And summer's lease hath all too short a date.
第70話 樹守act.1―another,side story「陽はまた昇る」
木洩陽ゆれる道、あの場所が見えてくる。
去年の夏から何度も座った場所、けれど2ヶ月近く座っていない。
それでも前と同じ場所に佇んでくれるベンチに立ち止まり、周太は微笑んだ。
「久しぶりだね、…すこしのんびりさせて?」
ひとり微笑んで腰下すベンチは木蔭のもと、古い木肌が温かい。
光ふる黒藍色のジーンズの膝に紙袋おいて焦茶色の缶をプルリング引く。
ふわり、ほろ苦く甘い香くゆらされ唇つけて、ほっと一息つくと公苑の森を見渡した。
―もう葉っぱが色づいてきてる、ね、
9月下旬、もう秋は首都の真中にも訪れる。
シャツの衿ゆらす風は羽織ったカーディガンを透かして涼しい。
午前の樹々は朝露に瑞々しい、その黄色ふくんだ梢は甘く芳香を涼ませる。
夏終わる秋の初め、こんな季節に去年のベンチを想いだす、そして時の経過が俤から遠い。
そんなふう想えてしまう季と笑顔の記憶ごと紙袋を開いて、クロワッサンの香に周太は微笑んだ。
「英二…俺、やっぱり行くよ?」
SAT入隊テスト最終日、警視庁警備部警備第一課特殊部隊への異動が内示された。
この一週間で身辺整理を全て終わらせたら十月一日、SAT狙撃チームに配属される。
―ほんとうに行くんだ、お父さんと同じ場所に俺も…でもなぜ?
こうなると望んで選んだ進路だった、けれど自分には予想外でしかない。
それでも想定通りな「誰か」がいる、そんな現実に一週間前の声が響く。
『負傷の隊員は放置、』
客観的で冷静な声はインカムから命令を告げる、けれど自分は肯えなかった。
何も応えずに、入隊テストの受験仲間が流す血に手を動かして銃創を応急処置した。
それは人道的には正しい行動だろう、それでもSAT隊員としては失格だと言われて当然だ。
警視庁特殊急襲部隊 Special Assault Team 通称SAT
その任務はテロリスト制圧、立籠り事件の人質確保、そんな特殊事態へ対応する。
いずれも最優先事項は「被害者の安全確保」隊員の生命よりも任務遂行が重視されてしまう。
だから入隊テスト訓練であっても「放置」の指示は的確と言わざるを得ない、けれど、自分は嫌だ。
―だって同じなんだ、被害者も加害者も隊員も同じに生きてる、
SATの任務は被害者の安全確保、それは人命救助という意義のはずだろう。
それなら目の前で斃れる隊員も人命である以上、その救助と保全をしないことは矛盾する。
そう自分は信じて変えられない、この想いは自身の誇りと父の生命と、そして唯ひとりの為に変えない。
『被雷した樹木一本から発火したが警視庁の警察官により消火。巡回中で現場近くに居たため早期鎮火が出来たとのこと、軽傷者1名』
命令違反の日に見たテレビの横顔、あの焼焦げたウィンドブレーカー姿が忘れられない。
落雷による延焼から英二は山を護ろうとした、その為に左腕一本を犠牲に惜しまず奥多摩の森を救った。
そんな横顔はいつもどおり穏やかに微笑んで、山ヤの誇りと山岳レスキューの責務と「約束」に目映かった。
『周太、いつか奥多摩に引っ越そう?庭も家も全部、お母さんも一緒に奥多摩で暮そう、俺たちのふるさとを作ろう、』
幸せだった春の幸福な約束、あの約束は今も英二に変わらず生きている。
そして自分にも約束は息吹き返して、だから尚更に生命を援ける誇りを手離せない。
―誰に認められなくっても英二には恥じたくない、英二のおくさんなら…ね?
