萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第34話 芽生act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-19 23:05:44 | 陽はまた昇るanother,side story
むかしも今も、ただ真直ぐに



第34話 芽生act.2―another,side story「陽はまた昇る」

花を抱いて洗面室へ行くと周太は汲んでおいたバケツの水へ花をはなした。
冷たい水に手を入れて、花切ばさみで水切りしていくと花がなんだか嬉しげで周太は微笑んだ。
水切りを終えると下げておいた仏壇の花瓶に水を張り、そのまま洗面室のサイドテーブルで周太は花を活け始めた。
手に携える水仙の香が頬撫でる、あまい清澄な香りの記憶がふっと温もりになって周太の耳元に触れた。
思わずそっと耳元をふれて香りの記憶が唇からこぼれた。

「…光一、」

―…3分間を俺にくれるかな?そうしたらね、あとは今まで通りずっと片想いを愉しむからさ…よし、今から3分間。はい、

鑑識実験のザイル狙撃、その銃座ポイントになった山腹にひろがる雪の森。
あの森で光一は3分間を周太に求めて、きれいな笑顔で長い腕を伸ばして周太を抱きしめた。
抱きしめられた胸は水仙に似た潔い香が透明で、その香が鼓動の温もりと一緒に周太の頬を撫でてくれた。

―…周太、
 周太。俺のドリアード、唯ひとり恋して愛している。
 14年間ずっと君だけ想ってた、そしてこれからもずっと、いちばん大好きだ

くるみこまれる香り、底抜けに明るい目の純粋無垢な微笑、透るテノールの幸せそうな声。
宝物の呪文のように名前を呼んで光一は笑いかけくれた。
幸せな笑顔で周太の瞳を真直ぐ見つめて、明るく透るテノールの声で想いを紡いで告げてくれた。

―…俺はね、周太がいちばん好きなんだ。ほんとは、いちばん欲しかった
 でも君の望みのままに生きる姿はもっと欲しいんだ、そうやって君を守りたい
 周太には、望みのまま幸せに笑っていてほしい、だから君が愛している宮田のところへ帰してあげる
 でも覚えていて、周太?山ヤの誇りと自由と同じくらい、俺には君が大切なんだ。君は俺の大切な山桜のドリアードだから

あのときは英二だけが唯ひとり周太の愛するひとだった。
それを光一は理解してくれていた、そして周太の笑顔の為に自分は何も望まないと笑ってくれた。
その笑顔があんまり純粋無垢で一途で、そして透明な想いがまばゆくて、きれいだった。
だから自分は14年の歳月を超えて再び光一を見つめてしまった。

いまはもう、光一のことを想っている。
この水仙の香にすら面影の気配を重ねて、やさしい温もりの記憶に微笑んでしまう。
あまい清澄な香りはどこか、純粋無垢で誇り高い光一の透明な心と似ている感じがする。
この花の言葉は「うぬぼれ、自己愛」が有名だけれど、これは華やかな西洋種につけられた花言葉。
いま手にする水仙はシンプルで高潔な姿をした和種になる、この花の言葉に周太は微笑んだ。

「気高さ、神秘、…愛をもう一度、」

最高の山ヤの魂をもつ最高のクライマーと、山岳救助隊員たちにも賞賛される光一は誇らかな自由に気高い。
そして「山の申し子」と英二も言うようにどこか神秘的な雰囲気を持っている。
そんな光一が14年前に雪の森に生まれた愛を再び甦らせた、そんな光一の面影がこの花に見つめられてしまう。
別名「雪中花」ともいう水仙の、すっくり伸びた青い葉が清廉な誇らかに高潔うつくしい花姿。
白い花の高雅な趣がきれいな香り高い花。この花も山桜の森で雪のなかに咲いていた。

そしてもうひとつの「雪の花」スノードロップも森には咲いている。
いま庭で摘んだばかりの雪の花を活けながら、その花言葉を見つめた。
希望、慰め、逆境のなかの希望、恋の最初のまなざし。これが雪の花の言葉たち。
雪を割って咲く姿と言葉は英二に重ねていつも想ってきた、けれどいま光一との想いにもこの花は重なってしまう。

どんなに愛していても無理に抱かれた体の恐怖は残っている。
その恐怖に英二へと怯えを抱いてしまった、恋愛は体で繋がる義務があるのかと心が悲鳴をあげかけた。
けれど光一は底抜けに明るい目で笑って周太を見つめて、微笑んでくれた。

―…俺はね、君が心から求めない限りはしない
 俺は君が大切で「山」への誇りの全ても懸けて愛している。だからね、体のことも無理には必要ないんだ
 君の笑顔が見られたら幸せなんだよ。ふたり一緒にいられて好きなだけ見つめられる、それで充分に幸せなんだ

ほんとうは自分は小柄な体にコンプレックスがある、だから吉村医師に「心の大きなひとに成れる」と言われて嬉しかった。
英二や光一のように大きくて美しい体には憧れてしまう、自分の体に哀しい卑下もしてしまう。
だから尚更に、体の繋がりが無くても好きと言ってほしかった。
心だけでも幸せで大好きと真直ぐ心を見つめてほしかった「心」はすこし自信を持てるかもしれないから。

そんな自分にとって、真直ぐ心を見つめてくれた光一の想いは「希望」に想えた。
大らかな誇り高い優しさは明るくきれいで「慰め」の温もりとなって体と心の傷を癒してくれた。
そうして光一に癒されたからこそ、英二への想いを捨てずに温めることも出来るようになっている。
そしてあらためて、14年前の初めて出逢った日に見つめ合った最初のまなざしが甦っていく。

―…君が大好きだ。だからさ、また逢いたいんだよ?だから約束したんだ、ずっと君を待ってる
 ん、…テディベアとか好きでも、だいじょうぶかな?…花とか料理とかケーキとか…男なのに好きとかってどう思うかな?
 好きならそれで良いだろ?男も女も関係ないね、好きなものがあるのは楽しいだろ?甘いもんだって俺は食うよ、
 俺は花も料理も好きだね。山で花を見るのは特に良いもんだ。料理も河原で焚火してやるとね、また旨いよ?作ってあげるよ

あのころの自分は「男の子なのに変」と言われることが多くなって、心から好きなひとは両親以外にいなかった。
だから光一にありのままの周太を「大好き」と言われて嬉しくて幸せで、そして自分も光一が好きだと想った。
初めて両親以外の人を心から好きだと想った、そしてまた逢いたいと心から想えた。
そしていまも逢いたい、花瓶を抱えて廊下への扉を開きながら想いが唇からこぼれ落ちていく。

「…恋の、最初のまなざし…」

木洩れ日ふる雪の輝き、陽だまり温まる岩の椅子、輝く光の花さく山桜。
ゆるやかに雪の森を駆ける風がふくんだ樹と水の香、かすかな水仙の香、チョコレートの甘さ。
そして雪のように透明な肌と漆黒の髪に、底抜けに明るい目をした背の高い少年。
あの明るい目の温もりが「恋の最初のまなざし」だった。

―…このクマ、かわいいな。君のたからもの?

あの日もリュックサックから顔を出していた「小十郎」
生まれてすぐに父が贈ってくれた大切なテディベア「小十郎」
そんな大切な宝物のことも13年前の春の夜に自分はすっかり忘れてしまった。
あのクマのぬいぐるみは、どうしたのだろう?

…小十郎、無事にどこかにいてくれる?

ひとりっこの自分にとって「小十郎」は大切な兄弟のようで分身のようだった。
どこか寂しい気持ちの時も、やわらかな毛並みに頬寄せれば温もりが心癒してくれる。
やさしい穏やかな想いと記憶があのテディベアには籠められて、大切な宝物だった。
あの大切なクマは今どこにいるのだろう?大切な「小十郎」の安否を想いながら周太は南西の部屋の扉を開いた。
温かい陽射しゆるやかな座敷を進んで仏壇の前に膝まづくと、そっと花瓶を供えて微笑んだ。

「…ね、お父さん。あの日の約束、叶えられたね…?」

14年前の雪の森からの帰り道。
光一と別れてから周太は父と近くの山をすこし登って写真を撮ってもらった。
それから雪見の露天風呂に入って、温かい湯から手を伸ばして雪にふれてはしゃいで。
その帰り道の車のなかで水筒のココアを飲みながら、周太は父に「また来たい」と約束をねだった。
そして4月には必ず連れてくると父はきれいな笑顔で約束をしてくれた。
母が泊まりで旅行に出る留守番のために休暇を取るから、必ず時間が作れるよと笑って指切りげんまんしてくれた。

「この水仙にも雪の花にも…光一が、」

見つめる想い鼓動を咬む、それでも微笑んで周太は仏壇を見あげた。
こうして朝も座って父へ、祖父と曾祖父にも周太は帰宅の挨拶を祈り、そして報告をした。
年明けに祈りに告げた英二との婚約、その意味がすこし変化したことを父達に聴いてほしかった。
そうして祈りながら英二への尊敬と感謝をあらためて想い自分の道を見つめた。

これから母にも同じように告げなくてはいけない。
ひとつ呼吸をしてもう一度だけ父たちの位牌を見つめると、しずかに周太は立ちあがって台所へと向かった。

今日の献立は早春の野菜を使って考えた。
新玉ねぎに鶏挽肉を詰めチーズをのせてオーブンで焼いたもの。菜の花と春キャベツのパスタは温泉卵を添えて。
メインは旬魚のムツを香草焼きにしてトマトソースに載せた。付合せは蕪や蓮根にブロッコリーなど旬の温野菜。
ちょっとした前菜風のカラフルな一皿も作ってみた。デザートは手作り苺ソースのアイスクリームを準備してある。
そんな早春の食卓をダイニングに並べると楽しそうに母は笑ってくれた。

「イタリアンのコースね、すごいわ。ほんとお料理上手ね、周は」
「ん、そう?…でもね、牡丹餅とか作れる方が、すごいと思うけど…、」

言いさして周太はすこし言葉を呑んだ。
料理を褒められたことに、つい光一の料理を思い出して口にしてしまった。
まだ頭で話す順序の整理がついていないのに?すこし途惑って俯いていると母が微笑んだ。

「まずはね、いただきます、しよっか?ね、周、」

母の言葉にほっとして素直に食卓へと周太は合掌した。

「ん、…いただきます、」
「はい、いただきます、」

ゆっくり母と食事を楽しみたい、そう思って簡単だけどコース仕立てにしてみた。
ひさしぶりに作ってみたけれど母の口に合うかな?
そんなふうに見つめる先で母は楽しそうにフォークを運んでくれる。

「うん、周。良い味ね、さすがだわ。おいしい、」
「ほんと?よかった、…今日はね、春キャベツと新玉ねぎが良さそうだったんだ、」

料理の話を母としながら囲む食卓が楽しい。
こんなふうに光一とも話しながら御岳の家でも牡丹餅といなり寿司を作った。
初めての牡丹餅づくりは楽しくて餡も家で作れるんだなと感心した、美味しそうに食べてくれた英二の笑顔も嬉しかった。
いまごろ英二と光一は自主トレーニングをしているだろうな?
ふたりと一緒にボルダリングをした御岳渓谷を思い出しながら、母との他愛ない会話と穏やかな時間を周太は楽しんだ。
そして食卓の料理がほとんどなくなった頃、すこし悪戯っぽく笑って母が訊いてくれた。

「で、周?牡丹餅はね、誰が作ってくれたのかな」

母の言葉に周太は気恥ずかしげに微笑んだ。
真直ぐに母の黒目がちの瞳を見つめて、そして静かに口を開いた。

「お母さん、14年前の雪の朝に、お父さんと奥多摩へふたりで行ったこと、覚えてる?」
「うん、覚えているわ。初めて周と『離れる練習』をした時ね。雪の奥多摩はすごく楽しかったって、周は話してくれたね?」
「ん、そのときのこと…」

周太の話に、なつかしげな優しい眼差しが微笑んでくれる。
あの朝に母と交した「離れる練習」やさしい切ない幼い日の記憶。
あまい温もりの懐かしさを見つめながら周太は言葉を続けた。

「あのとき俺とね、雪の森で遊んでくれたひと…そのひとが牡丹餅を作ってくれたんだ、」
「周のこと、雪の森から連れて帰ってくれたっていう、あの地元の男の子?…お父さんの先輩の知り合いだって聴いたけど、」

すこし黒目がちの瞳が大きくなって周太を見つめてくれる。
きっと驚くだろうとは思っていた、だって自分でも再会に驚いたのだから。頷いて周太は母に説明を始めた。

「ん、そのひとなんだ…あのね、英二のアンザイレンパートナーの国村がそのひとだったんだ、」

そっと母の白い手がフォークを皿に置いた。
ちいさくため息を吐いて両掌を組むと母は軽く首傾げて、懐かしげに穏やかに微笑んでくれた。

「そう…あの男の子も警察官になったのね?しかも英二くんのパートナーで山ヤさんで。でもそうね、納得できる話だわ」
「納得できるの…?」
「うん、だってね、お父さんの先輩の、後藤さんってお名前だったよね。あの方は警視庁で有名な山ヤさんでしょう?
その知り合いってことはね、その子も同じように山ヤさんなのかな、って思って。でも、どうして国村くんだって解ったの?」

訊いてグラスのペリエをひとくち飲むと、また掌を組んで「聴かせてね?」と微笑んでくれる。
光一のことは「山の秘密」は話せないけれど出来る限り話したい。頷いてまた周太は口を開いた。

「俺ね、1月に青梅署へ急な出張で行ったんだ。銃の弾道を調べる実験があって。
そのテストするための射手としてね、青梅署の警察医の先生と、後藤さんが俺を呼んでくれたんだ。
でね、もう1人のテスト射手が国村だったんだ…それで2日間一緒に仕事していて、雪の奥多摩に来たことあるって話になって…」
「それで、国村くんと周太が会ったことあるって、解ったのね」
「ん、そう、」

ほっと息を吐いて周太はグラスに口をつけて飲みこんだ。
発泡性のひんやりした感触がのど潤していくのを感じながら、ここからの話にちいさな覚悟をした。
そんな周太に母はやさしく微笑んで、言ってくれた。

「周、想いだしちゃったんでしょ?国村くんのこと好きだったって、」
「…え、」

先に言われて周太は瞳を大きくして母を見つめた。
どうして母には解るのだろう?呆気にとられて見つめていると懐かしげに母は笑って教えてくれた。

「あの日の夜ね?周は一生懸命にお母さんに話してくれたのよ。
『僕も好きなひとに逢えたよ、また逢いに行くって約束したんだ。だから4月のお留守番はね、楽しみがあるから平気』
そんなふうに周は話してくれたの。ほんとうに楽しくて、その子が大好きになった。そんな顔でね、とっても幸せそうで。
そしてね、アーモンドチョコレートを次の日は一緒に買いに行ったのよ。その子に食べさせて貰って楽しかったからって」

14年前の当日に自分は母に話していた。
言われてみて「アーモンドチョコレートを買いに行った」時を周太は思いだしてため息を吐いた。
あのとき本当に自分は光一が大好きになって、そして逢える日を楽しみによくチョコレートを口にしていた。
今日のように庭の山桜に背もたれて、梢の向こう仰いだ空に奥多摩の森を想いながら。
また甦ってくる14年前の記憶と想いを見つめている周太に、穏やかに微笑んで母は話してくれた。

「さっき周がね、山桜に凭れて空を見ていたでしょう?あの姿を見たとき、14年前に時間が戻ったのかと思った。
大好きな男の子を想って逢える日を楽しみに山桜を見つめていた9歳の周太、あのまんまに幸せな、きれいな横顔だった。
だからね、お母さん今こう想ってるの。周は、また国村くんのこと大好きになれた。
きっと14年前の約束をふたりで叶えて、いっしょに幸せな時間を過ごした。だってね、周ったら、すごく綺麗になったもの?」

なにも言わなくても母は解ってくれた。
理解してもらえる幸せの温もりに周太はそっと頷いて微笑んだ。

「ん、俺、国村がね…光一のこと大好き…ずっと考えちゃうんだ…
それでね、おかあさん?英二は俺のこの気持ちをね、受け入れてくれるんだ…
その、あの…からだのことしなくていいって…でね?それでも婚約者のままでいて欲しいって…俺のこと守りたいって…」

おだやかに見つめながら母は頷いてくれる。
すこし途切れた周太の話に、そっと唇を開くと母は訊いてくれた。

「周が他のひとを好きになって良い…
実質は婚約者としてつき合わなくても良い、けれど周を守るための立場として婚約はそのままにしたい。そういうことね?」
「ん、そう…英二にね、ごはん作って、それで帰る居場所でいてくれたらいい。そう言ってくれた」
「英二くん、ここへ帰って来てはくれるのね?そして、周と一緒にいてくれる。そういうことかな?」
「ん、」

頷くと母は「そう、」とやさしく頷いてくれた。
おだやかな温かい黒目がちの瞳に見守られて、周太は言葉を続けた。

「俺は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだから、色んな人に出会ってほしいって…
きちんと恋愛とも向き合って、友達や大切なひとを見つけて、もっと幸せに笑ってほしいって。
もし英二と結婚しても、大切なひとを想う心は、ずっと大切にしてほしい、そして幸せな笑顔見せてって…英二、」

母を見つめる視界に水の紗がおりてくる。
ゆるやかに頬を温もりが涙になって伝いおりて、そっと食卓のグラスへと零れこんだ。

「おかあさん、…英二がね、俺のこと好きになってくれたから、だから俺は奥多摩へまた行けたんだ。
そして光一と逢えたよ、おかあさん…おとうさんがね、ほんとうは連れて行ってくれる約束だった、
けれど英二がね、代わりに俺を奥多摩へ連れて行ってくれて…そして光一との約束も叶えれたんだ…
おかあさん、…俺ね、英二のことも大切なんだ、帰る場所になりたい…でも光一のこと大好きで、それで、俺…」

言葉と一緒に涙になって想いがこぼれおちていく。
そっと母は微笑んで立ち上がると、椅子ごと周太を背中から抱きしめて明るく笑ってくれた。

「うん、よかったね、周?…やっぱり英二くん、かっこいいね?…光一くん、やっぱり今も良い子だったんでしょ?」
「ん、…ぜんぜん変わってないんだ、あのまま純粋でね、きれいな目のままで…やさしくて、温かくて…俺を待っててくれた」

「よかった。おかあさんね、会ったこと無いけど、きっと良い子だって想ってたの。
だってね、周はなかなか人を好きになれない。そんな周をすこしの時間で大好きにさせたんだもの?
そして周を大好きになってくれて。だからね、また逢えたらいいのにって、ほんとうはね、お母さんも想ってた」

「ん、…ありがとう、おかあさん、…ほんとに光一はね、すてきなんだ…前も今もね、大好き…」

抱きしめられながら涙がとまらない。
涙になって想いがこぼれて、周太は素直に母に話した。

「あの日の約束…必ず逢いに来るって…それを信じて光一、ずっと待っててくれた…
14年間ずっと俺のことをね、いちばん想って、愛して、待っててくれたんだ…幸せで温かくて、それで記憶が戻って…
山の話も花の話も、変わっていない…そのままの俺を受けとめて、見つめて、守ってくれる…もう、光一を、忘れたくない、」

やわらかく母は微笑んで、そっと周太の頬をぬぐってくれる。
そして優しく周太の掌を取ると立ち上がらせてくれた。

「周太、ちょっと一緒においで?」

楽しそうに微笑んで母は階段へと周太を連れて行く。
素直について昇っていくと母は北西の主寝室の扉を開いた。
ここは今、母ひとりの部屋になっている。この部屋に掃除以外で入るのは周太は久しぶりだった。
冬の午後の陽が西側のバルコニーから、木枠美しいガラス扉を透かして温かくふってくる。
おだやかな温もりのなか、母はクロゼットを開いて静かに抱き上げると周太をふり向いた。

「…小十郎、」

つぶやいた名前の主が、母の腕に抱かれて周太を見つめていた。
黒い目のかわいい優しいテディベア、ずっと幼い自分が宝物にしていた。
寂しいときも慰めてくれた大切な自分の分身のような、やさしい穏やかな記憶こもるクマ。
いつも連れて歩いていた、雪の森で光一と出逢った瞬間も背中のリュックから「小十郎」は見つめていた。
大切な温もりこもる「小十郎」との再会に周太は幸せに微笑んだ。

「小十郎…おかあさんが、ずっと大事にしてくれていた?」

微笑んだ周太に母は頷いて笑ってくれる。
なつかしげに抱き上げた「小十郎」を見、周太を見つめて母は話してくれた。

「周太ね、小十郎のこともショックで忘れちゃったの、あの夜にすぐ、ね。
お父さんのことを知らせる電話を、周はリビングで聴いたの…そのまま小十郎はリビングのソファに置き去りにされて。
だからね、お母さんが代わりに抱っこしてたのよ。13年間ここにしまってね、たまにお日さまに当てて、きれいにしながら」

話してくれながら母は周太に「小十郎」を渡してくれた。
受けとって抱きしめると懐かしい香がそっと頬撫でてくれる。
どこかチョコレートに似たあまい香、なんだか幸せで周太は涙の瞳のままで微笑んだ。

「ありがとう、おかあさん…小十郎、ごめんね?ずっと忘れちゃって…また、俺の部屋に帰ってきてくれる?」

テディベアの「小十郎」に周太は13年前の春の夜までと同じように微笑んだ。
自分は23歳の男で社会人で警察官になった。そんな自分がクマのぬいぐるみに話すのはきっと「変」だと言われるだろう。
けれど。 14年前の雪の朝の記憶に周太は母へと笑いかけた。

「あの日にね、おかあさん言ってくれたね…俺を大好きになってくれるひと必ずいるって。
まだちょっと逢えていないだけ、けれど、いつか必ず逢える。だから自分が好きなことを大切にして。
そう言って貰えたときね、ほんとうに嬉しかった…
そしてね、おかあさん?俺、光一に逢えたんだ…14年経ってもまた逢えて、そして…変わらず大好きでいてくれるんだ」

やわらかな「小十郎」をそっと抱きしめて頬寄せると、懐かしい温もりが寄りそってくれる。
忘れていた幸せな記憶と温もりが心に響いていく、響きが涙になってこぼれて周太は微笑んだ。

「あの日、俺がね、好きなひと出来ないかもって泣いたとき。おかあさん言ってくれたね?
大好きって沢山の人にいっぺんに言われて、大変になるって…誰を好きになるか決めなくちゃいけない、って…
おかあさん、ほんとうに俺ね?いっぺんに今、言われてる…英二と、光一と…でも、決められないんだ。どっちも大切で…」

涙になって「大切」な想いがこぼれて、涙になる端から想いがまたあふれていく。
とまらない涙のまま周太は母のベッドの端に座りこんだ。

「どうしたらいいかな?…どっちも大切なんだ、でね?…光一の幼馴染の女の子はね、光一を好きで…美代さんって言って…
美代さんは植物や料理の話が出来てね、一緒にケーキ食べてお喋りして…隠れ家の店も教えてくれて…大切な友達なんだ
でもね、光一は…美代さんじゃなくて俺が好きって…そして美代さんもね、俺のこと友達って信じてくれて…
でも俺…光一のこと好きで…だいすきで、たいせつで…でも英二も美代さんも大切で…決められなくて、ずるいのかな、って」

しずかに母は隣に座ってくれた。
そっと隣から周太を見つめて微笑んで、穏やかに母は言ってくれた。

「うん、…やっぱり大変になっちゃったんだね、周?おかあさんが言った通りになっちゃったね、…
でもね、周?きっとね、3人の想いの全部どれも周には必要なんじゃないかな。
だからね、全部大切にしたら良いの。きちんと大切に出来たらきっとね、周はまた心の大きなひとになれるよ」

涙の目をあげて周太は母を見つめた。
吉村医師に言われたことと母も同じように言ってくれる、周太は口を開いた。

「全部…ん、吉村先生もね、そう言ってくれて…」
「よく話してくれる青梅署の警察医の先生ね?そう、あの先生もそう言ったのね?じゃ、きっと正解なのよ、」

明るく笑って母が頷いてくれる。
そして周太の目を見つめて母は教えてくれた。

「ね、周?周の名前はね、『まんべんなく学んで心の大きなひとになるように』って意味でしょう?
その通りに3人ときちんと向き合って、たくさん一緒に笑って泣いてね、大きな心に成れたら。きっと3人を大切に出来る。
そうして周が心の大きなひとに成ってくれたらね、きっと、お父さんも喜んでくれる。そしてね、きっと英二くんも喜ぶと思うわ」

英二も。そう母は周太に言ってくれた。
どういうことだろう、そっと周太は訊き返した。

「…英二も?…他のひとのこと、光一のこと、俺が好きになっても…?」
「うん、英二くんも。きっとね、彼なら喜ぶと思う」

きれいに微笑んで母は頷いてくれる。
穏やかに周太の瞳を見つめながら、母は静かに言った。

「帰る居場所でいてくれたらいい。色んな人に出会ってほしい。
きちんと恋愛とも向き合って、友達や大切なひとを見つけて、もっと幸せに笑ってほしい。
英二くんと結婚しても大切なひとを想う心は大切にしてほしい、そして幸せな笑顔見せてほしい。
そんなふうに英二くんは言ったのでしょう?だったらね、光一くんのことが大好きなのも喜んでくれる。
英二くんはね、実直で思ったことしか言えない。だからきっと、心からそう願ってくれているのよ。
だから周太、英二くんを信じてあげて?周太を大好きっていう英二くんの真心を、信じて周太は正直に自由に生きなさい、」

英二の真心を信じていく。
英二の愛情を信じて光一との想いを真直ぐ見つめていく。
あのとき、光一が怒りをぶつけて英二を諌めたとき。あのときから英二は大きな愛情で周太を見つめ始めた。
けれどあんな短時間で、どうして英二はこんな大きな心を抱くことが出来るのだろう?
まだ出会って11ヶ月にもならない英二の不思議な包容力が温かい。
こうして与えられたなら、きっと素直に甘えればいい。素直に周太は頷いた。

「ん…おかあさん、俺ね、…英二を信じるね、そして光一と向き合ってみる…美代さんとも。そして心の大きいひとになる…」

青梅署診察室で吉村医師の前でも決心したこと。
あのとき自分はきっとまた泣くだろうと思った、そして母の前で今泣いている。
なんどもこうして泣くかもしれない、けれど吉村医師の前で泣いたときよりも、今の方がすこし強く大きくなれている。
だからきっと大丈夫、すこしずつでも心を大きくして3人の想いへと報いて行けばいい。
13年ぶりに抱きしめた「小十郎」の目を見つめて周太はちいさく微笑んだ。
そう微笑んだ周太に母は、幸せそうに笑って言ってくれた。

「ね、周?たくさんの人に好きって言って貰えて、よかったね?…幸せね?」

ずっと孤独だった13年間、けれど今は3人それぞれの想いで隣にいてくれる。
その幸せが温かい、温もりに微笑んで周太は「小十郎」の瞳へと涙をこぼした。

「ん、おかあさん…俺、いま、しあわせだよ?」

甦った14年前の約束の温もりと母に抱きしめられた「離れるための練習」の記憶、父の笑顔の記憶。
どれも温かくて、いま寄せられる想いのすべてが温かくて、ただ周太は泣いた。
きっと半年もたてば父の軌跡を追う辛い日々が始まる、その時もきっとこの想いの温もりたちが自分を支えてくれる。
きっと自分は辛い日々にも真直ぐ立って越えて、そして穏やかな時を心から取り戻すことが出来るはず。
たくさんの想いのたけを涙にこめて、やわらかい母の香に包まれて周太は13年ぶりに母の懐で泣いた。

やさしい想いと記憶がねむる周太の屋根裏部屋、宝箱のような小部屋の窓際にロッキングチェアーがある。
周太が大好きなロッキングチェアー、そこでテディベア「小十郎」は陽だまりにねむっている。
この小部屋の主の帰りを穏やかに見つめて待ちながら。




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第34話 芽生act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-18 23:40:32 | 陽はまた昇るanother,side story
めざめのとき、春を待ち




第34話 芽生act.1―another,side story「陽はまた昇る」

陽射しに春の明るさが温かい。
立春を過ぎた庭はどこか華やいで陽光が楽しげにふりそそぐ。
庭の山桜の下、梢を見上げた周太は花芽のふくらみに微笑んだ。
あの森の山桜もすこし花芽が大きくなったろうか、大好きな山桜の姿にふっと梢の下に立つ面影が心に映りこんだ。

 ―…いちばん好きで大切だ  
  
冬富士の雪崩。
あの雪崩が周太を奥多摩に向かわせ、その翌日に周太は光一に銃口を向けた。
その銃口の前で光一は温かく微笑んで、父の殉職の瞬間に銃弾で砕かれた約束を誇らかに笑って蘇らせた。
そして山の秘密は14年の歳月を超えて甦り、山桜の記憶が目を覚ました。

 ―…ここはね、秘密の場所なんだ
  秘密の山桜だよ、誰も知らない。だからね、君も秘密を一緒に守ってほしいんだ
  『山の秘密』はね、絶対に内緒で守らないといけない約束だよ?誰にも話さないって約束してくれるかな、いいね?

  ん、約束するよ?

  …君が大好きだ、また逢いたいよ。きっと逢いに来なね、君の木の下で毎日ずっと待ってる
  あの木を、そう言ってくれるの?
  うん、君の木だろ?俺のいちばん大切な木だよ、だから、あの木の下で君を待ってる
  ん、…待ってて?必ず逢いに来るね、いつかきっと…それとね、あなたがね、好き

唯ひと時の雪の森の出逢い。
9歳の朝早く雪がふった1月、雪の花かがやく山桜によせた想い。
あの一瞬の邂逅と想いを14年間ずっと大切な山桜に光一は見つめ続けてくれた。

 ―…唯ひとり恋して愛している。14年間ずっと君だけ想ってた
  俺の大切な山桜のドリアード。ずっとずっと愛している、ずっと笑顔を守ってみせる

これからも愛し続けて守り続けると、光一は純粋無垢な想いのまま誓ってくれる。
ひたむきに真直ぐ想いをくれる光一を無視することも忘れることも出来るわけがない。
けれど自分には婚約者の英二がいる、光一には恋人の美代がいる。
お互いに見つめる相手を持ちながら、それでも14年の時を超えて「山の秘密」は甦っていく。

 ―…今から3分間にね、俺の14年間の想いを閉じ込めるよ。そしてこの先もきっと君に片想いする。
  俺の命と誇りを懸けて君に話して接するよ。
  そしてこの3分間は俺の真実だ、だから俺達だけの秘密にしてほしい、

純粋無垢な想いのままに片想いでも構わないと笑ってくれる光一。
そんな光一への想いが自分にも甦り始めた。

「あなたがね、好き」

これが14年前の雪の森で光一に告げた言葉、この言葉を告げた想いと記憶は甦ってしまった。
誰にも知られず幼い日に「山の秘密」で繋がれた想いが息を吹き返し、ふたつの心は重なり始めている。
そして14年の歳月を超えて「あなたが大好き」と、約束の山桜の下で自分も告げてしまった。

―…大好きって言ってくれるんだね、…信じちゃうよ?
  ん、信じて?

14年前にふたり出逢った山桜の下で告げた想い。
底抜けに明るい目を誇らかに温かく笑ませて、光一は周太の耳元へキスをしてくれた。
それが14年前も同じだったと、やさしいキスの想いに記憶は甦って心に座りこんでいる。

―…信じるよ すこしでも両想いなんだね?だったら電話もメールも遠慮しない、逢いたかったら逢いに行く

山桜の幹に周太は背もたれるとポケットから携帯を取り出した。
そっと開いて受信メールを呼び出すと画面を見つめた。

from  :国村光一
subject:無題
添 付 :雪まとった山桜の枝と木洩日
本 文 :今朝もきれいだ、木洩日と一緒に見つめている。

青空を抱くように白銀かがやく繊細な雪の枝、あざやかな光の梯子がふりそそぐ梢を見あげて撮った写真。
約束の山桜の前に佇む時を過ごした光一の想いが、短い文章と写真に伝えられる。
こんなふうに光一は毎日をメールに伝えてくれるようになった。

…ほんとうに、ずっと想ってくれている。純粋無垢なままで

いま背にふれる大きな山桜。
この庭は祖父が奥多摩の森を映して造ったと幼い日に父から聴かされた。
この山桜も、光一が大切にする奥多摩の森深くに佇む山桜を映して、繋がっているかもしれない。
いまごろ光一は御岳駐在所で昼食を摂っている、この昼休憩の合間を自主トレーニングに英二と行くだろう。
そっと携帯を操作して周太は、もう一通の受信メールを見つめた。

from  :宮田英二
subject:雪の朝
添 付 :本仁田山頂からの朝陽にそまる雪景色
本 文 :おはよう、周太。朝早く雪が降ったよ、今朝も国村に起こされて本似田山に登ってきた。
    いつも通り三角点で手形を押して、カップ麺食ったよ。朝陽がきれいで見せてあげたかったな。

美しい朱にそまっていく雪の山波と紺青から黄金へと遷ろう空。
やさしい文面が穏やかな英二らしい、きっと光一と2人で元気に楽しい時間を過ごしたのだろう。
いつも一緒に笑っている2人の姿が好き。今朝のふたりの姿を想って微笑みながら、首傾げてすこし考え込んだ。
ふたりへの想いがこんなふうになるなんて?あの冬富士の雪崩が起きるまで周太は考えたことも無かった。

冬富士の雪崩のあった日、英二の安否が解らなくて青梅署警察医の吉村医師に電話して泣いてしまった。
いますぐ青梅署へ行って英二を待ちたい、そう告げた周太を吉村医師は弾道調査実験のテスト射手として招聘してくれた。
そして実験の2日目に周太は光一へ銃口を向けてしまった。
その理由は、雪崩で受傷した事に山ヤの誇りを傷つけられた光一が、受傷の事実を英二が秘匿しなければ体を奪うと宣言したから。
唯ひとり愛する英二を「体を無理強いする」ことで傷つけられたくなくて、光一の宣言を撤回させたくて銃を向け脅迫して。
そんな周太に光一は真意を教えてくれた、そして14年前の想いと約束の全てを蘇らせてくれた。

そうして甦った14年前の雪の森の記憶も想いも愛しくて。
その愛しさをすこし見つめたくて、周太は英二との「あの時」を過ごすのを待ってほしかった。
けれど。 いま思わず携帯を握りしめた両手へと哀しいため息が零れた。

…こわかった、…ほんとうに、うそならいいのに…

やめて、待って、時間がほしい。
そう願っても英二は止めてくれなくて、与えられる愛撫は苦痛と哀しみと恐怖でしかなかった。
やめて、離して、怖い ― 願いを聴いてもらえず砕かれた想い、その恐怖のまま心が体と離れてしまった。
哀しくて。大好きで愛するひとに裏切られた、その想いが哀しくて無理強いされた体には恐怖が残ってしまった。
そんな周太に気がついた光一は本気で怒って泣いてくれた、英二を厳しく諭して「体」のことを解らせてくれた。
そして気付いた英二は新宿署独身寮に送ってくれた別れ際、いつもの街路樹の下で周太に優しい想いを贈ってくれた。

 ― 周太が俺を支えてくれたように、周太が望みに生きる姿を支えたい
   周太が望まないならね、無理に体で繋がらなくっても良いんだ…恋愛すらも望むまま自由に生きてほしい…
   周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだろ?だから、色んな人に出会ってほしいんだ
   たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしい
   いつか俺と結婚してもね。周太が大切なひとを想う心は、ずっと大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せて?

きっと英二は「山の秘密」は知らなくても、光一と周太の想いに気がついている。
それでも繊細で豊かな優しさのままに英二は、周太の想いを真直ぐ受けとめようと決心してくれた。
そうして英二が告げてくれた「約束」は温かくて、うれしかった。
体のことでは恐怖がまだ竦んでしまう。
けれど、あの別れ際に告げられた想いたちに英二への愛する想いがまた深まっている。
そして自覚させられる、13年間の孤独から救ってくれた英二への想いは枯れることは無い。

それでも光一への想いも時の経過と共に深まっていく。
失った記憶に抑圧された14年の歳月、それだけに甦れば鮮やかで。ただ純粋無垢な想いに温もりが愛しくて。
日々よせられる短い文と写真は、ゆっくり動き出していく山桜の下に廻る想いを告げてくる。
14年の歳月にも枯れない花、それが光一の唯ひとつの想いだと知らされる。

「…季節は色を変えて、幾度めぐろうとも…」

そっとこぼれた呟きに周太は微笑んだ。
ポケットのipodからイヤホンを左耳へ繋いでスイッチを押す、かちりと音がしてちいさなノイズが耳をくすぐってくれる。
そして静かな旋律が透明なテノールの声と低く紡がれ出していく。

  …
  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う

  奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
  微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
  降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い

  夢なら夢のままでかまわない 
  愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから…
  
「ピアノだけでもらしくないのにさ、弾き語って歌って、録音までさせちゃうんだね?」

雪の森から光一の部屋に戻ると、もう一度ピアノと歌を聴かせてほしいと周太はお願いした。
仕方ないねと笑って飴いろのアップライトピアノを開くと光一は弾いて、低くやさしい声で歌ってくれた。
それをずっと聴いていたくなって周太は録音してほしいと「おねだり」した。
ねだられて困ったように笑って、けれど底抜けに明るい目は温かく微笑んで頷いてくれた。

―…ね、光一?この曲すきだな…いつも聴きたいな
 うん?ああ、CDあるからダビングしてあげるよ。ipod持ってたよね?
 ん…あのね、光一のピアノと歌がいいんだけど
 ほんとに?…いや、さすがの俺だってね、ちょっと恥ずかしいよ
 でも、いつも聴きたい…ね、光一のがいいな?
 ピアノだけでもらしくないのにさ、弾き語って歌って、録音までさせちゃうんだね?
 ピアノも声もね、光一に似合ってるよ?…すごくきれいな声、ピアノ…好きなんだ。だから、お願い?
 お願いで「おねだり」なら仕方ないね?…絶対に、誰にも内緒だよ?らしくないって、恥ずかしいからさ

やさしい温もりに笑って光一は周太の「おねだり」を叶えてくれた。
そして周太に乞われるまま数曲をあの静かな屋根裏部屋で弾いて、録音してくれた。

「じゃあさ、適当に弾いてダビングするからね?そこ座っててもいいよ、ちょっと待っててね」

そう言って白い指は、こざっぱりした白いカバーのベッドを指さしてくれた。
白いベッドに座りこんで壁に凭れると、ちょうどピアノの前に座る光一の横顔がよく見える。
いつもの愉快で豪胆な顔とは違う、繊細で透明な表情の横顔。黒と白の鍵盤ふれる白い指。
静謐が居心地いい光一の屋根裏部屋で周太は、心ゆくまでピアノと透明なテノールの声に寛いだ。

見事な梁がうつくしい、磨き抜かれた木材が見事な屋根裏部屋。
深い黒栗色の木材に合せた文机、書架、和箪笥、木製のベッド。重厚な黒栗色と白の清々しい空間。
その空間に青色を添える、額縁に収められた見事な雪山の写真は窓のように美しい。
黒栗色と白と青の部屋はどこか雪に眠る山にも似て、清澄な温もりは落ち着いて居心地よかった。
あんまり居心地良くて優しい声と旋律に安らいで、つい周太は眠ってしまった。

「…墜落睡眠の癖がね、出ちゃった、ね?」

思い出してこぼれた呟きに首筋が熱くなってくる。
庭の山桜の下で周太はそっと首筋を撫でて、困った顔で微笑んだ。
ちいさい頃から周太には墜落睡眠の癖があって、すとんと眠ってしまう。
その癖はリラックスしていると出て、警察学校で英二と徹夜勉強する最中にもよくあった。
ひとりの時か心許して安心できる相手のときに出る癖が、光一の自室でも出てしまった。

ふっと目覚めると、黄昏はゆるやかに屋根裏部屋をそめていた。
ストーブの穏やかな薫、ブランケットくるまれる温もり、やさしい低い透明な旋律。心地よさに微笑んでまた周太は瞳を閉じた。
けれど透明な旋律にどこで眠っているのか思い出して、また周太は睫毛をあげて視界を見つめた。
見つめる視界にはアップライトピアノが黄昏の光に映えて、飴いろの木肌は金色に照らされていた。
そのまえで睫毛を伏せる横顔はピアノの向こうを見つめて、白い指は穏やかに低く透明な旋律を奏でていく。
黄昏うかぶ雪白の秀麗な横顔はきれいで、旋律奏でる白い指がやさしくて、ただ見つめて周太は微笑んだ。
その微笑みに気がついたように、ゆっくり横顔は振り向いて細い目は温かく笑んでくれた。

―…お目覚め?気分どうかな、

底抜けに明るい目が笑って、ピアノの指を止めるとベッドの脇に座ってくれた。
周太の瞳を覗きこんでくれる眼差しがやさしくて温かい。穏やかな温もりがうれしくて周太は微笑んだ。

―…ん、すごくね、温かで居心地いい…ありがとう、寝ちゃってごめんね?
 昨夜はあまり寝てないからね?居心地良いなら嬉しいよ、よかった。
 ベッド使っちゃってごめんね…光一こそ疲れていたよね?
 大丈夫だよ。俺はね、遭難救助のビバークで徹夜とか慣れてるからね。寝顔すごく可愛かった、眼福で元気もらえたよ?

そんなふうに幸せそうに光一は微笑んで、そっと周太の耳元にキスしてくれた。
ふれる温かな吐息とやわらかな熱がやさしい光一のキス、14年前の別れ際にも贈ってくれた。
おだやかな幸せに微笑んだ周太を純粋無垢な目が見つめてくれる、そして光一は明るく笑った。

―…14年たっても純粋なままだね、ドリアード…きれいで可愛い、大好きだよ?
 ん…恥ずかしくなるよ?
 そんな気恥ずかしげにされるとさ、ちょっと危ない気持ちになっちゃうね?…茶でも淹れてくるよ、のんびりしてて

そう言って笑って光一はココアを作ってきてくれた。
ココアを飲みながらフロアーランプの温かい光のなかで、光一はアルバムを見せてくれた。
日本の山、世界の山。
春やわらかな緑と桜にけぶる山、夏盛んな青嵐の山、秋燃える紅葉の山。
そして青と白の雄渾なねむりについた冬の山、雪と氷がおさめる峻厳の高峰。

 ―…きれい…冬の富士山?
  そ、冬富士の天辺だ。エベレストと同じ状態になってる、写真撮るときはね、ほんと要注意だ…でも、きれいだろ?
  ん…すごく静かな世界だね?…ひとの世界じゃないってわかる…
  だろ?ほんとにそうだよ…これはね、田中のじいさんが撮ったんだ。御岳の春に咲く花だよ、
  ん、きれい…すみれだね、山のすみれ…見てみたいな、
  見においで?たくさん咲く秘密の場所だよ、連れて行ってあげる…こっちはね、穂高岳。中2の時かな、俺が撮ったやつ
  穂高はね、行ったことあるんだ…涸谷っていうところの山小屋までだけど、父と夏に…
  行ったんだね、じゃあ…これなんか懐かしいかな?おやじが撮ったんだ、

あまい温かな湯気と美しい写真、おだやかなストーブの温もり。
やさしい時間が寛げて幸せだった。あんなふうに寛いだのは遠い昔、やさしい遠い感覚が甦っていくのが幸せだった。
あんな時間をくれるひとを、どうしたら想わないでいられるのだろう?

― いちばんね、恋愛を見つめてほしい。きっとね、周太が幸せになるためには大切なことだから

別れ際に英二はそう言って周太に笑いかけてくれた。
きれいな優しい大らかな笑顔は初めて見る英二の表情で、周太は見惚れながら微笑んだ。
初めて見る美しい表情、けれど、どこか懐かしくて温かい記憶が呼ばれていく。呼ばれる記憶にそっと周太はつぶやいた。

「…おとうさん?」

やさしい切長の目で美しい笑顔を見せてくれた父。
射撃の名手の警察官として危険多い任務に立たされながらも、いつも笑顔とやさしさを失わなかった父。
すこしの余暇があればいつも息子に本を読み、一緒に山の時間を楽しんで、大切な幸せの記憶をたくさん贈ってくれた。
その父がくれた約束をいつも英二は、無意識のうちに叶えて周太に贈ってくれている。そして母まで笑顔にしてくれる。
そんなふうに英二は約束を叶えながら、14年前の雪の森で光一と結んだ約束すら惹きよせてくれた。

― この掌が泥と血に塗れた分だけ、俺は自分の生き方に向き合えた。俺にとって今この掌は誇りなんだ
  山を愛する人を手助けした掌だ。疲れた最後に山で安らぎを求めてね、自分から山に眠った人の想いを受け留めた掌だよ
  それは厳しい、でもその厳しさに俺は立っていたい。そして最高のレスキューになって最高のクライマーと最高峰へ登りたい

いま生きる道を話してくれた英二は誇らかな自由に充ちて輝いていた。
英二は周太と出会ったことから山岳レスキューを志して、山ヤの警察官として奥多摩に生きることを選んだ。
もし英二が山岳救助隊を志さなかったら、青梅署を卒配先に希望しなかったら?
もし英二が山岳レスキューを、山ヤの警察官を本気で目指さなかったら?
そうしたら英二と光一は出会わなかった、そして周太が奥多摩へ行くことも無かったかもしれない。

ほんとうは13年前の春に、父が周太を約束の森へ連れて行くはずだった。
秘密の山桜の下で待ってくれる光一に、周太は逢いに行くはずだった。
けれど13年前の春の夜に父は拳銃で撃たれ、銃弾は父の笑顔もろとも光一との約束も記憶も撃砕いてしまった。
そして叶えられないままの約束を、無意識にも英二は叶えて周太に贈ってくれた。
英二が生きる誇りを山ヤの警察官に見つめたから、厳しい現場の奥多摩に立つことを望んだから。
だから周太は14年の歳月を超えて奥多摩を訪れることが出来た、そして光一と再び廻り逢えた。
そうして14年の歳月を超えて「山の秘密」と雪の森の約束が甦って、いま周太の心を温めてくれている。

甦った「山の秘密」に周太の心は、英二だけを「唯ひとつの想い」とは出来なくなった。
それに気付いた英二は周太の体を無理やりに求め、その償いとして大らかな愛情を抱いてくれた。
大らかな実直な愛情はどこか父に似ている、その愛情のまま光一との想いすら英二は沈黙に肯定して頷いて。
そんないま英二は静謐に周太を守りながら、おだやかな愛情で見つめてくれている。

たしかに英二は周太に酷い仕打ちをしてしまった、けれど光一の怒りに英二はすぐに気がついてくれた。
すぐ気づいて数時間のうちに大らかな温もりを心に芽生えさせてくれた、そして周太を受けとめて優しさを与えてくれた。
英二の過ちは実母の哀しい愛憎が生んだ欠落が原因になっている、それでも英二は豊かな優しさで欠落すら埋めていく。

― 俺は周太が望むなら傍にいる。だからね、周太。安心していい
  どうか自由に人を好きになってほしい、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい

どうして、英二?
どしていつも父の願いも約束も、英二には叶えられる?
どうしていつも英二はきれいに笑って、自分の願いを叶えてくれるの?
どうして?その想いのまま周太は山桜の梢を見あげて、この木を愛した父の面影に微笑んだ。

「…ね、おとうさん?…おとうさんが、英二に逢わせてくれた…そうだよね?」

ちいさな問いかけに春ふくんだ陽射しは、ゆったり桜の梢を透かしてふりそそぐ。
おだやかな小春日和しずかな真ん中で、透明なテノールの声をipodに聴きながら周太は梢を見あげていた。

「…周?」

門から聴こえた大好きな優しい声に周太は振り向いた。
門の傍の椿の木の下で穏やかで快活な黒目がちの瞳は微笑んで、すこし不思議そうにこちらを見つめている。
大好きな母が帰ってきてくれた、嬉しくて周太はipodのイヤホンを外しながら微笑んだ。

「お母さん、お帰りなさい…お昼ごはん、出来てるよ?」
「ありがとう、うれしいな。周、山桜を見ていたの?」

笑いかけながら飛石を踏んで山桜の下に来てくれる。
並んで梢を見あげながら周太は頷いた。

「ん、…お父さんがね、この庭は奥多摩の森を映したって言っていたから…この木も奥多摩と繋がっているかな、って」
「そうね?きっと同じような山桜が奥多摩にも生えているね、…ね、周?」

黒目がちの瞳が周太を見あげて微笑んでくれる。
なにかなと見つめ返すと、すこし首傾げて母は笑った。

「うん、まずはお昼ごはん食べたいな?食べながらお喋りしよう。会うのは久しぶりね、周?」
「お母さん、ごめんなさい。出張とか特練があって…本当はね、もっと前に帰って来たかったんだけど」

弾道調査の鑑識実験で青梅署に行ってから2週間以上も過ぎてしまった。
本当はもっと早く帰ってきて母と話をしたかった、けれど警視庁けん銃射撃競技大会前で練習も多かった。
早く英二と光一のことをすこし話したい、そう思いながらも業務もなんだか忙しくてそのままで。
ちいさくため息を吐いた周太に母は微笑んでくれた。

「いいのよ、解るから。お母さんもね、伊達に警察官の妻はやってなかったよ?
だから事情は解ってると思うから。さ、ごはん食べよう?お腹空いちゃった、今日の献立はなあに?」

やさしい黒目がちの瞳が笑って、そっと周太の背を玄関へと押してくれた。
おだやかで桜に似た母のやわらかな香がふっと頬を撫でて、14年前の冬の朝の記憶が映りこんでくる。
この話を今日は出来たら良い、素直に周太は頷いてすぐ思い出した。

「…あ、お母さん、ちょっと待って?俺ね、仏さまの花を替えようって思って…すぐ摘むね?」

言いながら草花の生える植込みに周太はしゃがみこんだ。
菜の花がもう咲きだしている、1月から咲く水仙も香り高い、そしてスノードロップ「雪の花」。
手際よく花切ばさみで摘みとると周太は花を抱いて立ち上がった。

「お母さん、お待たせ、」
「きれいね、黄色と白の組みあわせね?早春って感じだわ、」

笑いあいながら玄関の扉を母が開けてくれる。
三和土から玄関ホールへあがってスリッパをはくと、母は嬉しそうに笑ってくれた。

「周?お掃除してくれたのね、とても綺麗になってるね?ありがとう、」
「ん、今日はね、練習も無くて早く帰ってこれたんだ…だから料理もすこし凝れたんだ…あ、先に花を活けていい?」
「うん、お願いね。お母さんも荷物置いて、着替えてくるね」

そう言って母は「またあとでね」と微笑んで階段を上がっていった。



(to be continued)

【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】

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第33話 雪火act.9―side story「陽はまた昇る」

2012-02-17 22:43:40 | 陽はまた昇るside story
おおらかな想い、かがやき見つめて




第33話 雪火act.9―side story「陽はまた昇る」

朝は3人で登った道をいま英二はひとり登っていく。
アイゼンに踏みしめる雪は午後の陽に溶けて、また冷え締ってきている。
ざくりざくりと雪の音を聞きながら、おだやかな冬の陽が魅せる木洩れ日を英二は楽しんだ。
ときおり聞こえる梢から雪こぼれる音、樹幹に揺れる針葉樹の緑光る陽に、さっき聴いた曲が響いてくる。

透明な音と沈思の音がたがいに呼びかわす旋律、切ない甘い響きの音たち。
単音と和音が追いかけあい廻る、深い沈思のトーンから透明な音色にうつる共鳴。
雪や風の光、秋のきらめき冬の静謐をみせる森を想わせた、やわらかに透明な旋律の聲。
甘やかな哀切と明るい温もりが美しいピアノに、やさしい低い透りぬけていく美しい声。
ふっと歌詞の一節が想いこぼれて英二は口遊んだ。

「…季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように…夢なら夢のままでかまわない」

底抜けに明るい目をした誇らかな自由まぶしい、誰より大好きな友人。
秀麗な顔に似合わぬエロオヤジで酒豪で、自由な心のままに恋愛も経験も楽しめる余裕が大きい。
美しい山ヤの最高の魂のまま純粋無垢まばゆい、常に真直ぐな偽りない心で英二を運命の友だと言ってくれた。
冬富士の雪崩にも共に耐え抜いた絶対的信頼を結び合える、唯ひとりの生涯のアンザイレンパートナー。
そんな友人が自分の唯ひとり愛するひとに、永遠の「無償の愛」を誓う歌を詠いあげた。

「…枯れない花のように、」

ふっと口遊みこぼれる想いの歌詞が、雪の里山へと静かにとけこんだ。
昨夜も唯一言で誇らかに国村が告げた言葉が、この歌詞に響いてしまう。

―大切だよ?

