NHK大河ドラマ太平記を借りて
レンタルビデオからNHK大河ドラマ太平記を借りた。1991年の放映だったそうである。愚生は、そのころは教育実践で無我夢中であったから、大河ドラマを見ている時間がなかった...
NHK大河ドラマ太平記を借りて
レンタルビデオからNHK大河ドラマ太平記を借りた。1991年の放映だったそうである。愚生は、そのころは教育実践で無我夢中であったから、大河ドラマを見ている時間がなかった...
つながり
宮本常一先生のつながりで、網野善彦先生の著作集を読んでいる。今日は第8巻の「中世の民衆像」っていう本を、断片メモをとりながらである。部分コピーもしながらである。「つながり」とい...
横から目線で話そう、話すならば
聞き書きという民俗学の調査方法がある。懶惰なオレも時にやらせていただく。これは、方法論とか、テクニックという面からだけで把握していると失敗する。学術的に有効だからといったスタンスをとっていると、誰も語ってくれない。そんなのは、村の古老には関係がないからだ。むしろ、最も怖れるのは、この話を聞いてあんたのご出世になるのかぇ?という懐疑をもたれたらオシマイなのだ。誰も、他人の出世のために、協力しているのではないからだ。そんなのはバカバカしいかぎりである。当たり前である。オレだってやらない。
ましてや、古老(オレも古老の変種だけど)たちは、自分の家の都合のいいことしか話さない。弱点や、恥はゼッタイに話さない。
それでいいのである。それで。
聞く方の人柄で勝負すべきだろうと思っている。ま、こうやって書くとまるでオレの人柄がいいからだと云っているようだが、違う。戒めなのである。いい聞き役に徹しないと、ヒトは語ってくれない。メモをとってもならない。全部記憶するしかない。
ありがたい限りではないか。いろいろなことを知ることができる。お堂が、昔ここにあったんだよと云われて文献で確認できたことがこの夏あったけど、しかも写真付きで確認した時は、非常に嬉しかった。
そういう人間関係が基盤に無いと、他人は語ってくれない。
普段の他人との会話もそうだろう。
一方的に、オノレの実績とか、仕事でいかに優秀だとか、オノレは将来出世間違いの無いエリートだとか、自分で云っている輩が世間にはゴマンといる。馬鹿馬鹿しい。聞いているのも嫌になる。だから、聞かない。そんなくだらない話は。黙って去っていくのが一番いい。しかし、そういう輩は、黙って去っていくオレの背中に「Shane!Come Back!」って云うのだ。十中八九、そう云うのだ。自分の話だけを聞いてほしいってわけだ。自慢話を。
そんな暇は無いのだ。
駄文を私家版として出版したいし、原稿も書かなくちゃならん。着々と、退学にむけて努力しているので、怠けていられないのである。趣味で大学院に在籍させていただいているということは、そういうことだ。年齢の関係で、これ以上在籍校にはご迷惑をおかけすることもできない。さらに、才能も、能力もない。若さもない。いかなオレだって、それくらいのことは分かって生きているつもりだ。甘さはない。渋柿のような渋さしかない。無いと云えば髪の毛も無い(^0^)。しかも、カオは、しわだらけだ。じじいだものなぁ。わはははは。
ここんところ、いじけていたので、駄文を書かないで、あちこちと優れた本を見て、考え事をしていた。才能の無さに、能力の無さにいじけていたからである。そして、そこから脱出した。
オレはオレだということに気がついたからである。
?
なんだ、そんなことかと笑われるだろう。いいんである。それでいいんである。オレはオレなのだ。つまり、オレのやっていることは、仏教民俗学みたいなものであり、民俗芸能学みたいなものであり、それぞれ「みたいなもの」としか形容しようのないものなのだとよーく分かったからである。そして、それこそがオレの個性なんだと気がついたからである。
上から目線でぐちゃぐちゃ喋ったり、生きているのではない。さりとて下から目線でいじけて生きているわけでもない。
あくまで併走しているだけだ。横並び。昔から得意だった。併走。
特徴が無いと云えば云えるかもしれない。前に出ることなく、後からガーガー喚くこともない。個性が無いということであろう。
しかし、オレはそれでいいのだと思っている。
現役時代のことはまったく話さないし、そういう関係の方々ともめったに会わない。会っても過去の仕事のことは話さない。もう全部忘れたからだ。わははははははである。
オレが、オレがの世界からは卒業したのだ。
そんなことに関わっていたら、死ねない。妄執である。そんなもん、誰も覚えていねぇってもんだ。世間から忘れられていくのが、世間というものだ。こだわらんことだ。
こういうテンは女性に学ぶことである。女性は、あっけらかんとしている。昔のことなんぞ、すっかりワスレテたくましく生きている。でないと、辛いからである。具体的には何も書かないけど、そういうもんであろう。あ、オレの配偶者は違うけどね。10年前財布をワスレテきたことを、いまだに覚えているから(^0^)。
つまらないことばかり書いていないで、これくらいにしまひょ。
これから学校に行くので。学校でも、孤独じゃな。コ・ド・ク。あたりめぇだ。62歳だ。今更、オレの青春を取り戻したいって云っても、バカじゃねぇかと云われるだけだ。わははははなのだ。自嘲しているしかないのだ。
じゃあ!