あの誇らかな山ヤと約束ひとつ抱きあえる。
そんな想いは自分の誇りで勇気で、燈火で、大切な宝物になってしまった。
だから二度と手離せない、どんなに謗られても否定されても信じていたい。
唯ひとり、あのひとが信じてくれる限り自分も信じることを永遠に続けたい。
『逢いたかったから走って来た…周太、』
ほら、最後に見つめあった瞳も声もあざやかなまま心映る。
あの泣顔を笑顔に変えられるのは泣かせてしまった自分だけ、だから帰りたい。
いつになるか解らない帰路の道、けれど帰る約束の標ならば今、残してあげられる。
そう祈るような約束に一週間を過ごしたくて紙袋のクロワッサンをとり、ひとくち齧った。
パン買わせて。俺、朝飯まだなんだ。
旨かったよ、今度一緒に買いに行こう?
卒業配置の朝、英二はこのベンチでこのクロワッサンを齧っていた。
コーヒーを飲みながらクロワッサンを頬張る横顔の隣で、自分は母の決断を想っていた。
そして食べ終えた英二に想い伝えて、ふたり一緒に生きようと英二は笑ってくれて、初めて約束した。
―この間も約束してくれたね、英二?
二週間前の夜の記憶がそっと鼓動を咬む、その痛みすら愛しくて周太は右袖を捲った。
ホリゾンブルーのニットから現われた素肌には一つだけ、けれど確かに紅い痣が花びら一つ描く。
この痣は一年前に初めて英二の唇が刻んだ、そして逢うたびごと接吻けて二週間前も、あの夜も愛しんでくれた。
『周太…ずっと好きだ、逢えなくても一緒にいるって信じてる』
逢えなくても一緒にいる、だから左腕を惜しまなかったの?
『必ず俺のところに帰って来て、周太』
必ず帰って来る、そう信じてくれるから奥多摩の森を護ったの?
『もう君だけだからお願いだ、帰って来て周太』
もう君だけだから、だなんて本当に想ってくれているの?
もう他のひとを抱いた今のあなたも本当に約束は一年前から変らない?
あの美しい山っ子を抱いて恋してしまった後なのに、それでも本当に自分だけと言うの?
そんな問いが廻ってしまうまま応えを求めている、けれど訊けない距離に想い唇あふれた。
「英二…ほんとうに俺だけが、すき…?」
ひとり声こぼれて、ふわりクロワッサンが口もと芳る。
この香に想い出してしまう一年前のキスは別離が寂しくて、けれど幸せだった。
お互い警察官だから次「必ず」逢える約束なんて本当は出来ない、そう想いながら再会の約束に微笑んだ。
英二の卒業配置先は山岳救助隊員に配備される青梅警察署、遭難救助や自殺遺体回収などハイリスクな管轄だから怖かった。
だから今も考えてしまう、今、自分の方こそ英二に同じ不安も恐怖も与えているかもしれない、それでも英二は再会を信じてくれる?
「…英二、俺だけを待っていてくれるの…?」
そっと名前を呼んで問いかけて、座るベンチの隣に空気を想いだす。
深い森と似た穏やかな香は英二の匂い、微かにふれる肩は自分より高くて厚い。
綺麗な笑顔が近寄せる吐息は少しほろ苦く甘い、あの綺麗な低い声の返事を今ほんとうは聴きたい。
『聲、聴きたいよ周太、君の聲を聴きたい』
記憶に求めてくれるあなたの声、あの声を今ここで聴きたい、あなたの聲で想い応えて?
そんな願い独り微笑んでクロワッサン齧って、さくり、甘く香ばしい香が唇ふれて充たす。
今もう逢えることの出来ない笑顔、聴くことのできない声、それでも香だけなら名残を見つめられる。
去年の夏の終わりに見つめあった別離と再会の約束、あのときと同じ季節に今は独り、同じベンチで自分だけ。
こんなふうに独りきり座る時が来るだろうと去年も解かっていた、けれど、こんなふうに想うとは知らなかった。
―英二、あなたにだけは恥じたくないから、帰って来られたら本当のこと話すから…英二も話してね?
