お地蔵さま、相手してくださいませ
台風の影響で、関東も凄いことになりつつある。無事台風が過ぎていってほしいものだが。自然の力だけは、わからない。人智を超えたところが、大自然の不気味さというものであるから。
京都の渡月橋がエライことになっている。Twitterで、橋の近くの船着き場を写真でつぶやいていた人がいた。見たら、よく知っている場所ではないか。料亭と和風旅館のある道が、水没しているのだ。びっくりした。西行法師とか、鴨長明が生きていたらなんと書くのか。
ともかく無事に過ぎていってほしいものである。それだけを祈る。
けふは、居住地にある大図書館に行くつもりである。昨日は、PDFを作りながら、同時並行でいろいろやっていた。PDFから、カードをとったり、メモを作ったりしている。これまた楽し。
ま、あまり強い台風なら、家に一日いるつもりだけれども。
Facebookにも相手にされなくなったし。字数オーバーって、FBのノートに書くべき話なのかな? よく知らないから始末におえない。もっとも、よく知らないからといってすっこんでいるほど、オレは臆病で無いから困るのだ。なんでも、やっちゃうのである。
積極性に優れているとガキのころの通知表には書かれてあったなぁ。担任の先生は、こんな馬鹿なガキをよく分析していただいたものと見える。ただし、亡母が、小学校の先生であったから、担任の先生方は、すぐオレの母親にオレの分析結果を通報する。これには困ったっけ。オフクロが、オレのことをなんでも知っているのだ。こいつはマジに困ったっけ。友人と喧嘩したのも、オフクロが知っているのだから。ついでに云えば、今度はオヤジがそれを許さないから、こぇ~~~って逃げるしかなかった。わははははははであった。
相手にされないというと、お地蔵様である。
石像だから、クチをきいてくれない。当たり前である。生きているわけではないからだ。そんなものをありがたがっているのではない。つまり、石像としてのお地蔵様は、オレにとっての鏡なのである。鏡。いいですか、鏡なんですぞ。鏡。(しつこいなぁ・・)
つまり、女にモテタイというようないかがわしい下心、エライ人に気にいられたいというスケベェ心、キタナイ手を使ってでも金儲けしたいという心、いくら食っても食い足りないという餓鬼道を生きている食欲の亡者、朝から温泉に入って怠けたいという怠け者の心・・他にもいっぱいある。そういうオノレの実にさもしい心を、鏡のように映してくださるのが「お地蔵さま」なんである。
神社に行ってもそうだ。拝殿の中には、たいてい鏡がある。あれを見るとオレは、いつも思うのだ。オノレの汚ぇ心を、映してみよ!というようなつぶやきに聞こえてしまうのだ。まさか神様だからTwitterで、つぶやいてくださるわけではない。そんなことが起きたら、びっくり仰天である。
オレは、なんの信仰もないから、つまり雑宗であるから、いろんなことを考えては楽しんでいるのかもしれない。それが熱烈なる信仰を持っておられる方々からは許せないことなんだろうと思う。然り。許されよ。この年まで、雑宗で来てしまったのだから、もう終わりである。
こういう邪念を持ったじじいでも、お地蔵様はニコニコ笑いながら、許してくださるような気がする。優しい目で、微笑みで。そうかそうか、って。オレのこのはげ頭をなでなでしてくださるような気がする。
これはあらゆる宗教に共通しているもののような気がする。救済を主張する宗教は特にそうであろう。ただし、不動明王はちょっと違うような気がするが。もっとも、この宗派だって理趣経という不思議な経典を持っているからなぁ。
おしまいにする。そういったものが、文学や宗教のある意味原点であるような気がする。
気がするというだけで、それ以上のものではないのだが。
ホントにおしまい。
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