Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
第70話 樹守act.7―another,side story「陽はまた昇る」
月の輪郭すら見える、そんな三日月に空を仰ぐ。
墨色やわらかな天穹は風を吹きおろして額の髪を揺らす、その頭上は星の梢が揺れる。
庭へ繁れる楓たちに三日の明月から光ふらす、そして月光きらめく楓は星になり夜に輝ける。
星ふる葉は楓、木洩月ゆれる星雫、星たちの硲を雲は駈けて白銀ひるがえり、涯から瞳は探す。
―きっと今夜なら銀河鉄道が通るよね、だってこの本があるから、
見あげながら深緑色の本を抱きしめて、祈るよう天を瞳に追いかける。
願いごと仰ぐのは星の梢、銀色の三日月、それから虹色ふくんだ夜の雲。
あの七彩を父は詩に映して愛していた、そんな記憶から周太はそっと口遊んだ。
“My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me…
謳いかけた詞、けれど視界に息ごと呑みこます。
見つめる夜の真中を一閃、銀色きらめく列車がひとつ駆けてくる。
―銀河鉄道が、
呼んだ夜空の涯、月の雲から列車は駆けて軌跡に星の花が咲く。
見あげる彼方は遠くて、けれど車窓から笑顔ふたつ見えてしまう。
―お父さん…!それからあの人はきっと、
遥かへ呼びかけた声に、穏やかな切長い瞳は涼やかに笑ってくれる。
その前に座る端正なツイードの三つ揃いにネクタイ締めた、銀縁眼鏡の笑顔は温かい。
初めて見る貌、けれど知っているようで見あげるうち気づくと深緑色やわらかなシートに座っていた。
「周、僕の本を見せに来てくれたの?」
深いテノールが微笑んで見あげた隣、涼やかな瞳が笑って見つめてくれる。
この笑顔にずっと会いたかった、やっと会えた喜びに周太は抱きしめていた本を差し出した。
「ん、お父さんの本だよ?見て…田嶋先生が作ってくれたの、表装の深緑色も銀文字も穂高の色だよ?」
差し出した本に切長い瞳ゆっくり瞬いて、微笑んだまま見つめてくれる。
その前からロマンスグレイの上品な笑顔も本を見、愉しそうに尋ねてくれた。
「ああ、確かに田嶋君らしい作り方ですね、周太は田嶋君を好きかな?」
周太、
そう呼んでくれる声は父と似て、けれど父より響くよう太い。
銀縁眼鏡の眼差しは深く明るく穏やかで、端正な笑顔に銀色の髪が映える。
静かなのに優しくて明るい笑顔は見たことあるようで、その不思議に解かって周太は笑いかけた。
「はい、田嶋先生のこと僕は好きです…お祖父さん?」
お祖父さん、こんなふう自分も呼んでみたかった。
父と母と自分、三人だけの家族は幸せだけれど寂しい時もあった。
毎年の倣いに夏休みの日記帳を発表するとき、いつも祖父母や親戚の家で過ごす愉しい時間が多く読まれる。
けれど自分の日記帳に登場する家族は父と母だけ、それをクラスメイトに言われるたび理由も言わず両親に甘えた。
だけど今こうして自分の前に祖父は座っている、それが嬉しくて笑いかけた向こう銀縁眼鏡の瞳に幸せほころんだ。
「私も田嶋君は大好きだよ、彼はランボオみたいに情熱的な天才です。田嶋君はね、周太をうんと期待しているよ?」
「はい、あの…僕、がんばります、お祖父さん?」
お祖父さんと、また呼びかけ笑いかけた前で銀縁眼鏡の瞳が微笑む。
深く聡明な眼差しは真直ぐ周太を見つめて、綺麗な笑顔ほころばせた。
「ああ、周太は斗貴子と似ていますね?額や眉の感じがそっくりだ、優しくて穏やかで、学ぶことが大好きな綺麗な目をしてる。
何事も一生懸命になれる心がある、きっと君なら文学も植物学も両立できますよ?周太なら望んだ分だけ学び活かせます、大丈夫、」
大丈夫と、嬉しそうに笑って祖父が腕を広げてくれる。
その仕草に父と同じ俤が見えて、素直に周太はそっと抱きついた。
ふわり、上品な香ごと抱きしめたツイードのスーツ姿は広やかに温かくて、頬に温もり零れた。
―俺にもお祖父さんがいるね、こんなに立派なお祖父さんがいてくれる、
ただ嬉しい、そんな想い微笑んだ背中には大きな掌が温かい。
すこし互いに腕解いて見つめあった真中、銀縁眼鏡の瞳は涙ひとつ笑ってくれた。
