なテノールが呟くよう言った。
「励まし、希望、か…でも俺、約束を、さ…」
ぽつん、涙がひとつ尾根の雪に融けた。
叶わない約束への諦められない想いと終わらない哀しみが、尽きせぬ涙になっている。
この涙を拭うことは、すべて泣かせて笑顔に変えることは、出来るだろうか?
この願いに英二は右の掌を、白銀ふる青空へと向けた。
―雅樹さん、俺の考えが正しかったら、ここに雪の花をくれますか?
そっと英二は谷に眠るひとへ心裡呼びかけた。
心に祈った想い応えるように風花は、ひとひら英二の掌に舞いおりた。
この雪の花に微笑んで、英二は隣のアンザイレンパートナーに告げた。
「国村、この風花はね、雅樹さんの涙だ。涙は心から生まれる、だからこれは雅樹さんの心だよ、」
「…雅樹さんの、心…」
登山グローブの掌を見つめて、透明なテノールが復唱する。
掌の風花を見つめる泣きはらした目に、英二は笑いかけると掌を口に当てた。
ふっ、と冷たい感触が唇にふれる。
ふれた途端にとけて生まれた水を飲みこんで、綺麗に英二は微笑んだ。
「さあ、行こうか、光一、」
名前を呼ばれた細い目が大きくなる。
「今、なんて呼んだ?」
「光一、って呼んだよ?君の名前だろ?」
さらり笑って英二は、雪白の額を登山グローブの指で小突いた。
抱えた体を起こしながら一緒に立ち上がると、英二は無垢な目に笑いかけた。
「独標に行く、そして槍の頂上に戻る。この間の俺は、雅樹さんだ。いま俺は雅樹さんの心を呑んだ、だから俺の中に雅樹さんがいる」
こんなの子供騙しかもしれない、それでも少しでも傷が癒えたらいい。
この願いを抱いて英二は、アンザイレンパートナーに大らかに笑いかけた。
「俺の中で雅樹さんは、一緒にこのルートを歩くんだ。そして途中になった道を終わらせる、国村と一緒にね。
今から雅樹さんは、国村との約束を叶えるんだよ。おまえのパートナーである俺を使って、雅樹さんが国村とアンザイレンを組むんだ」
立ち上がった同じ目の高さから、細い透明な目が瞳見つめてくれる。
見つめながら透明なテノールが、呟くよう訊いてくれた。
「…いいのかよ?だって、おまえ、俺は雅樹さんじゃない、って…」
「今は良いんだ、雅樹さんの涙を心ごとを呑んだからね、」
きれいに笑って軽く英二は頷いた。
「雅樹さんの涙は、この尾根の谷が生んだ風花で出来ている。だから、この尾根に居る間は、効果があるんだ。
この尾根を歩く間の俺は、雅樹さんの心が入っている。槍の頂上を抜けたら、効果は消えるから俺は俺に戻る。いいな、国村?」
これは山っ子が山を罵って創りだした魔法、きっと山の不思議だろう。
そんな不思議が温かで微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「期間限定の魔法なんてさ?シンデレラみたいだね、雅樹さん、」
透明なテノールが、すこしだけ甘えたトーンになって笑ってくれる。
うれしそうな細い目が悪戯っ子に笑って、そして言ってくれた。
「だから俺が王子になってさ、雅樹さんを独標から槍の天辺まで、エスコートするよ?俺の大好きな、アンザイレンパートナーさん」
「うん、よろしくな、光一、」
さらり笑って英二はテノールの声に答えた。
そんな英二に嬉しそうに笑いかけて、国村は英二の左掌をとると右掌と繋いだ。
「行こう、雅樹さん。もう独標まですぐだよ、」
「ああ、すぐだな。この先はね、ちょっとザイル使うよ?気をつけろよ、光一」
笑って答えながら、繋がれた掌の想いが切なかった。
きっと幼い日の国村は雅樹と山に登るとき、よく手を繋いでいたのだろう。
大好きな頼もしい存在と共に山を登っていた、そんな幸せの記憶が今、国村に甦っている。
「雅樹さん、この尾根ってさ?ほんと冬は人がいないね、竜の背中みたいで面白いのにね、」
「うん、バリエーションルートだから、ちょっと難しいんだ。特に冬は気温が低いだろ?」
「冬だから良いのにさ。雪の北鎌は、ほんとうに白銀の竜だよね。雅樹さん、俺たち今、竜の背に乗ってるね、」
尊敬している、兄のよう、心から愛している、大好きだ。
この想いたちが、話すトーンから視線から率直にあふれている。
こんなにもストレートに国村は雅樹を想っている、この存在の喪失は8歳の子供にはどれだけ苦しかったろう?
この切なさを心の底で見つめて英二は、きれいな笑顔で雅樹と笑いながらアイゼンで雪稜を踏みしめた。

(to be continued)
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