社会有機体の生命を維持するために、われわれは皆で働いている。そのために皆が、健全な思考と感受性、健全な意志と欲求を働かせている。本能的にではあろうとも、社会有機体は人間有機体と同じように、三分節化されて機能しているのだ。-社会問題の核心-
もし人間が自分は孤独のなかで価値を設定するものであることをひとたび認めたならば、人間はもはやただ一つのことをしか意志することはできない。それはあらゆる価値の基礎としての自由である。-実存主義はヒューマニズムである
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
天職というのは、その職に就く前に意識するものではないだろうと思う。退職したから云うことができると感じている。
オレは、こういうくだらない高校時代を送ったからこそ、若い人にアドヴァイスを... goo.gl/pEsZ9y
問題は、偉大な経済理論家でさえお金の本質を見通していないということです。さもなければ、インフレーションも黒い金曜日も存在しなかったでしょう。私たちは、確かに私たち自身で作ったにもかかわらず、見通せない何か、私たちの介入を避ける何かと関わり合っています。 『Zeit-Zauber』
初めに言葉があった。言葉は神のもとにあった。言葉は一柱の神であった。言葉は最初に、神のもとにあった。そこで全てが発生した。言葉を通さずには、何も発生しなかった。言葉の中に命があった。そして命は人間の光であった。
生きながら埋葬された男は、墓堀人の注意を惹きつけねばならず、さもなければ死なねばならない。ところでまさしく彼は棺の中に入れられ、墓穴になげこまれたために、声を聞いてもらえるチャンスを何一つ持たないのだ。『家の馬鹿息子』
六、所謂「聖なる」歴史は、それに相応しき名称をもって、呪われし歴史として、呼ばれるべし。「神」「救世主」「救い主」「聖者」なる語は、罵詈讒謗の言葉に、犯罪者用の記章マークに、利用さるべし。-反キリスト-
大抵の人間は自分本位です。特に女性は、自分中心に地球が廻っていると思っていて、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言うのです。思い当たることはありませんか。
☆ もうお昼か。時間のたつのは早いですなぁ。参った。ここんとこ、ちょっといじけていたが、駄文の構成を変更して、久しぶりにハイピッチで書けている。オレには、これが天職ですなぁ。ま、暇だから出来るのだけどねぇ。午後からは、図書館に行こう。借りた本を返さないと。(^-^)/
「汝ら、己を愛する者を愛するは、何の報いかあらん。税吏も、然せざらんや。安否を兄弟にのみ問ふは、人より何の過たる事かあらん。税吏も然せざらんや。」(マタイ5章46節)-「キリスト教的愛」の原理。結局は、しこたま支払ってもらいたいのだ。…-反キリスト-
もうすぐ学園祭の季節。実行委員はこういう企画はやめておきましょう(画像あり)。→「女子学生に牛乳をかけてなめる…学園祭でのイベントが問題に=韓国」japanese.joins.com/article/595/17…
僕は批評に限らず、すべてのものに対して懐疑的だが、自分の懐疑を楽しんだ事はない、楽しむ余裕なぞ持った事はない。僕は自分の精神の様々な可能性を出来るなら一つ残らず追求してみたいという不遜な希いにかられているだけだ。 (文学界の混乱)
生きているということは息を発していることだ。朗読とはイキることである。息ている声は生きている証拠になる。生命感は息の深さから感じられる。深い息による声は息息した声であり、生き生きした声である。ところが、世の中には息息した声が少ない。それどころか多くの人たちが息切れしているようだ。
Poverty is never felt so severely as by those who have seen better days. いわゆる栄華の夢を見た人ほど貧乏を痛感に感じる人はいない。
文化というのは、要するに需要がなくなれば滅びます。いろいろな伝統芸能も、公演をおこなっても観客が来なくなったら、それが消滅する時です。博物館も、見に来てくださるお客様がいらっしゃるから展示を開催できる。ですから、今後のためにも、ご来場になることで、支援していただきたいのです。
博物館の側に問題があったことは重々承知しております。「分かる人だけ来ればよい」という態度もあったので、責任は大きいのですが、近年かなり意識して反省・改善しておりまして、今回も、途中で力尽きた感はあるものの、いろいろな工夫を凝らしています。ご来場の上で、ご意見をいただきたいのです。
tmaita77.blogspot.jp/2013/09/blog-p…この記事で出した県別の大学進学率だけど,原資料(『学校基本調査』)にあたって追試をしてくださった方がおられる。学術研究が成り立つ条件の一つは「第三者による検証可能性」。データ公表の際は,可能な限りソースと手続きを明瞭に示す必要がある。
ひとつは・・・展示(10/8~12/1)を見に来てほしいのです。担当者や当館としてだけではなく、歴史博物館全体の問題として、古文書展は「絶滅危惧種」になりかけています。人気がないからと古文書展を開催できなくなった館も出始めていて、ここでこけたら「ほらやっぱり」となってしまいます。
結局今回の論文は、ある程度エディタで書いてからWordに移し、Wordの文末脚注機能を使っている。セクション区切りを使えば章末脚注になる。食わず嫌いだったが案外使える。