神谷美恵子流「老年」について
神谷美恵子「こころの旅」(日本評論社)を古本チェーン店から、昨夜買い戻した。塾の帰りに立ち寄ったのである。何度もこの著者の本は捨てては買い、また買い戻しては読みを繰り返してきた。...
神谷美恵子流「老年」について
神谷美恵子「こころの旅」(日本評論社)を古本チェーン店から、昨夜買い戻した。塾の帰りに立ち寄ったのである。何度もこの著者の本は捨てては買い、また買い戻しては読みを繰り返してきた。...
聞き役をつくろう
いつも心がけていることがある。
それが今朝のお題である。「聞き役」を作ろうということである。漠とした不安とか、将来どうするのだというものとか、生きているかぎり誰にでもあるのが、そうした葛藤である。致し方ないことだ。生きているかぎり、いつも順風が吹いてくるとは、限らないからだ。たまには、大嵐もある。先日のように台風がくることもある。
だからといって、自暴自棄になったり、命をおろそかにしたりということであってはならないのだ。
ヒトの生き方というのは、「考え方次第」であるというのが、オイラの根底にある。アメリカのプラグマティズムに影響されてから、ずっとこの立場でこれまで生き延びてきた。そう、まさに「生き延びて」きたのである。
あるいは、ヒトは解釈の生物であるとも思っている。あることをどのように、自分の心の中で解釈するかということが人生を左右する、と。
他人の不用意な発言をどう解釈するかということが、もっとも大切であるような気がするのだ。それでもって、どう生きるかが違ってくる。
これまで教育実践者として生きてきて、ほんとうにそう思うからである。
さらに云いたいことがある。それは孤独になってはいけないということである。一人で悩んでいるのはよくない。経験上、まったくそう思う。「聞き役」を作ることである。だから、あまり不用意に人間関係を、気安く、デタラメに構築しないほうがいいと思っているのは、そのためもある。信頼のおける相手でないと、聞き役を作ることはかえって危険ですらある。なんでもかんでも思いついたことを、ペラペラしゃべらないほうがいい。悪用される。ある意味で。
信頼のおける友人を作るべきである。あるいは、家族ならもっといいだろう。ただし、家族もいろいろな家族がいるから、余計なことを云うなという方々もいることは承知している。
父性的な安定感のある友人、母性的な全てを許容してくれるような友人とか、いろいろおられるだろうと思う。そういう方々に、「聞き役」をやってもらうのである。それでいいのである。たとえ解決策が出てこなくとも、聞き役に話すことによって、自分を逆に発見することができるからである。ここのところが一番重要であると思うのだ。
聞き役ではなくて「話す役」の方々は世間にゴマンといる。自慢型・自己主張の激しい方、上から目線で他人に説教ばかりしている自己欺瞞型・・・いろいろいるではないか。タイプ別に分けるとすれば。
そういう「話す役」に、自分の苦悩は云わないほうがいい。苦痛なだけだ。聞いていないと、「話す役」に徹しているヒトは、気分を害するから。自己陶酔しているだけなのだから。ある意味、アス*ルガー的な性格要因を持っているだけであるから。
愚生は、職業的に聞き役に徹してきた。それがオノレの適性にもかなうと思ってきた。正しかったと思っている。年若い生徒諸君に、どったけオノレの能力や人格が優れていると主張したって、そんなのは何の意味もない。そんなことはしないほうが、ずっといい。無知蒙昧のオレに話す役はできるわけもない。自慢できる材料が全くないからである。オレごときが。
何を悩んで、何が苦しいのかということを一緒に、共に手を携えていくことをこころ掛けてきた。つまらない価値しかないオイラのそれが出来ることであった。世界にたった一つの。
そんなことを今朝は考えた。
こころ安定した日々を、多くの若者に送っていただきたいからである。
さ、今日も元気に生きていきましょう!
笑顔で。
わはははははははは、と。
(^_-)-☆
考える葦。私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私を包み、一つの点のように呑み込む。考えることによって、私が宇宙を包む。§348
ただし、好悪感情が最初に来る方はちと危険である。好きだからクチをきく、嫌いだから相手にしないというのはいかがなものか。オレは仕事をしている時代には、好きも嫌いもない。誰でも話をしなくちゃならん... goo.gl/VLe6PH
今日は、花の半分だけ独身でござる。わははははは。晩飯になにを喰おうかなぁ。うれしくてうれしくて、わははわははである。嫌いな酒もちょこっと飲めるし。わはははははである。(三回目だ)
まだ院生室にいる。暗くなるまで読書して、打鍵して、それからだ。花の半分だけ独身生活。わはははである。わははは。(馬鹿じゃん?)
半分だけハナの独身生活を送っているつもりでいたら、なんと、配偶者が思ったより早く帰ってきたので、それでおしまい。もっとゆっくりしてくればいいのですよん。たまには。
仕方が無いから、スポーツジムに行きました。そして、帰りコンビニで酒を買って、呑みながらFBをやっています。ハナの独身生活のつもりが、なんだかエラクわびしいじじいの一日になっちまったです。
シュタイナーの著作を読むときには、決して彼を現代の大学教授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。彼自身、再三それを警告しています。しかし現実には、やっぱり彼の願ったのとは反対のことが行われている。 『エンデと語る』
学校と郷土芸能(民俗芸能)の話題がTLに流れてきた。僕は学校に子どもに関わる役割を集約させること自体に反対で、学校単位の部活動も止めたほうがいいと考えている。それは置いておいても、学校で郷土芸能を扱うのは難しいと思う。
学校向け・子ども向けにすることで、芸能が持つカッコよさや面白さがスポイルされてしまうこともあるのでわ。ワルい感じがかっこいいものだってあるんじゃない?郷土芸能ならなんでも「いいもの」だから学校でやるべし、ではないとおもう。