「周太、私の為にすまない。それなのに私を信じてくれて、ありがとう、」
すまない、ありがとう、
ふたつの言葉に涙と笑顔は温かい。
この言葉も涙も笑顔もずっと会いたかった、それが叶った喜びごと周太は笑った。
「僕こそありがとうございます、お祖父さんのお蔭で僕は勉強が続けられているんです…ありがとう、お祖父さん?」
ありがとう、唯それだけを伝えたい。
他にも訊きたいことは沢山ある、それ以上に大切な想いだけ伝えたい。
そんな願いに笑いって席に戻りかけて、けれど父が座ったまま見上げ願ってくれた。
「周、僕の本を見せてくれるかな?…紀さんが作ってくれた本を見たいんだ、」
「ん、」
微笑んで頷きながら一冊を差し出して、父の手が受けとってくれる。
その長い指は深緑色の表紙をそっと捲り、切長い瞳は嬉しそうに笑ってくれた。
「SONNET18だ、紀さん…ありがとう、」
ほら、父もありがとうと笑ってくれる。
涼やかな切長の瞳は幸せほころんで、そんな父の笑顔が嬉しくて温かい。
こんなふう祖父と父と話せる時間が与えられる、その喜びへ周太は綺麗に笑いかけた。
「お祖父さん、お父さん、俺ね、二人と似てるって言われるんだよ?それがすごく嬉しいんだ…本当にありがとう、」
額ふれる、その掌が優しい。
この掌の感じは知っている、懐かしくて大好きな気配は温かい。
この掌の主に会いたくて深い吐息ひとつ、ゆるやかに披いた視界の真中へ周太は微笑んだ。
「おとうさん…たじませんせいのほん、よんだの?」
笑いかけて呼びかけた向こう、涼やかな切長い瞳ゆっくり瞬かす。
その眼差しに焦点があうまま周太も瞳ひとつ瞬いて、いま見上げる貌に驚いた。
「あ…おばあさま?」
いま自分を見つめてくれるのは、顕子?
英二の祖母、顕子が微笑んでくれる向こうは馴染みの天井が見える。
そして頬ふれるコットンの感触に自分の枕だと解かって、包まれるブランケットも自分のもの。
いま背中を受けとめるスプリングも此処がどこなのか教えて、起きあがろうとした肩を優しい手が止めてくれた。
「まだ起きてはダメよ?周太くんは熱が高いの、ちゃんとベッドに入っていて?」
そっとブランケット掛けなおしてくれる手は、長い指やわらかに温かい。
その手も切長い瞳も今、銀河鉄道で再会した俤そっくりに自分を見つめる。
この俤に昨日見たばかりの改製原戸籍を想いながらも、不思議で問いかけた。
「あの…どうして、おばあさまが僕の部屋にいるんですか?」
「美幸さんが英理に電話をくれたのよ、はい、」
穏やかなアルトが微笑んで体温計を渡してくれる。
素直に受けとってパジャマのなか挟みこむと、顕子は教えてくれた。
「今日の明方、周太くんは酷く咳をしていたそうよ?それで美幸さんが見にきたら周太くんの顔は真っ赤で、呼んでも起きなかったの。
だから美幸さんも驚いちゃったのね、咄嗟に着信履歴から英理に電話したそうよ?英二は警察の寮に入ってるからって咄嗟でも気遣ったのね、
それで英理が私に電話をくれました、美幸さんも英理も仕事だけど私なら看病が出来ますからね、菫さんと雪と海に留守番お願いして来たわ、」
聴かされる話に解かってしまう、きっと母は酷く動揺したのだろう。
いつも穏やかに落着いている聡明な母、それなのに救急車を呼ぶことすら思いつかなかった。
そんな母のことも受けとめてくれた顕子の、涼やかな切長い瞳に懐かしい俤が映りこんで涙こぼれた。
―やっぱり英二のおばあさまと、お父さんは血が繋がってる…親戚なんだ、
いま横たわっているのは自室のベッド、だから父と再会したことは夢なのだろう。
それでも夢で自分は父と祖父に会って、そして今この現実で見あげる笑顔は父と似ている。
こんな一致に零れた涙をやわらかなハンカチが拭って、低く透るアルトの声が訊いてくれた。
「周太くん、何か食べたいものはあるかしら?お薬を飲むのにお腹にすこし入れないと、ね?」
薬を飲む、そう言われて鼓動ひとつ軋みあげる。
こんなふうに言われる理由と体調に気が付いて周太は顕子に尋ねた。
「あの、…僕、お医者に診てもらったんですか?…何て言われたんですか?」
熱が高い、薬を飲む、そう顕子は教えてくれた。
それなら医師が診たのだろう、ならば喘息の罹患は暴かれてしまったかもしれない?