ただ一言に告げた想い。
誇り高らかな自由に純粋無垢なままの恋と、大らかな温かい透明な愛。
これが国村の唯一の「逆鱗」でもある唯ひとつ大切にしたい想い。
そんな想いがあの歌に教えられた、永遠の無償の愛だと真直ぐに透明なテノールの声が旋律に告げていた。
きっとまだ今の自分には理解しきれない深い大きい純粋無垢な想いたち。

― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

昨夜に国村が言ったことは、この大らかな美しい「無償の愛」を告げていた。
こんな愛し方があるなんて自分は知らなかった、そして知った今は敵わないと思ってしまう。
それでも自分は、自分なりの愛する想いに周太を大切にしたい。
たとえ周太がこの「無償の愛」を選んでも受け入れたい、それが周太の望みなら叶えてあげたい。
そんな祈りがもう心に芽生えて温かい、その温もりがどこか誇らしくて英二は微笑んだ。

登山道から参道に抜けて、山上の集落を歩いていく。
今朝は3人一緒に歩いた雪の道、秋には雲取山に登った翌日に周太と一緒に歩いた道だった。
ざくりとアイゼンに雪ふんで歩き、英二は一本の常緑樹の前に佇んだ。
濃い緑の葉が艶やかに冬の陽へ照り映えている、その豊かな緑のはざまには白い花が凛として空へ咲いていく。
雪を頂きながらも白い花は繊細な花びらを青空へ咲かせ、冬の陽にまばゆく端然と佇んでいた。

―…あの山茶花が、ここにも咲いている…なんか、嬉しいな…なんかね、迎えてもらう感じだな

雲取山から下山した初雪の翌日、周太はこの木を見あげて微笑んでいた。
出逢った頃の頑なで強張っていた顔と別人の穏やかな顔になった、そんな笑顔をうれしく自分も見つめた。
この木は山茶花『雪山』という名の周太の誕生花、同じ花木が川崎の庭でも佇んでいる。
この木を周太の分身のようにも想えて自分は毎日見つめてきた。
一緒に見上げたあの日から2ヶ月を過ぎて今は雪のなかひとり佇んで見上げている。
そして周太は今この奥多摩で英二に体ごと刻まれた心の傷を癒されているだろう、大らかな国村の想いに包まれながら。
いまどうか周太が幸せに微笑んでいてほしい、祈る想いに英二は山茶花へ微笑んだ。

―…ね、周太?俺たちはさ、…いろんなことが、あったね?

春に出逢ってから10ヶ月、周太は英二を支え続けてくれた。
きっと出逢いの瞬間から惹かれていた、純粋で繊細な強い眼差しに見惚れていた。
警察学校を脱走した夜には哀しみを受けとめて泣かせて、暗い憎悪から救ってくれた。
それから拳銃と父親の話をして警察官の道に立つ覚悟を教えてくれた、女子寮侵入の冤罪の時も信じて援けてくれた。
そうして山岳訓練の日に初めて周太を背負い、ともに山岳レスキューへの夢も自分は背負った。
そして迎えた卒業式の夜に英二の想いを受けとめて体の繋がりを受入れてくれた。
あの夜の周太はずっと震えていた、痛みを堪えて泣いていた、それでも逃げないでくれた。
そんなふうに受けとめて隣にいることを選んでくれた、ただ「英二のきれいな笑顔が大切」それだけの理由で。

―…俺の笑顔だけ、祈ってくれた…周太、いつも…

そして今の全てが始まって、自分は山岳救助隊員として山ヤの警察官として生きる道も誇りも、最高峰の夢まで手に入れた。
そんな自分の夢も誇りも全てを、周太は微笑んで受けとめて純粋なやさしい温もりで支えてくれた。
10歳の純粋無垢なままでも強く立って勇気を抱いて、ずっと自分を支えてくれた。
それはどんなにか決断と覚悟が必要だったことだろう?
どれだけ周太は泣いたのだろう?

―…たくさん、泣かせたよね?…ごめん、…ごめん周太

その涙と想いに自分は報いたい。
英二が望みのまま生きることを望んでくれた周太、だから周太が望みに生きる姿を自分が今度は支えたい。
たとえ周太が国村の愛を選んだとしても微笑んで受け入れたい、そして真直ぐに周太を守りたい。
それがたとえ自分の居場所を失うのであっても構わない。
ただ真直ぐに心で繋がり支える大きな愛情を自分も抱きたい。

―…ね、周太?俺はね、今からが本当に周太を愛せるようになる…きっと、

ゆっくり目の奥へ熱が昇りかける、それも微笑んで英二は瞬くと想いと一緒に呑みこんだ。
そうして涙を呑んだ心から、想いが言葉になってこぼれた。

「…周太、ありがとう、…愛しているから、自由をあげたいよ?そして、笑ってほしいよ、」

雪輝く御岳の空へと想いがとけて、ふく山風が駆けぬけた。
やわらかな雪ふくむ山風に白い花びらが舞いふって、ゆるやかに英二の頬を撫でて花は散っていく。
静謐の御岳の山に咲く白い花の木の前で英二は舞いふる花に微笑んで佇んだ。


夕食は周太のリクエストで「ラーメン」だった。
青梅署診察室での吉村医師と過ごすコーヒーの時間を楽しんで、国村の四駆に周太の荷物を積んだ。
そして周太のリクエストに国村は笑って、青梅署からも近いラーメン屋に四駆を停めてくれた。

「海鮮系だよ、海老と鯛のだしがあるんだ、」
「へえ、変わってるな?」

英二も初めて来た店だった、食券を買って注文すると水を飲んでひと息ついた。
初めての店を珍しげに眺めている周太が可愛くて英二は微笑んだ。
いつもの新宿の店とは雰囲気がまた違う、きっと珍しさを周太も愉しんでいるのだろう。
間もなくラーメンが運ばれて、食べながら英二は口を開いた。

「午後は?」

質問に国村は底抜けに明るい目で温かく笑んで頷いてくれる。
そしていつもの調子でからり応えてくれた。

「うん、ちょっと近場のね、景色のいいとこ案内したよ。奥多摩湖とかさ、あとはウチで茶を飲んだね」
「あ、国村ん家に行ったんだ?」

ひとつ心拍を聞いて英二は相槌を打った。
午前中も国村の家でふたりは過ごしていた、それは重箱の牡丹餅といなり寿司で堂々と国村は明かしている。
けれどピアノのことは周太も何も言わない、だから英二も訊かないでいた。
午後もまた国村はピアノを弾いたのだろうか?そんな質問を温かいスープと一緒に英二は呑みこんだ。
きっと聴かない方が良いな、そんなふうに秘密をそっと見守っていたい優しい想いが素直に生まれている。

ふたりの繋がりに気づき、国村の怒りに自分が犯した過ちを気づかされたのは数時間前のこと。
その数時間で自分も随分と変われたのかな?いま自分の裡に見つめられる優しい沈黙が進歩を感じさせてくれる。
すこし大人になれたかな、心の麻痺が治ったかな?うれしくて微笑んだ英二に、ゆったりと周太が教えてくれた。

「ん、…写真をね、見せてもらったんだ。きれいな雪山の写真、素敵だったよ?」
「雪山?…あ、田中さんのか?」

御岳を愛したアマチュア写真家の山ヤ、田中。
田中は国村の親戚で、マナスルで亡くなった両親の代わりに国内の高峰へ国村を連れて登り山ヤの基礎を教え育てた。
その田中は氷雨に打たれ故郷の御岳山に抱かれる眠りについた、その時に田中を看取ったのは英二と国村だった。
御岳を愛し美しい山ヤの人生を送った田中は「山を愛する気持ちを撮っている」と英二にも教えてくれた。
その遺作を何点か国村も持っていると聴いていた、英二の質問に国村は懐かしげに微笑んだ。

「うん、田中のじいさんと一緒に登ったときの写真とかね。あとはさ、おやじの撮ったやつ」
「おやじさん、写真家だったのか?」

高峰マナスルで国村の両親はセラック崩壊に巻き込まれ亡くなったことは英二も聴いている。
あとは農家だったことは知っているが、写真のことは初耳だった。聴かれて国村は笑って教えてくれた。

「農家やりながらね、登りに行くと撮ってた。山専門のフリーカメラマンだったんだ、学生時代かららしいけどね」
「へえ、すごいな。じゃあ国村、身内にカメラマンが2人もいるんだな、」

英二の質問に笑って国村は頷いた。
そして箸を動かしながら父親の話をしてくれた。

「そういうことになるな?おやじはね、田中のじいさんの影響で山も写真も始めたんだよ。
で、おやじはプロになっちゃった。だからさ、ウチのじいさんからすると『写真の所為でクマ撃ちをやらなかった』ってお冠だ」
「そっか、それで国村のことは子供の時からクマ撃ち猟に連れて行ったのか?」
「そ、早いうちに仕込んでしまえってね。で、お蔭で俺はさ、射撃も写真もそれなりになれたってワケ」

からり笑って教えてくれる。
いま「写真も」って言ったな?英二は首傾げて微笑んで訊いてみた。

「おまえ、写真も出来るんだ?」
「うん?ま、出来るってほどでもないけどね。
おやじと田中のじいさんとね、2人掛かりで山に連れてかれて写真撮ってればさ?いいかげん覚えちゃうだろ、」
「ふうん、おまえって何でも出来るな?ね、周太、国村の写真は見たの?」

急に話が回ってきて驚いたように周太が丼から顔を上げてくれた。
ちょっと驚いて大きくなった瞳が可愛い、やっぱり愛しくて英二は微笑んだ。
すこし首傾げると周太は口を開いてくれた。

「ん、見せてもらったよ。マッターホルンとか…三大北壁?どれもね、きれいだった」
「グランド・ジョラスとアイガー?」
「ん。そう、それ…マッターホルンのね、山小屋が不思議だった…どうやって建てたのかな、って」

温かな丼に箸をつけながら周太は明るい目で楽しそうに話してくれる。
きっと寛げる楽しい時間を過ごしてきた、そんな様子が解って英二は嬉しかった。
こんな寛ぎを自分はあげられない、けれど周太には必要な事だとこんな会話の様子からも解る。
これからどう周太に接したらいいだろう?その考えを新宿に着くまでに纏められるだろうか?
出来れば新宿での別れ際にはきちんと話しておきたい、そして落ち着いた心で周太には2月の射撃大会に臨んでほしい。

2月に開催される警視庁けん銃射撃大会。
その場もきっと周太を狙撃手の後任として見られる機会になるだろう。
父の軌跡を追って向き合うために周太が選んだ道、けれど本来の周太の性質では困難すぎる道になる。
それを援けるためにも自分は今、周太への独占欲も乗り越える必要があるだろう。
きっと国村なら周太を守る為に最大の協力者・パートナーになれる。
けれど誇り高い国村は対等に認めなければパートナーにはならない、結果として国村だけの力で動くだろう。

そしてすでに威嚇発砲の件で国村は、独りで周太を援けてしまっている。
そのことを国村はまだ英二には話さない、それは周太を守る上でのパートナーとしては英二を認めていないという事だろう。
英二が踏み込むべきではない周太と国村の繋がりに懸けて、国村は周太を守ろうとしている。
それを英二は昨夕に周太の体を無理強いしたことで踏み躙ってしまった、そして国村の周太についての信頼も裏切った。
「アンザイレンパートナーと周太を守るパートナーは別件」そんな声が聞こえそうになる。

「ね、英二?…マッターホルンの頂上でもね、写真送ってね、」

落着いた大好きな声に英二は沈思から顔を上げて周太に微笑んだ。
本当は周太はいま英二を怖いはず、それでも優しい「約束」を求めてくれる。
きっと優しい約束で英二が無事に帰ってこれるよう気遣って、今もさり気ない優しさで包んでくれる。
こんな大切なことも前は気づけない事も多かったかもしれない、今は気づけた「ごめんね」を想いながら英二は微笑んだ。

「うん、送るよ?…ありがとう、周太」
「ん?…こっちこそね、英二?ありがとう、だよ、」

やわらかな笑顔がまぶしい。
周太はこの数時間できれいになっている、それだけ幸せな時間を過ごしてくれたのだろう。
この数時間を国村に周太を託した自分の選択は正しかった、間違えなかった事が嬉しくて英二はきれいに笑った。

新宿署の近くに国村は四駆を停めてくれた。
国村は周太の荷物をまとめると、英二に渡して底抜けに明るい目で笑ってくれた。

「ほら、ちゃんと寮の入口まで送り届けてこいな?ここで俺は待ってるよ、」
「一緒に行かないのか?」

訊いた英二の額を白い指が軽く小突いた。
そして細い目を温かく笑ませて国村は言ってくれた。

「ばかだね、おまえは。ふたりで話すべきことがあるだろ?婚約者としての責任をきちんとしてきなね、俺はここで待ってるよ」

からり笑うと国村は周太の前へと立った。
やさしい眼差しで黒目がちの瞳を覗きこむと、おだやかなトーンで微笑んだ。

「次に会うときは競技会かな?風邪とかひかないようにね、楽しみにしてるよ」
「ん、ありがとう…お互いに気をつけようね、」

黒目がちの瞳が微笑んで国村を見あげている。
ふたりの空気はおだやかで透明なやさしさが、きれいだった。
この空気を守ってあげたい、そんな願いがふっと心に自然に起き上がって英二は微笑んだ。
こういう優しい気持ちを自分が抱けたことが意外で、なにか温かさが心に充ちてくる。
こんな想いはうれしい、温かな気持ちを抱いて英二は周太に笑いかけた。

「周太、行こうか?」
「ん。荷物ありがとう…ごめんね、英二?」
「そんなふうにさ、あやまらないでよ。周太?じゃ、国村。ちょっと行ってくるな、」

すこし歩いてすぐに新宿署独身寮の入口に着いた。
いつも別れる大きな街路樹の下に立つと、英二は周太へ微笑んだ。

「周太、すこしだけ話を聴いてくれるかな?そしてね、本当の周太の気持ちを、出来たら答えてほしいよ」

微笑んで英二は黒目がちの瞳を真直ぐに見つめた。
見つめた瞳はすこし考えて、けれど真直ぐ見つめ返して笑って頷いてくれた。

「ん。なに?英二…」

頷いてくれる笑顔がきれいで、このまま抱きしめたい。
けれど今は話して心を向き合うべき時だろう、ひとつ呼吸して英二は口を開いた。

「周太、俺はね、卒配してからはさ、ずっと俺が周太を守っていると思っていた。
でも本当はね、周太…俺がずっと周太に守ってもらっていた。
いつも周太が『お帰りなさい』って言ってくれる、その優しさにね、俺は守られていた。
でも周太、もし、俺が実家に帰れない事に周太が責任を感じているなら、それは違うんだ。周太の所為じゃない、」

目の前の黒目がちの瞳がすこし大きくなる。
やさしい眼差しが英二を真直ぐ見つめて「どうして?」と訊いてくれる。
ほんとだよ?そんな想いで見つめ返して英二は微笑んだ。

「俺が実家に帰らないのはね、母親にもう会いたくないからなんだ。
あの卒業式の夜、もし周太に告白していなくても。きっと俺は実家に帰らない。
なぜならね、周太?俺はもう母親にとって『理想の息子』じゃないんだ、だから帰らないんだよ。傷つけあうだけだから」

「…理想の息子じゃない、って…」

黒目がちの瞳が哀しそうに揺れてくれる。
こんな顔させたいんじゃないのに?けれど自分の為に哀しんでくれることが幸せで嬉しい。
でも気にしないでほしい、そんな想いで微笑んで英二は口を開いた。

「俺ね、子供の頃にさ、避暑に行った先で泥だらけになったんだ。そのとき母親は俺を見ないフリした。
それで姉ちゃんが俺を洗って怪我の手当てしてくれた。きれいになった俺を見てね、母親はやっと振向いてくれた。
そんな母なんだ、だからね?いま俺が山岳救助隊員として毎日向き合う業務も母には受け入れられないんだ。
遺体を見分したりさ、救助の応急処置で手を血だらけにしたり、泥だらけになる。そんな俺の掌はね、母には受け入れられない」

苦労知らずにお嬢様育ちの母。
きっと山岳救助隊員の実情を知ったら、卒倒するだろう。
だから英二は母に何も言っていない。母は都市の警察官しか知らないから英二もあの姿だと思っている。
けれど自分が立ちたい現場は都市ではない、山ヤの警察官として山に廻る生と死と峻厳な山の掟に従う現場に立ちたい。
その想いを英二は素直に言葉にした。

「きっと母にとっては俺の掌は泥と血にまみれた汚らわしい掌だ。
けれどね周太?この掌が泥と血に塗れた分だけ、俺は自分の生き方に向き合えた。俺にとって今この掌は誇りなんだ。
山を愛する人を手助けした掌だ。疲れた最後に山で安らぎを求めてね、自分から山に眠った人の想いを受け留めた掌だよ。
それは厳しい、でもその厳しさに俺は立っていたい。そして最高のレスキューになって最高のクライマーと最高峰へ登りたい。
俺はこの生き方を望むんだ。でも、こういう生き方は母には受け入れられない。だから俺は帰らない、母には会わないんだよ?」

だから母にはもう会わない。
母の自分への愛情は間違いも多い、けれど自分には唯ひとり生みの母。
だから会って傷つけたくはない、きっとこれも「聴かなくていい事、踏み込めない領域」だから母には会えない。
そしてそれを後悔も自分はしていない、だって自分は心から望める生き方を見つけたのだから。

「だから周太?俺が実家へ帰らないのはね、周太を愛したからじゃない。俺が素直に本音で生きるために、帰らないだけだよ」

黒目がちの瞳から涙がこぼれて落ちる。
この瞳をどれだけ自分は無神経に傷付けてきただろう?
それでも泣いてくれる、やさしい瞳が愛しくて英二は微笑んだ。

「そしてね、周太?この生き方を選べたのは周太のおかげだよ。
そして卒配から今日まで、こんな俺が厳しい現場に立てたのも周太がね、いつも支えてくれたから。
周太、いつも俺の笑顔だけを願ってくれているね?…だからね、俺はここまで来れたよ?
最高のクライマーのアンザイレンパートナーにも選んでもらえた、最高峰の夢すら俺はもらえたんだ。
もう俺はね、周太?たくさんのものを周太にはもらっている、生きる誇り、生きる意味、そして愛する温もりまで。だから、」

泣きながら微笑んでくれる黒目がちの瞳に英二は微笑んだ。
この純粋な瞳に自分が出来る、精一杯の愛情と感謝を今ここで贈りたい。きれいに英二は笑った。

「周太、俺はね?周太が俺を支えてくれたように、周太が望みに生きる姿を支えたい。
だから周太、周太が望まないならね、無理に体で繋がらなくっても良いんだ。そしてね、周太…これは疑うとかじゃなく訊いて?」

すこし驚いた瞳が英二を見つめてくれる。
やっぱりこの自分が「体」を求めないって意外かな?大きくなった可愛い瞳に笑いかけて英二は続けた。

「周太にはね、恋愛すらも望むまま自由に生きてほしいんだ。
だから周太?たとえもし周太が他のひとを愛してもね、俺は受け入れたい。
それがたとえ自分の帰る場所を失うのであっても構わないんだ、もう俺には『山』があるから。
そしてね、周太が他のひとを見つめてもね、俺が周太を愛することは変わらない。だから周太、許してほしいんだ」

真直ぐ見つめて微笑む先で黒目がちの瞳が大きくなる。
やっぱり驚いているよね?きれいに笑って英二は続けた。

「このまま俺にも周太を守らせてほしい、その為に形だけでもいいから婚約者でいることを許してほしい。
だから約束する、俺はもう絶対に周太を束縛しない。体も無理強いはしない、そして周太の心に自由でいてほしい、望むままに。
そしてね、約束するよ?俺は絶対に周太より先には死なない。必ず周太を守る為にね、俺は最高峰からでも生きて戻る。そしてね、」

新宿の真ん中の街路樹の闇で、英二はふっと冬富士の姿を想った。
あの雪崩が起きたのは2日前、けれどその2日でこんなにも自分は大きく変わった。
そしていま抱いている周太への想いは痛切とそれ以上に大きな喜びが温かい、真直ぐ笑って英二は周太に約束した。

「周太、約束する。俺は最高のレスキューとして、いつも遭難者だって無事に連れて生きて戻る。
そして最高のクライマーの専属レスキューとして、必ず国村を無事に生きて帰らせる。
そうやって俺はね、絶対にしぶとく生き抜いてアンザイレンパートナーも救助者も生きて連れて戻るレスキューになるよ」

真直ぐ見つめる想いの真ん中で黒目がちの瞳が涙をひとつこぼした。
そして瞳から、きれいに笑って周太は言ってくれた。

「ん、…しぶといレスキュー、素敵だね?」
「おう、素敵だろ?だからね、周太?もし俺に惚れ直してさ、抱いてほしくなったら何時でも言ってよ?大歓迎だからね」

明るく英二は笑った。
笑う先で黒目がちの瞳が気恥ずかしげに微笑んで、そっと英二の両掌へと掌を重ねてくれた。

「英二、英二の掌はね、きれいだよ?…俺は、いちばん知ってる。ほんとうにね、きれいなんだ…」

告げてくれる言葉と重ねた掌が温かい。
やさしい温もりに微笑んだ英二に、しずかに周太が言ってくれた。

「いま俺ね、体は…時間がほしいんだ。英二がくれる温もりは幸せで…ほんとうに大切なんだ。
でもね、まだショックが抜けていない…俺はね、やっぱりまだ11歳にもならない子供のままで…途惑ってしまうんだ。
それでもね、英二…俺はね、英二を愛する想いは変わっていないんだ。こんなに体は竦んでも、英二を想ってる。…でも、」

黒目がちの瞳が真直ぐ見つめてくれる。
その瞳が言いたいことはもう解っている、そして秘密のまま見守ってあげたい穏やかな想いが温かい。
国村との想いは周太にとって、きっと大切な友人の美代への罪悪感が大きい、だからそっと秘密のままにしてあげたい。
きれいに笑って英二は周太の言葉を遮った。

「大丈夫、周太。きっとね?俺は言わなくても解ってる。それでね、周太をありのまま受け留めたいんだ。
俺はね、周太?体さえ繋げば心も繋がるって思いこんでいた、でも今はもう気づいてる。
ただ真直ぐにさ、心で繋がって支える。そういうね、やさしい恋愛を俺も抱きたいんだ。だからきっと、心で解ってるよ?」

黒目がちの瞳がゆれて涙がこぼれて落ちた。
そして幸せな微笑みが気恥ずかしげに英二に告げてくれた。

「ん、ありがとう、英二…ね、英二にね、今、抱きついていい?」
「うん、当然だろ?俺はね、全部が周太のものだよ?
俺ね、周太の一番じゃなくても良い。ただ周太のものでいたい、だからね、周太?俺のこと好きにしていいよ、」

明るく笑って英二は荷物を持ったまま軽く腕を広げてみせた。
大丈夫、おいで?目で告げて微笑んだ英二に、周太がそっと抱きついてくれた。
やわらかく小柄な肩を抱いた温もりは、ただ穏やかで幸せで愛しい。

この小柄な肩はどれだけ背負っているだろう?
どうか少しでも楽にしてあげたい、その為なら自分は何だって出来る。
だから形だけの婚約でもなんでも構わない、ただこの肩を守りたい。幸せな笑顔が見られるなら、それで良い。
いま自分が抱いている誇りも夢も最高の友人も、この小柄な肩が全て与えてくれた。だから今度は自分が与えたい。

  I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy 
  I'll be your hope I'll be your love Be everything that you need.
  僕は君が見ている夢になろう 僕は君の抱く祈りになろう 君がもう諦めている願いにも、僕はなれるよ
  僕は君の希望になる、僕は君の愛になっていく 君が必要とするもの、全てに僕はなる

13年前の事件に決着をつけた翌朝に周太を奥多摩に初めて連れて行った。
そのときに周太にipodで贈った歌は自分が「僕」だと思っていた、けれど本当は自分は「君」だった。
夢に、祈りに、願いに、希望、愛。その全てに周太はなってくれた。
その全てを与えてくれた愛しいひとへ、自分は今からこそ想いの全てを懸けて返していけたらいい。
どうか今度こそ真直ぐ愛せますように、祈りを抱いて英二は見上げる黒目がちの瞳に微笑んだ。

「ね、周太?教えてほしいよ、俺はね、お父さんの合鍵を持っていても、いいのかな?」

訊いた想いの先で黒目がちの瞳が微笑んだ。
そして真直ぐ見つめて笑って答えてくれた。

「ん、持っていて?俺はね、…贅沢なこと言うよ?きっとね、酷い、わがまま…なんだけれど、」
「わがまま、贅沢、言ってほしいよ?俺に甘えてよ、周太、」

ほんとうに甘えてほしい、何でもいいから。
そして少しでも自分を必要としてほしい、心から存在を求めてくれたなら。
わがまま聴かせてよ?そう目で笑って英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ瞳はすこし笑ってくれて、そして唇を開いてくれた。

「あのね、英二…きっと俺は、たとえ他のひとを好きになっても、英二のことはずっと愛している。
こんなの狡いかもしれない、でも気持ちに嘘はつけない、誤魔化せない…大好きなんだ。
英二には、ずっと俺の隣に帰ってきてほしい、傍に居てほしい。きれいな笑顔を見ていたい…
他のひとを好きになるかもしれない、そんなこと言いながらで図々しい…けれど、お願い、俺を独りにしないで?…傍に居て」

きれいな純粋な瞳が「一緒にいてくれる?」と訊いてくれる。
こんな顔でお願いされたら断れるわけない。そして心が充たされて温かい、英二は微笑んだ。

「うん、周太。傍にいるよ?俺は周太が望むなら傍にいる。
だからね、周太。安心していい、どうか自由に人を好きになってほしい、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい」

黒目がちの瞳が真直ぐに英二を見つめてくれる。
真直ぐ見つめて微笑んで、そっと周太が訊いてくれた。

「…恋愛も、いいの?」

ひとつ心で英二は呼吸する。
さあ、いま、一番きれいな笑顔で笑いたい。そんな祈りに英二は大らかな美しい笑顔に笑った。

「うん、いちばんね、恋愛を見つめてほしい。きっとね、周太が幸せになるためには大切なことだから。
周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだろ?だから、色んな人に出会ってほしいんだ。
たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと、大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしいんだ」

真直ぐ見つめる瞳が英二の目に映りこむ。
純粋無垢な子供のままの瞳、この瞳の美しさを自分は正しく守りたい。想いの祈りのままに英二は言葉を続けた。

「それでね、周太が出会った人のなかで、もし俺と一緒にいたいって心から想って望んでくれたら。その時に俺と結婚してほしい」

「…出会った人のなかで、英二を選んだら。そういうこと?」
「そうだよ、周太?でも安心してほしい、選ぶ前だってね、周太が望むなら俺は一緒に暮らすよ。だからさ、飯また作って?」

きれいに笑って英二はお願いをした。
真直ぐ見つめる黒目がちの瞳は、やわらかいに笑って頷いてくれる。
こういう瞳で笑ってもらうのは初めてで、その寛いだ笑顔が英二は誇らしくて微笑んだ。

「周太、周太が望む限りね、ずっと一緒に暮らしていこう?
でも周太、覚えていてほしい。たとえ結婚しても周太の心はずっと自由だ。
だからもし、いつか俺と結婚してもね。周太が大切なひとを想う心は、ずっと大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せて?」

黒目がちの瞳がきれいに幸せに笑って、静かに頷いてくれた。
幸せな笑顔に涙がこぼれて、街路樹の木の下闇にも涙は光になって英二の目に映りこんでくれる。
こういう笑顔をずっと見たかった、見せてもらえる「今」が誇らしくて英二はきれいに笑った。

「ね、教えて、周太。周太は俺の体を求めて傍にいてほしい?それともね、心と温もりを求めてくれている?」

きれいな瞳が真直ぐ英二を見つめてくれる。
そして率直に微笑んで言ってくれた。

「どちらも大切だよ?でもなにより一緒にいたいのは、英二の心と温もり…俺はね、英二の心と寄添いたい」

ずっと自分は「体」を求められ「心」は無視されていた。母からも。
だから心だけをを求めてもらったことは無い、そして心を認めてほしいとずっと願っていた。
いま幸せが温かい、そして気付かされる。
きっと体の繋がり無しでも、人は繋がれることを確かめたかったのは自分の方だった。

ずっと母に否定されてきた、自分の本音と心。
ほんとうは子供の頃だって野山で泥だらけで遊びたかった、川や海や山でたくさん遊んで、そして抱きしめてほしかった。
けれどそんな本音も自由な心も母は認めてくれなかった、きれいな人形のように塵1つ許してくれなくて。
どうか受け留めて欲しいな?そんなささやかな願いで英二は周太に訊いてみた。

「ね、周太?もし俺がね、山から泥だらけで傷だらけでさ、帰ってきたら。そしたら周太はどうしてくれる?」

黒目がちの瞳が優しく微笑んだ。
すこし考えて、それから穏やかに笑って周太は言ってくれた。

「抱きしめて『無事で良かった、』って笑いたい…それからね、お風呂に入れてあげたい…あ、一緒には入らないよ?」
「うん、でも周太が入りたかったらさ、いつでも歓迎だよ?」

さらっと本音を言って英二はきれいに笑った。
やっぱり周太は受けとめてくれた、うれしくて笑う英二に黒目がちの瞳が微笑んでいる。
そしてねと周太は続けてくれた。

「でね、ごはん作ってあげたい。それから、あったかいお布団で寝かせてあげたいな…でも、えっちなことはだめだよ?」

言葉の最後は真赤になってしまった。
それでも黒目がちの瞳は英二を真直ぐ見つめて微笑んでくれた。
こんな穏やかな会話がうれしい、きれいに笑って英二は頷いた。

「うん、周太がしたいって言わなかったらしない…周太、俺の心を愛してくれて。本当に、ありがとう、幸せだよ?」

ずっと心を見つめて欲しかった。
その願いがかなえられていた、そんなことに自分は気づかずにいた。
気付けた今が幸せで英二はただ、抱きしめた温もりに微笑んだ。

周太が寮の入口の階段を昇って、扉があいて締る音がする。
きちんと寮へ入った周太を見送って英二は踵を返した。
ビル風がすこし冷たい、ブラックミリタリージャケットの裾を風に翻しながら英二は通りを歩いていく。
そして国村の四駆のもとへくると助手席の窓を軽くノックした。
ノックの音に運転席で目を瞑っていた横顔が、組んでいた腕をほどいて笑いながら扉のロックを開けてくれる。

「きちんと話せたみたいだね、イイ顔しているよ、おまえ、」

底抜けに明るい目で温かく笑みながら国村はシートベルトを嵌めた。
助手席で英二もシートベルトをすると運転席へ明るく微笑んだ、

「うん、ちゃんと話せたよ?俺たちね、『清い交際』ってやつを始めるんだ、」
「ふうん?清い交際、おまえが、ねえ?」

ハンドルを捌きながら細い目が「話せよ?」と笑ってくれる。
そんな友人の目を見つめながら英二は口を開いた。

「まずね、俺が実家に帰らない理由をさ、きちんと話した。
俺の母親ってさ、俺のこと『きれいな息子』として見たいんだよ。
だからさ?山岳救助隊として応急処置や死体見分するなんて知ったらね、ほんとに卒倒して発狂すると思うんだ。
きっと母からしたら、今の俺の掌は血と泥にまみれて汚らわしい。それが解るから、もう母に会えないし帰れないんだよ」

「うん、…そっか、そういう考え方の人もいるね。…母親はさ、傷つけたくないもんな」

テノールの声がやさしく答えてくれる。
やっぱり国村は解ってくれた、うれしく微笑んで英二は続けた。

「うん。俺が実家に帰らないのは周太の所為じゃない、俺が自分らしく生きることを選んだから帰れない。
そのことをね、きちんと解ってもらいたかったんだ。義務や責任感を周太に持ってほしくないんだ。それからこう言った。
俺はもう絶対に周太を束縛しない。体も無理強いはしない、そして周太の心に自由でいてほしい、望むままに。
自由に人を好きになってほしいんだ、友達も、恋愛もね。全ての想いを大切にしてほしい。
周太は13年ぶりに人と出会うことを始めたばかりだ、色んな人に出会ってね、きちんと心にも成長してほしい。
たくさんの人と向き合ってほしい、友達や好きなひと、大切なひとを見つけてほしい。そしてもっと幸せに笑ってほしい。
でもね、周太を守るためには婚約の立場は便利だ。だから形だけでもいいから婚約者でいることを許してほしい。そう言ったんだ」

「それで『清い交際』なんだね、…うん、心からさ、相手を想って、愛してるな?…いいね、」

納得したように運転席の横顔が頷いて、そっと英二を振向くと温かな眼差しが笑ってくれた。
この友人は解ってくれる。うれしい想いと頷きながら微笑んで、英二は静かに口を開いた。

「うん、ありがとう、国村…それでね、あらためて申し込んだよ。
周太が出会った人のなかで、もし俺と一緒にいたいって心から想って望んでくれたら結婚してほしいって。
選ぶ前だってね、周太が望むなら俺は一緒に暮らすよ。そしてね、たとえ結婚しても周太の心はずっと自由だ。
だからもし俺と結婚しても、周太が大切なひとを想う心は大切にしてほしい。そして幸せな笑顔を俺に見せてほしいんだ」

「結婚しても、か…うん、心は縛れない、…でもさ、おまえがそう言うのって、すごいな?」

温かな率直な応えをしてくれる。
率直に受け留められて認めてもらえる、その安心感と信頼できる想いが幸せで英二は微笑んだ。

「そしてね、約束したんだ。俺は絶対に周太より先には死なない。
必ず周太を守る為に俺は最高峰からでも生きて戻る。俺はどこからでも遭難者も連れて生きて戻る。
最高のクライマーの専属レスキューを務めるアンザイレンパートナーとしてね、必ず国村を無事に生きて帰らせる。そう約束した」

必ず国村を無事に生きて帰らせる。
そうはっきり周太に約束をしたとき、黒目がちの瞳が微笑んだ。
そしていま隣の運転席でも、大らかに穏やかな微笑みがきれいに咲いてくれた。
この顔も初めてみせてもらった、その「初めて」が心から誇らしい、きれいに笑って英二は口を開いた。

「俺はね、国村。ずっと『体』を求められも『心』は無視されていた、母からもね。
だから俺はね、『心』だけをを求めてもらったことは無いんだよ、心は体のおまけって感じで。
でも俺はずっと心を認めてほしいって願っていた。この外見に関係なく『俺』を真直ぐ見てほしかった。
だからきっとさ?体の繋がり無しでも人と繋がれることを確かめたかったのはね、俺の方だ…周太以上にね」

英二の言葉にやさしい眼差しが温かく応えてくれる。
大丈夫だ。そう目で言いながら、きれいなテノールの声がやさしく言ってくれた。

「うん、…そうだね。おまえはさ、これからだね。
大丈夫だよ、宮田?俺はね、おまえの心が大好きだよ。だから生涯のアンザイレンパートナーって俺は言うんだ。
そりゃ体格や適性も組むのには大事だけどさ?俺にとってはね、大好きになれるかが一番大切だよ。だから自信持て、いいね?」

ここに自分を真直ぐ見てくれる友人がいる。
自分はこの友人のまさに「逆鱗」に触れた、滅多に起きださない怒りを呼び起してしまった。
けれどを許し受けとめて励ましてくれる、きっと自分はこうして無条件に受け入れられたいと願っていた。
願いが叶った幸せに英二は素直に微笑んだ。

「うん、自信持つよ?それで俺、いつか国村にも周太にもね、本当に相応しい男になりたい。もっと訓練とかも頑張りたい、」
「俺のレスキュー、頼むよ?俺のアンザイレンパートナーはさ、結構大変だろうけどさ」
「おう、任せてよ。俺、努力するからね」

きれいに笑って英二は答えた。
そんな英二に底抜けに明るい目が笑って言ってくれた。

「さて、宮田?せっかく高速に乗ったしさ、ちょっと俺、行きたいとこあるんだけど。つきあってね、」
「別にいいよ、でも俺、明日も出勤だからさ。間に合うように帰らせてよ?」

どこに行くのか国村は言わない、けれど任せて大丈夫と自分が一番知っている。おだやかな信頼に英二は微笑んだ。
運転席では行先も訊かない英二に満足したように細い目が笑った。

「もちろん、ちゃんと送り届けるよ、眠り姫」
「うん?眠り姫ってなんだよ?」

何気なく訊き返した英二をちらっと細い目が見て笑った。
そして透るテノールの声が答えてくれる。

「おまえのことだよ、宮田。今朝もね、これから意地悪しようっていうのにさ?あんまり美人な寝顔でちょっと怯んだよ」
「そうか?でもさ、結局きちんとお仕置きしてくれたんだろ?ありがとうな、」
「ま、ね。感謝しろよ?」

からり笑って国村はハンドルを捌いていく。
他愛ない話をしながら高速道路を走っていく車窓がすこし曇ってくる、きっと外気が冷えはじめたのだろう。
そっとふれてみると窓ガラスは冷たい、夜の闇を透かすと雪に白い山がかすかに見えた。
もう奥多摩を通り過ぎる所だろうか?黒い夜と白い山を眺める英二の隣で、ふっと国村がつぶやいた。

La Belle au bois dormant…か、」

流麗な言葉に英二は運転席をふり向いた。
ふり向いた視線の先では前を見たまま雪白の貌が夜に浮かんでいる。
雪白の秀麗な横顔はどこか初めて見るような表情で静かに微笑んだ。

「『眠りの森の美女』って、知ってる?」
「うん、王女さまが糸車の錘が刺さって、百年ずっと眠っていたって話だよな。王子さまのキスで目を覚ますんだっけ?」
「そ。茨の森に囲まれた城で百年眠り続けたお姫様の話だ。あれはね、『眠れる森』と『眠る美女』との2つの解釈があるんだ」
「ふたつあるんだ?知らなかったな、『眠る美女』だと思っていたよ、」

La Belle au bois dormant 『眠りの森の美女』をフランス語で国村は言った。この話もフランス版で読んでいるのだろう。
いつもの痛快なエロオヤジぶりからは想像つかない一面だけれど、生来の繊細な風貌にはしっくりくる。
そんな繊細な文学青年の横顔が可笑しそうに笑った。

「うん。おまえはね、ほんと『眠る美女』だよな。今朝も俺のキスで目が覚めちゃうしさ?」
「…え、そんなことしたのか?」
「酔い覚ましをね、口移しで飲ませてやったんだよ。で、そのまま狂言をしてさ?おまえの目を覚まさせてやったってワケ」

からり笑って底抜けに明るい目が可笑しそうに英二を見た。
たしかに言う通り、国村が怒りをぶつけてくれたお蔭で「愛情」について考える目が覚まされた。
そう思うと国村が自分の王子さまなのかな?なんだか愉快で英二は笑った。

「国村って、俺のアンザイレンパートナーだけじゃなくて、俺の王子さまだったんだな?」
「まあね、惚れ直すだろ?」

可笑しそうに国村も笑ってくれる。
こんな冗談がまた言い合えていることが嬉しくて英二は微笑んだ。
いつものように笑う裡に高速を降りて信号に停まると、ふっと秀麗な顔がこちらを向いて口を開いた。

「シャルル・ペローって人が書いたフランスの童話だとさ、王女は王子のキスで目覚めるんじゃないんだ。
ちょうど100年の眠りから覚める時がやってきていた、そのために王女は自分で目を覚ますんだよ。時の訪れに目覚めるんだ」

「時の訪れに?」

ちいさく英二はつぶやいた。
英二のちいさなつぶやきに国村は笑って言ってくれた。

「宮田もね、ちょうど時が来ていたのかもしれない。気づく時がね、」

さらりと笑って国村は静かに車を停めた。
ふり向いて英二に笑いかけると「降りるよ?」と目で声かけてくれる。
微笑んで頷くと英二も助手席の扉を開けて、雪のなか夜を見あげた。

白銀あかるく輝く冬富士が、透明な紺青の夜を従え銀盤の湖の向こうに聳えたっていた。

「…きれいだ、」

そっと呑んだ息は白く凍って肺にすべりこむ。
隣で白い息のあわいから透明なテノールの声が微笑んだ。

「だろ?ここはね、俺が好きなトコのひとつなんだ」

ふる星の明りが雪そまる冬富士と凍る湖を照らして、深い青の夜闇に光り浮かびあがる。
青い闇と白銀が織りなす静謐と雄渾が佇む荘厳な世界。
その静謐に五合目の山小屋の火が見えた。

「山小屋、今日も泊まっている人いるんだ、」

2日前のことなのに懐かしくて英二は微笑んだ。
並んだ隣もうれしそうに笑って応えてくれる。

「だね、いいな。俺、もう登りたいよ。あの最高峰の天辺にさ」
「うん、俺も行きたいな、4月が楽しみだな」

雪のなか晴れた夜空を見上げて並んで笑い合える。
こんな友人がいる幸せに英二は心から感謝した。

「でもさ、次は北岳だね?天候とか上手くいくと良いな、もう雪崩は御免だよ」
「そうだな、なるべくなら雪崩には遭いたくないな?」

見あげる冬富士にこれからの計画を話す、こういうのは愉しい。
愉しくて微笑んで話す英二を、ふっと底抜けに明るい目が深く見つめた。
なんだろうと見つめ返すと、きれいに微笑んで国村が口を開いてくれた。

「宮田。威嚇発砲の音をさ、わざとカウントしなかったね?…協力、ありがとうな」

周太が国村に向けた威嚇発砲。
その事実を秘匿することを「協力」と国村は英二に告げた。
国村は主体になって周太の威嚇発砲を秘匿した、そのことをたった二字の熟語で告げてくれる。
こんなふうに信頼して話してもらえた、嬉しくて英二は穏やかに微笑んだ。

「うん、…俺もね、本気で守りたいんだ。周太のことも国村のこともね」

底抜けに明るい目が温かく笑んで頷いてくれた。
ミリタリーマウンテンコートが冬富士に駆けおりる風と白く翻っていく、その横顔は真直ぐ最高峰の天辺を見つめていた。
この最高のクライマーの想いも夢も、生命と山ヤの自由な心と登る自由も、自分が守りたい。
この最高の山ヤで友人を自分は最高のレスキューとして守って生きたい。
この友人を自分が愛するひとは大切に想っている、だから尚更に守りたい、そして愛するひとの笑顔も守りたい。
そんな想いが今までにない大らかな温もりで心を充たしてくれる。
充ちる温かさが幸せで、夜に輝く最高峰の雪を見つめながら英二はきれいに笑った。



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第33話 雪火act.8―side story「陽はまた昇る」

2012-02-16 22:48:24 | 陽はまた昇るside story
偽らぬ想い、




第33話 雪火act.8―side story「陽はまた昇る」

青梅署独身寮へ戻ると英二は活動服を用意してから浴場へ行った。
髪を洗い体を洗って浴槽へ浸かると、ほっとため息が湯気へと融けこんだ。
朝7時前の浴場には人気が無い、誰もいない安堵感にふっと涙が頬を伝って湯へと零れ墜ちた。
今更ながらに自分が周太にした事の痛みと重みが迫り上げて、目の奥へ熱が生まれてしまう。
どんなに後悔しても遅い、そんな自責と自分の鈍麻した心への悔しさが痛くて堪らない。あふれる痛みが口からこぼれた。

「…どうして、…ばか、だ、俺は…」

気付けば自分は「体を繋げば温もりが手に入る」と思い込んでいた。
たとえ好きでもない相手でも、求められて体を繋げれば温もりに一瞬は寂寞とした心を忘れられたから。
だから大好きな周太なら、愛し合っている周太なら、どんな時でも体を繋げれば温もりが生まれると思い込んでいた。
たとえ周太の心が他の人間へ傾きかけても「婚約者」という立場で抱きよせてしまえば心ごと掴まえられると思った。
けれど、

