ボキのような庶民は捨てるものがないけれども、エリート・インテリの方々はたくさんあるんだろうから。
「捨ててこそ」というのは、昨日拙ブログで取り上げた一遍上人の得意技である。すべてを捨ててこそ、浮かぶ瀬もある。溺れているからこそ、すべてを捨てなくちゃアカンとアホのボキは普段から思っているのだ。重荷は捨てないと永久に水面に浮かびあがれないではないか。溺れて死んじまう。
ま、アホだから一遍さんの言ったことを曲解しているんだろうけれども。
しかしである。そうでないと、死ぬに死にきれない。死ぬときは誰だって裸である。なんにも身につけていない。身につけていないどころか、焼かれてしまう。
いくら化粧していたって、いくら値段の高いモンを着ていたって、無意味である。焼かれてしまったら無意味になっちまうから。
ところがである。
「捨ててこそ」というのは、実に難しいことである。捨てられないからである。一番捨てられないのは命である。死にたくはない。ボキは、まだまだ悟っていないからである。
死んでもいいのか?と言われたら御免被る。
しかし、こんなボキでも捨てられるものがある。最初から存在しないものである。存在しないから捨てられる。
それはなにか。
たくさんある。
まず、「イケメンとしてのプライド」である。わはははっはははである。最初からそんなもん、存在していない。むろんボキは、正真正銘の非イケメンであるからだ。カネと力はないけれども、美男系のジジイではまったくないからである。
「プライド」もない。まったくない。プライドの根拠になるものがないからである。なにをもってプライドの根拠とするのかと思う。学歴か?血統か?貯金の額か?・・・何があるんだろうかと考えると、ボキにはなんにもないではないか。
学歴もない。血統も怪しい。貯金にいたっては年金暮らしであるから、預金に回るだけの余裕もない。ナイナイ尽くしである。
生涯学習にいたっては、さらになんにもない。そもそも「ごっこ」である。本格的に、真剣にやってきたわけでもない。趣味の延長である。趣味。
こんなアホで基地外ジジイが、得意満面に世の中を上から目線で、指導してやろうとかくっちゃべっていたらますますアホ・基地外になっちまう。
そして、思ったことは昨日の都知事選である。
あの中に、ボキと真逆の候補者がおられた。自称・他称エリートで、カネもあれば、高級外車も乗り回す。若い女子大生やフランスの女優と・・・と報道されてしまった。事の真偽は知らない。知らないけれども、ご自分からの説明もなかった。訴えただけである。
ボキのようなまったくの庶民感覚というものをご存じなかったのだ。
世の中にエリート、インテリの数は多い。それもいろんなレベルがあって、どうせ他人事だからボキには実に楽しい。バカがまたくだらないことをくっちゃべっていやがると思うだけである。正真正銘庶民を生きているボキのようなもんを、あまりなめないで欲しいと思うのだ。
だって、こっちは捨てるモンすらないからである。
「捨ててこそ」という一遍サンの言葉は、そういうエリート・インテリの方々にむけられたものであると思うのだが、いかがか。
ボキのような庶民は捨てるものがないけれども、エリート・インテリの方々はたくさんあるんだろうから。
わはははっははっははっははっはははは。
Bye-bye!