そんな心配の真中で涼やかな切長い瞳は困ったよう、けれど穏やかに毅然と教えてくれた。
「ええ、我が家のホームドクターを呼んで往診して頂きました、周太くんは喘息を持ってるみたいね?それが過労で発熱しています、
普通なら喘息は熱が出ないそうだけど、気管支の炎症があれば熱も出るし高熱になる事もあるそうよ。内緒で無理したわね、周太くん?」
やっぱり見抜かれてしまった。
そんな事態にため息吐いて、顕子が孫と似ているのだと気づかされる。
あの鋭利な英二の祖母らしく分析して穏やかに話す、その聡明な眼差しに重ねて尋ねた。
「…母は、そのことを知っていますか?」
きっと母は小児喘息の事を当然知っていたろう、そして自分本人には隠したまま治癒させてくれていた。
その気遣いは幼い日から持たせてくれた「蜂蜜オレンジのど飴」に解かる、それだけに再発は絶対に言えない。
だから今も気になって問いかけた向う、涼やかな切長の瞳は困ったように微笑んで端正な貌ゆっくり振ってくれた。
「いいえ、まだ詳しいことは知らせていません、お医者が来たのは美幸さんが出かけた後でしたから。心配ないとだけメールしたわ、」
まだ母には知られていない、そう教えられて呼吸ひとつ安堵する。
このまま知られたくなくて周太は聡明な瞳を真直ぐ見上げ、願った。
「おばあさま、お願いです…僕が喘息なことは母に言わないで下さい、もう…これ以上の心労をかけたくないんです、お願いします、」
警察官の夫を殉職で亡くして、息子まで警察官になってしまった。
それだけでも心労は大きい、それなのに再発の事まで知れば辛いだろう、哀しむだろう。
それでも母は独り胸に納めてしまうと解かるから言いたくない、そんな願いに困ったよう顕子は微笑んだ。
「私に秘密の片棒を担がせるって言うのね?それも大切な体に関わることだなんて、困ったわ。英二にも言ってないんでしょう?」
「はい、…主治医になって下さった先生にしか話していません、」
素直に答えながら胸が熱くて、布団の中そっとパジャマの衿元を抱えこむ。
この2週間が喘息に負担をかけてしまった、そんな現実に瞳ゆっくり瞬いた向う顕子は言ってくれた。
「解かりました、周太くんなりの覚悟があると信じて黙っています。でも約束してくれたらです、私と約束できるかしら?」
約束してくれたら。
そう提案してくれる眼差しは真摯で温かい。
こんな瞳に顕子は家族なのだと想えて、そして夢の会話が想いだされてしまう。
『周太は斗貴子と似ていますね?きっと君なら文学も植物学も両立できますよ?周太なら望んだ分だけ学び活かせます、大丈夫、』
夢だった、けれど確かに祖父は自分を見つめて笑って、約束をくれた。
大丈夫と告げる約束を祖父は贈ってくれた、その言葉を見つめながら周太は肯った。
「約束します、でもひとつだけ教えてください…ひとつだけでいいんです、」
ひとつだけ、顕子に教えてほしい。
唯ひとつさえ解れば今は幸せだろう、だから願いたい想いに切長い瞳は頷いてくれた。
「ええ、私に教えられることなら、」
頷いて微笑んでくれる瞳は、きっと質問をもう予測している。
その覚悟に微笑んで周太は七月から訊きたかった想いを言葉にした。
「おばあさまは、僕の祖母の従妹ですよね…僕には唯ひとりの、親戚ですよね…?」
民法第725条の定める親族は、6親等内の血族と配偶者および3親等内の姻族。
そして曾祖父の昭和改製原戸籍に記載の「顕子」は自分の血族6親等に該当する。
その「顕子」には歳の離れた兄たちがいて彼らも親族に当る、けれど年齢的に逝去しているだろう。
だから今この前にいる顕子が「顕子」なら自分にとって生きている親戚の唯ひとり、そんな唯一の相手は微笑んだ。
「ええ、斗貴子さんは私の従姉です、」
やっぱり「顕子」は顕子だった。
自分と母は二人きりの家族で、けれど親戚が一人だけいてくれた。