「いつも言ってるだろ?おまえはさ、ばかだね?宮田、」

からり明るいテノールの声が響いて英二は振り向いた。
ふり向いた視線の先で底抜けに明るい目が笑って、のんびり英二の隣で湯に浸かっている。
いつの間に国村は隣にいたのだろう?驚きながらも微笑んで英二は涙を払った。

「うん、…もし、国村がさ、気付かせてくれなかったら…もっとバカになるとこだった」
「そっか。で、どう気づいたんだよ?」

明るい温かな眼差しで「話してみろよ?」と訊いてくれる。
いつもながら大らかな優しさで国村は英二に吐き出させようとしている、そんな友人がいま隣に来てくれたことが嬉しい。
嬉しさに微笑みながら英二は涙をひとつまた零した。

「うん…俺、体を繋げばさ、温もりが手に入るってね、どこか思っていたんだ。
別にどうでもいい相手でもさ、求められてね、体を繋ぐとさ…いつもね、その相手に情がわいたから。
抱き合えばやっぱり温くて。それで一瞬は寂しさとかを忘れられたから。一瞬だけだ、それでも忘れられたんだ。
だから…もし心から大切な相手と抱き合えたら、ずっと寂しくなくなるのかなって。ずっと、そういう相手を探してた」

真直ぐ英二を見つめながら国村は髪をかきあげた。
かきあげた手を湯へおろすと、そっと温かに微笑んで穏やかに言ってくれた。

「求められて与えて、でも充たされない。…おまえはね、そういうふうに、ずっと傷ついてきたな」

やっぱり国村は解ってくれている。
こういうのは嬉しい、理解された嬉しさに心がほどけて涙がまたこぼれた。

「うん、…わかってくれるんだ、国村…」
「まあね、アンザイレンパートナーだからさ?しかも生涯のね、」

やさしい温かな微笑が英二を真直ぐ見つめてくれる。
ほんとうは国村は心底さっきは怒っていた、それが英二には解る。
けれど心から気づいた英二も理解してくれて、こうして想いを吐き出させに今も来てくれた。
こういう友人がいる自分は幸せだ、幸せな安堵感にも英二は素直に口を開いた。

「だから大好きな周太なら、愛している周太なら、さ…どんな時でも体を繋げれば温もりが生まれると思い込んだ。
だから昨日の午後も、婚約者という立場で無理でも抱いてしまえば、周太を心ごと掴まえられると思ったんだ。
それで、周太も幸せなんだって、俺、勝手に都合よく考えていた…さっき国村に教えられるまで、気付こうとしなかった。
周太は俺のこと怖かったはずだ、怒っているはずだ。なのに無理に笑ってくれた、そんな周太の優しさに気づかなくて…
俺は、周太は幸せに想っているって勝手に決めつけていたんだよ、強姦されて幸せな人間なんかいるわけないのに?俺はバカだ」

重みが吐き出されて心がすこし軽くなる、そして解けた心から涙があふれていく。
頬を伝う涙がこぼれて湯に融けこんでいく、そんな英二を国村はただ微笑んで受けとめてくれている。
しずかな大らかな優しさが明るい目から伝わって、よけいに英二は涙がこぼれた。
こぼれる涙のまま英二は想いを言葉にした。

「くにむら…すこしさ、俺、いま…嫌なヤツになってもいい、かな?」
「うん?話したいならさ、想ったまま言いな。俺はね、お前の話はさ、何だって聴きたいよ?おまえが大好きだからね」

底抜けに明るい目が笑って「言っちまいな?」と大らかに温かい。
きっと国村はもう、自分が何を言おうとしているのか解っている、それでも「大好きだ」と言って受けとめようとしてくれる。
ほんとうに敵わない、こんな大らかな友達が自分も大好きだ。英二はきれいに笑った。

「俺はね、国村?無理矢理でも体を繋げればさ…周太の心を繋ぎとめられるって、想い込もうとしたんだよ?
体を掴まえてしまえば周太の心を掴まえて、周太は俺のものになるって。たとえ周太の心が他の人間へ傾きかけていても、」

きれいに笑ったまま英二は大好きな友人の顔を見た。
見つめる先で底抜けに明るい目は真直ぐに英二を見つめて、きれいに透明に微笑でいる。
自分と国村は似ていて、どちらも直情的で思ったことしか言わない出来ない。
だから国村も英二が言うことが解ってしまう「他の人間」が誰を指すのかも解っている、そんな信頼のまま英二は口を開いた。

「昨日、国村と周太が下山してきたとき。お互いに呼び捨てで呼び合っていた。
ふたりの空気はきれいだった、やさしくて穏やかで俺は見惚れたんだ、本当は。だから周太の手をすぐ繋いだんだ、俺は。
おまえに周太を連れて行かれるって思ったから。そしてさ…俺、周太の、ああいう顔って初めて見たんだ、だから悔しかったんだ」

涙があふれて、けれど英二は笑っていた。
悔しいと思ったことをその相手に曝け出す。きっと前なら考えられなかった、けれどこの友人には隠さず話してしまいたかった。
それぐらい英二はこの大らかな優しさ誇り高い、最高の山ヤの魂を持った友人が好きだった。
真直ぐな底抜けに明るい目が優しい温かい眼差しで見つめてくれる、その温もりに甘えるように英二は口を開いた。

「最初に国村を見たとき、周太と似ているって思ったんだ。
でも、一緒に仕事して山登って仲良くなってさ?
おまえって大胆で酒好きでエロオヤジだって解って、似てないなって思うようになった。
でもさ…やっぱり似ている、ふたりは。アンザイレンパートナーになって、一緒に過ごすようになってから、そう気がついたよ」

両手で髪をかきあげながら国村は穏やかに微笑んだ。
そして髪かきあげる腕のはざまからテノールの声が訊いた。

「どこが似てる?」

やさしいトーンの声がほっとする。
本当は、もう許してもらえないかもしれないと英二は覚悟していた。
いつも笑っている国村、唯一のアンザイレンパートナーとして英二を大切にしてくれる国村。
そんな国村が英二を組み伏せ容赦ない怒りを叩きつけた、侮辱を浴びせ誇りを打ち砕いて満足げに笑った。
だから気づかされてしまう、きっと自分はこの友人の「逆鱗」に触れた。
いつも大らかな優しい友人にはきっと唯一の「逆鱗」を自分は踏み躙った、だから許されなくても仕方ないと思った。

そして知らされた国村の逆鱗は「周太」だった。
組み伏せた英二へと凄絶な艶麗に微笑みながらも、透明な細い目の深みからは真直ぐに「怒り」が英二を突き刺していた。
大らかで深く透明な怒りは英二の魂に響いた、最高の山ヤの魂が真直ぐむけた純粋無垢なまま容赦ない怒りは雄渾に英二を呑みこんだ。
いつも国村は「山」で不躾に不注意だった遭難者へストレートにお灸を据えてみせる。
それ以上の怒りを英二は初めて見た。

なぜ国村の逆鱗が周太なのか?それは解らない。
けれど心底から怒りを剥きだしにするほど、国村は周太を大切に想っている。
まだ国村と周太は出会って3ヶ月程度、なのになぜ国村はそこまで周太を想うのかは解らない。
けれどなぜか納得するものを英二は感じている。
もう思ったままを話したい、英二は微笑んで口を開いた。

「純粋無垢なところ。これがまず一番だよ、ふたりは一緒なんだ。
それから、ふたりとも文学書をよく読んでいるからかな。繊細で豊かな感覚が鋭い感じがする、やさしい透明な空気がある。
だから想ったんだ…周太が国村に惹かれても仕方ないって。似ていると解りあいやすい、俺と国村みたいに。しかも純粋同士は、尚更」

真直ぐな底抜けに明るい目が湯気の向こうから英二を見つめてくれる。
こんな目で見てくれる真直ぐな心を、きっと純粋な周太は大好きになるだろう。
そんな確信をしても英二はどこか穏やかだった。

「周太は、俺が望むなら国村と関係を持っても良いって覚悟してくれた。
だから俺もね、…周太がね、国村を想ったとしても見守りたいって、覚悟したいんだ。
周太は俺が望むように生きてほしいって願ってくれている、だから俺も、周太が望む生き方を願いたい。
そしてもし周太が許してくれるなら、周太を守らせてほしい。
俺はね、周太に呆れられて嫌われても仕方ない。だから婚約を白紙に戻されても当然だ。
それでも…友達って立場に戻るとしても、さ?俺はね、周太を守ることは止めたくないんだ。きっとね、愛することも止められない」

国村に告げながら心がゆっくり凪いでいく。
ほんとうは欲しいものは掴んだら離したくない、けれどもし周太の笑顔の為だというのなら?
英二の体を守る為に周太は国村に銃口を向けた、そんな周太の想いを知りながら愚かな自分は周太の体を無理に奪った。
それでも周太は英二に微笑んでくれた、そんな周太の笑顔も想いも、もう傷つけたくはない。
これ以上はもう、自分の所為で傷つけてしまいたくない。

だから周太が笑ってくれるなら自分は何でも出来るだろう。
たとえそれが周太の手を離すことだとしても潔く頷ける強さが今、欲しい。
たとえ自分だけのものに出来なくても、大らかな愛情で周太を支えて守りぬく。そんな大きな愛情で見つめられたら。
そうしたら自分が周太にしたことを少しでも償えるだろうか?

静かな覚悟がそっと肚におちていくのを英二は見つめた。
覚悟を見つめる想いのむこうでは、大らかな優しい目が英二を真直ぐ見つめてくれている。
この眼差しの持ち主は周太の為に本気で怒って、英二を諌めてくれた。
そんな国村は周太を心から大切に想っている、だから昨夜も唯一言で誇らかに告げてくれた。

 ―… 大切だよ?

ただ一言だった、けれど温かな大らかな愛情の響きが透明で、きれいだった。
その「大切」がどんな想いのものか?
きっとまだ今の自分が聴いても理解できない、そんな深い大きい純粋無垢なものに想えた。
自分はまだ心が欠落したまま壊れて、それが周太を傷つけてしまう。そんな愚かさを今回に思いしらされた。
だからまだ国村の想いを聴く資格すら自分は無い。
けれどいつか国村の想いを聴くに相応しい自分に成れたなら、きっと聴くこともあるだろう。
そんな静かな覚悟と決意を見つめながら英二は口を開いた。

「こんなふうにさ、俺は唯ひとり守りたくて大切にしたい人を傷つけた、ばかな人間だ。
未熟で傲慢で、相手の想いに真剣に向き合うことも上手く出来ない…おまえにもね、呆れられて当然だ。
でも俺はね、自分を諦めたくない。いつか周太にも国村にも相応しい男になりたい。だから国村、正直に教えてほしい」

底抜けに明るい目は真直ぐに英二を見つめて微笑んでくれる。
大らかな温かいまま「なんでも訊きな?」と目で促してくれている。
まだそんなふうに受けとめてくれるんだな、友人の優しさが嬉しくて英二は微笑んだ。
きれいに微笑んで英二は真直ぐに国村の目を見て言った。

「こんな足りない俺だ、でも…国村、俺はまだ、おまえのアンザイレンパートナーでいられるのかな?」

真直ぐ見つめた先で底抜けに明るい目が誇らかに笑ってくれる。
そしてテノールの声が透って英二に明確に告げた。

「俺のアンザイレンパートナーは宮田だけだ。生涯ずっとね、」

からり笑って白い指が英二の額を小突いてくれた。
そして大らかな優しい笑顔が温かく英二を迎えて言った。

「最高峰へ行くよ?宮田。俺たちは生涯ずっと一緒だ、何があってもね。約束だ、」

きれいに笑って英二は涙をひとつ零した。
こういう友人に出会えた自分は幸せだ、おだやかな誇りに英二は微笑んだ。

「うん、ずっと一緒に最高峰へ行くよ。おまえの専属レスキューとして俺は、最高のレスキューになってみせる。約束だ、」

英二の言葉に国村の秀麗な顔が愉しげに笑ってくれる。
もう一度、とん、と白い指が英二の額を小突いて言ってくれた。

「おう、約束だよ?2月の北岳とかも楽しみだな、滝谷とか行きたいな?」
「うん、雪のビバークとかするんだよな?楽しみだな、初めてだよ?」

雪山の計画の話をふたりで笑いあいながら、英二は幸せだった。
自分はこの友人のきっと逆鱗に触れた、その逆鱗は自分の婚約者だった。
その現実を知らされて途方に暮れる想いもある、けれど逃げたくはない。この友人を失いたくない。
この友人と叶える「最高峰の踏破」という夢も諦めない、そして婚約者の想いも笑顔も大切にしたい。
まだ方法は解らない、それでも受けとめていける自分になっていけたら。
そんな心と想いに懸ける夢をひとつ抱いて英二は、大切なアンザイレンパートナーの友人と「最高峰の夢」に笑った。


御岳駐在所へ出勤すると英二は、まず電気ポットをセットして簡単な掃除をする。
ストーブを点けパソコンを立ち上げて、その間に茶を淹れておく。
いつものように周太に教わったやり方で茶を淹れながら、ふっと心が軋んで英二は微笑んだ。
この茶の一杯も周太に教えられて自分は出来るようになった、スーパーの買い物もそうだった。
そして山ヤの警察官としてここに来れたのも周太が生きる誇りを教えてくれたからだった。
いったい幾つのことを自分は、周太に教えられて出来るようになっただろう?

そんな周太に自分は酷い仕打ちをした、それが残酷だと知ろうともせずに過ちを犯してしまった。
このあと朝の御岳山巡廻に周太はつきあってくれる、こんな無知な残酷を犯した自分との約束を周太は守ろうとしている。
いったいどう周太に報いたら自分は償えるのだろう?ほっとため息を吐いて英二は茶を片手にパソコンの前に座った。
さっき覗いた登山計画書用のポストに提出されていた何枚かを手にとって、チェックしながら入力をしていく。
冬の早朝から入山する登山者だからさすがに計画書も手馴れている、スムーズに入力を終えて英二は書類をファイルへと戻した。

「おはよう、宮田。今朝も早いなあ、」

声にふり向くと御岳駐在所長の岩崎が奥から山岳救助隊服姿で現れた。
今朝は早めの登山道巡視にいくのだろう、微笑んで英二は給湯室へと立った。

「おはようございます、ちょっと調べたいことがあって。いま先に登山計画書は入力を終えたんですけど、」

話ながら岩崎に茶を淹れて出した。
ありがとうと受けとって岩崎は英二に訊いてくれる。

「うん、パソコンの使用かな?業務の合間だったら別に構わないよ、吉村先生の講義の件かな?」
「はい、ちょっとラテン語を調べたくて」
「お、このまえ話していた解剖学のことか。じゃあ救急法の件じゃないか、それなら業務にかかわる。堂々とパソコン使ってくれ」

快く承諾してくれると岩崎は大岳山の巡廻へと早めに出かけて行った。
鋸尾根まで巡廻するために時間がかかるからと早出したかったらしい。
見送って英二はクライマーウォッチを見た。午前8時過ぎ、御岳山巡廻まで30分程は時間をとれるだろう。
更衣室のロッカーに行くと英二は一冊のファイルを取り戻ってきた。
パソコンの前に再び座って開くと、まず解剖学の専門書で解り難かったラテン語の表現をweb辞書で検索する。
ラテン語の辞書は買って持っているけれど、例文を見て訳したい箇所はweb辞書の例文集が便利だった。
それが終わると英二はファイルの真ん中のページを開いた、ページには抜書きしたラテン語の文章がいくつか書かれている。
その文章をweb辞書で英二は検索すると抜書きした文章へと日本語訳を書き加えていく。
それを読みながら英二はすこし微笑んで、時に考え込んだ。

抜書きしたラテン語の文章、これは周太の父の日記帳の文章だった。
年明けに書斎の抽斗から英二はこれを見つけて持ち帰ってきた。この日記帳の存在は周太も母も知らない。
その抽斗は他の抽斗とは違う鍵になっているから、ふたりには開けられなかった。
けれど英二は開けることが出来た、その鍵は周太の父の遺品である家の合鍵で開錠できる仕組みだったから。
周太の父の遺品である合鍵を、英二は周太の母から譲られた。以来、細くて丈夫な革紐に通して首から提げている。
この鍵を持っていることを、自分はまだ許されるのだろうか?

 ―… 英二、…また、玄関を開けて?

昨日の夕方に周太はそう言ってくれた。
あの言葉はどんな想いで自分に言ってくれたのだろう?
言われたとき自分は単純に喜んでいた、けれど本当は周太は英二に体も心も傷つけられて、きっと心は泣いていた。
それなのになぜ、周太は言ってくれたのだろう?

 ―… 英二を信じて、ごはん作って待っているから、帰ってきて?
    ずっと英二の隣で生きていたい、英二の帰る場所でいたい…それがきっとね、俺にとっていちばん幸せなんだ

「…まさか、周太?…母のことで、」

思い出した周太の言葉に心軋んで、思わず英二は独り言をこぼした。
周太が言ってくれた「ごはん作って待っている」これは母親が子供にかける言葉に似ている。
もしかして周太は英二の母親に求める想いに気がついている?途端にパズルのピースが嵌っていくのを英二は見つめた。
周太は年明けに時間が無くてもお節料理を手作りしてくれた、いつも英二の心配をして「お帰りなさい」と言ってくれる。
いつも温かい食事を手作りしてくれる、そんな家庭的な温かさを英二に周太は贈ってくれる。
そうした周太の温もりは本来なら「母親」が子供に贈ってくれるものだろう。

英二の母親も息子の為に何でもしてくれた。
手料理も贅沢な食材だった、衣服もセレクトショップで見繕った洒落たものばかりだった。
けれどそれは「美貌で才能もある息子」を自慢するための支度だと自分は知っている。

幼い頃に避暑に行った山荘で、野山に遊んで帰ってきたとき英二は泥だらけで膝小僧も転んで血が出ていた。
そんな英二を見て母は目を逸らしてしまった。
その目が「汚い息子は見なかったことにしよう」と言ったのを英二は気づいてしまった。
あのときは姉が風呂できれいにして着替えさせ、傷の手当てもしてくれた。
そうして普段の「美しい息子」に戻った英二を見ると母はいつも通りに優しく接してくれた。

そういう母の態度はずっと変わらなかった、外見と通信簿が立派なら見つめてくれて、母の理想に外れると無視された。
そんな母の姿に英二は「自分の心は母にとってどうでも良いのだ」と気付かざるを得なかった。
そういう母だから勿論、周太とのことは受け入れるわけもなく義絶してしまった。
そうして英二は実家へ帰ることも出来なくなった。

周太は、英二が帰る実家を失ったことを、周太の所為だと責めているのではないだろうか?
帰る場所を失った英二を周太は受けとめることで、英二が最高峰の危険にも克つ意思を失わないよう守ってくれている?
だから周太は「帰ってきて」と言ってくれるのではないだろうか。
周太は英二が帰る場所を失ったことを自責して、だから英二に傷つけられても英二の「帰る場所」であろうとしている。
もしそうだとしたら、自分は二重に周太を縛り付けているのではないだろうか?

「…周太、違うよ?…周太の所為じゃない、」

もとはと言えば自分が周太を好きになって始まったことだった。
あの卒業式の夜だってそう、想いを告げるだけでただ一緒に眠れば良かったはずだった。
それなのに忘れてほしくない想いと独占欲で、無理に周太の体を抱いて傷つけてしまった。
あのとき怖い想いをさせたことを自責している、それなのに昨日はもっと怖い想いをさせてしまった。
それなのに、こんな自分に周太は「帰ってきて」と微笑んでくれる。

優しい繊細な周太、なにもかも「周太の為に英二はやってくれた」と気遣って痛みをひとり抱え込んで。
そんな優しい繊細さに自分は何も気づいて来れなかった?
どれだけ自分は周太の優しさに甘えてきたのだろう?
たとえ周太が英二をすこしでも愛しているとしても、こんな傷だらけになる愛し方は哀しい。
そんな愛し方を周太に自分はずっと強いていた?

「…どうしたら、いい?…」

ため息と想いが口からこぼれ落ちていく。
自分の周太への愛情をあらためて考え直すいま、愕然とさせられる。
英二は大人の恋愛のペースで周太を抱いて体の繋がりを持たせ婚約まで申し込んだ。
けれどそういう大人の独占的でもある「恋愛の誠意」は、はたして周太にとって本当に幸せだろうか?
13年間の孤独の為に心は11歳にもならない周太。
そんな周太の繊細で純粋な子供の心では、英二が向ける大人の恋愛を受けとめる事は時に苦しかったのではないだろうか?
自分なりの精一杯で愛情と誠意を示そうとしてきた、けれど周太の心と想いに自分は真直ぐ向き合っていただろうか?

 ― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

昨夜に聴いた、国村の言葉が示す意味。
自分が今まで周太にしてきたことは真逆の愛情表現だった、そう気づいた今は途方に暮れそうになる。
どんなに想いが真剣でも方法を間違えてしまったなら?そんな間違えが昨日の自分が周太へ犯した過ちそのままでいる。
確かに周太から体を繋ぐことを求めてくれる時もある、けれどそれも英二を気遣うタイミングが多いと気付かされる。
あの初雪の夜の「絶対の約束」だってそうだ、雪山に立つ英二の心配をするあまり周太は思い切ってくれた。
そう、「思い切って」じゃないと周太は出来ない、いつもどこか決心して体の繋がりに踏み切っている。
そんな周太は本当は、どんな恋愛を望んでいるのだろう?

 ― 湯原は性格も純粋で清純だろ、そのうえ心が10歳のままだ。さ、考えな?自分が10歳の時どうだった

昨夜ビルの屋上でされた国村の問いかけに、素直に考えて今は気づける。
本当は周太は10歳の子供らしい、おだやかで自由な恋愛を経験するべき時なのではないだろうか?
昨夜、国村が言った言葉のように「体は繋げずに心を繋いでいく」穏やかで優しい恋愛が必要なのではないだろうか?
けれど自分にはそれが果たして出来るのだろうか?
母親から「心」を無視され続けた自分は「体のことが全て」と、どこかまだ思い込んでいる。
そして体の繋がりで心も繋がれると思いがちでいる、そんな自分に穏かな恋愛は出来るだろうか?

「…体を繋げなくても、心は繋げられる…」

つぶやきがこぼれてため息を吐くと英二は左手首を見た。
もう仕度する時間になる、パソコンを落として英二は立ちあがると更衣室へ向かった。
山岳救助隊服に着替えながら時折、クライマーウォッチが目に映りこむ。
この時計を周太が贈ってくれたのは「最高峰でも英二が周太を想いだして無事に帰る意思を忘れない」為だった。
いま帰るべき家庭も失っている英二に、周太自身が帰る場所となって英二の無事を支えようとしている。
まだ10歳の子供のままで大人の事情も恋愛も受け留めて。

どうしてだろう?
どうして周太は純粋無垢なままでも強く凛として立っていられる?
そんな美しさ強さに惹かれて自分はここまで来られた。
もう自分は生きる誇りも夢も全て手に入れた、充分に周太には貰い過ぎている。

それなのに愛情も温もりも周太は自分にくれた。
いつも英二が望みのまま夢に立って生きる姿を心から周太は望んでくれた。
たとえ英二が国村と体の関係を持っても英二が望むのなら良いとまで言ってくれた。
それは10歳の子供の潔癖な愛情からすれば苦しい決意だったはず、それでも周太は願ってくれた。
そんな周太の愛情に自分は気付かずに、体を無理強いして周太の心を傷つけた。
それでも周太はまだ自分を大切にしようとしてくれる。

だから今は決心したい。
たとえ周太が国村を選んでも、それが周太の望みなら支えたい。
10歳の純粋無垢なままでも自分を支えてくれる周太の、望みのままに生きる姿を自分は支えたい。
それがたとえ自分の居場所を失うのであっても。
そして自分の愛情を真直ぐに心だけで示してみたい。

「よし。行くか、」

決意を心にきちんと抱いて英二は微笑んだ。
そして登山靴にゲイターを履いて登山ザックを背負うと英二は更衣室の扉を開けた。


雪道を英二は自転車で走って御岳山を見あげた。
滑りやすいアイスバーンを器用に避けて御岳山麓の滝本駅に着くと、いつもの場所に自転車を置かせてもらう。
そして登山口でアイゼンを履いていると話し声が聞こえて英二は顔を上げた。

「お、宮田のが先だったね?はい、ちゃんと送り届けたよ?」

からり笑って国村が周太を英二の前へと連れて来てくれた。
英二が贈った冬用の登山ジャケットを今日も周太は着てくれている、あわい水色が似合っていて英二は微笑んだ。
周太も微笑んで英二の隣へと来てくれる、その黒目がちの瞳を見つめて英二は笑いかけた。

「周太、朝ごはんはどうしたの?」
「ん、国村がね、山で作ってくれて…おいしかったよ?」

楽しそうに周太は微笑んで教えてくれる。
その言葉に頷いて国村を振り返ると、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「クッカーでココア作ってさ、パンを炙った程度だよ? ごめんね湯原、あんな簡単なので。でもさ、雪の山頂はよかったろ?」
「ん、きれいだった。朝陽に雪が光ってて…ああいう朝ごはんは、いいね…ね、英二も朝に登る時はあんな感じ?」
「そうだな、握飯とカップ麺だけど、雰囲気は一緒だな?」

周太は英二にも楽しそうに訊いてくれる。
そんな様子を見て微笑むと、国村は踵を返して駐車場へと足を向けた。その青い登山ジャケットの腕を英二はとっさに掴んだ。
掴まれて立ち止まると国村は明るい温かな目を英二に向けてくれた。

「うん?どうしたんだ、宮田?」
「おまえもさ、今日は一緒に巡廻しよう。3人で行きたいんだ、」

笑って英二は言うと、国村の腕を掴んだまま登山道の方へ歩き出した。
ひきずられるように歩きながら、呆れたように国村が笑ってくれる。

「なに、おまえ?デートの邪魔だろ、俺がいたらさ。俺はね、馬に蹴られたくないよ」
「たまには馬に蹴られたら?」

さらっと言い返して英二は笑った。
笑いながら英二は周太の瞳を見つめて微笑んだ。

「周太、教えてほしいよ?国村が一緒なのと、ふたりだけなのと。どっちがいい?」

訊かれて黒目がちの瞳がゆっくり瞬いた。
すこし考え込むように右掌を頬に添えて、そして口を開いてくれた。

「ん。3人が、いいな?…国村、一緒に登ってくれる?」

真直ぐに黒目がちの瞳が英二を見、国村を見つめた。
ふっと細い目が和んで、やさしい笑顔で国村が口を開いた。

「そっか。でも俺さ?今日はパンツは普通のカーゴなんだよね?だからあんまり雪深いとこは、入れないよ?」
「ん、…俺もそう、…登山ジャケットは着ているけど、あとはね、普通の服だから…一緒だよ?」

見ると周太はダークブラウンのカラージーンズを履いている。ジャケットからのぞくインナーも白いニットのようだった。
かわいいなと思いながら英二はふたりに笑いかけた。

「今日の御岳山は、そこまで積雪も無いから大丈夫。じゃ、ふたりとも同行よろしくな」
「ふうん、ほんとに俺、一緒に登るんだ?ま、いいけどね、」

そう言って笑うと国村はキックステップで歩き始めた。
見るとアイゼンを国村は履いていない、英二は登山ザックから予備のアイゼンを出した。

「ほら、履けよ。自分のアイゼンはどうしたんだ、国村?」
「お、悪いね、借りるよ。俺のはさ、車に置いてきたんだよね。一緒に登ると思ってなくてさ…うん、いい感じかな、」

笑いながら馴れた手つきで履き終ると、足慣らしをして頷いてくれる。
ほんとうに国村は英二と周太を2人で御岳山へ登らせてくれるつもりだった、きっと話す時間を作ろうとしてくれたのだろう。
けれど今はきっと2人にならない方が良い、自責とちいさな決断に英二は微笑んだ。


御岳山の巡回を終えて2人と山麓で別れると、英二はまた自転車に乗って町の巡回へと廻った。
雪の積もる山間の町は空気が冴えて気持ちがいい、雪道を自転車で走っていくとどこか頭を抜けるような感覚が爽やかになる。
いつもの道を通りながらときおり出会う町の人と挨拶を交して、農家が多い地域へと入っていく。
見あげる農家の垣根や庭木が雪で白く凍っている、白い花が咲き誇るような家々の庭が美しくて英二は微笑んだ。

そうして町を回っていくと、ふっとピアノの音が聞こえて英二は止まった。
この町でこの時間にピアノを聴くのは珍しい、透明な音に実家で姉がときおり弾いてくれた音色が懐かしくて英二は微笑んだ。
どこの家で弾いているのかな?音色を辿りながら巡回して英二は一軒の農家の前で停まった。

透明な音と沈思の音がたがいに呼びかわすような旋律、切ない甘い調べが響いていく。
単音と和音の追いかけあいに、深い沈思のトーンから透明な音色にうつる共鳴が哀切でも、どこか明るい。
舞いふるような踊るような旋律が、ふる雪や風のゆらめき光のきらめきを魅せていく、秋か冬の森を想わすイメージの曲。
そして深い和音がやわらかに交す重なり響いて、透明な旋律の聲はゆるやかに空気へとけた。

「…巧いな、」

ひと言ほっと微笑んで英二はクライマーウォッチを見た。
まだ時間に余裕がある、もう少し聴いて行っても大丈夫だろう。
どうせなら聴きながら仕事しよう、英二はペーパーボードとペンを出して登山道の注意点を書きこみ始めた。
今日は3人一緒だったから要点しかまだ書いていない。詳細を今のうちに書いてしまいたかった。
そうしてペンを走らす耳にピアノの旋律が、きれいな低く歌う透明なテノールの声を乗せて響きはじめた。

  …
  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う
  ……
  夢なら夢のままでかまわない 
  愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


英語の発音もきれいで歌いなれた雰囲気、ピアノの響きに合わせた低い穏やかなトーン。
やさしい低い歌い方なのに純粋なテノールの声はよく透って、歌詞もはっきりと聞こえてくる。
ずいぶん巧いなと感心して何気なく英二は表札を見た。

「…『国村』?」

驚いて英二は目の前の農家を見直した。
立派な長屋門が裏になった、蔵が2棟ある豪農といった雰囲気の屋敷構え。
その屋根裏風の2階からまたピアノの音色が流れて英二は目を細めて見つめた。
木枠の美しい窓の向こう、きれいな飴いろのアップライトピアノが見える。その前に座る横顔に英二は目を大きくした。

「…国村、…」

遠目にも分かる雪白の秀麗な横顔が、深く透明に繊細な表情と声で歌っている。
見たことのない友人の表情に惹きこまれるよう英二は見つめ、手許のペンが停まった。
国村がピアノを弾くことも、こんなきれいな声で歌うことも英二は知らない。
意外で驚いて、けれどあの友人には似合うようにも思えた。

いつもは大胆不敵で愉快な男、けれど繊細で豊かな美しい感受性を持っている。
生来の文学青年風で耽美なほど繊細な風貌からすれば、ピアノを奏でられることも美しい声も相応しい。
見惚れるように見つめる向こうで曲は一度終わり、けれどまた第1音の高音が再び弾かれ透明な声が最初の言葉を紡いだ。
そして歌と旋律がふたたび雪の光景へと廻り想いを奏で始めた。

  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 
  君を想う

  奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
  微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
  降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
  夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


  残された哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
  はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて靡く あざやかな君が 僕を奪う
  季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように
  夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ胸を染める いつまでも君を想い
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


しずかに歌い終えると国村は向こう側へと顔を向けて、誰かと話している。
その向こうに誰かが立っているけれど暗がりで見えない。でもその誰かが誰なのか?そんなことは決まっている。
この家は国村の家、あの部屋は国村の自室だろう。そこで国村はピアノを弾いて「誰か」に歌を詠いあげた。
そっと英二は歌詞を言葉につぶやいた。

「…季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように…」

秋か冬の森のような旋律にのせた、永遠の愛を誓う想いの歌。
その愛は「夢なら夢のままでかまわない、愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは真実だから」そんな無償の愛。
ぱさりとペーパーボードが雪の道に落ちた音に足元を見おろすと、白銀に輝く雪の光にやさしく瞳が射抜かれた。
ゆっくり瞬いて焦点を戻すと英二は、すこし雪に濡れたボードを拾いあげてそっと雫を拭った。
そして静かに自転車を動かして英二はまた巡廻を始めた。


早めの昼食が済んだ頃、国村は周太を連れて御岳駐在所に来てくれた。
いつもの調子で奥の休憩室に陣取ると持ってきた風呂敷包みを広げてくれる。
それを覗きこんで岩崎が笑った。

「お、国村のお得意だな?ずいぶんとまあ、たくさん作ったじゃないか」
「みんなで食べようと思いましてね、奥さんと息子さんにもどうぞ、」
「ありがとう、国村が作ったのも旨いんだよな、奥さんたち喜ぶよ、」

話ながら馴れた手つきで国村は皿へと取り分けて岩崎へと渡している。
何かなと英二も覗きこむと、重箱いっぱい牡丹餅といなり寿司が一段ずつ詰められていた。
巧いもんだなと眺めながら英二は訊いてみた。

「これ、おまえが作ってきたのか?」
「そうだよ、俺の作った米と小豆でね。いなり寿司の揚げは祖母ちゃんが作ったやつだよ、」

皿にとると英二にも渡してくれる。
素直に座って箸をとると、周太が茶を淹れて持ってきてくれた。

「コーヒーよりも、お茶の方が良いかな、って思って…熱いからきをつけて、」
「ありがとう、ね、周太?これは周太も手伝ったの?」

湯呑を受けとりながら訊いてみると、素直に周太は頷いた。
そして楽しそうに微笑んで教えてくれる。

「ん、手伝わせてもらったよ?…俺、牡丹餅って初めて作った。餡を漉すのとか、面白かったよ?」
「へえ、あんこまで作ったのか、すごいな」
「ちょうど、祖母ちゃんが小豆を水煮してあってさ。で、餡を作れるなって思ってね」

教えてくれながら国村も自分の分を取り分けている。
勧められるまま英二も食べてみると、さらりと甘い餡にほどよく潰された餅米が美味しい。
ちょっと高級な和菓子屋にも負けない味に英二は驚いた。

「これ、旨いよ?すごいな、国村。おまえ、こんなことも出来るんだ」
「うん?まあね、高校でもやったしさ、祖母ちゃんの手伝い昔っからしてるしね。甘いもん好きなんだよね、」

言いながら本人も満足げに目を笑ませて口を動かしている。
周太も美味しそうに微笑んでいる、きっと料理も好きな周太には素朴な菓子作りは楽しかっただろう。
ふたり並んで農家の台所に立つ時間はやさしい温もりで周太を包んだ、そんな気配が幸せそうな周太に見える。
周太の体と心の傷を国村は、大らかな優しさのままに接して癒そうとしてくれている。
こういう愛し方は自分にはまだ難しい、けれど出来るようになりたい。穏やかな願いに微笑んだ英二に国村が声を掛けてくれた。

「いなり寿司のさ、揚げの味とかどうだ?好みと違っていたらごめんな、」
「うん、旨いよ。酢飯も良い味だな、具もたくさん入ってるな、」
「どれもウチの野菜だよ。椎茸も池の端で作ってるんだ、香も好いだろ?」

愉しげに温かく笑いながら「もっと食いなよ、」と英二にも勧めてくれる。
どれも温かで端正な味がする料理たちは、どこか周太の手料理とも似ていて納得と切なさが響いてしまう。
ふたりには英二が踏み込めない繋がりがある、そんな確信も手料理から解るような気がした。
やさしいピアノながれる時間、台所の穏やかな温もり、そんな素朴で繊細な豊かな時間に繋がれる想いたち。
ふるよう伝わる想いに確信を見つめながら昼の時間を英二は穏やかに微笑んだ。

食べ終えると3人で御岳ボルダ―の忍者返しの岩に行った。
冬でも午後なら日当たりの良い岩で、日本で最も有名なボルダリングできる岩・ボルダ―となっている。
その理由は忍者返しがボルダリンググレードの体系の基準になっているということ。
普通「課題」と呼ばれるコースごとにグレードが設定され10級から高難度で六段まであり、忍者返しは1級になってる。
もうひとつの理由は「ハードプロブレムの登竜門」と言われ、上級者への第1歩とされていることだった。
御岳駐在所に勤務する英二と国村にとって、勤務合間の自主トレーニングには調度いい場所とグレードでよく登っている。

今日も日当たりがよく、雪中とはいえ岩は温まっているようだった。
ボルダリング用のシューズに履き替えるとチョークを手にはたいた。
クライマーウォッチの時間を確認して国村が提案してくれる。

「あまり時間ないだろ?宮田はさ、忍者返しに登んな。俺が湯原につきあうよ、マミ岩ならいけるよね?」
「うん、よろしくな、」

短く微笑んで答えて英二はクラッシュパッドをポイントに敷くと岩に手をかけた。
すぐに登り始めていく掌も足も随分と馴れているのが自分で感触に解る。
毎日をこうしてボルダリングやルートクライミングの自主練を国村と積んできた。
いまに岩場として国内最難度の滝谷や一ノ倉沢にも行くだろう、本配属後は海外での訓練も予定されている。
その先には最高峰の踏破が待っている。

そして周太の運命も本配属から大きく動き出す。
あと半年もすれば周太は警察組織の暗部へと曳かれ、命を危険に晒す日々が始まる。
そのときに自分はどこまで守りきれるのか解らない、けれど今もう1人が周太の隣に立つだろう。
きっと周太の隣は英二だけじゃない方が可能性は広がる。
このさき周太が辿る危険な「父の軌跡」そこから無事に戻れる可能性、それが広がる。
周太の隣に立つもう1人がどれだけ有能で信頼できるのか、それを一番自分がよく知っている。
そしてきっともう1人は英二にも解らないほどの強さで、周太を大切に想い守ろうとしている。

だからもう独占は今は出来ない。
周太を守るためなら何だって自分は出来る、だから独占を止めることだって出来るはず。
その覚悟を見つめながら英二は頂上だけを見つめて登って行った。
そして岩を完登して御岳渓谷を英二は見おろし微笑んだ。

碧い水と透明な波が砕ける渓流、白銀そまる河原の輝き。
渓谷を包む森の雪にねむる動物たちの穏やかな気配、冬の陽の温もり。
そして下方の岩場では周太が国村に教わって登攀をしている。
楽しそうな周太の笑顔と底抜けに明るい目の温かい笑顔は、きれいだった。
ふたりの空気は穏やかで温もりが優しかった。

―聴かなくていい事、踏み込むべきではない領域

昨夜あの星ふる屋上で国村が言った言葉が静かに心へ映りこむ。
きっと周太と国村の繋がりはそうした空気がある、そっと確信が心へ肚へふれ落ちてくる。
それならそれでいい、周太が幸せに笑ってくれるなら自分も幸せだと思える。
唯ひとり愛する。
そう決めたのなら愛しぬけばいいだろう。
たとえ周太が他へ想いを傾けても、その想いごと自分は見つめて守ってやりたい。

愛してるよ? 心に想いを告げて微笑むと、英二は岩を下降し始めた。

御岳駐在所へ戻ると英二は午後の巡回は自分だけで行きたいと周太に告げた。
なぜ?と周太は訊いてくれた、それに英二はきれいに笑って答えた。

「午後はね、周太。大岳山の方まで確認に行きたいんだ、今日は御岳から大岳へ抜ける計画書がいくつかあったから」

これは本当のことだった。
そうすると時間も長く険しい部分もあるルートになる、軽装備では避けた方が良い。
けれど、と周太は困ったように言ってくれる。

「でも、英二?約束してるのに…俺、ごめんなさい、ちゃんと装備を整えなくて、」
「周太は悪くないよ?それにな、周太が装備を整えていても連れて行けない、急いで回るから。こっちこそ約束破って、ごめんな?」

きれいに笑って英二は周太に謝った。
ゆっくり瞬いて黒目がちの瞳が英二を見あげて、ちいさなため息を吐くと微笑んで頷いてくれた。

「ん、…じゃあ、新宿までは、送ってくれる?」
「うん、送っていくよ?早く上がれるように、頑張るな。でさ、国村?」

英二の声に底抜けに明るい目が「なんだ?」といつもの温かい笑みで訊いてくれる。
どうか俺のお願い聴いてよね?そんな目で英二は友人へ笑いかけた。

「今回さ、周太は荷物が多いだろ?だからさ、新宿まで車出してもらっていい?」
「うん?俺はいいけどさ、…それで良いワケ?湯原はどうしたい?」

ゆっくりひとつ細い目を瞬いて国村は周太に微笑んだ。
応えるように真直ぐに黒目がちの瞳が英二と国村を見あげて、やさしく微笑んで頷いた。

「ん、お願い出来ると、うれしいな…いいかな?」

やさしい細い目が周太に頷いて、英二を見てすこし首傾げた。
そして軽く頷くと愉しげに底抜けに明るいが笑ってくれた。

「じゃ、決まりだね。宮田、上がる頃にさ、迎えに来てやるよ?
で、青梅署で着替えたら新宿へ向かう。おまえが着替えてる間、俺たち吉村先生のとこにいれば良いだろ?」
「うん、よろしくな、」

そう言って駐在所でふたりを見送った。
駐在所へ戻ると英二は、すぐに書類のチェックに入って業務を進めた。
そして終わると救助隊服に着替えて、一声かけてから御岳山へと向かった。



【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】


(to be continued)

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第33話 結晶 in the first光花さく雪の森―another,side story「陽はまた昇る」 

2012-02-14 22:32:16 | 陽はまた昇るanother,side story
光、枯れない花 永遠の秘密と約束



第33話 結晶 in the first 光花さく雪の森―another,side story「陽はまた昇る」

やわらかな温もりが髪を撫でてくれる。
気持ちよくて微笑んで周太は目を覚ました。
目覚めた瞳の向こうで、黒目がちの瞳が楽しそうに微笑んでくれる。

「おはよう、周?今朝もね、天使の寝顔をありがとう、」

笑いながら、やさしい指で頬を額をやわらかく突いてくれる。
うれしくて微笑んで周太は朝の挨拶をした。

「ん、…おはよう、おかあさん、…恥ずかしくなるよ?」
「恥ずかしがりね、周は?でも、ほんと可愛いな、置いて出掛けるの、嫌になっちゃうな?」

愉しげに笑う母の言葉に、急に周太は寂しくなった。
今日は朝早くから母は友達と日帰りで温泉に行く、帰りは夜になると言っていた。
こんなに長時間を母と離れるのは周太は初めてのことになる。
なんだかベッドから出たくなくなって、周太はテディベアを抱っこして丸くなってしまった。

「ん、周?起きてくれないの?おかあさん、周と一緒に朝ごはん食べたいな?」
「…ん、ごはんは一緒に食べたいけど…」

抱っこしたテディベアの影から周太は口ごもった。
もう小学校3年生にもなって、母と離れて留守番したことが無いのはきっと自分くらい。
それも解ってはいる、けれどやっぱり大好きな母が夜までいないのは寂しいと想ってしまう。
でも母が今日の温泉旅行を楽しみにしていることも自分はよく知っている。
毎日カレンダーを見て楽しそうに日にちを数えていたから。

…でもね、…おかあさんがいない日曜日は、さびしいな。ね?

