まったく、まったくどうしようもないなぁ。
能力が欲しいよん。
夢にまで出てくるんだから、退*のことが。(>_<)ゞ
まったく、まったくどうしようもないなぁ。
能力が欲しいよん。
夢にまで出てくるんだから、退*のことが。(>_<)ゞ
ま、いいか
今朝起きてから我が服装のセンスの無さに愕然となった。いつも服装にはまったく気をつかわない。裸でないっていう程度である。まったく話にならん。半ズボンに、ヨレヨレのTシャツでふらふら歩いている。しかも、右足には、圧縮靴下をはいている。左足はと見ると素足だ。なんともまぁお話にならない。一日中家には誰もいないからである。つまりじじのお留守番である。
古女房ドノもいない。あの方は料理の専門家だったから、今日は料理教室の講師で呼ばれていて、るんるんと出かけていったのだ。「行ってらっしゃませ」と律儀にオレはご挨拶を申しあげて、お見送りをして、さ、これからどんな悪さをしようかと考えていたのである。その前に、なんとまぁつまらんじじいルックスだと思ったのだ。ついでに云えば、朝、もう一回顔を洗おうとしたら、化粧台で化粧をしていらしたので、待っていた。そしたら何しにきたの?とのたまわれる。「顔を洗って、いい男になりたい」と申しあげたら、「は? もう手遅れだよん」と云われた。えらく傷ついたなぁ(>_<)ゞ。
それはともかく、外に出るときは、いちおうジャージくらいは着る。でも、あまり気にしないなぁ。だから、誤解だの猪八戒だの受けるのだな。着るモノは大事ですよ。そう思って現役時代は過ごしていたが、(ちなみにスーツを着ていたのだよん)学生生活をやっていると、これ反省事項だが、だんだんだらしなくなってくる。
今週の土曜に、浦安の明海大学に行く。なんどか書いてきたが、日本安全教育学会がある。午後の部で一番最初に一般口演があるから、登壇しなくちゃならん。このときは、いかなオレでもきちんと暑いのに、スーツを持っていく。でないと失礼になるからだ。当然である。
もう完全にリタイヤしたとはいえ、他者を相手にしたときは、それなりのマナーというものがあるから、いかなオレでも、それくらいのことはわかる。
しかし、オレは他者から攻撃されることはあっても、他者を攻撃したりはしない。しかも、たんなる噂話を信用して、あいはバカだとか、何しに来たのだとか、なんの実績もねぇのにあいつは何モンだ?ということをくっちゃべったりはしない。評価というものはシビアにすべきであって、対話をしたこともないのに、簡単に評価しちゃアカンと思ってきたから。
ま、どうでもいいようなことである。「ま、いいか」である。
これから就職しようという心配の無いオレは感じるのだ。本当に、どうでもいいことがたくさん世の中にはある、と。
ついでに云えば、この「ま、いいか」というのは大人の知恵である。年齢を重ねるとそういう諦めも肝心である。他者とのトラブルもそうである。あいつだけは許せねぇとか、ぎりぎりまで拘らないことである。被害を受けたならそうでもないだろうが、たいていの場合はつまらないことがきっかけで他者とトラブルを起こしているだけだから。
これは樋口恵子センセの読売新聞の人生相談に出ていたから、まったくそう思ったからここに書いてみたのだ。
「ま、いいか」である。
やり過ごす知恵である。他者は他者、自分は自分。他者の期待のために生きているわけではないだろうから。だからオレはゲシュタルトの祈りっていうのが好きなんだ。
GESTALT GEBET
ゲシュタルトの祈り
Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
Frederick Perls
フレデリック・パールズ
(この「ゲシュタルトの祈り」って、現役時代に教員として幾多の攻撃を受け、あるいは苦悩し、人間関係で悩んでいたときに《オレでもそういう時代があったんでっせ》、かの有名な国分康隆先生の著書で知ったのだ。それからオレは、国分康隆先生のおっかけになった。全著作と論文を収集して、ノートに至っては、5冊もあるような尊敬ぶりだった。後に校長になったときに、いろいろな会合で酒席を同じくさせていただいたときには、泪まで出たっけ。マジに。生涯の師である。)
しかたの無いときは、しかたがないのだ。
諦めが肝心ということでもある。
努力はする。たとえば、病気になったとき。治癒を目指して、努力することは尊いことである。それまで否定する気はない。
いろいろと考えさせられるなぁ。
今日も順調に、迷いの世界を生きて行くんでしょう。
オイラは。
Hahahaha
宮崎駿の引退を支持する 72歳の老人に「早すぎる引退」はないだろ - 常見 陽平 #BLOGOS blogos.com/outline/69220/
>大槻ケンヂ
>「ロックバンドの解散とプロレスラーの引退は信じちゃいけない」
去年の記事 防災訓練でした blog.goo.ne.jp/tym943/e/f8e15…
オレ、今日は驚いたんだ。今の若い衆というのは、かなりまじめなんだってことだ。院生室の前で薬学部の学生さんが必死に勉強していたし、1階でもそうだったのだ。誤解してたねぇ、オレ。
オレが学部生だったとき、44年前だけど、放任されていたし、あまり出来のよい学生ではなかったなぁ。本だけは買っていたけど。かなり。
正直、今の学生って、お付き合いがどうのこうのって、馬鹿なことばかりやっているもんだと思っていたが、全く違っていたよん。尊敬しちゃったです。この暑い中を勉強しているんだから。
マンモス大学ではないから、こういう姿が見られるのだね。オレも勉強しなくちゃと思って、はかどった、はかどった。音の世界と仏典などという文章は、ある意味のってこないと書けませんから(^-^)/
