健康を損ねてまでもやる話ではなかったけれども、「健康法としての勉強」だと思っているのは、今でもそうだから・・・マジに。
健康になるためには、勉強しなくてはならない。そう思う。マジにそう思う。
なぜなら、年齢を重ねたときに、死ぬか生きるかということになった場合に、一番重要なのは頭を使っているかどうかということであるからだ。実際に病気を抱えていたらそれはそれで病気治しに専念するしかないが。
つまり「健康法としての勉強」なのである。世界の常識に「長生きをしたければ、勉強しないといけない」というのになってほしいと思っているくらいである。
生き残るために勉強しているのではない。あるいは、出世のために勉強しているのではない。
定年後の勉強は、受験勉強とはまるっきり違っている。当たり前である。これからなにかになってやろうとする若者と勝負しようとしたって、所詮目的が違っているからだ。それに勝負にならない。若い優れた頭脳と勝負しちゃいけない。かなうわけがない。
定年後は、受験勉強のように単にただ知識をたくさん持っている人間がエライのではない。つまり、インプット型の人間ではない。もっと言えば、「勉強部屋・書斎型の人」ではない。
逆に、することがなくて、ただひたすらニコニコしているだけの好々爺でもない。
これからは、ジジイになっても(むろんバー様になっても)、アグレッシブな人間が要求されるのである。それでこそ定年になっても、楽しい人生が(余生が)送れるというものである。
知識があればいいというだけの人は、インターネットにはかなわない。インターネットのような膨大な知識のデータベースと勝負しても、そりゃ勝ち目がない。
そんな誰でも持っているような知識よりも、考え方の面白さとか、いかに人を引きつけるかということ、アウトプットができるかどうかということが必須であるとさえ私は思っている。
だから、自分の知識の枠組みや、ものさし、ケイケンから一歩も出ないようでは、楽しくない。どーもジジイになると頑固になって、そういうものにこだわる老人がたくさんいるからである。ましてや、周囲にオノレの価値観や信条を押しつけて、得々としている輩もずいぶんいるからだ。
定年後はインプットとアウトプットの関係が逆になるべきである。受験勉強時代は、インプット最優先で、しかも締め切りがあった。受験日というやつである。しかし、定年後はない。あるとすれば自分の葬式かもしれない。インプットよりも、アウトプット優先で知識を吐きだす方がずっといい。吐き出すためには、努力しなくてはならないからだ。勉強しなくてはならないからだ。
定年後こそ、一時はやったゆとり教育的発想が大事であって、次から次へと発展学習をしていけばいいのである。
60歳を過ぎると、そこそこ勉強している方々は多い。受験勉強の延長で、好きなことに邁進して、それこそカルチャーセンターレベルになる人は多い。しかし、それは必ず飽きる。講師の言っていることが、いつも同じことしか言っていないと言って、歴史講座にもある時から来ない人がそれである。
並のレベルの勉強ではなくて、アウトプット型だと、それこそ大学や大学院に入って学び直しをするのもいい。研究発表の場も無限にあるからだ。学会で勝負してみるのもいい。
学会の懇親会で親しくなってしまうのもいい。激しくやりあうこともあるが、これまた楽し。
社会人を受け入れてくれる大学、大学院はたくさんあるからだ。通信教育もかなり充実している。放送大学をはじめとして。定年後の楽しみはスクーリング、というのもなかなか一興である。修士を取った武蔵野大学大学院では、88歳の同級生がいた。お会いするのが楽しみだった。彼は仏教学を専攻なさっていたっけ。
大学院の修士レベルなら、研究計画書と英語の力さえあれば十分戦っていける。
さらに人生ケイケンがある。社会ジンには。だから、自分が「何を知っているか」を十分見極めて、これから何をやってみたいのかを分析することである。
「コンサルタント系」をやってみたいとか、「こころの専門家とか身体の健康」等をやってみたいとか、「文化・宗教・歴史系」とか、「映画等の芸術系」とかいろいろとあるだろうと思う。
私の場合は、宗教や文学、歴史系である。とりわけ、今更宗教に入って特別な修行をするわけにもいかないから、アウトプットすることでもって、関連分野に興味を持ってきたのである。
そのために、大学や大学院を選ぶ場合は、けっして旧態依然たる大学を選んではならない。学生数や受験生の多さのみを誇る大学は若者向きである。就職に有利だとかなんとかということのみを宣伝している大学も、定年後の勉強には適さない。
名前で定年後の大学を選んではならない。
相性のあう教授がいるかどうかである。その一点である。しかも実際に授業をやっているのかどうかもチェックすべきである。中には、名前だけの教授もいるかもしれないからである。さらに、一方的に大教室でしゃべるだけの教授でもいかがなものか。
要するに大学院レベルの少人数授業でもって、指導していただけるかどうかが勝負の分かれ道である。
自分の研究テーマで選ぶべきである。それも5年から10年かかると思っていたほうがいい。
そしてそれなりの資金も考えていたほうがいい。定年後は、生活するカネと勉強するカネと一緒に考えて行くべきである。
それをである。
いつも暇だからと言って、海外旅行や、ジョギングばっかりにカネを使っていると完全に「惚ける」のである。
遊興の余生を送っていると、人間として魅力がなくなってしまう。
そりゃ、そういうのが好きな人にはいいジジイなんだろうけど、ちょいといかがなものかと思うのだ。
そんなことをやっているより、大学院に入って、アウトプットしやすい環境に身を置くことによって、バリバリできるジジイになることができる。
最後にくるのが、健康である。
あまりにも勉強しすぎて、健康を損ねないことである。もっとも、こりゃぁ~他人のことは言えないな。
私はそれでもって挫折したからで。
最後のオチは秀逸ですな。
わはははっははっははっははっはははは。