テディベアにちいさく「ね?」と話しかけて周太はため息を吐いた。
ほっと息ついた背中から、やわらかな香がやさしく腕をまわして抱きしめてくれる。
おだやかですこし甘い、桜の花にも似ている母のやわらかな香がうれしくて周太は微笑んだ。
微笑んだ頬にやさしい母の頬がよせられる。

「かわいいな、周、可愛くって抱っこしちゃう、」
「ん、…恥ずかしいよ?…でも、抱っこうれしい、よ?」

よせられる頬のやわらかさも香りも、母のやさしさも幸せで周太は笑った。
そんな幸せな感触に甘えていると、明るく笑いながら母が口を開いた。

「ね、周?今日はね、おかあさん、仲良しのお友達と10年ぶりの旅行なの。
おかあさんね、4月にはお泊りで旅行でしょう?今日は、その練習でお友達と温泉に行くのよ?」
「りょこうの、練習?」

旅行に練習ってあるんだな?
不思議に思って訊いてみると母はいつものように明晰に教えてくれた。

「うん、そうよ?いきなりお泊りでね、おかあさんが夜いなかったら。きっと周はびっくりしちゃうでしょ?」
「…ん、…そう、だね…?」

きっと自分はびっくりするだろうな?周太は4月の自分を心配をした。
ひとりっ子で甘えん坊だと周太は自分でもよく解っている、だから母の言うことは尤もだと頷ける。
けれど4月には4年生になっている、そんなに大きくなって留守番できないのは、きっと恥ずかしいだろう。
そう思うと今日、ちょっと頑張っておく方がきっといい。ちいさな決心で周太は母に微笑んだ。

「ん、今日はね、練習するよ?」
「よかった、おかあさんもね、周と離れる練習なの。だから一緒にがんばろうね?」

抱っこされながら起き上がって周太は母を見あげた。
いま母は「離れる練習」と言った、どういう意味だろう?言葉に心配になって周太は訊いた。

「…はなれる練習、なの?」

ちいさな質問に母はやさしく微笑んで額にキスしてくれる。
そして黒目がちの瞳で周太の瞳を見つめて教えてくれた。

「うん、そうよ。いつかね、周も大人になって、おかあさんから離れて生きていくの。
そのとき、おかあさん寂しくなっちゃって、周を離せないと困るでしょう?だからね、今日から練習するのよ?」

大好きな母と離れて生きていく。
そんな哀しいことは考えたことが無い、びっくりして哀しくて周太は母に抱きついた。

「…そんなのわからない、おかあさん、ぼく、ずっと一緒にいる」
「うん?ありがとう、周。可愛いな、周は、ね?」

やさしい腕が抱きしめてくれる。
ほっと温もりに安心して微笑んだ周太に、黒目がちの瞳がやさしく笑いかけてくれた。

「ね、周。でもね、きっと好きなひと出来るから、離れても大丈夫なのよ?」
「…すきなひと?…おかあさんと、おとうさんの他に?」
「うん、そうよ?」

そんなひと出来るのだろうか?
学校の友達も好きだと思う、けれど父と母ほど好きだなんて想えない。
いつも自分が想うことを周太は素直に母に話した。

「ん、…でもね、おかあさん?花が好き、っていうとね?
おとうさんと、おかあさん以外のひとってね、…男の子なのに変だって、だめだって言うよ?
料理するのとかケーキが好きって言うのも、そういうふうに言われる…この小十郎のこともね、言われたよ?
好きなものを、だめって言うひとをね、好きになるのって難しいよ…だから、ぼくにはね、好きなひと出来ないかも…」

宝物のテディベア「小十郎」を抱きしめながら周太は哀しくなった。
大切にしている「小十郎」を周太は出かける時もリュックにいれて連れて行く。
けれど小学校に入ってからは「ぬいぐるみなんて男の子は変だよ」と言われる時があって哀しくなってしまう。
でも、花もケーキもテディベアも、女の子なら変とは言われない。
なぜ女の子は良くて自分は変なのだろう?小学校に入ってから考えていることを母に周太は訊いてみた。

「おかあさん、ぼくって、変なのかな?…好きなだけなのに…でも、変って言われた…だからね、好きなひと出来ないと思う…」

ぽとんと涙が「小十郎」にふりかかった。
いつか父も母も順番で先に亡くなってしまう、そのことは祖父母が生まれる前に亡くなっているから理解している。
だから父も母も亡くなったら、好きなひとが出来ない自分は独りぼっちになるだろう。
そうしたら誰と好きな花や料理の話をしたらいいのだろう?
そんな孤独を想うと涙がこぼれて、日曜日の朝なのにすっかり周太は哀しくなった。

「周?だいじょうぶよ、」

やさしい穏やかな声が名前を呼んでくれる。
涙ぐんだまま母を見あげると、黒目がちの瞳が愉しげに笑いかけてくれた。

「花が好きで庭を大切にして、おかあさん手伝って料理するのが好きで、家族でケーキ食べてお話しするのが好きで。
大好きな小十郎を大切に出来る。こういうね、やさしい素直な周が好きって、大好きになってくれるひと必ずいるの。
まだちょっと逢えていないだけ、けれど、いつか必ず逢えるの。だから周、自分が好きなことをね、ちゃんと大切にしてね?」

母はすべて解ってくれている。
そして母は間違えたことは無いと周太は知っている、だから母が言う通りなのだろう。
自分にも好きなひとが出来るかな?すこし楽しい気持ちになって周太は訊いてみた。

「…ほんとう?おかあさん、…おとうさんと、おかあさん以外にも、そういうひといる?」
「うん、絶対にいる。おかあさん、約束出来るよ?」

母の約束は必ず守って貰える、だからきっと大丈夫。
うれしくなって微笑んだ周太を、母は嬉しそうに抱っこして顔を覗きこんでくれた。

「うん、ほんと可愛いな、周は。きっと周はね?すごく可愛いから、今にモテて大変になるわよ」
「もてて?」
「そう、大好きってね、沢山の人にいっぺんに言われるの。大変よ?誰を好きになるかね、決めなくちゃいけないんだから」
「…よく、わからないよ?おかあさん、…好きって、むずかしいんだね?」

お喋りしながら周太はようやくベッドから出た。
そして2階の洗面台で顔を洗って口を漱ぐと、母がタオルを渡してくれながら微笑んだ。

「うん、今日もいいお顔。さ、朝ごはん食べようね?仕度しているね」
「ん、着替えたら、お手伝いするね、」

母と廊下で別れると周太は自室へ戻った。
さっき母が話してくれたことはまだよく解らない、けれど温かで周太は嬉しかった。
いつか、大人になればきちんと解るのだろうか?
ちょっと考えながら着替えてベッドをきちんと片づけると、周太は「小十郎」を抱っこして部屋を出た。
廊下へ出ると隣は書斎になっている、なんとなく気配がして周太はノックしてみた。

「…ん、どうぞ?」

扉の向こうから、おだやかな声が聞こえて周太は微笑んだ。
きっと父は自分に読む本を選んでくれている、うれしい予想をしながら周太は扉を開いた。
扉を開けると重厚でかすかに甘い香が頬を撫でる、父の気配の香に周太は書棚の前を見た。
見あげた先では穏やかな冬の朝陽のなかで、白い表紙の本を持った父が佇んでいた。

「おはようございます、おとうさん、」

大好きな父に周太はあいさつをした。
すこし屈むと父は周太の目線にあわせてから微笑んでくれた。

「ん、おはよう、周。今日はね、おとうさんと1日、楽しくしようね?」

いつも忙しい父はなかなか1日一緒にいられない。
それを今日は自分が父を独り占めできる、うれしくなって周太は微笑んだ。

「はい、楽しくします…ね、おとうさん?今日はその本を読んでくれるの?」
「ん、そう…きれいな詩がね、たくさん書いてあるんだ…周が気に入ると良いな、」

やさしい穏やかな微笑で父が本を開いた、それを横から覗きこむとアルファベットと挿絵が書いてある。
アルファベットはすこしだけ解るけれど、文章はよくまだ読めない。
けれど挿絵がきれいで周太は微笑んだ。

「ね、おとうさん?…この絵のひと、きれいだね?髪が短いけど、男のひと?女のひと?」

あわい色彩の挿絵は、大きな木の下で花に手を差し伸べる姿が描いてある。
緑いろ輝く短い髪に白い花をひとつ挿して、あわく青い服を着た人は幸せそうに笑っていた。
きれいなひとだなと見ていると、内緒話のように父が教えてくれた。

「ん、周…このひとはね、男の人でも女の人でもないんだ。木の妖精なんだよ」
「木の、ようせい?」

不思議で聴き返すと父の切長い目が愉しそう笑った。
そして穏やかな声で話してくれた。

「ん。森のね、大きな木に棲んでいる妖精だよ…その木と仲良しでね、笑うのも泣くのも木と一緒なんだ。そして、命も一緒だよ」
「木と、命を一緒にするの…?」
「ん、そうだよ、」

話しながら書斎を出て、周太と父は階段を降りた。
ちゃんと足元を気をつけながら周太は父に訊いてみた。

「ね、おとうさん?…じゃあ、大きな木に会えたら、その妖精とも会える?」
「そうだね、…会えるかもしれない、ね」

きれいな笑顔で父が頷いてくれる。
この笑顔が周太は大好きだった、うれしく父の笑顔を見上げながら周太は質問をした。

「じゃあ、おとうさん?庭のね、大きい木にも…妖精はすんでる?」

すこし考えるふうの顔をして、それから微笑んで父は言ってくれた。

「ん、棲んでるかもしれない。うちの庭はね、奥多摩の森を映しているから…妖精も映したかもしれないね…?」
「ほんと?…すてきだね、妖精がいたら。会ってみたい、」

話ながら仏間へ行って朝の挨拶を済ませて、ダイニングへ行くと甘い香りがして周太は微笑んだ。
きっと自分が好きな甘い卵焼きを母は作ってくれている、うれしい想いで母の隣に行くと青いお皿を渡してくれた。
受けとった青い皿には黄色あざやかな卵焼きが、あまい湯気とのっていた。

「はい、周。運んでね?」
「ん、おいしそうだね…おかあさん、ありがとう」

きっと母は今日は留守番する自分のために好きなものを作ってくれた。
そんな母の温かい愛情がうれしい、こんなふうに母は自分を励まして「離れる練習」をしてくれる。
自分も頑張って今日はその練習をしよう、ちいさな決意と勇気を抱いて周太は皿をダイニングテーブルに置いた。


母を駅まで送って帰ってくると、父と一緒にココアを作った。
いつもより大きな鍋でいっぱいに父は作ってくれる、あまい香りが家中に漂って周太は笑った。

「おとうさん、こんなにね、たくさん飲むの?」
「ん、そうだよ、周?…今日はね、好きなだけココア、飲んでいいよ?…はい、まずは一杯どうぞ?」

きれいな笑顔と一緒にマグカップに注いで渡してくれる。
あたたかな甘い香に微笑んでマグカップを両手で抱えて、周太は父を見あげた。

「おとうさん、いつものとこで飲むの?」
「ん、そう…あそこでね、本を読みながら飲もう?…小十郎も連れておいで?」

笑いあいながらココアを運んで仏間に入ると障子戸を開いた、そこはサンルーム風の板敷廊に籐椅子のセットが据えてある。
大きな洋窓がある板敷廊下は朝の太陽が暖かい、サイドテーブルにココアを置くと2人で籐椅子に座りこんだ。
ひとくちココアを啜りこんで父は白い絹張表紙の本を開いてくれる。
その横から周太は「小十郎」を抱っこしてページを覗きこんだ。

「きれいな妖精だね?…ね、お父さん、この妖精の名前は、なんていうの?」

さっき見たばかりの、緑の髪の妖精を指さして周太は尋ねた。
きれいな笑顔で父は周太を見て流麗なフランス語で名前を言った。

「『Dryade』っていうんだよ、周、」
「どりあーど?」

やさしい雰囲気のきれいな名前を周太は口にした。
復唱する息子の声に微笑んで父は教えてくれる。

「ん、そう…フランス語ではね、Dryade。ギリシア語ではDryas、英語だとね、Dryadって言うんだよ」
「ドリアード…どりゅあす、どらいあど…国によって違うんだね?」
「ん、そう。アルファベットはね、読み方が国によって少しずつ違う…それで、違くなるんだ…周は、どの読み方がね、好きかな?」

楽しそうに父が質問してくれる。
博識な父がしてくれる質問はいつも周太には楽しい、もういちど口のなかで復唱して周太は頷いた。

「ん、ドリアードが好き、かな」
「そう、じゃあね、周?いつかもし逢えたら『Dryade』って呼んであげると良いよ…いちばん好きな名前です、って伝えて」

いちばん好きな名前で呼ぶこと。
そういうのは楽しくて素敵で幸せそうに想える、微笑んで素直に周太は頷いた。

「ん、そうするね…ね、おとうさん、どんな詩なの?」

きれいに微笑んで父は頷いて、ひとくちココアを飲んだ。
あまい香りの湯気がたつマグカップをサイドテーブルに置くと、まず日本語で読んでくれた。

 牧場に見えるのは森の精Dryade
 花に囲まれてくつろぐ姿が美しい
 色鮮やかな帽子のかげには
 緑なす乱れ髪が揺れている

 その姿を一目見てより恋に悩み
 心は騒ぎ 涙はあふれ
 恋の苦しみと悩みはいやましに募り募って
 恋する流し目にさいなまれるばかり

 わたしの瞳には甘やかな毒が注がれる
 その毒が魂の奥深く流れこんで
 わたしは深い痛みを心に刻むだろう

 うつくしい六月のユリの花のように
 太陽の光に熱く照らされて頭を垂れて
 青春の盛りをいたずらに過ごすのだ

温かな甘いココアの湯気と、おだやかに深い父の声が冬の陽だまりにとけていく。
ゆるやかな時間にくるまれて周太は「小十郎」を抱っこしてココアを啜った。
この詩は「森」や「花」そして妖精ドリアードに「ユリ」と詠まれる自然が美しい。
こういう自然を詠んだ詩が周太は好きだ、でも「恋」はよく解らない。
こんなふうに詩は難しい言葉とやさしい言葉が並んで、未知の世界を想わせては不思議な気持ちにしてくれる。
なにより、こうして父が自分のために読んでくれる事が、いつも嬉しくて幸せだった。

 Dedans des Prez je vis une Dryade,
 Qui comme fleur s'assisoyt par les fleurs,
 Et mignotoyt un chappeau de couleurs,
 Echevelee en simple verdugade.

 Des ce jour la ma raison fut malade,
 Mon cuoeur pensif, mes yeulx chargez de pleurs,
 Moy triste et lent: tel amas de douleurs
 En ma franchise imprima son oeillade.

 La je senty dedans mes yeulx voller
 Une doulx venin, qui se vint escouler
 Au fond de lame et: depuis cest oultrage,

 Comme un beau lis, au moys de Juin blesse
 D'un ray trop chault, languist a chef baisse,
 Je me consume au plus verd de mon age.

流麗なフランス語はやわらかな秘密のように聞こえる。
言葉の意味は周太には解らない、けれど音の雰囲気をいつも周太は楽しんでいる。
読み終えて父のきれいな切長い目が周太を見て、微笑んだ。

「どうかな、周。ちょっと難しかった?…恋の詩だから、ね?」
「ん、恋?はね、よく解らない…でも、森の妖精がね、花のなかにいたら…きっと、きれいだね?」
「そうだね、…きれいだね、きっと」

息子の素直な感想に父はやさしく微笑んで、楽しそうに頷いてくれる。
ココアを飲んでページを繰ると父は笑って、またひとつ読んでくれた。

 空よ、大気と風よ、見遥かす平原と山嶺よ
 連なりゆく丘、青い森よ、
 弧をえがく川岸よ 湧きいずる泉よ
 刈られた林よ 緑の草叢よ

 苔に姿のぞかす岩の隠家よ 
 緑野よ 蕾よ花よ 露に濡れた草よ
 葡萄の丘、 金色の麦畑、
 ガチーヌの森よ ロワールの川よ そして哀しき私の詩よ

 心残りのままに私は旅立ってゆく、
 傍近くとも遠くとも 私の心とらえる美しい瞳に、
 さよならは言えなかったから

 空よ 大気よ 風よ 山よ、遥かな草原よ、
 林よ、森よ、岸辺よ、沸きいずる泉よ
 岩屋よ、牧場よ、花たちよ、彼のひとへ私の想いを伝えてほしい

 Ciel, air et vents, plains et monts decouverts,
 Tertres vineux et forets verdoyantes,
 Rivages torts et sources ondoyantes,
 Taillis rases et vous bocages verts,……

空、風、野原、山。そして森、林、花。川と泉、露。
青と緑と、白い花のイメージがきれいで周太は微笑んだ。
たくさん詠みこまれた自然に「想いを伝えて」と言っている、それは何を伝えたいのだろう?
不思議だなと想いながら窓を見て、周太は瞳を大きくした。

「…おとうさん、雪が降ってきた…!」

ついさっき太陽が暖かだった空は、いまは真白なまま白い花のように雪がふってくる。
窓の向こうの庭はもう白いベールをあわくまとって雪の花が梢に咲き始めた。
白く銀いろにそまっていく森のような庭、見惚れて周太は窓辺へと立った。

「…きれい、」

ふる雪にそまる光景に微笑んで、周太は「小十郎」を抱きしめた。
籐椅子から父も立って並んで外を眺めて微笑んだ。

「ん、…きれいだね?お母さん、雪見風呂だって喜んでるかな?」
「ゆきみぶろ?」
「ん、雪を見ながらね、外のお風呂に入るんだよ、」

普段は忙しくて、夜のひと時しか一緒にいられない父が今朝は一緒にいる。
母がいない日曜日は寂しい、けれど大好きな父が一緒にいてくれる今は楽しくて幸せで周太は笑った

「雪のおふろ?楽しそうだね、…おとうさんは入ったことあるの?」
「ん、あるよ…山に登ったときとか…ん?…うん、周、お出かけしよう、」

きれいに笑って父はマグカップと本を持った。
ほんとうに出かけるつもりらしい、急なことに驚きながら周太は父と一緒に仏間を出た。

「ね、おとうさん?どこに行くの?」
「ん、奥多摩の山へ行こう。雪の山をね、周に見せたあげたいんだ…雪のお風呂もいいね?」

雪の山。周太は雪山にはまだ登ったことがない。
父の大切なアルバムで雪山を見たことはある、あと父と眺めた山の本での美しい写真。
あのきれいな景色に今から行ける?うれしくて周太はきれいに笑った。

「ん、行きたい。おとうさん、連れて行って?…なに仕度すればいい?」
「周はね、いつもの採集用の道具かな?あとはね、山用の服とリュックサックを用意すること…あと小十郎連れて行くね?」

こんなふうに父も周太がテディベアを大切にすることを解ってくれている。
うれしくて周太はテディベアの「小十郎」を抱きしめて答えた。

「ん、小十郎も行きたいと思うよ?」
「そうだね?奥多摩にはね、ツキノワグマがたくさん住んでいるんだ…だから小十郎も喜ぶね?」
「クマが住むところは、どんぐりがあるよね?…どんぐり落ちてる?」
「雪が積もっているからね…見つけられるかな?」

楽しい会話をして周太は自室へと行った。
クロゼットからあわい水色の登山ウェアだしてから青と白のリュックサックを持って梯子階段を昇った。
もうひとつの自室になっている屋根裏部屋へあがると、木のトランクの前に周太は座りこんだ。
トランクの錠を開けてひらくと植物採集用の道具をまとめたケースを取り出す。
いつも山に行く時はこれを持って行って、落葉や木の実や花を集めて押花にする。そして後で採集帳にまとめていく。
今日は雪がふっている、その雪の重みで舞い落ちたばかりの木の葉に会えるかもしれない。雪を割って咲く花も咲いている?
どんな葉っぱや木の実や草花に会えるか、楽しみに思いながら周太はリュックサックに大切にケースをしまった。

奥多摩に着いたのは9時半すぎだった。
父は雪道にも馴れた雰囲気で運転してくれる、走っていく道の雪は次第に深くなっていく。
タイヤのチェーンが雪削る音を聞きながら、車窓の白銀の山々に周太は微笑んだ。

「おとうさん、夏や秋とね、山が全然違う…なんかね、真白な竜がねむってるみたいだよ?」
「ん、いい表現だね、周?…そうだね、冬の山は眠っているね、」

大好きな父の笑顔はいつもどおり優しくて、いつもより明るくきれいになっている。
きっと好きな山に行くことが父はうれしくて元気になっている、そんな父の横顔が幸せで周太は微笑んだ。
いつもこういう顔で笑ってほしいな?
やさしい祈りを想いながら車窓を見ているうちに奥多摩交番に車は止まった。

「周、いつものようにね、おとうさん、登山計画書出して、ご挨拶してくるから…
でも、おかあさん今日はいないから、周、ひとりで待つことになるね…周も一緒に交番に入る?それとも外で山を見ていたい?」

いつも家族3人で山へ来る。
父は奥多摩交番で登山計画書を提出しながら、同じ警察官の先輩にご挨拶をしてお話をする。
そのあいだ普段は母と近くの森の入口で、落葉を拾ったりしながら山を見て楽しんでいた。
父と一緒に交番へ入るのも楽しそう、けれどせっかく山に来たなら森でも遊びたいな?考えをまとめてから周太は口を開いた。

「ん、外でね、山を見ていたいです…おとうさん、森に行ってもいい?」
「ん、…いいよ?入口の辺りで遊んでいてね、…迷子になったら大変だから」

すこし考えてから父は微笑んで頷いてくれた。
ひとりで森で遊ぶ許可が出て、すこしだけ大人になれた気持ちに微笑んで周太は素直に頷いた。

「はい、…じゃ、またあとでね?」
「ん、気をつけて遊ぶんだよ?アイゼンも初めてなんだからね、…急に走ったりしちゃ、だめだよ?」

初めて履いたアイゼンの足元を周太は見た。
この冬からは雪の山も登ろうと父が用意してくれていた、新品のアイゼンも楽しくて周太は微笑んで頷いた。
そうして父と離れて周太は、初めて1人で森へと立った。

雪の森はねむっているようだった。
春や夏や秋のような、虫たちや鳥のさえずりも気配がすくない。
葉のざわめきの音もずっと静かで、違う世界に来たような不思議な空気が森に佇んでいた。
もう雪は止んでいる、見上げる梢は雪に凍りついて白い花が満開のように見える。

「ね?小十郎…きれいだね、」

背中のリュックサックから顔だけ出ている「小十郎」に周太は話しかけた。
きっと小十郎も初めて見る雪の森に喜んでいる、そんなふうに想って周太は微笑んだ。
見まわす雪の森の雪面は踏みあとがまだ無い、まっさらな雪がうれしくて周太はそっと手形をつけてみた。
父が二重にしてくれた登山グローブは雪に手を入れても冷たくない、しずかに手を雪からあげると上手に手形がついている。

「ん、ぼくの手形だよ?…ね、小十郎、」

肩越しに「小十郎」に微笑んで、また雪の森を見まわした。
その視界にふと小さな足跡が映りこんで、周太は雪を踏んで進むと近づいて見てみた。
楕円形の細い足跡と、まるい窪みの跡。この組み合わせはなんだった?
屋根裏部屋の本棚にある動物図鑑のページを心で捲って、周太は笑った。

「ん、うさぎ…」

うさぎが森には住んでいる?
小学校の飼育小屋のうさぎは見ているし遊んだこともある、けれど森のうさぎは会ったことが無い。
森に住む、うさぎ。図鑑では見たけれど実際に会ってみたい。

「…会ってみたい、ね?小十郎?」

周太は肩越しにクマに微笑むと、うさぎの足跡と一緒に歩き始めた。
かわいい足跡は規則正しく雪を踏んで行っている、その隣をアイゼンに気をつけながら周太は歩いていく。
図鑑で見た森のうさぎは、冬は真白な毛になると書いてあった。そして耳の先だけすこしだけ黒い毛がある。
目の色も黒だった、あわい紅いろの鼻先と耳のなか…鼻も黒だったかな?
うさぎの足跡を目で追いながら周太は頭のなかの動物図鑑と、楽しいにらめっこして歩いていく。

真白な雪にうす青く足跡が続いていく。
見つめる足跡のまわりには木の根元ちかい幹が、いろんな太さや木肌を魅せてくれる。
ときおり木を見あげてまた雪面に視線を戻すと落葉が見つかる時もあって、うれしく拾ってはメモ帳にはさんだ。
きれいな落葉と雪と、うさぎの足跡を眺めながら静かな雪の森へと周太は踏みこんでいく。
そうして足跡を辿っていくうちに視界から木の根っこが消えて周太は顔を上げた。

「…あ、」

並木道のような真直ぐな雪の道が森に現れていた。
その並木の奥には多きな欅が2つ並んでいる、大きな木を見つけて周太は嬉しくなった。
クマの「小十郎」に周太は肩越しから微笑んだ。

「ね、小十郎?大きな木がいるよ、会いに行こう?」

雪の道にのびる並木道を周太はアイゼンを踏んで進んだ。
歩く一歩ごと大きな欅が近づいて、雄渾な樹影が雪道へと降りかかってくる。
雪の梢を見あげると青空が雲間に覗きはじめている、ふりそそぐ冬の太陽が欅の影を青く雪へ描き始めた。
青い影を辿るように欅に近づくと周太は見上げて微笑んだ。

「…こんにちは、大きいね?…ふれさせてね、」

欅へと挨拶をしながら登山グローブを周太は外した。
きちんとポケットへグローブをしまうと掌を静かに欅の幹へと重ねあわせる。
木肌のすこしざらっとした感触と命ある気配が伝わって、どこか温かい。
そっと耳をつけてみると遠くかすかな水音の気配だけは感じられる、やさしい水の気配に周太は微笑んだ。

…この木も、きちんと生きている…ね、どのくらい生きてきたの?

そっと幹から離れて見上げると手を上げるように梢が青空へと伸びていく。
きっと秋は渋い黄金が美しい木だったろう、けれど冬の繊細な枝に雪まとう姿も周太は好きだなと思う。
そして春は緑やわらかい芽が可愛らしくて息吹こく見られるだろう、見てみたいなと周太は首傾げて微笑んだ。

「ん、…きっと、おかあさんの旅行のとき、また連れて来てもらえるかな?」

4月に母はこんどは泊りがけの旅行に出かけるから、父は連休を取って一緒に留守番してくれる。
そのときまた奥多摩の山へ連れて来てもらえるかもしれない。
きっと連れて来てもらえるだろう、楽しい春の予感に周太は欅に笑いかけた。

「春にね、また会いに来ていい?…きっと、芽吹きもね、すてきだよね?…あ、」

笑いかけた幹の向こうに、明るいひろやかな空間が見える。
どんなところだろう?周太は2本の大きな欅の間を通って、ひろやかな明るい空間へとふみこんだ。
そして視界にひろがった巨樹の坐所で、おだやかな空気に周太は微笑んだ。

大きな雪の梢が高くひろやかに青空と雪雲を抱いていた。
あわく紅紫をふくんだ艶やかな木肌を雪の白いベールに透かして、大きな木は佇んでいる。
白く雪をまとう細やかな枝は、綾とりの糸みたいな繊細な模様に空を透かしていた。
梢の雪は白い花が咲いたようで、雲間からふる冬の太陽にあわく光ってきれいだった。

「こんにちは、あなたは、…さくらの木?」

艶やかな木肌はきっと桜だろう、とても大きくて美しい木。
この木にもふれてみたい、木の根を踏まないよう雪を進んで梢を見あげた。

「さわらせてね…?」

微笑んで声かけるとそっと木肌に掌を重ねた。
なめらかな冷たさがふれて、しばらくすると木肌とのはざまに温もりが生まれてくる。
この木も冬の寒さに佇みながらも命が息づく、うれしくて周太は耳を幹へつけて瞳を閉じた。
1月の終わりに雪のなか佇んでいる桜。
春が来ればきっと満開の花がたくさん咲くのだろう。
いまふれる温かな皮のむこう微かに聞こえる流れる樹液、そこに花のいろの力も流れていく。

…きっとね、きれいな花が咲くね…そのときまた、会いに来れるかな…

幹をながれていく水の音に迎える春と花の美しさを想いながら、周太は微笑んだ。
どうか美しい花が咲きますように、そんな花への祈りを捧げて周太は静かに幹から離れた。
やさしい木肌のてざわりがまだ掌に温かい、うれしいなと想いながらふっと周太は振り向いた。

「…あ、」

ふり向いた視線の先に、青い登山ジャケット姿の男の子が佇んでいた。
雪みたいに色白の顔に真黒な髪が際だって、あわく赤い頬と唇があざやいでいる。
きれいな黒い瞳が真直ぐに、じっと周太を見つめている視線は温かであかるい。
この木が好きで見に来たのかな?自分より背の高い男の子を見つめて周太は微笑んだ。

「…この木が好きなの?」

男の子はすこし首を傾げて、底抜けに明るい目で温かに笑った。
そしてよく透る声がはっきりと周太に告げた。

「いちばん好きで大切だ」

自分もこの木を大好きになっている。
同じように感じるひとがいてくれた、うれしくて周太はきれいに笑いかけた。

「同じだね、」

笑いかけた周太に背の高い少年は嬉しそうに頷いて、さくさく雪を踏んで歩いてきてくれる。
陽だまりに立っている周太の前に来ると、少年は明るく笑いかけた。

「いつも俺さ、ここに逢いに来るんだ。でも、君とは初めて逢ったね?」
「ん、…いつも、この木にあいに来るの?」
「そうだよ。この山桜はね、ほんとに俺の大切なものだからさ。毎日、ずっと逢いに来てるよ」

背の高い少年は誇らかに笑って梢を見あげた。
あかるい透明な雰囲気の笑顔がきれいで、周太は少年の顔を見つめた。
ほんとうに雪みたいに白い肌、なんだか絵本で読んだ「雪ん子」みたい。
そんなふうに見ていると少年が周太を振向いた。

「うん、そこに座ってみなよ?いちばん、この桜がいい感じに見えるよ」

言いながら周太の左掌をとって、大きな常緑樹の下の岩に腰かけさせてくれる。
常緑樹の下で岩には雪もなく陽だまりに温かい、座って桜を見ると大きな梢の全体がよく見えた。
さっき毎日この少年は来ると言っていた、きっと花が咲いた姿も知っているだろう。周太は訊いてみた。

「桜、咲いたら、きれい?」
「うん、そりゃきれいだよ。雪みたいに白い雲がね、この木におりたみたいに花が咲くんだ。真白な花が清楚でね、きれいだ」

まるで大好きなひとの話をするように微笑んで教えてくれる。
きっと植物が好きなのだろうな?自分と同じ興味を持っているのがうれしくて周太は微笑んだ。

「ん、…見たいな。4月には咲く?」
「そうだね、4月には咲くな。その前には3月にね、ウチの山では梅がきれいになるよ」
「梅?山に梅があるの?」

家の庭にも梅は何本か植えられている。公園でも見かける。
でも山で咲く梅はまだ周太は見たことが無い、どんなふうに山の梅は咲くのだろう?
そう思っていると少年は、まるで周太が聴きたいことが解るかのように教えてくれた。

「うん。山に白い霞がかかるみたいでね、あわい赤が朝陽みたいにきれいだ。佳い香りでさ」
「かすみ、あさひ…すてきだね、」

山にあわく花が群れ咲く姿を周太は心に描いてため息を吐いた。
きっとさぞ美しいだろう、そんな山を持っている少年が不思議で周太は隣を見上げた。
見あげた先でからり笑って少年は細い目で温かく笑んだ。

「うん、山の花や木はいいよ?花の季節に限らず、山の木はいいね。
この山桜はね、夏は緑の薄い葉が佳い香りだよ。秋は紅葉が真赤でさ、炎の花が咲いたみたいだよ。
で、冬はこんなふうにね?きれいな枝をみせて白い雪のベールをまとっている。
この山桜はね、毎日ずっと見ていたいよ。いつだってきれいでさ。ほんとうに俺には大切な木で、…大好きだ」

真直ぐに底抜けに明るい目が見つめて「大好きだ」と話してくれた。
この木はほんとうに宝物なのだろう、そして木や花を心から好きで愛している。
自分以外にも男の子で花や植物を好きなひとに会えた、うれしくて周太は素直に笑った。

「ん、…大好き。木っていいよね?梅のかすみ…白い雲の花、炎の花…見たいな、」
「見においでよ、俺が見せてあげる。ここに俺は毎日ずっと来るからさ。だから、また姿を見せてよ、また逢いたいよ?」

「あいたい」と率直に言って笑ってくれる。
こんなふうに真直ぐ言って貰ったことは周太は初めてだった。
自分と同じように木や花を愛する少年、またあってみたいと素直に周太も想える。
ちょっと気恥ずかしく微笑んで周太は頷いた。

「ん、…逢いに来るね?そして木に咲く花たちを見せて?」
「うん、たくさん花を見せてあげるよ。だから逢いに来てね、約束だよ?」

底抜けに明るい目が真直ぐに周太を見つめて笑ってくれる。
笑いながら少年は青いウェアのポケットから箱を出した。
箱を開くと白い指でアーモンドチョコレートを1つとって、周太に笑いかけてくれた。

「ほら、口開けな?うまいよ、」
「くれるの?」
「うん、じゃなきゃ口開けろなんて言わないよ?ほら、」

笑って周太の口にチョコレートを入れてくれると、自分も1粒とって口に放り込んだ。
ごりごり音を立てて噛み砕きながら、愉しげに明るい目が笑っている。
まるいチョコレートは芳ばしくて甘くて、すこしほろ苦くて美味しい。口に広がる甘みと香に周太は微笑んだ。

「ん、…おいしいね、ありがとう」
「うん、もっと食いなよ、ほら、」

笑ってまた白い指でひと粒とって唇にふくませてくれる。
まるいチョコレートを素直に周太が口にふくむと、満足げに細い目を笑ませて少年は紅いろの唇を指先で撫でた。
そしてまた自分でもひとつ口へ放り込んで、ごりごり噛み砕きながら周太に笑いかけてくれる。
大らかで温かな笑顔がやさしい、寛いだ気持ちになって微笑んだ周太に少年は山桜を指し示した。

「ほら、見なよ。瞬間が来るよ?」
「しゅんかん?」

訊き返しながら周太は白い指が示す方をゆっくり振向いた。
そして「瞬間」の意味が瞳から映りこんで呼吸を忘れた。

山桜はいま、光と雪の花を満開に輝かせていた。
真青な大空を戴冠し、白い花を誇り高らかに灯して、雪の森の静謐に佇んでいた。

雪の白い雲は冬の陽にゆるくながれて青く透明な空が雪の森をくるんでいた。
木洩れ日ふりそそぐ森は雪を輝かせて、白銀のなかの山桜は佇んで冬花の姿を周太へ見せてくれる。
大きな木の豊麗な冬のねむり息づく姿に周太はそっと息をもどして、きれいに笑った。

「ん、…きれい、…きれいな瞬間、なんだね?」
「そうだよ。光によってさ、モノって見え方が変わるだろ?木や花もそう『山』もね、光によって表情が変わるんだ」

愉しげに細い目が明るく笑んで少年は透明な声で話してくれる。
木、花、山、光。どれも好きな言葉ばかりで楽しい、こういう話が周太は好きだった。
うれしくて周太は少年に訊いてみた。

「ん、…どんな光の時のね、山が好き?」
「そうだな、やっぱり新雪の雪山がいいね。今日みたいにさ、朝早く雪がふって、こうして晴れるとね。雪が輝いてきれいなんだ」

話ながらまたアーモンドチョコを一粒とると周太の唇に含ませてくれる。
素直に入れてもらって口を動かしながら周太は少年の話を聴いていた。
話してくれる瞳は、どこまでも明るく透明で愉しげでいる。こういう目は好きだな?想いながら周太も口を開いた。

「ん、ほんとにね、きれい…いいね、雪の森。また見たいな、」
「また見に来なよ、俺は毎日ここに来るからさ。君も来なよ、また逢って話したいよ?」
「ん、来たいな。…でもね、遠くから来るから、なかなか来れないんだ…」

また来たい、そしてこの少年にあって話したい。
こんなふうに好きな木や花の話を遠慮なく楽しんで、大きな木を一緒に見て笑いたい。
大らかな温かい笑顔を見つめて周太は心から笑いかけた。
そんな周太の笑顔に笑い返してくれながら少年は言ってくれた。

「やっぱりさ、笑顔かわいいね?うん、大丈夫、君は来れる時においでよ。俺は毎日ここに来る、ずっと待っていてあげるよ、」
「ほんとうに?…待っていてくれるの?」

そうしてくれて、またあえたら嬉しい。
ほんとうだといいな?確認したくて訊き返した周太に、底抜けに明るい目が大らかに笑った。

「うん、ずっと待ってるよ?
君が逢いに来るって信じてるからね、だからさ、逢いに来てよ?また逢いたいんだ、君が大好きだよ?」

さらりと言って少年はきれいに笑った。
言われた言葉に周太の瞳が大きくなって、首筋から熱が昇り始めた。
いま言ってくれたこと本当?そんな想いで周太は遠慮がちに訊いてみた。

「あの…いま、なんて言ってくれたの?」
「うん?君が大好きだってこと?」

底抜けに明るい目が温かく笑って周太に訊いた。
やっぱり聴き間違えじゃなかった?
そんな想いで見つめる真ん中で、少年は誇らかに笑って応えた。

「そうだよ。俺はね、君が大好きだ。だからさ、また逢いたいんだよ?だから約束したんだ、ずっと君を待ってる」

大らかな優しい眼差しで透明な声が誇り高らかに周太に告げてくれる。
こんなこと初めて言われた、首筋から昇った熱がもう頬まで熱い。きっと赤くなっている。
でも本当に好きになってくれたのだろうか?周太は思いきって訊いてみた。

「ん、…テディベアとか好きでも、だいじょうぶかな?…
花とか、料理とか、ケーキとか…ね?そういうのをね、男なのに好きとかってどう思うかな?」

訊かれて少年は首傾げた。
そしてすぐに底抜けに明るい目が笑って、あかるく応えてくれた。

「好きならそれで良いだろ?男も女も関係ないね、好きなものがあるのはさ、楽しいだろ?甘いもんだって俺は食うよ、
俺は花も料理も好きだね。山で花を見るのは特に良いもんだ。料理も河原で焚火してやるとね、また旨いよ?作ってあげるよ」

男も女も関係ない、好きならいい。
今朝、母が言ってくれたことに重なる。そして堂々と明るく笑って少年は言ってくれた。

 ―やさしい素直な周が好きって、大好きになってくれるひと必ずいるの
  まだちょっと逢えていないだけ、けれど、いつか必ず逢えるの

「…ほんとに逢えた、ね?」

想いがぽつんと唇からこぼれて周太はきれいに笑った。
周太の呟きにも明るい目はやさしく笑んで周太の背中を覗きこんでくれた。

「このクマ、かわいいな。君のたからもの?」

リュックサックから出た「小十郎」の頭をそっと撫でて微笑んでくれる。
心からテディベアにも頷いてくれている、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、小十郎って言うんだ…赤ちゃんの時からずっと一緒で、大好きなんだ」
「ふうん、いいよね、そういうのってさ。俺はね『山』が大好きなんだ。山にはクマも住んでいる、俺はクマも好きだよ」

テディベアも「いいよね」と笑って肯定してくれる。
こういうのは話しやすくて寛げて、一緒にいたいと想えてしまう。
このひとは、自分も好きかもしれない?

「やまのくま?」
「ツキノワグマがね、奥多摩には住んでいるんだ。春先だとさ、小熊にも会えたりするよ?脅かさないようにね、」
「こぐま…小十郎も会いたいかな?」
「うん、きっと会いたいんじゃない?ね、小十郎?」

周太と一緒にテディベア「小十郎」に話しかけてくれる。
こんなひとは両親以外では周太は初めて出逢った、うれしくて周太は微笑んだ。

…ね、おかあさん。ぼくもね、好きなひとに逢えたかな?

父と母ではない人を、初めて心から好きだと想えた。
楽しく話す合間に少年は、白い指でアーモンドチョコレートを唇へふくませてくれる。
芳ばしい甘さを素直に口に入れながら周太は、雪の森の時を幸せに微笑んだ。

木洩れ日ふる雪の輝き、陽だまり温まる岩の椅子、輝く光の花さく山桜。
ゆるやかに雪の森を駆ける風がふくんだ樹と水の香、かすかな水仙の香、チョコレートの甘さ。
そして雪のように透明な肌と漆黒の髪に、底抜けに明るい目をした背の高い少年。
寛いで話せる時の楽しさが幸せで、ゆっくり周太は時間と少年を見つめていた。

「…ん?…誰か、呼んでいる声が聞こえるな?」

ふっと少年が気がついて耳を澄ませた。
周太も森の入口の方を見て、はっと気がついた。いったい今は何時なのだろう?
すっかり時間を忘れていた、きっと父を心配させている。困って周太は首を傾げた。

「もう、戻らなくちゃ」
「うん?そうか、君を呼んでいる声なんだね、じゃあ行こうか?」

立ちあがって少年は周太の左掌をとってくれる。
岩からおろしてくれると底抜けに明るい目が笑って優しく訊いてくれた。

「奥多摩交番の方から来た?」
「ん、そう…おとうさんがね、交番の人とお話しするから、森で遊んで待ってて…あ、」

森の入り口近くで。そう父に言われていたことを思い出して周太は困ってしまった。
たぶんここは森の入口から遠く離れている、父の言いつけを自分は破ってしまった。
怒られてしまうだろうか?すこし俯いた周太を少年は覗きこんだ。

「こんなに森の奥深くまで来たから、困ってる?」
「ん、…入口の辺り、って言われてて…」

周太の言葉にかるく頷くと底抜けに明るい目がやさしく笑んだ。

「うん、まず約束してくれるかな?ここはね、秘密の場所なんだ。
秘密の山桜だよ、誰も知らない。だからね、君も秘密を一緒に守ってほしいんだ。
『山の秘密』はね、絶対に内緒で守らないといけない約束だよ?誰にも話さないって約束してくれるかな、いいね?」

秘密の山桜「山の秘密」そして秘密を分かち合うこと。
どれも初めてで宝物に想える、うれしくて周太は素直に頷いた。

「ん、約束するよ?」
「よし、素直でいいね?さあ、森の入口まで俺が送ってあげる。おいで?」

大らかに優しく笑って繋いだ左掌を曳いてくれる。
もういちど山桜の巨樹を周太は見上げて、それから少年に付いて欅の門を通った。
さっき片方の欅にしか周太はふれていない、もう片方にもふれたくて周太は少年にお願いした。

「あのね、…ケヤキにね、あいさつしてもいいかな?」
「うん?いいよ、あいさつは大事だよね」

きれいに笑って左掌をいったん離してくれた。
微笑んで周太は欅にふれると耳を当てて、遠く微かな水の聲に「再会」を想い微笑んだ。
しずかに欅から離れると周太は少年の右手を左掌に繋いで笑いかけた。

「待ってくれて、ありがとう」
「うん、ずっと待ってるよ?」

温かく微笑んで繋いだ左掌をウェアのポケットに入れてくれる。
そのポケットで固いまるいものがふれて周太は首傾げた。

「ね、なにか入ってるの?」
「うん?ああ、さっき見つけたんだ、あげるよ?」

笑って言いながら周太の左掌に固いまるいものを握らせてくれる。
つややかとごつごつとした手触りに周太は微笑んだ。

「どんぐり?」
「そうだよ、雪でも拾えるとこあるんだ。こんど来た時に教えてあげるよ?」

そうして雪の森を話しながら歩いて森の入口へと向かった。
雪の話、山の話、花や木の話、畑の話と、日本や世界の高い山の話。どの話も周太は楽しかった。
楽しいお喋りで雪の森をぬけていくと、向こうから話し声が聞こえてくる。

「うん、君のお父さんかな?あと、後藤のおじさんだな」

底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑って周太を見た。
なんだろうなと隣を見あげたとき、木々の間から父と空色のウィンドブレーカーを着た人が現れた。
ほっと安堵した顔の大人ふたりを見あげて周太は口を開いた。

「ごめんなさい…」

素直に謝った周太に父は困った顔で微笑んだ。
そして大きな掌で頭を撫でてくれた。

「ん、…心配したよ?無事で良かった…君が連れて来てくれたんだね?」

訊かれて少年はからり笑った。
そして透明な声で父と空色のウィンドブレーカーの人へと言った。

「うん。俺がね、この子をひきとめちゃったんだ。すみませんでした、」
「ん、そう?…周、楽しかったんだね?」

やさしく父が笑いかけて訊いてくれる。
ほんとうに自分は楽しかった、素直に周太は頷いた。

「ん、楽しかったの…だからね?時間忘れて…ごめんなさい、」
「うん?俺がひきとめたんだよ、楽しくて時間忘れるようにね、俺がしちゃったんだ。すみませんでした」

からり明るく笑って少年は「俺の所為です」と周太をかばってくれる。
そんな少年に空色のウィンドブレーカーの人が笑った。

「うん?そんなに引き留めるなんてね、この子を気に入っちゃんたんだな?そうだろう、」
「そうだよ、後藤のおじさん。やっぱり俺をよく解ってるね?そういうわけでさ、俺のせいです。すみませんでした」

大らかな底抜けに明るい目で真直ぐに誇らかな透る声に告げて、少年は周太をかばい通してくれた。
そんな少年にふたりの大人は笑って結局2人とも注意されただけで済んだ。
そして別れ際にまた森の入口へふたりで立つと、少年は透明な声で明るく言ってくれた。

「君が大好きだ、また逢いたいよ。…きっと俺に逢いに来なね、君の木の下で毎日ずっと待ってるから」
「…あの木を、そう言ってくれるの?」

あの山桜を「周太の木」と言ってくれている。
ほんとうに?そんな想いと見つめる少年は、ひそやかな低い透明な声で教えてくれた。

「うん、君の木だろ?そして俺のいちばん大切な木だよ。だから、あの木の下で君を待ってる」

きれいな笑顔で少年は真直ぐに周太を見つめてくれる。
大らかな優しい眼差しが温かい、こんな目は自分は大好きだと素直に想える。
うれしくて周太は頷いて応えた。

「ん、…待ってて?必ず逢いに来るね、いつかきっと…それとね、」

底抜けに明るい目を真直ぐに周太も見つめた。
いつ次に逢えるかわからない、だから想いを伝えておきたい。きれいに笑って周太は少年に告げた。

「あなたがね、好き」

底抜けに明るい目が幸せに輝いた。
大らかにやさしい笑顔が、誇り高らかに少年の顔に花開いていく。
そうして雪の森やさしい木洩れ日のなかで、少年はそっと周太の耳元にキスをした。


屋根裏部屋の木のトランクにはちいさな木箱が二つ。
そのうち一つは木の実がはいっている。
そこに大きなまるい、どんぐりが1つ眠っている。


【詩文引用:ピエール・ド・ロンサール「カサンドラへのソネット」
第51番・森の精ドリアードDedans des Prez je vis une Dryade、第57番・空よ風よCiel, air et vents, plains et monts découverts】

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第33話 雪火act.7―side story「陽はまた昇る」

2012-02-13 22:53:57 | 陽はまた昇るside story
真直ぐに見つめて、




第33話 雪火act.7―side story「陽はまた昇る」

カラオケ屋から美代と周太は消えていた。
ある意味において予想通りかな?そんなふうに英二は無人の部屋を眺めて微笑んだ。
国村はコントローラーの選曲履歴をチェックして、からり笑った。

「ふうん。美代、怒ってるねえ?困ったなあ」

困ったなあと言う割には困って見えない。
仕方ないなと想いながら英二は訊いてみた。

「どこに行くとかさ、心当たりないのか?」
「まあね、たぶん俺の知らない店に行ったんじゃない?ま、あっちはあっちで楽しんでるよ、」

飄々と笑ってコントローラーを戻すと英二の腕を掴んだ。
なにかなと思って細い瞳を見つめると、どこか違和感がおもわれて英二は怪訝にすこし眉を顰めた。
けれどいつもどおりに国村は笑って英二に言った。

「俺たちもさ、楽しもうよ。ね、宮田?」

カラオケ屋を出て歩きながら飄々と国村は笑っている。
さっきの違和感は気の所為だろうか?考えながら英二は答えた。

「うん、…でも俺、周太が戻ってきたとき、独りにしたくないんだ、だからホテルに戻りたいんだけど、」

今日、周太は国村に銃口を向けた。
その心の傷が気になってしまう、だから独りに出来ればしたくない。
それに夕方に目覚めてからの周太との間に、なにか薄い紙でも挟まったようなもどかしさを感じている。
この違和感はなんなのだろう?よく解らない、それがまた何か不安な想いにさせられる。
すこしため息を吐きかけた英二に、からりと笑って国村が言った。

「じゃあさ、宮田?そのホテルの部屋で、ちょっと呑めばいいだろ?うん、いい考えだね」
「あ、…うん、いいけど?…」

もう国村はさっさと酒屋に入ってしまった。
国村は大の酒好きで、寮でもよく晩酌は当然だという顔で缶を白い指に持っている。
店に入っていくと国村はもう籠へと何種類かの酒を機嫌よく入れていた。
こんなに飲むのかと驚いていると、さっさと会計を済ませて英二を振向いた。

「ほら、行くよ?ぼさっとしてるんじゃないよ?」

底抜けに明るい目が笑って英二の腕を掴んだ。
腕を掴まれたまま一緒に酒屋を出ると、踏む雪がすこし固くなってきている。
明日は御岳山も凍っているだろう、もし巡廻に周太がつき合ってくれるならアイゼンが必要になる。
明日の朝は出勤前に寮へ戻ったら準備しよう、そう考えているうちにビジネスホテルに着いた。
昨日も泊まった部屋に着くと、さっさとサイドテーブルに缶や瓶をならべて国村は満足気に笑った。

「よし、これでいい。ほら、座りな」

ソファに座ると隣をぽんと叩いて座れとジェスチャーしてくる。
笑って素直に座ると英二の手に缶ビールを持たせてくれた。

「はい、乾杯」

軽く缶同士をぶつけると愉しげに笑って国村は缶に口をつけた。
ごくんと白い喉をならして飲み込むと英二を見て、いつも通りの温かな明るい眼差しで微笑んでくれる。
やっぱりさっきの違和感は気の所為だったかな?英二もひとくちビールを飲んで国村に笑いかけた。
英二の笑顔に底抜けに明るい目が笑って、透るテノールの声が率直に訊いてくれる。

「さっき屋上でさ、湯原がおまえの為に泣いた、って言っていたな」
「うん、傷つけたくない、きれいでいてほしい。そんなふうに言ってくれながら周太、涙を流してくれたんだ」

心を身体ごと大切にすること。
それは外見的な話だけじゃない、体を無理に触らせないことだと今の英二には分かる。

周太に出会うまでの英二は求められれば体を与えていた。
抱き合う温もりに一瞬でも寂寞とした心を忘れられる、だからそれで良いと思ってきた。
けれど一瞬の愉悦が済んでしまうと寂寞は余計に募って、なにか傷が抉られたような哀しみに途方にくれていた。
それでも英二には体を重ねる以外に相手と通わす方法が解らなかった。

でも今は周太が隣にいてくれる。周太と体を重ねると心まで温もりに充ちて幸せになれる。
つい数時間前の幸せな周太の温もりを想って微笑んだ英二に、国村が訊いた。

「うん?なに、宮田。エロ顔になってるけど、」
「あ、ごめん。ちょっとエロいこと考えてたよ」

笑って答えた英二を細い目が見つめた。
すこし首をかしげると国村は笑って、缶のプルリングを引くと英二に押しつけた。

「ほら、飲めよ。で、なに考えていたか白状しな?」

唇の端をあげて笑いながら、自分も新しい缶を開けて国村は口をつけた。
英二も缶ビールを飲み干すと渡された缶に口をつけて飲み込んだ。
ふわっと樹木の香りが心地いい、見るとウイスキーの水割りだった。良い香に微笑んで英二は口を開いた。

「うん、周太が泣いてくれた時のことだよ。威嚇発砲した理由を話してくれながらね、泣いてくれた」
「理由を話しながら泣いた、ね。で、そのことでさ、なんでエロ顔になるんだよ?」

からり笑いながら国村がきいてくれる。
軽く首をかしげて英二は答えた。

「うん、抱いている時にね、理由を聴きだしたからさ、」
「…抱いたときに?で、…泣いたのか?」

かすかな一呼吸のあとに質問が国村の口元からこぼれおちた。
質問に頷くと英二は答えた。

「うん、最初は周太ね、俺の腕から逃げようとしたんだ。でも俺、どうしても周太に話してほしかったからさ。
だから周太を捕まえてね、抱いて気持ちよくさせてから聴いたんだよ。そういう時ってさ、素直に話してくれるだろ?」

