と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

「長生きをしたければ、勉強しないといけない」というのは、マジである

2015年12月24日 22時37分48秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

健康を損ねてまでもやる話ではなかったけれども、「健康法としての勉強」だと思っているのは、今でもそうだから・・・マジに。

 

 

健康になるためには、勉強しなくてはならない。そう思う。マジにそう思う。

なぜなら、年齢を重ねたときに、死ぬか生きるかということになった場合に、一番重要なのは頭を使っているかどうかということであるからだ。実際に病気を抱えていたらそれはそれで病気治しに専念するしかないが。

つまり「健康法としての勉強」なのである。世界の常識に「長生きをしたければ、勉強しないといけない」というのになってほしいと思っているくらいである。

生き残るために勉強しているのではない。あるいは、出世のために勉強しているのではない。

定年後の勉強は、受験勉強とはまるっきり違っている。当たり前である。これからなにかになってやろうとする若者と勝負しようとしたって、所詮目的が違っているからだ。それに勝負にならない。若い優れた頭脳と勝負しちゃいけない。かなうわけがない。

定年後は、受験勉強のように単にただ知識をたくさん持っている人間がエライのではない。つまり、インプット型の人間ではない。もっと言えば、「勉強部屋・書斎型の人」ではない。

逆に、することがなくて、ただひたすらニコニコしているだけの好々爺でもない。

これからは、ジジイになっても(むろんバー様になっても)、アグレッシブな人間が要求されるのである。それでこそ定年になっても、楽しい人生が(余生が)送れるというものである。

知識があればいいというだけの人は、インターネットにはかなわない。インターネットのような膨大な知識のデータベースと勝負しても、そりゃ勝ち目がない。

そんな誰でも持っているような知識よりも、考え方の面白さとか、いかに人を引きつけるかということ、アウトプットができるかどうかということが必須であるとさえ私は思っている。

だから、自分の知識の枠組みや、ものさし、ケイケンから一歩も出ないようでは、楽しくない。どーもジジイになると頑固になって、そういうものにこだわる老人がたくさんいるからである。ましてや、周囲にオノレの価値観や信条を押しつけて、得々としている輩もずいぶんいるからだ。

定年後はインプットとアウトプットの関係が逆になるべきである。受験勉強時代は、インプット最優先で、しかも締め切りがあった。受験日というやつである。しかし、定年後はない。あるとすれば自分の葬式かもしれない。インプットよりも、アウトプット優先で知識を吐きだす方がずっといい。吐き出すためには、努力しなくてはならないからだ。勉強しなくてはならないからだ。

定年後こそ、一時はやったゆとり教育的発想が大事であって、次から次へと発展学習をしていけばいいのである。

60歳を過ぎると、そこそこ勉強している方々は多い。受験勉強の延長で、好きなことに邁進して、それこそカルチャーセンターレベルになる人は多い。しかし、それは必ず飽きる。講師の言っていることが、いつも同じことしか言っていないと言って、歴史講座にもある時から来ない人がそれである。

並のレベルの勉強ではなくて、アウトプット型だと、それこそ大学や大学院に入って学び直しをするのもいい。研究発表の場も無限にあるからだ。学会で勝負してみるのもいい。

学会の懇親会で親しくなってしまうのもいい。激しくやりあうこともあるが、これまた楽し。

社会人を受け入れてくれる大学、大学院はたくさんあるからだ。通信教育もかなり充実している。放送大学をはじめとして。定年後の楽しみはスクーリング、というのもなかなか一興である。修士を取った武蔵野大学大学院では、88歳の同級生がいた。お会いするのが楽しみだった。彼は仏教学を専攻なさっていたっけ。

大学院の修士レベルなら、研究計画書と英語の力さえあれば十分戦っていける。

さらに人生ケイケンがある。社会ジンには。だから、自分が「何を知っているか」を十分見極めて、これから何をやってみたいのかを分析することである。

「コンサルタント系」をやってみたいとか、「こころの専門家とか身体の健康」等をやってみたいとか、「文化・宗教・歴史系」とか、「映画等の芸術系」とかいろいろとあるだろうと思う。

私の場合は、宗教や文学、歴史系である。とりわけ、今更宗教に入って特別な修行をするわけにもいかないから、アウトプットすることでもって、関連分野に興味を持ってきたのである。

そのために、大学や大学院を選ぶ場合は、けっして旧態依然たる大学を選んではならない。学生数や受験生の多さのみを誇る大学は若者向きである。就職に有利だとかなんとかということのみを宣伝している大学も、定年後の勉強には適さない。

名前で定年後の大学を選んではならない。

相性のあう教授がいるかどうかである。その一点である。しかも実際に授業をやっているのかどうかもチェックすべきである。中には、名前だけの教授もいるかもしれないからである。さらに、一方的に大教室でしゃべるだけの教授でもいかがなものか。