通学にクルマを使って、のんべんだらりとやってしまったが、ちと反省しなくてはならんなぁ。刻苦精励こそオレにふさわしいですな(o゜▽゜)o。
そして、1年かけて学振D1申請書を書き直し書き直ししながら勉強することで、マスター2年時の5月に申請書が出来上がれば最高だね。もらえなくても、さらに書き直してD2申請につなげる。
ドクター進学希望なら、マスター1年時から、学振D1申請書を書いてみるべき。最初の「これまでの研究」の部分は、実は「これから2年でやること」なわけだが、そこを書くことが修論の研究計画書になる。しかも、ドクターの研究計画をも書きながら考えることになるので、博論までの道筋が見えてくる。
人間生体が地上存在として意味を持つのは、全有機体が自我の道具であるときにおいてのみです。それが可能であるためには、まず自我の道具である血液系がそこに存在していなくてはなりません。しかし、他の組織系が血液形成を準備してくれて初めて、血液系が可能になります。-オカルト生理学-
人間の自由と未来における経過の先取りとが両立し得ないと思っている人は、次のことを考えてみよ。現在既に設計済みの家に来年居住することが決定的だからといって現在の自由が拘束されているだろうか。[…]人間は、自分の内なる本性に従って生きている限りは自分で建てた家の中で自由に生きていく。
この現実離れした炸裂する湿った日光と、5月7日の「闘牛」とを私は切り離して考えることはできない。私が大事に保存している品物は黄と青の二色の扇子が一本、それとグラネロの死に捧げられた大衆向きの薄っぺらな書物が一冊あるだけだ。『眼球譚』
夏空の高みへ 輝く太陽が昇り 私の個人的な感情を 果てしない空間の彼方へ連れ去る。 心の内部に予感が目覚め 暗い感情が 私に語りかける。 「或る神的存在が 今 お前を感じとったことを、 いつか必ず 知るであろう。」-魂のこよみ-
今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。 『はてしない物語』
「技法 kunst」と派生語が指示するのは、何らかの技芸や技術ではない。何かが与えられる時、必ず人間の企てという危険に曝されるという事実が指示されている。人間の企てが立ち上げられると共に危険が根ざすのだが、この企ては全く同時に危険を避けるために自由意志に訴える。-カントの人間学-
2013/09/07(土) 10:00~市井原の獅子舞(三匹獅子舞)・神楽舞 / 鋸東三区祭礼 10:00~玉前神社 抜穂祭 13:00~鴨川合同祭(大浦の担ぎ屋台) 13:00~宗吾霊堂 御待夜祭
錬金術の本当の根源は、哲学的諸洞察のうちにではなく、個々の自然探求者の〈投影〉体験のうちにこそ求められるべきである。錬金術の実験者たちは化学の実験を行っている間中、一種の心的体験をしていた。しかしその心的体験が本人には化学過程の特殊な状態としか見えていなかった。-心理学と錬金術-
自然界の生命を持たない領域を見ますと、そこには岩石や鉱物など、物質体しか持たないものがあります。そこから生体領域に上りますと、そこには生命現象の原因が内在するはずですから、エーテル体或いは生命体が浸透していると考えなくてはなりません。-オカルト生理学-
人間は、体と魂の諸分肢に新しい要素を結びつける。まず人間は、魂の低次の分肢の中に隠されているものを苦労して手に入れる。このことは自分の魂への「私」の働きかけを通して生じる。この働きかけは、低次の欲望や感覚的な享受に耽っている人間と高貴な理想主義者とでは大きな違いがある。
私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をすることがない。何も受け取らないし、何も与えることはない。独学者はものの数にも入らない。『嘔吐』
じじいの世迷い言。
(^_^)3 フムフム。
最近は、そんなことばかり考えてしまいますなぁ。わけーひとの邪魔しているだけなんじゃねーえのか?って。(^-^)/
一人ぼっちで勉強しているのは良くないって師匠に言われて、大学内で友達づくりもしたけど、やっぱ無理ですわい。無理に若返ってみても、あ、オレには毛がねぇじゃねーかって気がついたっすよん(o゜▽゜)o
オレ?
田舎教師になるために、就職するために勉強したのだけど、そうでもない部分、つまり+αの部分を追求したくてこれまで生きて参ったので御座候。
その+αの部分は、高校生の時から... goo.gl/OjgDkR
院生室のコンピュータ室に院生が一人いたけど、誰だかまったくわからん。参ったね。2年目なんだけど、オレは。わははははは。
さ、午後からは、音と声のコスモロジーの根拠となっている仏典にあたる。駄文書きをやるのだ。趣味だから楽しいもんですなぁ。
12:28 飯を食って一休み。午前中は七日(土)に日本安全教育学会での一般口演をするので、やったこともないパワーポイントを作っていたっす。細かくてかなり読みにくいですなぁ。
佐佐木隆「言霊とは何か―古代日本人の信仰を読み解く」(中公新書)。言葉にも霊が宿ると信じられていた…という「言霊」観を、実際にその言葉が使われた「万葉集」のうたの実例(3例しかない!)、また「古事記」「日本書紀」「風土記」神話を丹念に検証。そこからあぶり出されたのは…。
■「あなたが生まれたとき周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう。だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。」【作者不詳】