記憶の香を口にしながら想い、そっとシャツの胸を掌におさえこむ。
この胸は本当は喘息の病状を抱え込んで、命令違反までして、それでもSAT入隊選抜試験に合格した。
こんなこと本来なら有得ない、それでも現実に合格したのは「異例」を生みだす隠された事実がある。
そう今では解かっているから話したい、もし自分が無事に帰って再会するならば話すべき罪と罰がある。
「…ごめんね英二、本当は知っているんでしょう…?」
想い独りごと微笑んで、遠い俤に尋ねてしまう。
―本当は全て知っているんでしょう?お父さんと似てるのも偶然じゃないんでしょう?
たぶん英二は真相をしっている、そんなふう想えてしまうのは俤が父と似ている所為かもしれない。
あの眼差しは父とそっくりな瞬間がある、そして英二の祖母の瞳は他人と謂うには父の瞳と似過ぎていた。
彼女は祖母と自分が似ていると微笑んで細かな点まで教えてくれた、あんなふうに初対面から解かるなんて普通ない。
そう想いだすごと解かってしまう、英二の祖母である顕子が何故、自分に祖父たちの記憶を語り謝って泣いてくれたのか?
『 La chronique de la maison 』
祖父が遺した小説を、たぶん顕子も持っている。
その一冊にはメッセージが書かれているだろう、その意味に顕子は泣いてくれた。
どんな言葉なのか今はまだ解らない、けれど、きっと顕子の唯ひとりの孫息子は全てを知っている。
「英二…あなたは誰なの…?」
また独りこぼれた想いに、ゆれる木洩陽が明滅する。
そして考えてしまう、英二と自分が廻り逢えたことは偶然だろうか必然だろうか?
こんなふうに思案する時間すら今まで足りなくて、だから今日ゆっくり考えたくてこのベンチに坐っている。
『 La chronique de la maison 』
祖父の遺作を自分に贈ってくれたのは、祖父の愛弟子で父の親友だった。
アンザイレンパートナーでもあった田嶋教授に父は自分の蔵書を託した、その一冊が祖父の遺作だった。
29年前まで父が持っていた一冊はフランス語でメッセージを綴られている、それを英二も見て知っている。
英二のアンザイレンパートナーである光一も英二より先に本を見た、そして光一はフランス文学に詳しい。
けれど二人とも、何も言わなかった。
―光一なら元から知っているほうが自然だもの、光一の本棚って仏文科だったお父さんの本がいっぱいで…持っていても不思議じゃない、
たぶん光一は、祖父の本を知りながら何も言わなかった。
そう仮定するならば「言わなかった」理由に考えられる事は一つ思い当たる。
その理由を裏付ける事実に七月のカレンダーの中旬、英二と光一が実家に留守番した夜がある。
あのとき二人が実家で「何」をしていたのか?それは祖父の小説に書かれている単語たちが示すかもしれない。
“Mon pistolet” 私の拳銃
“souterrain” 地下室
“enfermer” 監禁する、隠す
そして小説の冒頭と祖父のメッセージ、
“Pour une infraction et punition, expiation” 罪と罰、贖罪の為に
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
そう書き残した祖父の真実を英二たちは見つけたのかもしれない。
もし発見したというのなら祖父の小説に記された事件が「現実」である証拠になる。
もし見つからなかったのなら創作に過ぎなかったと言えるはず、けれど、二人は何も言わない。
―掘り出してあっても跡は残ってるよね、
心裡に考え廻らせながらクロワッサンを齧り、缶のココアに口付ける。
芳ばしい小麦に唯ひとり想い、ほろ苦い甘さに父の笑顔と真実を探してしまう。
二人の繋がりは未だ明確には解らない、けれど確かめる方法ひとつ今の自分は知っている。
