Shall e’er prevail against us, or disturb
第69話 山塊act.7-side story「陽はまた昇る」
遠い、けれど微かにも唸りだす。
白い闇の彼方に遠雷は産声あげる、その咆哮は小さく続きだす。
もう間もなく雨が降る、そんな観天望気に風は頬を冷やして吹き下ろす。
「もうじき来るな、」
「だね、オマエの予報的中だよ、」
からり笑って応えながら明るい瞳は岩陰を透かし、空を見あげる。
大きく張り出す岩の向うは霧が深い、この水蒸気が全て地に墜ちるだろう。
そんな思案と見つめる視界の先、白い礫ひとつ遮って下草を弾かせ鳴った。
からん、
小さな音、けれど追ってまた白い礫は落ち跳ねる。
そして続けざまの衝突音たちに氷の雫は豪雨と降りだした。
「やっぱ降雹になったねえ、ビバークこの辺にしといて正解だったね、」
軽やかなトーンが響く岩場の空間、光一は両脚の間隔を狭めて腰を下ろした。
地には座らずしゃがんだ姿勢で頬杖つく、その隣に英二も同じよう腰下し腕組んだ。
避雷の基本姿勢は両足を揃えてしゃがみ両耳を指で塞ぐ、もし地に臥すと体内を誘導電流が分流して死亡事故に至る。
それに則りしゃがんだ岩窟はオーバーハングが深く降雹や雷撃からも護られやすい、そんな地の利からも思案が廻ってしまう。
―みんなも避けられているかな、降りだすまで時間は少しあったけど霧が濃いだけ、動きも
この降雹も30分程で止むだろう、けれど落雷の可能性が高い。
濃霧とはいえ穏やかだった山は急転して雹と雨音に叩きつけられてゆく。
こうした天候変化は珍しいことじゃない、それでも昨秋に本仁田山で聴いた言葉が浮んでしまう。
―…ここの雷撃死現場は標高920mあたりでした…どうやら地形や天候の条件もあるようですね。
春先の陽射から一転して集中豪雨になりました、寒冷前線が通過したわけです…空には積乱雲が発生して…
八王子で5ミリ位の雹が降りました…こうした気象条件では雷撃死の他には、低体温症や心臓発作も誘発されやすい
あのとき吉村医師が教えてくれた事例は春、4月26日に発生した界雷による事故だった。
今は秋、事例とは違う季節で濃霧の差はある、けれど急転と降雹は同じ気象状態だと考えた方が良い。
そうすると吉村が言った可能性を考えなくてはならないだろう、そんな思案と見つめる岩の軒先に咆哮が響いた。
「鳴りだしたね、」
低く笑って光一は右耳へ指を入れ塞いだ。
それに倣って英二も左耳を塞いで公務から尋ねた。
「国村さん、どの隊員もビバークポイント近くに落雷の安全圏はありますよね?」
雷鳴が聴こえれば既に落雷の危険域、豪雨が始まってからの退避は逃げ遅れになる。
積乱雲が見えたら安全圏に避難することが一番良い、けれど山では安全確保が難しい場所もある。
それでも隊員たち全員は大丈夫なはず、その思案に山育ちの山岳レンジャー小隊長は明朗で応えてくれた。
「こういう岩場か送電鉄塔やデッカイ木があるね、全員が解かってルート採ってるよ、」
山での落雷における安全圏は今居るような大きく張り出した岩陰や洞窟の奥、ただし酸欠に注意する。
次に、5%以内の危険はあるが比較的安全な場所は、5~30mの樹木頂点へ迎角45度の地点が保護範囲となる。
30m以上の樹木なら半径30m以内全域、これら樹木の場合はいずれも張りだす枝先から4m以上離れる必要がある。
送電鉄塔なら2m離れた所が保護範囲とされ、逆に5m未満の樹木や岩の周辺は保護範囲が無く側撃雷による死亡事故が多い。
そのため山頂や尾根上など疎林地帯は保護範囲が無く危険度高、テントもポールへ落雷して側撃電流に遭う可能性が強い。
こうした条件が落雷の安全確保にはある、そんな基礎知識を初めて現場に見つめながら英二は先輩かつ上官に尋ねた。
「どのチームも保護圏内の確保は出来そうですか?」
「だね、その辺も昨日チェックしたし、全員プロだしさ?」
からり笑って応えてくれる笑顔は2ヶ月前より頼もしい。
