無理に若返ってみても
一人ぼっちで勉強しているのは良くないって師匠に言われて、大学内で友達づくりもしたけど、やっぱ無理ですわい。無理に若返ってみても、あ、オレには毛がねぇじゃねーかって気がついたっすよん
(o゜▽゜)o
その毛(気)がねぇから、ってなバカばかり云っているから他人が引いちゃうのだなぁ。わははははは。
ま、性格的には、実に謹厳実直で、まじめに手足がくっついて、将棋の駒のごとく、四角四面に歩いているんだけどね。マジに。一度でもお話をしたらわかります。実に面白くもなんともない、ただのじじいだということが。まったくユーモアというものを解しないし。表情は深刻そのものだし。こんなじじいがなんでブログなんか書き始めたのだ?って思われることでしょう。
ここんところは、天台宗の円仁さんと、安然さんのことを調べて駄文書きをしていたら、分量が大幅に増えて、ちょっとこれじゃアカンと削減して・・という毎日でありました。なにしろあの膨大なる法華経から抜き書きをして駄文書きをしているのだから。聞いただけで気が遠くなりますぜ。よくまぁできたもんだ。暑いから、ちょっと頭もおかしくなったか。それは、ずっと以前からそうだったけどねぇ。
どうでもいいことばかり書いているから、余計おかしくなるのだな。いい加減止めようかと思うのだが、ブログも、論文もオレの表現したいという欲望には逆らえないようで。
表現ということに拘っているから、還暦すぎても学生でいられるのだと思う。それは確かだ。まったくそのとおり。できれば小説でも書いてみたいが、そりゃ無理だ。誰も読んでくれないだろう。それに、あれだ。私小説では勝負にならない。オレの人生なんか面白くもなんともない。ただの一介の田舎教師だ。田山花袋の田舎教師のごとき、痛切なる体験もない。あるいは、村上春樹のような他者に語ることでのできるような恋愛体験もない。なんにもない。漱石せんせのような、知的体験もない。あるいは西洋と東洋の知的世界の狭間にあって、戸惑っているというようなことも書けない。書いたら、ポーズをつけてやがる、バカ!と云われてしまう。禅は思想だとか、哲学だとか知ったかぶりをしている人も多いが、オレはそんな恥さらしを云うほど落ちぶれてはいない。あはははだ。
だって、最初から、落ちぶれているからだ。平家の落ち武者だよん。
落ちぶれるというのは、最初は高みにいたから落ちぶれるのであって、最初から平地を這いつくばっているオレのような人間に落ちぶれるということはないからである。
もっともあれだなぁ。こういうオレのひねくれたモノの言い方というのは、インテリには嫌われるようで。そもそも根拠を否定しているようなモノの言い方だって云われてしまうから。そうじゃないんだけどね。疑問におもうから、そのまま質問していくだけで。オレは、本当に、心の底から、出来の悪いできそこないだと自称しているし、他称もされているから。自慢するようなことも何一つないしねぇ。
そろそろ本論に入ろう(前書きが、いつも長いなぁ。。)。
今日から学校が始まるようだ。
ようだというのは、既に始まっている学校もあるからである。すでに始動しているってわけだ。それぞれの学校の生徒さんの登校すがたを見ていると、実にすがすがしい。元気いっぱいである。頼もしい限りである。希望に満ちて、明るい未来へむかって生きて行こうという意欲に満ちている。あああああああああああああ、いいもんである。じじいのオレまで明るくなる。わははははと(o゜▽゜)oたくなる。生命が伸びていくという姿は実に美しいものである。
ここら辺が、オレの面白くもなんともないという限界なんだな。だからオレには小説なんて書けねぇのだ。特に反社会性の傾向を持つものなんかゼッタイに書けない。不倫小説とか、恋愛小説とか、異常な性体験を書いた小説とか書けるわけもない。だからオレは現代小説に対して批判的なのだ。もう遅いのだ。職業生活があまりにも固かったから、ずっぽりと形にはまってしまっているのだ。
学校で学んでいる方々には云いたい。まだ形にはまっていないだろうから、余計につとめなさいませと。10代から形にはまることもない。自由自在に、自分の学問的な興味を追求したまえ!と申しあげたい。
そのために上級学校にいくのである。就職のためだけだと自己限定をしてしまうと世の中は楽しくなくなる。なりたいものがあるんだったら、就職のためと割り切って勉強するしかない。そんなのは苦痛ではない。就職するためにはやるしかないのだから。徹底的にやりゃあいいんであって、逃避しちゃアカン。
就職+αなんである。
それでいいのである。それで。
オレ?