答える英二の目を底抜けに明るい目が真直ぐに見つめている。
じっと見つめたまま国村は、ゆっくり缶を傾けて飲みながら英二に訊いた。

「ふうん…そういうこと、宮田は結構するワケ?」
「前はね、したことあったかな。でも周太には初めてだよ、素直に話してくれたからさ、よかったよ」
「ふん、…素直に、ね、」

白い指がまたプルリングを引いて缶を英二に押しつけてくる。
持っていた水割りの缶を飲干して英二は素直に新しい缶を受けとった。
国村も新しい缶を開けて啜りこんで、英二の目を真直ぐ見て訊いた。

「どんなふうにさ、湯原は話して…泣いた?」

訊かれて英二は横に座ったアンザイレンパートナーの顔を見た。
いつもの細い目が「話せよ?」とかすかに笑って訊いてくる、英二は口を開いた。

「周太に俺はこう言ったよ、『俺のために銃を国村に向けさせたね?
国村のこと、周太だって好きなのに。俺を守る為に、国村に銃を向けさせたね』
それでさ、ごめんね、辛かったね。って俺、周太に謝った。そしたら周太は泣いたんだ、俺のこと守りたかった、て」

話す英二を見つめている細い目がかすかに揺れて見えた。
どうしたのかなと見直すと、いつも通りの明るい目が笑っている。気の所為だったのかな?そう思って英二は続けた。

「そしてね、周太は泣きながらこう言ったよ、
『銃を向けて引き金をひいて。友達なのに大好きな人なのに。国村は俺のこと守ろうとしてくれる大切な友達、
なのに止められなくて。大切な友達を傷つける、それでも守りたかった。でも、怖かった。怖くて泣きたかった』」

白い指がプルリングを引く。
そのまま英二に缶を押しつけながらテノールの声が訊いた。

「大好き、大切。そんなふうに俺のこと、湯原は言ったんだ?…で、怖くて泣きたかった、て?」

「うん、言っていた。だから俺はさ、『こういう周太が国村も大好きなんだよ』って言って慰めたんだ。
俺もね、そういう周太が好きだって言ってさ、ずっと俺だけの居場所でいてってお願いして。
そしたら周太もね、ずっと離れないで、いつか必ず俺のために周太の掌を遣ってくれる。そう言ってくれたよ」

細い目が英二の目と言葉を真直ぐ見つめている。
見つめたまま白い手が動いて缶を傾けると白い喉がひとつ動いた、ほっと吐息こぼして国村はうすく微笑んだ。

「…うん、そっか…」

どこか陰翳のある微笑に英二は思わず惹きこまれるよう友人の顔を見た。
けれど英二の視線を見かえした時にはもう、細い目は底抜けに明るく笑んでいた。

「で、おまえ?今までのことをさ、えっちしながら湯原に訊いちゃったワケだ、」

ストレートな質問に英二は笑った。
笑った英二に国村はまたプルリングを引いて缶を押しつけてくる。
受けとって飲みこむと英二は口を開いた。

「うん、そうだよ?」
「ふうん、あの恥ずかしがりの彼がね?よくそんなことさせたね?」
「うん、まあ、ね?俺もさ、始めちゃうとセーブが効きにくいって言うかさ、理性が飛ぶって言うか…周太だとなっちゃうな」
「へえ?自覚はあるんだね、おまえ。じゃあさ?湯原が嫌がった時とかって、どうするんだよ」

話の合間に国村は英二の手から空缶をとると、新しい缶を握らせる。
そして目で「呑めよ?」と笑って自分も新しい缶を飲干していく。渡されるまま素直に英二も飲んで口を開いた。

「嫌がったとき…今日が初めてだな、周太。でもさ、抱いてちょっとしたら、気持ち良さそうにしてくれたよ?」
「へえ、嫌がったんだって解ってるんだね?でもヤっちゃったんだ、で、泣かしたんだね?おまえって意外と鬼畜だな、」
「だって話してほしかったしさ?ちょっと擦違っても、体を重ねたら解決するだろ?婚約者なんだから」

きゅっと微かな音に瓶の蓋を開けると国村は英二に押しつけた。
ラベルを見たけれど間接照明の翳に見えにくい、それでも英二は素直に口をつけた。
透明で強めの香とアルコール感がのどから昇ってくる、外国の酒かなと思っているとテノールの声が訊いた。

「心が繋がっていなくても。体を重ねればさ、解決するんだね?体を繋げれば、心も繋がる、そういうことか?」

低く透明な声に英二は隣の真直ぐな目を見た。
その目に英二は初めて見る気配を感じて、ゆっくり瞬いてから細い目を覗きこんだ。
覗かれた細い目は誇らかに微笑んで、そして透明な声がはっきりと告げた。

「俺はね、そうは想わない。
心繋げない体の繋がりはどこか傷がつくよ、遊びじゃないならね。
ふたり、お互いに心から求めあった体の繋がりじゃないとさ、本当には幸せだって想えない、俺はね?」

真直ぐに英二を見つめて底抜けに明るい目が笑っている。
明るい目のままに国村はテノールの声を透らせた。

「そしてね、体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ」

誇り高らかに自由な声と笑顔が宣言して、英二を真直ぐに見た。
その視線も表情もなにか強いものを感じて、ふっと英二は誇らかな友人の透明な笑顔に訊いた。

「国村?…おまえ、周太のこと、…どう想っている?」

ずっと本当は訊きたいと思っていた。
けれど訊いていいのか解らなくて、聴くのが怖くて訊かないでいた。
けれど今はどこかブレーキがずれていくのを英二は自分のなかに見つめている。

国村は13歳を迎える春に両親を亡くし、周太は10歳を迎える春に父を亡くした。
ふたりの父親はどちらも文学にも造詣が深くて、ふたりとも父親の影響を受けている。
ひとりっ子長男で、植物を愛して、詩や小説にも心を傾けて。親を早くに亡くしても愛情を豊かに承けて育っている。
共通点の多い、国村と周太。だからだろうか、最初に国村と会ったときに英二は周太とどこか似ていると思った。
けれど国村の底抜けに明るい豪胆な性質や積極的な行動力は周太と正反対で気にならなくなった。
でも、アンザイレンパートナーになって親しくなるうちに、やはり似ていると想い始めている。

富士山で国村は周太を「ファム・ファタール」と言った。
Femme fataleはフランス語で男にとっての「運命の女」。運命的な恋愛の相手、赤い糸で結ばれた相手を指す言葉になる。
自分と同世代の23歳の男がこういう言葉をさらりと遣うのは珍しい、きっと国村の父の蔵書はフランス文学が多いのだろう。
同じように周太の実家の書斎にはフランス文学が多く並んで、それを読んで周太は育っている。
きっと同じタイプの本を読んで成長した2人は想いを重ねやすい、そして純粋無垢だから尚更に。

昨日と今日と、国村と周太はテスト射手として行動を共にした。
そして今日下山した時、ふたりの空気はどこか優しくて穏やかで、きれいだと英二も感じてしまった。
恋愛とかそういう感情とはまた違う、ただ大切に想いあう空気がまぶしかった。
そしてほんとうは想っていた「踏み込めない」そんな感覚が尚更に、さっき周太の体を無理に奪わせた。

ずっと本当は訊きたかった、けれど答えが怖くて聴けないでいた。
けれど今どこか心の手綱がはずれかけて、言葉がもうこぼれている。
いま宙に浮いている「国村は周太をどう想っている?」この質問に、答えられる瞬間が近づいている。
さっき屋上で国村が言った「聴かなくていい事、踏み込むべきではない領域」その言葉がいまさら重たい。

訊いてはいけない質問を自分はしたかもしれない?

そんな想いの真ん中で、底抜けに明るい目が微笑んだ。
そして英二の大切なアンザイレンパートナーは誇らかに透明な声で唯一言で宣言した。

「大切だよ?」

透明な声、おだやかに低く響く声。
誇らかに明るい瞳のまなざしは温かい、その視線のなか英二はふっと意識が途切れた。


冷たい感触が喉からおりてくる。
やわらかな熱が唇を覆っているのに喉から胸へとおりる感触は冷たい。
ふっと熱が離れて冷たい感触が胸から肚へと落ちこんだ。

「…ん、」

かすかな吐息がこぼれて睫がゆっくり披かれていく。
ひらかれた視界には自分の大切なアンザイレンパートナーが朝陽のなかで微笑んでいた。

「おはよう、宮田?昨夜は激しかったね、」

透るテノールの声が愉しげに微笑んだ。
その言葉の意外さに英二は瞬きを1つして短く訊き返した。

「…え、?」

ゆっくり瞬いて見上げた先で国村が微笑んでいる。
いま「昨夜は激しかった」と国村は言った、一体どういう意味だろう?
それになぜ国村はいま自分を見下ろしているのだろう?途惑っている英二を国村は誘うように説明した。

「昨夜はさ、酒に酔って最高に色っぽかったね、宮田?
ほんとにさ、最高の別嬪が最高にエロくなって誘惑するんじゃね?さすがの俺も理性なんか飛んじゃったよ。
お蔭で昨夜はさ、最高にイイ想いさせてもらったよ…愉しかったね?俺たちってさ、宮田。やっぱり体の相性もイイんだな」

誘惑、理性、体の相性。
国村の言葉を聴くにつれて途惑いが大きくなっていく。
確かに昨夜は酒を飲んだ、そして途中で意識が途切れている。そしていま朝になっている。
途惑って視線を落とすと、昨夜は着ていたニットは消えて素肌で自分はシーツに沈められていた。
昨夜から今朝までにかけた意識の断絶、この間に何があったのか全く自分では解らない。けれど並んだ単語が夜を示す。
そして昨夜にない馴染んだ空気を国村は醸している、この空気の意味は何なのか?唇がなんとか動いて英二は訊いた。

「…あのさ?国村…俺、おまえと、…寝たのか?」

途惑うまま英二は昨日と違う眼差しの国村を見つめた。
見つめられた細い目が満足げに笑って心外なふうに国村は言った。

「あれ?忘れたなんて言わせないよ?おまえが俺を誘惑したくせにさ。
でもほんとにイイ誘惑だったよ、宮田…まさに艶麗ってカンジでさ、頭も沸騰したよ?アレはイイよ、マジ眼福。癖になった」

自分が国村を誘惑した?そして体の繋がりを国村と持った?
けれど自分は全く覚えていない、記憶がかけらも出て来てくれない。
それに昨夜カラオケ屋から姿を消した周太と美代はどうしたのだろう?
なにもかも解らない困惑のままで英二は国村に尋ねた。

「そんなに喜んでもらえたなら、いいけど…なあ?ほんとに俺、そんなことした?…それより、周太と美代さんは?」
「いまさら何言ってるのさ?」

細い目が艶をふくんで英二に笑いかけた。
アンザイレンパートナーでいちばんの友人の見たことが無い表情。
いつもの快活で底抜けに明るい目とは違う、透明な黒い瞳から艶麗な夜の気配が英二を見下ろしてくる。

「あんなに俺におねだりしちゃった癖に。何度もイっちゃっただろ、おまえ?ほんとイイ声だったね」

おねだり?
どきりと心臓が跳ねて愕然とした。それは自分が国村に「抱かれた」ということだろうか?
この自分が男に抱かれてしまった?それもいちばんの友人に?
途惑いと微かな恐怖がゆっくり心を占拠し始めていく、それでも英二は周太が気がかりで訊いてみた。

「…ほんとに俺、…そんな、だった?…でさ、周太と美代さんはどうしたんだよ?」
「そんなだよ、宮田?」

透けるように白い肌の貌が嫣然と笑いかけてくる。
あわく赤い唇が笑みをふくんで、どこか艶やかなテノールの声が英二に告げた。

「おまえはもうね、俺の『女』になっちゃったんだよ。なに、忘れちゃったわけ?」

国村の「女」に自分がなった?
アンザイレンパートナーでいちばんの友人に自分は抱かれてしまった?
大切な相手と体の繋がりを持つのは重大なこと、けれど記憶が全くない。
そして周太と美代はどうしたのだろう?さっきから国村はこの答えを全くしてくれない。
いつもの国村と全く違う雰囲気と態度に不安が大きくさせられる、困惑のまま英二は詫びて尋ねた。

「うん、…ごめん、記憶ない…それより周太、美代さんとどこ行った?国村、知っているんだろ?」

細い目がじっと真直ぐに英二を見つめてくる。
そして国村は秀麗な唇の端を上げた。

「ああ、知ってるよ?ほら、そこに座ってね、さっきから俺たちを見てくれてるけど?」

透るテノールの声に英二は視線を動かした。
視線の先にソファに座って首傾げている周太が映りこんだ。
無事でいてくれた、ほっと安堵が心を温めて英二は微笑んだ。
けれど今この状況をずっと周太は見て、ずっと自分と国村の会話を聴いていた?

誘惑、理性、体の相性。おねだり、「女」になった。
そんな単語を並べた夜の会話を周太に聴かれてしまった?
そう気づいた途端に心の温度が変化して英二の意識が凍りついた。

「…国村、どいてよ?…周太のとこ行かせて、」

凍りついた意識が周太の温もりを求めている。
けれど見下ろしている細い目は愉しげに笑った。

「嫌だね、」

透明なテノールの声が明確に英二を拒絶した。
そのまま体重が圧し掛かられてくる、白い手が片方だけで英二の両手を掴んで封じられる。
そうして体の動きすべてを国村に支配されて英二は目を瞠らいた。
いま国村は本気で自分を支配しようとしている?不安が迫りあげながらも英二は声を押し出した。

「…離せよ、…周太のとこ行かせて?国村、…っ、」

言いかけた言葉は熱い唇で覆われた。ふれるだけのキス、けれど灼かれる熱と制裁の意志が伝えられてしまう。
この友人は自分を支配しようとしている?いちばん親しい友人から意志と関係なく体を支配される、その予兆が怖い。
そして体の支配を自分は婚約者の眼前で受けることになる?

英二は視線だけ動かすと周太を見た、視線の先で黒目がちの瞳は困ったように自分の姿を見つめている。
素肌のまま両手を拘束され圧し掛かられた英二の姿を周太は見つめている。
こんな姿は最も周太に見られたくない、けれど逃れる術なく英二は睫毛を伏せた。

「…やめろよ、国村?なんの冗談だよ、…嫌だよ、周太の前で…嫌だ、」
「冗談?」

低い声が秀麗な唇からこぼれて英二を打った。

「ふうん、冗談だと思っているんだ、で、嫌だと思ってるんだ?」

すっと底抜けに明るい目を細めて国村は笑った。
そして透るテノールの声が低められたまま質問を始めた。

「おまえさ、湯原が嫌がっているのに無理に抱いたんだろ?だから俺だってね、おまえが嫌がっても抱いて良いだろ?」

さっき交したばかりの会話。その会話に告げた自分が周太にした事を、国村は自分にしようとしている?
見つめ返した国村の目は笑いながらも底からは、真直ぐ射こむような真剣が刺さって痛い。
そして気付かされていく自分が周太にしたことの意味が、いまさらに痛み始めて英二は喘いだ。

「…だってあれは、話してほしくて…ああすれば周太、話してくれるから…」
「ふうん?話してもらう為ならさ、無理強いしても良いんだね」

いつもにない冷酷な響きがテノールの声の奥から英二に打ちつける。
その切長く細い瞳の底に激しい熱が起きあがっていく、初めて見る友人の視線に英二は息を呑んだ。
激しい熱の視線がすっと細められる、そして端があげられた唇から透明な声が低く裁可した。

「俺もね、おまえに話させたいんだよ、いまどんな気分がするかをね?」

細めた目のままで笑って国村は英二の首筋に唇でふれ始めた。
両手を拘束されて身動きもできずに英二は、されるがまま首筋を唇にふれられていく。
このまま自分は周太の目前で体を支配されていく?そんな自分の姿は周太にどう映る?
そんな自分の姿を見た後で周太はどんなふうに自分に接する?恐怖感が迫りあげて口もとから零れ落ちた。

「…っ、やめろ、…っ、くにむら、やめ…っ、」
「うん?違うだろ、宮田?どんな気分がするのか話すんだろ?あ、こんな程度じゃ話してくれないんだね?仕方ないな、」

すっと細められた目が笑んで国村は開いている左手をブランケットのなかへ挿し込んだ。
その左手が素肌にふれていく、そうして指先から英二の感覚を支配する意志がふれた。
これから何をされる?不安と周太に見られる恐怖に怯えても動きは支配されて逃げれない。
それでも英二は国村を見つめて訴えた。

「嫌だっ…やめて国村、嫌だっ…お願いだからやめてくれ…!」
「なに言ってるのさ」

切り捨てるようにテノールの声が言った。
細い目を嫣然と微笑ませたままで、低く透明な声が英二に「服従」を厳然と命じた。

「おまえはね、もう俺の『女』になっちゃったんだよ?もう俺は好きにしていいはずだ、そうだろ?」

ちょっと擦違っても、体を重ねたら解決するだろ?婚約者なんだから―
昨夜に自分が国村に言ったこと、そのままに英二はいま言われた。
そして自分の傲慢に気付かされて心が軋みあげて止まらない。

自分は周太に何をした?
婚約者であることに甘えて自分は体を無理強いした。
婚約者なら許されると言い訳をして「心」を会話で繋げる努力を放棄した。
あのとき周太は話して「心」を繋げることを望んでいた。
それを自分は国村と周太に流れる空気に見惚れて焦って「体」で無理矢理に繋ぎとめようとした。

― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

昨夜に国村が誇らかに告げた言葉。
あの言葉はきっと「周太を愛する」なら正しい真実の想いだった。
そのことに自分は気付かずに周太に体を無理強いして「心」の繋がりを壊してしまった?

俺は、ばかだ。
後悔と自責が迫りあげる心に素肌ふれる指の感触が迫ってくる。
片手ひとつに両手を拘束されて、ひとつの掌に体の感覚を支配されていく。
その全てが望まないこと、それでも淡々と笑いながら国村は英二を制圧していく。

「嫌なフリしちゃってねえ?ほんとは俺のこと誘ってるんだろ?お前もさ、体で愉しむの好きだもんな?」
「違う、本当に嫌なんだ…」

嫌なフリ、そんな言葉が心を刺す。
自分も周太が本気で嫌がって逃げようとする想いを無視した。
本当に嫌だ、そんなふうに追い詰めた自分の愚かさが疎ましい。

「お願いだから…もうやめてくれ、…」
「へえ?なんでそんなに嫌なのさ?昨夜はあんだけ誘ってきたくせにさ、ねえ?」

圧し掛かってくる国村は着衣のまま、それでも凄絶な艶と支配する強さが充ちている。
きっと国村は本気で怒っている、その強い意志が凄絶な態度に薫りたっていく。
その怒りの理由をもう自分は知らされ気付かされている。

国村は周太の為に怒っている。
意志に反した「周太の体」への無理強いに国村は怒って英二を辱めている。
このまま周太の目前で痴態を晒されても自分は文句は言えない、自分の愚かさに周太に見限られても仕方ない。
もう観念しよう、そんな諦めをした英二の肌から指先の動きが消えた。

「さて、宮田?聴かせてほしいね、」

透るテノールの声に英二は見上げた。
見あげた先で細い目が真直ぐに英二を見つめてくる、その視線の強さに思わず英二は睫毛を伏せた。

「無理強いされるのって、愉しい?」
「嫌だよ、こんなの愉しくない…怖い。周太の前でなんて、絶対に嫌だ、」

素直な想いのまま英二は訴えた。体を支配される恐怖と周太に見限られる恐怖が震えている。
ふるえに揺れる英二の伏せた目を国村は冷静に覗きこんだ。

「じゃあさ、宮田?お前はね、謝るべきことと、言うべきことがあるよな?」

哀しい罪悪感と「見限られる」予感と一緒に英二は周太を見つめた。
そして国村を見あげて1つゆっくり瞬いて頷いた。

「うん、…周太に謝りたい、俺…ばかだ、本当に俺はバカだ、恥ずかしい…国村、周太に謝らせてくれよ?」
「よし、気がついたな?やっぱり、おまえは真直ぐだね。大好きだよ、そういうとこがさ」

こんな愚かさを露呈しても国村はまだ「大好きだ」と言ってくれる、友人の率直な温かさに英二はすこし微笑んだ。
国村の呼びかけに周太は頷いて、素直に立ちあがるとベッドの傍に立って微笑みかけてくれる。
ゆっくり起き上がって英二は周太を見あげ、一滴の涙を流すと口を開いた。

「ごめんね、周太…無理強いなんて…怖かった、ね…俺、ほんとうにバカだ…ごめん、周太」

あふれる涙のむこう見つめる周太はすこしだけ微笑んだ。
この微笑みを守ろうと自分は決めていた、けれど自分が周太の笑顔を砕いてしまった。
痛切な後悔に英二もすこし微笑むと言葉を続けた。

「もう絶対に無理強いなんてしない…だから周太、許してくれる?
俺の傍から居なくならないで?…もう絶対に周太が嫌がることしないから、許してほしい…いなくならないで?」

いなくならないで?
こんなの今更ほんとうは未練がましいのかもしれない。
だって自分が今一番わかっている、自分がどんな残酷なことを周太にしたのか?
そして国村が本気で怒ったことを、周太がどんな想いで見つめるのか?
それでも言葉だけでも「お願い」したくて言ってしまう、そう周太を見つめていると国村が英二の顎に白い指をかけた。

「こら、宮田?おまえはね、俺の『女』になったんだろ?なのにね、勝手に決めるんじゃないよ?」

自分はなぜ国村を誘って「女」になったのだろう?
一時の快楽と引替に体を使い愉しんで抱かれてしまったのだろうか?
昨日なぜ周太が国村に銃口を向けたのかを知りながら酔いに任せて快楽を貪った?
すべて解らないまま英二は素直な想いを国村に告げた。

「ごめん、国村…俺、やっぱり周太がいい…ごめん、離してほしい、ごめん…俺がバカだったんだ…」

涙と共に本音がこぼれていく。
きっと国村は周太を大切にしている、いま責められ謝罪を求められながら気付いてしまう。
ずっと国村は「周太が守りたい『体』を大切にする意味を考えろ」と問いかけながら英二が周太に犯した過ちを訴えている。
まして周太は13年間の孤独が生んだ空白の為に、まだ心は11歳にもなっていない。
そんな周太に体を無理強いすることがどんなに残酷なことだろう?

 ― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

さっきも思い出した国村が昨夜に言ったこと。これは周太を見つめるなら大切な選択だと今更に思い知らされる。
どうして自分は解らなかったのだろう、国村と周太の空気に焦ったとしても言い訳になどならない。
前の自分は「体」を使って孤独を誤魔化し要領よく生きていた、そうして麻痺した心が鈍感に過ぎて繊細な周太の心と体を傷つけた。
こんな愚かな自分を周太は何と想って見ているのだろう?

「うん、バカだね、おまえはさ?」

からり明るく国村が笑った。
笑って英二の顎にかけた指を外すと、そのまま一発、白皙の額を弾いた。

ばちん、

いい音がして額に鈍い痛みが現れる。
その痛みを白い指で突いて国村は、底抜けに明るい目で笑った。

「ごめんね、宮田?俺たちヤっちゃったなんて嘘だよ。おまえはね、一晩中ずっと酔っぱらって眠りこんでいたんだよ」
「…え、」

思わず目が大きくなる。
そんな可愛い表情の英二に国村は可笑しそうに笑った。

「ねむってるお前を置いてさ、俺はね、湯原をひとりで迎えに行ったんだよ。
で、湯原が元気なかったからさ?ちょっとドライブして事情聴いてね、おまえを懲らしめたくなった俺は悪戯を考えたってワケ。
まったくね、おまえはバカだよ?大事な婚約者に体を無理強いなんかして。そんな酷いことしたらね、逃げられても文句言えないね」

明るく笑いながらも「無理強いはダメだ」とはっきり言ってくれる。
ほんとうに言う通り、自分はバカで周太に逃げられても文句は言えない。
きっと自分はもう周太の信頼を今まで通りにはもらえない、婚約のことも考え直すと言われても仕方ない。
それでも気付かぬままで周太を傷つけていたら、きっと取り返しがつかない事になっていた。
いま気付けたことは幸運だった、英二も素直に頷いて国村を真直ぐ見つめて約束した。

「うん、…俺、よく解ったよ?さっき本当に怖かった…
本気で止めてくれって言って、止めて貰えないの、怖かった。
俺、周太がいい、だから無理強いはもうしない。約束する…ごめん、国村。気付かせてくれて、ありがとう」

「だろ?まったくバカだね。されるまで解らないなんてさ。さあ、これに懲りてね、2度とあんなことするんじゃないよ?」

やさしく細い目が笑んで白い指が軽く英二の額を小突いた。
そしてベッドから降りるとマウンテンコートを羽織って、1つ伸びをすると国村は言ってくれた。

「さて、宮田?今日は日勤だろ?早く寮に戻って仕度しな、遅刻するよ?ほら、」

言いながら示したクライマーウォッチの時刻は6:45を指している。
頭をひとつふって英二は微笑んで、脱がされていたニットを着るとベッドから降りた。

「うん、ありがとう。でも周太の朝食を1人にしちゃうの嫌だな、」

本音は周太と一緒にいたい、それだけ。
けれど自分が周太にした仕打ちを想うと「一緒にいたい」と言う権利すら失っても仕方ない。
自分は自ら周太を傷つけて「隣」を居場所にする権利を放棄した、じわり蝕んでくる後悔が痛い。
痛みの苦しさにため息が心からこぼれていく。そんな英二に周太はやさしく微笑んで言ってくれた。

「ん、大丈夫だよ?」

気にしないで仕事行ってね?そんな優しい想いが黒目がちの瞳に微笑んでいる。
愛するひとの微笑が見れて嬉しい、けれど無理をして笑ってくれているかもしれない。
本当は少しでも多く一緒にいて出来る限りを尽くして謝りたい、けれどそれも許してもらえるのか解らない。
これで周太を傷つけたのは何度目なのだろう?直情的すぎて時に自分はこうして愛するひとを傷つけてしまう。
思わず憂い顔になってしまう英二を国村は笑ってまた額を小突いた。

「いいからね、おまえは早くしな?湯原の朝飯とかはね、俺が一緒させてもらうよ?
で、吉村先生のとこも連れて行く。御岳山の巡廻と自主トレも俺が送ってやるよ。それでいいんだろ?」

国村が周太を自分の許へと送り迎えしてくれる、それがいいかもしれない。
自分は周太を傷つけた張本人、そんな自分よりも国村と一緒に過ごす方が周太の心は寛げる。
そして少しでも元気になってくれたら嬉しい、英二は国村の提案に笑顔で頷いた。

「うん、ありがとう。国村と周太が1日ずっと一緒になるのはね、ちょっと妬けるけどさ。でもお願いするよ」
「おう、任せな。ほら、湯原?名前呼んでやりなよ、安心させてやって、」

大らかな優しいまなざしで細い目が笑ってくれる。
やさしい国村の気遣いがうれしい、けれど周太は名前を呼んでくれるだろうか?
そんな想いで見つめる視線の向こうで、おだやかな微笑みが咲いてくれた。

「ん、…英二?またあとでね…行ってらっしゃい、」

名前を呼んでくれた、それだけで幸せだと心がふるえる。
呆れられて嫌われて、名前を呼んで貰えなくても仕方ないと思っていた。

「うん、…ありがとう、周太…」

うれしくて思わず長い腕を伸ばしかけて、ふっと止めた。
自分が周太にしたことは強姦だった、そんな自分に触れられることはきっと怖い。
それでも一度だけでいい、いま抱きしめさせて欲しいと願ってしまう。そっと英二は口を開いた。

「ね、周太?いま、一度だけ抱きしめてもいい?…ダメならそう言ってよ?」

ちいさく周太は頷いてくれる。
そして一歩近づいてくれると、そっと英二を抱きしめて微笑んでくれた。

「ん、英二?俺ね、ほんとに怖かったし、嫌だったよ?…だからもうしないでね?」

周太から抱きしめてくれた。
どうしていつもこうなのだろう?ほんとうに自分はばかだ。
ほんとうは守られているのは自分、そんな簡単なことを忘れてしまっている。
いま周太に気遣わせている、そして勇気を出させて自分を抱きしめさせている。
こんな優しさが好きで、大好きで、離れられなくなってしまう。
長い腕をそっと周太の肩にまわして抱きしめると英二は、涙をひとつ零して言った。

「うん、周太…もう絶対にしないよ?ごめん、周太…ごめんなさい、…俺を置いていかないで…」

俺を置いていかないで。
また未練が心からこぼれて勝手に口が動く。
こんなに自分は弱くて愚かだと思い知らされる、途方に暮れていく。
それでも周太は自分より大きな体の英二を抱きとめてくれた。

「ん、…あとで、御岳山であおうね、英二?」

御岳山で。
周太の誕生花「雪山」が生えている御岳山。
今日も一緒に見ることを許してもらえるだろうか?
そんな期待を持てるだけでも嬉しい、おだやかに英二は微笑んだ。

「来てくれるんだね、周太?ありがとう、じゃあ俺、行ってくるね」

約束を大切にする周太は言った以上は来てくれる、そんな安心を抱いて英二は寮へと戻った。




(to be continued)

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第33話 雪灯act.12―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-12 22:19:32 | 陽はまた昇るanother,side story
雪、山、光 枯れない花のように




第33話 雪灯act.12―another,side story「陽はまた昇る」

周太の想いがわかるように細い目がちらっと周太を見て「そろそろだね、」と微笑んだ。
そうして光一は英二の目を覗きこんで訊いてくれた。

「さて、宮田?聴かせてほしいね、無理強いされるのって、愉しい?」
「嫌だよ、こんなの愉しくない…怖い。周太の前でなんて、絶対に嫌だ、」

切長い目が睫毛を伏せている。ほんとうに怖いのだろう、すこし震えている。
大丈夫かなと心配で周太が見ていると光一は冷静に英二の目を覗きこんだ。

「じゃあさ、宮田?お前はね、謝るべきことと、言うべきことがあるよな?」

切長い目が哀しそうに周太を見つめてくれる。
そして光一を見あげると、そっと瞬いて頷いてくれた。

「うん、…周太に謝りたい、俺…ばかだ、本当に俺はバカだ、恥ずかしい…国村、周太に謝らせてくれよ?」
「よし、気がついたな?やっぱり、おまえは真直ぐだね。大好きだよ、そういうとこがさ」

そっと光一は英二の拘束を解いて、周太を振り返ると微笑んで「おいで?」と目で呼んでくれた。
頷いて周太は素直に立ちあがるとベッドの傍に行って、涙たたえた切長い目に微笑んだ。
ゆっくり起き上がった切長い目が周太を見あげてくれる、そして一滴の涙を流すと英二の口が開かれた。

「ごめんね、周太…無理強いなんて…怖かった、ね…俺、ほんとうにバカだ…ごめん、周太」

切長い目から涙があふれていく。きれいな涙を見つめて周太はすこしだけ微笑んだ。
英二もすこし微笑むと言葉を続けてくれた。

「もう絶対に無理強いなんてしない…だから周太、許してくれる?
俺の傍から居なくならないで?…もう絶対に周太が嫌がることしないから、許してほしい…いなくならないで?」

きれいな涙で「お願い」してくれる。
こんなきれいな泣顔されたら、ちょっと弱い。そう見つめていると光一が英二の顎に白い指をかけた。

「こら、宮田?おまえはね、俺の『女』になったんだろ?なのにね、勝手に決めるんじゃないよ?」
「ごめん、国村…俺、やっぱり周太がいい…ごめん、離してほしい、ごめん…俺がバカだったんだ…」

きれいな切長の目が泣いている。
哀しそうな目が哀しくて、つきんと心が痛んで周太は俯きかけた。

「うん、バカだね、おまえはさ?」

からり明るく光一が笑った。
笑って英二の顎にかけた指を外すと、そのまま一発、白皙の額を弾いた。

ばちん、

いい音がして額に桜色の痕が現れる。
痕を白い指で突いて光一は、底抜けに明るい目で笑った。

「ごめんね、宮田?俺たちヤっちゃったなんて嘘だよ。おまえはね、一晩中ずっと酔っぱらって眠りこんでいたんだよ」
「…え、」

切長い目がまた大きくなる。
そんな可愛い表情の英二に光一は可笑しそうに笑った。

「ねむってるお前を置いてさ、俺はね、湯原をひとりで迎えに行ったんだよ。
で、湯原が元気なかったからさ?ちょっとドライブして事情聴いてね、おまえを懲らしめたくなった俺は悪戯を考えたってワケ。
まったくね、おまえはバカだよ?大事な婚約者に体を無理強いなんかして。そんな酷いことしたらね、逃げられても文句言えないね」

明るく笑いながらも「無理強いはダメだ」とはっきり言ってくれる。
英二も素直に頷いて、光一を真直ぐ見つめて約束してくれた。

「うん、…俺、よく解ったよ?さっき本当に怖かった…
本気で止めてくれって言って、止めて貰えないの、怖かった。
俺、周太がいい、だから無理強いはもうしない。約束する…ごめん、国村。気付かせてくれて、ありがとう」
「だろ?まったくバカだね。されるまで解らないなんてさ。さあ、これに懲りてね、2度とあんなことするんじゃないよ?」

やさしく細い目が笑んで白い指が軽く英二の額を小突いた。
そしてベッドから降りるとマウンテンコートを羽織って、1つ伸びをすると光一は言った。

「さて、宮田?今日は日勤だろ?早く寮に戻って仕度しな、遅刻するよ?ほら、」

言いながら示したクライマーウォッチの時刻は6:45を指している。
頭をひとつふって英二は微笑んで、脱がされていたニットを着るとベッドから降りた。

「うん、ありがとう。でも周太の朝食を1人にしちゃうの嫌だな、」
「ん、大丈夫だよ?」

心配してくれるのがうれしい、微笑んで周太は答えた。
でも一緒にいたいのにな?そんな顔の英二に光一が笑ってまた額を小突いた。

「いいからね、おまえは早くしな?湯原の朝飯とかはね、俺が一緒させてもらうよ?
で、吉村先生のとこも連れて行く。御岳山の巡廻と自主トレも俺が送ってやるよ。それでいいんだろ?」

端正な白皙の貌に華やかな笑顔が咲いて、うれしそうに英二は光一の提案に頷いた。

「うん、ありがとう。国村と周太が1日ずっと一緒になるのはね、ちょっと妬けるけどさ。でもお願いするよ」
「おう、任せな、」

からり笑って光一は引受けると周太に微笑んだ。

「ほら、湯原?名前呼んでやりなよ、安心させてやって、」

もう「お仕置き」は終わったからね?そんなふうに細い目が笑っている。
これで光一の気は済んだらしい、また英二と親しい友人でアンザイレンパートナーのふたりになれるだろう。
よかったと安心する想いがやわらかい、ほっと周太は微笑んで英二に笑いかけた。

「ん、…英二?またあとでね…行ってらっしゃい、」

切長い目が泣きそうになって、きれいに笑ってくれる。
ふっと長い腕を伸ばしかけて止めて、きれいな低い声が訊いてくれた。

「うん、…ありがとう、周太…ね、周太?いま、一度だけ抱きしめてもいい?…ダメならそう言ってよ?」

自分に怖い思いをさせたと英二は気がついて、気遣ってくれている。
英二を見つめる視界の端で光一が細い目を温かく笑ませて、ゆっくり瞬いた。
君さえよければね?そんな大らかな優しいまなざしが笑って頷いてくれる。
ちいさく周太も頷くと、そっと英二を抱きしめて微笑んだ。

「ん、英二?俺ね、ほんとに怖かったし、嫌だったよ?…だからもうしないでね?」

抱きしめられて切長い目がすこし大きくなって、そして心から幸せそうに笑った。
長い腕をそっと周太の肩にまわして、やさしく抱きしめると涙をひとつ零して言ってくれた。

「うん、周太…もう絶対にしないよ?ごめん、周太…ごめんなさい、…俺を置いていかないで…」

俺を置いていかないで。
きれいな涙とそう言われたら置いてなんていけない。
ひとつ呼吸して周太は自分より大きな体の英二を抱きとめた。

「ん、…あとで、御岳山であおうね、英二?」
「来てくれるんだね、周太?ありがとう、じゃあ俺、行ってくるね」

幸せそうな美しい笑顔を残して英二は寮へと戻っていった。
見送って光一は周太に底抜けに明るい目で笑いかけて提案してくれた。

「さて、ドリアード?俺もね、ちょっと寮で風呂入って着替えてくるよ?
君も風呂入って、さっぱりするといいよ。支度が済んだらまた迎えに来るからね、そしたらチェックアウトして朝飯に行こう?」
「ん、…ありがとう。待ってるね、」

素直に頷いた周太に細い目が温かに笑んでくれる。
そして耳元へ優しいキスをして、笑いかけてくれた。

「今日はね、一緒に行きたいところがあるんだ。宮田との約束の合間に、午後になるかな。一緒に行ってくれるかな?」

どこに光一が行きたいのか。
きっとあの場所に行くのだろう、きれいに笑って周太は素直に頷いた。
じゃあまたねと笑って光一がいったん寮へ戻ると、周太は着替えを仕度して浴室へ入った。

シャワーで温かな湯を頭からかぶると、ふっと心がほどけて涙がこぼれ落ちてくる。
さっき光一の目の前で英二を抱きしめた時。心がどこか軋んで痛かった。
それでも光一は大らかな優しさに佇んで「よかったね?」と笑いかけてくれていた。

どうして光一は、あんな大きな想いで見つめられるのだろう?
自分も英二に「無償の愛」を贈りたいと想っている、けれど光一のように大らかにはまだ笑えない。
光一と英二、ふたりの想いを抱いていったなら。
いつか自分も大らかな優しさと想いに大きな心で佇んでいけるだろうか?

…そうなりたい、いつか…

しずかな覚悟と希望に微笑んで周太はシャワーの栓を止めた。
体を拭い着替えて髪を拭っていると、ふと鏡の自分と目があった。
見つめ返す黒目がちの瞳は、また昨日よりも深みがあざやかになっている。
きっと光一の一途な14年の歳月がいま、周太の瞳を変えていくのだろう。
そっと微笑んで周太は浴室の扉を開いた。


午前中の御岳山巡廻を終えたのは10時半だった。
町を巡回して駐在所に戻る英二と、山麓の滝本駅で別れて光一の四駆に周太は乗った。
運転席に納まると光一は周太に笑いかけて「時間の提案」を示した。

「さて、ドリアード?次の宮田の約束、自主トレーニングの時間まで2時間ほどあるんだ。
この時間に昼飯も済ませるんだけどさ?どこか行きたい所とかあるかな、あんまり遠くはいけないけどね、」

「ん、そうすると御岳のどこか、かな?…光一のお薦めはある?」

穏やかに笑って周太は運転席を見て訊いてみた。
ハンドルに腕組んでのせた雪白の貌がすこし首傾げると、底抜けに明るい目が笑って言ってくれた。

「うん、嫌じゃなかったらね、俺んちに来る?」
「…光一の家?…御岳の?」

すこし意外で周太は訊いてみた。
軽く頷いて光一は愉しげに口を開いた。

「うん、俺の家。気楽だよ?」
「…でも、急になんて…悪くない?」

遠慮がちに周太は訊いてみた。
けれど何でもない顔で光一は笑って誘ってくれた。

「ぜんぜん。ウチのばあちゃんってね、縁側ですぐ茶を出すんだよ。
で、おばちゃん達の溜り場になってるからさ?ちょっと煩いかもしれないけどね。ま、それくらいに気楽な家だよ」

友達の家に行くことは、父が殉職してから13年間ずっと周太には一度も無かった。
その13年越しの初めてが、父が殉職する直前に約束した相手の家になる。
なにか不思議な廻りを感じる光一の誘い、この廻りに委ねてみたくて周太は素直に頷いた。

「ん、…じゃあ、お邪魔させてもらうね?」
「よし、じゃ、決まりだね、」

周太の承諾に底抜けに明るい目が愉しげに笑った。
クラッチとアクセルを器用に操作して四駆が動き出すと、からり光一は笑った。

「うん、遠慮しないでね?ばあちゃんさ、きれいな男の子は好きだから喜ぶよ」
「…ん?…そういうのは気恥ずかしいんだけど…じゃあ、英二は喜ばれたでしょ?」
「宮田はね、まだ来たこと無いんだよ。
あいつ、俺の射撃訓練に付き合っている上にね?吉村先生の手伝いと副隊長の個人講習も受けているからね、忙しくってさ、」

なにげない会話に英二の努力を光一は教えてくれる。
昨日から今日にかけて周太に積もった英二への不安を少しでも軽くしたいのだろう。
こういう細やかな優しさが光一にはある。そういう繊細さが周太には寛げる、こんな想いも嬉しくて周太は微笑んだ。

光一の家は実朴な農家らしい構えだった。
屋敷内の駐車スペースに四駆を停めておりると、ふっと稲藁の香が頬掠める。
敷地内には蔵と納屋があり、裏は立派な長屋門になっている。
こうした農家に来ることは田中の葬儀の時しかなかった周太は、きちんと見た農家の造りに興味をひかれた。
そんな周太に光一は愉しげに訊いてくれた。

「めずらしい?」
「ん、…俺、農家ってね、田中さんのお葬式でしか来たこと無くて」
「あのとき、参列していたんだね?」

すこし驚いて光一が訊いてくれる。
そういえば光一は田中の親戚だと訊いていた、頷いて周太は答えた。

「ん、英二の話を聴いてね、素敵なひとなんだな、って…田中さんみたいに生きれたらいいなって想った」

周太の言葉にうれしそうに明るい目が笑んだ。
楽しげに周太の左掌をとると光一は言ってくれた。

「うん、俺もね、田中のじいさんみたいに生きたいよ。自分の生まれ育った場所を大切にして、最後はそこで眠りたい」
「…ん、…素敵だね、」

素直に周太も頷いて光一に付いて屋敷へと入った。
艶やかな黒栗色の木肌が美しい柱と床が式台に迎えてくれる、古式の農家らしい造りが見事でほっと周太は息ついた。
その隣で透るテノールの声で奥へ呼びかけても返事が無い。さっさと登山靴を脱いで上がると光一は首傾げた。

「うん?どっか出掛けちゃったのかな、なんだっけ?」

言いながらカレンダーを覗きこむと納得した顔で頷いて笑った。
どうしたのかなと見ていると底抜けに明るい目が笑って教えてくれた。

「組合の日帰り旅行だってさ。そう言えば美代も言っていたっけね?ま、いいか。気楽にのんびりしてよ」

笑いながら光一は周太を玄関から引っ張り上げると、手際よく大きな急須に茶を淹れて盆に載せた。
それを持って農家独特の急斜になった梯子階段へと周太を連れて昇ると、天井が屋根のまま斜めの空間へと出た。

「俺の部屋なんだ。昔はね、蚕の部屋に使ったらしいよ」

豪農らしい見事な梁がうつくしい部屋は、しっかりとした無垢材の床と風通しの良い木製の窓が温かい。
磨き抜かれた木材が見事な屋根裏部屋は、文机と低く作られた書架、桐ダンスに木製のベッドが置かれている。
それから額縁に収められた見事な雪山の写真が何点か壁に掛けられて窓のようだった。
重厚な黒栗色と白の空間は落ち着いた空気が居心地いい、きれいな梁を見あげて周太は微笑んだ。

「すてきな部屋だね…屋根裏部屋になる?」

部屋の隅から大きな白いクッションを持って来てくれた光一に周太は訊いてみた。
クッションを勧めてくれながら光一は笑って応えてくれる。

「うん、そうだね。すこし天井は高いけど、そういうことになるな」

周太も自室に屋根裏部屋がついている。
こんな共通点がうれしくて周太は光一に教えた。

「あのね、俺の部屋はね…普通の2階の部屋なんだけど、屋根裏部屋もあるんだ」
「へえ、屋根裏部屋なんだ、同じだね。どんな部屋?」

やっぱり「同じ」で興味を持ってくれた。
想った通りが嬉しくて周太は話し始めた。

「ん、無垢材の床で木製の窓だよ。天井と壁は白い漆喰塗…ベージュ色の木材と白の部屋なんだ。
本棚と揺り椅子と、踏み台の木箱。ちいさなテーブル…それからね、木のトランクがあって。あと天窓があるんだ」
「ふうん、天窓か。いいな、星や月が見えるね。木のトランクって珍しいな、古いもの?」

木製のトランク。あれは周太の大切なものになる。
それに気がついて訊いてくれたことが嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ん。祖父がね、使っていた物らしくて…それをね、ちいさい頃から宝箱にしているんだ」
「へえ、宝箱が木のトランクか。いいな、ドリアードらしい。木の妖精の宝箱が木のトランクなんてさ?」

愉しげに笑って光一は持ってきた茶を湯呑に汲んで渡してくれる。
ほんとうは宝箱のことを話すのを少しだけ迷っていた、けれど受けとめられて嬉しくて周太は笑った。

「ん、大切なトランクなんだ…でもね?23歳にもなった男が、宝箱なんて可笑しいかなって…」
「おかしくないよ、ドリアード?すごく君らしいね、」

率直に聴いて笑って受けとめてくれる。こんな率直さが嬉しくて周太は微笑んだ。
細い目を温かに笑ませて光一は茶を飲むと、隅の窓際にある布をかぶせた大きな箱の前にたって周太に笑いかけた。

「俺なんてね?“らしくない”こんな宝物もってるんだ、」

底抜けに明るい目が可笑しそうに笑った。
笑いながら白い掌が据えられた大きな箱型の天鵞絨カバーをはずしていく。
そうして現れたのは飴いろ艶やかな木製の縦型ピアノだった。

「きれい…ピアノだね、」
「うん、」

傍に立ってアップライトピアノを覗きこむと周太は微笑んだ。
木目が透けて見える明るい塗色がきれいで、椅子の座面はカバーとお揃いの天鵞絨張になっている。
可愛らしい造りの古いものの様で、職人の手になる温かみがどこか漂っていた。
きれいな楽器がうれしくて周太は訊いてみた。

「これは光一のピアノ?…光一は弾けるの?」
「うん、おふくろのだったんだ」

底抜けに明るい目が笑って頷いてくれる。
そっと蓋を開いて鍵盤のカバーを器用に巻き外しながらテノールの声が教えてくれた。

「山ヤやりながらね、ピアノの先生していたんだよ」

光一の両親は国内ファイナリストのクライマーだった。
そして2人そろって光一の中学校入学まもなく高峰マナスルで遭難死している。
周太は10歳になる春に父を亡くし、光一は13歳になる春に両親を亡くした。
そんな2人が23歳を迎えた今14年ぶりに再会をしている。不思議な運命の巡りを想いながら周太はそっと微笑んだ。

「山を愛して、音楽を愛して…お母さん、素敵なひとだね、」
「うん?まあね、ちょっと破天荒だったけどさ、」

底抜けに明るい目が笑いながら光一はピアノの前に座った。
すこしだけ考えるように周太を見あげると、微笑んで白い指を鍵盤へと落としこんだ。

1音目、高く澄んだ音。
すぐ2、3音目が連なって、4音目。
そして5音目から弾きだされる調べに、風が生まれた。

黒と白の鍵盤を雪白の指がおどっていく、梢を駆けゆく風みせる調べが指先からわきいでる。
山を森を風ながれる軌跡、梢ゆれる木洩れ日の煌めき、風韻と光がまばゆい音たち。
あふれだす木々と光と風の音、そこから想いが生まれだす。

透明な音と沈思の音がたがいに呼びあいだす。
高い音と低い音の重なりに、交錯する想い映すよう切ない甘い調べが響いていく。
単音と和音の追いかけあい、深い沈思のトーンから透明な聲うつる哀しみの共鳴。

そして穏やかな深い和音がやさしく交す重なり響いて、
透明な旋律の聲はゆるやかに空気へとけた。

5分間ほどの時間。
透明な音で紡ぎだされた光景は、深い森の時と想いを周太の心へ映した。

「…ん、…すてきだった、…この曲、好きだな」

ほっとため息と一緒に告げて周太は微笑んだ。
微笑んで見つめる光一の弾きなれた白い指に、ピアノで母の記憶と向きあった想いの記憶が切ない。
こんなふうに母への哀惜と愛情を音に見つめて光一は10年間を生きてきた。
そんな明るく凛とした姿が透明なピアノの音と響いていた、その大らかな優しさの温もりに今もう心が充ちている。
温かな想いに光一の目を見つめると、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「うん、ありがとう。俺の好きな曲なんだ」

弾き終えて鍵盤から離れた白い指が、漆黒の髪をかきあげる。
かきあげる腕のはざまから、すこし照れくさそうに光一が笑って周太を見あげた。

「でもね?あんまりさ、人には弾けるって言わないんだ。らしくないだろ?」

底抜けに明るい目が可笑しそうに笑っている。
けれど周太は微笑んで率直に言った。

「似合ってるよ?…曲もね、深い森みたいで…光一らしいな、って」
「うん、…ドリアードにそう言われると、うれしいね?」

気恥ずかしげに笑って光一は周太を見つめた。
そして軽く頷くと、すこし苦笑するように周太に告げた。

「この曲さ、クラシックじゃないんだ。いわゆるJpopっていうかな?歌詞があるんだよね」
「ん、…どんな歌なの?」

聴いてみたい、素直にそう思って周太は光一の目を見た。
底抜けに明るい目が恥ずかしげに苦笑して、でも笑ってうなずいてくれた。

「弾き語りで歌うなんてさ?マジ、らしくないからね。絶対に誰にも言わないでほしい、宮田にも美代にもね」
「ん、秘密だね…光一、聴かせて?」

素直にお願いして周太は微笑んだ。
お願いされたら仕方ないね?そう笑って光一は鍵盤に向かってくれた。

1音目の高い音と透明な声。
やさしい透明なテノールの声が低く静謐に充ちて想いと旋律をなぞる。
そして深い森の光と風が、言葉に想いを乗せて指先と心からあふれだした。
  
  …
  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 
  君を想う

  奏であう言葉は心地よい旋律 
  君が傍に居るだけでいい
  微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
  降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い

  夢なら夢のままでかまわない 
  愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから
  ―…The love to you is alive in me.Wo-every day for love.
  You are aside of me wo- every day…


  残された哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
  はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて 靡く 
  あざやかな君が 僕を奪う

  季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように
  夢なら夢のままでかまわない 
  愛する輝きにあふれ胸を染める いつまでも君を想い…


ひと廻り光一は静かに歌い終えた。
けれど白い指先は第1音の高音を再び弾いて、透明な声が最初の言葉を紡いだ。
そして歌と旋律が屋根裏の部屋にふたたび廻り想いを奏で始めた。

  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない 花のように 揺らめいて 君を想う…

深い森の旋律と透明なテノールの声が紡ぎだす歌。
その歌詞の全てが、14年の光一の歳月をそのまま歌い上げていた。
幾度も独り見つめた深い森に廻った14年の季節を想うよう歌が廻っていく。
そうして歌い上げられた想いに、周太の瞳から涙がこぼれた。

 ―The love to you is alive in me. Wo-every day for love. You are aside of me wo- every day. 
  僕のなかに君への愛は生きている その愛の為に日々があるよ 毎日、君は僕の傍にいるんだ

信じて14年を深い森で独り待ち続けた、純粋無垢な少年の想い。
夢なら夢のままでかまわない、そんな覚悟を見つめても待ち続けて。
きっと明日は逢える。そう信じて毎日を深い森に待ち続けた喜びと真実の想い。
14年の季節が深い森に廻っても、枯れることなく誇らかに花咲いて想い続けて。

…残された、哀しい記憶…残したのは自分、哀しんだのは光一

14年の歳月を深い森に光一を独り残したまま、周太は13年前に撃たれた一発の弾丸に記憶も想いも眠らせた。
それでも光一は14年を超えて周太の銃口の前にたって、周太の記憶も想いもすべてを蘇らせた。

そして14年の季節を超えた再会に光一はただ「無償の愛」を周太に贈ってくれる。
語りあう言葉は心地よい旋律、君が傍に居るだけでいいと微笑んで。
微笑んだ瞳を失さない為なら、たとえ逢えない夜でも明るく笑って想いを見つめて。
木洩陽のように包んでくれる強い変わらぬ「山の秘密」に誓い周太を守ってくれる。

…あ、

また一滴こぼれた涙に、涙が止まらない。
歌に告げられていく14年の歳月を廻った森の季節が周太の心を充たしていく。
充たされあふれる想いが黒目がちの瞳から涙になってこぼれてしまう。
どうしたらいいのだろう?ただ涙が止まらない。

自分は13年間を孤独に見つめた。
けれどこの部屋で深い森で、光一も独り信じて待ち続けてくれていた。
そうして14年の時を過ごした、ふたつの孤独は歳月も場所も超えて再び廻りあえた。
この想いの廻りあいは、どうなっていくのだろう?
このふたりに運命はどう繋がっていけるの?