元から光一は簡単に動じない強靭がある、そこにまた責務と立場で研かれたのだろう。
―この1ヵ月半で変ったんだな、光一は…周太も、
思案にまた俤ひとつ浮んで、今、どうしているか偲ばれる。
自分は奥多摩山中の雹と雷鳴に囲まれて、この同じ東京の空でも周太は別世界に佇む。
さほど遠くは無い場所、けれど違い過ぎる今この瞬間の現実にため息吐いた口許、ふっと異様な味に小さく叫んだ。
「…来るぞ!」
落雷の起きる直前、地電位変化で口中に異常な味を感じることがある。
または髪の逆立ち、皮膚の突っ張り感が奔るなど体感に兆すケースも少なくない。
そんな一つの発生に両耳とも塞いで瞳を閉じる、そのとき咆哮が天墜ちて轟いた。
―落雷だ、
意識に単語が映るまま電撃音は皮膚から震わせ轟く。
振動する大気に雷鳴は次を降らす、その連続音が谺に山を共鳴する。
樹幹を震わす振動は地鳴るようで霹靂のフラッシュが瞑った視界にすら蒼い。
音と光の影が交錯してゆく時間にしゃがみこんで通過を待つ、その隣すぐ透明な声が呟いた。
「…山が吼えてるね、季が動く、」
本当に今、山が吼えている。
雷鳴、地鳴り、閉じた視界すら紫閃いて轟音が砕ける。
岩洞に護られた空間は仄暗い、けれど光も音も振動すら五感を貫く。
もうじき山に生き始めて一年、雷雲のさ中は初めての経験に全身が敲かれる。
―雷ってこんなに振動を起こすんだ、光も音も、雹まで、
視覚、聴覚、触覚、味覚すら地電位変化で変えられた。
地を敲く降雹と雷電は空と山の咆哮、そんな納得に肚底から揺すぶられる。
こんな荒天でも山岳レスキューに生きる限り登らざるを得ない現場もある、だから今ここに居る。
個人的に山行するだけなら悪天候を知りながら登るなどしない、遭難のリスクが高すぎる。
だから天気図を読む技術は山ヤにとって重要で、この荒天も予測の裡だった。
けれど山岳救助を公務に就く自分たちは荒天こそ山と人に呼ばれる。
―こういう現場でも駆ける時が来るかもしれない、今も、
雷撃音と雹瀑の飛沫が今、山を雷雲に包んで轟かす。
こんな時には誰もが動けない、人間だけじゃ無く野生獣すら避けて隠れる。
こんなふうに山懐は生きる命の全てを平等にしてしまう、こんなことも昨春の自分は知らなかった。
けれど今こうして五感全てに知ることが出来る、そして山岳レスキューにある心が肚にまた坐ってゆく。
「…よかったな、俺、」
独り言に微笑んで今、こんな時間にすら感謝が温かい。
術無くうずくまるだけ、そんな自分の等身大を今知らされて良かった、そう温かい。
今10分ほど前は「あの男」に対する怒りと哀切に裁断の傲慢があった、それすら霹靂の前には小さい。
―人間のやってることなんて小さいな、だから余計に肚立つんだ、俺は、
ことん、憎悪の納得と謙虚が静かなままに坐ってゆく。
馨も晉も山を愛していた、英国生活でも登山したと祖母へのエアメールで読んだ。
そんな馨だから山雷も遭ったと日記は記憶を遺して、そのとき隣に居たのは田嶋教授だったと今は解かる。
山を愛し文学を愛した二人は悪天候の時すら援けあえるパートナーだった、けれどアンザイレンを一人の男に裂かれた。
―あの男はこんな世界も知らない、全て知った貌の正義面して、
法の正義、
そんな人間的都合が晉と馨の人生を捕え、利用して、殺した。
それが小さい事だったと今こんな時間にこそ思い知らされて、行き場を失くして、苦しい。
だからこそ熾きてゆく冷酷を宥めるよう雷鳴は間隙を広くしながら降雹から雨音へ変わりだす。
もう口中は無味に戻り皮膚感覚も治まる、そして音も閃光も消えて開いた視界にテノールが笑った。
「雷サン行っちゃったね、イイ避雷訓練になっちゃったな、英二?」
いつもの明るいトーンに、ほっと肩の力が抜かれてくれる。
それでも岩陰の薄暮、底抜けに明るい目が覗きこんでパートナーは訊いてくれた。
「おまえ、雷サン鳴ってる間ずっと考えこんでたね?セッカクお初訓練なのにさ、」
「当り、ごめんな、」
見抜かれたな?