自分たちは独りじゃないと今、知らされた現実に視界ゆっくり滲みだす。
この涙は哀しいからじゃない、ただ嬉しい真中で顕子の頬に涙きらめいた。
「斗貴子さんと私は実の姉妹と同じに育ったの、だから言ったのよ、私は周太くんのおばあさまですって…ずっと、ごめんなさいね、」
ずっと、ごめんなさい。
そんなふう言ってくれる想いは14年前に遡るだろう。
そして50年前にある事実が「ずっと」の隔てを作った、そう解るから周太は微笑んだ。
「謝らないで、おばあさま?…音信不通にしたのは、僕のお祖父さんの方からなんでしょ?だから…ずっとごめんなさい、ありがとう、」
祖父は夢で言ってくれた。
私の為にすまない、それなのに私を信じてくれて、ありがとう。
そう言ってくれた祖父の言葉は伝言でもあるはず、だから今に伝えた前で切長い瞳は涙と笑ってくれた。
「私こそよ、ありがとう周太くん。ずっと言いたかったことを言えてスッキリしたわ、これで私の方の約束もお願い出来るわね?」
「はい、…なにを約束しますか?」
約束すれば喘息のことは内緒にしてくれる、この「約束」は何だろう?
それを考えたいけれど頭が今は働き難くて、解らないまま見上げた切長い瞳は微笑んだ。
「警察官を一年以内に辞めること。それを私と約束してほしいの、出来るかしら?」
告げられた「約束」に父そっくりの瞳が笑いかける、そして明日の先がまた、動く。
(to be gcontinued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」/WilliamWordsworth「The Rainbow」】
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第70話 樹守act.7―another,side story「陽はまた昇る」
月の輪郭すら見える、そんな三日月に空を仰ぐ。
墨色やわらかな天穹は風を吹きおろして額の髪を揺らす、その頭上は星の梢が揺れる。
庭へ繁れる楓たちに三日の明月から光ふらす、そして月光きらめく楓は星になり夜に輝ける。
星ふる葉は楓、木洩月ゆれる星雫、星たちの硲を雲は駈けて白銀ひるがえり、涯から瞳は探す。
―きっと今夜なら銀河鉄道が通るよね、だってこの本があるから、
見あげながら深緑色の本を抱きしめて、祈るよう天を瞳に追いかける。
願いごと仰ぐのは星の梢、銀色の三日月、それから虹色ふくんだ夜の雲。
あの七彩を父は詩に映して愛していた、そんな記憶から周太はそっと口遊んだ。
“My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me…
謳いかけた詞、けれど視界に息ごと呑みこます。
見つめる夜の真中を一閃、銀色きらめく列車がひとつ駆けてくる。
―銀河鉄道が、
呼んだ夜空の涯、月の雲から列車は駆けて軌跡に星の花が咲く。
見あげる彼方は遠くて、けれど車窓から笑顔ふたつ見えてしまう。
―お父さん…!それからあの人はきっと、
遥かへ呼びかけた声に、穏やかな切長い瞳は涼やかに笑ってくれる。
その前に座る端正なツイードの三つ揃いにネクタイ締めた、銀縁眼鏡の笑顔は温かい。
初めて見る貌、けれど知っているようで見あげるうち気づくと深緑色やわらかなシートに座っていた。
「周、僕の本を見せに来てくれたの?」
深いテノールが微笑んで見あげた隣、涼やかな瞳が笑って見つめてくれる。
この笑顔にずっと会いたかった、やっと会えた喜びに周太は抱きしめていた本を差し出した。
「ん、お父さんの本だよ?見て…田嶋先生が作ってくれたの、表装の深緑色も銀文字も穂高の色だよ?」
差し出した本に切長い瞳ゆっくり瞬いて、微笑んだまま見つめてくれる。
