鯨飲 鯨飲 また鯨飲
久しぶりに鯨飲した。昨日、銚子で。
しかし、この鯨飲という単語はいい。実に気にいっているのだ。クジラのように呑む。しかも、お互いを許容しあうことができる方々と呑む。これは痛快である。あ、オレの古女房ドノに言わせると勝手な言いぐさだということになるか(>_<)ゞ
ま、許されよ。
オレの場合は、じょせーを口説こうとか、そういう下心はないから。わはははは。相手もいないけどね。
単なるおしゃべりである。しかも、これはかのソクラテス大センセも云われたごとく、おしゃべりは哲学なんである。マジに。だから、だれもオレのおしゃべりにつきあってくれないというのは避けたいのだ。哲学上の大問題でもあるのだ。特にじょせーに申しあげたい。オレのカオを見たら、逃げ腰になるのはWHY?なんだよん。損してますぜ。オレとの対話を拒否しているってぇのは。ナンチャッテ。
でも対話って大事でっせ。
対話をしながら、自己向上が図れるからだ。
自分にないものを得ることができるからだ。
この考え方は大事だ。自分にないものを求めるから、いいのである。男女関係もそうだ。自分にないものを求めているから。同性でもそうである。オレは男だが、相手が男であっても、たとえ気にいらない男であっても自分と違うものを持っているとなれば、敬意を持って接することにしている。
柔道が良い例である。
自分に無い技を持っているから、乱取りとか試合をするわけである。相手の技は実際に、組み合ってみないとわからない。たいていは、組み合った瞬間に相手の実力はわかる。お、この人は凄い!とわかってしまう。ということは、相手もオレのことなんかすぐわかるわけである。体格とか、そういうものである程度予想はつく。背が高ければ、内股とかの跳ね上げる技が得意だろうなとかわかっちまう。逆に背が低ければ、背負い投げでやられると気をつけるわけである。
やったことがある人で無いと、こんなことを書いても仕方がないのだけれども。
鯨飲というのは、柔道の乱取りと一緒である。
自分をさらけ出して、相手と対話を試みるわけである。こういうきっかけから、いろいろな飛躍をすることもある。だから呑めない人はそういうチャンスを逃していることになる。
オレも酒は大量には呑めない。2升も3升も呑めない。当たり前である。死んじゃうよん。そんなに呑んだら。すぐ酔っ払うし。それでも鯨飲をするのは何故か。
呑むことによって、対話を楽しんでいるからである。だから、カラオケをやらない。当たり前である。下手クソな歌を歌っていたら対話を楽しむことができないではないか。やむを得ずカラオケをやることもある。仕方がないからやる。大方の予想を裏切って、オレは演歌をやらない。どう見ても、唐獅子ボタンとかの*力団系統をやるのだろうと思われている。まさか。AKBはできないが。わわははは。
だから世の中のじょせーたちに申しあげたい。オレと対話をしたくないっていうのはソンでございますよんと。
云っても無駄だから、云わないことにしているが。
さ、今日も、チャレンジ・チャレンジである。
それが、オレのビジネスみたいなものだから。
(^_-)-☆