そんな素直な感想に微笑んで英二は立ち上がった。
隣も一緒に立ちあがり、くるり首ひとめぐり回すと真直ぐ明眸が笑ってくれた。
「あの男に怒ってたね?山を好いてくれてた晉サンと馨サンの為にさ、」
「うん、ごめん、」
逆らわず認めて微笑んだ肩を、ぽん、掌ひとつ敲かれた。
いつもどおり軽やかな仕草にまた力は抜かれてくれる、そんな想いに山っ子が微笑んだ。
「よし、ちょっと目つき治ったね?巡回行くよ、」
「そんなに俺、目つき変?」
訊き返しながら岩洞を出た視界、薄陽が瞳を細めさす。
降雹と豪雨に霧は解かれて、遅い太陽が雲透かして雫を輝かせる。
水きらめく梢から光が揺れて降る、その瑞々しさに微笑んだ隣から頬小突かれた。
「やっと別嬪笑顔になったね?さっきまで美貌の死神って貌してたよ、ホント麗しの魔王ってカンジ、」
死神、そんな表現に納得してしまう。
確かに自分の思考はそんな状態だった、そう認めて英二は笑った。
「そうだな、ちょっと死神だったと思うよ、俺、」
「ふん、気持は解かるけど思い詰めすぎないでね、」
さらり笑ってくれながら肩並べて歩いてくれる。
登山靴ゆれる木洩陽に山が晴れてゆく、その陽光に樹木も草も雫の光が充ちる。
はたり、零れる水滴から太陽のかけら輝いて今この瞬間が明るい、そんな光景に祈りたくなる。
―ここに連れてきてあげたい、必ず…周太、
あのひとを今、この瞬間に攫って来られるなら良いのに?
樹木を愛する人だから今、この瑞々しい光の時を見たら笑ってくれる。
水満ちる大気に息吹する木肌、滴らす雫に彩らす梢、光揺らす葉ひとつずつ。
いま呼吸する口許にすら香も光も澄んで優しい、この時間に佇んだ笑顔をただ見つめたい。
そう願うけれど今は叶わないと知っている、それを本人が望まないことも解かっている、だから哀しい。
「ほらっ、ボケッとしない!足場が緩いからね、」
また隣から声かけられて英二は足を止めた。
振り向いて見つめた真中、底抜けに明るい目が真直ぐ笑ってくれる。
その眼差しにある優しい厳しさに呼吸ひとつ笑って、平手一発また自分の頬を撃った。
ぱんっ、
小気味良い音が樹間を響いて意識が徹る。
軽く振った頭のクリアに英二は綺麗に笑った。
「ごめん、気合い入れたから大丈夫、」
「よし、ちゃんと山ヤの貌に戻ったね、行くよ、」
ぽん、また軽く肩叩いてくれながら並んで歩きだす。
たった30分ほど、けれど充たされた水分に山の土は軟らかい。
こんなとき滑落の危険が高くなる、そんな思案に歩く道すがら異臭が突いて声が出た。
「焦げ臭い、落雷この近くじゃないか?」
苦く、饐えた炭化臭が感覚を捕えてくる。
濡れた焚き木を燃やす香と同じ匂い、その臭気に鋭くテノールが言った。
「あそこだ!」
声に振り向いた尾根近く、蒼くかすかに燻り昇る。
あれは煙だ、そう認識した隣から救助隊服姿は駆けだして英二も続いた。
―火だけは熾きないでくれ、
落雷で山火事が起きることがある。
もし早期鎮火が出来なければ山ひとつ焼尽するかもしれない。
特に、道路も無い山深いポイントで出火すれば消防自動車も容易く入れず、鎮火は遅れる。
そうなる前に早く火を鎮めることが山火事を防ぐ、その知識に駆ける前を長身の背中は速い。
―山火事なんて光一は大嫌いだろうな、農業と登山の両方で、
山っ子、そう呼ばれている光一は兼業農家の警察官でいる。
その農作は奥多摩らしく山地の梅畑も含まれて、当然、山火事は忌避事項だろう。
なにより山火事は大樹をその星霜ごと灰燼に滅ぼす、そんなことを山っ子は赦せない。
その気持ちは自分も他人事じゃない、山ヤで山岳レスキューである一人として山を護りたい。