要するに大学院レベルの少人数授業でもって、指導していただけるかどうかが勝負の分かれ道である。

自分の研究テーマで選ぶべきである。それも5年から10年かかると思っていたほうがいい。

そしてそれなりの資金も考えていたほうがいい。定年後は、生活するカネと勉強するカネと一緒に考えて行くべきである。

それをである。

いつも暇だからと言って、海外旅行や、ジョギングばっかりにカネを使っていると完全に「惚ける」のである。

遊興の余生を送っていると、人間として魅力がなくなってしまう。

そりゃ、そういうのが好きな人にはいいジジイなんだろうけど、ちょいといかがなものかと思うのだ。

そんなことをやっているより、大学院に入って、アウトプットしやすい環境に身を置くことによって、バリバリできるジジイになることができる。

最後にくるのが、健康である。

あまりにも勉強しすぎて、健康を損ねないことである。もっとも、こりゃぁ~他人のことは言えないな。

私はそれでもって挫折したからで。

 

最後のオチは秀逸ですな。

 

わはははっははっははっははっはははは。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間ドックは老人の必須条件かもなぁ・・・・トホホ

2015年12月24日 18時56分07秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

病気からもさっと身をかわすことができたら、最高!

 

 

人間ドックの一日目が終わった。

そして、病院指定のホテルにいる。Wi-Fiがきいていて快適である。だからこんなつたない記事を書いていられる。ありがたいものである。

結果は数値的にはまったく問題なし。これもまことにありがたい。こういう数値だけを見ていると、なんで大学院を退学しなくてはならなかったかと疑問に思う方もおられるかもしれない。しかし、ダメなものはダメだったのである。

学業劣等が一番であったし。

論文めいたものは書けても、質的に問題があったんだろう。まったく相手にしていただけなかったからである。しょうがねぇと言えばしょうがねぇのである。

世の中には、こういうジジイがいてもいいのである。

まさか、世間様のために論文めいたものを書いていたのではないからだ。

オレなりの人生集大成のつもりでやっていたんだが、評価は他者がするものである。

評価というと、人間ドックの数値もドクターがしてくださる。あたりまえである。私ごときが、数値がいいとか悪いとか言っている場合ではない。

所詮、なんでも素人ではないか。

思い上がりは、自分の身を滅ぼす。

自信を持つことは大切だろうけれども、思い上がりだけはよくない。謙虚に生きることである。今更ながら身にしみているのである。このことは。

そういえば、病院で知人に呼び止められた。

仕事人現役の時の知人である。そして、まだ現役の方である。エリートである。

ラウンジで雑談をしていた。懐かしかった。もう私のようなはぐれジジイを忘れたんだろうと思っていたら、そうではなかった。向こうから呼びかけてきたからだ。

四方山の話をして別れた。知人も、別の検査に来ていたのだ。かなりカネのかかる検査である。どこも具合は悪くないのだろうけれども、予防であるとのたもうていた。現役だから、惜しげ無くカネを投入して検査できるんだろう。うらやましいかぎりである。

私なんか、人間ドックがやっとこさである。

市営の巨大病院だから、補助金がかなり出る。50%くらい出る。市民だからである。

それに、あちこち壊れているばかりのジジイである。日頃からずいぶんこの巨大病院には投資している。

それでも、こんな巨大病院を経営してくださっている居住地の市の行政マンに感謝している。たいしたもんである。

ほんとうにたいしたもんである。

あるとき、天下のNHKを見ていたら、地方都市で消滅する市町村一覧というのが画面に地図で出た。そしたら、我が九十九里平野で唯一生き残るのが、我が居住地だと色分けされていたのだ。2040年にはという条件つきであったが。

我が市の慧眼の素晴らしさに感謝せざるを得ない。

将来プラン無くして、政治を語ることはできない。プランありきの政治である。そういう観点から現代政治を見ていると実におもしろい。

私にとって一番おもしろいのは、中世である。平安から鎌倉時代、そして室町時代のおもしろさはたまったものではない。

政治の変転のオンパレードである。

特に、この時代を勉強されるのなら「太平記」であろう。この古典こそバイブルである。こんなにおもしろい古典はない。

最近は古典もあまり人気がないようであるが、日本人なら必須の読み物であろう。

ここから、「呪い」とか「鬼」とかの発想を得ることができたからである。

世の中には鬼もたくさんいるがねぇ。生きてる鬼が。欲得コミであらゆることにクチを出してくるのが。

こういうのとは関わらない方がいい。

さっと身をかわすことである。

危険は、あっちから来る。だから「身をかわす」のである。

なにも鬼と平等に争っている必要はない。

そういうことだ。

 

病気からもさっと身をかわすことができたら、最高である。

人間ドックでそんなことを考えてしまったよん。

Bye-bye

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これから人間ドックに行ってきます、タノシミ、タノシミ。

2015年12月24日 07時00分13秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

死ぬまでは生きていたいから・・・人間ドックに参上してきますよん

 

 