その前からロマンスグレイの上品な笑顔も本を見、愉しそうに尋ねてくれた。
「ああ、確かに田嶋君らしい作り方ですね、周太は田嶋君を好きかな?」
周太、
そう呼んでくれる声は父と似て、けれど父より響くよう太い。
銀縁眼鏡の眼差しは深く明るく穏やかで、端正な笑顔に銀色の髪が映える。
静かなのに優しくて明るい笑顔は見たことあるようで、その不思議に解かって周太は笑いかけた。
「はい、田嶋先生のこと僕は好きです…お祖父さん?」
お祖父さん、こんなふう自分も呼んでみたかった。
父と母と自分、三人だけの家族は幸せだけれど寂しい時もあった。
毎年の倣いに夏休みの日記帳を発表するとき、いつも祖父母や親戚の家で過ごす愉しい時間が多く読まれる。
けれど自分の日記帳に登場する家族は父と母だけ、それをクラスメイトに言われるたび理由も言わず両親に甘えた。
だけど今こうして自分の前に祖父は座っている、それが嬉しくて笑いかけた向こう銀縁眼鏡の瞳に幸せほころんだ。
「私も田嶋君は大好きだよ、彼はランボオみたいに情熱的な天才です。田嶋君はね、周太をうんと期待しているよ?」
「はい、あの…僕、がんばります、お祖父さん?」
お祖父さんと、また呼びかけ笑いかけた前で銀縁眼鏡の瞳が微笑む。
深く聡明な眼差しは真直ぐ周太を見つめて、綺麗な笑顔ほころばせた。
「ああ、周太は斗貴子と似ていますね?額や眉の感じがそっくりだ、優しくて穏やかで、学ぶことが大好きな綺麗な目をしてる。
何事も一生懸命になれる心がある、きっと君なら文学も植物学も両立できますよ?周太なら望んだ分だけ学び活かせます、大丈夫、」
大丈夫と、嬉しそうに笑って祖父が腕を広げてくれる。
その仕草に父と同じ俤が見えて、素直に周太はそっと抱きついた。
ふわり、上品な香ごと抱きしめたツイードのスーツ姿は広やかに温かくて、頬に温もり零れた。
―俺にもお祖父さんがいるね、こんなに立派なお祖父さんがいてくれる、
ただ嬉しい、そんな想い微笑んだ背中には大きな掌が温かい。
すこし互いに腕解いて見つめあった真中、銀縁眼鏡の瞳は涙ひとつ笑ってくれた。
「周太、私の為にすまない。それなのに私を信じてくれて、ありがとう、」
すまない、ありがとう、
ふたつの言葉に涙と笑顔は温かい。
この言葉も涙も笑顔もずっと会いたかった、それが叶った喜びごと周太は笑った。
「僕こそありがとうございます、お祖父さんのお蔭で僕は勉強が続けられているんです…ありがとう、お祖父さん?」
ありがとう、唯それだけを伝えたい。
他にも訊きたいことは沢山ある、それ以上に大切な想いだけ伝えたい。
そんな願いに笑いって席に戻りかけて、けれど父が座ったまま見上げ願ってくれた。
「周、僕の本を見せてくれるかな?…紀さんが作ってくれた本を見たいんだ、」
「ん、」
微笑んで頷きながら一冊を差し出して、父の手が受けとってくれる。
その長い指は深緑色の表紙をそっと捲り、切長い瞳は嬉しそうに笑ってくれた。
「SONNET18だ、紀さん…ありがとう、」
ほら、父もありがとうと笑ってくれる。
涼やかな切長の瞳は幸せほころんで、そんな父の笑顔が嬉しくて温かい。
こんなふう祖父と父と話せる時間が与えられる、その喜びへ周太は綺麗に笑いかけた。
「お祖父さん、お父さん、俺ね、二人と似てるって言われるんだよ?それがすごく嬉しいんだ…本当にありがとう、」
額ふれる、その掌が優しい。
この掌の感じは知っている、懐かしくて大好きな気配は温かい。
この掌の主に会いたくて深い吐息ひとつ、ゆるやかに披いた視界の真中へ周太は微笑んだ。
「おとうさん…たじませんせいのほん、よんだの?」
笑いかけて呼びかけた向こう、涼やかな切長い瞳ゆっくり瞬かす。
その眼差しに焦点があうまま周太も瞳ひとつ瞬いて、いま見上げる貌に驚いた。
「あ…おばあさま?」
いま自分を見つめてくれるのは、顕子?