その可能性を考えながら簡単な朝食を終えると周太は左腕のクライマーウォッチを見、微笑んだ。
「ん…区役所も空いてるといいな、」
(to be continued)
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第70話 樹守act.1―another,side story「陽はまた昇る」
木洩陽ゆれる道、あの場所が見えてくる。
去年の夏から何度も座った場所、けれど2ヶ月近く座っていない。
それでも前と同じ場所に佇んでくれるベンチに立ち止まり、周太は微笑んだ。
「久しぶりだね、…すこしのんびりさせて?」
ひとり微笑んで腰下すベンチは木蔭のもと、古い木肌が温かい。
光ふる黒藍色のジーンズの膝に紙袋おいて焦茶色の缶をプルリング引く。
ふわり、ほろ苦く甘い香くゆらされ唇つけて、ほっと一息つくと公苑の森を見渡した。
―もう葉っぱが色づいてきてる、ね、
9月下旬、もう秋は首都の真中にも訪れる。
シャツの衿ゆらす風は羽織ったカーディガンを透かして涼しい。
午前の樹々は朝露に瑞々しい、その黄色ふくんだ梢は甘く芳香を涼ませる。
夏終わる秋の初め、こんな季節に去年のベンチを想いだす、そして時の経過が俤から遠い。
そんなふう想えてしまう季と笑顔の記憶ごと紙袋を開いて、クロワッサンの香に周太は微笑んだ。
「英二…俺、やっぱり行くよ?」
SAT入隊テスト最終日、警視庁警備部警備第一課特殊部隊への異動が内示された。
この一週間で身辺整理を全て終わらせたら十月一日、SAT狙撃チームに配属される。
―ほんとうに行くんだ、お父さんと同じ場所に俺も…でもなぜ?
こうなると望んで選んだ進路だった、けれど自分には予想外でしかない。
それでも想定通りな「誰か」がいる、そんな現実に一週間前の声が響く。
『負傷の隊員は放置、』
客観的で冷静な声はインカムから命令を告げる、けれど自分は肯えなかった。
何も応えずに、入隊テストの受験仲間が流す血に手を動かして銃創を応急処置した。
それは人道的には正しい行動だろう、それでもSAT隊員としては失格だと言われて当然だ。
警視庁特殊急襲部隊 Special Assault Team 通称SAT
その任務はテロリスト制圧、立籠り事件の人質確保、そんな特殊事態へ対応する。
いずれも最優先事項は「被害者の安全確保」隊員の生命よりも任務遂行が重視されてしまう。
だから入隊テスト訓練であっても「放置」の指示は的確と言わざるを得ない、けれど、自分は嫌だ。
―だって同じなんだ、被害者も加害者も隊員も同じに生きてる、
SATの任務は被害者の安全確保、それは人命救助という意義のはずだろう。
それなら目の前で斃れる隊員も人命である以上、その救助と保全をしないことは矛盾する。
そう自分は信じて変えられない、この想いは自身の誇りと父の生命と、そして唯ひとりの為に変えない。
『被雷した樹木一本から発火したが警視庁の警察官により消火。巡回中で現場近くに居たため早期鎮火が出来たとのこと、軽傷者1名』
命令違反の日に見たテレビの横顔、あの焼焦げたウィンドブレーカー姿が忘れられない。
落雷による延焼から英二は山を護ろうとした、その為に左腕一本を犠牲に惜しまず奥多摩の森を救った。
そんな横顔はいつもどおり穏やかに微笑んで、山ヤの誇りと山岳レスキューの責務と「約束」に目映かった。
『周太、いつか奥多摩に引っ越そう?庭も家も全部、お母さんも一緒に奥多摩で暮そう、俺たちのふるさとを作ろう、』
幸せだった春の幸福な約束、あの約束は今も英二に変わらず生きている。
そして自分にも約束は息吹き返して、だから尚更に生命を援ける誇りを手離せない。
―誰に認められなくっても英二には恥じたくない、英二のおくさんなら…ね?