そして森林学に夢追う人を知っている、その人が今立つ場所を想うほど尚更に大樹も若木も護りたい。
―周太に見せたい、この山をこのまま見せたい、もう俺の故郷だから、
もう奥多摩は自分の故郷、そう肚から全身が想って走る。
ここで生きた時間は未だ一年に満たない、けれど心ひとつ抱いて登山ザックの背を追い駆ける。
その視界に蒼い煙の根元を捕えて、英二は腰しばった青いウィンドブレーカーを解き左腕に巻いた。
駆け寄った幹は裂かれ折られた底に朱いろ燻ぶらす、そこに濡れたウィンドブレーカーごと左拳を突っ込んだ。
「英二!」
至近距離すぐテノールが叫んで肩から抱きついた。
がっしり左上腕が抱えこまれて、けれど深めた拳に山っ子が怒鳴った。
「やめろっ!拳がダメになる無茶すんなっ、やめろ英二!」
怒鳴りながら強い力で引き離そうとしてくれる。
その声に腕に叫んでくれる通りだろう、けれど動かず英二は拳に叫んだ。
「消えろ!」
じりっ、左中指に痛覚が刺して人差指に広がる。
それでも抜かずに英二は煙見つめたまま怒鳴った。
「光一、このまま水掛けろ!」
「もうやるよっ!」
怒鳴り声返ってすぐ大型水筒からざぶり注がれる。
青い布ごと水濡れてゆく、冷感が腕を落ちて拳に透りだす。
冷たい、そう中指まで感じた時もう肌全てから火の気配は消えた。
「…消えた、」
ため息ごと拳をそっと抜いて、幹の中を目視する。
もう緋色は見えず煙すら居ない、それを確認して微笑んだ途端に左腕を掴まれた。
「馬鹿野郎っ!ナニ無茶やってんだよっ、ザイル握れなくなったらどうすんだ馬鹿っ!」
怒鳴り声に叩かれて見つめた真中、雪白の貌が唇噛んでいる。
この貌は青と白の世界、アイガー北壁で起きたオーバーハングの風にも見た。
あのとき知った感情と体感を想いながら英二は腰下し、ザイルパートナーに笑いかけた。
「ごめん、でも山火事なんて嫌だったんだ、もう奥多摩は俺のふるさとだから、」
笑って左腕を掴む手に手を重ねて、そっと引き離す。
そのまま解く青い生地は拳の先から黒く毀れて炭化が落ちる。
やっぱり山火はウィンドブレーカーを焼いてしまった、その予想に笑って全て布解く。
そして現れた登山グローブ嵌めた左拳の真中、中指と人差指の布は崩れて素肌が覗いた。
「光一、大丈夫だ、ほら?」
ゆっくり拳開きながら笑いかけた前、透明な瞳が拳を見つめてくれる。
竦んだ長い睫ゆっくり瞬かせて、底抜けに明るい目が安堵ごと笑った。
「大丈夫ってもね、赤くなってんよ?さっさと手当しちまいな、その間に俺は無事確認やっちゃうからさ、」
言いながら背後にまわり登山ザックからケースを出し、渡してくれると光一は無線を始めた。
渡してくれた救急用具ケースは遣い始めてじき一年になる、これを贈ってくれた医師の笑顔が懐かしい。
まだ一年も経っていない、それでも遠いほど多く見つめた時間たちごと開いたケースに幾つもの器具は並ぶ。
どれも遣いなれた自分の大切な救命道具たち、けれど、禁じられた部品たちも沈黙のまま共に納まっている。
“ Mon pistolet ” 私の拳銃
そう晉が記した一つの銃火器は今、分解されてケースの中に眠っている。
Walther P38と呼ばれる太平洋戦争の遺物、これを晉は戦後も一度だけ遣ってしまった。
そして生まれた連鎖は晉も馨も捕えこんで今、その根源に周太は独り立って向き合おうとしている。
だから想ってしまう、この拳銃があの日あの場所に存在していなかったなら今、誰もが幸せだったかもしれない。
だからこそいつか再び、これを組み立てる時が自分に訪れる?
―必ずケリ着ける事になるんだろうな、あの男なら、
未だ会ったことの無い男、自分の標的物は今、どこで何を想うだろう?