英二の祖母、顕子が微笑んでくれる向こうは馴染みの天井が見える。
そして頬ふれるコットンの感触に自分の枕だと解かって、包まれるブランケットも自分のもの。
いま背中を受けとめるスプリングも此処がどこなのか教えて、起きあがろうとした肩を優しい手が止めてくれた。
「まだ起きてはダメよ?周太くんは熱が高いの、ちゃんとベッドに入っていて?」
そっとブランケット掛けなおしてくれる手は、長い指やわらかに温かい。
その手も切長い瞳も今、銀河鉄道で再会した俤そっくりに自分を見つめる。
この俤に昨日見たばかりの改製原戸籍を想いながらも、不思議で問いかけた。
「あの…どうして、おばあさまが僕の部屋にいるんですか?」
「美幸さんが英理に電話をくれたのよ、はい、」
穏やかなアルトが微笑んで体温計を渡してくれる。
素直に受けとってパジャマのなか挟みこむと、顕子は教えてくれた。
「今日の明方、周太くんは酷く咳をしていたそうよ?それで美幸さんが見にきたら周太くんの顔は真っ赤で、呼んでも起きなかったの。
だから美幸さんも驚いちゃったのね、咄嗟に着信履歴から英理に電話したそうよ?英二は警察の寮に入ってるからって咄嗟でも気遣ったのね、
それで英理が私に電話をくれました、美幸さんも英理も仕事だけど私なら看病が出来ますからね、菫さんと雪と海に留守番お願いして来たわ、」
聴かされる話に解かってしまう、きっと母は酷く動揺したのだろう。
いつも穏やかに落着いている聡明な母、それなのに救急車を呼ぶことすら思いつかなかった。
そんな母のことも受けとめてくれた顕子の、涼やかな切長い瞳に懐かしい俤が映りこんで涙こぼれた。
―やっぱり英二のおばあさまと、お父さんは血が繋がってる…親戚なんだ、
いま横たわっているのは自室のベッド、だから父と再会したことは夢なのだろう。
それでも夢で自分は父と祖父に会って、そして今この現実で見あげる笑顔は父と似ている。
こんな一致に零れた涙をやわらかなハンカチが拭って、低く透るアルトの声が訊いてくれた。
「周太くん、何か食べたいものはあるかしら?お薬を飲むのにお腹にすこし入れないと、ね?」
薬を飲む、そう言われて鼓動ひとつ軋みあげる。
こんなふうに言われる理由と体調に気が付いて周太は顕子に尋ねた。
「あの、…僕、お医者に診てもらったんですか?…何て言われたんですか?」
熱が高い、薬を飲む、そう顕子は教えてくれた。
それなら医師が診たのだろう、ならば喘息の罹患は暴かれてしまったかもしれない?
そんな心配の真中で涼やかな切長い瞳は困ったよう、けれど穏やかに毅然と教えてくれた。
「ええ、我が家のホームドクターを呼んで往診して頂きました、周太くんは喘息を持ってるみたいね?それが過労で発熱しています、
普通なら喘息は熱が出ないそうだけど、気管支の炎症があれば熱も出るし高熱になる事もあるそうよ。内緒で無理したわね、周太くん?」
やっぱり見抜かれてしまった。
そんな事態にため息吐いて、顕子が孫と似ているのだと気づかされる。
あの鋭利な英二の祖母らしく分析して穏やかに話す、その聡明な眼差しに重ねて尋ねた。
「…母は、そのことを知っていますか?」
きっと母は小児喘息の事を当然知っていたろう、そして自分本人には隠したまま治癒させてくれていた。
その気遣いは幼い日から持たせてくれた「蜂蜜オレンジのど飴」に解かる、それだけに再発は絶対に言えない。
だから今も気になって問いかけた向う、涼やかな切長の瞳は困ったように微笑んで端正な貌ゆっくり振ってくれた。
「いいえ、まだ詳しいことは知らせていません、お医者が来たのは美幸さんが出かけた後でしたから。心配ないとだけメールしたわ、」
まだ母には知られていない、そう教えられて呼吸ひとつ安堵する。
このまま知られたくなくて周太は聡明な瞳を真直ぐ見上げ、願った。
「おばあさま、お願いです…僕が喘息なことは母に言わないで下さい、もう…これ以上の心労をかけたくないんです、お願いします、」
警察官の夫を殉職で亡くして、息子まで警察官になってしまった。