ふたり別々の場所と想いに見つめた歳月が愛しい。
そして出逢えた「今」が愛しくて離せない。

ただ涙を流して佇む周太の前で、穏やかな深い和音が重ねられる。
そして透明なテノールの声が歌を綴じこんで、屋根裏部屋に静謐がおりた。
鍵盤から静かに白い指が離れて、底抜けに明るい目が周太に温かく微笑んだ。

「泣いてくれるんだね、ドリアード?」

やさしい白い指がそっと周太の頬にふれ涙を拭ってくれる。
指先ふれる温もりが深く涙を誘って充ちる想いに止まらない、ただ涙あふれだす。
穏やかに見つめてくれる温かな細い目に、ただ周太はちいさく頷いた。

「ん、…」

光一に応えたい言葉も、涙に震えて出てこない。
ただ涙の底から光一を見つめて、それでも周太は微笑んだ。
微笑んだ唇が心もほどいてくれる、そして想いがようやく声になった。

「ありがとう、光一、…今ね、幸せだよ?」

どうか笑顔、
精一杯の幸せにいま自分の顔で笑ってほしい。
このひとが14年の歳月に願っていた、幸せな笑顔を今、見せてあげたい。
そんな想いを抱いて周太は光一の目の前で、きれいな幸せの笑顔で笑った。


午後の明るい青空が奥多摩の山波を銀色に映えさせる。
雪ふく風がひんやりと意識を覚まさせながら、やさしい森の静謐をながれてゆく。
ふるような冬の陽が木立のはざまから、ゆるやかに穏やかな木洩陽となって照らしていた。

あの幼い頃の雪の森の記憶。
あのとき自分がこんなふうにまた、雪の森へ立つことになるなんて思わなかった。
14年前の記憶と想いを辿るよう、アイゼンに雪踏んで森の奥へ歩いていく。
その行くさきを木洩陽があかるく照らして、白銀が温かな光にきらめいていた。

「今の時間はね、太陽の光がちょうど射して、きれいなんだ。ほら、」

針葉樹と広葉樹が交わされる梢から光が雪へ射していく。
その光が真直ぐに軌跡をみせて光の梯子を架けていた。
きれいな光の梯子に微笑んで周太は光の名前を口にした。

「ん、…天使の梯子がかかってるね、」
「あ、やっぱりその名前知っているんだね?」

さくりさくり新雪と締雪を踏みしめながらいく音が静かな森にやさしい。
左掌を繋いで曳いてくれながら、子供のままの笑顔が笑いかけてくれる。

「ほら、ドリアード?あそこにさ、『雪の花』が咲いている」

白い指が差し示した方にはスノードロップが雪を割り花開いていた。
かすかな森の風に揺れて咲く「雪の花」は白銀のなか可憐に佇んでいる。
自分が好きな花との再会がうれしい、周太は微笑んだ。

「ん、…この花はね、好きなんだ。実家の庭にも咲いている」

微笑んだ周太に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
笑いながら明るく透るテノールの声が教えてくれた。

「うん、俺も好きだよ。雪を割っても咲く強い花だ、潔くて清らかで、愛しいよ」

そんなふうに周太もこの花が好きだ。
なぜか光一とは想いの感覚が似ている?そんな相似が不思議で、けれどうれしい。
自分の裡に感じる「うれしい」想いを静かに見つめながら周太は微笑んだ。

「そういうのはね、ほんとうに綺麗だよね…
俺の家の庭はね、この花もそう…奥多摩の森を映すように造ったらしくて、木や草や花がたくさんあるんだ」

雪のなか咲く花に、ふるい端正な家と庭がなつかしい。
こんどいつ帰られるかなと想う横顔に、きれいなテノールの声が笑いかけてくれた。

「奥多摩の森が庭にあるんだね、」
「ん。そうなんだ…祖父がね、そんなふうに庭を造ったらしい、」

周太が生まれる前に亡くなったという祖父。
この祖父が使っていた書斎は、いまの周太の部屋から上がる屋根裏の小部屋だった。
けれど、祖父がどんなひとだったのか周太は何も教えられていない、母も父から教えられなかった。
奥多摩の森を庭に映しこんだ祖父はどんなひとだったのだろう?
思わず想いに沈みかけた周太に光一が笑いかけてくれた。

「お祖父さんが奥多摩を愛してくれた。
そのおかげで君は、奥多摩の森の庭で生まれ育ったんだね。
そんな君が俺とこの森で出逢った。偶然みたいで、運命的だなって想うとね、なんか嬉しいよ」

底抜けに明るい目で笑ってくれる。
明るい純粋無垢な想いがまぶしい目は誇らかで愉しげだった。
こういう明るさが好きだと想ってしまう、素直に周太は頷いた。

「ん、…なんか、うれしいね」

祖父がどんなひとだったのか?なにも解らない。
けれど奥多摩を愛し、森を愛するひとだったことは解る。
その祖父が川崎に造った奥多摩の森で自分は生まれ育ち、奥多摩の最高峰で生まれ育った光一と想いを重ねている。
そんな自分はいま勤務する新宿でも、奥多摩の森を模した公園に日々を慰められている。
この公園のベンチで周太への想いを自覚した英二は、山岳救助隊を志して奥多摩に生きることを選んだ。
そして英二は周太を奥多摩へ連れて来てくれた、そうして周太と光一は14年の歳月を超えて再会した。
奥多摩を廻る自分の運命の不思議を見つめながら、周太は雪の森の奥へ進んでいった。

「うん、もうすこしで着くよ?疲れてないかな、」
「ん、だいじょうぶ…あ、」

ふっと視界から木々が列を空けるように分かれていく。
ひとすじの道のように木々が並ぶ間を光一は周太の左掌を曳いて進んでいく。
道のはてに城門のような大きな欅が2本並んでいる、その2本の姿に記憶の弦がふるえた。

「…この木、知ってる…」

つぶやきがこぼれるまま周太は欅の幹にふれた。
登山グローブを外して掌と木肌を重ねあわせると、どこか温もりと水音の鼓動が肌から揺れていく。
そっと幹に耳ふれると気配のように微かな水音がふれる、この微かな音を自分は知っている。
やっぱりここに自分は14年前に来た、その確信に触覚と聴覚から訴えかけられた。

「うん、知っているはずだよ?君はね、14年前もこうして俺とここに立っていたから。
あの日に俺と君は一緒に過ごした、そして下界へと戻っていく君をね、森の入口まで俺は送ったんだ。こうして左掌を繋いで」

なつかしそうに笑いながら光一は自分も登山グローブを外した。
そして大きな右手に周太の左掌をとって、底抜けに明るい目に温かく微笑んだ。

「行こう、ドリアード?君の木が待ってる、」

透るテノールの声が笑いかけて、繋いだ左掌をやさしく握ってくれる。
素直に微笑んで周太は光一に手を曳かれて、大きな欅の間を通った。
そして視界にひろがった巨樹の坐所で、おだやかな空気に周太は微笑んだ。

山桜の大きな梢が天高く広やかに、青空を抱いていた。
あわく紅紫をふくんだ艶やかな木肌は雪の白いベールを透かして佇んでいる。
白く凍れる細やかな枝は、たがいに想い交すような繊細な造形で青空を透かし魅せていた。
白く梢いろどる雪は花のように咲いて、ふりそそぐ冬の午後の陽に輝きあふれていく。

山桜はいま、光と雪の花を満開に輝かせていた。
真青な大空を戴冠し、白い花を誇り高らかに灯して、雪の森の静謐に佇んでいた。

この木を自分は知っている。
そっと紅ふくんだ木肌に掌を重ねると、なめらかな冷たさがふれる。
ふれる掌と木肌のはざま温もりが生まれてくる、温かさを周太は微笑んで見つめた。
そして耳を幹へつけて静かに周太は瞳を閉じた。

1月の終わりに佇む桜。
あと3か月もしたら満開の花が咲き誇っていく。
その花の彩りを今、この温かな皮のしたに流れる樹液へと蓄え抱いている。
ゆるやかなかすかな花のいろさそう水音に、ことしの花の美しさを周太は祈った。
咲くのなら美しく咲かせたあげたい、そんな花への祈りを捧げて周太は静かに幹から離れた。

「ふれさせてくれて、…待っていてくれて、ありがとう…」

かすかな声で山桜に告げて周太は微笑んだ。
この山桜はどれだけの歳月をここに佇んでいるのだろう?
大きな幹とひろやかな梢は、この山桜の生命力の豊麗さを示して輝いている。
この木が見つめた時の長さのなかでは自分の「今」は一瞬のことだろう。
それでも自分は「今」一瞬を大切に重ねられたらいい。

山桜の巨樹に見上げた時の長さと命の豊麗に、心が穏やかに凪いでくる。
いま再び見つめ始めた光一への想い、春から見つめる英二への想い、そして美代との温かな交友。
一瞬だからこそどれも見つめたい、大切に出来たら良い。
沢山悩んで泣くかもしれない、それでも心の成長痛だと笑って受けとめて、大きな心をこの身に抱きたい。

…ん、だいじょうぶ。山桜、…ありがとう

心に微笑んで周太はゆっくり振向いた。
ふり向いた想いの真ん中で、光一がじっと周太を見つめて雪の森に佇んでいる。
ああ、この瞬間を自分は知っている。遠い近い14年前の記憶に微笑んで周太は唇を開いた。

「この木が好きなの…?」

見つめる想いの真ん中で純粋無垢な想いが微笑んだ。
底抜けに明るい目が笑って、透るテノールの声が応えてくれる。

「いちばん好きで大切だ」

真直ぐな明るく誇らかな視線、真直ぐ届く透明な声。
この眼差しも、この声の想いも自分は知っている。
撃ち砕かれていた瞬間が甦っていく今を見つめながら周太は一言、あざやかに微笑んで答えた。

「同じだね、」

光一の底抜けに明るい目からこぼれる涙に冬の陽が輝いた。
きれいに笑った秀麗な顔、そして透明なテノールの声が言ってくれた。

「お帰り、山桜のドリアード。ずっと、ずっと待っていたよ?」

告げてくれる微笑みが雪の森を歩いて近づいてくれる。
光一が雪ふむ音だけが響く森の静謐のそこで、明るい眼差しが周太に微笑んだ。

「逢いたかった、ずっと信じてた、ここで待っていれば逢えるってね、信じていたよ」
「ん、…ここに来たかったよ?逢いたかった、」

微笑んで見上げる先で底抜けに明るい目から涙が生まれていく。
いま美しい涙をながす「山桜のドリアード」の名前を自分にくれたひと。
ドリアードは森の妖精。自分が棲む木を分身として木と運命を共にする。
そして自分の名前に冠しているのは、このいま立つ背後の大きな山桜の木。
雪の森に佇む大きな山桜の木、光一の大切な山桜。
この山桜の前に出逢い言葉を交わし、ひと時を過ごした幼い9歳の冬の記憶。
その幼い一瞬のひと時を光一は唯一度「永遠の時間」の宝物として抱いて温めてきた。
その永遠の時間にただ見つめて想って、いつか訪れる再会を信じて14年間を待ち続けてくれていた。

…君に俺の命も誇りも預けて話したいんだよ。そして全部信じてほしいんだ
 14年間ずっとね、君の笑顔に逢いたかったんだ

雪の森で見つめた14年間の光一の想い、そしてこの先も片想いを愉しむと言ってくれた想い。
どの想いも純粋無垢できれいで光り輝いている、大らかな優しさと穏やかな温もりに充ちている。
その純粋無垢な想いのままに光一はもう、周太が犯した罪すら軽やかに背負いきれいに笑っている。

底抜けに明るい瞳で真直ぐに見つめて、ただ「山」の峻厳なルールを畏敬し愛する、美しい山ヤ。
その愛の結晶として見つめる山桜の巨樹をいちばん大切にして。
そして山桜の樹霊ドリアードを唯一度の出逢いに恋し、唯ひとつ愛した。

美しい山ヤは「山桜のドリアード」として周太だけを想うと決めている。
美しい山ヤが14年間を懸け、そしてこの先すべて懸ける想いは、自分以外の誰も受けとめられない。
だから逃げない、自分だけしか出来ないのなら受けとめたい。美しい山ヤの想い全てを美しいままにしたい。
この美しさを愛さない、そんなことはもう出来ない。

「ドリアード、ここでまた逢えたね?」

底抜けに明るい目が幸せに笑って、透明なテノールの声が名前を呼んでくれる。
この声は無垢な響きと明るい透明はそのまま、出逢った瞬間の純真なままで待っていた。
なつかしさと愛しさに微笑んで見上げて、周太は名前を呼んだ。

「ん、光一、逢えたね…」

応えながら周太は一歩前に踏み出した。
見上げる瞳は子供のままに純真で、真直ぐ見つめて笑ってくれる。
この瞳も純真もすべて自分が守りたい、その祈りが心にもう根を張っていくのがわかる。
もう一歩踏み出す両手を伸ばして、山の冷気にあわく紅潮そまる頬を、ふたつの掌でそっと包んだ。

「光一、」

名前呼んで微笑んで、そっと純粋無垢な瞳を近づける。
そして近寄せた額へと静かに周太はキスをした。

「うん…ドリアード、君から額にキスしてくれた」

幸せな笑顔の底抜けに明るい瞳がまばゆい。
このまばゆい明るさが大好きになっている、真直ぐな視線も明るい瞳も真直ぐな透明な声も。
14年前の想いは甦って今、山桜の前で花開こうとするのを穏やかに周太は見つめた。
見つめる心の弦にふれる記憶の声と歌が、そっと想いに寄りそってくる。

  季節は色を変えて幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 
  君を想う
  奏であう言葉は心地よい旋律 
  君が傍に居るだけでいい
  降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
  夢なら夢のままでかまわない 
  愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから

まばゆい木洩陽と風韻の旋律が心の弦を響きだす。
透明な音と沈思の音がたがいに呼びあいだす、ふたつの孤独が再会を喜んでいる。
もう想いは定まってしまう、けれどそれでいい。きれいに笑って周太は真直ぐに光一を見つめて告げた。

「光一、大好きだよ…きっと、いつも想うよ?」

そして、いつか愛してしまう。そう遠い未来ではないかもしれない。
そのとき自分は、なに想うのだろう?

「大好きって言ってくれるんだね、…信じちゃうよ?」
「ん、信じて?」

告げた想いの真ん中で、底抜けに明るい目が誇らかに温かく笑った。
そして光一は周太の耳元へキスをした。
純粋無垢な想いは誇らかな自由のままで、冬の陽ふる雪の森で14年の歳月を熔かしていく。
熔かされた歳月の向こうから、雪の花輝く山桜のもと出逢った想いは、再び廻り重なりだす。
そして山桜の森に時がまた、ゆっくりと動き始める。




【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】


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第33話 雪灯act.11―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-11 23:16:08 | 陽はまた昇るanother,side story
雪の夜にひらく灯の花




第33話 雪灯act.11―another,side story「陽はまた昇る」

雪白く戴いた稜線は、透明な紺青の星空に輝いていく。
長く遠く連なっていく白銀の連なりが、銀の龍が夜空を駆けるようだと周太は見つめていた。
きんと冷えた空気に佇んでも左掌は温かい。
この温もりに繋いでくれる大きな右手の主が楽しげに口を開いた。

「銀の龍の背。そんなふうに言うひともいるよ?」

透明なテノールの声が笑ってくれる。
自分が想っていたことを言葉に変えられて周太は驚いた。

「銀の龍…俺もね、いま、そう思った…わかるの?」
「うん?そうだね、なんとなく俺も思ったんだ。ほんとにさ、山って竜が眠っているようにも、見える」

紺青にひろがる凍る夜気に、真白なマウンテンコートの裾が風と遊んで翻っていく。
風に遊んでいく漆黒の髪を自由にさせたまま、雪白の貌を紅潮させて愉しげに国村が笑う。
雪に佇んで眺め渡していく高峰の連なりは、星に響く灯のように輝きながら深い眠りに鎮まっていた。
遠く近く響いていく山を駆けわたる風音が、吼える声にも似て周太は微笑んだ。

「…ん、木を風が駆ける音かな?…竜がね、吼える声ってこんなかな…?」
「聞こえるんだね、ドリアード?そうだよ、梢を風が駆ける音だ。木の種類によっても音は違う」

底抜けに明るい目が愉しげに笑って左掌をやさしく握ってくれる。
そして四駆の方へと歩きながら国村は、白くとける吐息に微笑んだ。

「すこし冷えたね、ドリアード?車に戻ろう、で、次の場所へ行くよ」
「次の場所…どこへ行くの?」
「うん、そうだな…『星』かな、または『宇宙』かな?」

星に宇宙。どういう意味だろう?
不思議で見つめる周太に愉しげな細い目は「後でわかるよ?」と言ってくる。
楽しみだなと素直に微笑んで周太は四駆の助手席に座った。
夜の底白い雪の道を四駆が走り出して、想いのままに周太は国村に訊いてみた。

「『東方綺譚』は読んだ?」

周太の質問に細い目が笑った。
知ってるよ?そんな目で楽しげに頷いて答えてくれる。

「『源氏の君最後の恋』をね、いちばん読んだよ」

同じ章に興味をもってくれていた。
こういうのは気安くて話しやすい、うれしくて微笑むと周太は誰かに聴いてほしかった想いを口にした。

「ん、…俺もね、読んだ…名前を呼ばれて愛されたのに、…名前を忘れられたら哀しい、そう想ったんだ」

いちばん周太が考えこんでしまったことだった。
山を愛し始めた英二が美しい山ヤの国村に心を移してしまったら?そして周太の名前を忘れてしまったら。
そんな考えが哀しかった、けれど「万が一」と覚悟もして、愛された記憶の温もりを抱けただけでも満足しようと心に決めた。
国村はどう読んだのだろう?見上げた先で細い明るい目は笑って答えてくれた。

「俺はね、花散里のように尽くして忘れられても哀しまないよ」
「そう、なの?」

聞き返す周太に底抜けに明るい目が温かく笑んでくれる。
微笑んだあわい紅いろの唇が楽しげに教えてくれた。

「だって一緒にいられて愛されたんだ、その事は相手が忘れようが関係ないだろ?
自分の心には想いも記憶も、ちゃんと残されているんだ。それにね、一緒にいて愛されて名前呼んでもらった。充分幸せだろ?」

周太は光源氏を英二に重ねて花散里の視点から読んだ。
けれど14年の歳月を雪の森で国村は周太を待ち続けていた。
「忘れられたかもしれない」と想っても待つことを止めることも出来ないままで。
そんな国村からすれば周太こそが光源氏になってしまう?気づいた哀しみに周太はすこし俯いた。

「ごめんなさい…ずっと、忘れて…」

気にしないでよ?そんな眼差しを運転席からおくってくれる。
そんな大らかなやさしい明るさで透るテノールの声が言ってくれた。

「大丈夫、俺たち14年前はさ、名前すら知らないまま離れちゃったんだ。
それに君はね、あの日のすぐ後に辛いことがあったんだ…大丈夫、俺は解っているよ?」

父が殉職した13年前の春の夜。
あの春の夜は、雪の森の出逢いから3ヵ月も経ていない。
あの春の夜に封じ込めてしまった記憶たち、そのひとつに雪の森の記憶も取込まれていた。
けれどもう雪の森の記憶は甦り息吹を取り戻している、甦っていく息吹に周太は微笑んだ。

「思い出したんだ…本当はね、4月に来る約束を父としていたんだ。
父は忙しくて休みがとり難くて、それで3月の梅には来れなくて…でも、4月は母が旅行に行くから、
俺と留守番するために、父は休暇が決っていて…そのときは必ず奥多摩へ連れていくよ。父はね、そう言ってくれて…でも、…」

雪の森の日の帰り道、父と結んだ楽しい約束。その約束を父も周太も果たすつもりだった。
けれど13年前の春の夜に拳銃が撃った一発の弾丸は、雪の森の出逢いと約束まで父の生命もろとも撃ち砕いた。
あの春の夜の哀しい記憶、狂わされた運命、叶えられなかった約束、そして幸せな笑顔の崩れた瞬間。
そうして消えた幸福たち、けれどその1つを国村と取り戻せるだろうか?

あかるい雪の森で今日、周太が向けた拳銃の銃口に国村は誇らかに笑って、14年前の雪の森で結んだ出逢いと約束を蘇らせた。
13年前に拳銃に砕かれた「山の秘密」は今日、拳銃の前で14年の歳月を超えあざやかに甦った。
唯一度の14年前の出逢いの瞬間と拳銃を廻る不思議な運命は、なにか明るい温もりで「希望」を周太に告げてくれる。
ちいさな希望と深い想いを抱いた周太に、温かな静謐の声が想いを告げてくれた。

「約束をさ、守ろうとしてくれていたんだ…ね?…忘れられたって思っていた、俺…だからさ、いま本当に、うれしい」

14年の歳月を待ち続けた涙がこぼれて、また次と涙があふれていく。
けれど底抜けに明るい目の幸せな笑顔で国村は言ってくれた。

「俺はね、名前を忘れられてもいいんだ。
 だけど名前を呼ばれた、幸せな記憶だけはね…ほしいよ?だからドリアード、俺の名前を呼んでよ、」

「名前を?」

忘れられても良いから呼んでほしい。
純粋で切ない国村の想いが心に響くまま周太は運転席の横顔を見つめた。
そう見つめる横顔は車を停めて振向くと「着いたよ?」と目だけで笑ってくれる。
四駆の外へ出ると深く紺青の闇が足元までおちていた。

「ほら、足元の闇がね?空に繋がって見える」

底抜けに明るい目が笑って隣に立って左掌を大きな右手にとってくれる。
藍色にそまる雪を踏んで尾根のほとりに立つと、ひろやかな群青色のまぶしい空が白銀と浮かんでいた。
ふるほど響く星のいろどりと光に見下ろす白銀はあわい光と輝いてうかんだように見える。
そして足元の藍色の雪が群青の夜空へとひと繋ぎに空間が繋がっていた。

自分は今どこに立っているのだろう?
雪闇とける夜空は宇宙とひと繋ぎになって、浮遊感すら感じさせてくれる。
あざやかに深く昏く輝いた青の空と闇、白銀の星々と雪。青と白だけの静寂ねむる世界。
ときおり吹く風が梢を啼かせる音だけに空気が響く、ふる星の聲すら響きに感じられてくる。

ここは遠い異世界のよう、違う惑星にでもいるような?
さっき国村が言ってくれた「星」か「宇宙」に連れて行くという意味が映された世界。
雪山が魅せる静謐の世界は美しかった、周太はそっと吐息を白く夜へ融かしこんだ。

「…きれいだね…ほんとうに宇宙か、違う星みたいだね?」
「だろ?…夜の雪山はね、人間の世界とは違う、他の世界だよ。静かで不思議で、きれいだ」

青と白が織りなす時のはざまから、雪白のあかるい貌が周太にふり向いて微笑んだ。
ふっと駆けぬける山風が、青藍の夜空に真白いマウンテンコートと漆黒の髪を翻させていく。
山風に舞う黒髪を透かす底抜けに明るい目が周太を真直ぐに見つめてくれる。
そして国村は、きれいに笑って周太に願った。

「俺のこと、『光一』て呼んでよ?…ふたりの時はね、名前を呼んでほしい。『山の秘密』のままで、ね」

名前、呼んであげたい。
周太の心に透明なテノールの声に乗る想いが真直ぐ響く。
響いた想いのままで頷いて、素直に周太は唇を開いた。

「光一、」

底抜けに明るい目が雪明りを映しこんで、まぶしい幸せに笑った。
幸せに笑う透明なテノールの声が、真直ぐに返事した。

「はい、ドリアード?…うん、いいね、名前呼んで貰うのはさ?ふたりの時は必ず呼んでね、ドリアード」

心の底から愉しげな想いがテノールの声に透っていく。
うれしそうな笑顔が周太もうれしくて微笑んだ。

「ん、光一…『光』に『一ばん』…いい名前だね?」
「うん?そっか、ありがとう。この名前はね、日中南時の瞬間に生まれたから、ってつけてくれたんだ」
「にっちゅうなんじ?」
「太陽が一番高いところにある時間のことだよ。
俺が生まれた日は真っ青な快晴の日でさ。で、1日でいちばん明るい瞬間に生まれたんだ。それで『光一』ってつけてくれた」

底抜けに明るい目が愉しげに笑って明るい声が教えてくれる。
この大らかな明るさは晴れた明るい日の、最も明るく輝いた陽光が贈ったものかもしれない。

「なんかね、とても似合ってる、ね?…素敵な名前だね、光一、」
「君にそう言われるとさ、うれしいよ?ありがとう、ドリアード。君の『周太』はどんな意味?」

うれしそうに笑って頷いた光一は、周太にも訊いてくれる。
この名前の話はまだ誰にも周太は話したことが無い、その「初めて」に微笑んで周太は口を開いた。

「ん、…周が『あまねく』で、太は『心の器が大きい』って意味なんだ…
『かたよらず遍くに多くを学ぶ心の器の大きなひと』になるように、ってね、つけてくれたんだ」
「ふうん、いい名前だね?俺は好きだよ、君の名前もさ、」

率直な想いの言葉を明るく告げてくれる。
真直ぐな賞賛と受けとめられた想いがうれしくて、周太は微笑んだ。

「ありがとう。でね、学者に良い名前らしくて…ほんとうは父も母もね、俺に学者になってほしかったらしいんだ。
たくさん勉強して心を大きくして、たくさんのひとの笑顔を手助けできる研究ができる、そういう学者になってほしいって…あ、」

 ―君は多くの痛みを知っているだけ、多くの人の想いを理解して受けとめられる
  そうして多くの視点を持っていけば、必ず大きな心の人に成れます

今日の午後、吉村医師が贈ってくれた言葉。
あの言葉の意味は両親の贈ってくれた自分の名前の意味と同じことではないだろうか?
英二と美代を大切にしながら光一の想いを受けとめること、その悩みに吉村医師が贈った言葉は両親の想いに重なる?

…ね、お父さん?光一を想うことも、お父さんの望みにすこしは適うのかな…そう信じても、いいかな?

いくど覚悟を心に確かめても、英二と美代への「ごめんなさい」は容易く消えるはずがない。
けれどもし光一との想いが、父が母とふたり望んでくれた「名前の祈り」を叶えていく道になるのなら?
やわらかな覚悟の温もりが響いていくのを、雪の山の夜へと周太は見つめて微笑んだ。

「ドリアード、今なにを気がついた?俺にもね、聴かせてほしいよ、」

テノールの声がやわらかい覚悟に透って周太は隣を見あげた。
明るい温もりの眼差しが笑って受けとめてくれる、うれしくて周太は笑って口を開いた。

「ん、…今日ね、吉村先生が言ってくれたんだ。
『多くの痛みを知っているだけ人の想いを理解して受けとめられる。そして多くの視点を持って大きな心の人に成れます』
光一、先生はね…なにも言わなくても、光一が俺を想ってくれることを気づいていたよ?
俺が悩んでしまうことにも、気がついてくれて…それで、そんなふうに俺を励ましてくれて。そしてね、受けとめてくれた」

「受けとめてくれた?」

テノールの声が訊いてくれる。
もう馴染み始めている声に微笑んで頷いて周太は答えた。

「ん。そうしてね、心の大きなひとに成ればね?英二と光一と、ふたり分の想いを受けとめられるよ、って…
そう言って俺がね、ふたりを同じ時にふたり共を想うことを、先生は肯定して、俺の想いを受けとめてくれたんだ…
それで今、気がついたんだ。両親がね、俺の名前に籠めてくれた祈りと、先生が言ってくれたことは同じだなって。
だから…光一を想うことはね、父と母が望んでくれた祈りを叶えることに繋がっていけるのかな、って思って…あ、」

さあっと谷から風が吹き上げて、山嶺の彼方から風花が舞った。
遠く山の頂や尾根にふり積もった雪が山風に吹きとばされ、風の花になって空に舞う。
初めて見る風花は星明りに白く煌めいていく、風花ふり舞う白い姿を見あげて周太は微笑んだ。

「これ、風花っていうんだよね?…初めて見た、きれいだね?」
「だろ?これがね、さっき俺が言った『星明りに灯る雪の花』だよ、」

透明な紺青いろ深い夜空を駆けて、風花が白く輝いて星と明るんでいく。
まるで星がふるみたいだな、そんなふうにも見えて周太は笑った。

「ん、ほんとうだね、光一?…星明りと光っている白い花みたいだね、…星が降っているみたいにも見えるね?」
「うん?そうだね、星がふるようにも見えるな…ね、ドリアード?教えてくれるかな、」

なにを教えるのだろう?
すこし不思議に思いながらも素直に周太は頷いた。
頷いた周太に笑いかけて、底抜けに明るい目で真直ぐ見つめるとテノールの声が透った。

「いま君が言ってくれたことだよ、『ふたりを同じ時にふたり共を想うこと』
これってさ、ドリアード?君はね、宮田だけじゃなくて…俺のことも好きになってくれた。そういうこと、なのかな?」

透明な声と純粋無垢な瞳が真直ぐに訊いてくれる。
声に眼差しに映しだされる想いが、そっと周太の心に響いて明るんだ。
明るい想いを心に抱きしめて周太は綺麗に笑った。

「ん。…好き。でも、英二も愛しているんだ。そして美代さんとも友達でいたい…だから、こんな俺はずるい、そう想って、悩んで」

やさしい温もりで左掌を握ってくれたまま、光一は周太に向き直った。
真直ぐに明るい目で周太の瞳を見つめると微笑んで、おだやかにテノールの声が訊いてくれた。

「ドリアード、教えてほしいよ。俺の想いは、君を苦しませている?…俺に、君の前から消えてほしい?」

おだやかで静かな声、けれど覚悟と哀しみがひそやかに息つく声。
こんな声をさせたいんじゃないのに?真直ぐに光一を見あげて周太は微笑んだ。

「消えないで。…苦しむことはね、あるかもしれない。けれど、光一をもう忘れたくないんだ。
光一を好きだから…きっと、14年前にもう、好きだった…記憶もね、想いも甦ったんだ、もう忘れたくない」

底抜けに明るい目がうれしそうに微笑んだ。
微笑んだ唇がそっと周太の耳元へキスをおとすと、真直ぐ見つめて光一は言ってくれた。

「うん、俺もね?君と一緒に笑っていたい。君が望むまま自由に生きて、幸せに笑う姿を見つめたい。
だからね、ドリアード?俺はね、いつか君が宮田の妻になっても、ずっと傍に居たいよ。下界では友達のフリして傍に居る。
けれど、ドリアード…ときおりは今夜みたいに、俺だけを見つめてくれる時間をくれるかな?
『山の秘密』で一緒に過ごして、君を山桜のドリアードとしてだけ見つめる時間をさ、与えられる権利は俺に貰えるのかな?」

山桜のドリアード。
光一が愛する「山」で最も大切にして愛している山桜。
その精霊ドリアードとして周太を見つめて「山の秘密」で周太にくれた名前。
そんな「特別」と真直ぐな純粋無垢な想いが嬉しくて幸せで、呼ばれるたびに泣きたくなる。
だから答えは決まっている、見つめる想いへと素直に周太は微笑んだ。

「ん、…こんなふうに一緒の時間をね、俺に贈って?
光一、今夜のような時はね、俺にはすごく大切なんだ…心だけでも寄りそえる安らぎがね、うれしくて幸せなんだ」

自分は23歳の男で社会人で警察官にすらなった。
けれど心はまだ10歳10ヶ月のままでいる、だから本当は「体」のことは不安も恐怖も残ってしまう。
たしかに英二が抱きしめてくれる温もりは幸せで、求められる想いがうれしい。
けれど、ただ一緒にいるだけで充たされる安らぎと温もりは、心からの安堵と幸せを与えてくれる。
だからもし望んでいいのなら、やさしい純粋無垢な温もりに幸せな時間と記憶を求めたい。
そんな願いに見上げた先で、底抜けに明るい目は温かに笑って応えてくれた。

「うん、よかった。俺もね、ほんとうに幸せだよ?
君を抱けなくってもね、こうして寄り添っているだけでさ、ほんとうに幸せなんだ。だから望んでほしいよ、ドリアード?
俺とこうして山で過ごす時間をね、俺に『おねだり』してよ?そして笑顔を見せてほしい。そんな『おねだり』をする約束をして?」

純粋無垢な想いが大らかな温もりに笑ってくれる。
こんなに透明にきれいな想いを、受けとめずに壊すなんて誰が出来るというのだろう?
もう自分は心をとっくに決めている、きれいに笑って周太は答えた。

「ん。約束する、光一。…ね、雪に凍った湖の夜に連れて行って?冬富士の夜も見せてほしい」

さっき光一が見せてくれるといった「雪に凍りついた湖の夜に輝く姿」と「冬富士が夜に浮き彫りになる姿」を周太は「おねだり」した。
早速のおねだりに笑って光一は明るくささやくよう周太の耳元へキスをした。

「うん、見せるよ、ドリアード?約束だ。だからね、俺のことずっと好きでいて?」

きれいに笑って光一は、握った周太の左掌をひきよせると四駆の方へ歩き出した。
乗り込んで走り出すとハンドルを捌きながら、笑って光一が言ってくれた。

「さて、ドリアード?ちょっと疲れただろ、眠っていて良いからね。着いたら起こしてあげるよ、」

提案してくれるテノールの声がやさしい。
温かい気遣いがうれしい、微笑んで周太は応えた。

「ん、ありがとう…もし眠くなったらね、きっと俺、墜落睡眠すると思う」
「墜落睡眠するんだ、ドリアード?じゃあ、あぶないな。俺、気をつけないと」
「なにを気をつけるの?」

なにげなく訊いた周太に悪戯っ子の目が笑ってくれる。
そして唇の端を少し上げて光一は言った。

「墜落睡眠するとね?滅多なことじゃ起きないだろ、だからさ?つい誘惑に負けた俺が、えっちしたら困るなあってこと」
「…っ、」

首筋から熱が昇って頬まで熱くなってくる。
やっぱりそういう話が好きなんだ?赤い顔で運転席を見つめると、信号で停まったとき光一がふり向いた。
ふり向いて笑った底抜けに明るい目は、真直ぐ周太を見つめて微笑んでくれた。

「大丈夫だよ、ドリアード?俺はね、君が心から求めない限りはしない。
俺は君が大切で、「山」への想いと俺の誇りすべてを懸けて愛している。
だからね、ドリアード?体のことも無理には必要ないんだ。君の笑顔が見られたら幸せなんだよ。
こんなふうにね、ふたり一緒にいられて名前を呼ばれてさ。君を好きなだけ見つめていられる、それで充分に幸せなんだ」

純粋無垢な想いが笑って、また前を見て光一はハンドルを捌き始めた。
大らかな誇り高い優しさが美しくて、きれいで。受けとめた想いに周太の瞳から涙がこぼれた。

「ん、…ありがとう、光一。俺ね、…体の繋がりが無くても好きって、言ってほしかったんだ。
心だけでも幸せで大好きって、真直ぐ心を見つめてほしかったんだ…だからね、光一?いますごく嬉しいよ?」

そっと伸びてきた白い指がやさしく涙を拭ってくれる。
底抜けに明るい目が温かに笑んで、やわらかなテノールの声が言ってくれた。

「うん、俺もね、うれしいよ?あ、良い顔で笑ってるね、ドリアード?すごく美人で可愛い、大好きだよ」

やさしい温もりに笑って受けとめてくれる。
この温もりと笑顔が自分は本当に大好きでいる、きっと、愛してしまうだろう。

この予感には封じ込まれた14年の歳月が息づいて、抑えられた時の長さだけ募ってしまう。
英二との想いは初めての恋、唯ひとつの愛だと想っていた。
けれど14年前の記憶も想いも甦ってしまった、この時も記憶と想いが積まれていく。

この想いは二度は忘れられない。
ただ素直な予感をしずかに見つめて周太は運転席の横顔に微笑んだ。

…温かで、やさしい、純粋無垢な想い。子供の頃のまま、きれいな目で…

離れたまま再会すら解らなくても光一は、ただ純粋に想い続けてくれていた。
その純粋な想いのまま14年を経て再会して、一途に14年間とこの先の想い全てをよせてくれる。
純粋で一途な想いがただ嬉しくて、想いだし取り戻せた記憶と想いが幸せで温かい。
幸せな温もりにゆっくり睫毛がおりて、おだやかな微睡みが周太を抱きとめた。

ことんことん、走る振動が心臓の鼓動のよう。
チェーンが雪道を削る音、ときおり吹く風が窓を掠める音、それから?
それから、低く歌うテノールの透明にとける声。

  …
  やっと出会えた 
 
  気づいたときは遅くて 大人びた今なら もう少しうまくつき合えそうだよ
  今までそれなりに恋をしたりもしたけど
  ふと気がついた その瞬間に いつも君が浮んでくる
  
  この想い感じていたい 
  叶わないと知っても 今 僕の気持ちは一つだけ…今は別々の道だけど 僕はすべてを受けとめる

  伝えていいのかもわからない 
  この気持ち叶うのかな いつかは そんなこと言う権利も無い…
  
  この想い感じてほしい 
  
  今 僕の恐さや後悔も すべてを打ち明ける
  あれから何度も君にふれたくて 眠れない夜に目をつぶっていた 今は答えを出せずにいる 
  
  君を哀しませたくない
  伝えきれないほどのこの愛を 目を逸らさずに感じてほしいよ どんな言葉もうけいれるよ
  
  君は今、なに想うの? 