彼は自分の存在を少しだけは知って、けれど正体は未だ知らず安閑と高を括っている。
きっと自身の才能と運に揺るがないまま連鎖の成功を疑わない、そして、正義だと信じ込んで聳やかす。
それでも、いつか真実を知った時どんな貌をするだろう?そんな思案に微笑んで英二は感染防止用グローブを右手に嵌めた。
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」】
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第69話 山塊act.7-side story「陽はまた昇る」
遠い、けれど微かにも唸りだす。
白い闇の彼方に遠雷は産声あげる、その咆哮は小さく続きだす。
もう間もなく雨が降る、そんな観天望気に風は頬を冷やして吹き下ろす。
「もうじき来るな、」
「だね、オマエの予報的中だよ、」
からり笑って応えながら明るい瞳は岩陰を透かし、空を見あげる。
大きく張り出す岩の向うは霧が深い、この水蒸気が全て地に墜ちるだろう。
そんな思案と見つめる視界の先、白い礫ひとつ遮って下草を弾かせ鳴った。
からん、
小さな音、けれど追ってまた白い礫は落ち跳ねる。
そして続けざまの衝突音たちに氷の雫は豪雨と降りだした。
「やっぱ降雹になったねえ、ビバークこの辺にしといて正解だったね、」
軽やかなトーンが響く岩場の空間、光一は両脚の間隔を狭めて腰を下ろした。
地には座らずしゃがんだ姿勢で頬杖つく、その隣に英二も同じよう腰下し腕組んだ。
避雷の基本姿勢は両足を揃えてしゃがみ両耳を指で塞ぐ、もし地に臥すと体内を誘導電流が分流して死亡事故に至る。
それに則りしゃがんだ岩窟はオーバーハングが深く降雹や雷撃からも護られやすい、そんな地の利からも思案が廻ってしまう。
―みんなも避けられているかな、降りだすまで時間は少しあったけど霧が濃いだけ、動きも
この降雹も30分程で止むだろう、けれど落雷の可能性が高い。
濃霧とはいえ穏やかだった山は急転して雹と雨音に叩きつけられてゆく。
こうした天候変化は珍しいことじゃない、それでも昨秋に本仁田山で聴いた言葉が浮んでしまう。
―…ここの雷撃死現場は標高920mあたりでした…どうやら地形や天候の条件もあるようですね。
春先の陽射から一転して集中豪雨になりました、寒冷前線が通過したわけです…空には積乱雲が発生して…
八王子で5ミリ位の雹が降りました…こうした気象条件では雷撃死の他には、低体温症や心臓発作も誘発されやすい
あのとき吉村医師が教えてくれた事例は春、4月26日に発生した界雷による事故だった。
今は秋、事例とは違う季節で濃霧の差はある、けれど急転と降雹は同じ気象状態だと考えた方が良い。
そうすると吉村が言った可能性を考えなくてはならないだろう、そんな思案と見つめる岩の軒先に咆哮が響いた。
「鳴りだしたね、」
低く笑って光一は右耳へ指を入れ塞いだ。
それに倣って英二も左耳を塞いで公務から尋ねた。
「国村さん、どの隊員もビバークポイント近くに落雷の安全圏はありますよね?」
雷鳴が聴こえれば既に落雷の危険域、豪雨が始まってからの退避は逃げ遅れになる。
積乱雲が見えたら安全圏に避難することが一番良い、けれど山では安全確保が難しい場所もある。
それでも隊員たち全員は大丈夫なはず、その思案に山育ちの山岳レンジャー小隊長は明朗で応えてくれた。
「こういう岩場か送電鉄塔やデッカイ木があるね、全員が解かってルート採ってるよ、」
山での落雷における安全圏は今居るような大きく張り出した岩陰や洞窟の奥、ただし酸欠に注意する。
次に、5%以内の危険はあるが比較的安全な場所は、5~30mの樹木頂点へ迎角45度の地点が保護範囲となる。
30m以上の樹木なら半径30m以内全域、これら樹木の場合はいずれも張りだす枝先から4m以上離れる必要がある。
送電鉄塔なら2m離れた所が保護範囲とされ、逆に5m未満の樹木や岩の周辺は保護範囲が無く側撃雷による死亡事故が多い。
そのため山頂や尾根上など疎林地帯は保護範囲が無く危険度高、テントもポールへ落雷して側撃電流に遭う可能性が強い。
こうした条件が落雷の安全確保にはある、そんな基礎知識を初めて現場に見つめながら英二は先輩かつ上官に尋ねた。