あの誇らかな山ヤと約束ひとつ抱きあえる。
そんな想いは自分の誇りで勇気で、燈火で、大切な宝物になってしまった。
だから二度と手離せない、どんなに謗られても否定されても信じていたい。
唯ひとり、あのひとが信じてくれる限り自分も信じることを永遠に続けたい。
『逢いたかったから走って来た…周太、』
ほら、最後に見つめあった瞳も声もあざやかなまま心映る。
あの泣顔を笑顔に変えられるのは泣かせてしまった自分だけ、だから帰りたい。
いつになるか解らない帰路の道、けれど帰る約束の標ならば今、残してあげられる。
そう祈るような約束に一週間を過ごしたくて紙袋のクロワッサンをとり、ひとくち齧った。
パン買わせて。俺、朝飯まだなんだ。
旨かったよ、今度一緒に買いに行こう?
卒業配置の朝、英二はこのベンチでこのクロワッサンを齧っていた。
コーヒーを飲みながらクロワッサンを頬張る横顔の隣で、自分は母の決断を想っていた。
そして食べ終えた英二に想い伝えて、ふたり一緒に生きようと英二は笑ってくれて、初めて約束した。
―この間も約束してくれたね、英二?
二週間前の夜の記憶がそっと鼓動を咬む、その痛みすら愛しくて周太は右袖を捲った。
ホリゾンブルーのニットから現われた素肌には一つだけ、けれど確かに紅い痣が花びら一つ描く。
この痣は一年前に初めて英二の唇が刻んだ、そして逢うたびごと接吻けて二週間前も、あの夜も愛しんでくれた。
『周太…ずっと好きだ、逢えなくても一緒にいるって信じてる』
逢えなくても一緒にいる、だから左腕を惜しまなかったの?
『必ず俺のところに帰って来て、周太』
必ず帰って来る、そう信じてくれるから奥多摩の森を護ったの?
『もう君だけだからお願いだ、帰って来て周太』
もう君だけだから、だなんて本当に想ってくれているの?
もう他のひとを抱いた今のあなたも本当に約束は一年前から変らない?
あの美しい山っ子を抱いて恋してしまった後なのに、それでも本当に自分だけと言うの?
そんな問いが廻ってしまうまま応えを求めている、けれど訊けない距離に想い唇あふれた。
「英二…ほんとうに俺だけが、すき…?」
ひとり声こぼれて、ふわりクロワッサンが口もと芳る。
この香に想い出してしまう一年前のキスは別離が寂しくて、けれど幸せだった。
お互い警察官だから次「必ず」逢える約束なんて本当は出来ない、そう想いながら再会の約束に微笑んだ。
英二の卒業配置先は山岳救助隊員に配備される青梅警察署、遭難救助や自殺遺体回収などハイリスクな管轄だから怖かった。
だから今も考えてしまう、今、自分の方こそ英二に同じ不安も恐怖も与えているかもしれない、それでも英二は再会を信じてくれる?
「…英二、俺だけを待っていてくれるの…?」
そっと名前を呼んで問いかけて、座るベンチの隣に空気を想いだす。
深い森と似た穏やかな香は英二の匂い、微かにふれる肩は自分より高くて厚い。
綺麗な笑顔が近寄せる吐息は少しほろ苦く甘い、あの綺麗な低い声の返事を今ほんとうは聴きたい。
『聲、聴きたいよ周太、君の聲を聴きたい』
記憶に求めてくれるあなたの声、あの声を今ここで聴きたい、あなたの聲で想い応えて?
そんな願い独り微笑んでクロワッサン齧って、さくり、甘く香ばしい香が唇ふれて充たす。
今もう逢えることの出来ない笑顔、聴くことのできない声、それでも香だけなら名残を見つめられる。
去年の夏の終わりに見つめあった別離と再会の約束、あのときと同じ季節に今は独り、同じベンチで自分だけ。
こんなふうに独りきり座る時が来るだろうと去年も解かっていた、けれど、こんなふうに想うとは知らなかった。
―英二、あなたにだけは恥じたくないから、帰って来られたら本当のこと話すから…英二も話してね?