これから人間ドックに出かける。朝からなにも喰っていない。胃カメラもあるからで。

ま、これもまたおつきあいである。東洋一の巨大病院であるから、なんでも診てくださる。

去年入院してから、なんでも診ていただこうという気持ちになった。なんと言ってもICUに一晩置いておかれた経験が、大きい。あの体験が、おおげさに言えば人生観を変えたねぇ~と思う。周囲は死にかけた方々ばかりであったし。

人間いつまでも生きていられるわけがないというのを、しみじみ味わってきたから。

マジに。

やっぱり100%死んじゃうのですな、人間は。だったら、人間ドックなんか行かなければいいじゃん!と叱られそうだが、おっとどっこいそうはいかない。

生きているうちは、生きていきたいし、生きていかなければならないからである。

ささやかであっても、社会貢献はさせていただいているし、次世代を背負う若者たちとの接点があるからである。大学しかり、塾しかり、専門学校しかり。所詮、バイトでしかないけれども、それなりに生きがいは感じているから。

それにもう現役ではないのであるから、気負って生活しているわけでもない。

リーダーシップを発揮して、老人大学とか老人クラブで、あるいは中国語講座や古文書講座で、またまた郷土史の講座で活躍したいなんてこたぁ、これっぽっちも思っていない。

私の思っていることは、その先である。

つまり、「死」のことである。そうである。誰でも死んじゃうのであるから。

どういう死を迎えるのかということが最大の関心事である。

だから、もういい、そろそろあっちの世界に行けバァ~となるまでは、迷いに迷って生きていきたいのである。どうせ死ぬのだから、今生きているこの瞬間を大切にしたいっていうわけである。

わかるかなぁ~、こういう心境。

病気になってみないとわかんねぇだろうなぁと思うケド。

人間ドックも、細かい数値とか、胃カメラ・大腸カメラとかの痛さも一昨年までは気にしていたんだけど、あんまり気にならなくなってしまった。

どうせやらなくちゃならんのだから、どうとなれである。まな板の鯉である。

あれこれ心配しても、ドクターが診てくださるだけである。よけいな心配である。

ドクターより詳しくなって、あれこれつまらない知識を披瀝している輩(患者)も多いが、そんな無駄なことはやらない。バカでもあるめぇし。

生きていたいから、人間ドックに行ってくるのである。それだけである。

じゃぁねぇ~。

 

行ってきます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月23日(水)のつぶやき

2015年12月24日 06時05分48秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

ジーサンやバーサンになったら、留意しなければならないのが、いかに前歴を捨てることができるかである。むしろ、新たな挑戦に生きることである。

老人になったからと言って、全部... goo.gl/q0ldNt


九月十一日のあの夜、砂の城のように崩れ落ちていく高層タワービルの映像を見ているとき、そこに同時に、透明で巨大な鏡が立ち上がるのを、確かに見たのだった。その鏡は無慈悲なほどの正確さで、私たちの生きている世界の姿を映し出していた。~『緑の資本論』

Waishan Richunanさんがリツイート | 4 RT

【山口・きつねの嫁入り】<11月3日>昭和25年、秋の稲穂祭の催しとしてはじまった花岡福徳稲荷社の祭り。白狐の面をつけた新郎新婦が人力車に乗り、キツネ面をつけた紋付の親族が行列して町を歩く。新郎新婦をだれが演じるのかは秘密にされる。 pic.twitter.com/EYDY2c6rQ8

Waishan Richunanさんがリツイート | 58 RT

瑞龍寺秋葉明神像:富山県にある当寺は、加賀二代藩主・前田利長の菩提を弔うため、三代藩主・利常が建立した(当時は宝円寺と名乗った)。現在、富山県で唯一の国宝(山門、仏殿、法堂)寺院。秋葉権現とも。 pic.twitter.com/XoHFgIh2cX

Waishan Richunanさんがリツイート | 7 RT

「原発に対置する新しい原理を取り出す」ということは哲学的・思想的な作業です。それはデモをしたりフェスをしたりするだけでは、明確に取り出すことのできないものです。~『哲学の自然』

Waishan Richunanさんがリツイート | 4 RT

Retweeted 中沢新一語録 (@nakazawa_quotes):

「原発に対置する新しい原理を取り出す」ということは哲学的・思想的な作業です。それはデモをしたりフェスをしたりするだけでは、明確に取り出すことのできないものです。~『哲学の自然』


君が代を謳歌して鷺が乱舞することを作った「鷺」は、元服以前か六十以後しか勤められぬことに定まり、なお宗家一子相伝で弟子には許されない。 #金剛流

Waishan Richunanさんがリツイート | 1 RT

Retweeted 金剛流 (@kongou_noh):

君が代を謳歌して鷺が乱舞することを作った「鷺」は、元服以前か六十以後しか勤められぬことに定まり、なお宗家一子相伝で弟子には許されない。 #金剛流


コンピューターはいちど人間の脳に浮かんだ知識を、いつまでも「有」の世界の中にとどめておくために、きわめて短期間のうちに急発達をとげた。私たちは、ここにも「死への恐れ」の新しい形態を発見できるのである。~「Not I, not I...」

Waishan Richunanさんがリツイート | 2 RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/