「どのチームも保護圏内の確保は出来そうですか?」
「だね、その辺も昨日チェックしたし、全員プロだしさ?」
からり笑って応えてくれる笑顔は2ヶ月前より頼もしい。
元から光一は簡単に動じない強靭がある、そこにまた責務と立場で研かれたのだろう。
―この1ヵ月半で変ったんだな、光一は…周太も、
思案にまた俤ひとつ浮んで、今、どうしているか偲ばれる。
自分は奥多摩山中の雹と雷鳴に囲まれて、この同じ東京の空でも周太は別世界に佇む。
さほど遠くは無い場所、けれど違い過ぎる今この瞬間の現実にため息吐いた口許、ふっと異様な味に小さく叫んだ。
「…来るぞ!」
落雷の起きる直前、地電位変化で口中に異常な味を感じることがある。
または髪の逆立ち、皮膚の突っ張り感が奔るなど体感に兆すケースも少なくない。
そんな一つの発生に両耳とも塞いで瞳を閉じる、そのとき咆哮が天墜ちて轟いた。
―落雷だ、
意識に単語が映るまま電撃音は皮膚から震わせ轟く。
振動する大気に雷鳴は次を降らす、その連続音が谺に山を共鳴する。
樹幹を震わす振動は地鳴るようで霹靂のフラッシュが瞑った視界にすら蒼い。
音と光の影が交錯してゆく時間にしゃがみこんで通過を待つ、その隣すぐ透明な声が呟いた。
「…山が吼えてるね、季が動く、」
本当に今、山が吼えている。
雷鳴、地鳴り、閉じた視界すら紫閃いて轟音が砕ける。
岩洞に護られた空間は仄暗い、けれど光も音も振動すら五感を貫く。
もうじき山に生き始めて一年、雷雲のさ中は初めての経験に全身が敲かれる。
―雷ってこんなに振動を起こすんだ、光も音も、雹まで、
視覚、聴覚、触覚、味覚すら地電位変化で変えられた。
地を敲く降雹と雷電は空と山の咆哮、そんな納得に肚底から揺すぶられる。
こんな荒天でも山岳レスキューに生きる限り登らざるを得ない現場もある、だから今ここに居る。
個人的に山行するだけなら悪天候を知りながら登るなどしない、遭難のリスクが高すぎる。
だから天気図を読む技術は山ヤにとって重要で、この荒天も予測の裡だった。
けれど山岳救助を公務に就く自分たちは荒天こそ山と人に呼ばれる。
―こういう現場でも駆ける時が来るかもしれない、今も、
雷撃音と雹瀑の飛沫が今、山を雷雲に包んで轟かす。
こんな時には誰もが動けない、人間だけじゃ無く野生獣すら避けて隠れる。
こんなふうに山懐は生きる命の全てを平等にしてしまう、こんなことも昨春の自分は知らなかった。
けれど今こうして五感全てに知ることが出来る、そして山岳レスキューにある心が肚にまた坐ってゆく。
「…よかったな、俺、」
独り言に微笑んで今、こんな時間にすら感謝が温かい。
術無くうずくまるだけ、そんな自分の等身大を今知らされて良かった、そう温かい。
今10分ほど前は「あの男」に対する怒りと哀切に裁断の傲慢があった、それすら霹靂の前には小さい。
―人間のやってることなんて小さいな、だから余計に肚立つんだ、俺は、
ことん、憎悪の納得と謙虚が静かなままに坐ってゆく。
馨も晉も山を愛していた、英国生活でも登山したと祖母へのエアメールで読んだ。
そんな馨だから山雷も遭ったと日記は記憶を遺して、そのとき隣に居たのは田嶋教授だったと今は解かる。
山を愛し文学を愛した二人は悪天候の時すら援けあえるパートナーだった、けれどアンザイレンを一人の男に裂かれた。
―あの男はこんな世界も知らない、全て知った貌の正義面して、
法の正義、
そんな人間的都合が晉と馨の人生を捕え、利用して、殺した。
それが小さい事だったと今こんな時間にこそ思い知らされて、行き場を失くして、苦しい。
だからこそ熾きてゆく冷酷を宥めるよう雷鳴は間隙を広くしながら降雹から雨音へ変わりだす。
もう口中は無味に戻り皮膚感覚も治まる、そして音も閃光も消えて開いた視界にテノールが笑った。
「雷サン行っちゃったね、イイ避雷訓練になっちゃったな、英二?」
いつもの明るいトーンに、ほっと肩の力が抜かれてくれる。
それでも岩陰の薄暮、底抜けに明るい目が覗きこんでパートナーは訊いてくれた。
「おまえ、雷サン鳴ってる間ずっと考えこんでたね?セッカクお初訓練なのにさ、」
「当り、ごめんな、」
見抜かれたな?