記憶の香を口にしながら想い、そっとシャツの胸を掌におさえこむ。
この胸は本当は喘息の病状を抱え込んで、命令違反までして、それでもSAT入隊選抜試験に合格した。
こんなこと本来なら有得ない、それでも現実に合格したのは「異例」を生みだす隠された事実がある。
そう今では解かっているから話したい、もし自分が無事に帰って再会するならば話すべき罪と罰がある。
「…ごめんね英二、本当は知っているんでしょう…?」
想い独りごと微笑んで、遠い俤に尋ねてしまう。
―本当は全て知っているんでしょう?お父さんと似てるのも偶然じゃないんでしょう?
たぶん英二は真相をしっている、そんなふう想えてしまうのは俤が父と似ている所為かもしれない。
あの眼差しは父とそっくりな瞬間がある、そして英二の祖母の瞳は他人と謂うには父の瞳と似過ぎていた。
彼女は祖母と自分が似ていると微笑んで細かな点まで教えてくれた、あんなふうに初対面から解かるなんて普通ない。
そう想いだすごと解かってしまう、英二の祖母である顕子が何故、自分に祖父たちの記憶を語り謝って泣いてくれたのか?
『 La chronique de la maison 』
祖父が遺した小説を、たぶん顕子も持っている。
その一冊にはメッセージが書かれているだろう、その意味に顕子は泣いてくれた。
どんな言葉なのか今はまだ解らない、けれど、きっと顕子の唯ひとりの孫息子は全てを知っている。
「英二…あなたは誰なの…?」
また独りこぼれた想いに、ゆれる木洩陽が明滅する。
そして考えてしまう、英二と自分が廻り逢えたことは偶然だろうか必然だろうか?
こんなふうに思案する時間すら今まで足りなくて、だから今日ゆっくり考えたくてこのベンチに坐っている。
『 La chronique de la maison 』
祖父の遺作を自分に贈ってくれたのは、祖父の愛弟子で父の親友だった。
アンザイレンパートナーでもあった田嶋教授に父は自分の蔵書を託した、その一冊が祖父の遺作だった。
29年前まで父が持っていた一冊はフランス語でメッセージを綴られている、それを英二も見て知っている。
英二のアンザイレンパートナーである光一も英二より先に本を見た、そして光一はフランス文学に詳しい。
けれど二人とも、何も言わなかった。
―光一なら元から知っているほうが自然だもの、光一の本棚って仏文科だったお父さんの本がいっぱいで…持っていても不思議じゃない、
たぶん光一は、祖父の本を知りながら何も言わなかった。
そう仮定するならば「言わなかった」理由に考えられる事は一つ思い当たる。
その理由を裏付ける事実に七月のカレンダーの中旬、英二と光一が実家に留守番した夜がある。
あのとき二人が実家で「何」をしていたのか?それは祖父の小説に書かれている単語たちが示すかもしれない。
“Mon pistolet” 私の拳銃
“souterrain” 地下室
“enfermer” 監禁する、隠す
そして小説の冒頭と祖父のメッセージ、
“Pour une infraction et punition, expiation” 罪と罰、贖罪の為に
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
そう書き残した祖父の真実を英二たちは見つけたのかもしれない。
もし発見したというのなら祖父の小説に記された事件が「現実」である証拠になる。
もし見つからなかったのなら創作に過ぎなかったと言えるはず、けれど、二人は何も言わない。
―掘り出してあっても跡は残ってるよね、
心裡に考え廻らせながらクロワッサンを齧り、缶のココアに口付ける。
芳ばしい小麦に唯ひとり想い、ほろ苦い甘さに父の笑顔と真実を探してしまう。
二人の繋がりは未だ明確には解らない、けれど確かめる方法ひとつ今の自分は知っている。
その可能性を考えながら簡単な朝食を終えると周太は左腕のクライマーウォッチを見、微笑んだ。
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