お世話になった方々の数は多い。多いが、返礼はしていない。ありがとうの感謝の言葉もなかった。畏れおおいことである。まことに失礼なことである。
午前中は、菩提寺にいた。義母の供養のためである。これもまたお世話になった方々への御礼である。
それにつけても、お世話になった方々の数は多い。多いが、返礼はしていない。ありがとうの感謝の言葉もなかった。
畏れおおいことである。まことに失礼なことである。鬼畜と等しい。こんなんじゃ人間とは言えないですなぁ。
そんなことを義母の菩提寺で考えていた。僧侶が11人もいた。住職は阿闍梨で僧正である。ボキなんかよりもずっと若いが、であるからこそありがたいものである。エネルギッシュであるからである。元気をいただく。それが一番である。
ノイローゼ寸前のような住職では、読経の声を聞く気にもならないからである。それだけである。ボキはただの庶民であるから、寺院で生きるための元気をいただければ幸甚である。
ボキも、この寺院に眠ることになるんだろうけど、今のところ墓地がない。だから困っている。もっとも、ボキの死んだ後のことなんか本人であるボキにはどうにもできないことであるが。
あとは、長男がなんとかやってくれるだろうという淡い期待しかできない。
そんなものであろう。死後の世界は。
どんなに用意周到、準備万端やっていたって死ぬときは予想できない。死んでからもどうなるかは知ることができない。あたりめぇである。
死後の世界に拘泥していたら、笑われる。秀吉みたいなもんじゃ。
もっとも、秀吉さんくらいに大金持ちになると悩みも、心配のたねも違ってくるんだろうけど。持っているものは、それなりに悩みが深いんだろうから。
だからボキはシアワセである。
カネも、名誉も、地位もない。なんにもない。カミの毛もない。
こういう人間は、おとなしく死んでいくしかないのであろう。
ボキは、その点大丈夫である。
そもそもが、おとなしいからである。
わははっははっはははっははははは。
*
けふは、夜、孫と一緒に花火でもやることにした。
さっき昼食をいただいて、その時に約束をしたからである。
孫と親戚の女の子と一緒である。
こういう経験がいい思い出となっていくのである。
ボキは忘れられるのみ。
そういえば、そんなジジイがいたっけなぁという程度。
そもそもがそんな程度でしかないからなぁ。
それもまたよし。
それでもよし。
よしよしよしである。
人生は善きことのみの連続でありたいものである。その結果が、死ぬときに悔いの無い一生であるのかもしれないではないか。
そうでもなかったりして。
それだとちょっと耐えられないですな。
(^_^)
Bye-bye!