そんな素直な感想に微笑んで英二は立ち上がった。
隣も一緒に立ちあがり、くるり首ひとめぐり回すと真直ぐ明眸が笑ってくれた。
「あの男に怒ってたね?山を好いてくれてた晉サンと馨サンの為にさ、」
「うん、ごめん、」
逆らわず認めて微笑んだ肩を、ぽん、掌ひとつ敲かれた。
いつもどおり軽やかな仕草にまた力は抜かれてくれる、そんな想いに山っ子が微笑んだ。
「よし、ちょっと目つき治ったね?巡回行くよ、」
「そんなに俺、目つき変?」
訊き返しながら岩洞を出た視界、薄陽が瞳を細めさす。
降雹と豪雨に霧は解かれて、遅い太陽が雲透かして雫を輝かせる。
水きらめく梢から光が揺れて降る、その瑞々しさに微笑んだ隣から頬小突かれた。
「やっと別嬪笑顔になったね?さっきまで美貌の死神って貌してたよ、ホント麗しの魔王ってカンジ、」
死神、そんな表現に納得してしまう。
確かに自分の思考はそんな状態だった、そう認めて英二は笑った。
「そうだな、ちょっと死神だったと思うよ、俺、」
「ふん、気持は解かるけど思い詰めすぎないでね、」
さらり笑ってくれながら肩並べて歩いてくれる。
登山靴ゆれる木洩陽に山が晴れてゆく、その陽光に樹木も草も雫の光が充ちる。
はたり、零れる水滴から太陽のかけら輝いて今この瞬間が明るい、そんな光景に祈りたくなる。
―ここに連れてきてあげたい、必ず…周太、
あのひとを今、この瞬間に攫って来られるなら良いのに?
樹木を愛する人だから今、この瑞々しい光の時を見たら笑ってくれる。
水満ちる大気に息吹する木肌、滴らす雫に彩らす梢、光揺らす葉ひとつずつ。
いま呼吸する口許にすら香も光も澄んで優しい、この時間に佇んだ笑顔をただ見つめたい。
そう願うけれど今は叶わないと知っている、それを本人が望まないことも解かっている、だから哀しい。
「ほらっ、ボケッとしない!足場が緩いからね、」
また隣から声かけられて英二は足を止めた。
振り向いて見つめた真中、底抜けに明るい目が真直ぐ笑ってくれる。
その眼差しにある優しい厳しさに呼吸ひとつ笑って、平手一発また自分の頬を撃った。
ぱんっ、
小気味良い音が樹間を響いて意識が徹る。
軽く振った頭のクリアに英二は綺麗に笑った。
「ごめん、気合い入れたから大丈夫、」
「よし、ちゃんと山ヤの貌に戻ったね、行くよ、」
ぽん、また軽く肩叩いてくれながら並んで歩きだす。
たった30分ほど、けれど充たされた水分に山の土は軟らかい。
こんなとき滑落の危険が高くなる、そんな思案に歩く道すがら異臭が突いて声が出た。
「焦げ臭い、落雷この近くじゃないか?」
苦く、饐えた炭化臭が感覚を捕えてくる。
濡れた焚き木を燃やす香と同じ匂い、その臭気に鋭くテノールが言った。
「あそこだ!」
声に振り向いた尾根近く、蒼くかすかに燻り昇る。
あれは煙だ、そう認識した隣から救助隊服姿は駆けだして英二も続いた。
―火だけは熾きないでくれ、
落雷で山火事が起きることがある。
もし早期鎮火が出来なければ山ひとつ焼尽するかもしれない。
特に、道路も無い山深いポイントで出火すれば消防自動車も容易く入れず、鎮火は遅れる。
そうなる前に早く火を鎮めることが山火事を防ぐ、その知識に駆ける前を長身の背中は速い。
―山火事なんて光一は大嫌いだろうな、農業と登山の両方で、
山っ子、そう呼ばれている光一は兼業農家の警察官でいる。
その農作は奥多摩らしく山地の梅畑も含まれて、当然、山火事は忌避事項だろう。
なにより山火事は大樹をその星霜ごと灰燼に滅ぼす、そんなことを山っ子は赦せない。
その気持ちは自分も他人事じゃない、山ヤで山岳レスキューである一人として山を護りたい。
そして森林学に夢追う人を知っている、その人が今立つ場所を想うほど尚更に大樹も若木も護りたい。
―周太に見せたい、この山をこのまま見せたい、もう俺の故郷だから、
もう奥多摩は自分の故郷、そう肚から全身が想って走る。
ここで生きた時間は未だ一年に満たない、けれど心ひとつ抱いて登山ザックの背を追い駆ける。
