なぜ日本の教育論議は「信念の吐露」にすり替わってしまうのか
巷間、教育は劣化しているばかりだと言われる。そういう論調で教育現場を責める発言が多い。マスコミも、政治家も、保護者も、生徒もそう言っているとのことである。
しかし本当にそうか?
もし百歩譲って教育が劣化しているとしたら、証拠はあるのだろうかと思うからである。数値はなんだろうかとも思う。材料はなにかとも思う。
よく言われることに、ゆとり教育が日本をダメにしたというのがある。
これも本当にそうなのか。おおいに疑問である。
リオ・オリンピックでメダルラッシュに沸いたが、今回の選手達はそれこそゆとり世代である。ゆとり世代だからこそ、メダルを取ることができたのである。自分で目標を設定して、まさに自分で努力した結果であるからだ。総合的な学習のスポーツ版である。ボキはそう思って毎夜テレビ観戦をしていた。
むろん選手達の周囲の人間達が、情報戦略を立てて努力した結果でもある。柔道も情報担当が80人とかいたと聞いているし。
これを教育が劣化したからメダルがとれたのだという論調にはまだお目にかかっていない。そんなことを言ったり、書いたりしたら袋だたきにあうだろう。
スポーツの分野ではなくて、学力が低下したというのなら話はわかる。数値的にもこっちの方はあきらかになる。証拠があるからである。OECDによる調査でもって経年比較をしたら簡単にわかる。順位を出してくれているからである。国別対抗の。
学力が低下しているというのなら、低下する以前に戻せばいいだけである。時間数もそうであるし、教育内容もである。
それをである。
オノレの受けてきた昔の教育がいいから、あるいは昔は熱心な先生がたくさんいたから、またまたあるいは社会全体が教育に熱心であったから・・・等々の体験的な話しか聞こえてこないのはなんでだろうか。
こと教育に関しては、オノレの信念を吐露しているだけになってしまうのが通弊である。体験しているからである。現状を否定して、オノレの受けた教育が一番であるとのたもう。
信念に付け加えて感情論も入ってくる。教師達への個人批判である。感情論というのは、そういうことである。
これが一番始末に負えない。
さらに「なぜ教育が必要なのか」ということを語ろうとしないのが、日本である。
教育はなぜ必要なのか。経済活動のためにのみあるのか、カネカネカネですべてを決めていいのか。
教育を受ける本人も含めて、社会も必要としているのが「教育」である。本人も社会も「知」を求めて努力すべきである。その結果が、社会の進展につながる。技術開発やシステムの設計などには知的活動が必要だからである。勉強することでもって、それは可能になる。勉強しなくちゃ「知」の獲得はできない。それを習得させるためには、強制的にでも勉強をさせることが必要である。
学校はそれにこたえようとしてしてきた。明治維新以来、めざましいほどの学校教育の進展ぶりである。
しかしである。
学校にこれまであまりにも多くを求めすぎたのではなかったか。
教師個人にもまるで聖人君子のような要求をしてこなかったか。
理想論ばかり焦って求め過ぎたのではないのか。
現実を見てきたのであろうか。
昔の教育だけが立派だったのではない。
今だって、立派な教師は数多い。
昔より、いろいろな意味で制約されている今の教師達の方が、立派である。戦後すぐの時には、軍隊帰りの教師達もいたはずである。しかも、現在でも全国すべての県にある国立大学教育学部は戦後やっと大学になったばかりであったし。教育自体、そんなに期待はされていなかったのである。
現代の教育は、アクティブラーニングとかの手法も出てきたようだし、実に多種多様になってきている。
*
逆説的に考えてみればいいと思っているのである。
教育がダメになったというのなら、どこがどうダメになったのかということをである。
昔は、教育に寛大だったから見えていなかった可能性がある。政治家と一緒である。昔の政治家の方がたくさんの問題を抱えていた。維新後すぐは、まさに私利私欲で動いていた政治家が多かったではないか。
現代は、教育と政治家に対して寛容ではない。厳しいだけである。都知事選でもそうだったではないか。
これを昔は良かったというだけでは、いかがなものかと思う。昔は良かった、今はダメというのでは、議論にもならなない。
結論を言おう。
教育は昔も今もそんなに変わっていないのである。それこそ教師の個人的資質が命運を握っている。だからこそ、個人的資質を向上させるために厳しくオノレを律していくしかないのである。それが王道である。
これくらいにしよう。
書いてみたかったことであるから。一度は。
Bye-bye!