  君だけを愛しているよ…

やさしい透明な声がひそやかに歌っている。
いちど歌い終えて、しばらくすると口遊んでしまう言葉たち。
低く透っていく歌の言葉たちが、歌うひとの想いを映しこんでいく。
かすかな微睡にゆれながら、しずかな想いの歌声に周太は心をそっと寄添わせた。

おだやかな温もり、低く歌う透明な声、安らいでいく心。
こんなに安らかな想いで眠ったのは、いつだったろう?
おさない日に父と出掛けた車の時間がやさしく甦っていく、14年前の雪の森から帰る道に微睡んだ記憶も起きあがる。
安らぎと愛情と温もりの記憶たちが今、ゆっくり心に息を吹きかえす。

…光一、…

まどろみの底で歌うひとの名前を呼んで、おだやかな眠りに意識がとけこんだ。
ふかいねむりの隣では、やさしく低く透明な声が歌いながら。


頬ふれる温もり、
耳元ふれる熱と、やわらかな吐息。
ふっ、と瞳が披いて周太は目を覚ました。

「おはよう、ドリアード?寝顔、可愛かったよ」

ひらいた瞳を底抜けに明るい目が覗きこんで笑ってくれる。
かるく身じろぎするとブランケットが周太を包んでくれていた。
何時の間にかけてくれたのだろう?包んでくれた温もりが幸せで周太は微笑んだ。

「…ん、おはよう、光一…ブランケットありがとう、温かかった」
「うん、なら良かった。で、着いたんだけど、起きれそう?」

窓を見ると、ひろがる青い闇に雪の結晶が鏤められている。
ふる雪が窓におちて美しい氷の造形を魅せていた、うれしくなって周太は窓へ近寄せた。

「…雪の結晶だね、…きれい、ひさしぶりに見たよ?」
「ん?どれ、」

窓を見つめて微笑んだ周太に、光一も運転席越しに身を乗り出してくれる。
周太の顔に並ぶよう窓を見た雪白の貌が、子供のまま純朴な笑顔で笑ってくれた。

「うん、きれいな結晶だね。形がきちんと整っている、俺もちゃんと見たのは久しぶりだな」
「光一も、ひさしぶり?」
「だね。こういうのってさ、意外と見ていないね?」

愉しそうに雪の結晶を見て底抜けに明るい目が笑っている。
その横顔に映える純粋無垢な笑顔がうれしくて、周太は微笑みかけた。

「いま雪が降っているね?」
「うん、小雪って感じだけどね。ちょっと寒いかもな、外はさ。でも、きれいだよ。出てみる?」
「ん、外に出てみたい」

小雪ふる白く冷たい大地に降りると、凍る空気が夜の底に鎮まっていた。
みるまにかじかんでいく指を口もとへ寄せて息吹きかけながら、周太は目のまえに広がる白銀の平面を見た。

真白な銀盤が、凍れる星空の許ひろやかに佇んでいた。
ふる星の灯が反射する雪氷の湖は、青い夜の静謐に輝き映えて動かない。

静寂が白銀に凍てついた湖面をねむらせている。
ゆるやかにふる小雪が舞うなかで、雪と氷にとざした眠れる湖。
湖面の中央近くには小舟が白銀に封じられたよう動かない。

「湖ってさ、縁から凍っていくんだ。で、凍る湖水に押し流されてさ、小舟はあの場所にいる」

透るテノールが凍る湖面に響いていく。
教えてくれたことに微笑んで周太は訊いてみた。

「縁から…湖の対流のせいかな?」
「うん、そうだよ。湖にも漣が立つだろ?湖の底ではゆるく流れがあるから」

話しながらも白銀の湖面から目が離せない。
おだやかな潔癖が佇んだ冬の湖には星明りに輝いて、どこか清浄な凛冽が響いていく。
清らかさがきれいで周太はため息を吐いた。

「…ん、きれいだね…しずかで、清らかで…雪と氷なんだね、すごいね、」

うれしそうに細い目が笑ってくれる。
笑って光一が周太に訊いてくれた。

「気に入った?こういうの好きかな、」
「ん、すごく好き、…また見たいって想ってしまう、ね?」

素直な想いを告げて周太は隣を見あげて笑った。
笑いかけた先で底抜けに明るい目が、幸せそうに微笑んだ。

「よし、『おねだり』してくれたね?きっと、また見に来ようよ。
3月位までは見られる、だから梅を見においで、ドリアード?その時ここにも連れてきてあげる」

3月の梅の花。
14年前に果たせなかった、光一の持山に咲く白梅がおりなす山霞を見る約束。
こんどこそ約束を果たしたい、もう雪の森に光一を待たせたまま独り置き去りにしたくない。
ちいさな決意に周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう…今度こそね、約束を果たすよ?…見に来るね、」
「うん、待ってる。だから来てね、ドリアード?…ほら、あっちを見てごらんよ?」

雪白の指が小雪ふる夜闇の向こうを指し示す。
うすい雪雲がいろどる夜空から銀いろ瞬く星がふる。示す方を周太は素直に見つめて、そして息を吐いた。

白銀あかるく輝く冬富士が、紺青の夜に浮き彫りになっていた。
星々のかそけき灯が冬富士の肌を照らして、紺青の空へ白銀のコントラストを彫あげていく。
夜の闇にもとけない冬富士の、雄渾な静謐と荘厳の世界が厳然と、凍れる湖の向こうに聳えていた。

「…すごい、ね…きれい、…これが冬富士、」

雪の肌がやわらかに星明りに灯っている。
けれどあの雪肌が生み出す雪崩に光一は肩に大きな痣を負った。そして英二は頬に細い氷の傷をつけられた。
美しい冬富士の夜ねむる姿、そこに眠っている冷厳な雪と氷の掟、雄渾な沈黙の世界。
あの場所に光一と英二は登っていた、そして尚更に魅せられた心を抱いて帰ってきた。

「うん、これがね、冬富士だよ?ほら、いま左側の斜面でさ、雲みたいのが起きたのって見える?」
「…ん、東斜面だよね?」
「そうだよ。あれはね、大きな雪崩が起きて舞い上がった雪の煙なんだ。」

言われるまま東斜面の左を見つめると、あわい雪煙が見える。
夜空にかかる雲とも見まごうような大きな白い煙に、数時間前の不安が想われる。
きっとあの大きな雪煙は、むかし父が教えてくれたことだろう。それでも美しさは惹かれてしまう。
見つめる周太に光一が笑いかけてくれた。

「ドリアード、寒いだろ?おいで、」

温かに細い目が笑んで、息吹きかけていた周太の両掌を大きな手がとってくれた。
そして掌を惹きよせると光一は、着ているマウンテンコートに包みながら背中から抱きしめてくれた。
背中から伝わる鼓動が少しだけ早くて、ゆるやかな体温の温もりが心地いい。
やさしい温かさにほっと微笑んで、そっと周太は光一を見あげた。

「ん、温かいよ?…ありがとう、光一」
「うん、俺もね、こうしてると温かいんだ。やっぱ人肌って温いよね、」

無邪気に雪白の貌が笑ってくれる。
ただ寄添って温もりを与え合っている今が幸せで、やさしい想いが温かい。
冬富士と凍れる湖を眺める想いへと、うっすら刷かれた雪雲から小雪ふる。
ふしぎな静謐がおだやかにねむる青と白の世界で、周太は光一の温もりに安らいだ。

…このひとが、好き…やさしい温もり、子供のままで透明で…

大切な「山」への想いを全て懸けた恋と愛。
純粋無垢なまま「無償の愛」を見つめる誇らかな自由。
最高の山ヤの魂が誇り高く告げてくれる美しい真直ぐな自分への想い。
そうして向けられる全てを受けとめていく、その想いが自分にも誇らしい。

英二を愛する自分の「無償の愛」は誇らしい。
そして光一に自分が贈られている「無償の愛」が誇らしい、ただ純粋無垢な愛がまばゆい。
その美しい愛が与えられるならば受けとればいい。
その美しい想いを受けとめられるのは自分だけ、ならば潔く受けとめ真直ぐに立っていたい。

…逃げない。真直ぐ受けとめてみせる、そして愛したならば守っていきたい…

舞いふる小雪のなか、幸せな時と記憶がふりつもっていく。
冬富士の麓、雪と氷の湖のほとりで佇んでいる、ふたつの想い。
ふたつの想いがゆっくり重ねあわさるのを、黒目がちの瞳は真直ぐ見つめていた。


高速道路のSAに着くとすこし夜食を摂った。
抱えた丼に温まりながら、光一は周太の笑顔を見つめてくれる。
愉しげな底抜けに明るい目が温かに笑んで、幸せに口を開いて周太と話していた。

「他にね、見たいものとかある?まだ夜は数時間ある、もうちょっと寄れるかな?」
「ん、…奥多摩のどこか、きれいなところ?」
「うん、いいよ。いくつか候補がすぐ挙げられる。…で、さ?訊いてもいいかな、」

やさしく微笑んで国村が訊いてくれる。
なんだろうなと首傾げながらも周太は微笑んで頷いた。
そんな周太を真直ぐ見つめながら光一は口を開いてくれた。

「本音を教えてほしいよ、ドリアード。
君はね、このまま黙って宮田のもとへ帰りたい?それともね、宮田にお仕置きしてほしいかな?」

「お仕置き?」

すこし驚いて周太は訊き返した。
かるく頷きながら国村は悪戯っ子に笑って周太に提案してくれた。

「俺はね、宮田が大好きだよ?でも俺はね、あいつに本気で怒っているんだ。
だから宮田にね、俺を怒らせた償いをさせたい。あいつに心底後悔させて、きちんと君に謝らせてやりたい。
そして怒りをチャラにしたい。そうしてね、また一緒に山も酒も仕事も愉しんで、あいつと一緒に最高峰へ行きたいよ。
だからね、ドリアード。俺はあいつにお仕置きをして、君と俺に償いをさせてやりたいんだ。それが宮田にも一番いいだろうから」

周太への真直ぐな愛情と、英二への偽らない友情。
そのふたつを大切にするために「お仕置き」をしたいと言ってくれている。
光一は純粋無垢な視点から真直ぐに物事を見るから、いつも的確な判断が出来ると英二も言っていた。
だからきっと程よい「お仕置き」が光一には出来るのだろう。

それに周太は本音を言えば、このままで英二とふたりきりで時を過ごしたくなかった。
また「体」を無理強いされたら?そう思うと竦んでしまいそうになる。どんなに愛していても「体」の恐怖はついてこない。
それも解って言ってくれている?そんな信頼感に微笑んで周太は頷いた。

「ん、…お仕置きしてほしいな、お願いできる?」

あかるい決断と愉しげに底抜けに明るい目が笑った。
そして誇らかな自由を映した透るテノールが宣言してくれた。

「よし、『お願い』してくれたね、ドリアード?じゃあ愉しいお仕置きをさ、朝になったらしに行くよ?
6時にビジネスホテルに戻ろうか。それまではね、ちょっとドライブしながらさ、雪の夜の美しさを君に贈らせてくれるかな?」

愉しいお仕置きってどんなだろう?
あかるい光一の言い回しには周太の心もほっと灯が点される、灯の明るい温もりに周太は微笑んだ。

「ん、はい…よろしく、光一」
「うん、よろしくされたよ?じゃ、決まりだね。さあ、どうしてやろうかな、」

愉快に底抜けに明るい目が笑った。
光一自身、大好きな友達でアンザイレンパートナーとして英二を大切にしている。
いったい「どうして」やるのだろう?悪戯小僧が思案する顔を眺めながら周太はココアを啜りこんだ。


6時にビジネスホテルに戻って、そっと静かに部屋の扉を開いた。
おだやかな朝陽が明るみ始めた部屋に入ると、すこしアルコールの香が残っている。
いつも酒には強い英二はアルコールの香が残らない、なのに今日はなぜだろう?
しかも英二が酔い潰されるなんて?不思議に思って周太は光一に訊いてみた。

「…あのね?英二は酒に強いと思うんだけど…どうやって、酔い潰したの?」

訊かれた光一は「ちょっと困ったなあ」と目が笑った。
けれど真白なマウンテンコートを脱ぎながら、あわい紅の唇を開いて白状してくれた。

「この部屋で呑ませたんだけどね?あいつが見ていない隙にさ、アルコール度数をちょっと上げてやったんだよ」
「…そんなこと、出来るの?…あ、光一は呑まなかった?」
「まあ、出来るよ?で、俺はさ、車を使うかもって言って呑まなかったよ。だから安心してね、」

光一は農業高校時代には酒造についても熱心に勉強したらしい。
それで驚異的なアルコール度数の濁酒を作る研究成果をあげたと英二にも聴いている。
その酒で同期の藤岡は大変な酔っぱらい方をしたらしい、だから今回は英二がそんな餌食になったのだろう。
いろんなことが出来るひとなんだね?感心しながら周太もダッフルコートを脱ぐとハンガーに吊るした。

「さて、眠り姫はどんな様子かな?」

からり笑って国村はベッドを覗きこんだ、周太も一緒に覗きこんで見た寝顔にため息がこぼれた。
おだやかに眠る白皙の貌は、すこし頬が紅潮して艶やかな肌がまぶしい。
濃く長い睫毛の蒼い翳がうす紅いろの頬へと落ちて深みが翳されている。
健やかな寝息がこぼれる端正な唇はきれいな紅を刷いたよう微熱をふくんで鮮やかだった。
いつもながら美しい寝顔に見惚れてしまう、ほっと息を周太は吐いた。
周太の隣で寝顔を眺めた光一は、ちょっと呆れ顔で笑ってくれた。

「ホントきれいな寝顔だね、まったくさ?これじゃ憎めないね、ズルいよなあ、ねえ?」
「ん、」

ほんとうに憎めない。健やかな美しい寝顔にかわいいと想ってしまう。
かわいくて嬉しくて微笑んだ周太に、うれしそうに光一も笑ってくれる。
そして底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑って周太に提案してくれた。

「さて、ドリアード?こいつを俺は大好きだよ、でもまだ怒っているんだ。
こいつは君を傷つけた罪人だ、俺は本気で怒っているよ。そして2度と同じ罪は犯させたくないね。
だからドリアード?こいつにね、キツくお灸を据える許しを君に貰いたいんだけど。許してくれるかな?」

光一が英二に据えるお灸。いったいどんなだろう?
きっとキツいお灸だろう、でもちょっと見てみたい悪戯心も起きてしまう。
なにより、この英二への不安とかすかな怒りを一緒に笑い飛ばせたら嬉しいだろう。
そしてまた屈託なく英二とも笑い合えるようになりたい、素直に周太は頷いた。

「ん、…お願い、光一。ちょっと英二をこらしめて?」
「ドリアードも懲らしめたいんだね?よし、じゃあ存分にやらせてもらうかな」

愉しげに細い目が笑って周太の瞳を覗きこんだ。
真直ぐに見つめて温かく笑むと、すっと雪白の顔が近づいて周太の耳元にキスでふれた。

「…ん、…恥ずかしくなる、よ?」

友達のキス、それでもやっぱり気恥ずかしい。
気恥ずかしいまま見上げた先で、たった今やさしいキスをくれた唇が微笑んだ。

「恥ずかしいだけ?」
「ん、あと…うれしい、よ?」

素直に応えて周太も微笑んだ。
そんな笑顔に幸せそうに微笑んで光一は周太にきいてくれた。

「さて、ドリアード?もうひとつ許可がほしいんだ。お灸を据える為にさ、俺は宮田にちょっとキスしていいかな?」
「え、…」

すこし驚いて聞き返すと細い目が温かく笑んだ。
そして悪戯っ子に笑って計画を教えてくれた。

「宮田にね、体を無理強いされる痛みを教えてやりたいんだ。
けど宮田はさ、体のことを愉しめるヤツだ。だからね、普通のやり方じゃあ無理強いでも愉しんじゃうだろうね。
でもさ?ドリアード、君の目の前で辱められたらね、宮田はさぞ堪えるはずだ。
宮田は誇り高い男だ、そういう男だったら尚更にね?最愛の人の目前で、されるがまま手籠めにされるなんて辛いはずだよ」

「…なに、するの?」

すこし不安になって聞いた周太に底抜けに明るい目が温かく微笑んだ。
大丈夫だよ?と目でも告げながら可笑しそうにポケットから一つの錠剤を取り出した。

「ちょっと強めの酔い醒ましをね、口移しで飲ませてやるよ。で、ちょっと狂言で脅かしてやろうかな」

信じて任せてよ?底抜けに明るい目が愉快に笑っている。
任せてしまう方がきっといい、明るい信頼感に周太は微笑んだ。

「ん、…じゃあ光一、お願いするね?」
「よし、お願い叶えるよ。ドリアード、…無理強いなんかね、二度と君にはさせない」

すこし切ない瞳で細い目が周太に微笑んで、しずかに耳元へのキスを贈ってくれた。
そっと離れると底抜けに明るい目が笑って誇らかに宣言した。

「さあ、宮田?復讐と報復の掟でね、おまえを今から裁いてやるよ?」

からり笑って国村はベッドの英二を抱き起こした。
さっさと器用にニットから脱がせて上半身を裸にすると、静かにシーツへ英二を沈めてから周太に振り向いた。

「さあ、ドリアード。君の王子さまを目覚めさせるよ?」

悪戯っ子に明るい目を笑ませて周太に笑いかけてくれる。
あかるく大らかな笑顔に周太も微笑んで頷いた。

「ん、お願い、光一?」
「よし。お願い聴いたよ?じゃあさ、そこに座って見ていてね。肯定も否定も絶対に言わないこと。黙っていてよ?」

明るく光一は頷きながらソファを周太に指さした。
素直に周太が座るのに微笑んで、コップに水を汲んで一口含むと光一はベッドの英二にかぶさった。
始めるよ?目だけで告げて悪戯っ子が笑ってくれる。
なんだか悪戯の共謀みたい、いつにない愉しい気持ちも可笑しくて周太は笑って頷いた。
頷いた周太に愉しげな細い目が笑いかけて、そっと白い指が錠剤を英二の口へ押し込んだ。

じゃあいくからね、
底抜けに明るい目が笑って唇の端をあげると、あわい紅いろの唇は端正な唇をふさいだ。

…あ、

きれいなキスシーン。
そんなふうに周太は見惚れて見つめてしまった。

かさなる美しいふたつの唇が艶めいて、つい視線が惹かれてしまう。
キスを重ねるままに、雪白の肌うつくしい頬が白皙の端麗な貌にふれていく。
キスで見下ろす漆黒の髪がダークブラウンの髪へこぼれ絡むようで艶麗だった。

やっぱり似合うな?ほっとため息が吐かれて頬が熱くなってくる。
知っている人のキスシーンは気恥ずかしい、警察学校の山岳訓練で英二が人工呼吸したのを見たことあったけど。
やっぱり気恥ずかしいな?ちょっと頭を掻いて周太はすこしだけ視線をずらした。
そんなずらした視界の端で、光一は英二の肩下に腕を差し入れて抱き上げた。
トンと軽く背を叩いて白皙の喉が飲み込むのを確認すると、悪戯っ子の目が周太に笑いかけた。

「…さあ、今からお芝居だよ?」

低くテノールの声が愉しげに笑ってくれる。
どうなっちゃうのだろう?英二に「体」を解ってもらえる期待に微笑んで周太は頷いた。

「…ん、」

かすかな吐息が端正な唇からこぼれて、すこし英二が身じろぎをした。
きれいな濃い睫毛がゆっくりひらかれていく、そして穏やかな眼差しが光一を見つめた。
切長い目の焦点が合うのを見定めた光一は愉しげに口をひらいた。

「おはよう、宮田?昨夜は激しかったね、」
「…え、?」

ゆっくり瞬いて切長い目が光一を見上げている。
きっと状況がつかめていないだろう、そんな英二を見つめ返して光一は誘うように説明した。

「昨夜はさ、酒に酔って最高に色っぽかったね、宮田?
ほんとにさ、最高の別嬪が最高にエロくなって誘惑するんじゃね?さすがの俺も理性なんか飛んじゃったよ。
お蔭で昨夜はさ、最高にイイ想いさせてもらったよ…愉しかったね?俺たちってさ、やっぱり体の相性もイイんだな」

光一の言葉を聴くにつれて切長い目が大きくなっていく。
かわいい顔になっちゃったな?そう周太が眺めていると、端正な唇がなんとか動いて英二は訊いた。

「…あのさ?国村…俺、おまえと、…寝たのか?」

大きくなった目のまま英二が光一を見つめている。
見つめられた細い目が満足げに笑って、心外なふうに光一は言った。

「あれ?忘れたなんて言わせないよ?おまえが俺を誘惑したくせにさ。
でもほんとイイ誘惑だったよ、宮田…まさに艶麗ってカンジでさ、頭も沸騰したよ?アレはイイよ、マジ眼福。癖になった」

光一が告げていく言葉に切長い目が困っている。
それでも英二は光一に尋ねた。

「そんなに喜んでもらえたなら、いいけど…ほんとに俺、そんなことした?」
「今更なに言ってるのさ?あんなに俺におねだりしちゃった癖に。何度もイっちゃっただろ、おまえ?ほんとイイ声だったね」

恥ずかしくなってくる言葉が連なっていく。
困ってしまう、熱くなる首筋を撫でながら周太は言われた通り素直に見ていた。

「ほんとに俺…そんな、だった?…でさ、周太と美代さんはどうしたんだよ?」
「そんなだよ、宮田?おまえはもうね、俺の『女』になっちゃったんだよ。なに、忘れちゃったわけ?」
「うん…ごめん、記憶ない…それより周太と美代さんは?国村、知っているんだろ?」

英二は周太のことを気にかけてくれる。けれど光一はその質問にはずっと答えない。
どうなっちゃうのかな?静かに周太が見守っていると光一が唇の端を上げた。

「ああ、知ってるよ?ほら、そこに座ってね、さっきから俺たちを見てくれてるけど?」

透るテノールの声に英二の視線が動いて周太を見た。
切長い目が一瞬ほっと安心して微笑んで、けれどすぐ真っ青になると目が大きくなった。

「国村、どいてよ?周太のとこ行かせて、」
「嫌だね、」

細い目が笑って英二の願いを明確に拒絶した。そして圧し掛かると光一は手際よく英二の両手を片手で拘束してしまった。
驚いたまま切長い目を瞠らいて英二は声を押し出した。

「離せよ、周太のとこ行かせて?国村、…っ、」

言いかけた英二に光一は、キスをして言葉を途中で奪った。
ふれるだけのキス。それでも英二は真っ青になって、視線だけ動かすと周太を見てすぐ睫毛を伏せた。

「やめろよ、国村?なんの冗談だよ、嫌だよ、周太の前で…嫌だ、」
「冗談?ふうん、冗談だと思っているんだ、で、嫌だと思ってるんだ?」

すっと底抜けに明るい目を細めて光一は笑った。
そして透るテノールの声が低められたまま質問を始めた。

「おまえさ、湯原が嫌がっているのに無理に抱いたんだろ?だから俺だってね、おまえが嫌がっても抱いて良いだろ?」
「あれは、発砲のこと話してほしくて…ああすれば周太、話してくれるから…」
「ふうん?話してもらう為ならさ、無理強いしても良いんだね。俺もね、おまえに話させたいんだよ、いまどんな気分がするかをね」

細めた目のまま笑って光一は英二の首筋に唇でふれ始めた。
両手を拘束されて身動きできずに英二は、されるがまま首筋を光一の唇にふれられていく。

「やめろ、…っ、くにむら、やめ…っ、」
「違うだろ、宮田?どんな気分がするのか話すんだろ?あ、こんな程度じゃ話してくれないんだね?仕方ないな、」

すっと細められた目が笑んで光一は開いている左手をブランケットのなかへ挿し込んだ。
とたんに端正な貌が怯えてもがこうとしながら英二は訴えた。

「嫌っ…国村嫌だ、お願いだからやめてくれ…!」
「なに言ってるのさ。おまえはね、もう俺の『女』になっちゃったんだよ?もう俺はおまえを好きにしていいはずだ、そうだろ?」

淡々と笑いながら国村は英二を制圧していく。
その合間にさり気なく周太を見て「冗談だからね?」と底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
その悪戯っ子な目が可笑しくて、その都度に周太は俯いてそっと笑いを堪えた。そして必死な英二が可哀そうで見ていられない。
けれど出来れば英二には、「体」に無理をされる怖い想いを理解してほしい。そしてもうあんな想いをさせられたくない。
いまは見ているしかないのかな?周太は光一に言われた通り黙っていた。

「嫌なフリしちゃってねえ?ほんとは俺のこと誘ってるんだろ?お前もさ、体で愉しむの好きだもんな?」
「違う、本当に嫌なんだ…お願いだから…やめてくれ…」
「へえ?なんでそんなに嫌なのさ?昨夜はあんだけ誘ってきたくせにさ、ねえ?」

白皙のまぶしい裸の英二に圧し掛かるよう迫る光一は、着衣のままでも凄絶な色気がある。
そんな様子は狂言と解っていても気恥ずかしい、目のやり場に困ってしまう。
そろそろ終わってほしいな?気恥ずかしさと英二が可哀想で、早い終わりを周太は願った。



【歌詞引用:EXILE「運命のヒト」】

(to be continued)

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第33話 雪灯act.10―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-10 22:28:56 | 陽はまた昇るanother,side story
やさしい時間、



第33話 雪灯act.10―another,side story「陽はまた昇る」

美代は立て続けに2,3曲を上手に歌うと時計を見た。
そして悪戯っ子にきれいな明るい目を輝かせて、ひとつの提案で周太に微笑んだ。

「あのね、湯原くんは甘いものも好きだったよね?」
「ん、好きだよ?」

素直に周太が答えると美代は急にコートを着始めた。
どうしたのかなと見る周太に美代は人差し指を唇に当てて微笑んだ。

「ほら、湯原くんも早くコート着て?急いで、」
「え、あの?」

一体なにが始まるのだろう?
驚いている周太に美代はダッフルコートを着せて、きれいにマフラーを巻いてくれる。
貸してくれた本の袋と鞄を持つと美代は周太の袖を掴んで、また人差し指を唇に当て微笑んだ。

「エスケープしよう?」
「えすけーぷ?」
「うん、ここからはね、『良いよ』って言うまで声出しちゃダメよ?」

なんだろうと首傾げた周太を引っ張ったまま、美代はそっと扉を開けると廊下の様子を伺った。
かるく頷くと笑って廊下へ出て急いでカウンターへと歩いていく。
そして手続きを済ますと店の外へと周太を連れ出してしまった。

「…声、ダメよ?」

かすかな声で言って人差し指を唇に当てると、あかるく笑って歩いていく。
袖を掴まれたまま周太は素直に美代と並んで雪道を歩いた。
どうやら美代は国村と英二に内緒でどこかへ周太と行きたいらしい。

…驚かせて、国村に「心配の仕返し」したいのかな?

飄々として滅多に驚かない国村と、卒配後は本来の性質が出て大人びた英二。
あの「動じないコンビ」はどんな反応をするだろう?
なんだか楽しくなって周太も微笑んだ。
そんな周太に美代も愉しそうに悪戯っ子の目で笑ってくれる。
その表情には哀しみはだいぶ消えてきた、それが嬉しくて周太はきれいに笑った。
けれど、どこへ行くのかな?白い梢の街路樹を見あげると、透明な紺青に星が響くように輝いている。

「…きれいだな、」

思わずつぶやいてしまって周太は美代を振り返った。
声を出しちゃだめと言われたのに?どうしようと想った周太に美代が笑ってくれた。

「もうね、声出して平気よ?」
「…あ、よかった。ごめんね?言われる前に…」

ほっとして笑った周太に美代は愉しそうに言ってくれた。

「ううん、こっちこそ何も言わずにごめんね?ほんとに星がきれいね?」
「ん、…ね、美代さん。どこに行くの?」

頷きながら訊いた周太に美代はきれいな明るい目で笑ってくれる。
そして明るい瀟洒な店の扉を開いた。

「ここなの、」

温かで甘い香りが頬にやわらかい、可愛らしい店内は花屋のようだった。
きれいな冬と春の花々がうれしくて周太は微笑んだ。

「きれいだね…花屋さんに来たかったの?」
「うん、でもね、この奥が本命、」
「奥?」

美代が花々の向こうへ連れて行ってくれる。
花々の奥かわいいアーチ型に開いた壁の向こうは落着いたカフェスペースになっていた。
花屋とカフェが併設される店らしい、カフェの壁には書架が備えられて本屋のようにも見える。
おもしろい店だなと周太が見回していると美代が教えてくれた。

「ここね、お花屋さんとブックカフェが一緒になっているの」
「ん…おもしろいお店だね?」

話しながら席に着くと美代がメニューを見せてくれる。
いろんな種類の紅茶やケーキが書いてある、どうしようかなと首傾げた周太に美代が訊いてくれた。

「あのね、好きなものなにかな?」
「ん、オレンジとか…ココアとかチョコレートも好きだけど」
「じゃあね、これがいいかな?チョコの生地にオレンジ乗っていてね、おいしいの」

そんなふうに教えて貰いながらオーダーをして、一緒に立って書架を覗きこんだ。
見ると植物の専門書も多く備えられている、うれしくなって周太は一冊を手にとった。
山の植生についての専門書できれいな写真もたくさん収められている、つい立ったまま眺めていると美代が笑いかけてくれた。

「ね、ゆっくり座って読もうよ。ほら、ココアも来たみたいよ?」
「あ、…ごめんね?」

お互い本を選んで席に戻ると温かい飲み物を片手にページを繰り始めた。
めくるページには奥多摩の植生も載っていて楽しい、裏表紙を見てみると買える値段が記されている。
これは買えるのかなと考えていると美代が気がついて教えてくれた。

「あのね、ここの本は買えるのよ?あとでお会計のときに持って行けばいいの、買っていく?」
「ん、買っていきたいな…良い本に会わせてくれて、ありがとう」

うれしくて周太は微笑んでお礼を言った。
美代も愉しそうに笑い返してくれる。

「よかった、きっと湯原くんならね、ここ好きだと思ったの。だから遊び来てくれたら一緒に来ようって、思ってて」
「ん、このお店、いいね?…花屋さんもあるし、ゆっくり本も選べるし…ありがとう、」

話しているうちにケーキの皿が運ばれて、ふたりとも本を閉じた。
美代が選んでくれたオレンジのガトーショコラは、オレンジの香と味がチョコレートと合っておいしい。
好みの味を選んでくれたのも嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、…これ、おいしい。選んでくれてありがとう、」
「そ?よかった、ここね、甘いものも美味しいの。でね、光ちゃんは知らないの、ここは」

悪戯っ子に美代のきれいな明るい目が笑ってくれる。
だから「エスケープ」なのかな?周太は訊いてみた。

「じゃあ、ここ…美代さんの隠れ家ってこと?」
「うん、秋に見つけたばかりでね、お気に入りの場所なの。誰かと来るのはね、湯原くんが初めてよ?」
「そうなの?…ん、うれしいな、」

友達の気に入りの場所に連れて来てもらう。
こういうことは周太にとって初めてのことだった、うれしくて微笑んだ周太に美代が言ってくれた。

「うん。…あのね?湯原くん、きれいになったね?…あ、男の子にきれいって、嫌かな?」

ことんと心が跳ねて周太は美代を見つめた。
周太は英二と想いを交してからは「きれい」とよく言われる、だから珍しいことでは今は無い。
けれど今日のタイミングで「美代に」言われると動じそうになる、それでも微笑んで周太は答えた。

「ん、嫌じゃないけど…そう、かな?」
「嫌じゃないなら良かった。…秋に会った時もね、きれいな男の子だなって思ったけど。前よりも、きれいになったね?」
「そう?…ん、なんかね、恥ずかしいな…でも、ありがとう、」

答えながら周太は心でひとつ呼吸をして、すこし心を落ち着かせた。
確かに自分は、きれいになっていても不思議はないかもしれない。
自分は英二の想いを受入れた翌朝には母に「きれいになった」と言われている。
そして今日は国村の14年分の想いを受けとめた、その純粋無垢な「無償の愛」は本当にきれいで心に響いてしまう。
あんなに綺麗な想いを受けとめたのなら、きれいになって当然かもしれない。

でも美代に言われると途惑ってしまう、美代が想う相手からの愛情が「きれい」の原因だから。
それでも自分は逃げないと決めている、国村の純粋無垢な想いを壊してしまいたくないと願っている。
国村の想いは14年前に雪の森で定まったまま動かない、それは誰にも止められない否定も出来ない。
そんな強い純粋無垢な想いを自分はもう、忘れてしまうことは出来ない。

忘れられない事は罪だろうか?
大切な友達の恋人である国村の想いを抱いたまま、ここに居ることは許されないだろうか?
それでも自分は美代の友達でいたい、国村の想いも忘れられない。どちらも大切で選べない。
だからもし、忘れられない事が罪と言うなら背負えばいい。

…美代さん、ごめんなさい…でも、大切にしたい。あなたも、あのひとも…

哀しみと覚悟をココアと一緒に啜りこんで周太は微笑んだ。
そんな周太を見て美代はきれいな明るい目で笑いかけてくれた。

「うん…やっぱりね、湯原くんはきれいね。なんか『ドリアード』みたいね?」

「ドリアード」その名前に心が響いていく。
それでも周太は睫をふせてココアを見つめたまま微笑んで美代に訊いた。

「…ん?…木の妖精の、ドリアードのこと?」
「やっぱり湯原くん知っていたのね?木の妖精だから知ってると思ったの。私はね、姉が読んでくれた本で知ったの、湯原くんは?」

楽しそうに美代が教えてくれる。
ココアから目をあげて見つめると美代は愉しげに周太に笑いかけている。
きっと植物のことだからと話してくれている、ちいさな哀しみを胸に収めて周太は微笑んだ。

「ん、父の本で読んで…お姉さんがいるんだ?」
「ちょっと年が離れている姉でね?さっきの歌も姉がカラオケで歌ってて覚えたの、あれって20年くらい前の曲なのよ」
「お姉さん、いいね?仲良しなんだね、」
「うん、近所にお嫁にいったのよ、だからよく会うの。兄もいるの、私は末っ子なのよ、」

美代は家族のことや畑のことを楽しく話してくれた。
農家の大家族に育った末っ子の美代はゆったりした温かい穏やかさがある。
その空気が周太には気楽で馴染みやすくて、美代の穏やかな明るさは話にもあふれて居心地がいい。
そんなふうに寛いで他愛ない話の合間、ふっと美代が寂しげな顔になった。

「ね、…湯原くんはね、ドリアードって本当にいると思う?」

寂しそうな顔の美代は真剣に周太を見つめている。
いつも明るい美代が寂しい顔、哀しむときは国村のこと。なんとなくだけれど周太はそう感じてしまう。
だから「ドリアード」も国村のことに関係して聴きたいのだろう、ゆっくり1つ瞬いて周太は唇を開いた。

「ん。俺はね、妖精とかいると思ってる…23の男が言うのって変かもしれないけど、でも、そう想ってるよ?」
「どうして、そう思うの?」
「ん、…あのね、美代さんは木を抱きしめて耳をつけたこと、ある?」

きれいな明るい目に微笑んで周太は訊いてみた。
訊かれて頷いた美代に微笑んで周太は言葉を続けた。

「木ってね、かすかな水音が聞こえるでしょ?あれがね、俺には心臓の鼓動に聞こえるんだ…そしてね、どこか木って温かい感じがして…だからね、木に妖精が棲んでいても俺は納得できるんだ…変かな?」

幼い日に父と母に話していたことを周太は美代に話した。
樹木や草花には命の「息吹」があると周太は心から感じてしまう、だから本音の話だった。
けれどこういう事を男の自分が言うと「女々しい」と言われる事も多くて、人には話さなくなった。
美代なら解ってくれるだろうか?そんな想いで見つめる先できれいな明るい目が微笑んだ。

「それって解るな?木はね、温かいよね…うん、ドリアード…やっぱり、いるのかな、」

微笑んで小さくため息を美代はついた。
そして内緒話のように美代は周太に教えてくれた。

「あのね?光ちゃんと私って恋人同士って言われる…確かにね、ちいさい頃からずっと一緒で、一緒が普通で自然なの。でもね、きっと…きっとね?光ちゃんが本当に恋しているのは私じゃない。光ちゃんが見つめるのは『ドリアード』なの…ね、こんなこと変かな?」

真剣に美代は「言ってること信じてくれる?」と周太に訊いている。
美代は周太がその「ドリアード」とは知らないで話し、信頼できる友達として周太に訊いてくれている。
こんなふうに美代と国村の想いに向き合うとは思わなかった、けれどもう固めた覚悟を見つめながら周太は微笑んだ。

「変だとはね、想わないよ?」
「よかった…あのね、ずっと誰かに聴いてほしくて…ね、聴いてくれる?」

お願い聴いてね?そんな目で美代が周太に問いかけてくれる。
きっと14年前の雪の森のこと。そんな予感を抱きながら周太は微笑んで頷いた。
頷いた周太に安心したように美代は話してくれた。

「光ちゃんはね、ちいさい頃から、ふっと行方が解らなくなる時間が毎日あって。それでね、どこ行っていたか訊いても、絶対に教えてくれないの。でね?ある日から居なくなる時間が急に長くなって…初めて帰ってくるのが遅かった日にね、私しつこく訊いちゃったの『なんで遅かったの?』って」

ふっとため息を吐いて美代は桃の香の紅茶をひとくち飲んだ。
周太も抱えたマグカップに口をつけて、心のため息と一緒にココアを飲みこんだ。
もう国村が遅かった理由は聴かなくても解ってしまう、そして「初めて遅かった日」がいつだったのかも。
そっとマグカップから唇を離して美代の目を見つめると、きれいな明るい目は微笑んだ。

「光ちゃんね、『ドリアード』って一言だけ言って、もう何も教えてくれなかった。小学校3年生の冬だった、それからずっと光ちゃんはね…1日に何時間か行方知れずになる、朝まで帰らない日もある。だからね、きっと『ドリアード』に逢いに行ってるんだって想って…それでね、姉に『ドリアード』は何かって聴いたらね、本を探して読んでくれて。それで私ね、ドリアードが森にすむ木の妖精だって知ったの…でね、納得しちゃったの。光ちゃんなら当然かなって…」

“行先も言わない 朝まで帰らない 気まぐれな癖 このままじゃもう 冗談じゃない”

さっき美代が歌った歌詞に載せた想いは「ドリアードを待つために消える」ことだった。
ずっと一緒にいた幼馴染が急に「秘密」を抱いて消えてしまった、その哀しみを美代は歌っていた。
14年前の雪の森で唯ひと時の出逢いに生まれた「山の秘密」に国村は朝まで周太を待ち続けたと美代は言っている。
いま聴かされた国村の14年の歳月の想いが切ない、そんな国村をただ見送るしかない美代の想いが哀しい。

  …山に白い霞がかかるみたいでね、あわい赤が朝陽みたいにきれいだ。佳い香でさ。見においでよ、また逢いたいよ?
   ん、…逢いに来るね?そして木に咲く花たちを見せて?

もし14年前の冬に国村と結んだ約束を、あの春の日に約束通り自分が果たせていたら?
けれどそれは出来ないまま過去へと流されてしまった、今更悔やんでも取り戻せるわけじゃない。

ふっと言葉が途切れたまま美代は俯き加減に紅茶を啜りこんでいる。
きっと美代は聴いてほしいことがまだ溜まっている、そっと周太は相槌を訊いた。

「当然、なの…?」

周太の声を呼び水のように美代は頷いた。
頷いて周太の瞳を見て微笑むと、口を開いてくれた。

「光ちゃんはね、『山』づくしでしょう?だからね、『山』の森で木の妖精と恋におちるのも…当然だと思って。ね、こういう考えって変かな?」

美代はほんとうに国村を理解している。
こういう恋人を持った国村は幸せだろうと思える、それでも国村が本当に見つめるのは美代ではない。そのことが哀しい。
どうしていいのか解らないと逃げたい気持ちが起きそうになる。
けれど周太が国村を拒絶しても、もう国村は周太を見つめることを止めはしない。いま聴いた話からも国村の本気が解る。
国村が周太に寄せた想いの14年の軌跡を聴かされて、国村の想いの深さを知ってしまった
もう逃げても無駄なこと、もう国村は動かない、そして自分も国村にすこしでも応えたい想いを誤魔化すことが出来ない。
そして大切な友達の美代からもこの今だって逃げたくはない。

聴かなくていい事、踏み込めない領域が人にはある。
けれど心と想いを重ねられる部分も人にはあるのだから、その精一杯で友達を大切に出来ないだろうか?
そんな可能性を想いながら周太は微笑んで美代に答えた。

「ううん、変じゃないよ?…『山』はね、不思議なことがいっぱいあるから。それはね、人間も同じで不思議なことがたくさんあるよ?そんなふうにね、父は教えてくれたんだ…本当にね、俺もそう思うよ?」

周太は美代の目を真直ぐに見つめながら話した。
そんな周太に美代はうれしそうに微笑んでくれた。

「うん、ありがとう。聴いてくれて信じてくれて、うれしい…今日、湯原くんに会えてよかった」

友達の笑顔がうれしいと素直に思える。
全てを話すことは出来ないけれど、出来る限り話していけたら友達として一緒にいられるかもしれない。
どうかこの大切な友達ともっと時を重ねられますように。祈りながら周太も微笑んだ。

「ん。俺もね、今日、美代さんに会えてよかったよ?」
「ほんと?良かった、あのね、私、湯原くん好きよ。なんかね、男の子だけどすごく話しやすくて、居心地いいの…なんだろうね?」

自分も同じように美代には想っている。
女の子とこんなに話したことは無かったし、男同士でもこんな話はしていない。
うれしいなと素直に微笑んで周太も答えた。

「ん、ありがとう…俺もね、美代さんは話しやすくて、一緒にいて楽しいよ?」

そんなふうに笑いあって穏やかな楽しい時間がうれしい。
雪つもる街を窓に眺めながら本と温かい飲み物で楽しんでいると、携帯の振動がふっと伝わった。

…あ、英二と国村、どうしたんだろう?

すっかり周太はふたりを忘れていた。
英二からの連絡かもしれない、そっと携帯をポケットから出して開くと知らない番号が表示されている。
なんだろうと見ていると美代が悪戯っ子の目で笑った。

「宮田くんかな?出てあげて、でも場所は内緒ね?」
「ん、…ちょっとごめんね?」

言いながら通話を繋いで周太は携帯を耳に当てた。
その受話口から聞こえたのは、透るテノールの声だった。

「ドリアード?いま、どこに浚われてる?」

なぜ知らない番号からこの声がこの名前で呼ぶのだろう?
驚いている周太に透るテノールの声が可笑しそうに笑って、そして教えてくれた。

「宮田のさ、携帯の充電が保たなそうだったんだよね。で、宮田は仕方なく俺にね、番号を教えてくれたってワケ」
「…あ、そうなの…驚いたよ?」

ほっと我に返って周太はようやく答えた。
そんな周太に電話の向こうは愉しげに笑って教えてくれる。

「居なくなっていてさ、驚いたよ?で、いま宮田はさ、充電するのにホテルに戻ってるよ。
 さて、ドリアード?俺はね、君を無事に迎えに行かなきゃいけないんだ、アンザイレンパートナーとの約束だからさ」

「ん、…そうなの?…ちょっと待ってくれる?」

そっと送話口を掌で握りこんで周太は美代を振向いた。
すると美代はもうコートを着て愉しげに笑って、周太に言ってくれた。

「そろそろ私もね、帰らないといけないの。駅まで一緒に行って解散しよう?だから10分後にお迎え来てもらって」
「あ、…でも、」
「ほら、10分後って早く言ってあげて?心配しているんでしょ、」

美代は英二が周太を迎えに来ると思っているのだろう。
ほんとうは違うのに?けれどいま説明するのも良いのか解らない。
国村は美代の携帯ではなく周太の携帯に架けてきた、こんなことにも国村は自分の優先順位を真直ぐ示そうとしている。
そんな想いを裏切りたくはなくて周太は、美代に勧められるまま電話に出た。

「今から、駅まで美代さんと行くから…10分後位になると思う」
「うん、わかった。もう居なくならないでね?ま、居なくなってもさ、俺は探し出すけどね」

からり笑って国村は「またすぐ後でね、」と言ってくれた。
そっと携帯を閉じてポケットにしまうと周太も、ダッフルコートを着て選んだ本を手にとった。
会計を済ませてカフェスペースから花屋のほうへ出ると花々がやさしい色あいに美しい。
あざやかな色彩のなかで、きれいな薄紅いろのチューリップが映りこんで周太は立ち止まった。
とても可愛らしい雰囲気がいい、ふと思いついて周太は店員に声を掛けた。

「すみません、このチューリップを1本いただけますか?あの、リボンかけてください」

可愛らしいラッピングの1本のチューリップを周太は受けとった。
そして通りへ出るとチューリップを周太は美代に渡した。

「きれいだったから、ね?…素敵な隠れ家を教えてくれた、お礼、」
「いいの?…うれしい、ありがとう、」

幸せそうに笑って美代は受けとってくれた。
美代は帰って自室で一人になれば国村のことで哀しみを思い出すかもしれない。
そのときに花を見て一緒に笑った時間を思いだして、すこしでも心が慰められたら。
そんな想いと微笑んで周太は河辺駅の改札口で美代を見送った。

「こんどは大会の後に、また奥多摩に来るのよね?」
「ん。きっと来れると思うんだ…またさっきのカフェとか行きたいな、」
「うん、また行こうね?じゃ、明日は気をつけて新宿へ帰ってね、公園も楽しみにしてるね?」

こんなふうに約束できるのは楽しい。
次にまた会う時は今日買った本の話が出来るだろう。
改札の向こうの階段へと美代が降りて行ったのを見送って周太は踵を返した。
そうして振向いた視界の向こう、雪の夜へ繋がるコンコースに白い姿が佇んでいた。

「おつかれさま、楽しんだみたいだね」

底抜けに明るい目が温かく微笑んでくれる。
明るい温もりがやさしい、素直に周太は微笑んだ。

「ん、楽しかった…お迎えごめんね?でも駅から近いし、大丈夫だったのに…」
「うん?俺が君に逢いたかったからね、」

さらり率直に想いを告げて細い目が温かく笑ってくれた。
こんな言葉にも心が傾けられていく、しずかに自分の想いを見つめて周太は2つの本の袋を抱え込んだ。
行こう?と目で笑いかけられて歩き始めるとテノールの声が話しかけてくれる。

「本を買ったんだね、」
「ん。…山の植物の本で…1つは美代さんから借りた公開講座のテキストなんだ」
「ああ、一千年生きる葉っぱの話だね?俺も借りて読んだよ、面白かったな」

同じように国村も植物に興味を持っている?
ちいさな嬉しさに周太は隣を見上げて訊いてみた。

「植物に、興味あるの?」
「うん、俺は兼業農家の警察官だからね。やっぱり興味あるよ?」

同じ興味を国村も持っている。
こういうのは素直に嬉しくて周太は微笑んだ。
そんなふうに話ながら歩いて、不意に国村が周太の左掌をとった。
なんだろうと見上げた先で底抜けに明るい目が愉しげに微笑んだ。

「こっちだよ?」

そう言ってビジネスホテルとは逆側の出口へと国村は歩きだした。
違う方向に驚いて見上げると何のことは無い顔で国村は笑った。

「こっちに車、停めてあるんだ、」
「あ、…わざわざ車で来てくれたの?」

なんだかいろいろ申し訳なくて恐縮してしまう。
悪いなと思いながら掌をひかれていくと見覚えのある四駆が停まっていた。
助手席の扉を開けてくれるまま周太が乗ると、運転席へと国村も乗り込んだ。

「シートベルトしめたね?じゃ、しばしドライブつきあってね」

やさしく笑いかけて国村はクラッチを踏んだ。
すぐに走りだす四駆が通りを抜けていく。雪に白い街並の底を見つめて周太はかすかなため息を吐いた。
この夕方に抱いた英二への怒りは収められて「無償の愛」も温もりを戻している。
それでも無理強いをされた体にショックが残されていて、かすかな恐怖と不安が影うつす。
どこか塞いだ心を見つめる周太の横顔に、透るテノールの声が穏やかに微笑んだ。

「あいつね、寝てるよ?」
「…え、」

意外な言葉に驚いて周太は運転席を振向いた。
前を見て可笑しそうに笑っている横顔に、遠慮がちに周太は訊いてみた。

「…でも英二、携帯の充電をしに行ったって…」
「ごめんね、あれは嘘。あいつの携帯から勝手にさ、君の番号を赤外線で登録した」

どういうことだろいう?
よく解らなくて運転席の横顔を見つめると秀麗な口元が笑った。

「ちょっと酔い潰しちゃったんだよね。ま、軽い報復だよ?」

報復。いま国村はそう言った。
報復は「復讐」ひどい仕打ちを受けた者が仕返しをすること。
なぜ国村が英二に報復を?驚いて見つめる周太の視線の先で、ふっと静謐が微笑んだ。

「俺のドリアードをね、傷つけてくれた『復讐』だよ?」

傷つけた「復讐」それは何を意味している?
静謐に微笑む雪白の横顔は、淡々とハンドルを捌いていく。
そして気がつくと四駆は青梅の街を抜けて山間へと車窓の光景は映り変わっていた。

…「体」のこと…気がついて、くれている?

運転席の静かな横顔に心の呟きがこぼれていく。
雪の森で国村は14年の想いを周太に贈ってくれた、そして鑑識実験の説明に周太の罪を軽やかに背負ってくれた。
それから「体」を大切にしたい周太の想いを英二に代弁してくれた。
そんなふうに今日1日の間に国村は、なんども周太を大切に守ってくれている。

そしていま「傷つけてくれた『復讐』」と国村は微笑んだ。
またいま「復讐」で周太を守ろうと国村はしてくれているのだろうか?
けれど「復讐」だなんて?
いま聴いた言葉の強い重みに途惑いながら運転席の静謐を見つめていると、静かに四駆が停まった。

「ドリアード、…宮田に、体を無理強いされたね?…隠さないでよ。俺にはね、解っているから」

透るテノールの声が低く周太の心にふれてくる。
言わなくても国村は解ってくれた?そんな安らぎに周太の瞳から涙がこぼれた。

「…どうして?…」

やさしく周太の涙を白い指が拭ってくれる。
細い目が温かく笑んで静かに言葉を続けてくれた。

「さっき、カラオケ屋で君を見て気がついた。宮田に君はかすかな怯えがあるね?…そして、あいつの言葉でも解ったよ」

カラオケ屋で国村は切ない想いを映した瞳で周太を見つめてくれていた。
あの時にもう気づいてくれていたの?見つめる想いの先で国村は微笑んで口を開いた。

「あいつね、こう言ったんだ。
『周太が泣いてくれた、周太は本当に心を見つめて愛してくれている。
心を大切にするように体まで大切に想ってくれている。それは俺には考えられない幸せをくれる。
それを国村は俺以上に解ってくれている。周太の想いを解ってやれなかった俺の甘さが責任だ』
こんなふうにさ、あいつ『体』も大切だって理解は出来たんだ。それがね、俺も嬉しかったよ?君の願いが届いたってね」

やさしい眼差しで周太に「よかったね?」と笑いかけてくれる。
そんなふうに英二が解ってくれた?そんな喜びがまた心に温かい。
そして自分の喜びを一緒に笑ってくれる国村のやさしさが温かで周太は微笑んだ。
やさしい微笑みが頷いてくれる、けれど、ふっと哀しみに目を細めて国村は続けた。

「けれど、…君が『泣いた』って言った。だからね、俺は確信しちゃったんだ。
宮田は君を怯えさせ、君を泣かせた。そしてね?君が愛する宮田に怯えるなんて…原因は1つしか考えられない」

底抜けに明るい目が哀しみと周太を真直ぐ見つめている。
きれいな透るテノールは静かなままに話してくれた。

「君は宮田の体を守るために、全てを懸けて俺に銃口を向けた。そのことの意味を俺は、あいつに話したよ。
俺はね、君の想いを宮田に解ってほしかった、そして君を幸せな想いに抱いてほしかった。
そうやってね、君の幸せな笑顔を俺は、見せてほしかったんだ。それなのに、あいつは、ね?…だから許せないよ」

想いを言葉に変えながら、周太を見つめる温かな細い目から涙がこぼれた。
底抜けに明るい純粋のままとめどなく涙とふるような想いがこぼれていく。

「許せない、君を傷つけるなんて、俺は許せない。
だからね、あいつ酔い潰してやったんだよ?酒で無理に眠りにつかせて、君との時間を奪ってやったんだ。
あいつはね、君との時間をいちばん大切にしているよ?だからね、…俺は、いちばん大切なものを奪って『復讐』してやったんだ」

許せないんだと純粋無垢な怒りが静かに微笑んでいる。
こぼれ落ちる涙のまま誇らかな瞳は周太を見つめていた。
そして悪戯っ子の目で笑った涙の頬のまま、あかるく透るテノールの声が言った。

「俺は宮田に訊いたんだ、どう俺に詫びてくれるつもりなんだ?ってね。
そしたら宮田は言ったよ、俺の気が済むようにしてほしい、何でも言ってくれってさ?
だからね、俺は遠慮なく気が済むようにしたよ?君を抱く権利をね、今夜あいつから奪ってやったんだ。あいつの望み通りにね」

言われた通りにしただけだよ?そして俺は許せないんだ。
そんな真直ぐな怒りが静かなまま明るく笑って涙をこぼしていく。
きれいに微笑んだ底抜けに明るい目が周太を真直ぐ見つめて、透明なテノールの声が周太に訊いた。

「ドリアード、どうか君の本音を俺に聴かせてほしい。君は今夜、心から望んで君の婚約者に抱かれたかったかな?宮田と夜の時間を過ごしたかったかな?もし君がほんとうに心から宮田との今夜を望むなら、あいつを目覚めさせてあげる。けれど、…けれど、ドリアード?」

純粋無垢な想いが底抜けに明るい目に笑っている。
どうか本音を聴かせてよ?そんな真直ぐな問いかけを周太の瞳へ見つめて国村は言った。

「ドリアード、君はね、今夜は俺との時間を過ごしたい?俺は君の体を無理強いは絶対しない、君を欠片も傷つけたくないから。だからね、ドリアード…もし俺が君と夜を過ごす権利を貰えるならね?俺は、雪の夜の美しさを君に贈りたい」

きれいに雪白の貌が笑いかけてくれる。
哀しみに涙こぼしても明るい目が美しくて、見つめながら周太はそっと訊いてみた。

「…雪の夜の、美しさを?」
「そう、雪の夜の美しい全てをね、俺は君に贈りたいんだ」

愉しい想いを底抜けに明るい目が涙の底にも映し出す。
そして透明なテノールの声が明るく歌うように想いを告げてくれた。

「俺がもし、君と夜を過ごすなら。俺は君に夜の雪の山を見せてあげる。
雪に凍りついた湖の、夜に輝く姿を君に見せてあげる。冬富士が夜に浮き彫りになる姿だって君に見せられる。
星明りに灯る雪の花を君に見せてあげたい、雪に響く星空の音だって君に聴かせてあげる。
そんなふうに、俺はね?いちばん大切な愛する君に、俺がいちばん愛する『山』で美しい雪の夜を贈ってあげたい」

誇らかな自由の明るい告白が温かい。
どんなに愛していても冷たい英二の無理解に触れた心の傷に、国村の純粋無垢な理解が温かい。
この真直ぐな想いに自分は「今夜」どうしたいのか素直に頷きたい。
きれいに微笑んで周太は真直ぐに、涙こぼす温かな眼差しを見つめた。

「ん、…一緒にいさせて?そして美しい雪の夜を、見せて?」

あかるい幸せな、純粋無垢な笑顔が咲いた。
純粋無垢な山ヤの魂が誇らかに笑う、そして透明なテノールの声が宣言した。

「うん、一緒に見に行こう。俺のドリアード…今夜は君に、俺の愛する雪の夜を捧げるよ」

誇らかな自由と偽らない想い。
そして真直ぐ純粋無垢な想いが、雪の夜に花開く。


(to be continued)

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第33話 雪灯act.9―another,side story「陽はまた昇る」

2012-02-09 22:15:55 | 陽はまた昇るanother,side story
それぞれの世界、想い重ねるいろ




第33話 雪灯act.9―another,side story「陽はまた昇る」

ゆるやかな芳ばしい湯気が黄昏の部屋に充ちていく。
湯がフィルターを透るやさしい音を見つめながら周太はため息を吐いた。
いま心も体も本当は痛い、抱かれておちた眠りから目覚めて最初に見た、あの笑顔の美しさに傷ついた。

「おはよう、周太?俺の花嫁さん、…ほんとに周太、きれいだね?」

きれいな優しい笑顔の英二。けれど体を無理に繋ぐことが周太にとって残酷だと気付かない。
以前の英二が複数の相手と体の関係を持ったことは聴いている、それを孤独を紛らす手段にしていたことも。
そんな英二にはきっと、周太が体を繋ぐ意味も重みも理解しきれない。
そして周太がどんな想いで国村に銃口を向けたのかも結局は解っていない。

それでも、きれいな笑顔が大好きで、見つめられれば嬉しいと想ってしまう。
そして今は「山の秘密」に国村への想いを抱いた分を、英二を大切にすることで償いたい。
けれど今はどこか寂しい心は寒々しくて、浴室へも一緒にはいることを頷いてしまった。
この体への残酷な仕打ちの寂しさに、少し英二と離れてしまえば自分の心に溝が生まれそうで怖い。

それでも明日の夜には新宿へ帰らないといけない。
この想いのまま帰っても英二を愛し続けられるのだろうか?
見つからない答えの出口が解らない、誰か救けてほしいと泣きそうな心が蹲っていく。

 …俺はね、君が幸せな姿を見つめたい、幸せな笑顔を見ていたい…
  君がいちばん愛するひとの元へ君を帰してあげたいんだ…愛するひとの隣はさ、いちばん幸せな笑顔になれるだろ?