その視界に蒼い煙の根元を捕えて、英二は腰しばった青いウィンドブレーカーを解き左腕に巻いた。
駆け寄った幹は裂かれ折られた底に朱いろ燻ぶらす、そこに濡れたウィンドブレーカーごと左拳を突っ込んだ。
「英二!」
至近距離すぐテノールが叫んで肩から抱きついた。
がっしり左上腕が抱えこまれて、けれど深めた拳に山っ子が怒鳴った。
「やめろっ!拳がダメになる無茶すんなっ、やめろ英二!」
怒鳴りながら強い力で引き離そうとしてくれる。
その声に腕に叫んでくれる通りだろう、けれど動かず英二は拳に叫んだ。
「消えろ!」
じりっ、左中指に痛覚が刺して人差指に広がる。
それでも抜かずに英二は煙見つめたまま怒鳴った。
「光一、このまま水掛けろ!」
「もうやるよっ!」
怒鳴り声返ってすぐ大型水筒からざぶり注がれる。
青い布ごと水濡れてゆく、冷感が腕を落ちて拳に透りだす。
冷たい、そう中指まで感じた時もう肌全てから火の気配は消えた。
「…消えた、」
ため息ごと拳をそっと抜いて、幹の中を目視する。
もう緋色は見えず煙すら居ない、それを確認して微笑んだ途端に左腕を掴まれた。
「馬鹿野郎っ!ナニ無茶やってんだよっ、ザイル握れなくなったらどうすんだ馬鹿っ!」
怒鳴り声に叩かれて見つめた真中、雪白の貌が唇噛んでいる。
この貌は青と白の世界、アイガー北壁で起きたオーバーハングの風にも見た。
あのとき知った感情と体感を想いながら英二は腰下し、ザイルパートナーに笑いかけた。
「ごめん、でも山火事なんて嫌だったんだ、もう奥多摩は俺のふるさとだから、」
笑って左腕を掴む手に手を重ねて、そっと引き離す。
そのまま解く青い生地は拳の先から黒く毀れて炭化が落ちる。
やっぱり山火はウィンドブレーカーを焼いてしまった、その予想に笑って全て布解く。
そして現れた登山グローブ嵌めた左拳の真中、中指と人差指の布は崩れて素肌が覗いた。
「光一、大丈夫だ、ほら?」
ゆっくり拳開きながら笑いかけた前、透明な瞳が拳を見つめてくれる。
竦んだ長い睫ゆっくり瞬かせて、底抜けに明るい目が安堵ごと笑った。
「大丈夫ってもね、赤くなってんよ?さっさと手当しちまいな、その間に俺は無事確認やっちゃうからさ、」
言いながら背後にまわり登山ザックからケースを出し、渡してくれると光一は無線を始めた。
渡してくれた救急用具ケースは遣い始めてじき一年になる、これを贈ってくれた医師の笑顔が懐かしい。
まだ一年も経っていない、それでも遠いほど多く見つめた時間たちごと開いたケースに幾つもの器具は並ぶ。
どれも遣いなれた自分の大切な救命道具たち、けれど、禁じられた部品たちも沈黙のまま共に納まっている。
“ Mon pistolet ” 私の拳銃
そう晉が記した一つの銃火器は今、分解されてケースの中に眠っている。
Walther P38と呼ばれる太平洋戦争の遺物、これを晉は戦後も一度だけ遣ってしまった。
そして生まれた連鎖は晉も馨も捕えこんで今、その根源に周太は独り立って向き合おうとしている。
だから想ってしまう、この拳銃があの日あの場所に存在していなかったなら今、誰もが幸せだったかもしれない。
だからこそいつか再び、これを組み立てる時が自分に訪れる?
―必ずケリ着ける事になるんだろうな、あの男なら、
未だ会ったことの無い男、自分の標的物は今、どこで何を想うだろう?
彼は自分の存在を少しだけは知って、けれど正体は未だ知らず安閑と高を括っている。
きっと自身の才能と運に揺るがないまま連鎖の成功を疑わない、そして、正義だと信じ込んで聳やかす。
それでも、いつか真実を知った時どんな貌をするだろう?そんな思案に微笑んで英二は感染防止用グローブを右手に嵌めた。
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」】
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