定年後、ドンドン「自己否定」の連続である。体力もゼニもない。カミの毛は、もともとナカッタ。社会的地位も名誉もナイ。なんにもない。否定、否定、否定の連続である。
リオオリンピックを見ていると、寝不足になるからできるだけ見ないようにしていた。
ところが、今朝の女子柔道70kg級だけは見た。早起きして。なんだか知らないが、起きてしまったのである。NHKでちょうど5時前である。
おめでとうと素直に喜びたい。
柔道もド素人である。なんでもボキはド素人。仕事人時代に柔道部の顧問をしていたのだが、生徒と一緒にやっていただけである。あくまでも一緒に。
それだけ。
それだけだが、嬉しい。それだけ。
そして、早朝walkingに行ってきたら、男子柔道も金メダルである。これまた嬉しい。
それにしても、我が日本。独特の精神性を持っている。柔道の銅メダリストが、銅を取って泣いているのである。悔しくて。これはこれは。
他のメダリストに失礼ではないかという批判もインターネット上では散見された。ボキも少しはそう思う。
柔道はもう横文字のJUDOになっちまったのである。東京オリンピックで正式種目になってから変形したのである。残念ながら。スポーツJUDOになってしまったのだ。まるでレスリングのような(これもボキは大学の学部時代に練習した)JUDOになってしまったのである。だから未だに段位制があるってぇことが不思議でならないのであるが。
もうボキは昇段することもない。講道館に上納するカネもない。ナイナイづくしである。指導者登録もしていない。一年半前からである。そうなのである。JUDOの指導をするのに料金がかかるのである。自腹である。ま、そんなのはどうでもいいことだが。
それにエコノミークラス症候群になってからは、まったく腕力に自信がなくなってしまった。腕もほっそりとしている。痩せたからである。
かつての我が柔道マンとしての体力がなくなってしまったのである。
情けない。
情けないケド、死ぬよりはいい。
定年後、ドンドン「自己否定」の連続である。体力もゼニもない。カミの毛は、もともとナカッタ。
社会的地位も名誉もナイ。なんにもない。
否定、否定、否定の連続である。
ところがである。
そういう自己否定の連続から見えてきたものがある。それは、宗教的境涯とは自己否定の結果から招来されてくるものなのではないのかという仮説である。
そういえば、大学学部生時代にドストエフスキーに学んだことはまさに自己否定の連続であった。自己否定すれば人間はどうなるのかということであった。
最初に自己否定があって、退職後にまた自己否定がやってきた。
ニンゲンナンテそんなものかもしれない。
ご縁なんてもんが永遠のものではないのと一緒である。
縁切り寺というのがあるくらいだから。
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けふは、親戚が集まってこの2月に亡くなった義母(91歳)の法要がある。
その後、少ない身内が集まって食事をするのだが、孫達はタノシミにしている。
それもまた孫の思い出になっていくのであろう。
夢まぼろしのようなもんだが。
さ、これくらいにしましょう。孫が起きてきたので。
(^_^)