明るい雪の森で告げられた美しい山ヤの真心が温かい。
青空のもと国村が願ってくれた、周太の幸せだけを祈る想いが温かでうれしかった。
けれどいま自分は愛するひとの隣で心からの幸せな笑顔にはなれない。

…ね、国村…俺はね、いま愛するひとの隣で、涙をこらえて笑っている、よ…

寂しい、哀しい、心も体も痛い。
そんな想いとコーヒーを見つめる周太の背中に、ふっと温もりがふれてくる。
振向いたすぐ傍で端正な白皙の顔が幸せそうに微笑んだ。こんな笑顔は狡い、心で責めながら周太は遠慮がちに申し出た。

「あのね、英二?…台所のことしている時はね、あぶないから…すこし離れていて?ね、年明けに家でも、お願いしたよね?」
「うん?周太、ここは台所じゃないよ?火も無いし包丁だって使っていない。問題ないよね、周太?」
「でも、お湯は熱いよ?…あぶないと思う」

いつもながら距離が近すぎて緊張してしまう、そして気恥ずかしい。
けれど今はそれだけじゃない。本当は今、英二に怒りを持っている自分がいる。

自分は英二に体を大切にしてほしくて国村に銃口をむけてしまった。
そのことを英二は知っていた、それなのに英二は自分の体を無理に繋いでしまった。
自分は罪を犯しても英二の体を守ろうとした、その意味を英二は解っていないから「無理」が出来てしまう。
なぜ無理に体を繋げることは、たとえ愛情からでも無理矢理なら残酷だとまだ解らないの?
こんな軽い考えの人間を守る為に、自分は罪を犯し国村にまで罪を背負わせたのだろうか?
こんなに傍にいたがるほど好きだというなら、なぜ解ってくれない?

…こんなに英二は軽く想ってしまう、すこしも解ってくれていない
 こんな事のために国村に…美しい山ヤの人生に罪を負わせて…哀しい、悔しい…どうして?

英二はたくさんの笑顔と幸せを自分にくれた。
13年前の事件の真実と想いを探して、父の想いも受けとめて、沢山の服を贈って、婚約の花束を贈って。
そんな大切なひとが自分の体を無理に繋いでしまった、この傷に裏切られた哀しみが時の経過と共に痛みだす。
そうした英二の強引な愛情が自分と国村が罪を犯した意味を呆気なく踏み躙っていく。

すこし距離がほしい、英二と離れて考えたい。
そんな想いと同時に今、このまま離れたら英二を見つめ続ける自信も無い。
けれど「いつか英二の為だけに掌を使う」そんな約束にこめられた幸せを信じたい。
どうしたらいいのだろう?途惑うまま見つめる切長い目が、やさしく穏やかに微笑んだ。

「ほら、周太?もうコーヒー出来たよ。ありがとう、周太」
「あ、…はい、」

遠のいている心は生返事になってしまう。
けれど英二は気付かず幸せそうに笑って、コーヒーを運んでくれた。

「かわいいね、周太は。ほら、座ろう?」

ソファに落ち着くと英二は買ってきてくれた食事をひろげてくれる。
こんな優しい気遣いが出来る英二なのに「体」のことだけは欠落ちている、そして生まれたすれ違いが哀しい。
それでも隣で笑顔見つめれば幸せで、だから尚更に唯一つの欠落が哀しくなる。

「Le dernier amour du prince Genghi」―源氏の君の最後の恋
光源氏の晩年を見つめる「無償の愛」に尽くした花散里の物語。

すべてに恵まれ美しく才能あふれた光源氏、けれど母の愛情に渇望して「無償の愛」を求め恋を渡り歩いて体を重ねていた。
その生涯の果に年老い盲目となった源氏を支えた花散里の「無償の愛」への報いは「名前を忘れる」という冷たい仕打ち。
そんな源氏と英二は恵まれた生い立ちと美しさ、母の「無償の愛」を渇望する想いも体への考え方まで似ている。
だから周太は花散里に自分を重ねてしまった、自分の名前を愛するひとに忘れられる哀しみを想って辛かった。
それでも愛された記憶に報いたくて、英二の体を大切にしてほしくて銃口を国村に向けてしまった。
けれど英二は源氏と同じで周太の「無償の愛」は解らない、解らないまま無理に体を繋げて幸せだと思っている。

自分の「無償の愛」は英二に届かない、そして自分は国村の「無償の愛」のまま罪を国村にも負わせてしまった。
そんな想いの哀しみに座り込んだままでも大好きな英二の笑顔を曇らせたくなくて周太は微笑んでいた。
そうして早めの夕食を摂りながら、英二は富士山の話をしてくれる。

「もうあのときはね、雪崩が起きるカウントダウンだった。
そして救助者の人がいるところは、雪崩が起きたら風に巻きこまれるポイントだったんだ。
だからすぐに行って救けなきゃいけなかったんだ。雪と風が強かった、ホワイトアウトも起こしかけていた。
それでね周太?俺たちは初めてきちんとアンザイレンを組んだんだ。そのお蔭で国村を救けることが出来たんだよ」

アンザイレンパートナー。
幼い日に父と穂高岳を見ながら聴いた話がなつかしい。
山を愛した父は「生涯のアンザイレンパートナー」に出会う憧れを語ってくれた。
同じくらいの体格と体重、同等の力量、そして深い信頼関係が求められると教えてくれた。

そして体格が大きい英二と国村は簡単には自分のパートナーを選べない、まして最高の力量を持つ国村は尚更だろう。
そんな国村は英二の力量に将来性を信じ指導して、世界の最高峰へ登頂するアンザイレンパートナーを組もうとしている。
そして2人は富士山で初めてアンザイレンを組み、そのことが国村の生命を救った。

きっと2人の信頼関係はまた深まっただろう、それを大切にしてあげたい。
そう思うと英二の「周太の体」への無理解は国村には気づかれない方がいい。

大らかに山ヤの自由な心で生きる国村は「山」への不敬以外では滅多に怒らないと聴いている。
そんな国村は周太を「山桜のドリアード」として「山」への愛情の結晶と14年間ずっと見つめてきた。
そういう国村はきっと、周太の体を英二が無理強いしたと知れば最も大切な「山への愛」を傷つけたと本気で怒りだす。
最高の山ヤの魂が大らかなまま発する怒り。それは冬富士の雪崩と似た何者にも平等に容赦しない冷厳が想われてしまう。
やっぱり国村には言えない、自分ひとりで見つめよう。ちいさな決意で見上げた隣で英二が微笑んで言葉を続けた。

「救助者を俺が背負っていた、それで国村はね、俺をザイル確保してくれていた。
そこへ雪崩でおきる強い風が吹き始めた。すぐピッケルを使って雪と風に体を支えたんだ。
けれど飛ばされた雪の塊が国村に直撃したんだ、そして国村はピッケルごと飛ばされた。それぐらい強い風だった。
でもアンザイレンザイルと確保用のザイルで俺と繋がれていたから、あいつは滑落しないで済んだ。
そして俺もね、周太?あいつを救けたくってさ、だから自分は飛ばされないぞって頑張れた。周太のこと想いながらね」

「…俺のこと?」

自分のことを想いながら英二は風雪に耐えて生還してくれた?
見あげた口もとに優しいキスを贈ってくれてから英二は微笑んだ。

「そうだよ、周太。あの時の俺はね、周太の笑顔をずっと見つめていた。
真っ白な視界のなかでさ、ピッケルを握りしめる自分の手を見つめながらね、心はずっと周太のことを見つめていたんだ。
そうやって俺はね、周太?絶対に帰るために耐えろって自分を応援したんだ。周太の笑顔の隣に帰りたい、それだけだったよ」

初雪の夜、このビジネスホテルの一室。
英二の無事を願って「絶対の約束」を結ぶために自分は心と体を全て捧げた。
英二が自分との幸せな記憶を抱いていれば、どんな場所からも自分の隣に帰りたいと強く願ってくれる。
そう信じてあの夜に1つの勇気を抱いて「絶対の約束」をこの体で結んだ。
それが英二と国村を生還させてくれた?それは自分の体を使った意味があったということ?
それは英二が少しでも体の意味を受けとめてくれていること。もし本当ならうれしい、そっと周太は訊いてみた。

「…俺のこと、忘れないでいてくれた?」

「もちろんだよ、周太?俺はね、いつだって周太のことばっかりだ。
山小屋でも、頂上でだって、周太のことばかり考えてた。それで国村にね、『おまえ嫁さんのことばっかりだなあ』って笑われた」

「頂上でも?…山小屋でも、…いつも?」

見つめる視界が水の紗に揺れ始める。
自分が体を捧げた「絶対の約束」がすこしでも英二の心に生きてくれている?
どうかお願い少しでも信じさせてほしい、そんな想いの真ん中で英二は愛しく周太を見つめて微笑んだ。

「そうだよ周太、最高峰の頂上で周太を想った。
山小屋の夜にも周太のこと想って、周太のことばっかり話したよ?
俺はね、周太?最高峰にいても、夜も昼も朝も、ずっと周太のことばっかりだったんだ。
周太が贈ってくれたクライマーウォッチを見つめてね、周太は何しているかなあってさ?つい、考えてた。周太ばっかりだ」

最高峰にも自分の想いを連れて行ってほしい。
そんな想いで贈ったクライマーウォッチを見つめてくれていた?
そして最高峰へ行っても自分をずっと想ってくれたの?少しでも「絶対の約束」に捧げた意味を解っている?

「頂上で…夜も昼も朝も、…うれしい、な」

かすかな期待だけでも幸せで、微笑みに涙がこぼれてしまう。
信じたい想いの期待が心を迫りあげる、このまま信じてしまえたらいいのに?
信じたい想いに英二の頬に掌を添えると周太は静かにキスをした。
どうか信じさせてほしい、自分の想いを解ってほしい、そんな想いを重ねた唇に遺したい。
どうか想いが遺せていますように。そんな祈りに離れて周太はきれいに笑った。

「英二…俺の想いを、最高峰に連れて行ってくれたね、…ありがとう」

最高峰へ想いは連れて行ってほしい、そう自分は願っていた。
たしかに英二は「体」を解ってはいなくて大切にする方法も間違えてしまう、けれど自分への想いは偽りない。
その想いに最高峰へも登ってくれている、そこで見た世界を自分にも聴かせてほしい。
すこしだけ明るい心になって周太は英二を見あげた。

「うん、周太。ずっとね、周太の想いと俺、一緒にいたんだ。だから頑張れた、そしてね、見つめた世界は美しかったよ」
「日本の最高峰の、世界?」
「そうだよ、最高峰の世界。冬富士はね、エベレストと同じ気象状況なんだ。
山頂の気圧は標高4,000mって言われている。そうやって日本ではいちばんの最高峰に冬富士はなるんだ。
そこはね、周太?雪の白銀と、青空と。蒼い雲の翳だけの世界だった。とても静かで、世界は人間のものじゃないって解った」

冬富士が魅せる「最高峰」の荘厳な世界。
そこは息づく命の気配はない、ただ雄渾な静謐に雪と氷が支配する冷厳の掟が充ちる世界。
そこへ英二はもう魅せられている、憧れが声に言葉に響いている。

冬富士の雪崩に国村は命の危険に晒され、英二も同じだったろう。
けれどふたりの雪の高峰への想いはなにひとつ傷ついてはいない、弥増す憧れだけがまぶしい。
そしていま話してくれる英二の笑顔がまぶしくて愛しいと想ってしまう。

このまま英二を信じて明日を見つめられたら?
そんな想いが幸せの気配と並んでいる、そして雪の森で見つめた「山の秘密」も共に今は抱いている。
抱いた「山の秘密」が純粋無垢な温もりに美しい、その秘密を共に抱いた美しい山ヤを想ってしまう。
英二が夢に立つパートナーでもある、あの美しい山ヤ。英二が自分の隣にいるように、あの山ヤも自分の隣に立っている。

ふたりは共に最高峰へ立つのだろう、その無事を自分は祈りたい。
それぞれに正反対の愛情で自分を守り見つめようとしてくれる、ふたりとも大切だから。
そんな想いの周太の両掌をとると英二は穏やかに掌へ唇をよせて、きれいに笑った。

「周太、俺はね?またあの場所に立ちに行きたい。周太の想いを抱いて、最高峰へまた立ちたい。
あの雪と空だけの世界に立つこと。きっとずっと、生きている限り望んでしまうと思う。
国村の為だけじゃなく、自分の望みとして、あの場所に生きたい。周太には心配をかける…でも、どうか許してほしい」

想いを告げる英二を真直ぐに周太は見つめて聴いていた。
英二の夢と誇りの場所「最高峰」そこへ立った笑顔を自分は見つめたい。
生きる誇りと意味を探していた英二のまなざしに自分は恋をした、その想いは今も変わらない。
今度のことで英二にかすかな不信も今は持っている、それでもこの恋は色あせてはいない。

…きっとね、英二への想いはもう、枯れることもできない、

そして今あらためて気がつかされるのは「想い」には割算は無いということ。
このいま国村への想いが時の経過と共に存在を大きくしている、それでも英二への想いは色あせてはいない。
ふたつの想いがそれぞれの色彩で鮮やかに心へ温もりを与えてくれている。
どちらも大切だと素直に想っている、それなら潔く真直ぐ向き合っていけばいい。
もうどちらからも逃げないと自分は決めている、この決意に抱いた勇気と温もりに周太は微笑んだ。
微笑んだ周太の瞳に穏かに笑いかけて英二は「約束」を告げてくれた。

「周太、あらためて約束する。
最高峰から周太への想いをずっと告げ続けるよ、そして必ず無事に周太の隣へ帰る。
俺は笑って山へ登るよ、そして必ず周太の隣に帰る。そうして俺は周太にね、今みたいに山の話をするよ。
そうやって俺は山ヤとして生きたい、周太を守って、ずっと周太を幸せに笑わせて、ずっと周太の隣で生きていきたい」

どうかお願いを聴き届けてほしいよ?切長い目が実直なまま真摯な想いに見つめてくれる。
この真直ぐな眼差しが自分はやっぱり好きでいる、そんな素直な想いに周太は微笑んだ。
今まだ「体」のことでショックは残っている、けれどこの真直ぐな想いには応えてあげたい。きれいに笑って周太は答えた。

「はい、英二…ずっと俺の隣に帰ってきて?そして、山の話を聴かせて?
そして時々はね、俺も山へ連れて行って?英二が見る世界を俺も見に行きたいんだ…
最高峰とかは無理だろうけれど、でも、そのクライマーウォッチが俺の代わりに、英二の立つ世界を見てくれる。
だから一緒に連れて行って、俺のこと想いだして?…英二を信じて、ごはん作って待っているから、帰ってきて?
そしてずっと英二の隣で生きていたい、英二の帰る場所でいたい…それがきっとね、俺にとっていちばん幸せなんだ」

英二が見る世界を一緒に見たい。
そして英二が帰る場所でいたい。

卒業式の翌朝に英二は周太のことで実の母親に義絶された。それ以来もう実家へは帰っていない。
そして英二は帰る場所は周太の隣だけにしてしまった。
それなのに自分が居なくなったら英二は帰る場所を失ってしまう。
だからやっぱり隣にいてあげたい、いまの英二の全ては自分と出会ったことから始まったのだから。

それでも14年前から甦った想いを見つめることも止められないだろう。
きっと悩むことも自分なら多くなる、それでも英二の隣でいたい。
たくさんの約束への想いと微笑んだ周太に、英二はきれいに笑ってくれた。

「うん、…ありがとう、周太。ほんとにね、俺…うれしくて、幸せだよ
だから周太?絶対に俺から離れて行かないで?必ず俺には全てを話して、そして俺に周太を守らせて。絶対に、」

守っていくために「全て」を話していく。
この言葉の意味はこれから自分が進んでいく父の軌跡の先のこと。
その軌跡の先で「全て」を話すことは警察組織の「禁忌」になっている。それを英二は知って話してほしいと願っている。
それは英二を危険に巻きこむことになる、躊躇いを見つめて周太は訊いた。

「…全てを、話すの?」

どうか自分を信じてすべて委ねて?そんな想いを映して切長い目が穏やかに見つめてくれる。
きれいに笑って英二は周太に告げてくれた。

「そうだよ、周太。今までも、これから先に起きることも、全て俺には話してほしい。
そうしたら周太が望むものはね、全て俺があげる。俺が周太を幸せにするよ?
周太が必要なものはね、全て俺が見つけて周太にあげるよ?だからすべて話して、そして俺に望んで?」

掌を包み込んでくれる長い指の掌は白くてきれいなままに見える。
けれど少し厚みを増して固くなった手のひらの感触に、英二の努力の痕が伝わってくる。
まだ「体」のことで心はすれ違っている、けれどこの掌は信じられる。
この掌が信じられることは隣で過ごした10ヶ月の記憶と想いで解っている。
それでも唯一つ「山の秘密」だけは話せないけれど、信じていきたい。ゆっくり瞬くと微笑んで周太は頷いた。

「はい、…全て話します。だから英二…幸せにして?」

これから先と今までの全てを、英二に話していく約束、けれど「山の秘密」だけは話せない。
この「山の秘密」は英二が愛する「山」での約束ごと、「山」に最も愛される山の申し子と結んだ絶対の約束だから話せない。
ね、英二?
全て話して解り合えるなら幸せだと俺も想うよ?
けれど英二と自分ではそれは難しい、警察官としても適性が違うように性格も違う2人だから。
そして英二が体を大切に出来ないことが自分には理解できないように、きっと英二は「山の秘密」を理解は出来ない。
この「山の秘密」に託された山の申し子の大らかな優しさ誇り高い「無償の愛」は英二には解らない。
だから話さない。


食後のコーヒーを淹れて飲みながら、英二は富士山や他の山の話もしてくれた。
そんなふうに夜の穏やかな時間を楽しんでいた19時すぎ、周太の携帯がきれいな曲を流した。

「…あ、美代さんから、」

携帯を開いて発信元を見た周太は英二を見あげた。
美代は昨日の昼間に電話をくれて、気晴らしのカラオケに行きたいと言っていた。
たぶん美代は昨日の冬富士の雪崩で哀しみと心配と怒りにゆれている、その不安を聴いてあげられたらいい。
けれどそこに国村も来るだろう、そうして4人が揃ったとき自分は何を想うだろう?
この電話出てもいいのだろうか?そんな想いで隣を見あげると英二は笑いかけてくれた。

「ほら、周太?きっと美代さん、カラオケの話じゃないかな?早く出てあげなよ」
「ん、…いいの?」
「俺は大丈夫だよ?ただし、周太の体が辛くなければ、だよ。それでね、俺も一緒させてって言って?」

周太の体を英二は気遣ってくれる、こんな優しい英二なのに「体を繋ぐ」ことは別になってしまう。
それほど英二は「心」と「体」を切り離して考えなくては生きられなかったのだろうか?
これほどまでに「母親からの無償の愛の欠落」は英二の心に欠落を作っているのだろうか?
それはどんなにか寂しく、哀しいことだろう?

英二は、すき好んで母親から愛されなかったわけじゃない。
英二は、「心」と「体」を切り離すほど冷たい哀しい孤独を、望んで抱いたわけじゃない。

英二の孤独は23年間かけて凍らされた哀しみ。
それを出会って10ヶ月足らずの時間で、全てを温め癒すことは難しくて当たり前だろう。
だからまだ英二が「体」を解らなくても仕方ないかもしれない。

そして自分はひとりっ子で両親の愛情を独占してきた、父の殉職は辛くても両親の愛情を疑うことなく信じ育てられている。
そんな自分が英二の無理解を責めることは傲慢かもしれない。

…やっぱり、受けとめてあげたい

英二の凍りついた哀しみを受けとめて温めてあげたい。
隣に咲く美しい笑顔の底にねむる哀しみに「無償の愛」が温度を蘇らせていく。
いま心が温かい、甦っていく温もりと微笑んで周太は英二に笑いかけた。

「ん、ありがとう、英二」

これで温かい心で美代の話を聴いてあげられる、やさしい温もりに微笑んで周太は電話を繋いだ。
繋いだ向こうから安心した想いと遠慮がちな気配が、やわらかなトーンの声と送られてきた。

「こんばんは、湯原くん…あの、ね?カラオケ、やっぱり一緒に行くのお願いしてもいいかな?」

そんなに遠慮しなくていいのに?
けれど自分には美代の遠慮がちな気持ちが解る、きっと美代はこの誘いを「わがまま」だと困っている。
でも友達の「わがまま」を聴けることは周太にとって初めてで、こういうのは嬉しい。うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、…いいよ?」

微笑んだ周太の返事に嬉しそうな気配が繋いだ向こうで明るくなる。
そして美代は、うれしそうに寛いで話してくれた。

「あのね、今、宮田くんも一緒にいるんだよね?」
「そう、」
「じゃあね、よかったら一緒に来てもらってね?せっかく一緒にいるのに、ごめんね?でも、宮田くんとも話せたら嬉しいな」

やっぱり美代は昨日の冬富士の雪崩に気がついている。
だから英二に雪崩のことと、国村といちばん親しい英二の考えの両方を聴いてみたいのだろう。
そういう美代からの信頼は英二も嬉しいだろう、この2人の繋がりも温かで周太は微笑んだ。

「よかった、喜ぶと思う」
「ほんと?よかった、迷惑かなって思ってて…うれしいな。それでね、あの、光ちゃんは私が湯原くんに電話したこと、知ってる?」
「あ、ん、」

光ちゃん。近しい親しい呼び名。
呼び名から国村への近しい想いを聴いて、心がすこし軋んでしまう。いま国村から寄せられる自分への想いを知っているから。
国村の幼馴染で恋人の美代、この国村の想いを知ったら何て想うのだろう?
美代は周太にとって大好きな植物の話をお互いに遠慮なく楽しめて、悩みを相談してくれようとする初めての友達。
この友達を失いたくない大切にしたい、その方法を見つけたい。

…吉村先生、俺でもきっと、答えは見つけられますよね?

昼間に吉村医師に話した「3つの想い」のことを想いながら周太は心で1つ呼吸した。
呼吸してすこし大きくなった心に、美代が気恥ずかしげに訊いてくれた。

「あの、ね?光ちゃん、来てくれるって思う?」

やっぱり美代は本音は国村に逢いたいのだろう。
怒るほど心配していた恋人に逢って無事を確かめたい、そんな美代の想いはよく解る。自分は新宿から来てしまった位だから。
同じ想いを抱いている友達がいることが嬉しい、その相手が国村だということが小さな痛みを伴うけれど。
この小さな痛みに自分の本音が知らされる。
いま英二への「無償の愛」をあらためて深められている、けれど国村への想いは生きている。

甦った14年前の雪の森の約束、「山の秘密」の温かな純粋無垢な笑顔と想い。
白銀と青空の美しい想いと記憶と約束は、もう枯れることはない。
そんな確信がたった数時間でも、あざやかに周太の心に深く根をはり豊かな梢を蘇らせている。
きっと14年の歳月を信じて雪の森に待ち続けた「山の申し子」の祈りが届いてしまった。
その祈りが自分は、心から嬉しくて、愛しい。

きっと国村は来るだろう、美代に会いに。
そして「山桜のドリアード」である周太に逢うために。
きっと来てしまうね?純粋無垢な笑顔の面影に微笑んで周太は美代に答えた。

「…きっとね、来ると思うよ?」

ほっと安堵する喜びが電話の向こうで生まれている。
この喜びも自分は大切に守りたい、ちいさな決意をまた1つ抱いて周太は美代の声に心を傾けた。

「うん、ごめんね、湯原くん?ありがとう…
 あのね、カラオケ屋なんだけど。河辺駅の近くなの、場所とか解るかな?宮田くんに場所を言った方が良いかな?」
「ん、わかるかな?あ、ちょっとまってね、替るから」

周太は携帯の送話口をそっと掌で抑え込んだ。
そして英二を見あげて携帯を差し出しながら、ちいさな声で英二に話した。

「あのね、英二?カラオケの場所、聴いてくれる?」
「うん、周太。解ったよ、ちょっと携帯借りるな?」

笑って答えながら英二は周太の携帯を受けとってくれると、美代と話し始めた。
美代と話し始めた横顔は穏やかで優しい、こんなふうに英二の本来もつ誠実な優しさは見えてくる。
このひとの本来の素顔は直情的だけれど実直で穏やかで優しい静謐を抱いている。
この優しさがいつか英二に「体」を大切にする意味を気付かせる、そう信じて見つめていたい。
ひとつの信頼に微笑んで周太はボストンバッグを開くと着替えを出した。

あわい水色とボルドーのボーダーニット、あかるい温かみのベージュの細身カーゴパンツ。
それから水色の縁刺繍がある白いTシャツと、きれいな水色の靴下。
どれも英二が選んで買ってくれた服ばかり、そして明るい綺麗な色ばかりを選んでくれた。
こんなふうに綺麗で明るいものと英二は自分を見つめてくれている、想ってくれる英二の気持ちが伝わってくる。
この英二の想いを信じて隣にいたい、そして幸せの温もりで英二の凍りついた哀しみを癒したい。
また今日のように何度も泣くかもしれない、それでも逃げたくはない。穏やかな意志と微笑んで周太は着替えた。

着替えてマグカップを洗うと周太はダッフルコートとマフラーをハンガーから外した。
明るい青みのグレーがきれいなヘリンボーン生地のコート、あわいブルーとボルドーにモノトーンのストライプのマフラ―。
これも英二が選んで買ってくれた、今回の登山ウェア一式も年明けに贈ってくれたもの。
こんなに全て英二が揃えてくれていることが申し訳なくて、このあいだも母に訊いてみた。
けれど母は「服を贈りたがる男の人っているのよね、遠慮なく喜んで着てあげるのが一番のお返しよ」と笑ってしまう。
けれど何かお返ししたいな?そう考えていると英二の話し声が終わって携帯を閉じる音が聞こえた。

「かわいい周太、」

きれいな低い声に名前を呼ばれて、周太は顔をあげた。
見あげた先で端正な顔はうれしそうに笑って、周太の頬にキスしてくれた。

「似合ってるよ?服、着てくれてうれしいな」
「ん、ありがとう…」

応えながらも頬へのキスが気恥ずかしくて、そっと周太は指で頬を撫でた。
ほら、もう自分はこんなふうに幸せな気持ちになっている。
さっき温もりを取り戻した「無償の愛」と与えられた優しいキスが嬉しくて周太は微笑んだ。

「あの、カラオケ、ごめんね?英二」
「どうして周太が謝るんだ?」
「ん、…英二に逢いに来たのに、美代さんとね、約束しちゃったし…」

答えながら周太は抱えたダッフルコートとマフラーに目を落とした。
着替えようとシャツを脱いだ英二の白皙の肌が気恥ずかしさに見られない。
警察学校ではいつも一緒にいたから風呂も一緒で、周太も平気で英二の前で着替えていた。
けれど卒業式の夜に初めて「あの時」を過ごしてからは恥ずかしくて仕方ない。
こんなにも自分は「体」にこだわるし大切で重大なこと、それを英二も解ってくれたらいいのにと願ってしまう。

「気にしなくていいのに?だって2人とも、会いたかったんだろ?」
「ん、そう。本の話とかもしたくて…それに美代さん、昨日の電話とか、哀しそうで…」

周太も美代と会いたい、会話を楽しんで一緒に時間を過ごしたい。
警察学校でも瀬尾や関根と友達になれて、新宿署で一緒の深堀とはいろんな話も出来る。
けれど本当に好きで興味がある植物や料理の話は美代としか周太は出来ない。
子供の頃も草花や料理が好きというと「男のくせに」と言われることが多くて、両親以外には話さなくなった。
いまは英二には話せるけれど、お互いに興味があるわけではない。
だから同じように興味を持っている美代と、遠慮なく満足するまで話したかった。

そんな大切な友達の美代がいま、国村のことで哀しんで悩んでいる。
その悩み哀しみを周太がどうにか出来るとは思えない、それでも一緒にいて隣に座って想いを聴いてあげたい。
一緒に泣いて笑えたら少しは美代の心の重さも楽になるかもしれない、そう思って周太は今夜は会いたかった。
そして美代の悩みの対象である国村とも、今夜は向き合いたい。
大切な友達である美代と、その想いの相手である国村と自分。その3人の想いをどう自分が見つめるのかを知りたい。

…美代さん、国村。俺はね、ふたりとも大切だよ?だから…向き合いたい

そして英二もそこに立ち会うことになる。
この4人の間に交わされていく想いと記憶の交錯を自分は真直ぐ見つめたい、そして1つ心を大きくしたい。
さっき英二への怒りも哀しみも見つめた果てに、英二への「無償の愛」を深く大きくできたように。

「はい、周太?お待たせ、着替え終わったよ」

大好きな声に顔をあげるとブラックミリタリージャケットを羽織りながら英二が笑いかけてくれる。
このジャケットコートは雲取山に登った帰りに新宿で着ていた記憶がある。
煌びやかなクリスマスのイルミネーションのなかで、山闇のような漆黒がビル風に翻ってきれいだった。
そして今この前に佇んでる端正な長身の姿もきれいで、記憶と今とに見惚れて周太は微笑んだ。

「行こうか?あの駅のカフェでね、美代さん待ってるよ。周太?」

やさしく微笑んで英二は周太の右掌を左手にくるんでジャケットのポケットに入れてくれる。
あの夜もこうして新宿のホワイトクリスマスを想わせる光を歩いていくれた。
幸せな初冬の夜の記憶の温もりを抱いて周太は、雪白い青梅の街へ出かけた。
歩き始めてすぐにマフラーが夜の山風にほどけて、首筋からこぼれそうになる。
気がついて英二は立ち止まるとマフラーを巻きなおしてくれた。

「ほら、周太?マフラーちゃんと巻こう?」

きれいな長い指が器用に動いて、温かくマフラーを巻いてくれる。
いつも上手だなと襟元を見ながら周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう…なんかね、上手に巻けないんだ、俺」
「周太、ほかは器用なのにな?でもそういうの、かわいいよ」

かわいい、そう言われて嬉しいと素直に想える。
言ってくれる端正な貌はやさしくて周太への想いが温かい。
この温もりにひそむ熱情に自分は掌をひかれて13年間の孤独と向き合い越えて来た、だから今ここに立っている。
だから。もし英二が愛してくれなかったら、自分は国村と再会できなかったかもしれない。
英二の独占で示す熱情の愛が、国村の大らかな無償の愛を14年の時を超えて甦らせた。

―… 周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ

本来の植生と違う場所で咲く花を見つけたとき、父はそんなふうに教えてくれた。
この言葉は雲取山でヤクシソウを見つけた不思議な想いに曳かれるよう甦ってくれた。
世田谷の高級住宅街に生まれ育った英二と、奥多摩の最高峰で生を受けた国村の繋がりにあのヤクシソウが重なっていく。

…ね、お父さん?ひとは、不思議だね…

父の記憶と一緒にふたりの想いを見つめるうちに、待ち合わせのカフェに周太は着いていた。
カフェに入って見渡すと、窓際の席でマグカップを前に本を美代が読んでいる。
美代とは初対面の雲取山に登った後以来だから、2ヶ月ぶりの再会で2度目の顔合わせになる。
それなのに昔馴染みの様にうれしくて周太は、すぐに隣へ行って笑いかけた。

「美代さん、こんばんは…それ、あのテキストだよね?」
「あ、こんばんは湯原くん、」

明るい瞳が愉しげに笑ってくれる。
笑い返してくれながら美代は座っている隣を「座ってね?」と示して勧めてくれた。
素直に座った周太に美代はうれしそうに話しかけてくれる。

「そう、話していたやつよ?よかったら貸してあげようと思って。読むかな?」
「ん。読んでみたいな、借りていいの?」
「嫌なら言わないよ?はい、これ袋も良かったら使ってね」

2ヶ月ぶりの再会、まだ会うのも2度目。
それでも美代は寛いで楽しそうに話してくれる。周太も寛いだ気持ちでマフラーを外しながら笑い返した。

「ん、ありがとう。これに長生きする葉っぱのことが書いてあるんだよね?」
「そうよ、このあいだ電話でも言っていた『ウェルウィッチア』について載っているテキストよ」
「ん。数百年から一千年も生きる、って言っていた植物だよね?…すごいね、植物って不思議だな…」
「ね?ほんとにそう。こんな面白いものがあるって、すごいね?」

ときおり美代と周太は他愛ない話で電話するようになっている。
美代は御岳駐在所でみかける英二の様子とJAで見聞きする新しい農品種などを話す。
周太は書店で見つけた新しい植物の本を読んだ感想や新宿のいつもの公園で見つけた珍しい植物の話をする。
ふと思い出したことを周太は話しだした。

「そういえばね、美代さん?環境省のレッドリストに記載された絶滅危惧植物の種子は、保存の取組みがされているよね」
「うん、そうだね。絶滅なんて、絶対に嫌だね…」

哀しそうな顔になって美代はすこし俯いてしまった。
こんなふうに美代は植物を本当に好きでいる、自分と同じ想いの友達が嬉しくて微笑むと周太は続けた。

「俺ね、つい最近に知ったんだけど。俺がいつも行く新宿の公園はね、普通種子保存システムのモデル施設になっているらしいね?」
「あ、じゃあ湯原くんがいつも行くのって、新宿御苑ね?」

勉強家の美代はやっぱり知っていたらしい。
よかったと思いながら周太も訊いてみた。

「ん、そう…美代さん、知ってるの?」
「うん。一度行ってみたいな、って思うんだけどね?
なんか新宿って都会って感じでね、気後れしちゃって…JAのイベントとかではね、新宿にも行ったことあるのだけど、ね?」

美代は周太と同じ23歳の若い女性でいる。それなのに「都会で気後れ」と言って困った顔になっている。
そういう美代の素朴さが周太には気楽になれる、楽しくて周太は微笑んだ。

「ん、新宿ってなんかそうだよね?俺もね、まだ慣れないんだ…でも、あの公園だけは好きだよ。居心地良いんだ、」
「やっぱりいい感じなのね?いいな、ね、もし行くなら案内してくれる?」
「ん、いいよ?植物園もあってね、面白いんだ」

いつ一緒に行こうかと話をしていると、前にマグカップが置かれて周太は見上げた。
見あげた先できれいな笑顔が微笑んだ。

「はい、周太?オレンジラテだよ」
「あ、ごめんね?英二、俺だけ座ってた…ごめんなさい」

美代を見つけて嬉しくて、寛いだ話が楽しくて、すっかり英二を忘れてしまっていた。
申し訳ない恥ずかしさで首筋が熱くなってくる、そんな周太に英二は優しく笑いかけてくれた。

「気にしない、お喋り楽しいんだろ?」

おだやかな低いきれいな声で言いながら「大丈夫だよ?」と切長い目が笑ってくれる。
やさしい静謐とソファに座ってコーヒーを啜る英二が、やっぱり自分は好きだと想ってしまう。
唯ひとつの想いに自分はこのひとに恋して愛し始めた、その想いはやっぱり間違ってはいない。
そんな確信と同じほどに、国村の「無償の愛」もきっと間違いないと確信がされている。
きっともう少ししたら英二と国村と、そして美代との3つの想いを自分は見つめることになるだろう。

…どれも大切で宝物の想いたち。真直ぐ見つめて正しい道を見つけたい

ひそやかな覚悟とおだやかな勇気が心に温かい。
見つめる自分の想いに微笑んで周太はマグカップに唇をつけた。

「これ飲んだらさ、カラオケ行こうか?ね、美代さん」
「うん、ありがとう…ごめんね、お邪魔しちゃって」
「いいよ?あとでまた周太とのんびりするし、」

英二と話している美代はきれいなあかるい瞳をしている。
けれど本当は哀しみと怒りを抱いてしまったことが周太には解る。
きっと遠慮がちな美代は、国村への心配や怒りも「わがまま」かもしれないと自責してしまう。
そんな美代の気持ちが周太には解る、自分自身がそういう考え方をする癖があるから。
いろいろ聴いてあげられたらいな?自分とよく似た考えをする友達を想いながら周太はオレンジラテを飲みほした。

初めて足を踏み入れたカラオケ屋は明るくてきれいだった。
受付カウンターで美代は馴れた様子で手続きをしている。
その様子を隣で眺めていると後ろから、透るテノールの声に話しかけられた。

「おつかれさん、ふたりとも。美代、昨日は天気予報、見てた?」

数時間前にも聴いた透明なテノールの声。
その声に聴いてしまう想いが昨日とは全く違っている自分がいる。
ゆっくり振向いて見上げると、雪白の貌を冬の夜気に紅潮させて明るく国村が笑っていた。
その隣には英二が穏やかな静謐と佇んで、きれいに微笑んでいる。

漆黒の山闇のようなミリタリージャケットコート姿の英二。
真白な雪山のようなミリタリーマウンテンコート姿の国村。

対照的な色彩と相似形の端正な長身が、それぞれの笑顔で佇んでいる。
どちらも本当にきれいで見惚れてしまう、そして不思議だと想ってしまう。
ふたりは最高峰へ登っていく運命に立つ生涯のアンザイレンパートナー同士、ふたり並んだ姿が似合っている。
そんなふたりと自分は14年の時と「父の殉職」をはさんで出逢った。
この出逢いの意味をこれから自分は見つめていく。

…どうか、大切に出来ますように

覚悟を見つめて微笑んだ周太のコートの袖を、そっと美代が掴んだ。
振向くと「一緒に来てね?」とあかるい瞳が哀しそうでも悪戯っ子の目で笑っている。
周太の袖を掴んだまま美代は明るく笑って国村に答えた。

「おつかれさま、見たけど?ね、湯原くん行こ、早く歌おう?」
「ん?…」

首傾げて微笑んだ周太のを袖を掴んだまま、美代は歩き始めた。
その力が意外な強さで引っ張られてしまう、驚いて周太は美代に訴えた。

「まって、美代さん、」

けれど美代は周太を曳いて廊下を歩いてしまう。
困って振り向くと、底抜けに明るい目がじっと周太を見つめていた。
切ない想いを映した眼差しに心響いてしまう、なにか声を掛けたくて周太は口を開いた。

「…国村、おつかれさま?」

ふっと切なさが和んで細い目が温かく笑んでくれる。
うれしくて微笑んだ視線の先で英二がやさしい眼差しで笑いかけてくれた。

「…あ、えいじ、」

言いかけた時に角を曲がって、ふたりの姿が見えなくなった。
ほっと思わずため息が出て美代を振り返ると、すこし泣きそうな顔になっている。
その泣顔の意味が自分には解る、周太は美代に微笑んだ。

「ん。…無事に、あえたね?」

無事に国村とまた会えたね、うれしいね?
そんな想いを込めた言葉に泣きそうな顔が振向いて、きれいな明るい目から涙がひとつ落ちて笑ってくれた。

「うん、…あえた…ありがとう、…わかってくれて…」

涙がまたこぼれかけた時、ちょうど割当てられた部屋の扉が現れた。
急いで美代は扉を開くと周太を引っ張り込んで、ぱたんと扉を閉めると微笑んだ。

「泣いたなんてね、絶対に光ちゃんに見せたくないの」

カラオケのコントローラーを持つと美代は適当に曲を入れていく。
そして涙と一緒に周太に笑いかけた。

「いまからね、大きな声で歌って泣くの。だから一緒にいて?」

どうか一緒に泣いてほしい、ひとりは寂しいから。
きれいな明るい目が真直ぐ想いを伝えて泣き笑いしてくれる。
大切な友達に「お願い」してもらえた、美代の想いが心に響いて周太は微笑んだ。

「ん。一緒にいるよ?…安心して、ね?」

気持ちが解るよ安心していいよ、一緒にいるよ?
そう微笑んだ周太の瞳からも涙がひとつこぼれて、見つめていた美代が笑ってくれた。
微笑んで美代がマイクを持った時、静かに扉が開いて英二が覗きこんだ。

「お邪魔して、ごめんね。ちょっと屋上に行っているから、ゆっくりしてね」

おだやかに優しい笑顔で英二が笑いかけてくれる。
優しい笑顔に安心したように美代が、いつものあかるい笑顔で英二に答えた。

「うん、ありがとう。ちょっと湯原くんを独り占めさせてね?」
「美代さんなら良いよ?周太、またあとでね、」

可笑しそうに、けれど優しい眼差しで切長い目が微笑んでくれる。
きっと英二の本音は周太を独占していたい、けれど友達の美代を大切にしたい周太の想いを優先してくれている。
英二は周太を想って理解しようとしている、その想いが幸せで周太は微笑んだ。

「ん、またあとでね、英二」

きれいな笑顔をみせて英二はそっと扉を閉じてくれた。
遠ざかっていく端正な足音を聴きながら、美代は周太に微笑んだ。

「宮田くん、ほんと優しいね?いいな、湯原くん」
「ん、そう?…でも結構、困ることあるけど…」

首傾げて答えた周太に美代が笑って、コントローラーを渡してくれる。
なにか歌ってねと言うことらしい、困ったなと思いながら選曲の画面を開くと美代が口を開いた。

「困ることなんてね、光ちゃんはそればっかりよ?あ、曲が始まったね、」

曲が始まって「また続きは後でね」と美代は笑って画面に向かった。
どんな歌を歌うのかな?画面を見て周太は、表示された題名に目が大きくなった。

『男』

ただ1文字だけの題名。
国村の論理を表現する言葉は「男」と「山」だろうと英二も言っていた。
そのまんまの題名が可笑しくて周太は笑ってしまった。
笑った周太に美代は悪戯っ子の目で笑いかけて、あかるい声で高らかに歌い始めた。

  何くわぬ顔して 違う女の話をしないで
  少しやさしさが たりないんじゃない
  
アップテンポな曲にのせて歌詞が次々と画面に現れてくる。
きれいな明るい美代の声が上手にビートを追いかけて歌い上げていく。
上手だなと感心しながら美代と画面を見比べていると、笑いながら美代が画面を指差して周太は字幕を見た。

  身勝手な癖 いいかげんもう 冗談じゃない

「…ふっ、」

思わず周太は噴出してしまった。
最高峰を真直ぐ見つめて山ヤの誇らかな自由に生きる国村の論理は、男と山ヤの精神なら当然の考え方になる。
そんな国村論理は同じ男の周太でも振回される程「自由」で、きっと女の子の論理からしたらさぞ「身勝手」だろう。
噴出した周太に愉しげに笑って美代はビートに乗って歌ってくれる。

  愛してると繰り返し言ってるじゃない
  “愛がたりない?”
  ふざけないで わがまますぎる 
  だいたい実は男なんて あまったれで情けなくて 
  だいたい いつも男なんて 自分勝手で頭にくる
  愛してると先に言ったからって 勝ち誇らないで
  そんなことじゃ愛は計れない

なんだか英二みたいな歌詞?可笑しくて周太は笑った、きっと美代にとってはそのまま国村を示すのだろう。
キーワード「わがまま」「自分勝手」「勝ち誇」そして「頭にくる」がはっきりしていて小気味良いなと想ってしまう。
こんなに明るく怒れたら気持ち良いだろうな?
明るい友達に微笑んだ周太に、また美代が悪戯っ子の目で画面を指差した。

  行先も言わない 朝まで帰らない 気まぐれな癖 このままじゃもう 冗談じゃない

冬富士の雪崩の話に限らず国村は「山」の話を美代には限られたことしか言わない。
そして想いのまま山へ行ってしまう「気まぐれな癖」に美代は昔からつき合わされて「冗談じゃない」も本音だろう。
こんなふうに明るく歌ってぶちまけてくる美代が愉しくて周太は笑った。
笑った周太に満足げに美代も笑って、あかるく大きな声で高らかに歌っていく。

  愛し方に答えないと知ってるけど 
  どうしてくれるの どうすればいい だけど

きれいな明るい目から涙がこぼれた。
「どうすればいい」そんな疑問への想いは周太にも解る。
ほんとうに、あんな自由なふたりを「どうすればいい」のだろう?考えると哀しくなる時がある。
けれど美代は涙こぼしながらも、きれいに明るく笑ってビートに乗って「国村への怒り」を高らかに歌った。

  だいたい いつも男なんて 自分勝手で頭にくる

歌いきると美代は、すっきりした顔でマイクを置いた。
すこし気恥ずかしげに周太に笑いかけて美代は口を開いた。

「ごめんね、こんなとこ見せちゃって…びっくりした?」
「ううん、すごくね、楽しかったよ?」

率直に周太は感想を述べて明るく笑った。



【歌詞引用:「男」久宝瑠璃子】

(to be continued)

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