田舎教師になるために、就職するために勉強したのだけど、そうでもない部分、つまり+αの部分を追求したくてこれまで生きて参ったので御座候。
その+αの部分は、高校生の時からの追求課題である。倫理社会の先生に惚れ込み、以来ずっとやっている課題である。そのセンセは東京大学インド哲学科卒のオレから見たら大天才であったし、今でも憧憬しているUセンセである。
ま、そんなこたぁどうでもいい。
これから学校で学ぶわけーしゅうたちを応援したいというだけである。
頑張ってねぇー。
(^_-)-☆
「実用的な知識や経験にしか価値がない」とずっと思っていたけれど、それは余りに短略的だったなぁと反省している。実用的な知識というのは、貨幣経済におけるすぐ使えるもの(すぐ廃れるものなのかもしれない)。合わせて贈与論的なすぐ使えないものを持っていることで、値が最大になるんだなあ。。
NHKオンデマンドで、「テレビで中国語」を見ていた。録りだめした。八月はちょっと医者に行ったりしていたからサボったのだ。結局、オレはこれで勉強するしかないかなぁ。できるかな?(>_<)ゞ
中国を勉強するのは、「今」でしょ」?あはははは。世の中ちょっとおかしな雰囲気だからこそですよん。(^-^)/
居住地の社会教育での中国語講座は、九月四日でおわっちまうのだ。困ったな。できの悪い不良学生だし、なんもモノになっていないし(>_<)ゞ。
後期から城西国際で、社会人対象の中国語講座があったような気がするが。有料で。明日、大学に行って聞いてきまひょ。
会社が傾いている時、「誰かが何とかしてくれる」と期待して残るのは危険。地位が上の人ほど、経営を立て直すより、残り少ない自分の任期を全うするよう、保身に走って何もしなくなる。危機感があるのは、若い世代なんだよね。会社のそんな雰囲気を察したら、堕ちる一方だから、一刻も早く脱出すべし。
【カスタマーレビューがありました】『虚無の構造』(西部 邁著 中公文庫)
【Amazon紹介文】「現代人の精神の奥底に巣くうニヒリズム。その内実を浩瀚な思想から捉え、頽落の生と訣別するための要諦を説く」
【Amazon】→ amazon.co.jp/gp/product/412…
18歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。
老人も中年も若者も、自分たちが一番正しいという誤った自信を捨て、無垢(むく)な感性を取り戻し、自分をもっと柔軟にしていけば、滑(なめ)らかな人間関係が生まれてくるはずです。
優れた芸術、優れた文学、優れた音楽…これに触れて、触れて、触れぬくことによって「質」の知覚が生まれます。「質」と「質」との微妙な差異を感じ分ける力も、人間の中に目覚めさせ、磨き上げることができます。 『エンデと語る』
今日ではレトリックというのは、詭弁を使ってでも人をどうやって説得するのかの話術だという風に思われているけれど、ギリシャ時代には、対象の「質」について、それと全く劣らない「質」をもつ話をすることだったのです。 『エンデと語る』
健康診断等の未受診者出現率。年齢差もさることながら,明瞭な学歴差があることも注目される。私の年齢層(30代後半)でいうと,中卒は大卒の2倍。 pic.twitter.com/0OaZ0rOja1
もの悲しい慰めのない感情が、新たに彼の胸を押しつぶした。彼はふいにこの瞬間、いや、ずっと前から、自分が言わなくてはならぬことは何もしゃべらず、しなくてはならぬことを何もしないでいるのを痛感した。 ―白痴
この世の現象全てはそれぞれの「質」をもっている。あるがままの質である。この植物、この花、この動物、この石…みんなそれぞれひとつの「質」をもっている。その「質」を知覚する。徹底的に知覚する。 『エンデと語る』
文学の授業―それは、ある意味では教えることの不可能なものを教えること、となります。つまり、「質(Qualitaet)」の知覚体験を教えることです。けれども、それは可能です。 『エンデと語る』
音楽の与える効果がほかの芸術の与える効果よりも格段に強力であり、またはるかにしみ入るように感動的であるというのもまさに音楽が意志それ自身の模写であるせいにほかならないのである。ほかの芸術は影について語っているだけだが、音楽は本質について語っている。
別れの辛さに馴れることは決してありません。幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。それが人間なのです。
神が初めに行ったのは、話すことでした。そして、話すことは、先程の意味での言葉なしで話すことですが、それは、そもそも精神の原理なのだと思う。それで、「精神は語り、心は泣き、知覚は笑う」と言われるのですね。 『ものがたりの余白』
どの樹木も、どのとりも、絶え間なく何かを語っている。ただ異なる形式の言語なんです。それは、形の言語であり、色彩の言語であり、音の言語なんですね。みんな言語です。みんな言語。この宇宙全体は、ただ言語から成っている。 『ものがたりの余白』
某女子大では女子大生の理想と現実の認識がズレ過ぎていて教授陣が本気でヤバいと思い「これからの時代はダブルインカムがスタンダード、男が仕事で女は家事の夫婦関係はもう難しいんだ。」ということを認識させる啓蒙活動をやってるらしいが学生達は聞く耳持たず相変わらず王子様を追ってるらしい。
私は「元気という病気です」とよく言います。ある講演会の司会者が、「瀬戸内さんの元気という病気が、ますます重症になるようにお祈りします」と挨拶して、会場が爆笑の渦となりました。
言語は、精神世界の、どこか深みからやってくる。どの新しい宗教も、そのように説いていると思います。つまり、この眼に見える世界は、たくさんの段階がある中で、最後の、いわば一番下の表現だと、あるエネルギー、あるいはある言語の、一番密度が高い表現だというわけです。 『ものがたりの余白』
今日も暑いが、さっき、孫がアナを開けていった障子のアナふさぎをしていた。汗だくになっちまった。10月にまた来る。どうせまた障子にアナを開けるのだろう。オレもやったからなぁ。人差し指を舐めて、ち... goo.gl/905S8U
求む!中国語を教えてくれる先生を。学校でもなんでも、知っているかた教えくださいませ。マジに。 fb.me/J8hWW7qC
存在するためには所有せねばならぬ。そして人間はその人がもつところのものである。有産の哲学とはこのようなものであり、ギュスターヴというなりそこないの有産者のそれも同様である。『家の馬鹿息子』
私自らは 宇宙の光に魅了されて 身を隠そうとしている。 だから予感よ、現れよ。 そして 感覚の仮象の中で 自分を失いかけている 思考の力の代わりに 力強く働け。-魂のこよみ-
昔の私なら、今更「ごんぎつね」や「新美南吉」を学ぶことになんの意味があるのかと、言っていたと思う(貨幣経済に直結しない知識だから)。でも昨日行った新美南吉を読み解くイベントによって、知識や意識の海がまた大きな放射状に広がった。大変よかった。