それだけでも心労は大きい、それなのに再発の事まで知れば辛いだろう、哀しむだろう。
それでも母は独り胸に納めてしまうと解かるから言いたくない、そんな願いに困ったよう顕子は微笑んだ。
「私に秘密の片棒を担がせるって言うのね?それも大切な体に関わることだなんて、困ったわ。英二にも言ってないんでしょう?」
「はい、…主治医になって下さった先生にしか話していません、」
素直に答えながら胸が熱くて、布団の中そっとパジャマの衿元を抱えこむ。
この2週間が喘息に負担をかけてしまった、そんな現実に瞳ゆっくり瞬いた向う顕子は言ってくれた。
「解かりました、周太くんなりの覚悟があると信じて黙っています。でも約束してくれたらです、私と約束できるかしら?」
約束してくれたら。
そう提案してくれる眼差しは真摯で温かい。
こんな瞳に顕子は家族なのだと想えて、そして夢の会話が想いだされてしまう。
『周太は斗貴子と似ていますね?きっと君なら文学も植物学も両立できますよ?周太なら望んだ分だけ学び活かせます、大丈夫、』
夢だった、けれど確かに祖父は自分を見つめて笑って、約束をくれた。
大丈夫と告げる約束を祖父は贈ってくれた、その言葉を見つめながら周太は肯った。
「約束します、でもひとつだけ教えてください…ひとつだけでいいんです、」
ひとつだけ、顕子に教えてほしい。
唯ひとつさえ解れば今は幸せだろう、だから願いたい想いに切長い瞳は頷いてくれた。
「ええ、私に教えられることなら、」
頷いて微笑んでくれる瞳は、きっと質問をもう予測している。
その覚悟に微笑んで周太は七月から訊きたかった想いを言葉にした。
「おばあさまは、僕の祖母の従妹ですよね…僕には唯ひとりの、親戚ですよね…?」
民法第725条の定める親族は、6親等内の血族と配偶者および3親等内の姻族。
そして曾祖父の昭和改製原戸籍に記載の「顕子」は自分の血族6親等に該当する。
その「顕子」には歳の離れた兄たちがいて彼らも親族に当る、けれど年齢的に逝去しているだろう。
だから今この前にいる顕子が「顕子」なら自分にとって生きている親戚の唯ひとり、そんな唯一の相手は微笑んだ。
「ええ、斗貴子さんは私の従姉です、」
やっぱり「顕子」は顕子だった。
自分と母は二人きりの家族で、けれど親戚が一人だけいてくれた。
自分たちは独りじゃないと今、知らされた現実に視界ゆっくり滲みだす。
この涙は哀しいからじゃない、ただ嬉しい真中で顕子の頬に涙きらめいた。
「斗貴子さんと私は実の姉妹と同じに育ったの、だから言ったのよ、私は周太くんのおばあさまですって…ずっと、ごめんなさいね、」
ずっと、ごめんなさい。
そんなふう言ってくれる想いは14年前に遡るだろう。
そして50年前にある事実が「ずっと」の隔てを作った、そう解るから周太は微笑んだ。
「謝らないで、おばあさま?…音信不通にしたのは、僕のお祖父さんの方からなんでしょ?だから…ずっとごめんなさい、ありがとう、」
祖父は夢で言ってくれた。
私の為にすまない、それなのに私を信じてくれて、ありがとう。
そう言ってくれた祖父の言葉は伝言でもあるはず、だから今に伝えた前で切長い瞳は涙と笑ってくれた。
「私こそよ、ありがとう周太くん。ずっと言いたかったことを言えてスッキリしたわ、これで私の方の約束もお願い出来るわね?」
「はい、…なにを約束しますか?」
約束すれば喘息のことは内緒にしてくれる、この「約束」は何だろう?
それを考えたいけれど頭が今は働き難くて、解らないまま見上げた切長い瞳は微笑んだ。
「警察官を一年以内に辞めること。それを私と約束してほしいの、出来るかしら?」
告げられた「約束」に父そっくりの瞳が笑いかける、そして明日の先がまた、動く。
(to be gcontinued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」/WilliamWordsworth「The Rainbow」】
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