試練は、条件であるということ。病気もそうだったし、万事がそうだったのである。それがしみじみ理解できたのが、この一年間であったのだ・・・・けふはちょっと真面目に書いてみたけど
病気をするってぇことは、ある意味「試練」であって、そこから得ることのできるものは実に多い。去年、病気になったからこそ立ち止まって、いろいろと来し方行く末を考えるきかっけになったからである。
そして一番大切なのは家族であったとしみじみ気がついたからである。病気もそうだが、人生って決して偶然の所作ではなかったということである。
私も例外ではない。去年の今頃は、退院して九十九里浜の南方にある一宮シーサイドオオツカというホテルに泊まっていたのだが、そこで朝風呂に入っていて、脱衣所で失神したっけ。二回。結論から言って薬があわなかったのであるが(その後薬を減量して失神は二度となかったが)、得たものは大きかった。
入院そのものも、収穫がたくさんあった。
何しろ健康過信であったのが、修正された。過信から、実に慎重な生き方に変更されていった。食べ物も、運動も自分なりに工夫していった。おかげで、現在は非常に快調である。
当然、体によくない飲酒もやめた。だからもっと快調である。
飲酒をやめると、おバカキャラのミニスカオネーチャンのいるような隠微な酒場にも行かないようになった。実に健康的である。
あまりにも健康的であるから、もしかしてオレはもともとこういう道学者のような、堅物であったのではないのかと思ったくらいである。
論文も書かなくなったから、なんにも焦ることがない。実に快調である。
しかし、一昨日だったが、老人大学のクラスメイトに言われた。
「酒も飲まず、遊びもせず、なにを気晴らしにしているのか?」って。
わはははっははははっはははっはははは。
気晴らしはいくらでもある。バイトがそうである。塾がそうである。若い人々と語りあうことができる。これが一番である。さらに、ささやかであってもお小遣いをいただける。
これを気晴らしと言わずしてなんというのだろうか。
老人大学もそうである。気晴らしができる。老人大学は、正式な学校ではないから、それでいいのである。まさか履歴書に書けるような学校ではないからだ。老人大学が母校であったら、さみしいものである。
さて、冒頭の「試練」にもどろう。
「試練」は「大切な意味」というものを運んでくる。さらに言えば、なぜ人は「病気」という「試練」にあわなければならないのであろうかということを考えさせてくれる。
「試練」があるから、人は成長できるし、深い出会いがあるというものである。それがほんとうに実感できた。病気も、「試練」も呼びかけであったのだ。私に対する。
病気は、苦痛や障害を与えるだけのものではなかった。病気をきっかけにして、人は(私も含む)本当に大切なものはなにかということに気がつくことができる。
病気という「試練」をきっかけにして、人間性を豊かにし、人間的な広がりや、包容力、強さを持つことができるようになる。まさに実感である。私の場合。
また、病気は、たいへんな苦悩や葛藤を人にもたらす。それはそれでたいへんなストレスになる。私もそうだった。しかも、もう少しで学位を取得できるかもしれないという段階にあった。焦ってしまったのだ。高い学費を払って、毎日10時間以上も論文を書いていてそれなりに努力していたからであった。
東洋一の巨大病院の病室で考えていたことは、これでもってもしかしたら「まったく新しい人生が生まれてくるのかもしれない」ということであった。新しい人格が生まれ、もしかしたら自らを深化させていくことができるのではないかと思っていた。
だったら、「試練」こそ人生の宝であり、贈り物なのかもしれないではないかとふと思ったのである。病室のベッドで。
ここで、私は「脱皮」してしまったのである。
それからとった行動は早かった。
退学したのである。大学院を。むろん古女房ドノのせつなる意向もあった。バカみたいな夢を見ていないで、おとなしくしてほしいというわけである。
なるほどと思った。
健康第一である。たしかにそうである。健康でなければ、生涯学習ごっこどころの騒ぎではない。
しかし、私は「試練」と受け止めたのである。だから健康第一というように考え方をシフトしたということもあるが、むしろ「脱皮」したという方があたっている。
病気になって、初めて「この世は天国ではない」と気がついたからでもある。そもそも非常にネアカであるから、もしかしたら「この世は天国」かもしれないと思っていたキライがある。
しかし、現実の世の中は、試練や葛藤に満ちた理不尽さと隣り合わせの非情な世界である。耐えがたきを耐えて生きている世界である。
病気や困難に襲われない人間は皆無である。生きるということは、ままならない現実に出会うことであり、悲しみに出会うことであり、苦しみに出会うことである。
しかしである。
生きるということは、現実世界でしかできないこと、経験すること、その中でしか味わえない喜びと出会うことである。だから、病気という「試練」は、オノレが変わることという視点から見たら、「ただの条件」でしかないということである。強く生きていくための「条件」である。
受け止め方次第であると思うのだ。
うううううむ。
今日は久しぶりにまじめに書いてしまったなぁ~。ま、たまにはいいか。
じゃぁね~。
さらばです。